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検索対象: 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄
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1. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

393 先師評 外の人の評であっても、先師 ( 芭蕉 ) の評が一言でも交 じっているものは、ここに翆ルす . ことにした。 〔一〕古歌を取ること せ 莱に聞かばや伊勢の初だより芭蕉 ( 正月のめでたい蓬莱飾りのもとで、神宮のある伊勢からの 初便りを聞きたいものだ ) 深川 ( 江戸深川の芭蕉庵 ) からの手紙に、「この句にはさ まざまな評があるが、お前はどう解するか」とあった。 私 ( 去来 ) は次のように答えた、「この句に、都の便りと も故郷の便りともなくて伊勢の便りとありますのは、元日 の儀式のさまが古式にのっとり現代風でないために、遠い 神代のことを思い出し、古代の神のいます伊勢の便りを聞 先師評 去来抄 はっ きたいものだと、すでに動き出した旅心を詠まれたものと 推察します」と。 先師の返事に、「お前の考えと同じだ。私は、この元旦 じちん にあたって、伊勢の神々しい神域のさまを思い出し、慈鎮 かしト・う 和尚の歌の詞より所にして初の一字を加え、一句をまと めたにすぎないのだ」とあった。 きれじ 〔ニ〕切字について からさき おばろ 辛崎の松は花より朧にて芭蕉 かす びわこはん ( 辛崎ー琵琶湖畔ーの老松は、桜の花よりもおばろに霞んで 見える ) ふしみ 伏見のある作者が、この句のにて留めを非難した。 かな きかく 其角は「にては哉と同じように用いる。だから、連句で は哉留めの発句には第三をにて留めにすることを嫌う。こ の句の場合、哉とすれば句調がさし迫るので、にてとゆっ くり留めたのである」と評した。

2. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

すみだわら 一『炭俵』 ( 元禄七年刊 ) 所収。正 月のめでたい蓬莱飾りのもとで、 神宮のある伊勢からの初便りを聞 きたいものだ。「蓬莱」は新年の飾 さんばう り物で、三方の上に白米を盛り、 かちぐり のし・あわび・勝栗などいろいろ の物を飾る。元禄七年 ( 一六九四 ) の歳 たんく 旦句 ( 正月吉日に発表する新年の 〔こ古歌を取ること ニ道路の安全をつかさどる神 まう・ら・い せ ばせう = = は旅心 0 動くさま。↓五〇 莱に聞かばや伊勢の初だより芭蕉 七行。 はべ ふかがは 三天台座主の慈円。慈鎮は贈り 深川よりの文に「この句さまざまの評あり。汝いかが聞き侍るや」となり。 名。歌人。歌は「このほどは伊勢 いまやう ぐわんじっ きよらい みやこふるさとたより たより はな に知る人おとづれて便いろある花 去来日く「都・古郷の便ともあらず、伊勢と侍るは、元日の式の今様ならぬ 柑子かな」 ( 夫木抄 ) をさす。 たより だうそじん かみよ に神代を思ひ出でて、便聞かばやと、道祖神のはや胸中をさわがし奉るとこそ 0 古歌や故事を取る法は「俤にし て」「余情にして」「心を取り」 ( 三 冊子 ) 、「すりあげて作す」 ( 旅寝 承り侍る」と申す。 論 ) などとあるように、古歌その こんにち へんじ 評先師返事に日く「汝聞く処にたがはず。今日神のかうがうしきあたりを思ひままではなく、作者の作意のはた らきが求められている。 じちんくわしゃうことば 師 四『野ざらし紀行』所収。↓一一一一 出でて、慈鎮和尚の詞にたより、初の一字を吟じ侍るばかりなり」となり。 先 ハー注七。辛崎 ( 琵琶湖畔 ) の老松は、 きれじ 桜の花よりもおばろに霞んで見え 〔ニ〕切字について る。貞享二年 ( 一六会 ) の作で「湖水 まっ はな おばろ 眺望」と前書す。 辛崎の松は花より朧にて芭蕉 うけたまは からさき 先師評 ふみ ところ ほかびと 外人の評ありといへども、先師の一言をまじ しる る物はここに記す。 はっ はっ ぎん なんぢ

3. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

おのづか をわかち知らるる時は、俳諧連歌はかくの如くなる物なりと、自ら知らるべし。るための固有な詩性をいう。俳諧 四 五 の内容には変遷があり、俳諧の基 せどうこんばんか そうしゃうたち それを知らざる宗匠達、俳諧をするとて、詩やら歌やら旋頭・混本歌やら知も一義的・固定的ではない。俳諧 の長い歴史を通じて生きつづけ確 、一れら 認されてきた共通性をいう。 れぬ事をいへり。是等は俳諧に迷ひて、俳諧連歌といふ事を忘れたり。 〈『青根が峰』の「答許子問難弁」 おこな よ 俳諧を以て文を書くは俳諧文なり。歌を詠むは俳諧歌なり。身に行はば俳諧に去来は「不易は古今によろしく して用捨なし。これを体といはん たが てがらがほあだごと いたづらけん の人なり。ただ、徒に見を高うし、古を破り、人に違ふを手柄顔に仇言いひちも又ちかし」という。「用捨なし」 は遠慮することがない、の意。物 らしたる、いと見苦し。かくばかり器量自慢あらば、俳諧連歌の名目をからず、ずきを特殊性とすれば、体は普遍 性というほどの意であろう。 らんじゃう 九『誹諧初学抄』所収。夏の夜空 俳諧鉄炮となりとも、乱声となりとも、一家の風を立てらるべき事なり」。 。かかっている。こ に月が一冴しげこ うちわ れに柄をつけたら、よい団扇にな 〔三〕不易の句 るだろう。 ひともとぐさ 一 0 『一本草』所収。桜花に埋れた 魯町日く「不易の句の姿はいかに」。去来日く「不易の句は俳諧の体にして、 吉野山の眺めは、これはこれはと , ) こん いちじ いまだ一つの物ずきなき句なり。一時の物ずきなきゅゑに古今に叶へり。たと驚くばかりである。 = 『花摘』所収。前書「伊勢の国 中村といふ所にて」。伊勢の墓原 行へば、 は無気味なものであるが、秋風が つきえ 吹きすさぶといっそうすごい感じ がする。伊勢は神国のため死のけ 修 これ がれを忌み、早駆と称して、息の 絶えぬうちに病人を墓地に葬る習 慣があるという。 あき そうかん 月に柄をさしたらばよきうちは哉宗鑑 てい はな 貞室 是は是はとばかり花のよしの山 はかはらなま かぜ 秋の風伊勢の墓原獨すごし芭蕉 てつばう これ ふみ せ いにーしへ かな やま ふう しつ みやうもく はやがけ

4. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

芭蕉文集 1 寝入ってしまった。その翌朝、宿を立とうとすると、遊女 たちはわれわれに向って、「これから伊勢までどう行った らよいかもわからない道中の憂さが、なんとも不安で悲し ゅうございますので、あなた様のお跡を見え隠れにでも、 ついて参ろうと存じます。人を助けるご出家のお情けで、 仏様のお恵みを私どもにも分けて、仏道にはいる縁を結ば せて下さいませ」と涙を流して頼むのであった。かわいそ 今日は、親しらず子しらすとか、犬もどり・駒返しなど うなことではあったが、「われわれは所々で滞在すること という北国一番の難所を越えて疲れていたので、枕を引き が多いから、とても同行はできない。ただ同じ方向に行く ふすま 寄せて早く寝たところが、襖一つ向こうの表側の部屋に、 人々の跡について行きなさい。きっと伊勢の大神宮がお守 若い女の声が聞える。二人ほどらしい。女の声に年老い りくださって、無事に着けるだろう」と言うばかりで出立 男の声も交じって話をしているのを聞くと、二人の女は越してしまったが、かわいそうな気がしばらく収らないこと であった。 後国の新潟という所の遊女であった。伊勢参宮をしようと ひとついへ はぎ して、この関まで男が送って来て、明日はその男を故郷新 一家に遊女もねたり萩と月 したた 潟へ帰すについて、手紙を認め、ちょっとした一言づてなど ( この宿に思いがけす遊女も同宿していて、偶然、遊女と一 しらなみ をしているところである。遊女たちが「私たちは、『白浪 っ屋根の下に泊ることになった。自分のような男と遊女との のよするなぎさに身をすぐすあまの子なれば宿も定めず』 取合せは、いわば空の月と萩の花のようなもので、一見無縁 に見えるが、また不思議な取合せの妙味もあることだ ) という古い歌のとおり、おちぶれて、浅ましい身の上にな り、夜ごとに変った客と契りをかわすのですが、前世の所曾良に語ると、曾良は紙に書きとめた。 行がどんなに悪かったのでしよう」と話すのを聞きながら の夜とは違っているような気がする ) あまのがは 荒海や佐渡によこたふ天河 ( 目の前にひろがる日本海の暗い荒海のかなたには佐渡が島 がある。その佐渡が島へかけて、澄んだ夜空をかぎって、天 の川が大きく横たわっている ) 〔三九〕

5. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

37 笈の小文 者。 一五「草の名は所によりて変るな あし り / なにはの蘆は伊勢の浜荻救 済法師」 ( 菟玖波集 ) 。類似の記事 は謡曲等にもある。 一七 一六足代民部は伊勢俳壇の重鎭、 さうあんのくわい ひろうじ 神風館一世足代弘氏。すでに天和 草庵会 ひろかず 三年 ( 一六八三 ) 没。雪堂はその子弘員、 うゑ かど 神風館二世。 も植て門は葎のわか葉哉 宅大江寺 ( 伊勢市船江 ) 境内の一一 ただ ゅゑある か・んろ・かさ 神垣のうちに梅一木もなし。 いかに故有事にやと、神司などに尋侍れば、只乗軒 ( 一一畳軒・二条軒 ) 。 一 ^ 元来、大陸渡来の植物ゆえ神 たちうしろ 何とはなし、おのづから梅一もともなくて、子良の舘の後に一もと侍るよしを域に植えなかったか。 ものいみ 一九「物忌の子等」の略で、神宮に 奉仕する少女。「館」はその詰所。 かたりったふ。 ニ 0 神官が芭蕉に語り伝えた。 ねはんぞう ニ一涅槃像は釈迦入滅 ( 二月十五 御子良子の一もとゆかし梅の花 日 ) の絵または彫刻。「神垣のあた りと思ふにゆふだすき思ひもかけ 神垣やおもひもかけずねはんぞう ぬ鐘の声かな」 ( 金葉六条右大臣 北方 ) を踏むか。真蹟に「十五日外 宮の館にありて」と前書。 みちびくしをり やよひなかばすぐ 弥生半過る程、そゞろにうき立心の花の、我を道引枝折となりて、よし一三この前に伊賀上野へいったん 帰った記事のあるべきところ。三 せ のゝ花におもひ立んとするに、かのいらご崎にてちぎり置し人のい勢にて出む月十九日、上野を立ち吉野へ赴く ニ三杜国。伊良湖崎から船で来た。 かつわが たびね かひ、ともに旅寐のあはれをも見、且は我為に童子となりて、道の便りにもなニ四身のまわりの世話をする少年。 かみがき あし 物の名を先とふ芦のわか葉哉 あじろみんぶせつだうあふ 網代民部雪堂に会 なほ 梅の木に猶やどり木や梅の花 たた ひとき むぐら ひと たっ こら 一九 おきニ三 たづね

6. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

たま このしゆく あすかゐまさあき 飛鳥井雅章公の此宿にとまらせ給ひて、「都も遠くなるみがたはるけき海を潟」は掛詞。 一三『如行子』に「鳴海寺島氏言 みづから あすかゐあさう に飛鳥井亜相の御詠草のかゝり侍 中にへだてゝ」と詠じ給ひけるを、自かゝせたまひて、たまはりけるよしをか りし歌を和す」と前書付で収録。 一四渥美半島の先端の地。 たるに、 一五坪井氏。蕉門、名古屋の人。 貞享一一年 ( 一六会 ) 罪を得て御領分追 京まではまだ半空や雪の雲 放。三河国畠村 ( 現、渥美町福江 ) ところ みかは 三川の国保美といふ処に、杜国がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に閉居。後、保美に移る。芭蕉に すこぶる愛された。 そのよ あと たづね なるみ 一六名古屋の蕉門俳人。 に消して、鳴海より後ざまに二十五里尋かへりて、其夜吉田に泊る。 宅「桃青老越人昨夜宮より又御 まゐられ 越。今朝三州へ被参候」 ( 知足斎日 寒けれど二人寐る夜そ頼もしき 々記・十一月十日 ) 。吉田は愛知県 一 ^ つなはて 豊橋市。 あま津縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也。 一 ^ 杉山村天津 ( 現、豊橋市 ) 。縄 かげばふし ばしゃう 手は田の中のまっすぐな道。当時、 冬の日や馬上に氷る影法師 湾岸で冬は西風が強かった。 いらごぎきい ちりばかりある ほび 保美村より伊良古崎へ壱里斗も有べし。三河の国の地っゞきにて、伊勢とは一九初案「冬の田の馬上にすくむ 影法師」。 えらび 、いかなる故にか『万葉集』には伊勢の名所の内に撰 = 0 渥美半島西端の伊良湖岬 海へだてたる所なれども 文 「麻続王伊勢国の伊良虞の島に流 いふ このすさぎ さるる時」 ( 万葉・巻一 ) 。 入られたり。此洲崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は の 三「伊良期の碁石貝」 ( 毛吹草 ) 。 笈たかうっところ 鷹を打処なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹な = = 「巣鷹渡る伊良胡が崎を疑ひ てなほ木に帰る山帰りかな」 ( 山家 なほ ど歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし、 一九 ほび ニ 0 1 ) いし なかぞら あり ふきあぐ じろ なり ゑつじん

7. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

俳諧連歌はこのようなものであると、自然に理解すること ができる。 それを知らない宗匠たちが、俳諧をするといっては、詩 こんばんか せどうか か歌か旋頭歌か混本歌か、いずれとも分らぬものを作って いるのである。これらの宗匠たちは俳諧の本義を誤解し、 俳諧連歌がどういうものであるかを忘れている。 俳諧の心でもって文章を書けば俳諧文となり、歌を詠め ば俳諧歌となる。また、身につけて実践すれば俳諧の人と なるのである。ただ、いたずらに見識ぶって古来の伝統を , ししいかげんなことをいし 破り、人と違うことを手柄顔 ' 散らしているのは、はなはだ見苦しい。それほどに自分の 才能を自慢するなら、俳諧連歌という名称など用いないで、 らんじよう てつばう 俳諧鉄砲とでも乱声とでも名づけて、勝手に自分一家の風 を立てるがよいと思う」。 〔三〕不易の句 行 魯町が「不易の句の姿はどんなものですか」と問うた。 私は「不易の句は古今に通じるもので、特殊な趣向をこら 修 したものではない。その時だけの特殊な趣向によるのでは 肪ないから古今に通じるのである。たとえば、 そうかん え 月に柄をさしたらばよきうちは哉宗鑑 ( 夏の夜空に月が涼しげにかかっている。これに柄をつけた うちわ ら、よい団扇になるだろう ) てい これ 是は是はとばかり花のよしの山貞室 ( 桜花に埋れた吉野山の眺めは、これはこれはと驚くばかり である ) なほ 秋の風伊勢の墓原猶すごし芭蕉 ( 伊勢の墓原は無気味なものであるが、秋風が吹きすさぶと いっそうすごい感じがする ) こういう類が不易の句である」と答えた。 魯町がさらに「宗鑑の句で、月を団扇に見立てたのは、 ひとつの特殊な趣向ではありませんか」と問うた。私は きよう ふひ 「賦・比・興は俳諧のみに限らず、詩歌を詠む場合も自然 詩歌で表現するもの に用いられる手法である。いったい、 。この句も特殊な趣向とは はこの三つを離れることはない いえない」と答えた。 〔四〕流行の句 魯町が「流行の句とはどんなものですか」と問うた。私 は「流行の句はその中に特殊な趣向があってはやるのであ る。姿形や衣装や器物に至るまで、その時々のはやりがあ るようなものである。たとえば、 しつ

8. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

レーレゅ - っ 行平「わくらばにとふ人あらバすまの浦 に時宗の本山清浄光寺 ( 俗称、遊行寺。 わぶこたへ に藻塩たれつゝ侘と答よ . 、 ( 古今・雑下 ) 現、神奈川県藤沢市 ) から来て、敦賀湾 の海浜の砂を運び、神前にまいた行事 〔五 0 〕 北国北陸道の諸国をいう。 みの、国↓三七 〔四九〕 うねめの おおがき 種の浜敦賀湾北西部の海岸で、現、敦賀大垣現、岐阜県大垣市。当時、戸田采女 しよう 正氏定十万石の城下町。蕉門俳人の多 市色ケ浜。西行「泓染むるますほの小貝 い土地柄であった。 ひろふとて色の浜とはいふにゃあるら 伊勢↓三九四四 む」 ( 山家集 ) などの詠のある歌枕。 わたらい ほんりゅうじ 本隆寺本文には「侘しき法花寺」。もとふたみ現、三重県度会郡二見町。二見が 浦は伊勢の名勝地。西行「今ぞしるふた 金泉寺と称して、敦賀の曹洞宗永厳寺の ミの浦のはまぐりを貝あハせとておほふ 末寺であったが、応永三十三年 ( 一四 = 六 ) なり 成けり」ほかの詠で知られる歌枕。 法華宗に改宗して本隆寺と称するに至っ 現、敦賀市色ケ浜にある。 須磨現、神戸市須磨区。その海岸は古来 風光既媚の地として名高く、歌枕でもあ 巡る。『源氏物語』須磨巻の一節「須磨に はいとゞ心づくしの秋風に、海はすこし 地 ゆきひら 遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆる 道 といひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞 そ えて、またなくあはれなるものは、かゝ の る所の秋なりけり」は著名であるが、芭 お 蕉はこれをうけて「かゝる所の秋なりけ ま・一と りとかや。此の浦の実は秋をむねとする なるべし。かなしさ、さびしさ、い。 かたなく・ : 」 ( 笈の小文 ) と述べている。 いろはま よる

9. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

あじろみんぶせつどう 網代民部雪堂 御師・国学者・俳人。談林期の伊勢俳壇 に神風館一世として重きをなしていた足 ひろかず 代弘氏の子息弘員。国学者の家柄である が父の感化で連歌・俳諧をたしなみ、俳 人としては神風館二世を継承した。芭蕉 は伊勢俳壇における父子二代の風雅に敬一晶 はが 意を表して、貞享五年 ( 一六会 ) 一一月伊勢 参宮の際に雪堂邸を訪ねた。足代を網代 とした理由は不詳。享保一一年 ( 一七一七 ) 八 伝 月没、享年六十一歳。 略いっしよう 物一笑 人 小杉 ( 椙 ) 氏。名は味頼。通称、茶屋新 要 主七。加賀国金沢の片町で葉茶屋を営む。 若年より俳諧の道に入り、談林系の諸集 ひとっ に入集、のち蕉風に転じた。尚白編『孤 まっ 松』 ( 貞享四年刊 ) には百九十四句の多 じろ 主要人物略伝 八 0 久富哲雄編 一、紀行・日記編および俳文編の文中に登場する人物で、芭蕉の周辺にいた り、芭蕉と直接に出会ったりした同時代の人々をとりあげて、五十音順に配 列し、簡単な紹介を試みた。 一、見出しの人名の下の数字 ( 一一三など ) は、所出のページを示すものである。 兊・九 0 数が入集し、金沢の俊秀として名をせ羽紅 俳人。凡兆の妻女で、名はとめ。元禄四 たが、翌元禄元年 ( 一六犬 ) 十二月 ( 『西 年春剃髪して尼となり、羽紅尼と称した。 の雲』には十一月 ) 没、享年三十六歳。 あらの 荷寧編『阿羅野』 ( 元禄一一年刊 ) に凡兆 芭蕉はその死去を金沢到着後初めて知り、 と共に入集、元禄三、四年には在京中の 「塚も動け」 ( ↓八〇ハー六行 ) の追悼句を 芭蕉と親交があった。凡兆没後八年の享 手向けた。 保七年なお存命。 えがく 芳賀氏。俳人。俳諧は初め令徳門、のち会覚 いみな 京都出身の天台宗権大僧都。諱は照寂。 似船・常矩系に属し、談林風の俳人とし 院号は和合院。貞享四年八月羽黒山別当 て活躍した。天和三年 ( 一六八三 ) 春、京都 執事代となり、元禄一一年六月出羽三山巡 より江戸に移住し、蕉門と交渉を持って 礼の芭蕉を厚遇した。同六年八月美濃国 天和蕉風の一翼を担い、甲斐流寓中の芭 谷汲山華厳寺の山内寺院である地蔵院に 蕉を訪ね、第二次芭蕉庵の再建にも尽力 移り、宝永四年六月同地で示寂。享年不 した。晩年は前句付の点者として活躍し かんじんちょう 一、い第・ろ・ 詳。その作品は路通編『勧進牒』・不玉 た。編著に『丁集』『千句前集』『千句 編『継尾集』・史邦編『芭蕉庵小文庫』 後集』など。水四年 ( 一七 0 七 ) 四月没、 等に見える。 享年六十五歳。 一九七 つぎお けごんじ 七三・七五

10. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

芭蕉文集 118 こうむり、衣類をすべて乞食に与えて裸で下向したという。 らせている ) まだ二月の冴え凍る風には、この上に重ね着をしたいほどの 神域には梅が一本もない。。 とんなわけがあるのでしよう 寒さなのに、裸などとは ) かと神官などに尋ねたところ、「これというわけもなく、 ばだいせん たち 菩提山で、 自然と境内には梅がありません。ただ、子良の館のうしろ この っげ ところほり 此山のかなしさ告よ野老掘 二本だけあります」と教えてくれた。 ( さしも栄えたこの寺の、見る影もなさ。野老掘りよ、山寺 御子良子の一もとゆかし梅の花 の衰えた悲しいいわれを、語り聞せてくれ ) ( 神に仕える少女の清らかさにふさわしく、この神域にたっ りゅうのしようしゃ 龍尚舎を訪ねて、 た一本の梅が子良の館のほとりに咲くことだ ) まづ 物の名を先とふ蘆のわか葉哉 神垣やおもひもかけずねはんぞう わはんえ ( 蘆の若葉がそよぐ。「物の名も所によ」って変り、「難波の ( ちょうど涅槃会とま、 。しいながら、この神域で思いがけぬ涅 はまおぎ 蘆は伊勢の浜荻」というとか。蘆の名を、もの知りのあなた 槃像を拝したことよ ) に、まずお尋ねしましよう ) あじろみんぶせつどう 網代民部雪堂に会って、 三月なかば過ぎるころ、そぞろに浮かれる心が、私を旅 なほ 梅の木に猶やどり木や梅の花 へと誘い出す道案内となって、吉野の花見に出立しようと ( みごとな梅の木に、また梅が宿り木したように、雅名高い した時、あの伊良湖崎で約束しておいた人が、伊勢で私と 父君に、その上ご子息が俳諧を受け継ぎ、二代にわたって風落ち合い、「旅の悲しさ、苦しさをともにさせていただき 雅の花を咲かせていることよ ) ましよう、その上わらべとなって道中の手助けもいたしま そうあん ある草庵の会に、 す」と言い、旅中の仮名に万菊丸という名を自分でつけた。 うゑ かど むぐら も植て門は葎のわか葉哉 まことにわらべらしい名で、たいそうおもしろい。それで むぐら ( 前庭には芋を植えてあり、門をおおう葎は明るい若葉を茂 は出立にあたって、ちょっとたわむれごとをしようと、笠 かりな かさ