みかど とうのべんとうのちゅうじよう れまさりて日強く照りければ、御門を始めて、大臣公卿、百姓人民、この一事頭弁、頭中将の二人。 し′一う 三増命 ( 八四三 ~ 九毛 ) の諡号。園城 くだ くらうどのとう なげ より外の歎きなかりけり。蔵人頭を召し寄せて、静観僧正に仰せ下さるるやう、寺の長吏の後、延喜六年 ( 九 00 第 十代天台座主、延長元年 ( 九一一三 ) 僧 しるし 正となる。 「ことさら思し召さるるやうあり。かくのごと方々に御祈どもさせる験なし。 一三僧正・僧都に次ぐ僧位。 一四紫宸殿のこと。なでん。 座を立ちて別に壁のもとに立ちて祈れ。思し召すやうあれば、とりわけ仰せつ 三仏を供養するための香木をた そうづ りつし くるなり」と仰せ下されければ、静観僧正その時は律師にて、上に僧都、僧正、く器具。 一六炎熱の日ざしで、しばらくも くだ かぎり なんでんみはし じゃうらふ 上﨟どもおはしけれども、面目限なくて、南殿の御階より下りて屏のもとに北建物の外には出ていられないほど の暑さであったのに。 きせい かうろ 宅公卿の異称。大臣、大・中納 向に立ちて、香炉取りくびりて、額に香炉を当てて祈請し給ふ事、見る人さへ 言、参議および三位以上の人。 天清涼殿の殿上の間に昇ること 苦しく思ひけり。 を許された人。四位・五位および 六位の蔵人。 執 . 日のしばしもえさし出ぬに、涙を流し、黒煙を立てて祈請し給ひければ、 きようしょでん 一九紫宸殿の西方にある校書殿の てんじゃうびと あが 香炉の煙空へ上りて扇ばかりの黒雲になる。上達部は南殿に並び居、殿上人は東廂の北側。 ニ 0 前駆の者。先導者。 のぞ ごぜんびふくもん ゅばどの 弓場殿に立ちて見るに、上達部の御前は美福門より覗く。かくのごとく見る程 = 一大内裏南面の門の一。朱雀門 の東にある。ただしこれでは遠す しゃぢく ふた 第に、その雲むらなく大空に引き塞ぎて、竜神震動し、電光大千界に満ち、車軸ぎて文意に合わず、『打聞集』に 「春花門」とあるのが正しいか ほうぜ、つ 巻 一三天竜八部衆の一。仏法の守護 のごとくなる雨降りて、天下たちまちにうるほひ、五穀豊饒にして万木果を結 神で雷雨をつかさどる。 ずいき ぶ。見聞の人帰服せずといふなし。帝、大臣、公卿等随喜して、僧都になし給 = 三大千三界。広い地上の全域。 一九 ー、、 - つ六 じ けんもん 一セ かんだちめ いのり ゐ
( 原文五八ハー ) びふくもん だいご の御前駆の者たちは美福門からのぞいている。こうして見 今は昔、醍醐帝の御代に日照りが起った。六十人の貴僧 を招いて、大般若経を読ましめ給うたところ、僧たちは護ているうちに、その黒雲は一面に広がって大空をふさぎ、 竜神が震動し、稲妻の光が大空を駆けめぐり、車軸のよう 摩をたき黒煙をたてて、効験を現そうと祈ったけれども、 な大雨が降って、天下はたちまちにしてうるおい、穀物は 空はますますからりと晴れまさり、日がかんかん照りつけ るので、醍醐帝をはじめ、大臣公卿、百姓人民は、これに豊かに実り、万木は実を結んだ。これを見聞する人たちは くろうどのとう みなみな感服した。帝、大臣、公卿たちも涙にくれてあり はほとほと弱りはててしまった。帝は蔵人頭を呼び寄せて、 おば 静観僧正に仰せ下されるには、「格別に思し召される子細がたがり、静観を僧都になされたのであった。不思議なこ かたがた となので、末の世の物語にこうして記したのである。 がある。御覧のように方々のお祈りなどをさせるが、たい した効験がない。あなたは座を移して、別に塀ぎわに立っ おおたけ 三同僧正が大嶽の岩を祈り失う事 て祈りをせよ。思し召す子細があるので特別に仰せつける のである」と御下命があった。静観僧正はその時はまだ律 さいとう そうず 今は昔、静観僧正は西塔の千手院という所に住んでおら 師で、上に僧都、僧正などの高貴な僧たちがおいでになっ ししいでん たが、面目このうえなく、紫宸殿の階段を下りて、塀のもれた。その所は南方に大比叡の峰が視野に入る位置にあっ とに北向きに立って、香炉をしつかり握りしめて、額に香た。その大比叡の西北の斜面に大きな岩がある。その岩の 炉をあてて祈願なさるさまは、見ている人まで息苦しくし格好は竜が口を開けたのに似ていた。その岩の筋向いに住 んでいた僧たちは、みな短命で死ぬ者が多かった。しばら 第 くの間は、どうして死ぬのだろうかとわけが分らなかった 暑い日ざしでしばらくも外に出られないほどであったが、 巻 静観が涙を流し、黒煙をたてて祈願されたので、香炉の煙が、そのうちに、きっとこの岩があるためだと言いたてる は空へ上がり、やがて扇ほどの小さな黒雲になる。上達部ようになり、この岩を毒竜の岩と名づけたのであった。こ てんじ上うびとゆばどの は紫宸殿に並び、殿上人は弓場殿に立ち並んで見、上達部のために西塔のあたりは、ただ日増しに荒れに荒れていく ま かんだちめ
しゅぎゃう しゆりようごんいん 昼夜に仏の物を取り使ふ事をのみしけり。横川の執行にてありけり。政所へ行る首楞厳院、講堂、元三大師堂な どがあった天台浄土教の中心地。 あり くとて、塔のもとを常に過ぎ歩きければ、塔のもとに古き地蔵の物の中に捨て三伝未詳。『元亨釈書』巻二十九 に「役夫賀能」とあり、類似の説話 置きたるをきと見奉りて、時々きぬかぶりしたるをうち脱ぎ、頭を傾けて、すが載る。 三戒律を破って心に恥じない者。 こしすこし敬ひ拝みつつ行く時もありけり。かかる程に、かの賀能はかなく失一四僧綱の下で寺務をとりしきる 一九 僧職。役僧中の上首。 そうづ せぬ。師の僧都これを聞きて、「かの僧、破戒無慚の者にて、後世定めて地獄延暦寺全体の所領その他の経 営事務を取り扱う所。 、 : 」ろ、つ かぎり うたがひ 一六『元亨釈書』では、般若谷の一 に落ちん事疑なし」と心憂がり、あはれみ給ふ事限なし。 破宇の中にあった地蔵像とする。 かかる程に、「塔のもとの地蔵こそこの程見え給はね。いかなる事にかと宅ちらっと。 一 ^ 僧や婦人が外出時に用いた被 院内の人々言ひ合ひたり。「人の修理し奉らんとて、取り奉りたるにや」などり衣。きぬかずき。 一九僧正に次ぐ僧位。 いひける程に、この僧都の夢に見給ふやう、「この地蔵の見え給はぬはいかな あび ニ 0 阿鼻地獄ともいう。八大地獄 かのう ぢざうばさっ かたはら る事そ」と尋ね給ふに、傍に僧ありて日く、「この地蔵菩薩、早う賀能ち院がの一。間断なく苦を受ける地獄の 。父殺し、母殺し、聖著殺し、 むげんごう むげん 五無間地獄に落ちしその日、やがて助けんとて、あひ具して入り給ひしなり」と教団破壊、仏身損傷の五無間業を 犯した者、寺塔破壊者、衆僧誹謗 第 いふ。夢、い地にいとあさましくて、「いかにしてさる罪人には具して入り給ひ者などがここに堕ちる。 ニ一すぐさま。 たるそ」と問ひ給へば、「塔のもとを常に過ぐるに、地蔵を見やり申してニニまことに意外で。 ニ三ああいう破戒無慚の者に同行 のちみづか ゅゑ 時々拝み奉りし故なり」と答ふ。夢覚めて後、自ら塔のもとへおはして見給ふして。 ニ 0 かたぶ まんどころ
つど ふままに価を給びければ、市をなしてぞ集ひける。さてこの僧正のもとに世の一もと法会で密教的行法に勤仕 した役僧。平安中期には修正会な どの折に堂内で ( 昼間には庭上で ) 宝は集ひあつまりたりけり。 歌舞・曲芸などの芸能を行うよう 語 じゅし わらは になっており、鼓・鈴を用い 物それに呪師小院といふ童を愛せられけり。鳥羽の田植にみつきしたりける。 冠・兜を被り、華麗な装束を着用 治さきざきいくひにのりつつ、みつきをしけるをのこの田植に、僧正言ひ合せて、した。 ニ鳥羽の造道付近の田での田植 ごろ 五 おほかた この比するやうに、肩に立ち立ちして、こははより出でたりければ、大方見る祭の際に。 三呪師の曲芸の種目か。後出の ちょうあい 者も驚き驚きし合ひたりけり。この童余りに寵愛して、「よしなし。法師にな文によれば、杙や人の肩などの高 所に乗って演じる軽業芸。 さぶらふ 四斎杙 ( 神聖な杭 ) 、また木の切 りて夜昼離れず付きてあれ」とありけるを、童、「いかが候べからん。今しば たかあし 株とも。「高足」のような散楽系の しかくて候はばや」といひけるを、僧正なほいとほしさに、「ただなれ」とあ芸を演じたのであろう。 五全書本は「小幅 ( 幅幕 ) 」とする が、未詳。 りければ、童しぶしぶに法師になりにけり。 六他に一緒にいられる手はない。 さて過ぐる程に、春雨うちそそぎて、つれづれなりけるに、僧正人を呼びて、セ出家前の呪師の芸衣装。 ^ 衣服などの格納所。 をさめどの さス′、く 「あの僧の装束はあるか」と問はれければ、この僧、「納殿にいまだ候」と申し九見苦しうございましよう。 一 0 片隅。 ければ、「取りて来」といはれけり。持て来たりけるを、「これを着よ」といは = 装束をつけて。 三鳥兜。錦・金襴などで鳳凰の れければ、呪師小院、「見苦しう候ひなん」といなみけるを、「ただ着よ」と責頭にかたどり、頂は前方にとがり、 し・一ろ 錏を後方に出し、鳥が翼をおさめ かぶと めのたまひければ、かたかたへ行きてさうぞきて、兜して出で来たりけり。露た形。 あたひた っゅ
( 現代語訳三一一 みぎは ほふもん ぐばう のおはしますぞーと問ひければ、具房僧都実因と名のりければ、汀に居て法文一四相模守橘敏貞の子 ( 九 ~ 一 00 0 ) 。西塔の弘延の弟子。初め具足 ひがごと 。、かに」と問ひ坊、のち小松寺に住した。 を談じけるに、少々僻事ども答へければ、「これは僻事なり 一五仏教の教義をめぐる問答。 一ぶら ければ、「よく申すとこそ思ひ候へども、生を隔てぬればカ及ばぬ事なり。我一六誤り。まちがい。 宅幽・明界を別にしているので。 なればこそこれ程も申せ」といひけるとか。 一 ^ 良源 ( 九一 = ~ 九会 ) 。木津氏。理 仙大徳の弟子。康保三年 ( 九六六 ) 第 十八代天台座主、天元四年 ( 九八一 ) じゑそうじゃうかいだんっ 大僧正。叡山中興の祖とされる。 十七慈恵僧正戒壇築きたる事 諡号は慈覚大師。 一九僧戒を授けるための壇。それ を含む建物が戒壇院。延暦寺のそ にんぶニ 0 あふみのくにあざゐごほり これも今は昔、慈恵僧正は近江国浅井郡の人なり。叡山の戒壇を人夫かなはれは天長五年 ( 八ミ一説に同二 年 ) の建立で、初代座主義真の時 しゅ ぐんじ しだん ころ ざりければ、え築かざりける比、浅井の郡司は親しき上に、師檀にて仏事を修代のこと。本話はその戒壇院の再 興話。 す そうぜんれう しゃう する間、この僧正を請じ奉りて、僧膳の料に前にて大豆を炒りて酢をかけけるニ 0 十分に集められなかったので。 だんおち 三師匠と檀越 ( 檀家・施主 ) 。 四を、「何しに酢をばかくるそ、と問はれければ、郡司日く、「暖かなる時、酢を = = 酢がしみ込んで表皮がのびて しわが生じる効果をいうか しか 第 かけつれば、すむつかりとてにがみてよく挟まるるなり。然らざれば、すべりニ三しわが寄って。 一西大豆にしわが寄っていようと 巻 て挟まれぬなり」といふ。僧正の日く、「いかなりとも、なじかは挟まぬゃう 一宝どうして挟めぬことがありま ゃあるべき。投げやるとも挟み食ひてん」とありければ、「いかでさる事あるしようそ。 ニ四 一九
九御室戸僧正の事、一乗寺僧正の事 十ある僧人の許にて氷魚盗み食ひたる 巻第六 一広貴閻魔王宮へ召さるる事 一一世尊寺に死人掘り出す事 三留志長者の事 四清水寺二千度参り双六に打ち入るる 事 五観音蛇に化す事 巻第七 一五色の鹿の事 二播磨守為家の侍佐多の事 三三条中納言水飯の事 四検非違使忠明の事 五長谷寺参籠の男利生にあづかる事 一会 一一 0 六 : ・ 原文現代語訳 十一仲胤僧都地主権現説法の事 ・ : 三 = 0 十二大二条殿に小式部内侍歌詠みかけ奉 る事 ・ : 三一一一一十三山の横川の賀能地蔵の事 六賀茂より御幣紙米等給ふ事 七信濃国筑摩の湯に観音沐浴の事 八帽子の叟孔子と問答の事 : ・三一一八九僧伽多羅刹国に行く事 ・ : 一一三六 三一一七 ・ : 三三九 ・ : 三四一 ・ : 三四三 ・ : 三四四 ・ : 三四四 六小野宮大饗の事、西宮殿富小路大臣 大饗の事 七式成満則員等三人滝ロ弓芸の事 原文現代語訳 ・一九七 : ・ ・ : 三 = 一四 ・ : 三四九 ・ : 三五 0
311 巻第四 じえそうじよう 十七慈恵僧正が戒壇を築いた事 おうみのくに これも今は昔、慈恵僧正は近江国浅井郡の人である。比 叡山の戒壇を人夫が集められなくて築きあげられなかった ころ、浅井の郡司は僧正と親しいうえに、師匠と檀家の門 柄であったが、法要をいとなむことになって、この僧正を お招きして、食事を差しあげるために、僧正の前で大豆を 炒って酢をかけたところ、僧正がそれを見て、「何のため に酢をばかけるのです」と尋ねられたので、郡司が、「豆 の暖かいうちに酢をかけてしまうと、すむつかりといって、 しわがよってよく箸で挟めるのです。そうでないと滑って、 うまく挟めないのです」と言った。すると僧正が、「たと い酢をかけなくても、なんで挟めないことがありましよう。 投げてよこした豆なりとも、挟んで食ってみせましよう」 と言ったので、「そんなことはできますまい」と言い争い になった。僧正は、「私が勝ちましたなら、ほかのことは 無用です、必ず戒壇を築いてください ! と言うと、「おや すいことです」と言って、炒り大豆を投げてやると、一 ばかりさがっておいでになって、一度も落さずに挟まれた。 ( 原文一五五ハー ) これを見て、驚嘆しない者はない。柚子の実の今しばり出 したばかりのものを混ぜて投げてやったのを、一旦はすべ らかして挟みそこなったものの、下に落しもせず、またす ぐに挟み留められた。この郡司は、一族が広く栄えていた 者だったので、人数をくり出して、日ならずして戒壇を築 きあげてしまったとい , つ。
321 巻第五 って来い」と言われた。持って来たのを、「これを着よ」 などもにぎやかに出入りしている。また物売りなどが入っ くら と言われたので、呪師小院が、「見苦しゅうございましょ て来て、鞍や太刀ゃいろいろの物を売ると、彼らの言うと う」と拒んだが、「とにかく着てみよ」と、しつこく申さ おりに代金を取らせたので、市をなして群集した。こうし とりかぶと れるので、片隅へ行って装束をつけて、楽人のかぶる鳥兜 てこの僧正のもとには、世間の宝という宝が集ってきたの をつけて出て来た。そのさまは少しも昔と変らない。僧正 であった。 わらわちょうあい じゅし はこれをちらりと見るや、泣き顔になられた。小院もまた さてこの僧正は呪師小院という童を寵愛されていた。こ いっきぐい の童は鳥羽の田植祭にみつきをした。以前に斎杙に乗って面ざしが変って立っていたが、僧正が、「まだ走りての曲 みつきをした男が今度の田植にいたが、僧正はこの男と話は覚えておいでか」と聞いたので、「覚えておりません。 をつけた。で、このごろでもするように、この童が男の肩たた、かたさらはの曲だけは、よくやりつけてきたことで し・よ - っ に立ちながら幅幕から現れ出たので、およそ見る者も、びすので、少し覚えております」と言って、簫の中を割って つくりしあった。この童をあまりに寵愛して、「ずっとこ通るほどの狭い所を走って飛ぶ。兜を持って、一拍子のう ちに渡り飛んだので、僧正は感嘆して声をあげて泣かれた。 のままではつまらない。法師になって、夜昼離れず私とい そして、「こっちへおいで」と、呼び寄せて童をなでなが っしょにいよ」と言ったが、童が、「どうしたものでしょ ら、「なんで出家なぞさせてしまったのだろう」と言って うか。今しばらくこのままでいたいものです」と答えると、 僧正はなおいとおしくて、「とにかくなりなさい」と言 , っ泣かれたので、小院も、「だからこそ、もうしばらくお待 ちくださいと申しあげましたのに」と言うと、僧正は装束 ので、童はしぶしぶ法師になった。 を脱がせて障子の内へ連れてお入りになった。そのあとは こうしていっしょになって月日がたつうちに、春雨がし どんなことがあったのか、それは知らない としとと降り続いて所在のない折に、僧正が人を呼んで、 「あの童の僧になる前の装束はあるか」と尋ねられたので、 なんど この僧は、「納戸にまだございます」と申しあげると、「取
すす は明り障子が立ててある。煤けきってしまっていて、いっ みむろどのそうじよう のころに貼ったものやら分らない。 九御室戸僧正の事、一乗寺僧正の事 すみぞめ しばらくたって、墨染の衣を着た僧が、足音もたてずに 語 おんじよう 物これも今は昔、一乗寺僧正、御室戸僧正といって、園城出て来て、「しばらくそれにお待ちください。ただ今勤行 たかいえ 拾寺の流派で尊い方がおいでになった。御室戸僧正は隆家の中でございます」と言うので、待っていると、しばらくし そち 宇帥の第四子である。一乗寺僧正は経輔大納言の第五子であ て内から、「こちらへお入りください」と言うので、煤け る。御室一尸を隆明という。一乗寺をば増誉という。この二 た障子を引き開けると、線香の煙が静かに流れ出て来る。 人はおのおの尊くて、生き仏である。 くたくたになった衣をまとい、袈裟などもところどころ破 御室戸は太っていて、峰々を踏破するような修行ができれている。ものも言わずにおられるので、客のほうも、ど ごんぎよう ない。それでひたすら本尊の御前を離れずに、夜昼勤行す うしたものかと思って向き合って座っていると、僧正は手 を組み合せ、少しうつむきかげんにしておいでになる。し る鈴の音の絶える時はなかった。たまたま人が来訪したり たた すると、門をいつも閉めてある。門を叩くと、ひょっこり ばらくすると、「ちょうど勤行の刻限とあいなりました。 人が出て来て、「誰です」と尋ねる。「これこれという人が それでは急いでお帰りください」と言われるので、言うべ お越しになりました」、あるいは、「上皇の御使いでござい きことも言わずに出てしまうと、また門をすぐに閉ざして ます」などと言うと、「お取り次ぎ申しましよう」と言っ しまう。これはひたすら籠居して修行する人である。 て奥へ入り、長時間待っている間、鈴の音がしきりに聞え 一乗寺僧正は、大嶺の霊地を二度お通りになった。蛇を る。さてしばらくたって、門のかんぬきをはずして、扉の見あらわす呪法を行われる。また竜の駒などを見あらわし いつぶう 片方を人ひとりが入れるだけ開ける。中を見ると庭には草たりして、一風変ったふうに修行をした人である。その宿 がばうばうと生い茂って、踏み歩いてできた道もない。草坊は一、二町ほども先から寄り集う人々でひしめきあって、 でんがくさるがく ひろびさし ずいじんえふ の露を踏み分けて堂にのばると、広廂が一間ある。妻戸に 田楽、猿楽の者たちなどが大勢おり、随身や衛府の男たち ( 原文一七二ハー ) いちじようじ
281 巻第 いにしてください、そのくらいにしてください」と言った殿に申したところ、すぐ乗れといっているそ。その車を引 いて来い』と言われ、『小門から出よう』と仰せられまし 。 : けいとう坊は、いささか様子が変って、「さあひっく たので、何か事情でもあるのだろうと思い、牛飼童が僧正 り返されい」と叫んだ。その時、この渡し舟に乗っていた をお乗せいたしましたところ、『お待ちくださいと陸奥殿 二十余人は、ざんぶと海に投げ込まれた。その時、けいと に申しあげよ。二時間ほどで戻れるだろう。すぐに帰って う坊は汗をぬぐって、「ああ、あきれたわからずやどもめ。 わが法力のほどをまだ知らぬか」と言って立ち去って行っ来ようぞ』と言われて、とっくにお車を召されて、お出か た。末法の世ではあるが、仏法はなおあらたかにましますけなさいました。あれからかれこれ二時間ぐらいはたちま したでございましよう」と言う。「おまえという男は、何 と人々は語り合ったという。 たるまぬけなやつだ、『お車をこれこれで僧正様がお借り とばそうじようくにとし したいということですが』と私に断ってからお貸しするも 五鳥羽僧正が国俊と戯れる事 のだ。不行届きだ」と言うと、「御坊は御主人様と縁遠い かくゆう ほうりんいん お方でもいらっしゃいません。それにすぐにお草履をおは これも今は昔、法輪院大僧正覚猷という人がおいでにな むつのぜんじ きになって、『しかと頼んであるのだそ』と仰せられまし った。その甥にあたる陸奥前司国俊が僧正の所に行って、 たので、どうしようもありませんでした」と言ったので、 「国俊が参上いたしました」と取次の者に言わせると、「た だ今お会いしましよう。そちらにしばらくお待ちくださ陸奥前司もしかたなくもとの部屋に帰り、さてどうしたも のかと思案をめぐらしていた。この僧正は、いつもきまっ い」ということだったので、待っていたが、四時間ほども わら たしきたりで、浴槽に藁を細かに切っていつばい入れて、 出ておいでにならない。そこで少し腹が立ってきて、もう むしろ ぞうしき 帰ろうと思って、供に連れて来た雑色を呼ぶと出て来たのその上に莚を敷いて、外を歩きまわって帰っては、まっす くっ に湯殿に行き、裸になって、「えさい、かさい、とりふ で、「沓を持って来い」と命じ、持って来たのをはいて、 「さあ帰ろう」と言うと、この雑色が、「僧正様が、『陸奥すま」と言って、浴槽にさっとあおむけに寝るという入り