そそ きて物いひたげなれど、声さへなさでぞある。水灌ぎなどすれど、つひに死け火を吹き安珍は焼死。その連想か = 大蛇は毒気を吐くと信じられ なきまど たましひ あしきいき ていた。「蛇の毒気」 ( 仁徳紀 ) 。 る。これを見る人いよよ魂も身に添はぬ思ひして泣惑ふ。 一ニ魂も宙に飛ぶ思いで。 をさ ん しふ 豊雄すこし心を収めて、「かく験なる法師だも祈り得ず。執ねく我を纏ふも一 = 自分が生きている限りは。 一四不実なことだ。 あめっち のから、天地のあひだにあらんかぎりは探し得られなん。おのが命ひとつに幸「今は人をもかたらはじ」と決意 し、「おのが命ひとっ捨てて人を まめ 人々を苦しむるは実ならず。今は人をもかたらはじ。やすくおぼせ」とて閨房助けようとした時、豊雄は今まで 0 と違った人間になっている にゆくを、庄司の人々「こは物に狂ひ給ふか」といへど、更に聞かず顔にかし一五先の鞍馬寺の僧の時と対比し ている。 一五さわ おと こにゆく。戸を静かに明くれば、物の騒がしき音もなくて、此の二人ぞむかひ一六姿は富子。声は真女児。 宅ひたすらで変らぬ愛情 とら あた とみこ 穴浮気な心。 ゐたる。富子、豊雄にむかひて、「君何の讐に我を捉へんとて人をかたらひ給 一九「けさう」は懸想。媚を作って さと あた むく ニ 0 「人ニ虎ヲ害スル心無クトモ、 ふ。此の後も仇をもて報ひ給はば、君が御身のみにあらじ。此の郷の人々をも そこな 虎ニ人ヲ傷フノ心有リ」 ( 白娘子 ) 。 みこころ あだあだ わがみさを 婬すべて苦しきめ見せなん。ひたすら吾貞操をうれしとおぼして、徒々しき御心人間の側に害意がなくても、動物 の の方は本能として人を損う性質を 一九 蛇をなおぼしそ」と、いとけさうじていふぞうたてかりき。豊雄いふは、「世の持つものだ、の意。 ニ一本性が人間ではなく、蛇の心 かへ とらがい ことわざ 之諺にも聞ゆることあり。『人かならず虎を害する心なけれども、虎反りて人を持っところから。 巻 ニニ軽い戯れ言にしてさえ。「も . 」 まと ゃぶこころ は強意の助詞。 を傷る意あり』とや。彌人ならぬ心より、我を纏うて幾度かからきめを見する ニ三「モノノオソロシキト云フコ こと さへあるに、かりそめ言をだにも此の恐しき報ひをなんいふは、いとむくつけコ尸 ( 源語梯 ) 。 なんぢニ一 ニ 0 さが むく まと しに ねや こび 0
たばかり なるかみひび 捕んずるときに鳴神響かせしはまろやが計較つるなり。其の後船もとめて難波一捕えようとした時。「んず、が 推量の働きをする助動詞。 のが 三せうそこ ニたくらみ、だましたのです の方に遁れしかど、御消息しらまほしく、ここの御仏にたのみを懸けつるに、 五ロ五 三豊雄のその後の様子。 きロふ。たもし J うれ だいひ 物二本の杉のしるしありて、喜しき瀬にながれあふことは、ひとへに大悲の御徳 0 初瀬 ( 長谷 ) 寺の御仏。 ふたもと 月 五「初瀬川古川の辺に二本ある くさぐさかんだから 」、つま 雨 かうむりたてまつりしぞかし。種々の神宝は何とて女の盗み出すべき。前の夫杉年を経てまたも逢ひ見む二本 ある杉」 ( 古今・巻十九 ) の歌のよう の良らぬ心にてこそあれ。よくよくおぼしわけて、思ふ心の露ばかりをもうけに、もう一度逢いたいという願い の叶うしるしがあって、の意。 あるうたが 六うれしいことにこの川瀬で再 させ給ヘーとてさめざめと泣く。豊雄或は疑ひ、或は憐みて、かさねていふべ 会できましたのは。「初瀬」「瀬 ことば 「ながれあふ」は縁語。 き詞もなし。金忠夫婦、真女子がことわりの明らかなるに、此の女しきふるま 七長谷観音の。 ひを見て、努疑ふ心もなく、「豊雄のもの語りにては世に恐しき事よと思ひし ^ 私の気持をほんの少しでも。 九こまやかで女らしい。 一 0 ためし 一 0 そんなできごとが起るような に、さる例あるべき世にもあらずかし。はるばると尋ねまどひ給ふ御心ねのい 時世でもないわけだ。 うけがは ひとま むか こころわ とほしきに、豊雄肯ずとも我々とどめまゐらせん」とて、一間なる所に迎へ = 「心根」で、お気持、の意。 一ニお引き止めしますよ。 なげ ける。ここに一日二日を過すままに、金忠夫婦が心をとりて、ひたすら歎きた一 = 豊雄と真女児の婚社 一四「千とせ」は幾久しい未来 ことぶき かつらぎ 一五奈良県南西部の葛城連山。高 のみける。其の志の篤きに愛て、豊雄をすすめてつひに婚儀をとりむすぶ。豊 間山はその最高峰。「葛城や高間 かたち めぞ 雄も日々に心とけて、もとより容姿のよろしきを愛よろこび、千とせをかけての山にゐる雲のよそにもしるきタ 立の空」 ( 新拾遺・巻一一 l) 。 よひょひ めづらきたかま をさ 契るには、葛城や高間の山に夜々ごとにたっ雲も、初瀬の寺の暁の鐘に雨収ま一六夜ごとわき立っ雲。男女の交 8 とら ゅめ あ まなご めぞ みとけ はっせ あはれ 一四 一七 九 をんな なには 0
きこり じゅそ るいは木憔の作った椎の柴を覆って雨露をしのぎ、ついに 対する呪詛のお心からでは』と上奏したことから、そのま かんあく 捕えられてこの地に流刑になるまで、すべて奸悪な義朝の ま送り返されたのこそ、恨めしいことであったぞ。 たた 昔から、日本でも唐土でも、帝位を争って兄弟が敵対し策略に苦しめられたのだ。この報復として、祟って義朝を ころう た例は珍しくもないが、このたびの朕が立場は罪深いこと虎狼の心の人に転じ、信頼の隠謀に盟約させた結果、国津 ざんげ であったと思ったからこそ、悪心懺悔のためにと写した御神に背いた罪により、さほど武勇にすぐれてもいない清盛 そむ 経であるのに、いかに妨げる者がいようと、議親の令に背に破れたのである。その上、子として父の為義を殺した報 いによって、譜代の家臣にだまし討ちに討たれたのは、天 いてまで、筆の跡すら都の内へ人れられぬ後白河帝の御心 えいごう こそ、今は永劫の憎しみではあるぞ。この上はいっそこの津神の祟りを受けたのであるぞよ。 い また少納言信西は、常に学者ぶり、人を容れないねじけ 経を魔道に捧げ、わが恨みを晴さんと、ただ一筋に思い定 心であった。その心を誘い募らせて、信頼・義朝の仇敵に めて、指先をみ切り血で願文を書き記し、御経もろとも に志度の海中に沈めてしまった後は、人にも逢わず深く閉してやったから、彼はついに家を捨て宇治山中に穴を掘っ て隠れたけれど、結局探し出されて六条河原に首をさらし じ籠って、ひたすら魔王となる大願を誓っていたが、果し へつらいごと わ しゆったい たのだ。これは朕が写経を突き返した諛言の罪を裁いたの てあの平治の戦乱が出来したのであった。 おうう のぶより まず、信頼の高位高官を望む増長心を誘って義朝と謀叛である。その余勢をかって応保元年の夏には美福門院の命 われ 峯を密約させた。この義朝こそ憎い仇敵であったぞ。父の為を縮め、長寛一一年の春には忠通に祟って殺し、朕もその年 いきどお の秋には世を去ったが、死後もなお、憤りの火が盛んに燃 義をはじめ、兄弟の武将たちは、いずれも朕がために命を ためとも えて消えぬままに、ついに大魔王となって三百余類を配下 之捨てたのに、彼一人だけが自分に矢を向けおった。為朝の わけんぞく ただまさ 巻 とする首領となったのである。朕が眷属のなすところは、 猛戦、為義・忠政の戦略、指図によって、勝ち目が見えて わざわい いたのに、西南の風に乗じて焼き討ちされ、白河の宮を遁人の幸運を見てはこれを災厄に転じ、世の太平を見ては、 によいたけ そこに戦乱を起させることだ。ただ清盛だけは人果に恵ま れ出てから、如意が嶽の険しい山路に足は傷つけられ、あ わ よしとも ため のが がみ つがみ さいわい しい つの くにつ あま
ワ】 五ロ 号ロ 物 月 雨 うらわ なげ あはれためし て、此の浦回の波に身を投しことを、世の哀なる例とて、いにしへの人は歌に一人江。 ニ宮木。下の「をさなき」は、た おきなをさな もよみ給ひてかたり伝へしを、翁が稚かりしときに、母のおもしろく話り給ふ だ幼稚なという噫味ではなく、け がれを知らず初心で純粋な、とい なき う意味がこめられており、作者が をさへいと哀れなることに聞きしを、此の亡人の心は昔の手児女がをさなき心 かなり重視した心情。 に幾らをかまさりて悲しかりけん」と、かたるかたる涙さしぐみてとどめかぬ = 動詞を重ねて副詞的に用い、 動作の進行を表す秋成の語法。 るぞ、老は物えこらへぬなりけり。勝四郎が悲しみはいふべくもなし。此の物四「老いは涙をえこそとどめね」 ( 新古今・巻九 ) 。 ゐなかびとくちにぶ 五思いあまった胸の内を。 がたりを聞きて、おもふあまりを田舎人のロ鈍くもよみける。 六「田舎人のロ鈍く語り出せる てごな しイしげやわ は」 ( 繁野話五 ) 。「ロ鈍くも」はロ いにしへの真間の手児奈をかくばかり恋ひてしあらん真間のてごなを 下手ながらも。 思ふ心のはしばかりをもえいはぬぞ、よくいふ人の心にもまさりてあはれなり七出典不詳。「葛飾の真間の手 児名をまことかも我に寄すとふ真 った 間の手児名を」 ( 万葉・巻十四 ) をモ とやいはん。かの国にしばしばかよふ商人の聞き伝へてかたりけるなりき。 デルにしたか。 八片端。一端。 九「夢応」は、夢の中で感応する、 の意。 一 0 醍醐天皇の代。九二三、九三 一年。 = 大津市にある天台宗寺門派総 おんしようじ 本山園城寺。琵琶湖を眺める絶好 ゑたくみ えちゃう むかし延長の頃、三井寺に興義といふ僧ありけり。絵に巧なるをもて名を世の高台に位置している。 ( 現代語訳一六二謇 ) 四 心、う の 鯉り ツー、、よ 五 みゐぞらこうぎ あきびと てごな かた
を病んでいる ) 、この時期、学問の研鑽につとめ、多くの著作を残している。この時期の著作としては、『よ ならそま かんじぞくちょうこがねいさごっづらぶみ れいごっう せいふうさげん しゃあしゃ』『霊語通』『清風瑣言』『楢の杣』『冠辞続貂』『金砂』『藤簍冊子』や『落久保物語』『大和物語』 の校刊があるが、最も力を人れたものは『万葉集』の研究であった。 きごう 最晩年の生活は悲惨で、揮毫類 ( 書画 ) を金にかえながら知友の間を転々、また神授の年 ( 六十八歳 ) を過 おのれ ぎても死ねない己をしきりに嘆いている。寛政の頃から書き集められていた『春雨物語』 ( 文化五年成 ) は、そ かったっ うした孤独の境涯のうちから生れた創作集であったが、ふしぎに自由で豊かな境地と、豁達な明るさが現れ ており、その人間認識の次元の高さは、近代に人って高く評価されている。歌はこだわらない自由な作風を おのれ 示しており、『藤簍冊子』『毎月集』に収められている。そのほか、痛烈な批評のうちに己を包まずに示した かきぞめきげんかい くせものがたり たんだいしようしんろく ロ語体の随筆集『胆大小心録』、初期の浮世草子の系列につながる諷刺小説『書初機嫌海』『剃癖談』がある。 けんかいしようちよく むらせこうてい 秋成の人柄を伝えるものとして村瀬栲亭の「狷介峭直」の語が有名であり、また秋成自身、おのれを外 ないじゅうまなこ かに なお 剛にして内柔、眼ばかり高く、横行をもって直しとなす蟹にたとえたりなどしているが ( 異本胆大小心録 ) 、 おざわろあん 秋成その人は、きびしくとも心温く、まっすぐな人であった。そうした人柄を愛した親友に歌人の小沢蘆庵 がいた。秋成はすすめられてもついに弟子をとらなかった ( 胆大小心録 ) 。「まめ心」を誤っまいとする信念 ひやくまんべん 説がそうさせたのである。没年七十六歳、文化六年 ( 一〈 0 〈 ) 六月二十七日、京都百万遍の羽倉信美邸で没して ( 中村博保 ) いる。墓は遺言どおり、南禅寺山内西福寺の内庭に今もある。 解 ニ雨月物語 ごう がい
一七 「一人上りて、御わび申して来たらん。とて出づる。はやくかへりて、何の事これも兄の人柄をよく写す。 一四「伴ふーに当てた。 きもふと もなかりし。「銭たまひしは、彼の御前に奉りて、よく拝みて、さて其の夜の一 = 胆太 ( 大胆 ) の意。 ↓二五五ハー注一四。 みの笠の木陰にありしを取りかへりしーと云ふ。母、「猶つよき事して、又御一七さっさと帰ってきて。 入神にさらわれた夜。 ニ 0 一九きついこと。 罰かうむるな。引きさきすて給ふとて、人は云ふよ。事無くてかへし給ふは」 ニ 0 よく無事にお返し下されたも のじゃ。「は」は詠嘆を示す終助詞。 とて、物くはせてよろこぶ。 しり ニ一「後」。指示にしたがって。 にな 一三機嫌をとる。 こののちは心あらたまりて、兄がしりに立ちて、木こり、柴荷ひかへりて、 ニ四 ニ三桜山本「兄は小男にて、かづ ぜにさは 親の心をとるほどに、大力なれば兄とは刈りまさり、銭多にかふるを、母と嫁きし薪柴いさ、か也」。 品「多数を佐波と云」 ( 金砂八 ) 。 ニ五ほめ言葉をいって。 とはほめごとして喜ぶ。年も暮れぬ。いつの年よりは、大蔵がかせぎするに、 ニ六一貫は銭千枚。三二一謇に小 銭三十貫文を積みて、「此のとしよし」と、父も兄も心よくいふに、母とよめ判一両を「米は一石、銭ならば七 貫文」とあり、四両余となる。 とは、「まことに」とて、大蔵に布子ひとへ新しくてうじて着す。年かへりて毛木綿の綿人れ。「てふ」は「調」。 穴年が初めに返って。新春。 ばくち ニ九 上春ののどかなるに、又いつもの宿に遊びて、博奕はじめ、負けたりしかば、銭一五前出の博奕宿。新春の祝い気 分のまま、ついまた遊び心が起き 三 0 たことを示す。 こはれて、さすがに心おくれたれば、ひと夜ふたよはえゆかず、母にいふ。 三 0 「心後る」。気持がひるんで。 三一正月の初詣で。大蔵の虚言。 「春の御ゐやまひに山にのぼらん。友だちが詣づるに」といひて、銭こふ。 三ニ午後四時頃を過ぎて、日が傾 さる いたならば。 「はやくかへれ。申かたぶかばおそろし」とて蔵にゆく。あとにつきて、「いく おく
みこころ 一底本「人さき」。「いりさき」は、 ちち母のまへにて、人りさきよからんぞ、せめてねがふなり。せうとの御心た ものの初めの意か。大系本は「人 おせ るさ ( 人る体 ) 清からんぞ」。ここ のもしくはからひてたべ」と申す。元すけいふ。「何事も仰のままにとりおこ こしい 五ロ は輿人れの形を整える意ととる。 ニ「賜ぶ」の命令形。ください。 物なふべし。御宿の事よくして待ちたまへ」とて、よろこび顔なり。母も「いっ 五 雨 三「負はす」 ( 命ずるの意 ) から出 ころかどぞ かな た語。おっしやるとおりに。 春の比、門出ぞと、待ち久しかりしを、あすとききて心おちゐたる哉」とて、是 四受け人れの用意を整えて。 もよろこびの立ちまひして、茶たき酒あたためてまゐらす。盃とりてむねにさ五輿人れに生家を出ること。 六心が落ちつきました。 す。いとうれしげにて、三々九度のことぶき、もと輔うたふ。その夜の鐘きき七「立ち振舞う」の意。うきうき と、喜びを行動にあらわして。 て、「れいの門、立てこめられんよ」とて、五蔵はいぬ。おや子三人、こよひ八夫婦の固めの盃の婚儀。 九祝いのための「高砂」の謡。 一 0 元助。以下同じ。 の月のひかりに、何事をもかたりあかす。 一一五つ ( 午後八時 ) の時鐘。 をぐし 一ニいつものように、門をとざさ 夜明けぬれば、母しろ小袖とう出て打ちきせ、髪のみだれ小櫛かきいれて、 れてしまう。「いぬ」は「往ぬ」。 一三悲劇を明日にした一家の、一 「我もわかきむかしのうれしさ、露わすられずぞある。かしこにまゐりては、 時のしあわせを描く。『ますらを ただ、父のおにおにしきをよくみ心とれ。母君は必ずよ、いとほしみたまひて物語』には、死を決意した眠られ ぬ一夜が名文で記されている。 よろづ 一七 んーとて、よそほひとりつくろひて、駕にのるまで万をしへきこゅ。元輔麻が高礼服の下に着る白無地の衣服。 一五西荘文庫本「御心」。情のこわ 一八 一九 みしも正しくて、刀わきざし横たへ、「又五日といふ日にはかへりこんを、あい父親の機嫌をとれの意。 ニ 0 実可愛がってくださるであろう。 こと まりに言長し」とて、母をせいしかねたり。むすめただゑみさかえて、「やが宅江戸時代の礼服。威儀を正し。 270 四 おんやど かど っゅ かご
一 ( 野蛮な ) 異国の風習。 しもあなれど、是は浅ましき夷心にて、主のかたり給ふとは異なり。 ニ仏教でいう前世からの約束事。 くわこ いんえん さるにてもかの僧の鬼になりつるこそ、過去の因縁にてぞあらめ。そも平生三行いや徳義。 ロ 四「あはれ」は感嘆の語。 まごころっく ぎゃうとく わらは 物の行徳のかしこかりしは、仏につかふる事に志誠を尽せしなれば、其の童児を五仏道の妨げとなる煩悩・欲念 月 の暗い世界を「無明」といい、その めいろ 雨やしなはざらましかば、あはれよき法師なるべきものを。一たび愛欲の迷路に悪業に苦しむことを、地獄の猛火 にたとえて「業火」といった。 むみやうどふくわさかん 人りて、無明の業火の熾なるより鬼と化したるも、ひとへに直くたくましき性六火と燃えさかる愛欲によって、 僧が鬼になってしまったのも。 をさ ときぶつくわ 宅善悪さえ超えた、まっすぐで のなす所なるぞかし。『心放せば妖策となり、収むる則は仏果を得る』とは、 一途な強い気性。秋成が高く評価 けうげ らうなふ 此の法師がためしなりける。老衲もしこの鬼を教化して本源の心にかへらしめした古代的性格 八心を解き放てば。 あるじむく おこ なば、こよひの饗の報ひともなりなんかし」と、たふときこころざしを発し給九引きしめ正すならば。「心を さむれば誰も仏心也。放てば妖 あるじかうべたたみすり ふ。荘主頭を畳に摺て、「御僧この事をなし給はば、此の国の人は浄土にうま策」 ( 春雨・樊喰 ) 。出典未詳。 一 0 僧の自称。「衲」は、ぼろ衣。 れ出でたるがごとし」と、涙を流してよろこびけり。山里のやどり貝鐘も聞え = ご供応のお返しにもなること 1 三ロ でしよう。「かし」は強意の終助司 すきもり 一ニ寺で鳴るはずの勤行の音。 ず、廿日あまりの月も出でて、古戸の間に漏たるに、夜の深きをもしりて、 一三二十日過ぎの月。月の出が遅 ふしど 「いざ休ませ給へ」とておのれも臥戸に人りぬ。 快庵が阿闍梨を「直くたくまし こけむし ろうもんうばら きゃうかく 山院人とどまらねば、楼門は荊棘おひかかり、経閣もむなしく苔蒸ぬ。蜘網き性」とみている点に注意したい。 かだま 一九 この鬼は女のような「慳しき性 . 」ゅ ばくらくそごま つな はうちゃうらうばう をむすびて諸仏を繋ぎ、燕子の糞護摩の床をうづみ、方丈廊房すべて物すざまえの鬼ではないのである。 118 八ゆる えびす えうま あるじ こと あいよく めひがね 一七 くもあみ さか
五ロ 一三ロ うけ ささべ 一御当地へ行きます。 のぼらんことを頼みしに、雀部いとやすく肯がひて、「いつの比はまかるべし」 ニ前出の足利染の絹織物。全財 かねかへき と聞えける。他がたのもしきをよろこびて、残る田をも販つくして金に代、絹産を絹の交易に賭けたのである。 三準備をととのえた。 四「宮木」という名には二つの根 素あまた買積て、京にゆく日をもよほしける。 拠がある。一つは原拠「愛卿伝」 かたち おろか めみやぎ おとぎなうこ 勝四郎が妻宮木なるものは、人の目とむるばかりの容に、心ばへも愚ならず ( 剪灯新話 ) の翻訳 ( 伽婢子・藤井清 みやぎの めと 六遊女宮城野を娶る事 ) の人名で ことば あきものかひみやこ ありけり。此の度勝四郎が商物買て京にゆくといふをうたてきことに思ひ、言あり、今一つは秋成がよく知って いる、加島稲荷付辺の遊女宮木塚 つね をつくして諫むれども、常の心のはやりたるにせんかたなく、梓弓末のたづきの伝説の女性であった。 五困ったこと。 こし わか 六「末」の枕詞。 の心ぼそきにも、かひがひしく調らへて、其の夜はさりがたき別れをかたり、 セ生計。 まど 八夫にとり残され、頼りない女 「かくてはたのみなき女心の、野にも山にも惑ふばかり、物うきかぎりに侍り。 の気持をいう。 あす あした はや 朝にタベにわすれ給はで、速く帰り給へ。命だにとは思ふものの、明をたのま九命さえあれば。再会の可能を いう。「命だに心にかなふものな うきぎ たけみこころ れぬ世のことわりは、武き御心にもあはれみ給ヘーといふに、「いかで浮木にらば何か別れのかなしからまし」 ( 古今・巻八 ) 。 ながゐ くず いかだ 乗っもしらぬ国に長居せん。葛のうら葉のかへるは此の秋なるべし。心づよく一 0 「浮木」は筏、舟などをさす。 不安定な流浪のたとえで、「いく あづま みやこ 待ち給へ」といひなぐさめて、夜も明けぬるに、鳥が啼く東を立ち出でて京のか ( りゆきかふ秋をすぐしつつう き木にのりてわれかへるらん」 ( 源 氏・松風 ) による。 方へ急ぎけり。 = 「かへる」の序詞。ただし「か みたちひやうくわ カまくらごしよしげうぢあそんくわんれいう、すぎおんなかさけ ことしきゃうとく 此年享徳の夏、鎌倉の御所成氏朝臣、管領の上杉と御中放て、館、兵火に跡 ( る」は「帰る」の裏にる」 ( 約束 のり かひつみ いさ かれ のこ うり あづさゆみす七 ころ一
をづな 「苧」は麻の異称。麻縄 云ふ。はん噌「そのあたりに縄などはなきや」といふ。見れば、苧綱の太きを一 ニ「束ね 」。くくり束ねて 三立てかけ。底本「衝立」と傍書。 つかね置きたり。「是あり」と云ふ。「それをおのれ等が中に一人、よくおのが ロ 四底本「心いる」に「焦」を傍書。 きロ こころいらる 心いらだっさま。通常は「心苛」。 物身をくくりからめて、物よりはひのぼれ」とぞ。小猿、おのが身によくからみ 「心人る」 ( 一所懸命になる ) の意に 春つけて、月夜にはし子を二かいへ引き上げさせ、是も壁についたて、はひのぼもとれるが、文意から推して前者。 五千両箱二つ。 る。「今すこし也」とて心いるを、又錫杖をさしのべて引き上げたり。「此の綱六縄や竿の先につけて井戸水を おけ 汲み上げる桶。「に」は「にて」の意。 をたよりにくくり上げよ」とて、月夜にいふ。「こころえし」とて、箱二つを七待ち構えていて。 八「焦りてや」。気がせくのか よくからめて、「いざ」といふ。はん噌つるべに水くむが如く、いと安げに引樊噌の性格と行動力を描く。 九『水滸伝』第七回、魯智深が張 三・李四を懲らしめる条に「只叫 き上げたり。明けて見るに、二つに二千両納めたり。月夜も又一ッ上げて、こ これ プ師父ハ是凡人ニ非ズ」。菜園の のたびは綱にからめて、蔵より釣りおろす。むら雲をりあひて、取りおろす。無頼達が心服する一条に照応する。 一 0 修業を重ねた人のようだ。 さて、二人の者らを、又廊のやねにわたし、我は気をいりてや、蔵のやねより = 文章が切れる。三人が樊喰を ほめたことを示す叙述を省略。 にな 飛びたり。いささかも疵つかで、金箱荷はせて、石垣の穴より、四人がはひ出一 = 命を助けられた時の弁当をさ おいはぎ す。追剥を働いた時、自ら行動し でて云ふ。「はん唸の御はたらき、いく度も修し得たるに似たり」とて。このなかった村雲も、樊は気にくわ ない。 箱の金とり出でて、村雲に云ふ。「ひや飯くはせ、金百両あたへし恩を、いか一 = この金の配分、奪った金箱三 つで三千両とすると勘定が合わな ひやめしあたひ い。村雲には、分け前五百両のほ めしく『命得させし』といふよ。百両はもとより、冷飯の価ともに千両とれ。 330 四 五