幻住庵 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄
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1. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

芭蕉文集 274 て、くと 圏多山 右蹊 。・べ第二 -4 発 『幻住庵記』 『望月の残興』 ー罸リⅢ第甲 一、琵琶湖岸一帯の名勝を背景とする二作品の地名を解説した。 也須一見一、作中に書かれた順にしたが 0 て配列した。 一、幻住庵からの距離は、地図上の直線距離を示した。 もいう。標高四四一山頂は京都府と 幻住庵記 の境界をなす。幻住庵より南へ約四ー いしやま 岩間寺は西国三十三所観音霊場第十二番 石山瀬田川の西岸で石山寺のある小丘を 札所。笠取山地の東端にあたる。「これ 含めた広域地名。石山寺のある小丘は国 すみやま かさとり より峰つづき、炭山を越え、笠取を過ぎ 分台地の南に続く準平原。標高一八六 いしやま て、或は岩間にまうで、或は石山ををが 三石灰岩が硅灰石に変って露出し、 む」 ( 方丈記 ) 。 奇岩怪石が多いことから石山の名がある。 こくぶやま せきこうざん 石山寺は山号石光山。開基は東大寺の国分山大津市国分二丁目 ( 当時、国分 ろうべん 村 ) にある。標高二七一の小高い山で、 良弁僧正。紫式部が『源氏物語』の筆を 中腹に近津尾八幡神社がある。国分の名 起したという言伝えもあり、寺内には源 氏の間がある。慶長十八年 ( 一六一三 ) に寺 は、平安期以降、近江国の国分寺所在地 であることによる。奈良期は国分寺は瀬 領五百七十九石。「石山の秋月ーは近江 田にあった。なお、国分寺の読みは『日 八景の一。西国三十三所観音霊場の第十 葡辞書』にコクプジ。 三番札所。幻住庵から東南東へ約一・五 げんじゅうあん キロメ 0 藤原長能「石山に詣で侍りて、月幻住庵『東海道名所図会』 ( 寛政九年刊 ) ートル いんせい には、芭蕉がここに三年間隠栖したとか、 を見てよみ侍りける / 都にも人や待つら ほん 一石に一字を書いて法華二十八品全部を ん石山の峰に残れる秋の夜の月ー ( 新古 書写したとか、そのために里の童に小石 今・雑 ) 。 いわま を拾わせ、菓子を用意して与えたとか、 岩間大津市石山内畑町にある岩間山正法 多く付会の記事が見えるが、江戸期の庶 寺をいう。俗に岩間寺といい、醍醐寺の 民の間での芭蕉像を語っている。幻住庵 末寺であった。また、この寺のある山を キロメ 0 - 一くぶ

2. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

紀行・日記編主要諸本異同表 紀行・日記編地図 『おくのほそ道』地名巡覧 『幻住庵記』『望月の残興』地名一覧 『幻住庵記』『望月の残興』出典解説 主要人物略伝 初句索引

3. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

213 幻住庵記 で、かたつむりが殻を失ったように、あるいは、蓑虫が蓑 に身を苦しめ、花鳥風月に心を費やして、しばらくの間は それが自分のたっきの手段とさえなったので、とうとう無を離れたように、裸一貫となって、行方も定まらぬ旅に出 そうかんはたごや ることになった。あの宗鑑が旅籠屋で朝夕の食事をしたよ 能無才のままこの俳諧一筋につながれてきてしまった。白 のういんずだぶくろ うに、能因が頭陀袋を首にかけて旅をしたように、自分も 楽天は詩のために五臟の働きを破るほどに苦しみ、杜甫も ゅどの こが また詩のために痩せ果てたという。この人たちは賢人で詩また、松島や白河の関で顔を日に焦し、湯殿のお山では、 うとう たもとめ ありがたさに涙をこばし、袂を濡らした。さらに、善知鳥 才に富み、自分は愚者で文才もなく、その点で異なってい えぞ そと の鳴く卒都の浜辺から、蝦夷の千島を眺めやる所まで行き るとはいうものの、人間は誰とて仮の世に幻の生を受けた どうぎよう すみ たいものだと、しきりに心は逸ったが、同行の曾良という だけのものではないか、どこにいっこい、幻の住かでない そで 者が、「病気の多い体で、不安だ」と袖を引いて引き留め 所があろうかと、思いあきらめて寝るのであった。 きさがた ありなっこだち しひ るのに心が弱り、象潟という所から越路へ向った。高い砂 先たのむ椎の木も有夏木立 あらいそ 丘に苦しい歩みを進め、北海の荒磯にかかとを傷つけ、今 ( 無能無才の半生に疲れ、また長い旅路に疲れたわが身に、 年は湖水のほとりに旅寝を続けている。鳰の浮巣が流れ流 頼もしい一本の椎の木と夏木立がある。ます何はともあれ、 この椎の木を頼りとし、この夏木立の中で暮すことにしよう。れて、蘆の一葉にとどまるように、この湖水の近くにしば らく身を寄せる宿りを求めた。その名を幻住庵という。幻 季語は「夏木立」 ) やしろ こくぶやま 住庵のある山は国分山という。そこには古いお社が立って ちり しようドレレう いるので、心身も清浄となり、自然に塵も洗われる心地で ある。この住み捨てた草の庵は、勇士、菅沼氏曲水子の伯 じうえ 父上である方が、世を捨てて住んだ跡だとか。その庵主も、 幻住庵記 もはや八年昔にこの世を去り、住かだけを幻の世に残した。 にがもも 五十路に程近いこの身は、苦桃が老木となったような体まことに悟りも迷いも、皆これ幻の一字に帰着するのであ ( ロ ) あしひとは はや お

4. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

『幻住庵記』『望月の残興』地名一覧 : 『幻住庵記』『望月の残興』出典解説 主要人物略伝 : 初句索引 : 去来抄 去来抄 先師評 : 同門評 : 校訂付記 : 解説 : 主要俳人略伝 : 初句索引 : : 三一一四 : ・ : 三九三故実 : ・ ・ : 四 0 九修行 : ・ 栗山理一校注・訳 ・ : 三五 0 ・ : ・ : 四五八 ・ : 三八九 ・ : 四三四

5. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

( 原文一八六ハー ) に変ってゆくのも、またこれ幻の世の住かの故であろうか に上っておられるので、ある人を介して額の揮毫を願った。 するとたいそう気軽にご承諾なさって、「幻住庵」の三字と、すなわち、この庵をも立ち出でて去ったのである。 を書いて送ってくださった。その裏に自分の名を書き、後 に見る人の記念とした。山住いではあり、旅中のことでは ひのきがさ あり、これという器物を備える必要もない。木曾の檜笠と、 まくら みやもり すがみの 幻住庵記 越の国の菅蓑だけを、枕の上の柱にかけた。昼の間は宮守 こくぶやま いのしし おきな 石山の奥、岩間山の後ろに山がある。国分山という。昔 の翁や里の老人などがやってきて、猪が稲を食い荒らすと ふもと う、ギ一 の国分寺の名を伝えているのであろう。麓に細い涼しげな か、兎が豆畑へやってくるとか、自分が今まで聞いたこと のない話。 こ日を暮し、あるいはまた、ごくまれには訪れて流れがある。茂みを分けて坂を途中で三遍曲り、登ること やしろ 一丁半余りの所に、八幡宮が鎮座せられる。社はたいへん くる人々もあるのだが、夜は静かに影とともに座し、影の も・つり。トっ・ 神々しい。その傍らに住み捨てた草庵があって、屋根は腐 まわりに生じる罔両に向って思いを凝らす。 こう言ったからといって、ただ、ひたすらに閑寂を好み、り、壁は落ち、松やつつじが軒を囲み、すすきや根笹が庭 きつねためき いつばいに生い茂り、足跡といえば、狐や狸のものだけが 山野に隠れようというのではない。ただ病身のため人にう かすかにある。この草庵の名を幻住庵という。これは勇士、 み、世を逃れた人といったところである。なんということ いんせい おじうえ か、仏法を修行するでもなく、世の職務をつとめるでもな菅沼氏曲水なにがしの伯父上に当る僧が、隠栖していた跡 とか。その庵主も、もはや八年ほど前に亡くなって、住か く、ごく若い時から、ただむやみと好きなことがあって、 庵 だけがこの幻の世に残った。そのような庵であるのを、自 住それが、ひとまず生活の手段とさえなったので、とうとう 「ノ この一筋につながれて、わが身の無能無才を恥じるだけで分のために屋根を繕って雨漏りをとめ、垣根を庭に結いな どして、わたしが四国に行こうとするのをとめられた。去 燔ある。苦労はしたものの、功もなく、心も身も疲れ果て、 あらいそ ワまゆ 眉をしかめて、初秋七月も半ばを過ぎるころ、風景の朝夕年は松島・象潟の旅ですっかり日焼し、また、北海の荒磯 旨ロ き′」う 第一う・′う きさがた ねぎさ

6. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

さるまろまうちぎみ 「田上河をわたりて、猿丸太夫が墓をた に画された山地一帯の名称で、最高点は づぬ」 ( 方丈記 ) によっているのであろ 標高三七一であるが、かっては西方の うが、猿丸太夫の墓はここにはない。 醍醐山 ( 四五〇 ) をも含めた広い地帯 たけささふだけ 集の名称であった。在原元方「秋の歌とてさ、ほが嶽小竹生嶽、笹間ケ嶽、笹間嶽、 ささふだけ 笹生岳とも書く。大津市南部瀬田川の東 文よめる / 雨降れど露ももらじを笠取の山 岸にある。標高四三三。田上花崗岩山 蕉はいかでかもみぢそめけむ」 ( 古今・秋 ) 、 まさき 地の一つで禿山や崩壊地が多い。幻住庵 西行「正木わるひだのたくみや出でぬら キロメ 0 から南東七ー ん村雨はれぬ笠取の山」 ( 夫木 ) 。この地 せんじようみねせんずがたけ 一帯は醍醐寺領。幻住庵から南南西へ約千丈が峰千頭岳のことであろう。京都市 の中心から東南部、大津市との境界にあ 四・五。 みかみやま る。標高六〇二。逢坂関の南の音羽山 三上山滋賀県野洲郡野洲町大字三上山に ( 標高五九三・四 X) につづく山地の南 ある。標高四二七。美しい山容をもち、 、をロメ 0 端に位置する。幻住庵より西へ約三ー 近江富士と呼ばれる。頂上は雄山と雌山 はかま一し に分れる。山麓の御上神社は養老年間の袴腰袴腰山。袴越山とも。滋賀県大津 市南部にある。山容が袴の腰 ( 台形 ) に 造営で式内社 ( 名神大社 ) 。藤原秀郷 似ているところから名がある。標高三九 ( 俵藤太 ) のむかで退治の伝説 ( 御伽草 一幻住庵から南へ約四・五は。 子・『和漢三才図会』ほか ) がある。幻 たいと から東南約四ー 黒津現、滋賀県大津市黒津町。大戸川の 住庵から北東へ約一六・五ル あわづまつばら たなかみやま 北側、瀬田川との合流点で、大日山南麓粟津の松原『東海道名所図会』に「粟津 田上山太神山また谷上山とも。滋賀県大 野」とし、「大津松本より勢田橋までの に位置する。黒津の地名の由来について 津市南東部にある山。標高五九九・七 たなかみあじろくごせ 惣号なり。今は街道すじを粟津の松原と は、田上網代貢御瀬の監視所であったの 谷上 ( 日本書紀 ) 、手上 ( 吾妻鏡 ) とも いふなるべし」とある。広大な範囲を漠 で、貢御瀬がなまったものといわれる。 書き、語源は田の神の転訛したものとも、 村高は「元禄郷帳」で二三八石、「天保 然と呼んだのであろう。「粟津の晴嵐」 谷の上にあるという意ともいわれる。幻 は近江八景の一。『東関紀行』には「関 郷帳」で二六一石。明治十三年に戸数四 住庵から南東一〇。山頂に太神山不 山 ( 逢坂の関 ) をすぎぬれば、打出の浜、 十三、人口二一三。古来ここに網代があ 動寺がある。 粟津の原なんど聞けども、いまだ夜のう り、よい漁場だったと思われる。幻住庵 「田上山に古人をかぞふ」とあるのは てんか くろづ 彙体れ原 要人めム 一声衣・物 、キロメ 0

7. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

( 現代語訳一一一〇ハー ) 天照大神の本地はインドの大日如 来、八幡宮の本地はインドの阿弥 陀如来であり、日本の国に垂迹し た ( 仮に神としてここに姿を現し た ) と説く。「光を和げ」「塵を同 じうしは和光同塵のこと。仏が 本来の威徳の光をやわらげおさめ ごりやく て、俗世間に交わり御利益をくだ ( イ ) 一三「さび」は、ますますそのもの らしくなること。神々しい げんぢゅうあんのき 一四笹のこと。根茎で繁殖するの 芭蕉艸 幻住菴記 で根笹という。 一五寝床。 あり こくぶやまいふ こくぶんじ った 石山の奥、岩間のうしろに山有、国分山と云。そのかみ国分寺の名を伝ふな一六豪勇の武士、菅沼曲水。子は 九 敬称。膳所藩士。禄高など不明。 はちまんぐう ながれ すいび さんきよく るべし。麓に細き流を渡りて、翠微に登る事三曲二百歩にして、八幡宮たゝ菅沼外記定常。俳号曲水、のち曲 翠。人柄は豪直誠実であったらし りゃうぶひかり みだ そんざう はなはだいむ 、芭蕉から深く信頼された。後 せたまふ。神体は弥陀の尊像とかや。唯一の家には甚忌なる事を、両部光を 年 ( 享保一一年ー一七一七ー ) 藩の家老曾根 まうで またたふと ひごろ やはら りやくちりおな 、とゞ権太夫の不正を憤り、これを殺し 記和げ、利益の塵を同じうしたまふも又貴し。日比は人の詣ざりければ、し て自らも割腹して果てた。その子 庵 かたはらすみすてくさとあり ねぎさのき 住神さび物しづかなる傍に、住捨し草の戸有。よもぎ・根笹軒をかこみ、屋ねも内記も、この時、死を賜った。 一六 宅曲水の父、菅沼定澄の兄で、 そうなに ゅうしすがめま こり一五 かべおち り壁落て、狐狸ふしどを得たり。幻住菴と云。あるじの僧何がしは、勇士菅沼菅沼修理定知。膳所藩士。天和年 中、六十余歳で没。法名は幻住宗 まさげんぢゅうらうじん うぢきよくすいしのをぢ やとせばかり 氏曲水子之伯父になん侍りしを、今は八年計むかしに成て、正に幻住老人の名仁居士。 179 かみ げんちゅうあんのき 七幻住庵記 ふもと しんたい しーま はべ なり ・はせら・、う や

8. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

集 文やがていでじと、こもれる山は、あふみの国こくぶ之寺の跡とて、こくぶ山 蕉 ふもとさと いしやまうしろ おとはやま といふ。麓に里あり。こくぶむらといふ。石山の後にして、音羽山につゞけり。 くさと ここに。この所に。 こトもレ」すみ げんぢゅうあん これ ゅうしすがめまげき 爰元住あらしたる草の戸あり。名を幻住庵といふ。是はぜゞの勇士、菅沼外記 = 「なりけらし」の誤りであろう。 がり きよくすい 三「許」。その人のいる所。 をぢ すて 何がし曲水といふ人の、伯父なりける僧の、よをいとひて、むすび捨たるあと四修復。易林本『節用集』、恵空 編『節用集大全』に「シュフク」。 ふゆすゑきよくすい三ゆきはべり 五住み捨てること。 なるけらし。さりし冬の末、曲水のがり行侍しに、わがにしふく加へられ、 六「水雲」は雲水と同義に用いた 草の屋ねふきあらため、かきねゅひそへなんどして、四国におもむかんとするのであろう。これによって幻住庵 に芭蕉の薪水の労を助けていた人 ひき を引とめらる。このむとせむかしより、たびごゝろ常となりて、むさしのに草物が一人いたことがわかる。 セ底本に「いさよひ」と題。史邦 むあんあん むぢゅうぢゅう 室もとく破り捨て、無庵を庵とし、無住を住とす。かさ一ツをわがものとし、 編『芭蕉庵小文庫』に「堅田十六夜 イザョ 之弁」、支考編『本朝文鑑』に「既ー わらぢつねくっ 草鞋を常の沓とせしに、おもはざるこの山に心とゞまりて、しばしのたび寝を望ノ賦」と題があるが、いずれも 編者がつけたものと思われる。 なぐさむことになんなりぬ。ともにこもれる人ひとり、心ざしひとしくして、 〈陰暦八月十五日の月。十五夜。 六 九残りの興趣 すいうんきゃうそう 水雲の狂僧なり。薪をひろひ、水をくみて ( 以下欠 ) = はげます。勇気づける。 三『望月の残興』の地名・出典に や 五 ゃぶ ( ニ ) たきぎ そう のてらあと た ( 真蹟断簡 ) さう やま

9. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

までは、京阪石坂線終点石山寺から西へ キロメ 0 約一・五ートル ひえやま 日枝の山比叡。京都府と滋賀県にまたが る名山。叡山・北嶺ともいう。大比叡ケ 岳は標高八四八・三、四明岳は八三 えんりやくじ 八・八山中に天台宗総本山延暦寺が あり、滋賀県大津市坂本本町に属する。 あのくた 伝教大師「比叡山中堂建立の時 / 阿耨多 らさんみやくさんばだい 羅三藐三菩提の仏たちわが立っ杣に冥 加あらせたまへ」 ( 新古今・釈教 ) 。 ひらたかね 比良の高根滋賀県にある。比良山という あ 独立峰はなく、東は琵琶湖、北と西は安 ど 曇川、南は和邇川に囲まれた山地全体を 覧 いう。主峰は武奈ヶ岳 ( 一二一四・四 名 =) であるが、その南約六に第二の 地 主峰蓬莱山 ( 一一七四・三 X) があり、 残昔はこの蓬山一帯のみを比良山といっ の たかと思われる。「比良の暮雪」は近江 月 八景の一。藤原忠通「さざなみや志賀の 望 あられ 唐崎風冴えて比良の高嶺に霰降るなり」 ( 新古今・冬 ) 。 庵 からさき 住辛崎唐崎、韓崎、辛前とも書く。滋賀県 大津市唐崎にある琵琶湖にやや突き出し さき ささなみ た崎。「楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大 みやひと 宮人の舟待ちかねつ」 ( 万葉・巻一柿本 朝臣人麻呂 ) によれば、港の機能も果し 275 = = ロ で六万石。幻住庵から北へ約三・五ートル たらしい。「唐崎の夜雨」は近江八景の からはし 。ここに大きな一つ松があり、古来瀬田の唐橋 ( 瀬田橋・瀬田の長橋と も ) をいう。唐橋の名は唐様の橋であっ 「唐崎の一つ松」として有名。一つ松の ようし・よう・ たためであろうか。古来、交通の要衝で 名の由来については『東海道名所図会』 おお 『日本書紀』壬申の乱の記述の中に、大 に「遠近より見えて他樹に秀て一株高く おおとも あらはなるゆへとも、又は松の葉の間 海人軍が美濃から攻めのばった時、大友 軍がこの橋を切り落して防ごうとしたと / 、一葉なるものありて異なるゆへ、一 ある。瀬田橋から見る風景は美しく、 っ松とも呼ぶといふ」とある。幻住庵か 「瀬田のタ照」は近江八景の一。幻住庵 ら北へ約九。 しろぜぜ から東北へ約一一は。前大納言為家「湖 城膳所の城をさす。慶長五年、関ヶ原の かすみ のうみや霞てくるゝ春の日に渡るも遠し 戦後、瀬田橋の警固と京都監察のため、 せたの長はし」 ( 新後撰・春 ) 。 大津城を廃止し、膳所村を中心に膳所城 かさ の築城と城下町の整備が決り、藤堂高虎笠とり笠取山。京都府宇治市北東部の山。 現在は断層沿いの東笠取川と西笠取川と が縄張りを命ぜられた。湖中に突き出た 膳所ヶ崎に本丸・出丸・ 山山 0 二ノ丸を築き、一一十間の 土橋をもって北ノ丸・三 ノ丸と連絡した。天守閣 きつりつ は湖岸に屹立し、美観を 呈した。膳所藩主は、戸 田・本多・菅沼・石川 本多氏と代り、慶安四年 ( 一会 D 以降はこの本多 氏がつづいた。元禄の頃 は本多康慶が藩主 ( 延宝 七年より正徳四年まで ) あひ △岡山 田 堅 比叡山 浮御堂 唐 膳所 幻住庵瀬田 石山寺 千頭岳△ 笠山岩間寺 黒津 卍 △袴腰山太神山 キロメ 0

10. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

は注目すべきで、発句や連句に表現しきれない胸中の鬱懐がこの頃からとみに高まったと考えると、俳文を 0 単に俳諧世界の延長とのみは見られない一面もある。 きつくっ 集解説の初めに述べたように、俳文にも変化があり、初期の俳文はやや佶屈で、それに伴い意気軒昻の趣が 蕉あるが、次第に落ち着いた表現の中に確固たる隠者的精神を盛るようになってくる。元禄三年 ( 一六九 0 ) 夏秋 げんじゅうあんのき 芭『幻住庵記』を執筆したころは、芭蕉に俳文集編集の意図があって、同記はそのために書いた文である。同 記の執筆に芭蕉がいかに心を砕いたかは、そのころ書いた有名な去来宛書簡に委曲を尽していて明らかであ るが、また同記が幾度も改稿され、それらの形が今日もいくつか伝存していることによっても察せられる。 改稿を大ざっぱに分ければ、『芭蕉翁手鑑』所収のもの、『芭蕉文考』所収のもの、米沢家本、『猿蓑』所収 定稿となろうか。今日、全部が伝わらない真蹟断簡 ( 本書収録 ) をこれらの前に置けば五段階になろう。こ れらの改稿の過程を検討すれば、新しい文体を樹立するために芭蕉の腐心した跡が歴然としている。芭蕉は 『方丈記』につぐ隠者的文学のスタイルを打ち立てようとしたのであろう。 それほど苦心した『幻住庵記』であるのに、俳文集の企画を放棄したのは、門人たちの寄せて来た俳文が 『方丈記』の伝統を継いでこれを越える域に到底達していないことに気がっき絶望したからであろう。たと らんらん えば嵐蘭の『焼蚊之言葉』 ( 後に『本朝文選』に『焼レ蚊辞』として所収 ) 、加生 ( 凡兆 ) の『憎烏之文』 ( 芭蕉が大 おお 幅に手を入れて芭蕉作としたが、原作の低調を覆うべくもない ) 等によってもその一斑は察せられる。 かいぎやく 『幻住庵記』以後も芭蕉は折々に俳文を書いているが、それらは門人たちの多く書いている諧謔を主調にし せいきょのべん た戯文とは全く性質を異にしている。たとえば元禄五年二月ごろの執筆と推定される『栖去之弁 ( こゝかし こうかれありきて ) 』には発句も添えず胸中の悲懐を端的に吐露している。同年八月の『芭蕉を移す詞』や翌 てかがみ - つつかい けん - 一う