393 先師評 外の人の評であっても、先師 ( 芭蕉 ) の評が一言でも交 じっているものは、ここに翆ルす . ことにした。 〔一〕古歌を取ること せ 莱に聞かばや伊勢の初だより芭蕉 ( 正月のめでたい蓬莱飾りのもとで、神宮のある伊勢からの 初便りを聞きたいものだ ) 深川 ( 江戸深川の芭蕉庵 ) からの手紙に、「この句にはさ まざまな評があるが、お前はどう解するか」とあった。 私 ( 去来 ) は次のように答えた、「この句に、都の便りと も故郷の便りともなくて伊勢の便りとありますのは、元日 の儀式のさまが古式にのっとり現代風でないために、遠い 神代のことを思い出し、古代の神のいます伊勢の便りを聞 先師評 去来抄 はっ きたいものだと、すでに動き出した旅心を詠まれたものと 推察します」と。 先師の返事に、「お前の考えと同じだ。私は、この元旦 じちん にあたって、伊勢の神々しい神域のさまを思い出し、慈鎮 かしト・う 和尚の歌の詞より所にして初の一字を加え、一句をまと めたにすぎないのだ」とあった。 きれじ 〔ニ〕切字について からさき おばろ 辛崎の松は花より朧にて芭蕉 かす びわこはん ( 辛崎ー琵琶湖畔ーの老松は、桜の花よりもおばろに霞んで 見える ) ふしみ 伏見のある作者が、この句のにて留めを非難した。 かな きかく 其角は「にては哉と同じように用いる。だから、連句で は哉留めの発句には第三をにて留めにすることを嫌う。こ の句の場合、哉とすれば句調がさし迫るので、にてとゆっ くり留めたのである」と評した。
すみだわら 一『炭俵』 ( 元禄七年刊 ) 所収。正 月のめでたい蓬莱飾りのもとで、 神宮のある伊勢からの初便りを聞 きたいものだ。「蓬莱」は新年の飾 さんばう り物で、三方の上に白米を盛り、 かちぐり のし・あわび・勝栗などいろいろ の物を飾る。元禄七年 ( 一六九四 ) の歳 たんく 旦句 ( 正月吉日に発表する新年の 〔こ古歌を取ること ニ道路の安全をつかさどる神 まう・ら・い せ ばせう = = は旅心 0 動くさま。↓五〇 莱に聞かばや伊勢の初だより芭蕉 七行。 はべ ふかがは 三天台座主の慈円。慈鎮は贈り 深川よりの文に「この句さまざまの評あり。汝いかが聞き侍るや」となり。 名。歌人。歌は「このほどは伊勢 いまやう ぐわんじっ きよらい みやこふるさとたより たより はな に知る人おとづれて便いろある花 去来日く「都・古郷の便ともあらず、伊勢と侍るは、元日の式の今様ならぬ 柑子かな」 ( 夫木抄 ) をさす。 たより だうそじん かみよ に神代を思ひ出でて、便聞かばやと、道祖神のはや胸中をさわがし奉るとこそ 0 古歌や故事を取る法は「俤にし て」「余情にして」「心を取り」 ( 三 冊子 ) 、「すりあげて作す」 ( 旅寝 承り侍る」と申す。 論 ) などとあるように、古歌その こんにち へんじ 評先師返事に日く「汝聞く処にたがはず。今日神のかうがうしきあたりを思ひままではなく、作者の作意のはた らきが求められている。 じちんくわしゃうことば 師 四『野ざらし紀行』所収。↓一一一一 出でて、慈鎮和尚の詞にたより、初の一字を吟じ侍るばかりなり」となり。 先 ハー注七。辛崎 ( 琵琶湖畔 ) の老松は、 きれじ 桜の花よりもおばろに霞んで見え 〔ニ〕切字について る。貞享二年 ( 一六会 ) の作で「湖水 まっ はな おばろ 眺望」と前書す。 辛崎の松は花より朧にて芭蕉 うけたまは からさき 先師評 ふみ ところ ほかびと 外人の評ありといへども、先師の一言をまじ しる る物はここに記す。 はっ はっ ぎん なんぢ
おのづか をわかち知らるる時は、俳諧連歌はかくの如くなる物なりと、自ら知らるべし。るための固有な詩性をいう。俳諧 四 五 の内容には変遷があり、俳諧の基 せどうこんばんか そうしゃうたち それを知らざる宗匠達、俳諧をするとて、詩やら歌やら旋頭・混本歌やら知も一義的・固定的ではない。俳諧 の長い歴史を通じて生きつづけ確 、一れら 認されてきた共通性をいう。 れぬ事をいへり。是等は俳諧に迷ひて、俳諧連歌といふ事を忘れたり。 〈『青根が峰』の「答許子問難弁」 おこな よ 俳諧を以て文を書くは俳諧文なり。歌を詠むは俳諧歌なり。身に行はば俳諧に去来は「不易は古今によろしく して用捨なし。これを体といはん たが てがらがほあだごと いたづらけん の人なり。ただ、徒に見を高うし、古を破り、人に違ふを手柄顔に仇言いひちも又ちかし」という。「用捨なし」 は遠慮することがない、の意。物 らしたる、いと見苦し。かくばかり器量自慢あらば、俳諧連歌の名目をからず、ずきを特殊性とすれば、体は普遍 性というほどの意であろう。 らんじゃう 九『誹諧初学抄』所収。夏の夜空 俳諧鉄炮となりとも、乱声となりとも、一家の風を立てらるべき事なり」。 。かかっている。こ に月が一冴しげこ うちわ れに柄をつけたら、よい団扇にな 〔三〕不易の句 るだろう。 ひともとぐさ 一 0 『一本草』所収。桜花に埋れた 魯町日く「不易の句の姿はいかに」。去来日く「不易の句は俳諧の体にして、 吉野山の眺めは、これはこれはと , ) こん いちじ いまだ一つの物ずきなき句なり。一時の物ずきなきゅゑに古今に叶へり。たと驚くばかりである。 = 『花摘』所収。前書「伊勢の国 中村といふ所にて」。伊勢の墓原 行へば、 は無気味なものであるが、秋風が つきえ 吹きすさぶといっそうすごい感じ がする。伊勢は神国のため死のけ 修 これ がれを忌み、早駆と称して、息の 絶えぬうちに病人を墓地に葬る習 慣があるという。 あき そうかん 月に柄をさしたらばよきうちは哉宗鑑 てい はな 貞室 是は是はとばかり花のよしの山 はかはらなま かぜ 秋の風伊勢の墓原獨すごし芭蕉 てつばう これ ふみ せ いにーしへ かな やま ふう しつ みやうもく はやがけ
芭蕉文集 1 寝入ってしまった。その翌朝、宿を立とうとすると、遊女 たちはわれわれに向って、「これから伊勢までどう行った らよいかもわからない道中の憂さが、なんとも不安で悲し ゅうございますので、あなた様のお跡を見え隠れにでも、 ついて参ろうと存じます。人を助けるご出家のお情けで、 仏様のお恵みを私どもにも分けて、仏道にはいる縁を結ば せて下さいませ」と涙を流して頼むのであった。かわいそ 今日は、親しらず子しらすとか、犬もどり・駒返しなど うなことではあったが、「われわれは所々で滞在すること という北国一番の難所を越えて疲れていたので、枕を引き が多いから、とても同行はできない。ただ同じ方向に行く ふすま 寄せて早く寝たところが、襖一つ向こうの表側の部屋に、 人々の跡について行きなさい。きっと伊勢の大神宮がお守 若い女の声が聞える。二人ほどらしい。女の声に年老い りくださって、無事に着けるだろう」と言うばかりで出立 男の声も交じって話をしているのを聞くと、二人の女は越してしまったが、かわいそうな気がしばらく収らないこと であった。 後国の新潟という所の遊女であった。伊勢参宮をしようと ひとついへ はぎ して、この関まで男が送って来て、明日はその男を故郷新 一家に遊女もねたり萩と月 したた 潟へ帰すについて、手紙を認め、ちょっとした一言づてなど ( この宿に思いがけす遊女も同宿していて、偶然、遊女と一 しらなみ をしているところである。遊女たちが「私たちは、『白浪 っ屋根の下に泊ることになった。自分のような男と遊女との のよするなぎさに身をすぐすあまの子なれば宿も定めず』 取合せは、いわば空の月と萩の花のようなもので、一見無縁 に見えるが、また不思議な取合せの妙味もあることだ ) という古い歌のとおり、おちぶれて、浅ましい身の上にな り、夜ごとに変った客と契りをかわすのですが、前世の所曾良に語ると、曾良は紙に書きとめた。 行がどんなに悪かったのでしよう」と話すのを聞きながら の夜とは違っているような気がする ) あまのがは 荒海や佐渡によこたふ天河 ( 目の前にひろがる日本海の暗い荒海のかなたには佐渡が島 がある。その佐渡が島へかけて、澄んだ夜空をかぎって、天 の川が大きく横たわっている ) 〔三九〕
37 笈の小文 者。 一五「草の名は所によりて変るな あし り / なにはの蘆は伊勢の浜荻救 済法師」 ( 菟玖波集 ) 。類似の記事 は謡曲等にもある。 一七 一六足代民部は伊勢俳壇の重鎭、 さうあんのくわい ひろうじ 神風館一世足代弘氏。すでに天和 草庵会 ひろかず 三年 ( 一六八三 ) 没。雪堂はその子弘員、 うゑ かど 神風館二世。 も植て門は葎のわか葉哉 宅大江寺 ( 伊勢市船江 ) 境内の一一 ただ ゅゑある か・んろ・かさ 神垣のうちに梅一木もなし。 いかに故有事にやと、神司などに尋侍れば、只乗軒 ( 一一畳軒・二条軒 ) 。 一 ^ 元来、大陸渡来の植物ゆえ神 たちうしろ 何とはなし、おのづから梅一もともなくて、子良の舘の後に一もと侍るよしを域に植えなかったか。 ものいみ 一九「物忌の子等」の略で、神宮に 奉仕する少女。「館」はその詰所。 かたりったふ。 ニ 0 神官が芭蕉に語り伝えた。 ねはんぞう ニ一涅槃像は釈迦入滅 ( 二月十五 御子良子の一もとゆかし梅の花 日 ) の絵または彫刻。「神垣のあた りと思ふにゆふだすき思ひもかけ 神垣やおもひもかけずねはんぞう ぬ鐘の声かな」 ( 金葉六条右大臣 北方 ) を踏むか。真蹟に「十五日外 宮の館にありて」と前書。 みちびくしをり やよひなかばすぐ 弥生半過る程、そゞろにうき立心の花の、我を道引枝折となりて、よし一三この前に伊賀上野へいったん 帰った記事のあるべきところ。三 せ のゝ花におもひ立んとするに、かのいらご崎にてちぎり置し人のい勢にて出む月十九日、上野を立ち吉野へ赴く ニ三杜国。伊良湖崎から船で来た。 かつわが たびね かひ、ともに旅寐のあはれをも見、且は我為に童子となりて、道の便りにもなニ四身のまわりの世話をする少年。 かみがき あし 物の名を先とふ芦のわか葉哉 あじろみんぶせつだうあふ 網代民部雪堂に会 なほ 梅の木に猶やどり木や梅の花 たた ひとき むぐら ひと たっ こら 一九 おきニ三 たづね
たま このしゆく あすかゐまさあき 飛鳥井雅章公の此宿にとまらせ給ひて、「都も遠くなるみがたはるけき海を潟」は掛詞。 一三『如行子』に「鳴海寺島氏言 みづから あすかゐあさう に飛鳥井亜相の御詠草のかゝり侍 中にへだてゝ」と詠じ給ひけるを、自かゝせたまひて、たまはりけるよしをか りし歌を和す」と前書付で収録。 一四渥美半島の先端の地。 たるに、 一五坪井氏。蕉門、名古屋の人。 貞享一一年 ( 一六会 ) 罪を得て御領分追 京まではまだ半空や雪の雲 放。三河国畠村 ( 現、渥美町福江 ) ところ みかは 三川の国保美といふ処に、杜国がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に閉居。後、保美に移る。芭蕉に すこぶる愛された。 そのよ あと たづね なるみ 一六名古屋の蕉門俳人。 に消して、鳴海より後ざまに二十五里尋かへりて、其夜吉田に泊る。 宅「桃青老越人昨夜宮より又御 まゐられ 越。今朝三州へ被参候」 ( 知足斎日 寒けれど二人寐る夜そ頼もしき 々記・十一月十日 ) 。吉田は愛知県 一 ^ つなはて 豊橋市。 あま津縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也。 一 ^ 杉山村天津 ( 現、豊橋市 ) 。縄 かげばふし ばしゃう 手は田の中のまっすぐな道。当時、 冬の日や馬上に氷る影法師 湾岸で冬は西風が強かった。 いらごぎきい ちりばかりある ほび 保美村より伊良古崎へ壱里斗も有べし。三河の国の地っゞきにて、伊勢とは一九初案「冬の田の馬上にすくむ 影法師」。 えらび 、いかなる故にか『万葉集』には伊勢の名所の内に撰 = 0 渥美半島西端の伊良湖岬 海へだてたる所なれども 文 「麻続王伊勢国の伊良虞の島に流 いふ このすさぎ さるる時」 ( 万葉・巻一 ) 。 入られたり。此洲崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は の 三「伊良期の碁石貝」 ( 毛吹草 ) 。 笈たかうっところ 鷹を打処なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹な = = 「巣鷹渡る伊良胡が崎を疑ひ てなほ木に帰る山帰りかな」 ( 山家 なほ ど歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし、 一九 ほび ニ 0 1 ) いし なかぞら あり ふきあぐ じろ なり ゑつじん
俳諧連歌はこのようなものであると、自然に理解すること ができる。 それを知らない宗匠たちが、俳諧をするといっては、詩 こんばんか せどうか か歌か旋頭歌か混本歌か、いずれとも分らぬものを作って いるのである。これらの宗匠たちは俳諧の本義を誤解し、 俳諧連歌がどういうものであるかを忘れている。 俳諧の心でもって文章を書けば俳諧文となり、歌を詠め ば俳諧歌となる。また、身につけて実践すれば俳諧の人と なるのである。ただ、いたずらに見識ぶって古来の伝統を , ししいかげんなことをいし 破り、人と違うことを手柄顔 ' 散らしているのは、はなはだ見苦しい。それほどに自分の 才能を自慢するなら、俳諧連歌という名称など用いないで、 らんじよう てつばう 俳諧鉄砲とでも乱声とでも名づけて、勝手に自分一家の風 を立てるがよいと思う」。 〔三〕不易の句 行 魯町が「不易の句の姿はどんなものですか」と問うた。 私は「不易の句は古今に通じるもので、特殊な趣向をこら 修 したものではない。その時だけの特殊な趣向によるのでは 肪ないから古今に通じるのである。たとえば、 そうかん え 月に柄をさしたらばよきうちは哉宗鑑 ( 夏の夜空に月が涼しげにかかっている。これに柄をつけた うちわ ら、よい団扇になるだろう ) てい これ 是は是はとばかり花のよしの山貞室 ( 桜花に埋れた吉野山の眺めは、これはこれはと驚くばかり である ) なほ 秋の風伊勢の墓原猶すごし芭蕉 ( 伊勢の墓原は無気味なものであるが、秋風が吹きすさぶと いっそうすごい感じがする ) こういう類が不易の句である」と答えた。 魯町がさらに「宗鑑の句で、月を団扇に見立てたのは、 ひとつの特殊な趣向ではありませんか」と問うた。私は きよう ふひ 「賦・比・興は俳諧のみに限らず、詩歌を詠む場合も自然 詩歌で表現するもの に用いられる手法である。いったい、 。この句も特殊な趣向とは はこの三つを離れることはない いえない」と答えた。 〔四〕流行の句 魯町が「流行の句とはどんなものですか」と問うた。私 は「流行の句はその中に特殊な趣向があってはやるのであ る。姿形や衣装や器物に至るまで、その時々のはやりがあ るようなものである。たとえば、 しつ
レーレゅ - っ 行平「わくらばにとふ人あらバすまの浦 に時宗の本山清浄光寺 ( 俗称、遊行寺。 わぶこたへ に藻塩たれつゝ侘と答よ . 、 ( 古今・雑下 ) 現、神奈川県藤沢市 ) から来て、敦賀湾 の海浜の砂を運び、神前にまいた行事 〔五 0 〕 北国北陸道の諸国をいう。 みの、国↓三七 〔四九〕 うねめの おおがき 種の浜敦賀湾北西部の海岸で、現、敦賀大垣現、岐阜県大垣市。当時、戸田采女 しよう 正氏定十万石の城下町。蕉門俳人の多 市色ケ浜。西行「泓染むるますほの小貝 い土地柄であった。 ひろふとて色の浜とはいふにゃあるら 伊勢↓三九四四 む」 ( 山家集 ) などの詠のある歌枕。 わたらい ほんりゅうじ 本隆寺本文には「侘しき法花寺」。もとふたみ現、三重県度会郡二見町。二見が 浦は伊勢の名勝地。西行「今ぞしるふた 金泉寺と称して、敦賀の曹洞宗永厳寺の ミの浦のはまぐりを貝あハせとておほふ 末寺であったが、応永三十三年 ( 一四 = 六 ) なり 成けり」ほかの詠で知られる歌枕。 法華宗に改宗して本隆寺と称するに至っ 現、敦賀市色ケ浜にある。 須磨現、神戸市須磨区。その海岸は古来 風光既媚の地として名高く、歌枕でもあ 巡る。『源氏物語』須磨巻の一節「須磨に はいとゞ心づくしの秋風に、海はすこし 地 ゆきひら 遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆる 道 といひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞 そ えて、またなくあはれなるものは、かゝ の る所の秋なりけり」は著名であるが、芭 お 蕉はこれをうけて「かゝる所の秋なりけ ま・一と りとかや。此の浦の実は秋をむねとする なるべし。かなしさ、さびしさ、い。 かたなく・ : 」 ( 笈の小文 ) と述べている。 いろはま よる
あじろみんぶせつどう 網代民部雪堂 御師・国学者・俳人。談林期の伊勢俳壇 に神風館一世として重きをなしていた足 ひろかず 代弘氏の子息弘員。国学者の家柄である が父の感化で連歌・俳諧をたしなみ、俳 人としては神風館二世を継承した。芭蕉 は伊勢俳壇における父子二代の風雅に敬一晶 はが 意を表して、貞享五年 ( 一六会 ) 一一月伊勢 参宮の際に雪堂邸を訪ねた。足代を網代 とした理由は不詳。享保一一年 ( 一七一七 ) 八 伝 月没、享年六十一歳。 略いっしよう 物一笑 人 小杉 ( 椙 ) 氏。名は味頼。通称、茶屋新 要 主七。加賀国金沢の片町で葉茶屋を営む。 若年より俳諧の道に入り、談林系の諸集 ひとっ に入集、のち蕉風に転じた。尚白編『孤 まっ 松』 ( 貞享四年刊 ) には百九十四句の多 じろ 主要人物略伝 八 0 久富哲雄編 一、紀行・日記編および俳文編の文中に登場する人物で、芭蕉の周辺にいた り、芭蕉と直接に出会ったりした同時代の人々をとりあげて、五十音順に配 列し、簡単な紹介を試みた。 一、見出しの人名の下の数字 ( 一一三など ) は、所出のページを示すものである。 兊・九 0 数が入集し、金沢の俊秀として名をせ羽紅 俳人。凡兆の妻女で、名はとめ。元禄四 たが、翌元禄元年 ( 一六犬 ) 十二月 ( 『西 年春剃髪して尼となり、羽紅尼と称した。 の雲』には十一月 ) 没、享年三十六歳。 あらの 荷寧編『阿羅野』 ( 元禄一一年刊 ) に凡兆 芭蕉はその死去を金沢到着後初めて知り、 と共に入集、元禄三、四年には在京中の 「塚も動け」 ( ↓八〇ハー六行 ) の追悼句を 芭蕉と親交があった。凡兆没後八年の享 手向けた。 保七年なお存命。 えがく 芳賀氏。俳人。俳諧は初め令徳門、のち会覚 いみな 京都出身の天台宗権大僧都。諱は照寂。 似船・常矩系に属し、談林風の俳人とし 院号は和合院。貞享四年八月羽黒山別当 て活躍した。天和三年 ( 一六八三 ) 春、京都 執事代となり、元禄一一年六月出羽三山巡 より江戸に移住し、蕉門と交渉を持って 礼の芭蕉を厚遇した。同六年八月美濃国 天和蕉風の一翼を担い、甲斐流寓中の芭 谷汲山華厳寺の山内寺院である地蔵院に 蕉を訪ね、第二次芭蕉庵の再建にも尽力 移り、宝永四年六月同地で示寂。享年不 した。晩年は前句付の点者として活躍し かんじんちょう 一、い第・ろ・ 詳。その作品は路通編『勧進牒』・不玉 た。編著に『丁集』『千句前集』『千句 編『継尾集』・史邦編『芭蕉庵小文庫』 後集』など。水四年 ( 一七 0 七 ) 四月没、 等に見える。 享年六十五歳。 一九七 つぎお けごんじ 七三・七五
芭蕉文集 118 こうむり、衣類をすべて乞食に与えて裸で下向したという。 らせている ) まだ二月の冴え凍る風には、この上に重ね着をしたいほどの 神域には梅が一本もない。。 とんなわけがあるのでしよう 寒さなのに、裸などとは ) かと神官などに尋ねたところ、「これというわけもなく、 ばだいせん たち 菩提山で、 自然と境内には梅がありません。ただ、子良の館のうしろ この っげ ところほり 此山のかなしさ告よ野老掘 二本だけあります」と教えてくれた。 ( さしも栄えたこの寺の、見る影もなさ。野老掘りよ、山寺 御子良子の一もとゆかし梅の花 の衰えた悲しいいわれを、語り聞せてくれ ) ( 神に仕える少女の清らかさにふさわしく、この神域にたっ りゅうのしようしゃ 龍尚舎を訪ねて、 た一本の梅が子良の館のほとりに咲くことだ ) まづ 物の名を先とふ蘆のわか葉哉 神垣やおもひもかけずねはんぞう わはんえ ( 蘆の若葉がそよぐ。「物の名も所によ」って変り、「難波の ( ちょうど涅槃会とま、 。しいながら、この神域で思いがけぬ涅 はまおぎ 蘆は伊勢の浜荻」というとか。蘆の名を、もの知りのあなた 槃像を拝したことよ ) に、まずお尋ねしましよう ) あじろみんぶせつどう 網代民部雪堂に会って、 三月なかば過ぎるころ、そぞろに浮かれる心が、私を旅 なほ 梅の木に猶やどり木や梅の花 へと誘い出す道案内となって、吉野の花見に出立しようと ( みごとな梅の木に、また梅が宿り木したように、雅名高い した時、あの伊良湖崎で約束しておいた人が、伊勢で私と 父君に、その上ご子息が俳諧を受け継ぎ、二代にわたって風落ち合い、「旅の悲しさ、苦しさをともにさせていただき 雅の花を咲かせていることよ ) ましよう、その上わらべとなって道中の手助けもいたしま そうあん ある草庵の会に、 す」と言い、旅中の仮名に万菊丸という名を自分でつけた。 うゑ かど むぐら も植て門は葎のわか葉哉 まことにわらべらしい名で、たいそうおもしろい。それで むぐら ( 前庭には芋を植えてあり、門をおおう葎は明るい若葉を茂 は出立にあたって、ちょっとたわむれごとをしようと、笠 かりな かさ