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検索対象: 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄
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1. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

ある。そのまま、さはる柳、と受け取るべきである」とい で書きょこされた。その後、「たいせつな柳を一本去来に渡し 0 4 、つ ておいた」とは、支考にも話されたことがある。そのころまで じ・よ、つ・攣とっ・ 『浪化集』『続猿蓑』の両集にもこの句は除かれていたのである 丈草は「言葉の続き具合はどちらがよいか知らぬが、こ 抄 の句の趣向は支考のいう通りであろう」という。私は「さ が、『浪化集』編集の中途に先師は亡くなられたので、この句 来 てもと すがの両君もこの点を理解されぬのは残念である。これを が世に知られず、私の手許にだけ残るのを残念に思って、『浪 去 化集』に送ってあげたのである。 比喩にするのなら先師ならずとも誰でも詠むことができょ からくり う。柳の枝が直接に腫物にさわるとは、とても詠めるもの 〔ニ〕機関を踏み破れ う一ギ一 ひげ ではない。句の格も位もまた特別にすぐれている」と論じ 雪の日に兎の皮の髭つくれ芭蕉 ( 雪の日に、子供たちょ、兎の皮のつけ髭でもしてはね回っ きよりく たんじゃく たらよかろう ) 許六は「先師の書かれた短尺に、さはる柳、とある。そ ろちょう の上、柳のさはる、とすれば、上五がそこで切れて、下へ 魯町が「この句はどういう意味ですか」と尋ねた。私は くびきれ 続かぬ首切になる」という。私は「首切の事は私が理解し「まず前書に、子供と遊びて、とあるから、子供の遊戯と ているのと違っているが、今は論じたくない。先師の手紙思えばよい。しいて特別な意味があるように考えてはいけ にも、柳のさはる、と確かにあるのだ」というと、許六は ない。言葉の組立や表現の技巧などという理屈を離れたら、 「先師は自分の句を後で訂正されることが多い。自分で書理解できるだろう。昔、先師がこの句を語られた時、私は かれた真跡であっても、それを証拠にはしにくい」という。 ひどく感動した。その時先師は、この句を喜びそうな者は えつじん 支考・丈草・許六の三人とも「さはる柳」をとる説である。 お前と越人だけだと思っていたが、はたしてその通りであ この上は、後の賢者たちの判断にゆだねたい。 った、と格別によい御機嫌であった」と話した。 えちごうさぎ どういうわけであったか知らぬが、先師が「この句はお前に渡 ある人は「この雪というのは越後兎の縁から出たもので しておくが、必ず人にいいふらしてはならぬ」と江戸から手紙ある」といった。私は「この考え方の古くさいことは、あ

2. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

は早いだろうといわれたが、どうしてそれを知っていられじたのか」と笑われた。 4 たのであろうか。作者の私はそれに反して、いささかも気 三 0 〕自称と他称 いははな づかないことであった。 岩鼻やここにもひとり月の客去来 〔一九〕心境象徴の句 ( 明月を賞しながら遊歩する人は多いが、この岩頭にいる私 来 よさむ たびね もその一人だ ) 病雁の夜寒に落ちて旅表哉芭蕉 去 しやどう ( 一羽の病雁が列を離れて、夜寒の地上に降りた。その鳴き 先師が京に上られた時、私は「洒堂はこの句の下五を、 声を聞きながら、私も病む身をひとり旅寝することだ ) 月の猿、とするのがよいと申しますが、私は、月の客、が あまのやは小海老にまじるいとど哉同 まさっていようと申しました。いかがでしようか」と尋ね むしろ ( 漁夫の家には、ト / 海老が筵などに干してある。その中に混た。 じって、いとどがかすかに鳴いている ) 先師は「猿とは何事だ。お前はこの句をどう考えて作っ 『猿蓑』編集の時、先師は「この内の一句を入集せよ」と たのか」と反問された。 いわれた。凡兆は「病雁の句はなるほどよい句ですが、小 私は「明月にそそのかされて、句を案じながら山野を歩 海老にまじるいとど、というのは、句の自由な働きといい、 いていますと、岩の端に一人の風流人がいるのを見て詠ん しゅういっ 素材の新しさといい 、まことに秀逸の句です」といって、 だのです」と答えた。 入集を乞うた。 先師は「ここにもひとり月の客として私がいるよ、と月 私は「小海老の句は、素材は珍しいが、その素材さえ思 に対して名のり出たほうが、どれほど風流であるかしれな いつけば、私でも詠めそうな句です。病雁の句は、品格も 直接自分を詠んだ自称の句とするのがよい。 この句は 高く、情趣も幽遠で、とてもこの句境は考え及びません」 私も珍重して、『笈の小文』の中に書き入れておいた」と と論じて、ついに両句とも乞うて入集した。 いわれた。 その後、先師は「病雁の句を小海老の句と同じように論 私の趣向は先師の考えに比べるとやはり二、三等もおと びやうがん こえび こぶみ

3. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

芭蕉文集 一仙台市東北郊、岩切村入山の 東光寺門前付近の塩竈街道をいう。 ゆけ ぐわと すげこも かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十苻の菅有。今も年々ニ編目の十筋ある菅の菰を作る 材料の菅。歌枕。 すがごもととのヘ 三元来、坂上田村麻呂が奥州七 十苻の菅菰を調て国守に献ずと云り。 戸壺村の北に建てたと伝える碑 たがのじゃうあり つばのいしぶみ 『新古今集』ころまでの歌枕はそれ 壺碑市川村多賀城に有。 四 をさすが、寛文のころ伊達綱村の あまり ばかりかこけうがちもんじかすかなりしゆいこくかい つばの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺斗歟、苔を穿て文字幽也。四維国界代に多賀城址より一古碑が発掘さ れ、混同されるに至った。 おほののあそんあづまひとのおくところ このじゃうじんき あぜちちんじゅふ 之数里をしるす。「此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置四四方の隅の国境までの里数。 五聖武天皇の即位元年 ( 七一一四 ) 。 ゑみのあそんあさかりをさめつくる一一 とうかいとうせんのせつどしおなじく てんびやうほうじ 也。天平宝字六年、参議、東海東山節度使同将軍恵美朝臣朝臈修造也。十六地方官の治績や諸国の民情を 視察した役人。 おけ あた ありしゃうむ 一一月朔日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほくセ神亀元年 ( 七 = 四 ) 、陸奥出羽地 方の蝦夷鎮撫のため置かれた役所。 うづもれ くづれながれ かたりった 語伝ふといへども、山崩、川流て、道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は ^ 三本とも「所里」と誤記。 九奈良時代淳仁天皇の御代 ( 七六 おいわかき 老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至り = ) 。「聖武皇帝の御時」ではない。 一 0 奈良時代、東海道・東山道の あんぎや ぞんめいよろこ せんぎい かたみ うたがひ て疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇兵政を司るため臨時派遣した官職 = 三本とも「而」と誤記。 りよらう なみだおっ 。「タ 一ニ多賀城址の東方約言 旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。 されば潮風越してみちのくの野田 の玉川千鳥鳴くなり」 ( 新古今能 因 ) などで著名な歌枕 一三多賀城址の南東約三現、 の ついたち けん よ その けみ やまぎはとふすげあり ここ のヘ しはかぜ

4. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

い松尾宗房の風貌を、私は瞬間垣間見たような気がした。 ことのできる程度の範囲内であった。 蕉風のわび、さび、ほそみの世界の基底には、あらゆる華忍者屋敷では、この暑いのに、若いくの一 ( 女忍者 ) に らんじゅく 麗、あらゆる豊満、あらゆる爛熟があったはずなのだ。そ扮した市の女子職員が、実演に奮闘してくれた。芭蕉の母 ももち の充実があってこそ、「さらす」作業が成功したのであろは桃地氏の出身であったというから、百地三太夫の一族で あり、こんなところから芭蕉忍者説も出たのであろう。伊 後年の『野ざらし紀行』は、母が亡くなったあと、墓参賀甲賀の忍者はもともと同類で、伊の字を甲と書いただけ をかねての帰郷が発端となった。身も心も「さらす」作業のもの、という説明がおもしろかった。なるほど崩し字に は、漂泊の旅によってみごとにすすめられていく。その一すれば伊も甲も同じ字になる。 かったっ 番基になった談林俳諧の闊達軽妙な世界が、この、簡素な竹にかこまれた芭蕉翁記念館を出たころはようやくタぐ 伊賀の茅軒において、日ごと夜ごと、宗房の心にかもし出れの気配が迫っていた。そこで私も旅の俳人気取りになっ され、思い描かれたのである。才気に満ち、客気を帯びて、て腰折れを一句。 さっそう 若き宗房はこの地から颯爽と出発して行く。挫折と漂泊の 来てみれば秋喚ぶ声す竹の風 幾星霜が、その前に待っとも知らずに このあと私は、「みの虫の音を聞きに来よ草の庵」の句 とほう から名づけられた服部土芳の邸「蓑虫庵」 ( さちゅうあんと もいうが、土地ではみのむし庵という ) 、白鳳城のなかにある 「俳聖殿」、「芭蕉翁記念館」などを訪れてみた。どこもよ く手入れがゆきとどき、土地の人々の応接も、おっとりと 。「伊賀忍者」で名高い して親切で、たいそう気分がいい かぎや 「忍者屋敷」、荒木又右衛門の仇討で有名な「鍵屋の辻」な ども訪れてみたが、気候のよい時なら徒歩で結構歩き切る かいまみ 【メモ】 ・交通 電車 ( 近鉄 ) 名古屋ー伊賀神戸ー上野市 ( 約 2 時間分 ) 他に、国鉄・関西本線を利用するルートもある。 ・みどころ 芭蕉翁記念館 ( 上野市駅から徒歩 5 分。 0 堯五ー = 一 曜休 ) 芭蕉の真蹟や資料を展示。 ( 歌人 )

5. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

4 四故実 さらに卯七が「花の定座より前に花の句を出すことはあ次のように答えた、あの句の時、私は「花を桜に替えたい と思います」といったら、先師は「どういうわけか」と聞 りますか」と問うた。私は「花の句を引きあげて詠むのに かれた。私は「いったい、花は桜ではないという点につい は二種類がある。一つは、一座の中に尊重に値する人があ はなむこ ては、一応世間でもその法式に従っていて、花聟・茶の出 って、その人に花の句を詠んでほしい場合、その人の詠む 花なども華やかであるから花の句としています。しかし、 番の前になって春季の句を出して花の句を望むのである。 これを呼出しの花という。もう一つは、一座中の貴人や上華やかであるといっても、それにはより所があります。っ 手などは自由に他の所でも花の句を作るし、また両吟の場まりは、その咲く時節 ( 春 ) を離れてはならないと思いま す」といった。 合は互いに二句ずつ花を詠むのだから遠慮する必要はない。 先師は「だから、昔は花四句の中、一句は桜を用いた。 どこででも引きあげて作るのである。 ともかくも作っ さて、理由もなく花を呼び出すのは、呼び出す者の過失お前のいう所も理由のないことではない。 てみるがよい。しかし、普通の桜に替えたのでは甲斐がな であって、花の句の作者の罪ではない。また、理由もなく かろう」といわれた。私が「糸桜はら一ばいに咲きにけ 自分で引きあげて作るのは、無作法な作者である。これら の事は、遠慮のある正式の会席の法式である。ふだんの稽り」と詠むと、先師は「わがままな句だ」と笑われた、と。 〔を恋の句 古では適当にすればよい。花の句を人に譲ることもある。 卯七と野明が「蕉門では ( 連句の場合 ) 恋の句を一句だ これは花の句を一句ぜひ作ってほしいと思う人がいて、そ けで止めるのはどういうわけですか」と問うた。私は次の の人の句の順番が悪い時は、自分の句をその前にふりかえ ように答えた、私がこの事を先師に尋ねたら、次のように て、花の句をその人に渡すのである」と答えた。 し・よノはく しようか いわれた。「昔は恋の句数は一定していなかった。肖柏の 〔六〕正花と桜 ちよくせん 卯七が「『猿蓑』で、あなたは花の句を詠むべき所を桜時、勅宣によって二句以上五句となったのである。これが に替えられたのは、どういうわけですか」と問うた。私は正式興行の決りである。一句だけで止めないのは、たいせ か

6. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

芭蕉文集 104 きえ 手にとらば消んなみだぞあっき秋の霜 ( 母の白い遺髪を手にとると、慕い泣くわが熱い涙でそれは はかなく消えさるのではあるまいか。秋の霜のように ) ・一おり やまとのくにあんや かつらぎしも 大和国に行脚して、葛城の下の郡、竹の内という所に 行く。ここは例の千里の故郷なので、しばらく滞在して 旅の疲れを休めた。 わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく ( 綿弓のびんびんと打っ音を琵琶の音色と聞き、心を慰める たけやぶ 竹藪の奥の閑寂な住いよ ) ふたがみやまたいまでらもう 二上山の当麻寺に詣でて、庭の松を見ると、およそ千 年もたっていようかと思われ、その大いさは、かの『荘 子』にいう「牛を蔽す」はどともいえようか。松は人間 と違い、非情のものながら、寺の庭という仏の縁につな がって、斧にも切り倒されることのなかったのは、幸運 なことで、ありがたい仏の恵みといわなければならない。 のり あさがほい 僧朝顔幾死かへる法の松 ( この寺の僧も朝顔も、いままで幾代となく死に代ったこと だろう。それなのに、この松が仏縁にひかれて千年の長寿を おの かく 保ったのは、まことに尊いことだ ) ひとりで吉野の奥にたどり入ったところ、まことに山 が深く、白雲は峯に重なり合って湧き、けむるような霧 雨は谷々をうずめ尽して、そうしたなかに、木こりの家 などがところどころに小さく見え、西の方で木を切り倒 す音は、東にこだまし、あちこちの寺院で打ち鳴らす鐘 の音は、心の底にしみ徹ってくる。昔から、この山に入 って俗世間を遁れ住んだ人々は、たいてい詩や歌の世界 に心を潜めている。そう思えば、いやまさに、この山を、 唐土の名山である廬山に比そうとするのも、また尤もな ことではあるまいか とある寺の宿坊に一夜の宿を借りて、 きめたうち 碪打て我にきかせよや坊が妻 ( 吉野の秋の夜更け、さびしさが身にしみる。宿坊の妻よ、 きめた せめて砧でも打って聞せておくれ。私はその砧の音に、旅の さび 淋しさを慰めよう ) さいぎようしようにんそうあん 西行上人の草庵の跡は、奥の院から右の方へ二町ほ ど草深い道を分け入ったあたり、柴刈の行き来する道だ ( 原文一八ハー ) ひそ のが ろぎん とお わ もっと

7. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

403 先師評 先師が道を歩きながらいわれるには「このごろ其角の撰があって詠んだのであるが、それが句面には出ていないと 集にこの句がある。どう考えてこの句を入集したのだろう見える。これはいわゆる、作者の気持だけが先走って、そ とい , っことであ の考えが十分に句の上に表されていない、 か」と。 る。 私は「この句は、糸桜が十分に咲いている様子をよくい 〔毛〕芭蕉の機嫌 い尽しているのではないでしようか」と申しあげた。 ふみくに どろ なはしろみづ 泥がめや苗代水の畦うつり史邦 先師は「いい尽したとて何になるのだ」といわれた。 ( 水をいつばいに張った苗代田の畦を、泥亀が這い上がって これを聞いて、私は深く心に刻みつけられるものがあっ 次の田へと移ってゆく ) た。そして、発句に成り得ることと成り得ないことの区別 『猿蓑』編集の時、私は「畦うつり」を誤って「畦づた をはじめて知った。 ひ」と書いた。先師は「畦うつりと畦づたひとでは、その 三六〕意到りて句到らず うち おばろづき 実際の姿も表現の趣も、格段の違いがある。ことに和歌に 手をはなつ中に落ちけり朧月去来 かはづ ( 別れを惜しんで、互いに握っていた手を思い切って放した も、畦うつりして蛙なくなり、と詠まれている。このたい 折しも、いっしか朧月は西の山の端に落ちていた ) せつな景趣を誤ることは、ただ書き違えたというだけの罪 ろちょう ではなく、句を理解することがなおざりであるからだ」と これは、弟の魯町に別れる時の句である。先師はこれを いわれ、機嫌が悪かった。 評して「この句は悪いというのではないが、たくみな技巧 三 0 初心者の句 で、ただ事々しく見せかけたにすぎないものだ」といわれ ゅふペ じだらくに寝れば涼しきタ哉 ( 気ままに寝れば涼しいタである ) 私が思うには、、かにもこの句はたいした事でないのに、 そうじ 『猿蓑』編集の時、宗次が一句なりと集に入れてほしいと 表現の上でこしらえあげたような所がある。しかし、師の 評はまだ十分には納得できない。私の心中には、ある感慨願って、数句を詠んできたが、採用できる句はなかった。

8. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

一衰えて。 あさましうくづほれて、宵寐がちに朝おきしたるね覚の分別、なに事をかむさ ニ『風俗文選』に「むさぶる」。こ ばんなうぞうぢゃう ばる。おろかなる者は思ふことおほし。煩悩増長して一芸すぐるゝものは、是のあたりも、『徒然草』七段による。 三『徒然草』三十八段に「才能は 集 とんよくまかい いからこうきよく あて ひすぐる 文非の勝る物なり。是をもて世のいとなみに当て、貪欲の魔界に心を怒し、溝洫煩悩の増長せるなり」。「増長」は 蕉 易林本・饅頭屋本『節用集』に「ゾ らうにやく なんくわらうせんただりがいはきやく 芭におばれて生かす事あたはずと、南華老仙の唯利害を破却し、老若をわすれてウチャウ」。 四『風俗文選』の読みがなによる。 べんあり いふ おいたのしみ かん 閑にならむこそ、老の楽とは云べけれ。人来れば無用の弁有。出ては他の家業五『けふの昔』『風俗文選』等に 「あてゝ」。 とぢ と′ ) らうもんとギ、さ そんけい をさまたぐるもうし。孫敬が戸を閉て、杜五郎が門を鎖むには。友なきを友と六『節用集畧種、『日葡辞書』に 「 Tonyocu トンヨク」。 ぐわんぶみづからしよしみづからきんかい まづしきとめ セ田の間の溝。『風俗文選』に し、貧を富りとして、五十年の頑夫自書、自禁戒となす。 「コウケッ」と読みがなするが誤り。 かき ぢゃう ^ 救いようのない人生である。 ばせを あさがほや昼は鎖おろす門の垣 九荘子。南華真人と追贈。 一 0 憂し。つらいことだ。 一一『蒙求』に『楚国先賢伝』を引い あぎな て、「孫敬、字ハ文宝、常ニ戸ヲ 閉ヂ書ヲ読ミ」とある。 えいし。よら・ 三『宋史』に見える。穎昌の人。 三十年間、門を出なかった。木下 - ちト - うしようし 長嘯子の「うなゐ松」 ( 挙白集・巻 十 ) に「杜五郎とやらんを学ばねど : 」。芭蕉はこれによったか。 一三『風俗文選』の読みがなによる。 一四『風俗文選』には「自ー書シ」。 これ よひね と もん きた ぎめふんべっ ( 芭蕉庵小文庫 ) かげふ

9. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

0 懐紙は横半折の折紙を用い、折 来らんを、無理に止むるにはあらず。好句を思ふべからずといふ事なり」。 目を下にして、その表裏に句を記 其角日く「一巻にわが句九句十句ありとも、一、二句好句あらばよし。残らす。歌仙 ( 三 + 六句 ) は二枚、百韻 ( 百句 ) は四枚となる。一枚目を初 抄 おり 折、続いて二の折、三の折といし ず好句をせんと思ふは、却って不出来なる物なり。いまだ好句なからん内は、 来 最後を名残の折という。 一物付に同じ。 去随分好句を思ふべし」。 0 芭蕉の言葉として前に出た文と ほとんど同趣旨で、重複のきらい 〔三一〕物付のこと がある。 みあは ニ越中井波の瑞泉寺住職。蕉門 去来日く「付物にて付くること、当時嫌ひ侍れど、そのあたりを見合せ、一 で去来と親交があった。 すえつむ 三去来の付句。源氏の君が末摘 巻に一句二句あらんは、また風流なるべし」。 を訪れた時の面影付。恋人を通 用門から入れてやった、の意。 〔三ニ〕物語の句 四芭蕉の句「粽結ふかた手には らうくわ ひたひがみ さむ額髪」 ( 猿蓑 ) 。粽を笹の葉で ドこ物語などを用ゆる事はいかが」。去来日く「おなじく 浪化日く「今の諧冫 包みながら、片手で垂れさがる額 かどもりおきな こみかど まちびとい は一巻に一、二句あらまほし。猿蓑の、待人入れし小御門のかぎ、も門守の翁髪を掻きあげて耳に挟んでいる、 四 の意。浪化宛の書簡には「これも さく ちまき など すく なり。この撰集の時、物語等の句少なしとて、粽ゅふとの句を作して入れ給へ源氏のうちより思ひょられ候」と ある。 0 物語を面影にした句については り」。 浪化宛去来書簡に詳説されている 『猿蓑』についても、『源氏物語』を 〔三三〕風は変ず 下心にふくんだ句として、前例の 去来日く「凡そ、吟ある時は風あり。風は必ず変ず。これ自然の事なり。先外に「隣をかりて車引きこむ凡 きた ずいぶん まき きかく ひとまき せんじふ およ つけもの かへ さるみの 五 ふう カうく きら ん ひと はんせつ

10. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

ちよし 志田氏。本姓は竹田。別号に樗子・無名 芭蕉の門に入った。宝永三年、四十六歳 辯独吟二十歌仙』には嵐亭治助の名で歌 庵・浅茅生庵その他。元文五年 ( 一七四 0 ) 仙が収められている。芭蕉からは「両の の時剃髪し、記念に『庵の記』を編む。 正月三日没、七十八歳。越前福井の商家 手に桃と桜や草の餅」と其角とともに重 以後諸国に行脚し、門葉の獲得と撰集の はなのうつば ! に生れ、江戸に出て越後屋両替店の番頭 んじられた。芭蕉が没すると、『芭蕉一 抄 刊行につとめた。編著に『花虚木』『流 となる。宝永元年、辞して大坂に移り、 周忌』を編み、追悼の意を表した。句集 川集』その他がある。 ろちょう 樗木社を結んだが、享保七年、類焼した に『玄峰集』がある。 魯町 三一三三四一一三六八 あぎな 去 ため、翌年高津に浅茅生庵 ( 浅生庵 ) を浪化 向井元成。諱は兼丸。字は叙明。号は鳳 新築し、芭蕉の木曾塚の無名庵の名をつ 東本願寺十四世法主琢如上人 ( 俳号白 梧斎・礼焉。享保十二年二月九日没、七 け、無名庵高津野々翁と号した。元禄七 話 ) 遺腹の子。七歳で越中井波瑞泉寺十 十二歳。元升の三男で去来の弟。儒家と 年に孤屋・利牛と共編で『炭俵』を刊行。 一代の住職となる。十九歳の時、季吟門 して長崎の聖堂の祭酒、書物改役。天 きょやしようそこ 許六と論争した文書に「許野消息』があ の俳諧を学び、その後、去来の指導をう 文・本草・算用にも長じていた。蕉門 ろつう る。 け、その紹介で芭蕉に入門した。元禄七路通 三八七 やそむら いんべ 野明 三一一七三三一三八六 年、落柿舎で芭蕉に会い、去来とともに 露通・呂通とも書く。八十村氏また斎部 奥西氏、のち坂井氏。通称、作太夫包元。 三吟があった。八年四月には京都に滞留、 氏。元文三年没、九十歳。出生地は諸説 初号は鳳仭。正徳三年没か。筑前黒田藩 義仲寺に丈草を訪ねている。その編著 がある。芭蕉との初対面は貞享二年『野 ありそうみ 士であったが、致仕して京の嵯峨に住み、 『浪化集』は上巻『有磯海』、下巻『とな ざらし紀行』の折であった。貞享五年の 初めは常牧門であったが、のち蕉門に入 み山』で、去来・其角の援助を得ている。 春には江戸に芭蕉を訪ねている。元禄二 つるが り、去来と親しくした。その子小五郎に 十三年、上京の折には芭蕉の墓から小石 年『おくのほそ道』行脚の芭蕉を敦賀に らくし も句作がある。 を持ち帰り、井波に翁塚を建立した。 迎え、伊勢・伊賀・奈良に随行し、落柿 ろせん 嵐雪 三夭露川 舎・湖南でも教示を受けている。芭蕉は 服部氏。別号、嵐亭治助・雪中庵・不白 沢市郎右衛門別号、霧山軒・鱠山窟・ 「俳作妙を得たり」とか「この句細みあ 軒・玄峰堂その他。宝永四年十月十三日 月空居士など。伊賀国友生村に生る。名 り」など路通を評価したが、「其性不実 没。五十四歳。生地については定説がな 古屋札の辻渡辺家の養子となったが、の 軽薄」として門弟から憎まれ、師にも遠 若くから武家奉公をしたが、元禄三 ち沢氏を名乗り数珠商を営む。寛保三年 ざかった。『芭蕉翁行状記』がある。 年頃、致仕した。芭蕉に入門したのは延 ( 一七四三 ) 八月二十三日没、八十三歳。俳 宝三、四年のことらしい。同八年の『 諧は初め季吟・横船に学び、元禄四年、 青 らんせつ あさぢふ ろうか 三三六 かいぎんくっ 三 = 四三八四 しゃ