225 巻第七 かたはらへん 三居つき、住みついた。 傍その辺なりける下種など出で来て使はれなどして、ただありつき、居つき 一三自分の家の分として。 一四富、財産が付き集って。 三音沙汰がなくなってしまった 二月ばかりの事なりければ、その得たりける田を半らは人に作らせ、いま半ので。 一六『今昔』には、この後に「其ノ かた 後ハ、長谷ノ観音ノ御助ケ也ト知 らは我が料に作らせたりけるが、人の方のもよけれども、それは世の常にて、 テ常ニ参ケリ」とあり、さらに観 ぶん ことほか 音霊験の讃辞が続く。 おのれが分とて作りたるは殊の外多く出で来たりければ、稲多く刈り置きて、 一セ藤原実頼 ( 九 00 ~ 九七 0) 。関白忠 とくにん それよりうち始め、風の吹きつくるやうに徳つきて、いみじき徳人にてそあり平の長男。左右大臣を経て関白、 太政大臣、摂政となる。諡号は清 ける。その家あるじも音せずなりにければ、その家も我が物にして、子孫など慎公。日記『水心記』の著者。 天平安時代、宮廷や貴族の邸で 行われた大饗宴。恒例のものには 出で来て殊の外に栄えたりけるとか。 一一宮 ( 中宮・東宮 ) の大饗と大臣の 大饗があった。 一九藤原師輔 ( 九 0 八 ~ 九六 0) 。実頼の をののみやだいきゃう にしのみやどのとみのこうぢ 弟。検非違使別当、右大臣、右大 六小野宮大饗の事、西宮殿富小路大臣大饗の事 将。早世によって摂関職を経なか った。九条殿・坊城右丞相と称し た。道長の祖父。 一うぞく 今は昔、小野宮殿の大饗に、九条殿の御贈物にし給ひたりける女の装束に添 = 0 砧で打。て駅を出した絹製 おおくび の女子の衣服。袿に似て大領 ( 首 やりみづ くれなゐ ほそなが ごぜん へられたりける紅の打ちたる細長を、心なかりける御前の取りはづして遣水にを囲むような前えり ) のないもの。 三「御前駆」の略。 すなは 落し入れたりけるを、即ち取り上げてうち振ひければ、水は走りて乾きにけり。一三庭先に引いた流水。 一三れう 一セ 一九 なか
349 巻第七 って京に帰り上ったら、その時に返してください。戻って にしのみやどのとみのこうじ おののみやだいきよう 六小野宮の大饗の事、西宮殿・富小路の大臣の 。もしまた私が、命絶 来ない限りは、続けてお住みなさい えて死ぬようなことになったら、そのままあなたの家にし 大饗の事 て住んでください。私には子供もないから、とやかく申す いなか 今は昔、小野宮殿の大饗の時に、弟君の九条殿が御贈物 人もよもやおりますまいーと言って預けて、そのまま田舎 うちぎめ になさった女の装束に添えられていた紅の打衣の細長を、 に出かけたので、その家に入って住み、もらった米や稲な やりみず どを取りおいて、初めはただ一人であったが、食べ物も十心ない侍者がとりはずして、遣水の流れに落してしまった 分あったので、その隣近所の下人たちがやって来て使われが、すぐに取り上げて振ったので、水は飛び散って乾いて しまった。その濡れたほうの袖は、少しも濡れたようにも たりして、その家に住みついてしまった。 あやめ きめた 二月ごろのことであったので、その手に入れた田を半分見えず、濡れないほうと同じように砧で打った文目なども 消えていなかった。昔の打ってつや出しをした物は、こん は人に貸して作らせ、もう半分は自分のために作らせたと ころ、人の方の田もよいできであったが、それはまあ普通なふうであった。 また、西宮殿の大饗の折に、「小野宮殿を主賓にお迎え で、自分の分として作った方の田は、格別に豊かな収穫で したい」ということであったが、「年老いて腰が痛くて、 あったので、稲をたくさん刈りおくことになった。それを 庭での拝礼もできそうにもないから、伺えますまいが、雨 手始めとして、風が物を吹き寄せるように財産がふえて、 が降ればその拝礼もないでしようから、まいりましよう。 たいそうな大金持になった。そのもとの家主からは、何の 音沙汰もなくなってしまったので、その家も自分の物にし降らなかったら、まいれますまい」と御返事があったので、 雨が降るように西宮殿は熱心にお祈りになった。そのしる て、子供や孫などもできて、ことのほかに栄えたという。 しであったのか、その日になって自然に空に雲がひろがっ て雨が降ってきたので、小野宮殿は脇の入口から殿内に上
っておいでになった。池の中島に非常に高い松の木が一本み髪のため額が満月のように白く見えたので、これを見て 肪立っていた。その松を見る人はみな、「ああ、これに藤が ゃんやとほめそやす声が、やかましいまでに聞えた。馬の しり かかっていたらなあ」と、ロを揃えて言ったので、この大ふるまい、顔だち、尻のさま、足つきなど、これという欠 語 物饗の日は正月のことであるが、藤の花を実にみごとに作っ 点もなく、いかにも贈物としてふさわしいものだったので、 拾て、松の梢から一面にすきまもなくおかけになった。えて家の造作の見苦しかったことも忘れられて、まことに立派 宇して季節はずれのものは興ざめなものだが、これは、空が な大饗となった。そこで世の末までも語り伝えるのである。 曇り雨がしとしと降るのに調和して、まことに立派に風情 のりなりみつるのりかず ゅげい ゆたかに見える。池の面に影が映って、風が吹くと水の上 七式成・満・則員ら三人の滝ロの弓芸の事 もいっしょになってゆらゆらなびいている、まことに藤波 というのはこれを言うのであろうかと見えたほどであった。 これも今は昔、鳥羽院御在位の御時、白河院の武者所の みやじののりなりみなもとのみつるのりかず 後の日、富小路の大臣の大饗の際、御家もそまつで、 中で、宮道式成、源満、則員は、ことのほかに的弓の名 所々の造りも見栄えのしないものであったから、人々も、 手であると、そのころ評判が高かったので、鳥羽院御在位 「見苦しい大饗よ」と思っていたが、日が暮れて、宴もだ の御時の滝ロの武士に三人とも召し出された。試射の際に んだん終り近くなり、客人への贈物の時になって、東の廊は、およそ一度もはずしたことがない。院はこの三人を相 の前に張りめぐらした幕の中に贈物の馬が引き立てられて手にして興じられていた。ある時、三尺五寸の的を賜って、 いたが、幕の中の方からいななく声が空を震わせて響きわ「この第二の輪の黒い部分を射落して持ってまいれ」と仰 たるのを、客人たちが、「威勢のよい馬の声かな」と聞い せられた。三人は午前十時に賜って、午後二時ごろに射落 ているうちに、幕の柱を蹴折って、ロ取りの男を引きずつ して参上した。すなわち練習用の矢は三人の中に三対であ て出て来たのを見ると、黒栗毛の馬で丈は四尺八寸以上ほ ったので、「矢取りの者が矢を取って帰るのを待っていた どもあり、ひらたく見えるほどに太く肥えており、かいこ ら、時間がたってしまうだろう」と、残りの者は自分で走 たけ
っゅ その濡れたりける方の袖の、露水に濡れたるとも見えで、同じゃうに打目など一絹布や衣服についた砧の打ち あとの文様。 もありける。昔は打ちたる物は、かやうになんありける。 ニ源高明 ( 九一四 ~ 九公 I) 。醍醐天皇 語 そんじゃ 物また西宮殿の大饗に、「小野宮殿を尊者におはせよ」とありければ、「年老い、の子。右大臣就任は康保三年 ( 突 六 ) 正月。左大臣就任は翌年十一一月。 まう 治腰痛くて、庭の拝えすまじければ、え詣づまじきを、雨降らば庭の拝もあるま = 大饗における第一の客。主賓。 主に年長、高位の者がなる。高明 じければ、参りなん。降らずば、えなん参るまじき」と、御返事のありけれが右大臣の時には、実頼は左大臣、 左大臣の時には太政大臣。ちなみ しるし に、高明は右大臣就任時には五十 ば、雨降るべき由、いみじく祈り給ひけり。その験にゃありけん、その日にな 三歳、その時実頼は六十七歳。 りて、わざとはなくて、空曇りわたりて雨そそぎければ、小野宮殿は脇より上四尊者が門を入り、座につく前 に中庭で行われる主客の間の迎接 こだか ひともと りておはしけり。中嶋に大に木高き松一本立てりけり。その松を見と見る人、の礼。これをすませてから両者は 並んで南の階段を上って着座する。 むつき 「藤のかかりたらましかば」とのみ、見つついひければ、この大饗の日は睦月五雨が降らなかったら、参上す るわけにはいきますまい こずゑひま の事なれども、藤の花いみじくをかしく作りて、松の梢より隙なうかけられた六 ( 都合よく ) 自然に、おのずか ら。 セ ( 庭の拝をすることなく ) 寝殿 るが、時ならぬものはすさまじきに、これは空の曇りて、雨のそば降るに、、 の脇の階段から。 おもて みじくめでたう、をかしう見ゅ。池の面に影の映りて、風の吹けば、水の上も ^ 池の中にある築島。 九陰暦一月。 一つになびきたる、まことに藤波といふ事は、これをいふにゃあらんとぞ見え一 0 ( 一般に ) 不似合いで興ざめな ものなのに。 ける。 一一顕忠は高明の左大臣就任以前 かた うつ うちめ
おとど に没しているので、この「後の日」 後の日、富小路の大臣 は、先の西宮殿の大饗に続くすぐ - し 後の日とは考えがたい。 の大饗に、御家のあやし 響三藤原顕忠 ( 八九八 ~ 九六五 ) 。左大臣 空時平の男。検非違使別当、刑部卿、 くて所々のしつらひもわ 大納言、左右大将を経て右大臣に 昇る。 りなく構へてありければ、 一三そまつでみすばらしく。 馬一四屋内の設営も不行届きな状態 人々も見苦しき大饗かな ら であったので。 内一五祝宴などが終ってから、主人 と思ひたりけるに、日暮 幕の出す客への贈物。もとは馬を引 き出して贈ったのでこの名がある。 れて事やうやう果て方に 一六東の対屋から泉殿へ通ずる廊。 ひきでもの なるに、引出物の時になりて、東の廊の前に曳きたる幕の内に引出物の馬を引宅馬の手綱を取って引く男。 一 ^ 毛色が黒みがかった栗色の馬。 たけ 一九四尺八寸以上の丈のある。 き立ててありけるが、幕の内ながらいななきたりける声、空を響かしけるを、 「寸」は、上代の長さの単位、のち くちとり はしら 人々、「いみじき馬の声かな」と聞きける程に、幕柱を蹴折りて口取を引きさ馬の丈を測るのに用いられる。馬 の身長は足から肩まで四尺を基準 一九やき くろくりげ 七げて出で来るを見れば、黒栗毛なる馬の、たけ八寸余りばかりなる、ひらに見とし、それ以上を「寸」で測。た。 ニ 0 額髪が前に垂れないように、 第 ゆるまで身太く肥えたる、かいこみ髪なれば額のもち月のやうにて白く見えけ編むか刈り込むかしたものをいう。 ニ一額が満月のように白く見えた 巻 れば、見てほめののしりける声、かしがましきまでなん聞えける。馬のふるまので。 一三 ( 大饗の引出物として ) ふさわ しかったので。 ひ、面だち、尻ざし、足つきなどの、ここはと見ゆる所なく、つきづきしかり おも がた 一六らう ひ ひたひ たいのや
一藤原利仁。十世紀初期の武人。 鎮守府将軍時長の子。本話にある としひとい、もがゆ ように越前敦賀の土豪の有仁の女 十八利仁芋粥の事 語 婿となり、のち従四位下、鎮守府 物 将軍となる。 遺 ニ摂政・関白の異称。 もとかく′」 さぶら 今は昔、利仁の将軍の若かりける時、その時の一の人の御許に恪勤して候ひ三「かくごん」とも。摂関、大臣 四 家などに仕える侍。 だいきゃう けるに、正月に大饗せられけるに、そのかみは大饗果てて、とりばみといふ者四平安時代、宮廷や貴族の家で 行われた大饗宴。恒例と臨時があ オここは恒例の大臣の大饗で、 を払ひて入れずして、大饗のおろし米とて給仕したる恪勤の者どもの食ひけるつこ。 毎年正月、大臣が次座の大臣以下 なり。その所に年比になりて給仕したる者の中には所得たる五位ありけり。その殿上人を招待した。 五以前。往昔。 いもがゆ したうち のおろし米の座にて、芋粥すすりて舌打をして、「あはれ、いかで芋粥に飽か六「取り食み」。饗宴後の残肴を 投げ出すのを乞食たちが取って食 たいふどの うこと。ここはそれを食う人。 ん」といひければ、利仁これを聞きて、「大夫殿、いまだ芋粥に飽かせ給はず セお下がりの米。 や」と問ふ。五位、「いまだ飽き侍らず」といへば、「飽かせ奉りてんかし」と ^ 古参になって得意然と大きな 顔をしてふるまっている、の意。 あまずら 九山の芋を薄く切って、甘葛の いへば、「かしこく侍らん」とてやみぬ。 汁で煮た粥。 ざうしず 一 0 五位の者の通称。 さて四五日ばかりありて、曹司住みにてありける所へ利仁来ていふやう、 = 満腹させてあげたいものです。 あ こよひ 「いざさせ給へ、湯浴みに。大夫殿」といへば、「いとかしこき事かな。今宵身三ありがたいことです。 一三自分の居室に非番で下がって ぐ かゆ た所へ。 の痒く侍りつるに。乗物こそは侍らね」といへば、「ここにあやしの馬具して としごろ ごめ ところえ
一京都一条の北、大宮の西にあ った。もと清和天皇の皇子貞純親 王 ( 桃園親王 ) の御所。後に摂政藤 一一世尊寺に死人掘り出す事 これただ 原伊尹の邸となり、長保三年 ( 一 00 語 物 一 ) 伊尹の孫の行成が寺とした。 ニ藤原師氏 ( 九一三 ~ 九七 0 ) 。貞信公 せんじ 忠平の子。東宮傅、按察使、左衛 治今は昔、世尊寺といふ所は桃園の大納言住み給ひけるが、大将になる宣旨 六 四 門督。天禄元年 ( 九七 0 ) 一月、大納 あさ いはひ だいきゃう五 かうぶ 蒙り給ひにければ、大饗はあるじの料に修理し、まづは祝し給ひし程に、明後言に就任。枇杷大納言と称した。 三近衛大将。近衛府の長官。師 日とてにはかに失せ給ひぬ。使はれ人みな出で散りて、北の方、若君ばかりな氏が薨じた翌月 ( 天禄元年八月 ) 兼 家が右大将に任じられているので、 とのもりのかみ んすごくて住み給ひける。その若君は主殿頭ちかみつといひしなり。この家をここは右大将か。 四大臣就任祝賀の披露宴。 ひつじさるすみ 一条摂政殿取り給ひて、太政大臣になりて大饗行はれける。坤の角に塚のあ五客を招きもてなすために。 「あるじ」は「あるじまうけ」の略。 すみ一四 六大饗を明後日に控えた日に。 りける、築地をつき出して、その角はしたうづがたにぞありける。殿、「そこ 師氏の死は天禄元年七月十四日。 七貴人の妻の敬称。安芸守高階 に堂を建てん。この塚を取り捨てて、その上に堂建てん」と定められぬれば、 惟明の娘。 くどく 人々も、「塚のためにいみじう功徳になりぬべき事なり」と申しければ、塚を〈惟明娘所生の子息には兵部大 輔親賢・主殿頭近信の兄弟がいた 一五からびつ 九荒涼たる家にさびしく。 掘り崩すに、中に石の辛櫃あり。あけて見れば、尼の年二十五六ばかりなる、 一 0 主殿寮長官、主殿寮は天皇の っゅ くちびる 色美しくて、唇の色など露変らで、えもいはず美しげなる、寝入りたるやうに乗物や沐浴、庭の掃除、灯明のこ となどをつかさどる。「ちかみつ」 て臥したり。いみじう美しき衣の色々なるをなん着たりける。若かりける者のは「近信」の誤り。師氏の次男。従 せそんじ ももぞの いだ れう
九御室戸僧正の事、一乗寺僧正の事 十ある僧人の許にて氷魚盗み食ひたる 巻第六 一広貴閻魔王宮へ召さるる事 一一世尊寺に死人掘り出す事 三留志長者の事 四清水寺二千度参り双六に打ち入るる 事 五観音蛇に化す事 巻第七 一五色の鹿の事 二播磨守為家の侍佐多の事 三三条中納言水飯の事 四検非違使忠明の事 五長谷寺参籠の男利生にあづかる事 一会 一一 0 六 : ・ 原文現代語訳 十一仲胤僧都地主権現説法の事 ・ : 三 = 0 十二大二条殿に小式部内侍歌詠みかけ奉 る事 ・ : 三一一一一十三山の横川の賀能地蔵の事 六賀茂より御幣紙米等給ふ事 七信濃国筑摩の湯に観音沐浴の事 八帽子の叟孔子と問答の事 : ・三一一八九僧伽多羅刹国に行く事 ・ : 一一三六 三一一七 ・ : 三三九 ・ : 三四一 ・ : 三四三 ・ : 三四四 ・ : 三四四 六小野宮大饗の事、西宮殿富小路大臣 大饗の事 七式成満則員等三人滝ロ弓芸の事 原文現代語訳 ・一九七 : ・ ・ : 三 = 一四 ・ : 三四九 ・ : 三五 0
185 巻第 ( 現代語訳三二七ハー ) にはかに死にたるにや、金の坏うるはしくて据ゑたりけり。入りたる物、何も四位上。 = 藤原伊尹。↓一二九ハー注一セ。 たぐひ 香ばしき事類なし。あさましがりて、人々立ちこみて見る程に、乾の方より風三太政官の最高官。左右大臣の 上位。適任者がいない場合には欠 ちり っゅ 吹きければ、色々なる塵になんなりて、失せにけり。金の坏より外の物、露と員のままにする官職で「則闕の官、 とも称された。伊尹の太政大臣就 まらず。「いみじき昔の人なりとも、骨、髪の散るべきにあらず。かく風の吹任は、天禄一一年 ( 九七一 ) 十一月二日。 一三西南の隅。 に塵になりて吹き散らされぬるは、希有のものなりーといひて、その比人あ一四「したぐっ」の音便。束帯の時 にはく絹製の足袋。 たたり さましがりける。摂政殿いくばくもなくて失せ給ひにければ、この祟にやと人一五四隅に脚のついた櫃。ここは 死人を入れる石棺。 一六西北の方。 疑ひけり。 宅いかに大昔の人であろうとも。 天伊尹は、太政大臣就任の一年 後、天禄三年十一月一日に没した。 大臣の大饗が就任後の最初の正月 に行われたとすれば、伊尹はそれ から一年もしないうちに没したこ 一九 とになる。 てんぢくニ 0 今は昔、天竺に留志長者とて世に頼もしき長者ありける。大方蔵もいくらと一九インドの古称。 ニ 0 梅沢本『古本説話集』は「留志」、 ニニくちを もなく持ち、頼もしきが、心の口惜しくて、妻子にも、まして従者にも物食は『今昔』巻三第一三話『法苑珠林』所 引「盧至長者因縁経」は「盧至」とす る。 せ、着する事なし。おのれ物のほしければ、人にも見せず、隠して食ふ程に、 ニ一富裕な。大金持の。 一三物惜しみする性で。けちで。 物の飽かず多くほしかりければ、妻にいふやう、「飯、酒、くだ物どもなど、 かう るしちゃうじゃ 三留志長者の事 こがねつき かね おほかた いぬゐ ころ さが
て来てしまった。 寄って見ると、壁のない粗末な家の中に火がともっている。 すだれ 翌朝、「それにしても、昨夜はどうしたことだったのか」母屋の端にかけた簾を下ろして、簾の外に火をともしてい と、仲間たちを連れて、売物など持たせて来て見ると、少る。まことに皮行李がたくさんある。その簾の中が恐ろし 語 物しも薄気味の悪いことはない。たくさんの品物を女たちが く思われるとともに、簾の内で矢の手入れをする音が聞え、 拾皆で取り出したり、しまったりしている。これなら何でも その矢が飛んで来て身に突き刺さるような気持がして、何 宇ないと、繰り返し念入りに見届けて、また日が暮れてから、 とも言いようもなく恐ろしく感じられ、帰り出るにも、後 よくよく準備をととのえて入ろうとすると、やはり恐ろし ろから引き戻されるように思われて、みなやっとの思いで い感じがして入れない。「おまえ先に入れ、入れ」と、言表へ出ることができた。汗をふきふき、「これはほんにど い合っただけで、この夜もやはり入らずじまいになってし うしたことだ。途方もなく恐ろしかったな、あの爪よりの 音は」と言い合いながら帰った。 またその翌朝も、同じようにして様子を見ると、格別違 その翌朝、その家のそばにある、大太郎の前からの知合 ) 一ちそう ったものも見えない。ただ自分が臆病なために恐ろしく思 いの者の家に行くと、大太郎を見つけて、たいそう御馳走 うのだろうと、またその夜、よく支度をしてその家に出向をして、「いつ上京なされた。会いたいと思っておりまし いて門の前に立って見ると、昨日までよりも、もっと恐ろ た」などと言うので、「ただ今京にまいったばかりで、す しい感じがしたので、「これはいったいどうしたことだ」 ぐこちらに伺ったのだ」と答えると、「一杯差しあげまし かわらけ と言って、帰ってから皆が、「今度のことを言い出した張よう」と、酒をわかし、黒く大きい土器を杯にして、それ 本人こそがまず入ってくれ。まず大太郎が入るべきだ」と を大太郎にさして、次に主人が飲んで、また大太郎に渡し 言うと、「それはもっともだ」と言って、命を捨てる覚悟た。大太郎が取って、酒をなみなみと杯に受けて持ちなが で大太郎が入った。それについてほかの者も入った。入る ら、「この北隣には、誰がおられるのか」と言うと、驚い すけ には入ったが、やはりなんだか恐ろしいので、そっと歩み た様子をして、「まだ知らないのか。大矢の介たけのぶが つま