〔四〕評価の相違 ふゅ ぢゃう 九『猿蓑』 ( 元禄四年刊 ) 所収。こ 此木戸や錠のさされて冬の月其角 の木戸はもはや錠がさされていて し・も しも 評猿蓑撰の時、この句を書き送り、下を冬の月・霜の月、置き煩ひはべるよし通れない。空を仰ぐと寒々とした 冬の月がかかっている、の意。木 - しばのと 師 戸は城戸とも書き、ここは警戒の 聞こゅ。るに、初めは文字つまりて、柴戸と読めたり。 ため市内の要所に設けた門。 先 先師日く「角が、冬・霜に煩ふべき句にもあらず」とて、冬の月と入集せり。 0 柴戸と此木戸、霜の月と冬の月 のいずれを選ぶかという評価が交 しういっ ふみ のちおほっ その後、大津より先師の文に「柴戸にあらす、此木戸なり。かかる秀逸は一錯している。 さるみの こんにちうへ 合ったことだ。『猿蓑』には「湖水 に今日の上に侍る」と申す。 ニ望ミテ春ヲ惜シムーと前書し、 こじん 先師日く「しかり。古人もこの国に春を愛する事、をさをさ都におとらざる下五「をしみける」の句形で所収。 元禄三年 ( 一六九 0 ) の作。 六江左氏。大津の医者。 物を」。 セ実際の体験、実感というほど ゆくとし いちごん 。しいかでかこの感ましまの意。 去来日く「この一言心に徹す。行歳近江にゐ給ま、 ^ 過ぎ去ってゆく年。 じゃう ふうくわう ゆくはる さん。行春丹波にいまさば、もとよりこの情うかぶまじ。風光の人を感動せし 0 句中の語 ( 素材 ) を他に代置でき るか否かが「ふる・ふらぬ」「動 く・動かぬ」として問題にされて むる事、真なるかな」と申す。 いる。句形は『猿蓑』のほうが余情 ことさら ともふうが があってよい 先師日く「汝は去来、共に風雅をかたるべきものなり」と、殊更に悦び給ひ さるみのせん このきど まこと し つき カく おわづら みやこ につしふ
芭蕉文集 108 しづく 我がきぬにふしみの桃の雫せよ ( 折から桃の花ざかり。桃の花の露のうるおいをもってわが 衣を染めて、任口上人のありがたい徳にあやからしていただ きたい ) 大津に出る途中、山越えの道で、 山路来て何やらゆかしすみれ草 ( 山路をこえて来て、ふと道のほとりにすみれが咲いている のに気がついた。こんな山路で思いがけなく見つけたすみれ の、なんとなくゆかしく、心ひかれることよ ) 湖水の眺望を、 おばろ 辛崎の松は花より朧にて ( 近江の名所である辛崎の松は、この春のおばろの中にあっ て、桜よりいっそうおばろに霞んでみえることだ ) みなくち 水口で二十年ぶりに旧友に再会した。 命二つの中に生たる桜哉 ( 旧友と自分と、一一つの命が生きながらえて、再会しえたい らんまん ま、長い年月咲き続けてきた桜の花が、この再会の場に爛漫 と咲きにおっていることよ ) からさき ぐさ ひるこじま 伊豆の国蛭が小島に住んでいたある僧が、この人もま あんぎや た去年の秋から行脚していたのだったが、私の名を聞い て、旅の道づれにでもなりたいものだと、尾張国まで私 の跡をしたって尋ねて来たので、 ほむギ一くら いざともに穂麦喰はん草枕 ( さあそれでは、畑の穂麦でも食べる覚悟で、一緒に乏しい 旅寝をつづけよう ) えんがくじだい この僧が私に話してくれたことによると、円覚寺の大 てんおしよう 顛和尚が、今年一月の初めに他界なされた由。本当だろ うかと、夢のような心地がしたが、まず何はともあれ、 旅中から其角へ次のように言い送った。 うのはな 梅こひて卯花拝むなみだ哉 ( 梅咲くころに亡くなられたあなたの師の大顛和尚の、白梅 に比すべき高徳を慕い、ちょうどいま咲いている卯の花に悲 しみの涙をそそぐことだ ) と、」く 杜国に贈った一句 かたみ 白げしにはねもぐ蝶の形見哉 ( 白いけしの花ー杜国ーを飛び去る蝶ー芭蕉ーの、おのが羽 をもぎ残したいような名残惜しさ、いま、あなたとお別れす てふ
( 原文一九九ハー ) 雨が、青い龍の耳のようなその葉を破って、新しい葉が毎人の場合、品が二つで、働きが一つであるのは、感心すべ きことである。絵は、この人をわたしの師とし、俳諧はわ 日毎日厚い巻葉を伸ばして、横渠先生に新知を起す決心を たしが教えて、この人を弟子としている。けれども、師の させ、少年上人に手習をしてもらうために巻葉を開こうと する。自分はその芭蕉を守る役となって、日々、葉の破れ絵は精神が深奥に透徹しており、その筆の冴えは実に微妙 である。その絵の幽遠な趣は、わたしなどには見抜くこと てゆくのを悲しんで見守るだけである。 たろ ができない。それに対して、わたしの俳諧は、夏に焚く炉 きよりくりべっことばさいもんじ や、冬にあおぐ扇のようで、むだなことであり、多くの人 一一許六離別の詞 ( 柴門の辞 ) しゅんぜい の好みとは反対で、なんの役にも立たない。ただ、俊成や 西行の和歌だけは、ほんのかりそめに詠み捨てられたよう 許六離別詞 なものにも、深いあわれが籠っている。後鳥羽上皇も、そ のお書きなされたものの中で、「この二人の歌には真実が 去年の秋、ふと対面し、今年、五月の初めには、しみじ あって、しかも悲しみが漂っている」と仰せられていると みと別れを惜しむことになった。その別れに際して、ある か。だから、わたしたちも、このお言葉をカとして、その 日わが草庵を訪れてくれて、一日中ゆっくりと話をした。 この人の人物・器量のほどは、絵を描くことを好み、また細い一筋の道をたどり、その道を見失うことのないように しなければならない。なお、弘法大師の書道の教えの中に 詞俳諧を愛することでわかる。わたしは試みに尋ねてみた。 ナいがし の も、「古人の残した形骸を追わず、古人が求めたものを追 「絵は何のために好まれるのですか」。すると、「俳諧のた 六めに好むのです」と言う。「俳諧はなんのために愛するの求せよ」と見えている。俳諧もまたこれと同じである、と しおりど 言って、ともしび火をさしあげて、草庵の枝折一尸の外まで ですか」と尋ねると、「絵のために愛するのです」と言う。 学ぶ所は二つであって、その働きは一つなのである。まこ送り、名残惜しい別れをしたことである。 風羅坊芭蕉述 元禄六年四月末 とに、孔子も「君子は多能多芸を恥じる」と言うが、この ふうらぼう
しゅん て鳴いており、秋風が絵の中からそよそよと吹き出して来 初めに舜の孝を言っているのは、人に、この蓑虫からも て、寒いほどである。 教えを受けよと言っているのだ。また、蓑虫の無能に感心 この静かな窓辺で、静かな時を得て、こうして、文人素しているのは、もう一度莊子の心を考えて見よと言うので 集 ちょうこ 文堂と画家朝湖の二人の好意をこうむることは、蓑虫の ある。蓑虫の体の小さなことを愛するのは、足るを知れと りしばう 蕉 このわたくしのーー面目この上もないことと感謝する次第教えるのである。また呂望 ( 太公望 ) や子陵の故事を引い である。 て隠逸の用意をうながしているのであろう。玉虫の戯れを 芭蕉庵桃青 述べたのは好色をいさめようとするのであろう。 翁 ( 素堂翁 ) でなかったら、誰がこの蓑虫の心を知るで あろうか。「静かに見れば、物は皆、その中に理を蔵して、 ( ロ ) 悟りを得ている」と言う。私は今、この素堂翁によって、 草庵の戸を閉ざし、籠っていて、もの侘しい折、ふと この言葉の意味を悟ることができた。 「蓑虫の音を聞に来よ草の庵」の句を作った。わが友素堂 昔から詩歌・文章を書く人の多くは、華美を求めて質朴 きよう 翁は、甚だこの句を興がって、詩を作り、文章を草してく さに欠けたり、逆に質朴さのみで、風流を忘れてしまうも れた。 のである。しかるにこの文章は、華やかさもすばらしく、 にしきししゅう その詩は錦で刺繍したように美しく、その文章は玉を転その実質もまたひけをとらない。 ばすような響きがある。またその文章は、よくよく見れば ここに朝湖なにがしという者があり、私が蓑虫の句を作 ちん 屈原の「離騒」の技巧があるようである。また宋の詩人陳ったことを伝え聞いて、これを絵に描いてくれた。まこと しどう そしせん 師道が「蘇子瞻 ( 蘇東坡 ) ハ新ヲ以テ、黄魯直 ( 黄山谷 ) にその色どりは淡く、情は濃い。心をとどめて見れば蓑虫 たた 奇ヲ以テ」と蘇・黄二詩人を称えたが、全くそれと同じく は動くようであり、黄色く色づいた木の葉は今にもはらは 新と奇がある。 ら散るかと思うほどである。耳を傾けて聞くと、寒い秋の
もりたけいひ = 荒木田氏。伊勢内宮の神官で、 いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武が云ける「よし朝殿に似たる秋風とは、 「俳諧之連歌」の大先達。 われまた 三『守武千句』に「月見てやとき いづれの所か似たりけん。我も又、 わの里へかかるらん / よしとも殿 よしとも に似たる秋風」 ( 何毛第三 ) とある。 義朝の心に似たり秋の風 一三この秋風は、保元の乱で父や 弟と戦い、平治の乱に敗れ、非業 不破 の死を遂げた義朝の心に似ている。 0 句は守武の句によったが、「心」 秋風や藪も畠も不破の関 を加えて秋風の本情を詠みえた。 しくしん おほがき 大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらし一四不破の関所跡で歌枕。 いたさし 一五「人住まぬ不破の関屋の板廂 たびだち 荒れにしのちはただ秋のかぜ」 ( 新 を心におもひて旅立ければ、 古今良経 ) による。 たびね 一六谷九太夫。大垣の回船問屋。 しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮 0 出立以来大垣まで、秋風に吹か れて旅する思いが続く。句は冒頭 句と照応し、紀行の前半部が終る。 くはなほんとうじ 宅底本「本当寺 [ と誤記。東本願 桑名本統寺にて 寺別院で、住職は季吟門の俳人。 ふゅばたんちどり 一 ^ 雪中に冬牡丹が咲き千鳥も鳴 行冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす く。この千鳥は雪中のほととぎす . し まくら とでもいおうか。くつろいだ句。 ら草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに、浜のかたに出て、 一九上五を初め「雪薄し」と作り、 いっすん のち「無念の事なりーと改めた ( 三 明ばのやしら魚しろきこと一寸 みな 冊子 ) 。杜甫「白小」に「白小群命ヲ 分ツ、天然二寸ノ魚」。 は ときはつかあり ゃぶ はたけ 一ニとも むさしの
ていかきよう 先師は「その通りだ。 / 。。 彼ま歌人でいえば定家卿のような 〔一六〕類想の句 じんのじよう つきゅき 作者である。それほどでもない事を大げさにいい続けると 月雪や鉢たたき名は甚之丞越人 たた ( 月夜にも雪の夜にも修行に出るあの鉢叩きの俗名は甚之丞された定家に対する批評が、彼にもあてはまる」といわれ という者だ ) 〔 5 未来の句風 『猿蓑』を編集する時、私は「このごろ伊丹の作者の句に、 はなざかり あはれはちたたき をととひはあの山こえっ花盛去来 弥兵衛とはしれど憐や鉢叩、というのがありますが、この ( 旅の足をとどめてふと振り返ると、一昨日越えた山がはる 越人の句を入集するのはいかがでしようかと尋ねた。 かに見える。あの時は花も盛りであったなあ ) 先師は「月雪、というあたりは、一句に創意工夫が見え、 これは『猿蓑』より二、三年前の句である。先師は「こ また趣もある。伊丹の句のように、ただ、しれど憐や、と の句を今理解する人はあるまい。一両年待つがよい」とい しい下したのとは非常に相違している。けれども、両句と われた。 も鉢叩きの俗人の姿をもって趣向を立て、俗人の名によっ あんぎや その後、杜国という連れとともに吉野山を行脚された折 て句を飾っているから、やはりこの句を入れることは止め の途中からの手紙に「ある人は吉野を、花の山、といし たほうがよい。また次の機会もあるだろう」といわれた。 ある人は、是は是はとばかり花の吉野山、と詠んだのに魂 〔宅〕其角と定家 を奪われ、また、其角が、明星や桜定めぬ山かづら、と吟 切られたる夢はまことか蚤のあと其角 評 じたのに景趣を先取りされて、吉野では発句も作れなかっ ( 夢に一太刀切りつけられたと思って目がさめると、したた 師 た。ただ、をととひはあの山こえっ花盛、というお前の句 かに蚤の食ったあとがある ) 先 を毎日吟じながら歩くだけのことだ」と書いてよこされた。 私が「其角は実に巧みな作者です。蚤が食いついたとい その後、私はこの句を人々に見せたところ、よく理解し し尽せ 四う程の、ちょっとした事を、誰がこんなに巧みにい、 てくれた。初め先師は、この句を発表するのはまだ一両年 士しょ , つ」とい , っと、 のみ . いたみ と、一く
まうう いふ にや。羽州黒山を中略して、羽黒山と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を一不玉編『継尾集』の呂丸序に 「昔より風土記には、かの鳥の毛 ぐわっさんゅどのあはせ ふどき みつぎたてまっ 此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。月山・湯殿を合て三山とす。当寺、羽、この国の貢物と記したれば」。 ニ武蔵国江戸の東叡山寛永寺。 ゑんどんゅづうのりともしび しよく てんだいしくわん ぶかうとうえい 天台宗関東の総本山で徳川家康の 文武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、 ゅうよ 菩提寺。有誉 ( 天宥 ) が寛永十八年 げんかう たふとびかっ しゅげんぎゃうばふはげま 芭 僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄 ( 一 ) 出羽三山を天台に改宗し、 寛永寺の傘下に入った。 たきおやまいひ ひも とこしなへ 三こよりか白布で編んだ紐で輪 長にして、めで度御山と謂つべし。 しめ 状の注連を作り、首にかけるもの。 四頭を包んで巻く白木綿で、山 伏頭巾の一種。 五製作者名を柄に刻むこと。建 四 久年間の初代月山から何代も続く。 ほうくわんかしらつつみがうりきいふ ぐわっさん じよなん 六中国湖南省汝南郡西平県にあ 八日、月山にのばる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに った鍛冶によい泉。「汝南ノ西平 じっげつぎゃうだううん ひょうせつふん りゅうえん 道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏でのばる事八里、更に日月行道の雲県ニ龍淵水アリ、刀剣ヲ牽グニ用 ヒル・ヘシ、特ニ堅利ナリ」 ( 史記・ あらは ばっし いきたえ くわんいる 関に入かとあやしまれ、息絶、身こゞえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を荀卿伝註 ) 。 セ焼いた鉄を水に入れ、鍛える。 きゅ ゅどのくだ まっ ふしあく しきしのまくら ^ 中国周末ごろの名工夫妻。 鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。 ばくや 『太平記』巻十三に「其ノ妻ノ鍈揶 つるぎうち えらび ここけっさい いふあり このくに りゅうせん かたはらかぢごや ト共ニ呉山ノ中ニ行テ、龍泉ノ水 谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して劒を打、 しゅう にぶらし ニ淬テ、三年ガ内ニ雌雄ノ二剣ヲ かんしゃうばくや かの つるぎにらぐ きっ 終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむか打出セリ」。 九 一芸に深く通ずること。「執」 かんのうしふ しをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすは執心。 つひに むね くろやま はべる ひき さ一 ときん つか もめん
( 現代語訳四一四ハー ) し・よがく つつし ) うしゃ ( 元禄十一年刊 ) で「近年の秀逸」と 失ふといふ。角が功者すら、時にとって過ちあり。初学の人慎むべし」。 その着眼の新しさをほめている。 素行の句も大津の人々が感賞した ニニ〕等類と同巣 という ( 旅寝論 ) 。しかし、去来は 珍物新詞に魂を奪われて物の本意 桐の木の風にかまはぬ落葉かな凡 を失った句として難じたのである。 かしのきとうるい 其角日く「是、先師の樫木の等類なり」。凡兆日く「しからず。詞つづきの セ桐の葉が風もないのにはらり と散っている。 似たるのみにて、意かはれり」。 ^ 「樫の木の花にかまはぬ姿か どうさう レ」ド ) ゆけい な」 ( 吐綬難 ) をさす。 去来日く「等類とはいひがたし。同巣の句なり。同巣を以て作せば、予今日 九表現法や発想の型が類似して あられ たきがはそこ しぐれかな こがらしち いることで、趣向・作意の類似を の吟、凩の地にもおとさぬ時雨哉、といふ巣をかりて、滝川の底へふりぬく霰 いう等類とは区別する。 うままさ てがら ′」んか かな 哉、と一言下にいふべし。いささか作者手柄なし。されど兄より生れ勝りたらん一 0 「先師評」 ( ↓三〇〇注 = ) に 既出。 = 前に作られた句。 は、また各別なり」。 0 等類については「先師評」に出る 「清滝や」 ( ↓三〇一ハー注六 ) の条で 〔一三〕手筋を尊ぶ どうそう 触れた。同巣は同竈とも書き、等 や でむか こまかひ 類とは区別されており、後出の 評駒買に出迎ふ野べの薄かな野明 「修行」 ( ↓三七四ハー注四 ) にも触れ ふぜい すぐ 去来日く「駒買ひに人の出迎うたる野べの薄にや。または直に薄の風情にている。 ありそうみ や」。野明日く「薄の上なり」。来日く「初めよりさは聞き侍れど、吾子の俳諧三『有磯海』所収。野べの薄が、 駒買いの人を出迎える風情でなび のかく上達せんとは思はざりし。ただ驚き入り侍るのみ」。支考日く「句の秀いている。 一口 きかく きり かくべっ き かぜ の おちば すすき あやま ばんてう さく 、と・は よ
131 おくのほそ道 〔こ くろばね 那須の黒羽という所に、知合があるので、この日光から 那須野越えにかかって、まっすぐに近道を行こうとした。 はるか遠くに村があるのを見かけて行くうちに、雨が降り そう′一 衣にさまを変え、名前も俗名の惣五を、宗悟と法名に改め出し、日も暮れてしまった。そこで、農夫の家に一夜の宿 た。そこで、この「剃捨て黒髪山に衣更」の句も生れたのを借りて、夜が明けると、また野原の中を歩き続ける。と、 である。「衣更」の二字は、単なる季節の「衣更」だけで野草を食わせている馬がいた。草を刈っている男に、野道 とんせい なく、出家遁世の感慨もこもっていて、力強く読者に響くの苦しさを訴えて頼みこむと、田野に働く荒くれ男でも、 ことだ。 さすがに人情を知らないわけではなく、「どうしたらよい かなあ。あたしは、あんたがたを乗せて馬を引いて行くわ 社殿のあたりから、一一十町余り山を登って行くと滝があ ほらあな レ。。し力なしカたか、この那須野は、道が縦横に分れ、 る。岩が洞穴のようにくばんだ岩の頂上から、百尺も下に 一気に飛び流れて、たくさんの岩の重なり合っている、ま入りくんでいて、土地に慣れない旅の人は、きっと道を間 っ青な滝壺に落ちこむ。岩屋から入り込んで滝の裏側に出違えるでしよう。心配だから馬を貸してあげよう。この馬 が動かなくなったら、追い返してください」と貸してくれ て眺めるところから、この滝を「裏見の滝」と言い伝えて た。この男の子供がふたり、馬のあとについて走って来る。 第」も げ はじめ 一人は女の子で、歩いている曾良が名前を聞くと、「かさ 暫時は滝に籠るや夏の初 ひな ( こうして、裏見の滝の裏の岩屋の中にあって、しばらく清ねです」と言う。鄙には聞き慣れない名の優雅さに、曾良 浄な気持で時を過すのも、今度の旅を修行と考えれば、仏道 が次の句を詠んだ。 やヘなでしこ げ ) 」も の夏籠りの初めとしてである ) かさねとは八重撫子の名成べし曾良 ( この子は鄙には珍しく優雅な「かさね」という名である。 子供のことをよく撫子にたとえるが、撫子とすれば「かさ ね」とは、花弁の重なった八重撫子の名であろう ) だちんくらつぼ 間もなく、人里に出たので、駄賃を鞍壺に結びつけて、 馬を放ち返した。 さお なる
てつかい ことだ、須磨の夏景色は。やはり昔から言うとおり、須磨は とに思われる。やはり昔が恋しくて、鉄拐が峰に登ろうと したが、 秋に限るようである ) 道案内にと頼んだ子がいやがって、なんのかのと 陰暦四月中ごろの空にも、どこやらおばろな春の夜の名口実をつけて、逃れようとするのを、いろいろとなだめす ふもと 残があって、はかなく明ける短夜の月がひとしお美しく、 かし、「麓の茶店で何かごちそうしよう」などと言ったり したので、とうとう子供も仕方なく承知したようだった。 山は若葉が少し黒みがかって、古歌にあるようにほととぎ すが鳴きそうな夜明けも、山でなくて海の方から明け初め この子は、あのひょどり越えの道案内をつとめた十六歳だ る。と、上野とおばしいあたりは、麦の穂なみが一帯にあとかいう里のわらんべより四つも年下のはずなのに、それ からんで、漁師の家の軒端近くに咲くけしの花があちこち を数百丈の道案内として、曲りくねった険しい岩道をはい に見えてくる。 のばって行くと、すべり落ちそうなことも何度かあったが、 まづ 海士の顔先見らるゝやけしの花 つつじゃ根笹につかまり、息を切らして汗びっしよりにな ( 白いけしの花のちらほら咲くあたり、夜明けの景のなかに、 りながら、ようやく雲のかかる高みに登り着くことができ いま起き出たばかりの漁師の日焼した顔がます見える ) た。これは、まったく、あの心もとない道案内先生のおか この地は、東須磨・西須磨・浜須磨と三か所に分れ、特げというものだろう。 なく もしほ ほととギ一す・ 須磨のあまの矢先に鳴か郭公 に何を生業とするとも見えない。「藻塩たれつつ」などと ( 古戦場の名残なのか、須磨の里では烏をおどすのに弓を使 古歌に詠まれていながら、いまはそのようなことをすると 文 う。そのつがえた矢のかなたに一声鳴いたのは、ほととぎす も見えぬ。きすごという魚を網で捕り、そのまま浜辺の砂 であろうか。そうらしい ) のに乱雑に干し散らかしてあるのを、烏が飛んで来て、くわ きえゆくかた 笈 えて逃げてしまう。それを憎んで弓でおどすのは漁師のし ほとゝぎす消行方や嶋一つ ( ほととぎすが鳴いて飛び去ったかなたに、淡路の島かげが わざとは思えない。 もしや、古戦場の名残がまだあって、 ひとつ、ばっかり浮ぶ ) こんなこともするのではあるまいかと、いよいよ罪深いこ のきば ねぎさ やさき