おくのほそ道 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄
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1. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

こぶみ ことは『笈の小文』『おくのほそ道』でも全く同様である。だから紀行と俳文とは切り離せない密接な関係 がある。ただし、俳文を狭く考え、紀行等に採録されない文章こそ真の俳文とするのも一つの考え方である。 集芭蕉は紀行について独特の考えを持っていた。それは『笈の小文』の中ではっきり示されている。すなわ あり その はれ 蕉ち「其日は雨降、昼より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどいふ事」 ( ↓三二ハ , 五行 ) は、旅 の事実を事実のままに書く旅行記であって、文学としての紀行ではなく、これらに対して自分の書く紀行は ま、つ′ ) せんげん よへ 「酔ル者の妄語にひとしく、いねる人の譫言するたぐひ」であるという主張である。旅の事実をそのままに 書く旅行記や、旅行記に類する紀行は、自分の書こうとする紀行とは次元が違うと芭蕉は言いたいように見 ごと える。酔っぱらいのいい加減なことばや、眠っている人間のうわ言は、正気の人間のことばではない。正気 の人間は、事実に忠実な、正確な旅行記を書くが、自分の書く紀行は、正気の人間の書くものではなく、風 さんくわんやてい 狂の人間が書くものだから、旅の事実に忠実な旅行記ではない。道中の心に残った風景や、「山舘・野亭の うれひ くるしき愁」をとりまぜて書いて、世間尋常の人とは違う、風狂の人間が風雅の世界をさまよい歩く旅のさ まを描こうとするのだと主張する。 ただし、そんな考え方がはっきり意識されて来たのは、元禄三、四年 ( 一六九 0 ~ 九 l) ごろ、『おくのほそ道』 の旅のあとのことで、それまでの『野ざらし紀行』や『鹿島詣』などには、自覚的にはっきり意識されては いなかった。元禄三、四年ごろ『笈の小文』にそんな紀行を書こうと芭蕉は考えたが、結局それは未完成の まま終ってしまった。芭蕉は『笈の小文』で書こうとした紀行の世界を、『おくのほそ道』の中で実現しょ うと試みたように見える。『笈の小文』の紀行論は、その意味で『おくのほそ道』の序論だとも一言えよう。 晩年の芭蕉が、胸の中に抱いていた風雅の理想図を書いたのが『おくのほそ道』であるからには、それが ふり

2. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

7 凡例 『おくのほそ道』については久富哲雄氏の協力を得た。 一、現代語訳は、できるだけ原文の味わいを忠実に伝えるよう留意し、ところによっては語順を変えて訳出 一、本書には、つぎの付録を付した。まず、芭蕉文集の巻末には、 紀行・日記編主要諸本異同表 : : : 主要な諸本間の異同を表示した。 また「校訂付記」については、底本を活字化する上での諸問題について略記した。これら二編は西村真 砂子氏を煩わした。 紀行・日記編地図 : : : 紀行・日記を読み解く便宜のために付した。次の『おくのほそ道』地名巡覧・主 要人物略伝ともども久富哲雄氏を煩わした。 『おくのほそ道』地名巡覧 : : : 本文中の地名・寺社名などにつき、順次、解説した。 『幻住庵記』『望月の残興』地名一覧 : : : 近江を舞台とする二作品の地名を解説した。 『幻住庵記』『望月の残興』出典解説 : : : 両作品の踏まえる典拠を解説した。 主要人物略伝 : : : 芭蕉と同時代の人物について、五十音順に配列し、解説した。登場するべージを付し、 索引としても利用し得るものとした。 初句索引 : : : 本文中の句について、初句を五十音順に配列した。 次に、『去来抄』巻末には、 主要俳人略伝 : : : 同門評を中心に、主要な俳人を選び、五十音順に配列し、主たる登場ページを付した。 初句索引 : : : 本文中の句について、初句を五十音順に配列した。

3. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

むなし 芭蕉翁生家 ( 広小路駅から徒歩 5 分。連絡先は記念館 / 火曜ときは俳文で言えば、『寒夜の辞』の「月に坐しては空き まくら たる 休 ) 奥庭には釣月軒がある。 檜をかこち、枕によりては薄きふすまを愁ふ」とか、『歌 さん ただこれてんらいじねん 蓑虫庵 ( 茅町駅から徒歩 5 分。 0 五空ー一一三ー八九一一一 / 月曜休 ) 土 仙の賛』の「 : : : 唯是天籟自然の作者、芭蕉は破れて風瓢 芳が『三冊子』を書いた草庵。 しん ( 飄 ) 々」とか、『閑居ノ箴』の「 : : : 物をもいはず、ひと 他に菩提寺の愛染院に故郷塚がある。 ・味 り酒のみて、心にとひ、いにかたる。庵の戸おしあけて、雪 さかづき 大和屋 ( 天神の横。 0 五ー = 一 ー一 0 全 ) ・わかや ( 鍵屋の辻の をながめ、又は盃をとりて、筆をそめ筆をすつ。あら物ぐ 近く。 0 五九五ー = 一ー四 0 六 0 ともに名物のでんがくがおいしい。 おきな のんき亭 ( 東町。 0 五空ー = 一 ー一 0 ) ュニークなフランス料理るおしの翁や / 酒のめばいとゞ寐られぬ夜の雪」など、比 のお店。コーヒーとクッキーが美味。 較的初期の俳文が好きだった。 こぶみ ・みやげ 紀行で言えば『おくのほそ道』より、『笈の小文』や 桔梗屋織居 ( 東町。 0 五九五ー一一一ー 0 一 = 三 ) 銘菓「五香の影」はお 『野ざらし紀行』のほうが好きだった。『おくのほそ道』は すすめ品。別に喫茶所がある。 あまりに文を飾り過ぎているような気がして、馴染めなか * 他に組紐や伊賀焼がある。 蕪村は、安永九年、六十五歳の晩春の夕暮、折から訪ね 芭蕉の変化と読者の変化 て来た門人の几董に対し、正挫に坐りなおして次のように 一口たとい , っ 我むかし東武に在てひとり蕉翁の幽懐を探り、句を吐 かうまい 井本農一 事瀟洒、もはらみなし栗・冬の日の高邁をしたふ。し 私は若いときから芭蕉を読んで今日に至っているが、当 かれども世人其佳興をしらず。時に蕪村年二十有七歳、 然のことながら、若いときの読み方と年をとってからの読 いまだ弱うして句法の老たるをもて、世人我を見るこ み方とは違っている。 と仇敵のごとくす。 ( 下略 ) ももすもも まず、芭蕉の作品に対する好みが違って来ている。若い 几董の記すこの文は、安永九年十一月刊の『桃李』に収 が 、一と きとう おい へう

4. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

録された蕪村と几董の両吟歌仙二巻の原懐紙を、几董が秘菴再興記』には元禄期の芭蕉の句をしきりに挙げるなど、 蔵していたところ、蕪村没後五年の天明七年に、同門の下「虚栗・冬の日の高邁」ばかりを慕ってはいない。 しゅんば 村春坡の懇望に抗し難く譲った折の譲り状の文の一節であ 私を蕪村に比すことの潜越は勿論だが、私にしても、 る。 ーし、かーし つまでも初期の芭蕉に心酔していたわけではない。 従来『桃李』のはしがきなどとする書もあるので蛇足を『おくのほそ道』のおもしろさが少し解って来たのは、知 記したが、これによると、二十七歳ごろの蕪村は、芭蕉の命に至ってからのような気がする。芭蕉がただ美文を書こ みなしぐり 初期の作風を慕っていたことが解る。「虚栗・冬の日」と うとしたのではなく、長途の旅を素材にして、そこに遊ぶ 一一 = ロえば、『虚栗』の出板が天和三年で、『冬の日』の成った「予」という風雅人の姿を通して、風雅の理想を読者に訴 のが翌年の初冬であるから、だいたい天和時代、すなわちえようとしていることが少し解ったからである。芭蕉が書 いんせい 芭蕉が深川へ隠栖し、自己の蕉風確立に腐心したころの作 いたのは、芭蕉の抱懐する風雅の理想図だということが解 風である。俳文で言えば、私が前に挙げた『寒夜の辞』やって『おくのほそ道』を読むと、このおとなの文学に深く 『歌仙の賛』の書かれたころである。若かった蕪村は、『お共感できるようになった。 ばつぶん くのほそ道』などより『虚栗』の芭蕉の跋文の高揚した精若いころは鵐外の『舞姫』や名訳と評価の高い『即興詩 神に共鳴したに相違ない。、 しわゆる中興俳諧の名家の中に、人』がおもしろく、年をとると史伝小説をくり返し読むよ 天和・延宝から『冬の日』時代の蕉風を慕った人々がいた うになるように、作家も成長するが、読者の好みも年齢に ことは、安永二年刊『あけ烏』の自序に几董が「今や不易応じて変化し、若いころ解らなかった作品のよさが解るよ まなこひらく すでに の正風に、眼を開るの時至れるならんかし。既、尾張 ( 暁うになる。有難いことである。私は現役を退いたら読もう かかげ 台 ) は五歌仙に冬の日の光を挑んとす。 ( 中略 ) 加賀州中と思う本が書棚に充満している。楽しみである。読んだら はうふつ ( 麦水・闌更 ) に天和・延宝の調に髣髴たる一派あり。 また書き遺したいことが出てくるであろう。天がその暇を ・ : 」と書いている通りである。しかしその蕪村も熟年に与えてくれるだろうか。 なると『おくのほそ道』の画巻や屏風を書き、『洛東芭蕉 がらす

5. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

たいすい ( 以下、乙州本と略称 ) を定稿と考えて底本とした。岱水編『木曾の谿」 ( 宝永元年刊 ) 所収のものは、杉風筆 と推定される付記によって、芭蕉が旅のあと平生世話になっている杉風のために書いた真蹟によるものと推 集定され、本文の上から見ても、初稿か、初稿に近いものと考えられる。もっとも、同書を定稿と考え、乙州 蕉本は真蹟草稿の写しとする村松友次氏の説 ( 「更科紀行の成立」〈『東洋大学短期大学紀要』一号〉、「更科紀行の成立続 考」〈『文学論藻』四 + 六号〉 ) があり、傾聴すべき点もあるが、『木曾の谿』本定稿説については、芭蕉は旅のあ となるべく早い時期に杉風に旅の記を書いて贈る習わしがある点なども考え合せ、諸本の問題は、しばらく 前記のように考えておく。 おくのほそ道 『更科紀行』の旅から江戸の芭蕉庵へ八月二十日ごろに戻った芭蕉は、元禄二年 ( 一六八九 ) の正月を迎えると、 もう『おくのほそ道』の旅に遊意を動かしている。実際の出発は三月下旬になったが、予定は三月三日の節 しら たち 句過ぎ出立であった。二月十五日付桐葉宛書簡に「拙者三月節句過早々、松嶋の朧月見にとおもひ立候。白 おうら かはしほがま ひな ・塩竈の桜御浦やましかるべく候」とあり、三月の雛節句の後すぐ出立し、桜の咲くころ塩竈に着く予定 すかがわとうきゅう だったことがわかる。しかし実際の出立は、白川の先の須賀川の等躬からまだ余寒がきびしいとの便りがあ ったりして、杉風やその他の門人に引きとめられ ( 杉風詠草詞書〈藤井乙男著江戸文学叢説』所収〉 ) 『おくのほそ 道』本文にあるように、三月二十七日に江戸深川を出立した。そのことは須賀川の等躬宅から杉風に宛てた、 うづき づけ せんじゅ そら 元禄二年卯月 ( 四月 ) 二十六日付の書簡によっても裏付けられる。千住から曾良を供に歩き出し、奥羽・ おおがき 陸の各地を踏破して、その年の八月二十日過ぎ大垣にたどりついた。この間約五か月、道のりは六百里 ( 約 かんなん 二三四〇キロ ) に近いといわれ、宿駅制も道路も完備していない地方の旅なので艱難も多かった。しかし、 とうよう すぎさう一う しおがま

6. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

旅の事実と相違したり、なかった事を付け加えたり、大胆な省略をしたりしているのは、当り前のことであ る。『笈の小文』と『おくのほそ道』とは、実在の人間芭蕉とは違う、「芭蕉」という風狂人を主人公にした、 いわば私小説のようなものである。私小説は、作者らしき人物を主人公にはしていても、作者の伝記ではな ふり はれ い。私小説は小説なのだから「其日は雨降、昼より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどいふ 事」を事実のままに書いて済せているはずはない。芭蕉の紀行は、『笈の小文』は未完成であるからはすす とすれば、『おくのほそ道』に至ってはじめて、紀行という形を借りた、いわば私小説的な文学作品になっ たのだといえようか。ここに至って、従来のわが国の紀行の型を踏襲しながら、実はまったく次元を異にす る文学が出現したことになる。 日記の方法 さがにつき 芭蕉の日記は『嵯峨日記』だけであるが、日記といってもただ毎日の事実を事実のままに書いたものでは なく、世間尋常の人間とは異なる、風雅の隠者の風雅的世界を提示している点で、晩年の紀行に似た性質を そら 持っている。たとえば、曾良が嵯峨に芭蕉を訪ねた記事は、曾良の『旅日記』によれば「二日天晴、巳ノ あふ ゐあはせ おもむく げこくいんしゃうばんてう 下刻、允昌 ( 凡兆 ) へ寄テ、妙心寺ヲ見テ、サガへ趣、翁 ( 芭蕉 ) ニ逢。去来居合、船ニテ大井川ニ遊プ。 雨降ル故帰ル。次第ニ雨甚シーであって、文字通りの事実の日記であるが、同日の『嵯峨日記』には「二日 かれこれとり だん まうではべ ぶかう たづね 曾良来リテ、よし野ゝ花を尋て熊野に詣侍るよし。武江旧友・門人のはな〔し〕、彼是取まぜて談ズ。 / くま 解の路や分っゝ入ば夏の海曾良 / 大峯やよしのゝ奥を花の果 / タ陽にかゝりて大井川に舟をうかべて、嵐山 となせ および にそふて戸難瀬をのばる。雨降り出て、暮ニ及て帰る」とある。『嵯峨日記』は人に見せる意図はなかった であろうし、『おくのほそ道』ほど、意識した構成を持っていないし、完成もされていないが、ある程度な よっ その はて あり

7. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

芭蕉文集 紀行・日記編 野ギ、らし , 紀 ( 打・ 鹿島詣 : 笈の小文 : 更科紀行 : おくのほそ道 : 嵯峨日記 : 校訂付記 : 凡例 : 目次 井本農一校注・訳 原文現代語訳 ・ : 四六・ : ・ : 一 0 九

8. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

ふえきりゅうこう 旅中多くの名所旧蹟をめぐり歩き、その間、不易流行の俳論を工夫して、自己の芸術の新境地開拓に資する ところが大であった。 この大旅行を素材にした紀行が『おくのほそ道』であって、それは芭蕉の紀行として最大長編であるばか りでなく、質的にも紀行の総決算的な意義を持つものである。ただしすでに述べたように『おくのほそ道』 は旅の事実を忠実に記録した作品ではなく、この大旅行を素材にして、芭蕉の胸中の風雅の理想図を描いた、 いわば一種の私小説である。成立も次に述べるように、旅行後四年もたった頃の執筆であるから、旅行当時 の芭蕉の心境がそのまま綴られているとも思えない。むしろ執筆時の芭蕉の心境に近いであろう。 成立時期について決定的に言うことはできないが、元禄五年の後半から六年前半ごろまでに或る程度の草 オ・い′一う 稿がまとめられたかと想像する ( 拙著『芭蕉の文学の研究』角川書店刊 ) 。草稿が成ったのちも推敲が重ねられ、 定稿が成ったのは、元禄六年末か七年春に及ぶであろうか。芭蕉が自分の所持本にするために自筆稿本を素 りゅう 龍に清書させた、いわゆる素龍筆芭蕉所持本の成ったのが、元禄七年初夏 ( 素龍跋 ) である。 諸本については次の三本が基本的なものであるから、まずこれらについて略説する。 曰素龍筆芭蕉所持本 ( 以下、素龍本と略称 ) ・・ : : 芭蕉が自筆稿本を、浅草自性院の住職で、能書家で、蕉門 だいせん 説でもある素龍に清書させたもので、元禄七年初夏に成り、題簽は芭蕉みずから「おくのほそ道」と書いて自 たて ばつぶん 分用にした本である。最後に素龍の跋文が付いている。縦五寸五分 ( 約一六・七じ、横四寸七分 ( 一四・二 ますがた 解 ) の桝形本。芭蕉は元禄七年五月十一日江戸を立って最後の上方の旅に出るが、この旅にも携行して、故 郷の兄の家に置かれていたらしい。芭蕉没後、遺言によって去来に贈られた。現在、敦賀市郊外の西村家蔵。 今回の翻刻の底本である。別に複製本がある。

9. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

芭蕉文集 128 月日は百代にわたって旅を続けて行くものであり、来て は去り去っては来る年々も、また同じように旅人である。 舟の上に身を浮べて一生を送り、旅人や荷物を乗せる馬を ひいて生涯を過し、老年を迎える者は、日々が旅であって、 旅そのものを常の住みかとしている。風雅の道の古人たち も、たくさん旅中に死んでいる。わたくしもいつのころか らか、ちぎれ雲を吹きとばす風に誘われて、漂泊の思いが 三月も下旬になっての二十七日、あけばのの空はおばろ や かす ありあけづき 止まず、この年ごろは、海沿いのあたりをさまよい歩き、 に霞み、月は有明月で、光は薄らいでいるが、富士の峰が ゃなか こずえ 去年の秋、隅田川のほとりの破れ家にもどり、蜘蛛の古巣かすかに見え、近いあたりの上野・谷中の花の梢をまたい すま を払って久しぶりの住いにようやく年も暮れたのだ。が、 つの日に見られようかと、心細い思いがする。むつまじい かすみ 新しい年ともなれば、立春の霞こめる空のもとに白河の関人々はみな、前の晩から集って、今日の門出に一緒に隅田 せんじゅ を越えたいと願い、そぞろ神にとりつかれて物狂おしく、 リを舟に乗って送ってくれる。千住という所で舟から上が 道祖神の旅へ出てこいという招きにあって、取るものも手ると、いよいよ人々と別れて、三千里もの長い旅に出るの ももひ ゅめまばろし につかない。股引きの破れをつづくり、笠の緒をつけかえ だなあという感慨が胸に一ばいになって、この世は夢幻 きゅう ちまた て、三里に灸をすえると、もう心はいっか旅の上ーーー松島と観ずるものの、しかしその幻の巷に立って、いまさらな の月の美しさはと、そんなことが気になるばかりで、二度がら離別の涙を流すのであった。 みち おくのほそ道 〔こ かさ と帰れるかどうかもわからない旅であるから、いままで住 さんぶう んでいた芭蕉庵は人に譲り、杉風の別荘に移ったころ、 すみかは 草の戸も住替る代そひなの家 ( わびしい草庵も自分の次の住人がもう代り住んで、時も雛 まつり 祭のころ、さすがに自分のような世捨人とは異なり、雛を飾 った家になっていることよ ) おもて いおり と詠んで、この句を発句にして、面八句をつらね、庵の柱 に掛けておいた。 ( 原文五〇ハー ) ひな

10. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

紀行・日記編主要諸本異同表 紀行・日記編地図 『おくのほそ道』地名巡覧 『幻住庵記』『望月の残興』地名一覧 『幻住庵記』『望月の残興』出典解説 主要人物略伝 初句索引