四俳意については「タ涼み」の条 〔九〕人を見て法を説く を参照。↓三一五ハー注六。 たと あるい 五「修行」のはじめにも「歌は基 去来日く「先師は門人に教へ給ふに、或は大いに替りたる事あり。譬へば、 うち なり。その内品あり。俳諧はその ねん 予に示し給ふには、句々さのみ念を入るるものにあらす。また、一句は手強く、一つなり」 ( ↓三六四ハー一一行 ) と ある。 わづ ばんてう たし 俳意慥かに作すべし、となり。凡兆には、一句僅かに十七字、一字もおろそか六『旅寝論』に「俳諧といへども 風雅の一筋なれば、姿かたちいや しく作りなすべからすとなり」と に置くべからず。俳諧もさすがに和歌の一体なり。一句にしをりのあるやうに あるに同じ。 セ「こうしつ」とも読める。 作すべし、となり。 0 人を見て法を説くのが芭蕉の指 やから きしゃうくちぐせ 是は作者の気性とロ質によりてなり。あしく心得たる輩は迷ふべきすぢなり。導法である。門人の性格や詠み癖 に即して、その作風を伸長させよ うとしたのであるが、未熟な門人 同門のうち、是に迷ひを取る人も多し」。 には誤解も生じやすかったわけで ある。 〔一 0 〕取合せ しやだう じゃうばん かしら 先師日く「発句は頭よりすらすらといひ下し来るを上品とす」。洒堂日く ^ 『旅寝論』によれば洒堂は江戸 で芭蕉から同趣旨の注意を受け、 なんぢ 「帰京の後、前非を悔ゅ」とある。 行「先師、発句は汝が如く二つ三つ取り集めする物にあらず。こがねを打ちのべ たるが如くなるべし、となり」。 修 よ とりあは じゃうず あは しゆったい 先師日く「発句は物を合すれば出来せり。その能く取合するを上手といひ、 これ . キ一ト ` りく 悪しきを下手といふ」。許六日く「発句は取合せ物なり。先師日く、是ほど仕 へた き一く くだきた し
去来抄 3 さいぎゃうのういん くべし、と直し給ひ、いかさま西行・能因の面影ならん、となり。また、人を一『猿蓑』所収。元禄四年 ( 一六九 D おレ」′、に 作。前句は芭蕉。付句は乙州で くらのかみ 「内蔵頭かと呼ぶ声はたれ」とある。 定めていふのみにもあらず。たとへば、 前句は、出家して最初に伊勢の鈴 すずかやま ほっしん 鹿山を越えてゆく、の意。付句は、 発心のはじめにこゆる鈴鹿山 そなたは内蔵頭ではないかと呼び らのかみ ひと かける者がある、誰であろうか、 内蔵頭かと呼ぶ人はたそ の意。 おもかげ・ 先師日く、いかさまたそが面影ならん、となり。面影の事、支考も書き置かれニ『東西夜話』 ( 元禄十四年刊 ) そ の他 0 浪化宛の去来書簡にも「当流に たり。参考せらるべし」。 面影を以て句を付け申し候御座候 三三〕付ける場 これは古人の仕りたる事をその通 りに句に仕り候へば、故事にて御 つけく 支考日く「付句は一句に一句なり。前句付などは幾つもあるべし。連俳に至座候」とて、この句をあげている。 みあは せつ 一つの前句に対して幾つもの りては、その場・その人・その節の前後の見合せありて、一句に多くはなき物三 付句を試みるもので、初めは付合 の稽古として行われたが、後に。 なり」。 遊戯化した。 四長形式の連句。 去来日く「付句は一句に千万なり。故に俳諧変化極りなし。支考が一句に一 句といへるは、付くる場の事なるべし。付くる場は多くなきものなり。句は一 0 支考の一句一句説は『東華集』 ( 元禄十三年刊 ) に詳しい っ場の内にも、幾つもあるべし」。 三巴気色の句 けしき まへくづけ きはま しかう れんばい いた とうか
4 四故実 さらに卯七が「花の定座より前に花の句を出すことはあ次のように答えた、あの句の時、私は「花を桜に替えたい と思います」といったら、先師は「どういうわけか」と聞 りますか」と問うた。私は「花の句を引きあげて詠むのに かれた。私は「いったい、花は桜ではないという点につい は二種類がある。一つは、一座の中に尊重に値する人があ はなむこ ては、一応世間でもその法式に従っていて、花聟・茶の出 って、その人に花の句を詠んでほしい場合、その人の詠む 花なども華やかであるから花の句としています。しかし、 番の前になって春季の句を出して花の句を望むのである。 これを呼出しの花という。もう一つは、一座中の貴人や上華やかであるといっても、それにはより所があります。っ 手などは自由に他の所でも花の句を作るし、また両吟の場まりは、その咲く時節 ( 春 ) を離れてはならないと思いま す」といった。 合は互いに二句ずつ花を詠むのだから遠慮する必要はない。 先師は「だから、昔は花四句の中、一句は桜を用いた。 どこででも引きあげて作るのである。 ともかくも作っ さて、理由もなく花を呼び出すのは、呼び出す者の過失お前のいう所も理由のないことではない。 てみるがよい。しかし、普通の桜に替えたのでは甲斐がな であって、花の句の作者の罪ではない。また、理由もなく かろう」といわれた。私が「糸桜はら一ばいに咲きにけ 自分で引きあげて作るのは、無作法な作者である。これら の事は、遠慮のある正式の会席の法式である。ふだんの稽り」と詠むと、先師は「わがままな句だ」と笑われた、と。 〔を恋の句 古では適当にすればよい。花の句を人に譲ることもある。 卯七と野明が「蕉門では ( 連句の場合 ) 恋の句を一句だ これは花の句を一句ぜひ作ってほしいと思う人がいて、そ けで止めるのはどういうわけですか」と問うた。私は次の の人の句の順番が悪い時は、自分の句をその前にふりかえ ように答えた、私がこの事を先師に尋ねたら、次のように て、花の句をその人に渡すのである」と答えた。 し・よノはく しようか いわれた。「昔は恋の句数は一定していなかった。肖柏の 〔六〕正花と桜 ちよくせん 卯七が「『猿蓑』で、あなたは花の句を詠むべき所を桜時、勅宣によって二句以上五句となったのである。これが に替えられたのは、どういうわけですか」と問うた。私は正式興行の決りである。一句だけで止めないのは、たいせ か
があるのを人は知らないでいる、とおっしやった」といっ は、「一句一句にさほど念を入れるものではない た。それについて、私は「物を取り合せて作る時は句も多 一句はしつかりと、俳意を確かに持たせよ」と教えられた。 ばんちょう くできるし、速やかに詠むこともできる。初学の人はこの ところが、凡兆には「一句は僅か十七字にすぎない。一字 もおろそかに扱ってはならない。俳諧もやはり和歌の一体方法を考えてみるのがよい。しかし、上達した後は、取り せんさい 合せるとか取り合せないとかは問題でなくなる」と考える である。だから一句に繊細な情趣があるように作らねばな のである。 らぬ」といわれた。 三〕曲輪の内外 これは作者の性格やその詠み癖を見分けて教示されたも 許六は「発句を作るには、題号の範囲を出て、遠く離れ のである。先師の真意を汲み取り得ない連中は誤解しやす た所に題材を求めるがよい。題号の範囲内には新しい題材 い点である。事実、同門の中でもこの点で誤解する者が少 はないものである。たまたま題号の内に求められる題材は まれ 類型的な物を捜し当てるのであり、そこに新しい題材は希 〔一 0 〕取合せ にしかないものである」といった。 先師は「発句は上の五文字からすらすらといい下すのが しやどう それについて私はこう考える。発句の題材は題号の範囲 上等な句である」といわれた。洒堂は「先師が、発句はお ことにその場で、いに感じたことを 内にないわけではない。 前のように事物を二つ三つ取り合せて作るものではない。 そのまま詠む句は、多くは題号の内に題材があるものだ。 黄金を打ちのべたように作らねばならぬ、と示された」と 行 っこ 0 しかし、平常句を案ずる時は、題号の内にある題材は少な かす 。その多くは古人がすでに詠み古した糟である。題号の また、先師は「発句は物を取り合せるとできるものであ 修 、悪く取り合せる範囲から遠くかけ離れた所に題材を求めて詠めば、句が多 る。そのよく取り合せるのを上手といし きよりく くできるだけでなく、第一に類想をのがれることになる。 のを下手という」ともいわれた。許六は「発句は物と物と らんこく を取り合せるものである。先師も、これほどしやすいこと蘭国の俳諧はどの句も題号の内で詠んでいる。この事を実 くるわ
去来抄 438 として一小し、また俳風は時々に変化すべきことを知り、不がよい。これを知り得た時は、句の新しさと古さが自然に 易の句と流行の句を区別して教えられたのである。しかし、 判別されてくるものである。 先師は宗因を高く評価して、常に「前に宗因がいなかった 俳諧を修行する者は、自分の好きな俳風をもっ先輩の句 ら、我々の俳諧は今もって貞徳の古風を模倣するにすぎな を一筋に尊び学んで、その句の一つ一つに疑問をいだいた かったであろう。宗因は俳諧道の中興の祖である」といわり、欠点を捜して非難を加えたりしてはならぬ。もし理解 れた、と。 しにくい句があれば、なにか訳があるだろうと自分でよく 〔セ〕不易流行の諸説 考えてみたり、あるいはその道の熟練者に尋ねて明らかに じようそう 丈草は「不易の句も、当時の人がその句体を好んで作るするがよい。自分の俳諧が上達するにつれて、人の句も分 ようになれば、これもまた流行の句といってよい」といっ るようになるものだ。最初から一句一句に注文をつけがち まさひで た。先師が亡くなられた時、正秀は「これより後もきっと な作者は、それを吟味しているうちに月日がたってしまっ さまざまの変風が起るだろう。しかし、私はそのような変て、ついに上達したという例を見ないものである、と。 風には興味がない。ただ不易の句を楽しみたい」といった。 先師は「今の俳諧は平素よくエ夫を積んで、句会の席に 私は、蕉門にはさまざまの不易流行説がある。あるいは臨んでは気勢で句を吐き出すようにしなければならぬ。あ 今日の一句一句について古いとか新しいとかいう説もある。れこれと思案にふけってはいけない」といわれた。 によらいぜん これも流行でないとはいえない。 しかし、不易流行の教え 支考は「昔の俳諧は如来禅のように理詰めに付合がなさ というのは、俳諧の本体を不易とし、その時々の変風を流れたが、今の俳諧は祖師禅のように押えつけたと思うと離 行というのである、と考える。 れるというふうに、理詰めに運ばぬ付合である」といった。 〔 ^ 〕先達に学べ 〔九〕人を見て法を説く 私はこう考える。俳諧を修行しようと思うなら、昔から 先師は門人に教えられるのに、人によってはひどく違っ のその時々の俳風や宗匠たちの句体をよく考えて知り尽すたことをいわれる場合がある。たとえば、私に示されるに ( 原文三七〇ハー )
去来抄 444 くらのかみ おもかげづけ 〔一三〕面影付 内蔵頭かと呼ぶ人はたそ 牡年が「面影で付けるというのは、どういうことです ( そなたは内蔵頭ではないかと呼びかけるのは、誰であろう か ) か」と問うた。私は次のように答えた。移り・響・匂いは、 付ける時の程合いである。面影というのは、付け方そのも という付句に対して、先師は「いかにもこれは誰かの面影 のをいうのである。昔は多くその事を直接に付けたが、今 であろう」といわれた。面影のことは支考も書いているか はその事をばんやりと想像されるように付けるのである。 ら、参考にされるがよい、と。 たとえば、 三三〕付ける場 、しばら 草庵に暫く居てはうち破り芭蕉 支考は「付句というものは、一つの前句に対して一つの ( 草庵にしばらくいたが、またそこを捨てて立ち去る ) 付句があるだけである。前句付などは、一つの前句に対し うれ せんじふ た 命嬉しき撰集の沙汰去来 て幾つもの付句があってよい。しかし連俳になると、前句 へんさん ( 命ながらえたおかげで、勅撰集編纂の便りに接した ) に詠まれた場所や人物や時節などの前後の関係をよく見合 この付句を、初めは「和歌の奥儀は知らず候」というふう せる必要があるので、一つの前句に対して多くの付句はで さいぎようのういん に付けた。先師はこれに対して、「前句を西行や能因の境きないものである」といった。 涯と見たのはよい。しかし、直接に西行と分るように付け 私の考えでは、付句は一つの前句に対して千万でもあり るのは拙劣であろう。ただ面影で付けるがよい」といって うる。だから、俳諧は変化極りないものである。支考が一 今の句形に直され、「いかにも西行や能因の面影であろう」句に一句といったのは、最もふさわしい場面は一つしかな といわれた。また、面影というのは、特定の人の面影を詠 いという意味であろう。なるほど付ける場面は多くはない むとは限らない。たとえば、 ものである。しかし、付句はその一つの場面の内にも幾つ ほっしん すずかやま もあり , つると思 , つ。 発心のはじめにこゆる鈴鹿山 ( 出家して最初に伊勢の鈴鹿山を越えてゆく ) 三四〕気色の句 けしき
ろそかに置くべからず。俳諧もさすがに和歌の一体な り。一句にしをりのあるやうに作すべし、となり。 ( 去来抄・修行↓本文三七一ページ ) こういう例は他にも拾い出せるが、実作指導としてはむ 栗山理一 しろ当然のことであり、かならずしも矛盾とはいえない。 りゅうきよりく うだのほうし これらは実作の場に即しての発言であるが、一般的な俳諧 李由・許六編の『宇陀法師』には芭蕉について次のよう かもく 理論に関しては、きわめて寡黙であったように思われる。 な一節をしるしている。 その 先師一生人の尋ねぬ事をもて出でて語らぬ人也。其人『去来抄』や『三冊子』は芭蕉の言説に整序を与えようと まなこ の眼に見えざれば尋ぬる事を知らず。尋ねざれば教への試みはあったとしても、その理論を体系的に改変し、理 ず。一生知らずして果てたる、残り多し。 論に構造を与えようとしたのではない。芸術観としての芭 さんぞうし とほう 李由・許六は『去来抄』の去来や『三冊子』の土芳など蕉の俳諧美論は、そのすぐれた芸術体験に裏打ちされたも 7 ぜあみ とともに、門人の中でもよく見える眼をもち、進んで芭蕉のだけに、その独創性と深さにおいては世阿弥の能芸論に の教示を仰いだからこそ、芭蕉の言説を書き留めえたとい比肩するものがあるが、その理論の体系化という点におい うことになろう。しかも『去来抄』などでも知られるようては、世阿弥にはあっても芭蕉にはなかった。 、芭蕉の指導法は人によって法を説く対機説法であった『去来抄』や『三冊子』の記述も、芭蕉の言説の年次を明 記したものは少ない 。したがって、その理論の生成過程を ため、門人の間には理解の食い違いを生ずることにもなっ た。たとえば去来はつぎのように語っている。 年代的に追跡することは困難である。おそらく、芭蕉の文 あるい 先師は門人に教へ給ふに、或は大いに替りたる事あり。学体験、さらには生の思想が熟成する過程において、さま ねん 譬へば、予に示し給ふには、句々さのみ念を入るるもざまに交錯し流動する思念が相互に結合を求めながら次第 たし しゅうれん のにあらず。また、一句は手強く、俳意慥かに作すべ に収斂されていったものであろう。けれども、芭蕉に体系 ばんてう し、となり。凡兆には、一句僅かに十七字、一字もお的な叙述がないことや、直接に書き残した言説がきわめて たと 寡カ 黙を の 人 わづ かは さく
ふう にいいかけた技巧である。 得て、風を変ずる事をしらず。 五花に水揚をして咲かせるとい そういん 宗因師、一たびそのこりかたまりたるを打ち破り給ひ、新風天下に流行し侍うことを、華道の天竜寺派と、竜 が水をあげて天上することにい、 たちこふう かけた句。 れど、いまだこの教なし。然りしよりこのかた、都鄙の宗匠達、古風を用ひず、 いったんりうりう 一旦流々を起せりといへども、またその風をながくおのが物として、時々変ず べき道をしらす。 先師、はじめて俳諧の本体を見つけ、不易の句を立て、また風は時々に変あ る事をしり、不易と流行との句を分かち教へ給ふなり。然れども先師常に日く、六創始者。 0 不易流行論の続きであるが、主 いまもっていとくよだれ 上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎をねぶるべし。宗因はこの道のとして変風 ( 流行 ) に触れ、不易の 六 句即変風とする一元性をかいまみ ちゅうこうかいさん ている。ただし句体の問題として 中興開山なり、となり」。 捉えているため、やはり混乱は免 れない。貞徳よりも宗因を推重し 〔セ〕不易流行の諸説 ているのは、その大胆な変風の意 これ ぢゃうさう 行丈草日く「不易の句も、当時その体を好みてはやらば、是もまた流行の句義を認めたからにほかならない。 せんげ といふべし」。先師遷化の時、正秀日く「これより後も定めて変風あらん。そセ遷は遷移、化は化滅の意で、 高僧などの死に用いる語。 修 の風好みなし。ただ不易の句を楽しまん」。 ^ 一句一句について新古を区別 あるい せうもん 去来日く「蕉門、不易流行の説々あり。或は今日の一句一句の上をいふ説あする説もある、の意。 かみ この ひと をしへ し まさひで とひ しんぶう ときどき つね
( この杖突坂は、歩いてなら杖をつくところを、馬に乗った 姥らもさぞな嬉しかるらん ばかりに落馬してしまった ) ( 育てた姥らも、さぞかし嬉しいことだろう ) があり、また、 まりこ川蹴ればぞ浪はあがりけり さんぶう ( まりこ川を渡る時、馬が荒れたので、浪がはねあがった ) 何となく柴吹く風も哀れなり杉風 ( 柴を吹き渡る風も、なんとなく哀れに感じられる ) かかりあしくや人の見るらん などがある。 ( 浪がかかって困っていると人は見るだろう ) いま一つは、言葉に季語はないけれども、一句全体に季 とある。これらは、てには留めの脇の例証となる句である。 さいたん 節を感ずる所があって、あるいは歳旦 ( 元旦 ) の句とか、 第三も同様である」。 〔三〕無季の句 名月の句と定まるものである。たとえば、 めん としどし 年々や猿に着せたる猿の面芭蕉 卯七が「蕉門では無季の句を発句として連句を巻くこと ( 毎年正月にやってくる猿引は、猿に同じ面をかぶせている がありますか」と問うた。私は次のように答えた、「無季 が、人間もまたそれと同じで変りはない ) の句は時々ある。しかし、それを発句として連句を巻くこ などは歳旦の句となるようなものである」。 とはまだ聞いたことがない。先師は、発句も四季だけでな きれじ 四〕切字のこと く、恋・旅・名所・離別などには無季の句があってもよい。 卯七が「発句に切字を入れるのはどういうわけですか」 しかし、どういうわけで四季だけと定め置かれたのか、そ 実 の事情を知らないから、しばらく黙っているのだ、といわと問うた。私は次のように答えた、それには理由がある。 かって先師が「お前は切字を知っているか」といわれたの れた。その無季というのにも二種類ある。一つは、どこか 故 で、私は「まだ伝授を受けてはいません。ただ自分なりに ら見ても季と見るべきものがない場合で、たとえば、落 心得ているだけです」と答えた。先師は「それはどういう した折の即興の句に、 かち ことか」と問われたので、私は「たとえば、発句は一本の 歩行ならば杖つき坂を落馬哉芭蕉
いとギ、くら しようか ん、となり。予、糸桜はら一ばいに咲きにけり、と吟じければ、句、我儘なり、 0 連歌以来、正花とよぶ習わしが ある。それはひろく華やかなもの を賞美する語で、花婿・花の衣・ と笑ひ給ひけり」。 花の都などをさし、桜・梅・桃な 抄 ど特定の花を詠んだものは「花の 〔を恋の句 来 句」と認めない。つまり単に「花」 せうもんニ 去卯七 日く「蕉門、恋を一句にても捨つるはいかに」。去来日く「予、この事といえば桜を意味するが、表に出 野明 して「桜」といえば花の句にはなら ちよく うかが くかず を窺ふ。先師日くし冫 、、こしへは恋の句数定まらず。勅以後、一一句以上五句となぬとする。だから去来の句は花の 定座としてはやはり異例 あいさっ これ 一去来の記憶が不確かで、両名 る。是、礼式の法なり。一句にて捨てざるは、大切の恋句に挨拶なからんはい を併記したとも解される。 いんやうわがふ ニ恋の句は二句以上五句まで続 かがなりとなり。一説に、恋は陰陽和合の句なれば、一句にて捨つべからずと けるのが古来の法式。 みな ーしつは・、 もいへり。皆大切に思ふゅゑなり。予が一句にても捨てよといふも、いよいよ三文亀元年 ( 一五 (1) の肖柏による 式目改訂は後柏原天皇の勅宣と伝 えられていた。それには「恋句た 大切に思ふゅゑなり。 だ一句に止む事無念」とある。 汝等は知るまじ、昔は恋一句出づれば、相手の作者は恋をしかけられたりと 0 連句一巻の中で多く続けて詠む ことを許されたものに、四季の句 挨拶せり。また、五十韻・百韻といへども、恋句なければ一巻といはず、はしの外には神祇・釈教・恋・無常・ 旅の句などがある。これらの句は もの ひとところ た物とす。かくばかり大切なるゆゑ、みな恋句になづみ、僅か二句一所に出づ巻頭の発句とともに特にたいせつ なん にされていた。さらに「旅・恋難 くわんちゅう まれ ひとふし れば幸とし、却って巻中恋句希なり。また多くは、恋句よりしぶり、吟おもにして、また一節この所にあ り」 ( 白雙紙 ) というように、蕉風 ふでき にあっては旅・恋の句は付けにく 一巻不出来になれり。この故に、恋句出でて付けよからん時は、二句か五 あいさっ なんぢら さいはひ よ かへ たいせつ わづ わがまま