聞え - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語
201件見つかりました。

1. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

えんしゅう れば、秋成は小堀遠州の血筋を享けるというドラマを隠して生れていたことになる。近時長島弘明氏が現地 を再調査した結果、母は実は庄屋ではなく、近村樋野村の旧家、松尾家の娘であったことが明らかにされ、 五ロ 二 = ロ 高田氏の推定は修正されることになったが、秋成の父親が政報であった可能性もなくなったわけではなく、 物 雨新しい資料が現れない限り何ともいえないというのが実情である。また秋成が実母の手を離れた事情も現在 五ロ のところ分っていない。 一口 どうじまえら かみあぶらしまや 物 数え年四歳の時、大阪堂島永来町の富裕な紙油商嶋屋上田茂助の養子としてひきとられ、一転し 月 雨幼時の傷痕 て幸せな環境で育てられることになった。生来虚弱な性質であったらしいが、五歳の時、悪性の いなり とうそう かぐわし 痘瘡にかかり、一命を危ぶまれた。この時、養父が加島稲荷 ( 香具波志神社 ) に参籠、必死に祈願したとこ とうげ ろ、死を免じ、六十八歳の寿命を与えるという夢のお告げがあって、病は峠をこえたということがあった。 後年の無 しかしこの病のために、右の中指と左の第二指が短折するという不幸を刻印されることになった。 , 腸の号は、おのれの障害を蟹にかたどったものである。 こうした肉体に刻まれた傷痕と、母に捨てられた孤児としての精神的な傷痕の二つが、秋成の自己形成に 影を落していたことは否定できない。幼少期に不安を経験したものは、生涯、自己表現 ( 確認 ) の不安定な 衝動に動かされつづけるといわれている。秋成の場合にも、こうした幼児期の不安の原体験が、創作におの れをかけた生涯はもちろんのこと、自己に安定を許さなかったその生き方や、はげしく屈折する性格の形成 にかかわりをもっていたことは推測にかたくない。あるいは更に、肉体の負い目がもたらした内心の葛藤と 現実の拒否、孤児としてのもう一つの現実に対する潜在的な願望が、秋成の魂に亀裂を刻みこんでいたこと も十分に想像できることであった。 かに しようこん

2. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

そうとう 密教を改宗して、曹洞宗の霊場をお開きになったのである。 部分に水気を含んで苔むしている。さて、かの法師を坐ら だいちゅうじ せた、簀子縁のあたりを探してみると、うすぼんやりした現在でもなお、この大中寺は尊く栄えているということで ある。 影のような人が、僧とも俗人とも判別できぬほど髭も髪も すすき ぼうぼうに乱れて、雑草がからみ合い、薄が一面に倒れて ひんふくろん いる中にいて、蚊の鳴くようなか細い声で、物を言ってい 貧福論 るとも聞えないが、よほど間を置いてはぼつりぼつりと言 っているのを、耳を澄まして聞くと、 おかさない むつのくにかもううじさと 「江月照らし松風吹く永夜清宵何の所為ぞ」 陸奥国、蒲生氏郷家に仕える、岡左内という武士がいた。 んじよう 襌師はこれと見てとられ、即座に褝杖を取り直し、「如何高禄を得て、武勇の誉れ高く、「ますらお」の名は東国一 かたよ につ。何の所為かっ」と喝を与え、法師の頭を撃たれると、 帯に高かった。この仁は一つだけ、ひどく偏った性癖があ ふうき その一瞬に、法師のおぼろな姿は、氷が朝日に会うように った。一般の武士とは異なって富貴を望む心が強かったの である。そして倹約を本旨として家を取り締ってきたので、 消え失せてしまい、あの青頭巾と白い骨だけが草葉の中に 落ちとどまっていた。まことに長い間の執念が、やっとこ長年の間には、かなりの富を積んだ。また、士卒を調練す こで消え尽したのであろう。ここには尊い仏の道の理法が る合間に、茶の湯・香道をたしなむというのではなく、一 こがね 室に籠り、たくさんの金貨を敷き並べては、それを楽しみ 犠あるにちがいない。 貧 そうした訳で、快庵禅師の高徳は、遠く雲のかなた、海とすること、世間の人が月や花に遊楽する以上であった。 だるまだいし 之の向こうにも聞えわたり、「達磨大師がまだ死去なされず人は皆、そのような左内の振舞いを奇怪がって、吝嗇で卑 つまはじ 巻 生きていられるようだ」と賞讃されたということである。 しい根性の人だと爪弾きして憎んだ。 長くこの家に奉公した下男に、金貨一枚をひそかに隠し こうして、村里の人々が集り、寺域を清め、修理をし、禅 もと 師を開祖として推し戴いてここに住わせたから、旧の真言持った者がいるのを聞き知って、近くへ呼び寄せて言った。 いただ かっ ひげ いか ひと こがね

3. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

るのだった。どうしたらいいであろう、元気だといっても、 心細く思っていた。 さすがにこの老いた身で、険しい山道を踏み分けて来た上 このあたりは山頂部を、五十町四方に切り開いて、見苦 に、このような事情を聞いて、夢然はがつくりと気落ちし しい林なども見えず、小石一つさえも掃い清めた聖域では 五ロ 二 = ロ 物てしまった。 あるが、さすがにここは寺院から遠く離れており、僧の祈 どきようだらに しやく 月 作之治が言うには、「こうして日が暮れてしまい、足も念する読経陀羅尼の声や、鈴や錫を振る音は聞えない。杉 雨 そび 疲れ痛みます以上、どうして長い道のりを麓まで下りられ の木立は雲を凌ぐまでに聳え茂り、道を区切って流れる川 す ましよう。ここで夜を明かすほかはありませんが、若い私 のせせらぎが細々と清みきって物悲しく聞える。寝られぬ からだ は野宿もいといません。ただ、ご老体の父上のお身体にさ ままに、夢然は作之治に語りかけた。「そもそも弘法大師 どせきそうもく じようぶつ わらないかと、それが案じられます」。夢然は答えて、「い の偉大なる徳化は、土石草木にいたるまで霊を宿して成仏 あ や、かかる難儀に遭うのが、かえって旅の趣というものだ。 し、八百余年後の今日にいたって、ますますあらたかで、 ひろうこんばい 今夜はこうして足を傷つけ、さらに疲労困憊してまで山を ますます尊いのである。遺された業績や巡り歩かれた旧跡 下りたとしても、そこが安息できる故郷というわけではな の多い中で、このお山こそ第一の霊場だ。大師が御在世の もろこし い。それに明日の旅路がまた心配だ。このお山は日本第一 昔、遠く唐土までお渡りになり、その地で何か感動される こうう さんこ ことがあって、『この三鈷が行き着きとどまる所こそ、わ の霊場で、開祖弘法大師の高徳はいくら語っても尽きるも のではない。わざわざやって来てでも、お通夜して後の世が真言宗を発揚し広める神聖な土地である』と言って、遥 のことなどお祈りすべきところであった。ちょうどいい折か空の遠くへ投げられたが、その三鈷ははたしてこのお山 みえいどう にとどまったのである。壇場の御影堂の前にある三鈷の松 だから、霊廟にお参りして夜もすがら供養申し上げよう」 こそ、その三鈷が落ちとどまった所といわれている。その と言って、奥の院まで大杉の立ち並ぶ暗い道を歩き進んで、 そうもくせんせき とうろうどうすのこえん 霊廟の前にある灯籠堂の簀子縁に上り、雨具を敷いて座を 松に限らず、この山の草木、泉石すべてが、霊気をおびて 設け、静かに念仏しながらも夜のふけてゆくのを、さすが いないものはないということだ。今夜、不思議な縁でここ ( 原文六二弩 ) しの はら

4. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

ひとたび うばらおお いられただろうに 一旦、色情愛欲という迷い道に落楼門には生い茂った茨荊が覆いかかり、経閣もいたずらに をんのう こけ ちてしまえば、煩悩の炎が、救いようもなく、強く盛んに 苔むしている。本堂の内はといえば、蜘蛛の巣が張って仏 ごまだん つばめふん 燃え上がり、ついに鬼となってしまったのも、考えてみれ像と仏像の間に網をかけ、護摩壇は真っ白に燕の糞で埋め きロ いちず 物ば、一途に思い込んで、まっすぐ、どこまでも貫き通そう られ、方丈も廊下も物妻いまでに荒れ果てている。日影が かげ しやくじよう 月 とする、その本性のしからしめたことといえよう。『心を翳って西に傾く頃、快庵禅師がこの寺域へはいって錫杖を 雨 解き放てば妖魔になるが、心を引き締め正せば仏果を得る 鳴らし、「諸国遍歴の僧である。一夜の宿を願いたい」と、 ことができる』という言葉があるが、この法師のような例何度も呼びかけたが、うんともすんとも返事がない。その きようげ をいうのである。もし拙僧が、この鬼を教化して、もとも うちにやっと、寝間の方から枯木のように瘠せた法師が、 との善き本心に立ち返らせることができれば、それが今夜よろよろと歩み出て来て、しわがれ声で、「ご僧は、いず もてなし のお供応に対するなによりのお返しになることであろう」 こへ行かんとしてここに参られたか。この寺はちょっと仔 あるじ ねがい け と、崇高な発願を起された。荘主は頭を畳にすりつけ、 細があって、このように荒れ果てており、人も住まぬ野原 「お坊様がこのことを成し遂げてくださるなら、この土地同然であって、一粒の米麦もなければ、一夜お泊めするだ の者にとっては、地獄から浄土に生れ変るに等しい喜びで けの用意もない。早く去って村里に下りられよ」と言った。 みののくにいぞた みちのく あります」と言い、涙を流して喜んだ。山村の一夜は、山 襌師は答えた。「愚僧は、美濃国を出立ち、陸奥へ向っ ふもと 上の寺院がそんな訳なので、貝・鐘の音も聞えない。二十て旅を続ける者ですが、この麓の村里を通り過ぎるうちに、 かたち おもむき 日あまりの下弦の月が出たとみえて、月影が古い雨戸の隙山の霊容、川の清らかな趣に魅せられて、思わずここまで かげ から洩れ込むのを見て、夜のふけたことを知り、「さあおやって来た次第です。もはや日差しも翳って、これから麓 あるじ 休みください」と荘主はすすめ、自分もそこを退いて寝所の里まで下るのもほど遠い。まげて一夜をお借りしたい」。 にはいった。 あるじの法師は言った。「このような野原同然の所は、不 次の日、山上の寺院は誰ひとり住み着いていないから、 吉なことも起りがちなのじゃ。強いてお引き止めする所で 0 や

5. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

この剣、常に腰に着けておけ。守り神ともなるだろう」と 者が住んでいたが、東国の果てのこの地方には、並ぶ者も いただ いって剣を与えた。捨石丸これを押し戴き、「熊や俍など ない財産家であった。父の長者は、財産一切を子の小伝次 とよ のんき に任せ、終日酒を飲んで暢気に暮していた。姉娘に豊とい手捕りにしてくれ申す。鬼でも出て食いついたならば、そ の時は鬼去丸と名づけてくれますわい」といって、自分の う者がいたが、夫に先立たれてひとり暮すうち、親に許さ わき にうえんびくに れて尼となり、豊苑比丘尼と名を改めて仏道の修行に専念左脇に置くと、長者がまた祝いだといって酒をすすめるの で、酌をする童女「もう、升三つにもなります」と笑って していた。母親は既にいなく、この姉娘が家事一切を取り いつく 仕切っていたが、下の者を慈しむ心が深かったので、出人いる。 すずかぜ 「これは良い気分じゃ。野の涼風にでも吹かれようわい」 りの者たちもたいへんありがたく思って仕えていた。 ちどりあし たけ すていしまる と、捨石丸、千鳥足で席を立つ。長者これを見て、「これ 捨石丸と呼ばれる男、身の丈は六尺を越え、肥え太り、 くら 人にすぐれて酒を飲み、ものもよく食った。長者の気に人では与えた剣も失うであろう。帰り着くを見とどけよう」 あしもと と立ち上がったが、これも足許がおぼっかない。小伝次、 られて、酒を飲む時は必ず呼ばれて相手をしていた。ある 時、長者酒興のついでに、「おまえは酒をよく飲むが、酔父を心配して跡についてゆく。果して、捨石丸小さな流れ ひた のある所まで来て打ち倒れ、流れに足を浸したまま、剣は うと、野でも山でも所選ばず寝込むゆえ、石を捨てたよう あだな 頭の近くに打ち捨てて寝込んでしまった。「こんなことだ だという渾名で呼ばれておる。深く眠り込むならば、熊・ つるぎ 俍に食われないとも限らぬ。これなる剣は、五代目の先祖と思ったわい」といって長者が剣を取り上げると、捨石気 はびろ 丸 が力量を自慢して特に刃広に作らせたものじゃ。山野に狩がついて、「いったん与えた物をまた奪うおつもりか」と、 たけ 石 りするを好まれたが、ある時荒熊に出会い、猛り狂う牙む主人であることも忘れてつかみかかった。父は捨石の力に あおむ 捨 はかなわなかったので、剣を持ったまま仰向けに倒れると、 き出して立ち向って来たのを、この剣を抜いて腹を刺し、 四首を切 0 て帰られてから、熊切丸という名で呼ばれてお捨石がその上に馬乗りになる。小伝次遠くからこれを見て、 走り寄って捨石を引き倒し、父を助けようとしたが、カ弱 る。おまえはきっと酔いつぶれて食われてしまうだろう。

6. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

を発揮する心がある で一夜を明かすことも、きっと前世からの善因縁があって 鳥の性、人の心、空を行く雲、流れる水、この山ではすべて のことだ。そなたも若年とはいいながら、決して信心を怠 さと が悟りの境地にある ) ってはならないよ」と、小声で語るのも、夜のしじまに澄 また古歌には次のようなのがある。 み通って心細い感じである。 しづかあけをの 松の尾の峰静なる曙にあふぎて聞けば仏法僧啼く 御廟の後ろの林からと思われるが、「ブツ。ハン、ブツ。ハ あけをの ( 松尾山が静かに明けてゆく曙の中で空を仰いで耳を澄ます ン」と鳴く鳥の声がこだまして近く聞えてきた。夢然は目 と、仏・法・僧と鳴く鳥の声が聞える ) の覚める心地がして言った。「ああ、これは珍しい。あの えんろう さいふく 昔、最福寺の延朗法師がたぐい無い法華経の信仰者であっ 鳴く鳥こそ仏法僧という鳥であろう。以前からこのお山に たので、松の尾の神がそれを賞されてこの仏法僧鳥を、常 住んでいると聞いてはいたが、はっきりとその声を聞いた という人もいないのに、それを聞くことのできた今夜の宿に延朗法師に仕えさせられたという伝説があるので、この めつざいしようんしるし りは、まさしく滅罪生善の吉祥であろうか。仏法僧という神域にも仏法僧が住んでいたことが知られている。奇しく こうずけの 鳥は、神聖で清らかな地を選んで住むということだ。上野も今夜、既にこの鳥の声を聞いた以上、私だとて興趣を感 だいご くにかしよう しもつけのくにふたら 国の迦葉山、下野国の二荒山、京都の醍醐の峰、河内の杵ぜずにはいられないではないか」と言って、いつもたしな なか んでいる俳諧の一句を、しばらく案じた末に詠み上げた。 長山、なかでもこの高野山に住むということは、弘法大師 ね ひみつ 鳥の音も秘密の山の茂みかな 渕の詩偈があって、世間にも知られている。 さんをうのこをいってうにきく かんりんどくざさうだうのあかっき 仏 ( 仏法僧の一声も、真言秘密のこのお山の深い林同様、神秘 寒林独坐草堂暁三宝之声聞 = 一鳥一 せいしんうんすいともにれうれう いってうこ京ありひとこころあり の響きに満ちている ) 一鳥有レ声人有レ心性心雲水倶了々 之 たびすずり 巻 旅硯を取り出して、の光をたよりに書きつけて、鳥の ( 冬の林の中の草堂でひとり座禅を組み暁を迎えた。 声をもう一声聞きたいものだと耳を傾けているうちに、思 仏・法・僧の三宝の声を一羽の鳥に聞いた。 いがけず遠く寺院の方から、先払いの声がいかめしく聞え 一羽の鳥にこの声があり、それを聞く人にはこれに応じ仏心 0 しげ よ

7. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

ふい り筆を取って、今夜の風情を一、二句に考え出し思案して かね いると、虫の音だとばかり聞いていた音が、時々鉦の音に 聞えてくる。そういえばあの音は毎夜聞えていたと今やっ 二世の縁 語 物 と気がついたが、どうも不思議なことだ。庭におり、あち 一雨やましろのくに らこちらをめぐってみると、ここからと思うあたりは、普 山城国の、古歌にうたわれた大槻の木の葉も散り果てて、 山里はひときわ寒く、たいそうもの淋しい。古曾部という段、草も刈ったこともない庭の奥まった所で、そこにある 里に、幾代にもわたって住み着いてきた農家があった。山石の下からと聞き定めた。 わずら 田をたくさん持っていて、その年の出来不出来にも煩わさ 翌朝、下男たちを呼んで、「ここを掘れ」といって掘ら れず豊かに暮していた。主人は普段から学問に熱心で、友せてみた。三尺ほど掘り進んだところで、大きな石に突き ともしび ふた もっくらず、夜遅くまで書斎に灯火をかかげて読書に耽っ 当り、これを掘り起してみると、また、石の蓋をした棺が えたい ていた。母親に、「さあ、やすみなさい。夜中を告げる鐘出てきた。蓋を取らせて中を見ると、何やら得体の知れぬ はとうに鳴りました。夜中過ぎて読書をすると、精神が疲物があって、その物が時々手で鉦を打っとわかった。人ら からざけ れ、しまいには病気をすると父親殿がいわれていたのを覚しいが人のようでもない。乾鮭という魚のようだが、もっ ひざ えています。好きなことは、自分からは思慮が及ばなくな と痩せ乾いている。髪が膝の下まで生い伸びているのを取 るものです」と諫められて、ありがたく、亥の刻 ( 午後十り出させたが、「軽いばかりで、きたないとも思えない」 時頃 ) を過ぎると床につくことを大切な守り事にしていた。 と、下男たちはいっている。こうして掘り出されている間 よいま 雨が降って、宵の間から何の物音もしない。今夜は母の にも、鉦を打つ手だけは同じことを繰り返している。「こ そむ んじよう 諫めにもつい背いてしまい、もう丑の刻 ( 午前二時頃 ) に れは、仏法にいう褝定ということで、来世の仕合せを願っ でもなるであろうか。雨は止み、風も吹かない。月も出た てしたことにちがいない。わが家がここに住むようになっ とみえて窓が明るい。歌の一首もありたいものと、墨をすておよそ十代になるが、それよりも昔のことだろう。魂は ( 原文二五一ハー ) いさ えにし おおっき こそべ や かね こん

8. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

いまし すさま は全く青ざめて、だるそうな目つきの妻じさ、正太郎を指て、重い物忌みに籠らなくてはならぬ。私の戒めを守るな や ら九死に一生を得て生き永らえるかもしれぬ。わずかでも さした手指の青く瘠せ細っている恐ろしさに、「うわっ」 たが 違えると死を免れることはできない」と、厳重に告げ示し、 と叫んで倒れ、気を失ってしまった。 しばらくして息を吹き返し、目を細く開いて見ると、家筆を取って正太郎の背から手足に至るまで隙間なく、古代 さんまいどう と見たのは以前からあった荒野の中の三昧堂で、古びた黒漢字のような文字を書きつけた。更に朱で書いた護符をた くさんくれ、「この護符をすべての戸口に貼り付け、神仏 い仏が立っているだけである。遠く村里の方から聞えてく を念ずるのだ。やりそこなって命を奪られてはならぬぞ」 る大の声をたよりに、家に走り帰って、彦六に事の次第を と教えるのを、正太郎はあらためて恐れおののきつつ、一 これこれと語り伝えると、「なに、たぶん狐にでもだまさ 方ではありがたくも思って家に帰り、さっそく護符を門に れたのだろうよ。気の弱った時は必ず迷わし神が取りつく 貼り、窓に貼り、厳重な物忌みに籠った。 ものよ。あんたのようにひ弱な人が、こうもくよくよと悲 その夜、真夜中を過ぎて、怖ろしい声で、「ええ憎らし しみに沈んでいる時は、神仏に祈って心を静めなくてはい みそぎ おんみようじ とだ けない。刀田の里にありがたい陰陽師がおる。そこで身禊ゃ。ここへ尊いお札を貼りおったな」とつぶやくのが聞え たが、それきり何の音もしない。あまりの恐ろしさに正太 をして、お守りをいただいてくるさ」と、正太郎を連れて 郎は生きた心地もなく夜の長さを嘆いた。まもなく夜が明 の陰陽師の所へ行き、事の初めから詳しく話して、占っても けたので生色を取り戻し、急いで彦六の家の壁をたたいて、 備らった。 吉 陰陽師は占いを立て、判断して、「あなたの災厄は既に昨夜のことを語った。それを聞いて彦六も初めて陰陽師の さんこう ふしぎしらせ 之せつばつまっており、容易なことではない。先に女の命を予言を霊妙な告示と認め、自分もその夜は眠らず一二更の頃 巻 を待ち暮した。松に吹きつける風が物を吹き倒すかと思わ 奪って、まだ怨みは尽きず、あなたの命も今夜か明朝かと 四いうほど差し迫っているのだ。この死霊が世を去ったのはれるほど激しく、雨さえ降りまじって、ただごとならぬ夜 の様子だったが、壁越しに声を掛け合って、どうやら四更 七日前だから、今日から四十二日の間は、戸をかたく閉め ものい すきま ごふ

9. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

まつり - こと 武を兼ねたすぐれた大器というわけでもないようである。 くして眠ることもできぬ。この様子では、この政権も長く 不朽ではなさそうだ。いったいどの人が天下を統一して民豊臣秀吉は、志こそ大きいけれども、初めから天地に広が しイたかついえに ) わながひぞ り満ちるというものではなかった。柴田勝家、丹羽長秀の を安らかな平和な境地におらしめることであろう。また精 うらや 富貴を羨んで、羽柴という氏姓を創ったことからも知るこ 霊は、誰に味方なさるであろうか」。 とができよう。今では竜と化して天空に昇りつめ、かって 老翁は答えた。「それもまた人間界のことゆえ、自分の 知るはずのないことである。ただ富貴の道からいえば、武の身分、境遇を忘れたのではないであろうか。 くらい この秀吉は、位、人臣をきわめて、確かに竜と化したと 田信玄のごときは、その智謀は百のうち百当りながら、わ みずち いえるのだが、実は蛟蜃の類に過ぎない。『蛟蜃の竜と化 ずかにその生涯のうちに勢威を甲・信・越三国に振るうだ したるものは、その寿命はわずか三年を過ぎない』といわ けであったが、名将という評判は高く、世間はこぞってこ まつご れているが、この秀吉も結局は子孫が絶えるのではないか。 れを賞めたのである。信玄の末期の言葉は、『当代にあっ きようまん いったい驕慢な思い上がった心から治める世は、昔から長 て、織田信長こそひときわ果報に恵まれた武将である。自 分は、平生、彼を見くびって征伐することを怠り、今、こ続きした例がない。人の守らねばならぬのは、倹約の慎ま ろ の病に臥してしまった。自分の子孫はやがて彼によって亡しさだが、それも過ぎれば卑吝に落ちてしまう。それゆえ、 されるであろう』とあったということだ。上杉謙信は勇将検約と卑吝の境界をよくわきまえて努めることこそ肝要で ある。今、豊臣家の政治が長く続かなくても、万民が平和 膸であり、信玄が死んでからは天下に匹敵する者がないが、 こと 貧 に繁盛して、どの家々もが、めでたい千秋楽を歌い寿ぐ日 不幸にして早く死去した。 は、すぐ近くまで来ている。貴殿のお望みによって、次の 之信長は、器量は人よりすぐれているが、智は信玄に及ば 巻 ず、勇は謙信に劣っている。けれども富貴を得て、天下統とおりにお答えしよう」と言って、八字の句を歌い上げた。 その言葉とはこうであった。 一のことも、一度はこの人の手によって成ったのである。 ひやくせいいへによる げうめいひにあきらかに 堯棠日杲百姓帰レ家 しかし、家臣に恥辱を与え、命を取られたのを見ると、文 せいばっ ひりん つつ

10. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

三ロ あご ( 妻を恋しく思って吾の松原を見わたすと、干潟に向って、 鶴が鳴きながら渡ってゆく ) という歌がある。また、この巡幸に際しては遠くまで警備 歌のほまれ とねり を固められ、舎人たちを多数御前に立たせて巡視なされた 物 あゆちのこおり たけちのくろひと ・雨やまべのあかひと が、その中にいた高市黒人が尾張国の愛智郡の海辺に立っ 山部赤人の、 し て詠んだ歌に、 わかの浦に汐満ちくればかたを無み芦べをさしてたづ 桜田へたづ鳴きわたるあゆちがた汐ひのかたにたづな 鳴きわたる ひがた き渡る ( わかの浦に潮が満ちて来て、干潟がなくなったので、葦の あゆちがた ( 桜田の方へ鶴が鳴きながら渡って行く。年魚市潟は潮が引 はえている岸辺をさして鶴が鳴きながら渡ってゆく ) かきのもとのひとまろ いたらしい。干潟に向って鶴が鳴きながら渡ってゆく ) という歌は、柿本人麻呂の「ほのぼのとあかしの浦の朝霧 あかし という歌がある。赤人も黒人も、同じ天皇にお仕えして、 に島隠れゆく舟をしぞ思ふ ( ほのぼのと明けそめた明石の浦の その天皇の御製を盗み奉るはずがない。昔の人は目に見た 朝霧の中を、島隠れに漕ぎ出して行く舟を見送っている ) 」とい そのままを歌に詠んだのだが、ほかの人が同じように詠ん う歌と並んで、歌の父母のように褒め伝えられてきた。こ ふしわらのひろつぐ の時の天皇は聖武天皇でいらせられたが、九州で藤原広嗣だことなど気にかけずに詠んだのである。赤人の歌は、天 きのくに むん が謀叛を起したので、都の中にも内通して兵を起す者があ皇が紀伊国に行幸なされた時にお供をして詠んだものと思 おもむき るかもしれないとご心配になり、巡幸と触れさせて、伊賀われる。かく等類の歌が見えるのは、同じ趣の歌を詠んだ とか といって誰咎める者もなく、海べや山の様子、花鳥風物を ・伊勢・志摩の国、尾張・三河等の国々を行幸してめぐら ぎよせい まのあたりに詠んで、その有様、絵に写しとめることがむ れた時、伊勢国の三重郡阿虞の浦でお詠みになった御製に、 しひ 妹に恋ふあごの松原見わたせば汐干の潟にたづ啼きわずかしいと、皆が心に賞で惜しみながら詠んだためにちが たる いない。また、同じ万葉集に、読人知らずの歌として、 ( 原文三〇〇ハー )