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検索対象: 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄
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1. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

記されている。元禄九年に蕉門の人々の 人の序を得て『ひさご』を編む。五年九 元禄二年、父と共に江戸に移り、幕府の ずさん 句を集めた『初蝉』を出し、その杜撰を 月江戸に下り、芭蕉庵で越年した。六年 医員に準ぜられ、のち法印に進んだ。寛 許六に批判され、翌年『菊の香』を出板 二月『深川集』、七年夏『市の庵』を出 文七年 ( 一六六七 ) 父の命により『続山井』 して訂正した。元禄十一年、芭蕉没後初 板。十月、芭蕉は大坂で没したが、なぜ を編集した。 めて出板された『泊船集』は芭蕉の遺句 か病床にも侍せす、葬儀にも追善の席に 支考 かがみ も出ていない。 集』で、疎漏も多く、非難をあびた。 各務氏。別号に東華坊・西華坊・野盤 じようそう ばねん 三 0 一三三六牡年 丈草 子・見龍・獅子庵など。変名に蓮二房・ としぶみ 久米七郎左衛門利文。別号、暮年・万 内藤氏。別号、懶窩・仏幻庵・太忘軒そ 白狂・渡部ノ狂など。享保十六年二月七 年・知焉・道敬など。向井去来の実弟で、 の他。寛文一一年、尾張大山藩士内藤源左 日没、六十七歳。蕉門十哲の一人。美濃 たがみのあま 母の生家久米氏田上尼の養子となり、長 衛門を父として生れた。三歳の秋生母に 国山県郡北野に生れた。蕉門に入ったの 崎に住んだ。万治元年 ( 一六夭 ) 生れ。享 死別し、継母に仕えた。幼少のころ漢詩 は元禄三、四年の頃という。同五年松 ちつきょ 保十一一年十月四日没、七十歳。 文や禅を学び、十四歳の時、犬山に蟄居 島・象潟を遊歴し、その記念として『葛 三 = 一三一一三三四五 した寺尾直龍に仕えたが、元禄元年一一十正秀 の松原』をあらわした。以後、各地を遊 水田氏。通称、孫右衛門別号、竹青 七歳で、異母弟に家督を譲り、遁世した。 歴、多くの著述をあらわして勢力を拡大 ふみくに 堂・節青堂。享保八年八月三日没、六十 上洛して旧友史邦の紹介で芭蕉に入門、 した。芭蕉没後、美濃派を樹立したが、 七歳。膳所藩士、のち医を業とした。俳 同四年の「猿蓑』には跋文をよせている。 低調卑俗で、後に蕪村は麦林 ( 乙由 ) とな 諧は初め尚白に師事したが、のち芭蕉の 元禄六年ごろ近江に移って無名庵に住み、 らべて「支麦の徒」と軽視した。 しやどう 直門となる。元禄初年、邸宅が類焼した 三 0 八三三八三七一 芭蕉没後は同九年龍ケ岡に仏幻庵を結び 洒堂 ちんせき 時「蔵焼けて障るものなき月見哉」とよ 住んだ。元禄十七年二月没、四十三歳。 浜田道タ。一に高宮治助。前号は珍タ・ ちんせき しやらくどう み、芭蕉から賞されたという。元禄四年 『風俗文選』に去来の「丈草誄」がある。 伝珍碩。その居を洒落堂、のち略して洒堂。 二月、義仲寺の側に無名庵を建立して、 人近江膳所で医を業とした。俳諧ははじめ風国 げんじよ 芭蕉に尽した。芭蕉の三回忌の頃には公 伊藤玄恕。元禄十四年七月三日没。享年 尚白に学び、その縁で芭蕉に入門。直接、 要 職を辞し、医を業としたが、没後は丈草 未詳。京都の人。古医方の医家で、名古 主芭蕉に師事したのは元禄一一年ごろで、同 と並んで龍ケ岡に葬られた。追善集に 屋玄医門。芭蕉が大坂で病臥した折、 三年芭蕉は洒堂亭に遊び「洒落堂ノ記」 『水の友』がある。 野付近にその養生所を設けたことは、風 を作った。また幻住庵に入った芭蕉を時 三四九三夭三八七 野坡 折訪ねて教えをうけている。六月には越 国が後見した芭蕉追善集『木がらし』に 三 = 四三毛三一一九 らんか 三三四四 まさひで 三四一一三七六

2. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

でていたが、延宝ごろ浪人生活に入り、 本名、菅沼外記定常。近江国膳所藩士。 芭蕉を訪ね、金沢の小春の書簡を届けた。 貞享元年上洛した其角に接して蕉門に近 曲水は俳号、のち曲翠。別号、馬指堂。 享保十六年没、享年不詳。 きかく づき、同三年冬東武に下って芭蕉に入門 江戸勤番中に芭蕉に入門したらしく、貞 其角 えのもと した。篤実な人物で、芭蕉に深く信頼さ 享四年刊『続虚栗』に作品初出。元禄三 榎本氏 ( 母方の姓 ) 、のち宝井氏。蕉門 らくししゃ らしゃ ほうしん れ、峨の落柿舎を提供するなど物質的 年初夏、芭蕉に幻住庵を提供したことは 最古参の高弟。別号に螺舎・螺子・宝晋 ばんちょう 援助にも心を用いた。凡兆との共編『猿 著名。また、元禄五年一一月、芭蕉が曲水 斎・晋子その他。延宝初年、十四、五歳 いなかのくあわせ 蓑』 ( 元禄四年刊 ) は特筆すべき業績で あてに風雅に志す者の心得をさとした書 で芭蕉に入門、同八年『田舎句合』、天 さんとうのぶん あり、『去来抄』も蕉風俳論の重要な資 簡は「風雅三等之文」として知られる。 和三年『みなしぐり』を刊行、蕉風樹立 料である。宝永一兀年没、享年五十四歳。 人柄は豪直誠実であったらしく、芭蕉か の過程で大きい役割を果した。元禄七年 きよりく かれおばな らも深く信頼されたが、享保二年藩の家許六 十月芭蕉の死に会い、追善集『枯尾華』 ごろうせい しゅうえんき 森川氏。名は百仲。別号、五老井・風月 老曾根権太夫の不正を憤り、これを殺し を編集、「芭蕉翁終焉記」を執筆した。 堂その他。近江国彦根藩士。禄高三百石。 て自刃した。享年五十八歳。 元禄十年ごろから作風に変化が見られ、 江戸勤番中の元禄五年八月の芭蕉入門で、 いわゆる洒落風的傾向を示すようになる。挙白 キ、い - も・れ 翌六年五月帰国に際し『柴門の辞』を贈 草壁氏。江戸住みの商人で蕉門俳人。天 江戸座の俳風、洒落風の俳諧が、其角に られた。その中に芭蕉は「画はとって予 和三年刊『みなしぐり』に入集。芭蕉の 始ると称される所以である。撰著は『続 しト - う・ たけくま みなしぐりぞうだん が師とし」と書いているが、絵画は狩野 奥羽行脚に「武隈の松見せ申せ遅桜」の 虚栗』『雑談集』『句兄弟』『末若葉』『焦 ちり びきん 派の系統に属する。師翁没後、去来と 餞別吟を贈り、前書付きの芭蕉句「散う 尾琴』その他多数。宝永四年一一月没、享 ふたき 『俳諧問答』の応酬をなし、また俳文集 せぬ松や二木を三月こし」を旅先より得 年四十七歳。 もんぜん きふう 『本朝文選』 ( 改題して風俗文選 ) を刊行 て『四季千句』を編んだ ( 元禄二年刊 枳風 いんふたへん ばてい した ( 宝永三年 ) 。編著に『韻塞』『篇 か ) 。早く其角との共編『馬蹄二百韻』 伝江戸の蕉門俳人。その作品は天和三年刊 うだのほうし 突』『宇陀法師』 ( 三書とも李由と共編 ) ( 天和三年刊 ) がある。元禄九年没、享 物『みなしぐり』に初出、下っては元禄十 人 ほか。正徳五年八月没、享年六十歳。 年不詳。 一年刊『続猿蓑』に見られるが、少数に くめのすけ 要 公・兊・九 0 ・九一・九三・九五久米之助 主すぎない。天和三年秋の第二次芭蕉庵再去来 加賀国山中の温泉宿、泉屋甚左衛門の幼 向井氏。通称、平次郎肥前国長崎の医 建に際しては、弍朱を寄附している。姓 名。芭蕉来遊の元禄二年には十四歳の少 家に生れ、幼時、一家と共に京都に移住 名・生没年等不詳。 きよくすい 年で、この時色蕉に入門し、桃夭の俳号 した。柔術・剣術等の武芸や軍学等に秀 曲水 ・一七九・天三・一尖・一九 0 = 三・九四・九五・一九七 一突・一九七 きよらい みつき 六三 一究

3. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

ふえきりゅうこう 旅中多くの名所旧蹟をめぐり歩き、その間、不易流行の俳論を工夫して、自己の芸術の新境地開拓に資する ところが大であった。 この大旅行を素材にした紀行が『おくのほそ道』であって、それは芭蕉の紀行として最大長編であるばか りでなく、質的にも紀行の総決算的な意義を持つものである。ただしすでに述べたように『おくのほそ道』 は旅の事実を忠実に記録した作品ではなく、この大旅行を素材にして、芭蕉の胸中の風雅の理想図を描いた、 いわば一種の私小説である。成立も次に述べるように、旅行後四年もたった頃の執筆であるから、旅行当時 の芭蕉の心境がそのまま綴られているとも思えない。むしろ執筆時の芭蕉の心境に近いであろう。 成立時期について決定的に言うことはできないが、元禄五年の後半から六年前半ごろまでに或る程度の草 オ・い′一う 稿がまとめられたかと想像する ( 拙著『芭蕉の文学の研究』角川書店刊 ) 。草稿が成ったのちも推敲が重ねられ、 定稿が成ったのは、元禄六年末か七年春に及ぶであろうか。芭蕉が自分の所持本にするために自筆稿本を素 りゅう 龍に清書させた、いわゆる素龍筆芭蕉所持本の成ったのが、元禄七年初夏 ( 素龍跋 ) である。 諸本については次の三本が基本的なものであるから、まずこれらについて略説する。 曰素龍筆芭蕉所持本 ( 以下、素龍本と略称 ) ・・ : : 芭蕉が自筆稿本を、浅草自性院の住職で、能書家で、蕉門 だいせん 説でもある素龍に清書させたもので、元禄七年初夏に成り、題簽は芭蕉みずから「おくのほそ道」と書いて自 たて ばつぶん 分用にした本である。最後に素龍の跋文が付いている。縦五寸五分 ( 約一六・七じ、横四寸七分 ( 一四・二 ますがた 解 ) の桝形本。芭蕉は元禄七年五月十一日江戸を立って最後の上方の旅に出るが、この旅にも携行して、故 郷の兄の家に置かれていたらしい。芭蕉没後、遺言によって去来に贈られた。現在、敦賀市郊外の西村家蔵。 今回の翻刻の底本である。別に複製本がある。

4. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

作品解説 こゝのとせの ( 柴の戸 ) 延宝八年 ( 一六八 0 、三十七歳 ) 末の作であろう。本文は梅人編『続深川集』 ( 寛政三年刊 ) による。 われそのく 我其句を識て ( 乞食の翁 ) 天和元年 ( 一六八一、三十八歳 ) 末の作。本文は真蹟懐紙 ( 小林豊広氏蔵 ) による。 ゅめみとせ みつ 深川三またの ( 寒夜の辞 ) 天和元年冬の作。森々庵松後 ( 寛政十年没 ) の三回忌追善集『夢三年』 ( 松雨編、寛政十二年 序 ) に載る。松後が生前に記録した、とあり、信じてよいであろう。題名・署名は松後または松雨の加えたものであろう。 草の戸さしこめて ( 「蓑虫ノ説」跋 ) 貞享四年 ( 一六八七、四十四歳 ) 秋の作。 ( イ ) 芭蕉真蹟。 ( ロ ) は真蹟よりの杉風模写と思 われるもの。 ( イ ) を推敲し、素堂の文章との呼応が緊密。 みのゝくに ( 十八楼ノ記 ) 貞享五年秋の作。文末「貞享五仲夏」とあるが、諸種の文献から芭蕉の岐阜入りは六月八日と 思われる。本文は伝真蹟 ( 岐阜市岡本氏蔵 ) によった。 あんぎや 北陸道に行脚して ( 銀河ノ序 ) 数種が伝わるが、長文で、まとまりもよい『風俗文選』 ( 許六編、宝永三年刊 ) 所収を掲 げんじゅうあんのき 幻住庵記元禄三年四月六日より七月二十三日までの幻住庵々住の記。 ( イ ) は『猿蓑』 ( 元禄四年刊 ) に載る定稿。 ( ロ ) は 富山県入善町米沢家蔵支考旧蔵芭蕉真蹟。 ( ハ ) は『芭蕉文考』所収。 ( ロ ) よりも初稿と考えられる。 ( ニ ) は『言語と文 芸』号所載の初期草稿真蹟断簡。 もちづきぎんきよう 望月の残興 ( 堅田十六夜之弁 ) 元禄四年八月十六日、門人ら ( 路通・丈草・惟然ほか近江の俳人 ) に誘われて、舟で堅田 なりひで の竹内茂兵衛成秀を訪れ観月の句会 ( 連句会 ) をした時、書いて竹内氏に贈った一文。ここでは芭蕉真蹟を模刻したとい う『堅田集』 ( 寛政十年刊 ) によった。 こゝかしこうかれありきて ( 栖去之弁 ) 元禄四年冬から芭蕉は日本橋橘町の借家に入った。翌五年二月末か三月ごろの作。 ひょうぜん 、冫戸俳壇の俗悪さに飽いて、飄然と旅に出たくなった時の一文。本文は『芭蕉庵小文庫』によった。 芭蕉を移す詞元禄五年 ( 四十九歳 ) 五月中旬、第三次芭蕉庵が完成した頃の作。 ( イ ) 鶴岡市平田家蔵の芭蕉自筆『三日 よもぎがしま ずしろまる 月日記』稿本所収。当時来庵した図司呂丸に書き与えたもの。 ( ロ ) 土芳編『蕉翁文集』 ( 写本 ) に載る。闌更編『蓬莱嶋』 ( 安永四年刊 ) にもほば同文が載る。 ( ハ ) 川口竹人『芭蕉翁全伝』に「其の頃深川の庵再興の記文」として掲げる。やや 疑問もあるが、草稿か。 キ」ト - い冫、 許六離別の詞 ( 柴門の辞 ) 元禄六年四月末の作。彦根藩士森川許六の帰国に際し書き与えた。本文は許六自筆巻子『癸酉 記行』による。 へいかんのせつ 閉関之説元禄六年秋の作。本文は『芭蕉庵小文庫』による。

5. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

しゆっぱん 句も大切なれば、たとへ出板に及ぶとも、いそぎ改むべし」となり。 ばんてう しばのとこのきど しようれつ 凡兆日く「柴一尸・此木戸、させる勝劣なし」。 抄 じんじゃうけしき これじゃうもん 去来日く「この月を柴の戸に寄せて見れば、尋常の気色なり。是を城門にう 来 去っして見侍れば、その風情あはれに物すごく、いし ふまかりなし。角が、冬・霜一『猿蓑』所収。騒がしく鳴いて いる恋猫も、思い切る時はさつば わづら に煩ひけるもことわりなり」。 りとしている。それが執着を断ち うらや 切れない人間には羨ましい 〔五〕風雅か俗情か 0- ・心に風雅あるもの」が板本では 「心に俗情あるもの」とあり、文全 ときねこ こひ ゑつじん 体の解が異なってくる。しかし去 うらやましおもひ切る時猫の恋越人 来もこの句を「越人が秀作」 ( 元禄 が ひとたび 先師、伊賀よりこの句を書き贈りて日く「心に風雅あるもの、一度口にいで七年五月、浪化宛書簡 ) とし、芭 蕉も「よろしく候」 ( 元禄四年二月 ほんしゃう ちんせき 二十二日、珍碩宛書簡 ) と認めて ずといふ事なし。かれが風流、ここに至りて本性をあらはせり」となり。 いるように「風雅」とすべきである。 さき オよしは、つ これより前、越人、名四方に高く、人のもてはやす発句おほし。しかれども、 あらの ニ『礦野』 ( 元禄一一年刊 ) 所収。吹 あらは ここに至りて初めて本性を顕すとはのたまひけり。 き荒れる木枯しのために、細い二 日月は吹き散ってしまいそうだ。 〔六〕体格優美と珍物奇巧 三『いつを昔』 ( 元禄三年刊 ) に 「臨川寺」と前書して「地迄」の句形 ふつか で収む。折から降ってきた時雨を 凩に二日の月のふきちるか荷兮 木枯しが横なぐりに吹き散らして、 こがらしち かな 地面まで落さないほどだ。 凩の地にもおとさぬしぐれ哉去来 、」がらし ふぜい つき ふうが かけい

6. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

一一月、京都で客死。享年四十歳未満。 士。禄高二百石。木因の紹介で芭蕉に入 に移住、同九年龍ケ岡の西に仏幻庵を営 せいふう 清風 門したらしく、天和三年刊『みなしぐ んだ。元禄十七年一一月没、享年四十三歳。 出羽国尾花沢の人、鈴木道祐。通称、島 九三・九セ り』に入集。絵もよくし、素堂筆ならび 田屋八右衛門。俳号、清風。別号、残月 に跋、濁子画、芭蕉奥書の『野ざらし紀 江左氏。近江国大津の町医者。俳諧は初 軒。もと談林系の俳人であるが、貞享二 行画巻』が伝わる。生没年不詳。 め貞門系であったが、『野ざらし紀行』 じよ・」う 年六月二日、翌三年三月二十日の江戸で 如行 の途次、芭蕉が近江に来た貞享一一年春、 せんな の俳席に芭蕉と一座しており、蕉風に転 近藤氏。通称、源太夫。美濃国大垣藩士。 千那と共に芭蕉に会い、入門した。近江 と、つト - う・ ひとっ じたと思われる。特産の最上紅花を取り 貞享元年熱田の桐葉の手引で芭蕉に入門。 蕉門の中心的人物で、貞享四年には『孤 わすれうめ まっ 扱って繁昌した豪商て、金貸し業も兼ね 元禄一一年八月『おくのほそ道』行脚の大 松』を刊行。他に『忘梅』 ( 安永六年刊 ) す′」ろく ていたらしい。編著に『おくれ双六』 垣入りは如行亭であった。のち致仕して もある。享保七年七月没、享年七十三歳。 いなむしろ ひとつばし しようばう 『稲莚』『誹諧一橋』。享保六年没、享年 九三 僧となり、元禄中期には名古屋に移り住 じよこうし のち 七十一歳。 んだ。編著に『如行子』『後の旅』など。 磯田氏。通称、茶屋与次兵衛。近江国膳 ぜんせん 宝永五年没か。享年不詳。 所の人。芭蕉への入門は元禄一一年暮のこ すがぬまうじきよくすい 津田氏。通称、荘兵衛。前川は俳号。美 菅沼氏曲水一七九・一会・一会↓曲水 とであろう。同三年刊『江鮭子』以後に つめがしら すがぬまげきなに 濃国大垣藩士で詰頭の職にあった。『お 菅沼外記何がし一九 0 ↓曲水 句が見える。生没年不詳。 ずしさきち レ、・う・ばうじなに くのほそ道』行脚以前の江戸勤番中に芭 図司左吉 浄坊寺何がし 蕉に入門したものと思われる。生没年不 近藤氏。俳号、呂 ( 露 ) 丸。出羽国羽黒 『曾良旅日記』四月四日の条に見える とうげ 詳。 山麓手向村の人。山伏の法衣を染める染 「浄法寺図書」のこと。『おくのほそ道』 物屋を営んでいたらしい。図司は本姓で、千那 では芭蕉が人名表記を意識的に改変した 三上氏。近江国堅田の人。延宝ごろより 鶴岡から手向へ移住する際、母方の近藤 伝場合があるが、その一例。下野国黒羽の ずしょ 俳歴があり、大津の尚白と親しい間柄で、 姓を称したものか。当地方の宗匠格の俳 物大関藩の城代家老職、浄法寺図書高勝。 人 貞享二年春、尚白と共に芭蕉に会い入門 人で、『おくのほそ道』行脚の芭蕉を迎 禄高五百石。俳号、桃雪。別号、秋鴉。 した。元禄五年、堅田の本福寺十一世住 えて入門。羽黒山滞在中の芭蕉の教えを 主芭蕉来遊の元禄二年には二十九歳。享保 ま・、第・てい ききがき 職となる。編著に『蹄』など。享保 書きとめたという『聞書七日草』がある。 十五年六月没、享年七十歳。 八年四月没、享年七十三歳。 元禄五年上京の途次、江戸で芭蕉より稿 そうは 本『三日月日記』を贈与された。翌六年宗波 中川氏。通称、甚五兵衛。美濃国大垣藩 尚白 昌房 たつがおか 六セ ばくいん 七三・七五 全 せんな かただ 九三・九七 八七

7. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

えつじん 以降没。 であったが、貞享元年冬『野ざらし紀 行』の旅中にあった芭蕉を野水・杜国ら 本名、越智十蔵。俳人。越後国の出身で、甲斐何がし 延宝初年より尾張国名古屋に住み、染物 京都賀茂神社の神官、藤木甲斐守敦直。 と迎えて入門した。この時興行した歌仙 小野道風・藤原佐理・藤原行成・僧空海 集屋を営む。芭蕉入門は貞享初年で、同三 を編集して翌年春刊行した『冬の日』は はるのひ 文年刊『波留濃日』に作品が初出。同四年 の筆意をきわめたといわれる書道の大家。 蕉風確立の第一歩を踏み出した記念すべ 蕉冬には『笈の小文』の旅の途次の芭蕉に 慶安二年 ( 一六四九 ) 没、享年七十八歳。そ き集として注目される。ついで、『波留 随行して三河国伊良胡崎に杜国を見舞い の次男が今の福岡県三井郡の高良山三井 濃日』 ( 貞享三年刊 ) ・『阿羅野』 ( 元禄一一 さらしな 翌五年秋には『更科紀行』の旅を共にし 寺第五十世の座主、寂源僧正で、号を一 年刊 ) を編集するなど活躍したが、『猿 た。「性酒をこのみ、酔和する時は平家 如と称した書道の大家で、歌学にも長じ 蓑』 ( 元禄四年刊 ) 時代から芭蕉の新風 わが をうたふ。これ我友なり」という芭蕉の ていた。元禄九年二月没。 について行けず、次第に蕉風に批判的と かえもん はー ) もり 記述 ( 仮称、越人におくる ) がその人物加右衛門 なった。編著に『ひるねの種』『橋守』 しやくびかん みちかぜ の一端を物語る。編著に『鵲尾冠』『庭 陸奥国仙台の人で、大淀三千風門の俳人。 なども。享保元年八月没、享年六十九歳。 かまど かしまうじ 竈集』『猫の耳』その他。元文四年 ( 一七 俳号、加之。庵号、和風軒。屋号、北野加嶋氏 一七五 三九、当時八十四歳 ) 前後没。 屋。『日本行脚文集』に「予が文台を譲 本名、加島善右衛門。美濃国岐阜の中川 えんあんふぎよく 淵庵不玉七五↓不玉 し俳諧所、和風軒加之丈」とあり、三千 原新田 ( 岐阜市玉井町 ) に住み、油屋を おとくこ 乙州 九一・九四・九五 風の高弟であったと知られる。天和二年 営んだ。俳号を歩と称し、落梧を通じ 川井 ( 河合 ) 氏。通称、又七。俳人。貞 から貞享四年にかけて三千風に従い、仙 て芭蕉に入門した。貞享五年夏鵐歩亭に 享三年に没した父佐右衛門の業 ( 荷問 台近郊の歌枕の再整備に関与し、元禄一一 遊んだ芭蕉が、水楼からの風景を賞して わっじん 屋 ) を継ぎ、江戸や加賀に往来すること 年五月来遊の芭蕉を案内した。日人編 十八楼と命名したことが『十八楼ノ記』 が多かった。俳諧は初め尚白門で、芭蕉 『おく順れい』の巻頭にある絵馬が「画 に見える。生没年不詳。 かしょ 入門は金沢滞在中の元禄一一年七月であろ ェ」としての彼の絵を知る唯一のもので何処 あるが、その署名からは「嘉右衛門」と う。元禄四年芭蕉が帰東する際与えた末 本名不詳。何処は俳号。大坂の商人とい 書くのが正しい。生没年不詳。 定稿を宝永六年『笈の小文』と題して出 うことが『おくのほそ道』金沢の条で知 板した。蕉門の女流俳人智月の弟 ( 一説荷兮 られる。一笑追善の句が『西の雲』 ( 元 うたっ に子息 ) で後に養嗣子になったものとい 本名、山本武右衛門。尾張国名古屋の医 禄四年刊 ) に見え、『猿蓑』『卯辰集』に う。生没年不詳なるも正徳五年 ( 一七一五 ) 師で俳人。初め加慶と号して貞門の作者 も入集。元禄三年六月下旬には幻住庵に 一 = 三・四六・哭・全 かい′ー 四六 六三 みの おうほ さる

8. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

去来抄 4 田 卯七 蓑田八平次。別号、十里亭。長崎の唐人 屋敷組頭を勤めた。没年は延享四年 ( 一七 四七 ) 正月二日説と享保十二年 ( 一七一一七 ) 五 たがみのあま 月七日説がある。田上尼の甥。元禄六年 ( 一六九三 ) には上京して去来を訪ねている。 宝永元年 ( 一七 0 四 ) には去来と共編の『渡 鳥集』を出板。同年九月十日に去来が没 したが、その小祥忌に追善集『十日菊』 おもかげ を刊行。題名は卯七の「俤や菊も名にち る日は十日」による。 かなじよ 可南女 向井去来の妻。別号、貞従尼 ( 貞松尼と も ) 。蕉門。享保二十年まで生存の記録 はあるが、生没年は未詳。老後は去来の 兄元端の息元桂が養った。もと遊女とも けしあわせ 伝える。作品は『罌粟合』その他の諸集 に見られる。 きかく = 九九三 = 八三三 0 其角 えのもと 榎本氏 ( 母方の姓 ) 、のち宝井氏。別号、 みのた 主要俳人略伝 三四九三五 = らしゃ 螺舎・宝晋斎・晋子その他。延宝初年、 元禄三年『おくのほそ道』の旅を終えた 芭蕉に入門。同八年 ( 一六八 0 ) 『田舎句合』、 芭蕉に幻住庵を修繕して提供した。妻の みなしぐり 破鏡尼も蕉門 天和三年 ( 一六会、二十三歳 ) 『虚栗』、貞 きよりく 享四年 ( 一六八七 ) 『続虚栗』を出板し、江許六 ぞう 戸蕉門の風体を確立した。元禄四年『雑 森川百仲。通称は五介。別号、五老井・ だんしゅう 談集』を出板。同七年十一一月、芭蕉追善 蘿月堂・風狂堂・碌々庵・菊阿仏・無々 かれおばな 集『枯尾華』を編み、「芭蕉翁終焉記」 居士など。正徳五年 ( 一七一五 ) 八月二十六 をよせた。許六は彼の作風を「伊達を好 日没、六十歳。近江彦根藩士。「自讃之 論」によれば、俳諧は初め季吟流に学び、 んで細し。この細き所師の流なりー ( 俳 つねのり 諧問答 ) と評した。宝永四年二月没、四 のち談林の常矩に学んだという。元禄五 十七歳。 年八月江戸在勤中に桃隣の導きにより深 きよくすい 三三三曲翠 川の芭蕉庵を訪ねて入門。元禄六年五月、 菅沼氏。初め曲水、のち曲翠。名は定常。 帰国に際しては芭蕉から『柴門の辞』を げき 通称は外記。別号に馬指堂・己卯庵。膳 贈られた。『孵諧青根が峰』『雅文消息』 所藩士菅沼定澄の男。享保一一年、家老曾 『本朝文選』などの著がある。 こしゅん 我権太夫の不正を憎んで刺殺し、自刃し湖春 た。五十八歳。江戸在勤時代に其角を通 北村季重。通称は休太郎初号は湖長。 元禄十年没。享年は未詳だが、五十歳と じて芭蕉に入門。芭蕉との交情は親密で、 曲翠宛の芭蕉書簡も多く、中には「風雅 の説もある。季吟の長子で、幼少より俳 三等之文」として知られるものもある。 諧を好み、俳書の編集では父を助けた。 一、『去来抄』同門評を中心として、登場する主要な俳人を五十音順に配列し、 解説した。 一、名前の下の数字は、本文に登場する主たるべージを示す。 三三六 三一八三一一五三一一穴 三一一六

9. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

あじろみんぶせつどう 網代民部雪堂 御師・国学者・俳人。談林期の伊勢俳壇 に神風館一世として重きをなしていた足 ひろかず 代弘氏の子息弘員。国学者の家柄である が父の感化で連歌・俳諧をたしなみ、俳 人としては神風館二世を継承した。芭蕉 は伊勢俳壇における父子二代の風雅に敬一晶 はが 意を表して、貞享五年 ( 一六会 ) 一一月伊勢 参宮の際に雪堂邸を訪ねた。足代を網代 とした理由は不詳。享保一一年 ( 一七一七 ) 八 伝 月没、享年六十一歳。 略いっしよう 物一笑 人 小杉 ( 椙 ) 氏。名は味頼。通称、茶屋新 要 主七。加賀国金沢の片町で葉茶屋を営む。 若年より俳諧の道に入り、談林系の諸集 ひとっ に入集、のち蕉風に転じた。尚白編『孤 まっ 松』 ( 貞享四年刊 ) には百九十四句の多 じろ 主要人物略伝 八 0 久富哲雄編 一、紀行・日記編および俳文編の文中に登場する人物で、芭蕉の周辺にいた り、芭蕉と直接に出会ったりした同時代の人々をとりあげて、五十音順に配 列し、簡単な紹介を試みた。 一、見出しの人名の下の数字 ( 一一三など ) は、所出のページを示すものである。 兊・九 0 数が入集し、金沢の俊秀として名をせ羽紅 俳人。凡兆の妻女で、名はとめ。元禄四 たが、翌元禄元年 ( 一六犬 ) 十二月 ( 『西 年春剃髪して尼となり、羽紅尼と称した。 の雲』には十一月 ) 没、享年三十六歳。 あらの 荷寧編『阿羅野』 ( 元禄一一年刊 ) に凡兆 芭蕉はその死去を金沢到着後初めて知り、 と共に入集、元禄三、四年には在京中の 「塚も動け」 ( ↓八〇ハー六行 ) の追悼句を 芭蕉と親交があった。凡兆没後八年の享 手向けた。 保七年なお存命。 えがく 芳賀氏。俳人。俳諧は初め令徳門、のち会覚 いみな 京都出身の天台宗権大僧都。諱は照寂。 似船・常矩系に属し、談林風の俳人とし 院号は和合院。貞享四年八月羽黒山別当 て活躍した。天和三年 ( 一六八三 ) 春、京都 執事代となり、元禄一一年六月出羽三山巡 より江戸に移住し、蕉門と交渉を持って 礼の芭蕉を厚遇した。同六年八月美濃国 天和蕉風の一翼を担い、甲斐流寓中の芭 谷汲山華厳寺の山内寺院である地蔵院に 蕉を訪ね、第二次芭蕉庵の再建にも尽力 移り、宝永四年六月同地で示寂。享年不 した。晩年は前句付の点者として活躍し かんじんちょう 一、い第・ろ・ 詳。その作品は路通編『勧進牒』・不玉 た。編著に『丁集』『千句前集』『千句 編『継尾集』・史邦編『芭蕉庵小文庫』 後集』など。水四年 ( 一七 0 七 ) 四月没、 等に見える。 享年六十五歳。 一九七 つぎお けごんじ 七三・七五

10. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

去来抄 3 さいぎゃうのういん くべし、と直し給ひ、いかさま西行・能因の面影ならん、となり。また、人を一『猿蓑』所収。元禄四年 ( 一六九 D おレ」′、に 作。前句は芭蕉。付句は乙州で くらのかみ 「内蔵頭かと呼ぶ声はたれ」とある。 定めていふのみにもあらず。たとへば、 前句は、出家して最初に伊勢の鈴 すずかやま ほっしん 鹿山を越えてゆく、の意。付句は、 発心のはじめにこゆる鈴鹿山 そなたは内蔵頭ではないかと呼び らのかみ ひと かける者がある、誰であろうか、 内蔵頭かと呼ぶ人はたそ の意。 おもかげ・ 先師日く、いかさまたそが面影ならん、となり。面影の事、支考も書き置かれニ『東西夜話』 ( 元禄十四年刊 ) そ の他 0 浪化宛の去来書簡にも「当流に たり。参考せらるべし」。 面影を以て句を付け申し候御座候 三三〕付ける場 これは古人の仕りたる事をその通 りに句に仕り候へば、故事にて御 つけく 支考日く「付句は一句に一句なり。前句付などは幾つもあるべし。連俳に至座候」とて、この句をあげている。 みあは せつ 一つの前句に対して幾つもの りては、その場・その人・その節の前後の見合せありて、一句に多くはなき物三 付句を試みるもので、初めは付合 の稽古として行われたが、後に。 なり」。 遊戯化した。 四長形式の連句。 去来日く「付句は一句に千万なり。故に俳諧変化極りなし。支考が一句に一 句といへるは、付くる場の事なるべし。付くる場は多くなきものなり。句は一 0 支考の一句一句説は『東華集』 ( 元禄十三年刊 ) に詳しい っ場の内にも、幾つもあるべし」。 三巴気色の句 けしき まへくづけ きはま しかう れんばい いた とうか