183 巻第 六ここはどこで、誰が裁きの言 しかに妻のために仏経を書き、供養して弔ふべきなり」とて帰し遣はす。 葉を言われたのかということも知 六 たわ らぬままであった。 広貴、かかれども、これよ、。 。しつく、誰がのたまふそとも知らず。許されて、 セ書陵部本は「庭」とする。後に すだれ 座を立ちて帰る道にて思ふやう、この玉の簾の内に居させ給ひて、かやうに物「また参りて、庭に居たれば」とあ り、ここも「庭 [ の方が適切か。 さた たれ の沙汰して、我を帰さるる人は誰にかおはしますらんと、いみじくおばっかな ^ 強く知りたい気持になったの で。 く覚えければ、また参りて、庭に居たれば、簾のうちより、「あの広貴は、帰九ふるさと。すなわち、生者の 世界、人間界。 し遣はしたるにはあらずや。いかにしてまた参りたるぞ」と問はるれば、広貴一 0 どうにも気がかりで。 = 察しがわるい。分別が浅い かうぶ が申すやう、「計らざるに御恩を蒙りて、帰りがたき本国へ帰り候事を、いか三梵語 Jambu ・ dvipa0 仏教で、 しゅ 世界の中心に聳え立っとされる須 おほせ 弥山の南方にある洲。南部にある におはします人の仰とも、え知り候はで、まかり帰り候はん事の、きはめてい なんせんぶしゅう ので南瞻部洲・南閻浮提ともいう。 くちを さぶらふ ゅじゅんえんぶじゅ ぶせく、口惜しく候へば、恐れながらこれを承りにまた参りて候なりと申せ高さ百由旬の閻浮樹 ( 梵語 Jam ・ bu ) の生えている陸地の意。すな えんぶだい ぢぎうばさっ ば、「汝不覚なり。閻浮提にしては、我を地蔵菩薩と称す」とのたまふを聞きわちヒマラヤ山系を須弥山とし、 その南方にあって閻浮樹の茂る自 六て、さは閻魔王と申すは地蔵にこそおはしましけれ。この菩薩に仕らば、地獄国を、古代インド人は閻浮提と称 したが、のち拡大されて中国、日 本など、広く人間世界の意となる。 の苦をばまぬかるべきにこそあめれと思ふ程に、三日といふに生きかへりて、 一三さては。それでは。 のち その後、妻のために仏経を書き、供養してけりとぞ。日本の法華験記に見えた一四鎮源の『大日本法華験記』 ( 長 久年間〈一 0 四 0 ~ 四四〉成立 ) をさすか。 ただし、同書には本話は見えない。 るとなん。 九 につばん さぶらふ みせん
ことどころ けるを、引きとどめんとて手をさしやりたりけるに、早く越えければ、異所を さが きびすくっ きびす ばえ捕へず、片足少し下りたりける踵を沓加へながら捕へたりければ、沓の踵 = 沓もろともに。沓といっしょ きびす に足の皮を取り加へて、沓の踵を刀にて切りたるやうに引き切りて取りてけり。 くびす 成村築地の内に立ちて足を見ければ、血走りてとどまるべくもなし。沓の踵切三人間を杖のようにもて扱って。 一三死んだようになってしまって いたので。 れて失せにけり。我を追ひける大学の衆、あさましく力ある者にてそありける 一四相撲節では近衛府の官人は左 ひとづゑ よのなか なめり。尻蹴っる相撲をも人杖につかひて投げ砕くめり。世中広ければ、かか方と右方に分れ、それぞれに属す る相撲人を監督した。ここは成村 る者のあるこそ恐ろしき事なれ。投げられたる相撲は死に入りたりければ、物の属するほうの監督官の次将 ( 中 ・少将 ) 。 にな 一五この自分でさえ、取り組もう にかき入れて担ひて持て行きけり。 という気がしない。成村は「最手」、 かたすけ この成村、方の次将に、「しかじかの事なん候ひつる。かの大学の衆はいみすなわち今でいう横綱格の相撲取 であった。 さぶらふ つかまっ 一六勅旨を伝えること。またその じき相撲に候めり。成村と申すとも、あふべき心地仕らず」と語りければ、 一六 公文書。詔勅が表向きなのに対し、 せんじ 一セ 方の次将は宣旨申し下して、「式部の丞なりともその道に堪へたらんはといふこれは内輪のもので、このほうが 発布の手続きが簡略。 第事あれば、まして大学の衆は何条ことかあらん」とて、いみじう尋ね求められ宅底本「式部の省」。『今昔』によ り改める。式部省の第三等官。 巻 天相撲に堪能であるような者は けれども、その人とも聞えずしてやみにけり。 召せ。 一九何の差支えもあるまい くだ 一九 さぶら くっ
187 巻第 倉どもみなあけて、かく宝どもみな人の取りあひたる、あさましく、悲しさ、 かた いはん方なし。「いかにかくはするそ」とののしれども、我とただ同じ形の人 = 人間でないものが、人間の姿 に化けて現れている者。 かぎり こう言っている自分こそ本物 出で来てかくすれば、不思議なる事限なし。「あれは変化の物ぞ。我こそ其よ」 おほせ みかどうれ 一三『盧至長者経』では、盧至長者 といへど、聞き入るる人なし。御門に愁へ申せば、「母上に問へ」と仰あれば、 に化けた帝釈天が、長者の母や妻 、ゆら・ わ 子に、「自分についていた物惜し 母に問ふに、「人に物くるるこそ我が子にて候はめ」と申せば、する方なし。 みをさせる慳鬼が、後に長者に化 けて来て、自分が本物だと言うだ 「腰の程にははくそといふ物の跡ぞ候ひし。それをしるしに御覧ぜよ」といふ つつ , つ、がし 、つさいその言葉を信ぜ に、あけて見れば、帝釈それをまねばせ給はざらんやは。二人ながら同じゃうず、棒で打て」と、前もって言っ たことになっていて、分りよい 。もレ」 に物の跡あれば、カなくて、仏の御許に二人ながら参りたれば、その時、帝釈一四国王。 一五「ははくろ」とも。ほくろ、あ もとの姿になりて御前におはしませば、論じ申すべき方なしと思ふ程に、仏のざの類。『盧至長者経』では「児左 脇下有二小瘡瘢一猶二小豆計ことす をし あ しゆだをんくわしよう 御力にてやがて須陀沍果を証したれば、悪しき心離れたれば、物惜む心も失せる。 一六梵語 srota ・äpanna0 悟りの流 れに入った者の意。預流果とも。 小乗の僧が得る悟りの段階を四種 に分けた、その初級のもので、煩 かやうに帝釈は人を導かせ給ふ事はかりなし。そそろに長者が財を失はんと 悩を初めて脱した境地。最高の第 あはれ おば は何しに思し召さん。慳貪の業によりて地獄に落つべきを哀ませ給ふ御志によ四級は「阿羅漢果、といわれる。 宅慳貪の心をさす。 天むやみに。何の理由もなしに。 りて、かく構へさせ給ひけるこそめでたけれ。 けんどんごふ ぎい ほとけ
四 かやのゐんかたっちど 間にかいだてなどして、仁王講行はるる僧も、高陽院の方の土戸より、童子な一「垣楯」、また「掻楯」。楯を垣 8 のように並べて通行を防ぐもの。 もちなが ものいみ ものいみ ども入れずして、僧ばかりぞ参りける。御物忌ありと、この以長聞きて、急ぎ「書き立て」の音便ととり、物忌と 書いた札とする説もある。 語 とねり ニ『仁王経』を講じてその趣意を 物参りて、土戸より参らんとするに、舎人二人居て、「人な入れそと候とて、 讃美する法会。この経典は『法華 経』『金光明経』とともに護国の三 治立ち向ひたりければ、「やうれ、おれらよ、召されて参るそ」といひければ、 経といわれ、災害を除くために物 しきじ くらうどどころ これらもさすがに職事にて常に見れば、カ及ばで入れつ。参りて、蔵人所に居忌の時などにも読誦された。 三物忌のために正門は閉じ、高 さふ こわだか て、何となく声高に物いひ居たりけるを、左府聞かせ給ひて、「この物いふは陽院に面した裏門から通した。 四外面に土または漆食を塗って - もめ・か . ね 誰そ」と問はせ給ひければ、盛兼申すやう、「以長に候」と申しければ、「いか作った引戸。煮地に設けた門とも こも よべ にかばかり堅き物忌には夜部より参り籠りたるかと尋ねよ」と仰せければ、行五寺にいてまだ得度せず、仏典 学習のかたわら僧に仕える少年。 おほせむね きて仰の旨をいふに、蔵人所は御所より近かりけるに、「くはくは」と大声し六「やおれ」の転。人に呼びかけ る塹。こりや。これこれ。 ころ さぶら つかまっ て、はばからず申すやう、「過ぎ候ひぬる比、わたくしに物忌仕りて候ひしセ対称の代名詞。おまえたち。 ^ 蔵人頭以下、五、六位の蔵人 の総称。以長をさす。 に召され候ひき。物忌の由を申し候ひしを、物忌といふ事やはある。たしかに 九しかたなく。やむをえず。 参るべき由仰せ候ひしかば、参り候ひにき。されば物忌といふ事は候はぬと知一 0 ここは左大臣家の蔵人所。 = 底本「もりかぬ」。伝未詳。 さぶらふ うなづ りて候なり」と申しければ、聞かせ給ひてうち頷き、物も仰せられでやみにけ三さあさあ、これはこれは、そ りやそりや。騒がしく言い応ずる 言葉。 りとぞ。 ま たれ しつくい
こどのとしごろさぶら 侍参りたりけり。「故殿に年比候ひしなにがしと申す者こそ参りて候へ。御一以下、取次の言葉。亡き殿様 に長年お仕えしていた、これこれ 1 げんぎん と申す者が。 見参に入りたがり候といへば、この子、「さる事ありと覚ゅ。しばし候へ。 ニしばらくお控えください。ご 語 物御対面あらんずるそ」といひ出したりければ、侍、しおほせっと思ひてねぶり対面なされましようそ。 三うまくいった。「頼み込むき つかけはできた」とのほくそえみ。 治居たる程に、近う召し使ふ侍出で来て、「御出居へ参らせ給へ」といひければ、 四目をつぶっていると。これか よろこ たか らのかけひきを前に昂ぶる心をし 悦びて参りにけり。この召し次ぎしつる侍、「しばし候はせ給ヘーといひて、 ずめているさま。 五寝殿造の邸宅で、中央の母屋 あなたへ行きぬ。 の外、廂の間にある客間。 みき一う 見参らせば、御出居のさま、故殿のおはしましししつらひに露変らず。御障六間仕切り。ここでは襖障子。 唐紙。 子などは少し古りたる程にやと見る程に、中の障子引きあくれば、きと見あげセしやくりあげておいおい泣く。 〈 ( 侍のそばに寄り ) 片膝をつい たるに、この子と名のる人歩み出でたり。これをうち見るままに、この年比のて座って。 九「とは」は「こは」の誤写か。 いかにかくは一 0 「違はせおはしまさぬ」のは 侍さくりもよよと泣く。袖もしばりあへぬ程なり。このあるじ、 「出居へ出た時の烏帽子の真っ黒 なさま」。それを若主人は「自分が 泣くらんと思ひて、つい居て、「とはなどかく泣くそ」と問ひければ、「故殿の 生前の故殿そのままだとこの侍は おはしまししに違はせおはしまさぬがあはれに覚えて」といふ。さればこそ我言っている」と受け取って喜んだ。 一一「しかあらぬ」の意。そうでな 故殿には似ていない。 も故殿には違はぬゃうに覚ゆるを、この人々の、あらぬなどいふなる、あさまい。 一ニおまえ。目下の者に言う対称 、」とほか 代名詞。 しき事と思ひて、この泣く侍にいふやう、「おのれこそ殊の外に老いにけれ。 さぶらひ ふ たが 九 でゐ っゅ
一長門国の前の国司。誰をさす かは不・明。 ながとのぜんじむすめさうそう ニ結婚を約束している特定の男。 十五長門前司の女葬送の時本所に帰る事 三時たま通ってくる男。 語 物 四京都市下京区、高辻 ( 四条と 遺 五条の間 ) 通りと室町通りの交差 むすめ 治今は昔、長門前司といひける人の、女二人ありけるが、姉は人の妻にてありするあたり。 五寝殿造の南に面した西寄りの のち みやづかへ ける。妹はいと若くて宮仕ぞしけるが、後には家に居たりけり。わざとありつ出入り口の戸で、両開きの板戸。 本話では、そこから入ってすぐの たかつじむろまち きたる男となくて、ただ時々通ふ人などぞありける。高辻室町わたりにぞ家は板敷の間をさす。 六通ってくる男と逢ったり、睦 かた かた ありける。父母もなくなりて、奥の方には姉そ居たりける。南の表の、西の方言を交したりする場所であった。 セ厄介だ。具合が悪い ^ そのまま横たえてあった。 なる妻戸口にぞ常々人に逢ひ、物などいふ所なりける。 なきがら 九亡骸をそのままにしておくわ レしはいかないので。 廿七八ばかりなりける年、いみじく煩ひて失せにけり。奥は所狭しとて、そ 一 0 葬送の支度をして。当時は葬 の妻戸口にぞやがて臥したりける。さてあるべき事ならねば、姉などしたてて送は夜に行われた。 = 平安時代以来の京都の火葬 鳥部野へ率て往ぬ。さて例の作法にとかくせんとて、車より取りおろす。櫃か場・墓地。京都市東山区の清水寺 以南から西大谷に通じる地域。 しし力にもいか三遺体を火葬に付すための、あ ろがろとして蓋いささかあきたり。あやしくて、あけて見るこ、、ゝ るいは埋葬するための葬礼のあれ っゅ にも露物なかりけり。「道などにて落ちなどすべき事にもあらぬに、、かなるこれの手続きを進めようとして。 一三棺の中はきれいにからつばで かた 事にか」と心得ず、あさまし。すべき方もなくて、「さりとてあらんやは」とあった。 ( 現代語訳一一八九ハー ) とりべの ふた 六 一ニさほふ ほんじよ 五 ところせ おもて ひっ
365 解説 ③「」といふ時に、 ④「」といへば、 ⑤「」といへば、 ⑥「」とて、 と思ひて、 ⑦「」とて、 ⑧「」とて、 つつ」、会話文は「ー、・・・・といふ」「ーーといふ時に」「ーーーとい 地の文は「・ーーて」「ーーー・ばー「 へば」「ーーーとて」などの接続表現によって主導され、潤飾語や説明語が皆無に近い簡潔さのせいもあって、 そこにおのずからなるリズムと脚韻法を思わせる一種特有の音調を生み出している。類型反復的で単調な感 じもあるが、これほどに因果関係の明確な文体も珍しいのではあるまいか。そして、これが『宇治拾遺』の るしちょうじゃいんねんきよう 到達した説話文体の一典型なのである。それが証拠に、たとえば、「盧志長者因縁経」を原拠とする「留志 長者の事」話 ) 中の次の一節について文体の特徴を見ても、同様の結果を得ることになる。 みかどうれ い , 尸に愁へ申せば、 かた さぶら わ おほせ 「母上に問へ」と仰あれば、母に問ふに、「人に物くるるこそ我が子にて候はめ」と申せば、する方なし。 たいしやく 「腰の程にははくそといふ物の跡そ候ひし。それをしるしに御覧ぜよ」といふに、あけて見れば、帝釈 それをまねばせ給はざらんやは。二人ながら同じゃうに物の跡あれば、カなくて、 「」といふ。 と折り食ふ。 つつ、ーー食ひつ。 てーーて食はせたれば、 てーーて往ぬ。 て、
211 巻第七 ければ、「そのおはしましし傍に切懸の侍りしを隔てて、それがあなたに候ひ一四板塀、目隠しの類。板を横に して柱に切りかけ、羽重ねに重ね たび しかば、知らせ給ひたるらんとこそ思ひ給へしか」といへば、「この度はしばつつ、板と板との間をすかして風 の通るようにしたもの。 いとま し行かじと思ひつるを、暇申してとく行きて、その女房かなしうせん」といひ三ご存じでいらっしやると思っ ておりました。「給へ」は下二段活 用、謙譲の意を添える補助動詞。 一六かわいがってやろう。『今昔』 は「彼ノ女見ム」とする。「見る」は さて二三日ばかりありて、為家に、「沙汰すべき事どもの候ひしを、沙汰し 男女の関係を結ぶこと。 宅し残して。中断して。 さして参りて候ひしなり。暇賜りてまからん」といひければ、「事を沙汰しさ 天どうして帰京したのか。 くだ 一九さほど親密でないようなうち して何せんに七りけるそ。とく行けかし」といひければ、喜びて下りけり。 は、そんな馴々しいまねはしない みな ものだ ( それなのに ) 。 行き着きけるままに、とかくの事もいはず。もとより見馴れなどしたらんに ニ 0 狩衣の一種。水干狩衣とも。 すいかん きくとじ てだに、疎からん程はさやあるべき。従者などにせんやうに、着たりける水干菊綴 ( 縫い目に綴じつけた菊の花 の形をした飾り ) を胸に一か所、 えり のあやしげなりけるが、ほころび絶えたるを切懸の上より投げこして、高やか背側の袖に四か所つけ、前領の上 角と後ろの領の中央とに丸組の緒 をつけたもの。色は多くは白。庶 に、「これがほころび縫ひておこせよ」といひければ、程もなく投げ返したり 民の常服、公家の私服。 ごと デことく縫ひておこせたる女人かな」と三縫い目の絶ち切れているのを。 ければ、「物縫はせ事さすと聞くが、し 一三まことに手ばやく。 あら 荒らかなる声してほめて、取りて見るに、ほころびは縫はで、みちのくに紙の = 三陸奥国紙。もと陸奥から産し たのでいう。檀紙。まゆみの紙。 文をそのほころびのもとに結びつけて、投げ返したるなりけり。あやしと思ひ色は白く厚地で紙面にしわがある。 かたはらきりかけ たまは
249 巻第 たんごのくに んだ」と言う。大童子はまた、「おまえこそ盗んだのだ」 今は昔、丹後国に年老いた尼がいた。地蔵菩薩は夜明け と言う時に、この鮭について来た男が、「それなら、わし ごとにお歩きになるということをちらっと聞いて、毎朝し もおまえも懐をあけてみよう」と言う。大童子は、「そう つも、地蔵を拝み申そうと、あたり一帯をあてどなく歩き した ばくちうち まですることはあるまい」などと言ううちに、この男は下まわっていたが、所在なさそうにしていた博打がこれを見 ばかま 袴を脱ぎ、懐を広げて、「ほれ、見なされ」と言って、は て、「尼君はこの寒いのに何をしていらっしやる」と言う げしく詰め寄った。 と、「地蔵菩薩が夜明けにお歩きになるというので、お会 さてこの男が大童子につかみかかって、「おまえも、さ い申そうとこうして歩いているのです」と言うと、「地蔵 っさと脱ぎなされ」と言うと、大童子は、「みつともない のお歩きになる道は自分がよく知っているから、さあ、 わい、そうまでせねばならんことがあるか」と言うのを、 らっしゃい、お会わせ申しましよう」と言う。尼は、「ま この男が無理やりに次々と脱がせて、前を引きあけたとこ あ、うれしいこと。地蔵のお通りになる所へ私を連れて行 ろ、腰に鮭を二つ腹にさし添えていた。男が、「ほらほら」 ってください」と言うと、「何か私に礼の物をください と言って引っぱり出した時に、この大童子は、それをちら そうしたらすぐにお連れ申しましよう」と言うので、「こ と見て、「なんと、もってのほかのことをする男だ。こん の着ている着物を差しあげましよう」と言うと、「さあ、 とうとによう′一 いらっしゃい」と言って、隣の家へ連れて行く。 なふうに裸にして捜しまわったなら、いかな貴い女御やお 后でも、腰鮭の一、二尺ないということがあるものか」と 尼は喜んで急いで行くと、そこの子供にじそうという者 言ったので、大勢立ち止って見ていた人々は、一度に「わがいたが、博打はその子の親と懇意だったので、「じそう はどこにいる」と尋ねると、親は、「遊びに行ってるよ。 あっ」と笑い合ったという。 もうすぐ帰るだろう」と言う。「ほら、ここですよ。じそ うのいらっしやる所は」と博打が言うと、尼はうれしくな 十六尼が地蔵を見奉る事 つむぎ って紬の着物を脱いでやると、博打は急いで受け取って出
の程度のことをかれこれ仰せられるまでもなく、「早く追 きよなか い出せ」と言って、お笑いになっておいでだったという。 六同じく清仲の事 ほうしようじどの この清仲は、法性寺殿 ( 藤原忠通 ) の御時、春日神社の 語 じんめ 物これも今は昔、二条の大宮と申した方は白河院の皇女で、祭に競馬の騎手に立ったが、神馬を扱う者がおのおの故障 じゅんば 拾鳥羽院の准母であらせられた。二条の大宮と申しあげた。 があって勤めを休んだ折に、きちんと勤めたのは清仲だけ 宇二条よりは北、堀川よりは東にお住いであった。その御所であったが、「神馬使いが欠けている。よくよく注意して ありかた びんごのくに が破損してしまったので、有賢大蔵卿が、備後国を治めて勤めよ。せめて京の町中だけでも、無事に通るようにはか おられた重任の功に修理をしたので、宮も他所へお移りに らい勤めよ」と仰せられた時に、「謹んで承りました」と なっていた。 申して、そのまま春日神社の社頭に無事に着いたので、殿 ぺいじゅう そこに陪従清仲という者が、つねづねお仕えしていたが、 は重ね重ね感嘆なされた。「よくぞ勤め申した」と言って、 宮はお住いでないのに、やはり御車宿りの開き戸の所にい 御馬を賜ったので、清仲はころげまわって喜んで、「こん たてじとみ て、古い物はもちろん、新しく立てた短い柱や立蔀などま なふうでございますなら、常任の神馬使いになりたいもの でもこわして焚いてしまうのであった。このことを有賢が です」と申したのを、仰せを伝える者も、その場に居合せ 鳥羽院に訴え出たので、鳥羽院は清仲を召して、「宮がお た者も、みな笑いこけてどよめいたが、それを殿が「何事 いであそばさないのに、なお留まっていて、古い物や新し か」とお尋ねになったので、これこれと申しあげると、 い物をこわして焚くというのはどういうことか。修理をす「おもしろいことを申したものだ」と仰せ言があった。 る者が訴え申すのだ。まず宮もおいでにならぬのに、なお 籠っていたのはどうしたことなのか。わけを申せ」と仰せ 七仮名暦をあつらえた事 たきぎ られたところ、清仲は、「格別のこともございません。薪 がなくなってしまったからです」と申したので、およそこ これも今は昔、ある人のもとに新参の若い女房がいたが、 こも た かなごよみ