ひとりあさぢ = 「咳」は王朝物語に見られるよ 「我こそ帰りまゐりたり。かはらで独自浅茅が原に住みつることの不思議さよ」 うに、来訪を告げる合図。 まみ 一四あか といふを、聞きしりたればやがて戸を明くるに、いといたう黒く垢づきて、眼一 = 「ねぶ」は、年寄ること、老け ること。「声いたうねび過ぎたれ をとこ もとひと あ はおち人りたるやうに、結たる髪も背にかかりて、故の人とも思はれず、夫をど」 ( 源氏・蓬生 ) 。この辺、「蓬生。 の巻の末摘花の住居を訪ねる文章 さめざめ から借りた修辞が多い。 見て物をもいはで潸然となく。 一三「浅茅が宿」と同じ。 勝四郎も心くらみてしばし物をも聞えざりしが、ややしていふは、「今まで一四垢じみ黒ずんで。「やせ黒み たるが」 ( 平家・巻十一 ) 。 みやこ かくおはすと思ひなば、など年月を過すべき。去ぬる年京にありつる日、鎌倉一五「まみ」は、本来は目つきの意。 まなこ ここでは「眼」のこと。 そうしうさけふせ くわんれい せ の兵乱を聞き、御所の師潰しかば、総州に避て禦ぎ給ふ。管領これを責むる事一六結い上げた。 毛呆然として。「目もくれ、心 きそぢ みやこ きふ あすささ・ヘ のたま 急なりといふ。其の明雀部にわかれて、八月のはじめ京を立ちく。木曾路を来もきえはてて、しばしは物も宣は ず」 ( 平家・巻十一 ) 。 から かす やまだち るに、山賊あまたに取りこめられ、衣服金銀残りなく掠められ、命ばかりを辛穴木曾街道。 一九東山道。京から東海道、北陸 すゑ 一九 労じて助かりぬ。且里人のかたるを聞けば、東海・東山の道はすべて新関を居道の間の山間を通って陸奥・出羽 宿 へ抜ける道。 ニ 0 将軍から地方征討の印の太刀 茅て人を駐むるよし。又きのふ京より節刀使もくだり給ひて、上杉に与し、総州 せつどし を賜った武将。正しくは「節度使 とく いくさ ひづめせきちひま 二の陣に向はせ給ふ。本国の辺りは疾に焼きはらはれ馬の蹄尺地も間なしとかた東下野守常縁をさす。 ニ一ここでは、戦火によって亡く くいぢん 巻 るによりて、今は灰塵とやなり給ひけん。海にや沈み給ひけんとひたすらに思なること。 一三寄食して。 みやこ ひとどめて、又京にのぼりぬるより、人に餬ロて七とせは過しけり。近曾すず = 三わけもなく、むやみに、の意。 ひやうらん たす とど かっ んごくと いくさつひえ せとし いふく はづき くちもらひ い しづ 一八 このごろニ三
た・ヘもの るばかりである。「明日も飯を炊き、芋を煮て、坊様に供 様をお泊め申した。供養の食物、作って差し上げよ。米を しば めした 4 洗え。飯を炊こうぞ」と、柴をくべながら「『あの黄色い養申せ。一夜の泊り代に黄金をくだされたぞ」といってい ぎこうじよう あきんど こがね るが、かく人里離れた所の民は、羲皇上の人とかに似てい 金を見せてくれ』とおっしやって、隣へくる商人殿が待ち 五ロ るらしい。 物くたびれておいでじゃ」というと、息子、「それならここ こわだか かみだな 雨 樊噌、「南無大師」を声高に唱えると、朝の稼ぎに家を に」と神棚から降ろして来て見せる。包み紙の破れ目から、 まぶ きらきら光り輝いて眩しいのは、いじったことがない証拠出る柴刈りの民が「この家には鬼がはいり込んだのか、恐 ろしい声が聞えるぞ」と立ち寄ってみて、「坊様はこうい である。しかしながらこの二人、坊主の目つきが恐ろしく、 こがね いつわごと 偽り言もいえないで、「これは本当の黄金じゃ。銭二貫文う方こそありがたい。親御の命日じゃ。よく供養申せーと に換えて進ぜよう。米がほしくば、ここに持たぬゆえ、総いって出て行った。樊噌もおもしろい一夜を過し、別れを あかし 告げて出かけようとすると、「またおいでくだされ。明石 社の町に参って三斗に換えて差し上げるがどうじゃ」とい しいたけこおりどうふ の浦のわかめや椎茸、氷豆腐も、みんな総社の町に行って う。樊噌、これを聞いていて憎らしくなり、「わしもここ そろ あたい に持っておる。諸国をめぐっておるゆえ、何回も価は耳に揃えておき申す」と親切にいう。樊噌、うなずきうなずき ここを出たが、例の早足、野を越え山に沿い、その日の暮 しておるわい。米は一石、銭ならば七貫文に換えるはずじ なにわ おのれあきな や」という。この邪魔に返答もならず、商人、「己が商うれ方には難波の町に出た。この難波、日本一の大港であっ て、いずこの国の船もここに泊ると聞いていたから、自分 品物のほかは、価をよく知らぬ」と一言訳いって逃げ出して の顔、見知った者もあるだろうと、宿も取らず、野中の寺 行った。「あの商人め、盗人でこそないが、わしがおらね ころびね かた の門の下で転寝をして夜を明かす。朝鳥の声に驚いて目を ば騙り取るところであった。ゅめゅめ他人に見せるでない まちなか かさかぶ ぞ。今夜の宿代に、もう一枚加えて進ぜよう」といって例覚し、また笠を被り、杖をついて、身体をすぼめて市街中 すみよし を通ってみると、たいそう賑やかなのが恐ろしい。住吉、 の百両を取り出したが、使った金はわずかだったから、そ かわちいずみ てんのうじ の黄金の光きらきらと輝いて、この一軒家のうちに目覚め天王寺などは見物もならず、そのまま河内、和泉の国々か っえ にぎ
おおみそか あまこつねひさ なお しゃ 者がきっと面倒をみて、癒してさしあげよう」と言い、主尼子経久が、山中党と組んで、大晦日の夜、不意討ちに城 うちじに を攻め取り、掃部介殿は討死なされたのです。もともと出 人と相談して薬を選び、自分で処方を考え、手ずから煎じ て飲ませ、更にお粥を食べさせるなど、その看病ぶりはま雲は佐々木の領国、塩谷殿は守護代であったから、私は、 みざわみとや 『三沢、三刀屋の勢を助け、尼子経久を討つべきです』と るで血を分けた兄弟のようで、まことに捨てておけないと おくびよう そとづら 勧めたのだが、氏綱は外面は勇敢に見えても、内心は臆病 いう様子であった。 この武士は、左門の同情心の手厚さに感激し、涙を流し な愚将だったので、それを果さず、かえって私を足止めし からだ たのです。理由の立たぬ所に長居はしまいと、身体ひとっ て、「これほどまで見ず知らずの旅人の私に尽してくださ で脱け出して、故国へ帰る途中で、この病にかかり、思い る。たとえ死んでも、きっとご恩はお返しいたそう」と言 いぎ がけずあなたのお世話を受けたのは、身にあまるご恩恵で った。左門はそれを諫めて、「気の弱いことを口になさる えきびよう ひかず す。生涯をかけて必ずご恩にお報いいたしたい」。左門は な。およそ疫病には一定の日数があるものです。その期間 さわ を過ぎてしまえば生命には障りはござらぬ。私が毎日やっ答えて、「人の不幸を見るに忍びぬのは、人として当然の ことをしたまでです。そのようにご丁重な言葉をいただく て来てお世話いたすであろう」と、真心をこめて約束し、 とど いわれ その後も細やかな心づかいで看病するうち、病気も快方に理由がありません。それよりゆっくり止まってご療養なさ 約向い、気持もさつばりしてきたので、主人に対しても懇ろれよ」と言い、その真実味のある言葉に甘えて、日を過す しごと うちに、赤穴はすっかり回復し、身体も心も元どおりにな 花に社を述べ、左門の陰徳に感謝して、その生業を尋ね、自 いずもの っこ。 分の身の上なども語って次のように言った。「私は、出雲 あかなそうえもん この数日間、左門はよい友を得たと、昼となく夜となく 之国松江の出身で、赤穴宗右衛門という者だが、いくらか軍 とだ えんやかもんのすけ 巻 交際し、話し合ってみると、赤穴も諸子百家のことなどぼ 学の道に明るかったので、富田の城主、塩谷掃部介殿が、 おうみささきうじつな つぼっ話し出して、その質問も理解力もひととおりではな 町私を師として学んでおるうちに、近江の佐々木氏綱への密 お 、用兵の機略についての理論はすぐれて的確であったの 使に推されて、佐々木の館に滞在中のこと、前の富田城主 かゆ せん ねんご
きえ なこう 毛「陰風面ヲ払ヒ、巨卿ノ在ル 母公によくつかへ給へ」とて、座を立っと見しがかき消て見えずなりにける。 一七 所ヲ知ラズ」 ( 死生交 ) 。 ゆくへ うつぶし あわて いんふうまなこ 左門慌忙とどめんとすれば、陰風に眼くらみて行方をしらず。俯向につまづや赤穴の自害は苑巨卿 ( 原話 ) の自 害とは違う。苑は当日まで多忙に たふ かまけ、約束を忘れていたのであ き倒れたるままに、声を放て大いに哭く。老母目さめ驚き立ちて、左門がある 一九 る。赤穴は乱世を義に生きている。 なら ふしたふ とこのべさかがめなもり 穴「哭」は声をあげて悲しみ泣く 所を見れば、座上に酒瓶魚盛たる皿どもあまた列べたるが中に臥倒れたるを、 こと。「声ヲ放チ、大イニ哭ク」 ことば たすけおこ のみなく いそがはしく扶起して、「いかに」ととへども、只声を呑て泣なくさらに言な ( 死生交 ) 。このあたりは原話の文 の直訳が目だっ。 うらむ あにあかなちかひ し。老母問ひていふ。「伯氏赤穴が約にたがふを怨るとならば、明日なんもし一九「座上」は座敷。「堂上ヲ見レ ニ 0 ハ鶏黍酒果ヲ陳列ネテ、張元伯ハ いさむ ことば おろか こんし」・つ 来るには言なからんものを。汝かくまでをさなくも愚なるか」とつよく諫るに、地ニ昏倒ス」 ( 死生交 ) 。 ニ 0 言うべき言葉もないだろうに。 あまたたび さかな むか このかみこよひ ちかひわざわざ 左門漸答へていふ。「兄長今夜菊花の約に特来る。酒骰をもて迎ふるに、再三 = 一これほどまでに。老母は赤穴 の到着を知らないのである。 ちかひそむ いなみ みづからやいばふしなきたま 辞給うて云ふ。しかじかのやうにて約に背くがゆゑに、自刃に伏て陰魂百里 = = そのためにわざわざ。 ニ三「遂ニ自刎シテ、陰魂千里、 ねむりおどろ 特ニ来ッテ一見ス」 ( 死生交 ) 。 を来るといひて見えずなりぬ。それ故にこそは母の眠をも驚かしたてまつれ。 品「牢裏」は牢の中。「漿水ーは飲 の ゆる らうりつな さめざめなき 花只々赦し給へ」と潸然と哭人るを、老母いふ。「『牢裏に繋がるる人は夢にも赦料水。「古人ノ云 ( ル有リ。囚人 ハ赦ヲ夢ミ、渇人ハ漿ヲ夢ム」 ( 死 たぐひ しゃうすいの 一さるるを見え、渇するものは夢に漿水を飲む』といへり。汝も又さる類にゃあ生交 ) を訳している。 あいまい 孟「正なき」は不確かで曖昧なこ まさ かしらふり 巻 しづ らん。よく心を静むべし」とあれども、左門頭を揺て、「まことに夢の正なきと。原文では「夢ニ非ルナリ。児、 親シク来ルヲ見、酒食ノ在ルヲ見、 あげなきたふ このかみ にあらず。兄長はここもとにこそありつれ」と、又声を放て哭倒る。老母も今之ヲ逐へドモ得ズ」 ( 死生交 ) 。 きた やや かっ はなちお さら げ八 おどろ ゅめ ゆる
き叫ぶ。その声で、家の中でも大騒ぎになり、女子供は泣 まろ すみ き叫び、こけっ転びつ、家内のあちらの隅こちらの隅に身 あるじ おもて やまおうこ 青頭巾 を隠す。その家の荘主が、山枴をつかんで走り出て、戸外 の方を見ると、年の頃五十歳にもなろうという老僧で、頭 しようにん あおぞめずきん かいあんんじ には紺染頭巾をかぶり、身にはぼろぼろの黒い僧衣を着け、 昔、快庵褝師という高徳の上人がおられた。幼少の頃か っえ えとく きようげべっゼん ら禅宗の教外別伝の本旨を会得されており、平常から行方旅の包み物を背負った人が、杖でさし招きながら、「ご主 定めぬ旅の空に身をゆだね、諸国を巡っておられた。ある人、何事ゆえにこれほどまでに警戒なさるのじゃ。諸国遍 ひとよ みののくにりようたい げぎよう 年のこと、美濃国の竜泰寺で夏行を終えられたが、「この歴の愚僧、今夜一夜だけの宿りを願おうと、ここで取次ぎ 秋は奥羽地方で暮すことにしよう」と旅立たれ、歩みを重の人を待っているだけのことであるのに、これほど怪しま やせうし しもつけのくに れるとは全く思いがけぬ。この瘠法師が強盗などできるは 頭ねて、下野国に足を踏み人れられた。 青と 富田という村里まで来てすっかり日が暮れてしまったのずもないのに、どうか怪しまないでいただきたい」と言っ あるじ た。それを聞いて荘主は枴を放り出し、手を打って笑い、 之で、裕福そうな大きな構えの農家を訪れて、一夜の宿りを たそがれ 巻 頼もうとされたが、田畑から戻って来た作男たちが、黄昏「作男どもの愚かな見当違いのために、すっかり客僧を驚 かせてしまいました。お詫びに代えて一夜の宿をご用立て 四の中にこの僧が立っているのを見て、なぜか大変なおびえ ようで、「山の鬼がやって来たぞ。みんな出て来い」と喚いたしましよう」と言って、うやうやしく奥の間に迎え人 あおずきん うげつものがたり 雨月物語巻之五 わめ わ
すわ びようぶ さて大蔵、ここを逃げのびてより、どこへといって当て 屏風を蹴倒し、唐人の前に高あぐらをかいてどっかり坐っ かなた おそ もなく、ここに野宿し、彼方の山に隠れて流れ歩くうち、 た。唐人、驚き怖れて、「樊噌排闥、樊噌排闥。お許しく えきびよう ださい。わたくし何も知りません」と困り顔をする。主人、疫病にかかって、山あいの物陰に倒れ込んだ。狼が吠える この大切な客人を傷つけさせては一大事と、手を摺り合せような声で唸るので、街道を往来する人たち、ただ「こわ あやま い」というだけで、誰見とどける者もいない。さて、どう て謝って、「女房殿は、一度ここに来られた後、またどこ かへ逃げて行かれました。どうか落ち着いてくだされ。何にか熱だけは引いてきたが、しばらく物を食っていなかっ たから足腰が立たない。街道まで這い出して人が通るのを 処に隠れておられるやら。一緒に探して進ぜましよう。さ ゅう 待った。夜にはいってここを通り過ぎる人がある。この大 あ、酒を召し上がるご様子じゃ」と店の者に申しつけ、熊 そろ もてな しようだてい 蔵のうめき声を聞き、月明りに透かして見て、「何者じゃ」 掌駝蹄こそなかったが、山海の珍味を揃えて饗したので、 やまい ただ やわ と問い糺す。「わしは旅人でござる。病にかかり、もう、 これに気持和らいで飲み食いする。「唐人がつけた樊と いう名、気に人ったぞ」といい、「これからは、俺の呼び数日こうしておるが、熱は少し冷めたものの、物を食って えつい おらぬので足が立ち申さぬ。何でも良いから食わせてくだ 名としよう」と悦に人っている。夜がすっかり明けわたっ たいまっ され」という。持っていた松明の明りで照らして見ると、 た。役人が厳重に支度した男、四、五人を従えて来て、 おどろ なわ うきのくに 「親、兄を殺害せし伯耆国の大蔵をこれに出せ。お縄をか鬼のような恐ろしい男で、衰え果て、荊棘なす髪を振り乱 はら ける」というのを聞いて、どうにもしかたがなく、肚をすしながら、ただ「何か食わせてくれ」と物乞いをしている。 わたしめ 上 えて表に飛び出し、「私奴は、親を殺した者ではござらぬ」人にちがいないと見とどけると、この男思案するところが めし こやっ といって平伏した。ド 原をうかがって前の男が持っていた棒あったので、此奴助けてやろうと、腰の弁当袋から飯を取 いただ みきかい り出して与える。大蔵、声もなくただ押し戴き、「うう」 を奪い取ると、誰彼の見境なくめったやたらに打ち散らし といいながら食らいつく。食い尽して、さて、「ご恩まこ たので、手がつけられずに騒いでいるうちに、ついに取り とにありがたい。このご恩、いつにてもお返し申す」とい 逃がしてしまった。 はんかいはいたっ いず
( 原文一一六一一第ー ) あしだ っている。袋を取って背に負い、低い足駄をはいてよろめ海に響きわたって海神を驚かせるほどであった。ひとり息 - こぞう き立ち上がったその姿、確かどこかの絵で見たことがある。子がいて、名を五蔵といった。父に似ず、生来風雅を好む 神主と法師は人間である。人間でありながら妖怪と交わっ優しい人柄で、手跡も見事なうえ、和歌や学問を好んで学 しらが まど び、また弓を取っては飛ぶ鳥を射落すほどで、優しい姿に て惑わされず、また人を惑わすこともなく、白髪になるま 似合わぬ雄々しい心を持っていた。常々、少しでも人のた で生きをした。すっかり夜が明けて、それぞれ森陰の自 めに位立っことを考えて、交わりも礼儀正しく、貧しい者 分のねぐらに帰って行った。女房と童女は、神主が「ここ あわ を憐れんで力を貸すことを身の勤めとしていたので、里人 に泊れ」といって連れ立って行った。 あだな は、父が無慈悲であるのを渾名して鬼曾次と呼び、子の五 この夜のことは、神主が百年も長生きして日課の手習い ぶつぞう をしたものの中に書き残したものがある。墨黒々とぶつき蔵を仏蔵殿と呼んで尊敬していた。出人りの者も、まずこ くつろ くず らぼうで、誰が見ても読むことができない。文字の崩し方の五蔵のところに立ち寄って寛ぐことを楽しみにして、同 じ家の中でも、自然、曾次のところには寄り付かぬように もおおかたは間違っている。自分ではよく書けたと思って なったが、父の曾次はこれを怒って、「無益な人間には茶 いたのであろう。 はりがみ を飲ませぬ」と書いて門の壁に貼紙し、訪れる者に注意を 配ってロやかましく追い返していた。 また、同じ一族に元助という者がいたが、長い間に家衰 死首の咲顔 すきくわ え、田畑わずかに所有しているだけで、主人みずから鋤鍬 咲 ゆた せつつのくにうイらのこおりうなご 首摂津国、兎原郡、宇奈五の丘は、昔から一村豊かに住みを取って耕し、母一人、妹一人をやっと養っていた。母は はたお さばえ 死 まだ五十にもならず、女の仕事の機織りや、麻を績み、糸 着いてきたが、鯖江姓を名のる者が特に多かった。酒造を ごそうじ 生業とする者が多かったが、なかでも五曾次という者の家を紡ぐ仕事にかいがいしく精を出し、自分のことは忘れて むね こめつ はことに豊み栄えて、秋になると、米搗き歌の歌声が前の立ち働いていた。妹は宗といって、またとない美人で、母 しくびえがお
139 巻之一白峯 ぞん ししんぞんせいりよう んなにか濡れそぼっていたことであろう。 思えば、目のあたりにお姿を拝した時は、紫宸殿・清涼 てんじようびと おおまつりごと やがて日が沈み、深い山中の夜の様子はただごとではな 殿の玉座で政治をお執りになっておられ、多くの殿上人 い無気味さで、坐っている石床も、わずかに降りかかる木 ・公卿たちは、かくも賢明な君主でいらっしやると、仰せ このえ おそ 言を畏れかしこんでお仕えしたことであった。近衛帝に譲の葉の夜具も寒く、身も心も冴え冴えと冷えて、なんとは ものすご びび なしに荒涼として物妻い心地がする。月は出たけれど、茂 位なされた後も、上皇御所の美々しい宮殿をお占めになっ ひかり あやめ こだち った木立の間には月影も洩れ届かず、文目もわからぬ闇の ていたのを、その御方が今は、誰ひとりとしてお参りする 中で心憂く、眠るともなくうとうとしていると、まさしく、 者もなく、ただ山鹿の通う足跡のみがわずかに残る、こん えんい おどろ おかくれ 。「至「円位、円位」とわが名を呼ぶ声がする。目を開いて透か な深山の草藪の下に崩御になっていられるとは いぎよう ごう すくせ 尊の帝王という身でいられても、宿世の業というものが恐し見ると、背の高く、瘠せきった異形の人が、顔かたちゃ ざいごう のか ろしいまでに付きまとって、罪業からお遁れにはならなか着衣の色相、柄もしかとは見えず、こちらを向いて立って さだめ いる。もちろん西行は悟道の僧であったから、恐ろしいな ったのだな」と、人の世の宿命のはかなさが身にしみるに あふ つけ、涙がわき溢れて止らない。せめて今宵は夜通し供養どとは思わず、「ここへ来たのはどなたか」と答える。そ の人はロをきった。「詠じてくれた歌の返歌をしようと姿 申し上げようと、御墓の前の平らな石の上に坐って、おも を現したのである」と、 むろに読経しながら、また一首の歌を詠み上げた。 松山の浪にながれてこし船のやがてむなしくなりにけ 松山の浪のけしきはかはらじをかたなく君はなりまさ るかな りけり ただよ ( 松山に寄せては返す波、その波に漂い流された舟のように、 ( 古歌の松山の波は今も変らず、寄せては返しているのに、 かたかた ついに都へ帰ることなく、わが身はこの地に朽ち果ててしま いつまでもお変りないと思われた君は、今は潟 ( 形 ) もなく、 ったのだ ) 亡くなられてしまった ) えこう と歌い上げ、「よくここまで参ってくれた」と言うのを聞 なお、心をこめて回向を続ける。涙と夜露で、その袖はど そん から ごどう や やみ す
げぎゃう こよひふせずいえん えこう ことのうらやましく侍りてこそ、今夜の法施に随縁したてまつるを、現形し給一ここでは読経による回向。 五 ニ仏縁につながること。 きやくしゃうそくまう かな ぶつくわ ふはありがたくも悲しき御こころにし侍り。ひたぶるに隔生即忘して、仏果三成仏せず、この世に出現する。 五ロ 四現世への妄執を断っこと。 こころ んまんくらゐのな 五円満十分に成仏すること。 物円満の位に昇らせ給へ」と、情をつくして諫奉る。 ちん 六「朕」は天子の自称 ちかごろよ みだれわが わざ なんち 新院呵々と笑はせ給ひ、「汝しらず、近来の世の乱は朕なす事なり。生てあ七この世に祟りをなす悪魔の世 界。中世では天狗道とも。 ししなてう へいちみだれおこ まだう しんをい りし日より魔道にこころざしをかたふけて、平治の乱を発さしめ、死て猶、朝八平治元年 ( 二発 ) 、藤原信西、 九 平清盛らに対し、藤原信頼、源義 さいぎゃう たたり あめしたたいらんしゃう 家に祟をなす。見よみよ、やがて天が下に大乱を生ぜしめん」といふ。西行此朝らが起した戦い。内裏も戦場と なった。「朝家」は、国家。 みことのり の詔に涙をとどめて、「こは浅ましき御こころばへをうけ給はるものかな。君九寿、水・治承の乱をさす。 一 0 徳を以て国を治める君王の道。 わうだう そうめい はもとよりも聡明の聞えましませば、王道のことわりはあきらめさせ給ふ。こ儒教思想に基づく政治道徳。 = 保元元年 ( 二業 ) 、崇徳院が後 たか うげんごむんあめかみをしへ たづまう ころみに討ね請すべし。そも保元の御謀叛は天の神の教給ふことわりにも違は白河天皇に叛いて起した戦い。 0 一ニ皇室の祖神 たばかり つばらのら たくら じとておぼし立たせ給ふか。又みづからの人欲より計策給ふか。詳に告せ給一 = 私欲。「計策」は、企むこと。 高王道の内容としての人倫の道。 まう 一五ここでは天皇。 へ」と奏す。 一六「天の命」は、民衆の望むとこ きはみ にんだう ゐんみ 其の時院の御けしきかはらせ給ひ、「汝聞け。帝位は人の極なり。若し人道ろの目に見えない「天」の意志。 毛、水治元年 ( 二四一 ) 。崇徳帝一一十 をか そもそもえいち たみのぞみしたが みだとき 一六めいおう 三歳で退位。「父帝」は鳥羽院。 上より乱す則は、天の命に応じ、民の望に順うて是を伐つ。抑永治の昔、犯 0 一ハ近衛天皇。十七歳で崩御 としひとよ ちちみかどみことかしこ ゅづ にんよくふか せる罪もなきに、父帝の命を恐みて、三歳の體仁に代を禅りし心、人欲深きと一九鳥羽院の皇后。近衛帝母。名 ( 現代語訳一四〇謇 ) めみ からから み いさめ にんよく ていゐ う いき てんぐ 0
一 ( 野蛮な ) 異国の風習。 しもあなれど、是は浅ましき夷心にて、主のかたり給ふとは異なり。 ニ仏教でいう前世からの約束事。 くわこ いんえん さるにてもかの僧の鬼になりつるこそ、過去の因縁にてぞあらめ。そも平生三行いや徳義。 ロ 四「あはれ」は感嘆の語。 まごころっく ぎゃうとく わらは 物の行徳のかしこかりしは、仏につかふる事に志誠を尽せしなれば、其の童児を五仏道の妨げとなる煩悩・欲念 月 の暗い世界を「無明」といい、その めいろ 雨やしなはざらましかば、あはれよき法師なるべきものを。一たび愛欲の迷路に悪業に苦しむことを、地獄の猛火 にたとえて「業火」といった。 むみやうどふくわさかん 人りて、無明の業火の熾なるより鬼と化したるも、ひとへに直くたくましき性六火と燃えさかる愛欲によって、 僧が鬼になってしまったのも。 をさ ときぶつくわ 宅善悪さえ超えた、まっすぐで のなす所なるぞかし。『心放せば妖策となり、収むる則は仏果を得る』とは、 一途な強い気性。秋成が高く評価 けうげ らうなふ 此の法師がためしなりける。老衲もしこの鬼を教化して本源の心にかへらしめした古代的性格 八心を解き放てば。 あるじむく おこ なば、こよひの饗の報ひともなりなんかし」と、たふときこころざしを発し給九引きしめ正すならば。「心を さむれば誰も仏心也。放てば妖 あるじかうべたたみすり ふ。荘主頭を畳に摺て、「御僧この事をなし給はば、此の国の人は浄土にうま策」 ( 春雨・樊喰 ) 。出典未詳。 一 0 僧の自称。「衲」は、ぼろ衣。 れ出でたるがごとし」と、涙を流してよろこびけり。山里のやどり貝鐘も聞え = ご供応のお返しにもなること 1 三ロ でしよう。「かし」は強意の終助司 すきもり 一ニ寺で鳴るはずの勤行の音。 ず、廿日あまりの月も出でて、古戸の間に漏たるに、夜の深きをもしりて、 一三二十日過ぎの月。月の出が遅 ふしど 「いざ休ませ給へ」とておのれも臥戸に人りぬ。 快庵が阿闍梨を「直くたくまし こけむし ろうもんうばら きゃうかく 山院人とどまらねば、楼門は荊棘おひかかり、経閣もむなしく苔蒸ぬ。蜘網き性」とみている点に注意したい。 かだま 一九 この鬼は女のような「慳しき性 . 」ゅ ばくらくそごま つな はうちゃうらうばう をむすびて諸仏を繋ぎ、燕子の糞護摩の床をうづみ、方丈廊房すべて物すざまえの鬼ではないのである。 118 八ゆる えびす えうま あるじ こと あいよく めひがね 一七 くもあみ さか