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検索対象: 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語
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1. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

がれき こんろんざん 老翁は言った。「ここに参上したのは、魑魅でもなく、 「崑崙山の名玉も乱世にあっては瓦礫に等しい。このよう とうけい こがね 2 な世に生れ合せ、弓矢をとる身として、望むべきは棠谿・ 人間でもない。普段、貴殿が大事にかしずいている金貨の 精霊である。長年の間の手厚いもてなしのうれしさに、貴 墨陽の利剣、その上に持ちたいのは財貨である。しかし、 五ロ 11 = ロ 物どんな名剣でも千人の敵に対抗することはできぬ。財貨の殿と一夜を語り明かしたく、推して参上っかまつった。今 月徳は天下の人を従わせることもできる。武士たるものは決日、貴殿が下男を賞め、賞を与えられたのに感心して、老 うち ひせん して粗雑にこれを扱ってはならぬ。おまえが卑賤な身分で、翁が考えている心の中などを語り慰もうと、こうして仮に うび 分に過ぎた財貨を手に人れたのは全く傑作だ。褒美を与え姿形を現してやって来た。十に一つも役立っことなき無駄 きんす なくてはならぬ」と十両の金子を与え、帯刀を許し、士分話ながら、『思うこと言わざるは腹ふくるるわざ』とやら で、わざわざ参上、眠りを驚かせた次第だ。さて思えば富 に取り立てて召し使った。世の人は、この話を聞き伝えて、 た どんよく たぐい みて驕りたかぶらないのは大聖孔子の道である。それを、 「左内が金を蓄めるのは貪欲でむさぼり飽きぬ類ではなか った。彼はただ当世に珍しい奇人なのだ」と賞めそやした。世間のよしもなき悪口に、『富める者は必ず心がねじけて しんせき いる。富める者の多くは愚人である』というのは、晋の石 その夜、就寝していた左内の枕許へ、人の来る気配がし そう ともしび こびと おうげんう さいろうだかっ たので、目を覚すと、灯火台の下に、小人の老翁が笑みを崇や唐の王元宝のように豺狼蛇蝎のような残忍猛悪にして たた すわ 湛えて坐っていた。左内は頭を上げて、「ここへ来たのは貪欲な者たちだけをいうのである。 昔の良き世に富み栄えた人というのは、よく天の時をは 誰だ。私に糧食を借りようというのなら、腕つぶしの男ど ふうき もこそ押し人りそうなものではないか。おまえのような老かり、地の利を見きわめ、その結果として、自然に富貴を きつねたぬき たいこうなうりよしようせいにう かたち いぼれたさま形で私の眠りを襲うとは、さては狐か狸の戯得たのである。太公望、呂尚は斉に封ぜられて、民に産業 を教えたので、海辺の国の人々はその利益を慕って斉に移 れだな。何か得意な芸でもあるか。あるならば秋の夜の目 かんちゅう 覚しに、少しやってみるがいい。見てやろう」と、少しも住した。管仲は九回も諸国を連合させ、自分は陪臣であり まさ はんれいしこうはっ けしき ながら、その富は列国の君主にも勝った。范蠡、子貢、白 驚き騒ぐ気色がない。 をくよう かて お し おご お

2. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

あるじすけ まくらもと の由を申し人れ、人々の様子を見たところ、主人の次官を 返りはせぬかと、枕許の周りに坐って見守りながら三日を かもん おとうとご はじめ、令弟の十郎殿、老臣の掃守などがまるく居並んで、 過ぎたところ、興義の手足が少しずつ動き出すようであっ ためいき たが、長い嘆息をついたと思うと両眼を開き、夢から醒め酒宴を開いている有様が、確かに師僧の言ったとおりなの すけ を奇怪に思った。次官の館の人々もこのことを聞いて、大 たかのように起き上がり、人々に向って言うには、「わし かもん いに不思議がり、とりあえず箸を置き、十郎・掃守なども はずいぶん長い間、正気を失っていた。幾日を過したのか ね」。徒弟たちは言った。「師僧は三日前に息が絶えられま率き連れて三井寺へやって来た。 あいさっ 興義は枕から頭を上げて、ご足労をかけたと丁寧に辞儀 した。寺中の者をはじめ、日頃から親しくなさった方々も よみがえり すけ 参られ、葬儀のことなども相談しましたが、ただ師僧の胸をすると、次官のほうでも、蘇生の祝詞を述べる。さて、 ひつぎ 興義がまず問いかけた。「殿、ものは試しに、わしの話を に暖かみが残っていましたので、こうして柩にも収めず、 皆でお守りしていました。甲斐あって只今息を吹き返され聞きなされ。あの漁師の文四に魚を注文したことがおあり すけ かな」。次官は驚いて、「確かにその事実があります。どう たので、『よくも葬らなかったことだ』と喜び合っており さんじゃく してご存じですか」。興義、「その文四が、三尺余りの大魚 ます」。 かご おやかた だんかたいら うなず 興義は首肯いて言った。「誰でもいい。一人、檀家の平を人れた籠を持って貴館の門にはいったじやろう。ちょう おとうとご とのやかた そせい 魚すけ どその時、殿は御令弟と表座敷で碁をたたかわせておられ 鯏の次官の殿の館へ行って、『興義法師が不思議にも蘇生い かもん かたわらすわ なます た。掃守殿はその傍に坐って、大きな桃の実を物りながら、 応たしました。殿は只今、酒宴を開いて、鮮魚の鱠を作らせ 夢 ているはず。しばらく宴を中断て、寺までお越しあれ。世お二人の碁の腕前を見ておった。そこへ漁師が大魚を持っ たかっき まれ て来たのを喜んで、殿は高坏に盛った桃を与えられ、また 之にも稀なる話をお聞せしましよう』と伝えて、その方々の 巻 様子を見とどけて来よ。わしの言葉に少しも違いはないは盃を下さって、たつぶりと酒を振舞われた。料理人がもっ せっそう なます たいぶって魚を取り出し鱠にしたまで、いかがかな、拙僧 ずじゃ」と言った。 やかた いぶかし の言うところは少しも違っておらぬでござろうが」。こう 使いの者は、不審く思いながら、先方の居館へ行き、そ

3. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

あるじ まえはわたしの教えを聞く気があるかどうか」。あるじの路の旅の帰り道に再びこの土地を通られ、かの荘主の家に 僧は答えた。「師僧は真実の生仏でいられる。ここまであ立ち寄って、山の法師の消息をお訊きになった。荘主は喜 さましい悪業をすぐにも捨て去り得る教理があれば、ぜひ び迎えて、「お坊様のご高徳によって、あの鬼は二度と山 五ロ きロ 物お教え願いたい」。襌師は言った。「おまえが聞くというのを下りて来ませぬから、皆、浄土に生れ変ったように喜ん おそ 月 であれば、ここに来なさい」。そう言って、あるじの法師 でおります。しかしながら山へ行くことは怖ろしがって、 すのこえん すわ を簀子縁の前にある平らな石の上に坐らせ、自分のかぶつ誰ひとり上る者はいません。ですからあの法師の消息は何 あおぞめずきん も知りませぬが、どうして今まで生きていましよう。今夜 ていた紺染の頭巾を脱いで、法師の頭にかぶらせ、二句の しようどうか をだい 証道歌をお授けになった。 のお泊りには、あの法師の菩提を弔ってください。皆で回 こう かうげつてらししようふうふく えいやせいせうなんのしょゐぞ 向いたしましよう」と言った。 江月照松風吹永夜清宵何所為 ( 秋の澄んだ月は川の水を照らし、松を吹く風は爽やかであ 禅師は、「あの法師が善行の報いで成仏したのなら、わ せんだっ る。 しにとって住生の道の先達・師匠といってよい。また、も この永い夜、清らかな宵の景色は何のためにあるか。それは し生きているならば、わしにとっては一人の弟子である。 何のためでもなく、天然自然にそうなのである ) いずれにしても彼の様子を見とどけぬわけにはいかぬ」と ゆきき 「おまえはこの場を動かず、じっくりとこの句の真意を考言って、再び山に上られた。なるほど人の往来が絶え果て えぬくのだ。真意を理解できたその時、おまえは自ら本来たとみえて、その山道は去年踏み分けて歩いた道とも思わ れぬ荒れようである。 の仏心にめぐり逢うのであるぞ」と、懇ろに教えさとして わざわい おぎすすき 山を下られた。それからは、村人たちも恐ろしい危害にあ 寺域にはいってみると、荻・薄が人の背丈よりも高く生 しぐれ うことはなくなったが、なお法師の生死のほども知れず、 い茂って、草木の上に置く露は時雨のように降りこぼれ、 こみち 疑心暗鬼で、皆々山へ上り寺へ近づくのを戒め合っていた。寺内の三径さえ見分けられない中で、本堂や経閣の戸は右 あく に左に朽ち倒れて、方丈や庫裏をとりまく廻廊も、朽ちた 一年は早く過ぎ、翌る年の冬十月初旬、快庵褝師は奥州 ( 原文一二一第 おのずか さわ せたけ

4. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

るのだった。どうしたらいいであろう、元気だといっても、 心細く思っていた。 さすがにこの老いた身で、険しい山道を踏み分けて来た上 このあたりは山頂部を、五十町四方に切り開いて、見苦 に、このような事情を聞いて、夢然はがつくりと気落ちし しい林なども見えず、小石一つさえも掃い清めた聖域では 五ロ 二 = ロ 物てしまった。 あるが、さすがにここは寺院から遠く離れており、僧の祈 どきようだらに しやく 月 作之治が言うには、「こうして日が暮れてしまい、足も念する読経陀羅尼の声や、鈴や錫を振る音は聞えない。杉 雨 そび 疲れ痛みます以上、どうして長い道のりを麓まで下りられ の木立は雲を凌ぐまでに聳え茂り、道を区切って流れる川 す ましよう。ここで夜を明かすほかはありませんが、若い私 のせせらぎが細々と清みきって物悲しく聞える。寝られぬ からだ は野宿もいといません。ただ、ご老体の父上のお身体にさ ままに、夢然は作之治に語りかけた。「そもそも弘法大師 どせきそうもく じようぶつ わらないかと、それが案じられます」。夢然は答えて、「い の偉大なる徳化は、土石草木にいたるまで霊を宿して成仏 あ や、かかる難儀に遭うのが、かえって旅の趣というものだ。 し、八百余年後の今日にいたって、ますますあらたかで、 ひろうこんばい 今夜はこうして足を傷つけ、さらに疲労困憊してまで山を ますます尊いのである。遺された業績や巡り歩かれた旧跡 下りたとしても、そこが安息できる故郷というわけではな の多い中で、このお山こそ第一の霊場だ。大師が御在世の もろこし い。それに明日の旅路がまた心配だ。このお山は日本第一 昔、遠く唐土までお渡りになり、その地で何か感動される こうう さんこ ことがあって、『この三鈷が行き着きとどまる所こそ、わ の霊場で、開祖弘法大師の高徳はいくら語っても尽きるも のではない。わざわざやって来てでも、お通夜して後の世が真言宗を発揚し広める神聖な土地である』と言って、遥 のことなどお祈りすべきところであった。ちょうどいい折か空の遠くへ投げられたが、その三鈷ははたしてこのお山 みえいどう にとどまったのである。壇場の御影堂の前にある三鈷の松 だから、霊廟にお参りして夜もすがら供養申し上げよう」 こそ、その三鈷が落ちとどまった所といわれている。その と言って、奥の院まで大杉の立ち並ぶ暗い道を歩き進んで、 そうもくせんせき とうろうどうすのこえん 霊廟の前にある灯籠堂の簀子縁に上り、雨具を敷いて座を 松に限らず、この山の草木、泉石すべてが、霊気をおびて 設け、静かに念仏しながらも夜のふけてゆくのを、さすが いないものはないということだ。今夜、不思議な縁でここ ( 原文六二弩 ) しの はら

5. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

( 原文一〇七 ) くまのもうぞ えにし なったとしても、こうなるべき運命の縁があればこそ、再の僧で毎年熊野詣をされる人が昨日から泊っている。たい きとうそう もののけいなむし び三たびとお逢いするのです。他人の言うことだけを真実そうあらたかな祈疇僧で、流行病、物怪、蝗害なども、よ そんすう く祈る人だということで、この里の人たちも尊崇している。 らしく思い込み、しいて私をお遠ざけになるならば、恨み この僧をお招きしよう」と言って、あわただしく告げ知ら をお報いしないではいられません。紀州の山々がどんなに 高くてもその峰から谷へ、あなたの血を注ぎ下しましよう。せると、やがてその僧はやって来た。しかじかと事の訳を まじもの あたらせつかくのお命を無駄になさいますなと言う。そ話すと、この祈疇僧は鼻高々と、「そういう蠱物を取り抑 の恐ろしさにただ震えに震えるだけで、今にも取り殺されえるのは、何のむずかしいこともありません。どうぞ落ち びようぶ るかと気も失わんばかりであった。その時、屏風の陰から、着いていられるがよい」と、たやすげに言うので人々はほ っとした。 「旦那様、どうしてそんなにおむずかりになるのですか。 せきおう 僧はまず石黄を取り寄せて薬の水を調合し、それを小さ こんなにめでたいご縁ですのに」と、出て来たのはまろや であった。見るなり、また胆をつぶし、目を閉じてうつむな瓶に満たして、真女児のいる寝間へ向った。芝の人々が あざけ 恐れて逃げ隠れするのを、僧は嘲り笑い、「お年寄も幼い けに倒れ伏した。その豊雄を、二人はなだめたりおどした り、かわるがわるに話しかけるが、豊雄はただ死んだよう方も、きっとそこにいられるがよい。その大蛇を只今私が、 取り抑えてお目にかけようーと言って、部屋へはいってい 婬になって夜が明けた。 しゅうと った。寝間の戸を開けるやいなや、大蛇はぬっと頭を差し 性朝になって寝間から脱け出して、舅の庄司に向い、「こ わざわい ういう恐ろしいことが起りました。この禍からどう逃れた出して僧に立ち向う。その頭はなんとまあどんなに大きか 之らいいでしよう。ご思案ください」と言うのも、後ろで聞ったことか。この戸口いつばいに満ちるほどで、雪を積ん 巻 いてはいないかと声を小さくする始末であった。庄司も妻だより白くきらきら光り、目は鏡のごとく、角は枯木のよ うに突き出し、三尺以上もあろうロを開き、真っ赤な舌を も、蒼白になって悲しむばかりで、「これはどうしたらい すさま くらま いことやら。さいわい、この向いの山の寺に、京の鞍馬寺吐いて、ただ一呑みにとばかりの妻じい勢いである。僧は まっさお つの

6. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

ちつきょ ためいき ておった。今はもう取り返しがっかぬ。五十日の間、蟄居 する相手もいない。ただ溜息をつくばかりで、「若旦那を なかやまぞらかんじ しておれーと言葉も荒く言い捨てて部屋にはいった。十太、 翼を借りてでも飛び帰らせてくださりませ。中山寺の観自 ざいをさっさま 「桜の花はまだ盛りと見えたのに、思いがけぬこの嵐で、 在菩薩様」と祈ってはみたがどうにもならなかった。そう 今は終りとなってしまった。私はただ言われたとおり籠っ こうするうちに、長のところからは使いが立てられて来て、 かしこ ていよう」と溜息をついて、畏まっている。 「『宿を勤める者、出迎えに来ぬとは無社である。このよう ちょうしあかし その翌朝、長は河守へ申し伝えた。「朝使が明石の宿か な里に宿はせぬ。夜道を駆けて住吉の里まで参る』とおっ たかはりぢようちん ら、急ぎの文書を送ってよこされ、『その方の里に宿泊し しやり、高張提灯を多数用意するよう申しつけられたゆえ、 たいまっ きゅうごしら たいと思ったのに、予定が狂い、そのため夜道に迷って馬 松明などを急拵えにお作り申して差し上げた。お使いは つくし の脚を折った。今はしかたなく船にて筑紫へ下る。公の使 『十太を直ちに呼び返せ。罪として謹慎申しつけよ』とお いは海路を避けよとの規則がありながら破るのは、定めの っしやって、馬を飛ばしてご出発になったぞ」といって、 「とにかく、十太が帰らなくても」と、門の扉を閉じ、竹日数に背く罪を恐れてそうするのだが、もしまた波風荒か いつぶつ くぎ ったならばどうにもならぬ。馬は五百貫文の逸物であった。 を釘づけにして戸締めにしてしまった。十太は何も知らな むなさわ この損はその方の里で弁償せよ』とおっしやって来た。ほ いでいたが、「胸騒ぎがする」といって、その夜の亥の中 かの誰がお受けするものか。五百貫文の銭はおまえが今す の刻 ( 午後十時頃 ) に帰って来て、「これはどうしたこと き ぐに運んで来い。またこの銭を都のお館へ送る費用もおま か」と呆れて訊いた。老人が脇の戸口から出て来て、「こ きゅうきょ 塚 えが持て。更に三十貫文じゃ」といって、金を取り立てて れこれのことがございまして、里長殿が急戸締めになさ つくし 木れました。参られてお詫びなされませ」という。十太は直運ばせ、「五十日の間は、やはり籠っておれ。筑紫へ下ら もと いきさつうかか 宮 ちに長の許に行き、畏まって事の経緯を伺った。長は怒りれたご用が終られ、お上りになる折に、お詫び申し上げて 9 ながら、「この月は、その方がお宿の役を勤めるよう指図やろう」といって謹慎させておいた。この間に藤太夫は、 をしておいたに、里長のこの我にも断らず、どこで浮かれ医師理内を連れて神崎に遊びに行き、「宮木に酌をさせよ」 かしこ い そむ やかた こも

7. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

て、貴人の行列がだんだん近づいて来た。「こんな夜ふけ下にお酒を差し上げようとまめまめしく用意しましたので、 さんけい せっしゃ て、いったいどなたのご参詣であろうか」と、いぶかしく 拙者も鮮魚を一種ととのえ差し上げようとして、お供に遅 もまた恐ろしく、親子は顔を見合せて息を詰め、そちらのれまして・こざります」と申し上げた。さっそく酒肴をくり 五ロ 11 = ロ わか ばんさく 物方だけをじっと見詰めているうちに、早くも先払いの若ひろげてお進め申し上げると、貴人は「万作、酌をせよ かしこ 月ざむらい 侍が、橋板を荒々しく踏んで、こちらにやって来た。 と仰せられる。畏まって、美男の若侍がいざり近づいて瓶 雨 とうろうどう 驚いて二人が灯籠堂の右側に身を隠すのを、武士はいち子を捧げる。あちらこちらと盃をめぐらして、たいそう興 ゼんか 早く見つけて、「何者であるか。殿下が今おいでになる。 がのったようである。貴人がまた仰せられるには、「この じようは 早く縁から下りよ」と言うので、二人はあわただしく簀子ところ打ち絶えて紹巴の話を聞いていない。ここへ呼ぶが 縁から下りて、地べたにうずくまって平伏した。まもなく いい」とおっしやると、それを順に呼び次いでいたようで 多くの足音が聞えてくる中に、沓の音が高く響いて、烏帽 あったが、夢然が平伏している後ろの方から、大柄な法師 のうし 子を着け、直衣を召された貴人が、灯籠堂の上にお上りに で、顔が平べったく、目鼻だちのはっきりした人が、僧衣 なると、従者の武士が、四、五人ばかり、右左に座を占め をかいつくろいながら一座の末席に連なった。貴人が古言 くわ 故事についてあれこれとお問いただしになると、法師は委 貴人は武士たちに向って、「誰それはどうして来ないか」 しくそれにお答えしていたが、貴人はたいそう感じ人って、 にうび とおっしやると、武士たちは、「もうすぐ参上いたすでし 「彼に褒美を取らせよ」とおっしやった。 よう」と申し上げる。そのうち、また一群の足音がして、 一人の武士が、更に法師に問いかけた。「このお山は高 威厳のある立派な武士、頭を剃った法師などが人り交じっ 徳の僧が開かれて、土石草木も霊の宿らぬものはないと聞 て来、貴人に一礼して堂に上る。貴人は今やって来た武士 いている。しかるに、この地の玉川の流れには毒があって、 ひたち に向って、「常陸はどうして遅くやって来たのか」と仰せ水を飲む人が命を落すゆえに、弘法大師のお詠みになった しらえくまがい られると、その武士は答えて、「白江、熊谷の二人が、殿歌として、 170 くっ

8. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

みちのり た。私は今日から出雲へ下り、せめて遺骨を引きとって、 を重んじて、むなしい亡魂となって、百里の道程を私の許 まっと からだ 義弟としての信義を全うしたいと思います。母上はお身体まで来てくれましたが、私もその信義に報いようとして、 を大事になさって、私にしばらくのお暇をいただかせてく 日に夜を継いでここまで来たのです。今、私は平生学んで 五ロ 一 1 = ロ ただ 物ださい」。母は答えた。「悴よ。出雲へ行っても早く戻って、 いることについて、貴殿に尋ね質さねばならぬことがある。 ぎさいしようこう 月 この老母を安心させておくれ。向うに長くいて、今日の別 どうかはっきりとお答えいただきたい。昔、魏の宰相公 雨 しゆくざ なが れを永の別れとしないでおくれ」。左門は言った。「人の命叔座が重病の床に伏した時、魏王みずから見舞って、叔座 は水に浮ぶ泡のように、朝にタにいっ消えるか定めがたい の手を取りつつ、『もしその方に万一のことがあったら、 ものですが、私はすぐに帰ってまいりますと、涙をぬぐ 誰に国事を任せたらいいか。わがために教えを残してほし しようおう って家を出て、佐用家に立ち寄って、留守中の母の世話を い』と尋ねたのに対し、叔座は『商鞅が若年ながらも、世 ねんご まれ 懇ろに頼み、出雲へ下る途中は、飢えても食をとろうとせ に稀なすぐれた才を持っております。もし王が、彼を登用 ず、寒い時にも衣を重ねることを忘れて、仮眠すれば夢に なさらぬ時は、たとえ彼を殺しても国境の外へ出してはな 赤穴を見て泣き明かし、こうして十日後には富田城に着い りません。彼を他国へ行かせたら、必ず後にわが国の災い たのである。 となるでしよう』と、懇ろに教えたが、一方では商鞅をひ まず赤穴丹治の家を訪ねて、姓名を名のり面会を求める そかに呼んで、『自分が死んだ後の国事について、私は君 と、丹治は迎え人れて、「翼のあるものが告げ知らせたの を推薦したが、王にはこれを聞き人れない様子があったの ちょうよう でなくて、どうして赤穴の死を知っていらっしやるはずが で、重用するのでなければ逆に君を亡きものにしなさいと あろうか。そんな道理はない」と、しきりにその不思議を教えた。これは君主を先にし、臣を後にする道理に基づく ふうき 問い尋ねた。左門は述べた。「武士たる者は、富貴や盛衰 のである。君は早く他国へ逃がれて害を避けるとよい』と についてはロにすべきではなく、ただ信義だけを重んずる 言ったという。この話を、あなたと宗右衛門の場合に比べ ものである。義兄の宗右衛門は、一度口にしただけの約束てみるといかがであるか」。丹治はただ首を垂れて返す言 ( 原文三六謇 ) 152 たず せがれ

9. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

おうみ いずも で、何一つ心の合わぬことがなく、感心したり喜んだりし子に向って、「私が近江を逃がれて来たのも、出雲の様子 て、ついに義兄弟の盟約を結んだ。赤穴が五歳年長だった を見んがためです。ひとまず故郷へ帰ってすぐに引き返し ので、義兄として左門の社儀を受けて言った。「私は父母て来て、それから貧しいながらも懸命に、ご恩返しする所 ロ 二 = ロ いとま 物と死別して長いことになる。あなたの母君はすなわちわが存です。しばしのお暇をいただきたい」と言った。左門は あいさっ 月 母同然だから、改めてお目にかかりご挨拶したいと思いま尋ねた。「それでは兄上は、いつお戻りになりますか」。赤 雨 す。母君は私の心を汲みとって、この幼い心を受けてくだ 穴は答えた。「月日は往きやすいもの。遅くともこの秋ま さるだろうか」。左門は大喜びで、「母は常に私の孤独を心 でには必ず」。左門は言った。「秋の、何日という日を定め まこと 配しています。あなたの真実ある言葉を伝えたら、きっと てお待ちすればいいのですか。どうかそれを定めておいて ちょうよう 喜んで寿命も延びるでしよう」と、赤穴をわが家に連れて ください」。赤穴は答えた。「では九月九日 この重陽の 帰った。老母は喜び迎えて、「わが子は才がなく、また学節句をもって帰り着く日としよう」。左門は言った。「兄上、 問も時流に合わず、世に出る機会を失しております。どう 必ず、・この日を間違えないでください。私は一枝の菊と心 かわ かいつまでも兄として導いてやってください」。赤穴は老ばかりの酒など用意して、お待ちしております」と、交す こうみようふう 母を拝して、「男子たるものは義を重しとします。功名富言葉にも互いに誠意を尽し合って、赤穴は西の国へ帰って 貴は言うに足りません。私は今ご母堂のご慈愛を得て、左行った。 ぐみ 門殿からは兄としての敬意を受けました。これ以上何の望 月日はたちまちのうちに過ぎ去り、下枝の茱萸が赤く色 みがありましよう」と言って、喜びに感動しながら、また づき、垣根の野菊が美しく咲き、九月ともなった。九日の そうじ 数日そこに止まった。 朝は左門はいつもより早く起き、質素な家ながら掃除を済 きのうきよう とな つい咋日今日まで咲いていたと思った尾上の桜も散り果ませ、黄菊白菊の二、三本を小瓶に飾り、乏しい財布をか さわ てて、爽やかな風に吹き寄せられる波の色に問うまでもな たむけて酒食の用意をした。老母は「あの八雲立っという く、くつきりとした初夏になった。ある日、赤穴は左門母出雲は、山陰道の果てにあって、ここから百里ものかなた ( 原文三〇 ) おのえ いっ

10. 完訳日本の古典 第57巻 雨月物語 春雨物語

雨月物語 154 しばしばこの里にも姿を見せており、以前から親しかった あきんど から、同じ業者になって京へ上りたいと同行を頼んでみた 浅茅が宿 ところ、雀部はあっさりと承知して、「いついつの頃には しゆったっ 出立するつもりだ」と言った。この人が意外に頼り甲斐が かっしろう しもうさのくにかっしかのこおりまま あったのを喜んで、京へ行くその日のために、残っていた 下総国葛飾郡の真間の里に勝四郎という男がいた。 わずかな田畑を売り尽して元手を作り、絹布を大量に買い 祖父の代からこの村に住み着いて、多くの田畑を持ち伝え うまれつき ゆたか て裕福に暮していたのだが、生来こせついたところのない込んで、用意を整えている。 みやぎ しんきのらしどと 勝四郎の妻は宮木というのだが、人目をひくほどの器量 気性であったために、辛気な農作業を鬱陶しがって、いや こころめかり いや暮しているうちに、その油断から、とうとう落ちぶれよしの上に、心だてもしつかりしていた。このたび、勝四 あきない しなもの おおく ひんか 郎がにわかに商品を仕人れて、商売に京へ上るということ て貧家になってしまった。そうして親戚の大半からも疎ん いさ が気がかりでならず、思いとどまらせようと何やかやと諫 じられてしまい、そうなってみると、さすがにしんからロ おもいこう めたけれども、勝四郎のほうは、平常の気性にいやまして 惜しい、無念だという気持が昂じて、どんなことをしても、 家を再興しなければとあれこれ思案をめぐらしていた。そ勇み立ち意気込んでいるので、どうしようもない。留守の かいがい みやこ しいれ あしかがぞめ 間の暮し向きもおぼっかない心細さの中にも、甲斐甲斐し の頃、足利染の絹の取引のために、毎年京からこの地方に ささべのそうじ く夫の旅仕度を整えて、さてその夜は寝物語に別れのつら 下っている、雀部曾次という商人がいた。縁者を訪ねて、 ( 原文三九謇 ) あさち うげつものがたり 雨月物語巻之一一 やど うっとう もとゼ がい