はなはだあはれ = 面目。世間に対する名誉。 甚哀がりて、詩を題し文をつらぬ。 「めんばく」に同じ。「限りなきめ その 其詩や錦をぬひ物にし、其文や玉をまろばすがごとし。つら / 、見れば、離いばくをひろめむ」 ( 宇津保・楼の 上上 ) 、『日葡辞書』に「 Méま cuu 。 そしんくわうきあり fodocosu メーボクヲホドコス」。 騒のたくみ有に似たり。又、蘇新黄奇有。 なりその はじめしゅんかう 初に舜の孝なるをいへるは、人にをしへをとれと也。其無能を感る事は、ふ ここは、小さい、の意 なんくわ たること たゝび南花の心を見よと也。かたちのすこしきなるを憐むは、足事をしらしむ。一三『老子』三十三に「自ラ知ル者 ハ明。人ニ勝ッ者ハカ有リ、自ラ つぐ りよばっしりゃう 呂房・子陵がむかしをひきて、隠逸の用意を告るか。玉虫のたはぶれは、色を勝ッ者ハ強シ。足ルヲ知ル者ハ富 一四素掌・蓑虫ノ説」中の「太公す いさめんとならし。 つるそしり ら文王を釣の謗あり。子陵も漢王 しづか ものみなじとく たれこの に一味の閑をさまたげらる」によ 翁にあらずば誰か此虫の心をしらむ。「静にみれば物皆自得す」といへり。 る。「呂房」は呂望の誤り。呂望は たい・一うばうりし・し・よろ・ 太公望呂尚。周の文王の師。文王 此人によりてこの句をしる。 いん の子武王を助けて殷を討ち、天下 て昔より筆をもてあそぶ人、おほくは花にふけりて実をそこなひ、実を好て風を定めた。文王に見出される前、 め 世を逃れて渭水のほとりに釣糸を その 垂れていた。 い流を忘る。此文や、はた其花を愛すべし、其実猶くらひつべし。 一五子陵は後漢の人。本名厳光。 てうこ いふあり ゑがく たんぜいあはく こゝに何がし朝湖と云有。此事を伝へきゝて、これを画。まことに丹青淡し幼時、光武とともに学び、光武即 の 草 位の後、諫議大夫に召されたが、 くわうえふおっ じゃうこまやか て情濃也。心をとゞむれば虫動がごとく、黄葉落るかとうたがふ。耳をたれ官途につかず、富春山に耕して一 生を過した。その釣をした所を厳 りゃうしさいはひあづか なほかんさう - り、 - ろ・らい てこれを聴ケバ秋の風そよ / 、と寒し。猶閑窓に閑を得て、両士の幸に預る事、陵瀬と呼ぶ。 さう この その にしき ある この この ーいん そのみなほ み あはれ このみ げん・」う
紀行では、まだ発句中心の跡が顕著であって、紀行の後半になると、詞書つきの旅中の句を、旅程順に並べ た感がある。前半も発句の詞書をふくらませた程度の俳文を連続させた感がなくもない。まだ紀行の執筆に 対しての考えが、十分熟していなかったせいであろう。 もっともわが国の紀行の歴史は、詞書つきの和歌を旅程の順に並べるところから出発したように思われる。 『万葉集』の中には、この種の類がいくつもある。中古以来の紀行には、必ず地の文の中に和歌が挿入され ている。中世においても同様で、連歌師の紀行には連歌の発句が挿入され、時に漢詩が挿入されることもあ るが、だいたいは和歌を地の文中に挿入するのが紀行のスタイルである。 『野ざらし紀行』が、殊に後半では、詞書つきの発句の列挙にとどまっていることは、紀行の側から言えば、 まだ紀行として十分熟していない感をまぬかれないが、わが国の紀行の歴史を考えれば、芭蕉がここから出 発したことは当然かもしれない。芭蕉の紀行の展開を大局的に見ると、発句中心から、しだいに文中心へ移 行していることがわかる。とは言え、地の文と発句とは不可分の関係であって、紀行全体が句文融合した詩 的作品だといえよう。それはわが国の紀行の原型が継承されているからであろう。 紀行執筆の方法 次に芭蕉の紀行執筆の方法について一言すると、芭蕉は旅中に感銘の深かった土地や事柄を短文に書き、 それらを材料にして紀行を構成している。たとえば『野ざらし紀行』を例にとると、「馬に寝て残夢月遠し きめた 解茶のけぶり」の句を文末に据える俳文、「わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく」の句を文末に据える俳文、「碪 うち 打て我にきかせよや坊が妻」を据える俳文等をはじめとして、「狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」とその詞書、 なごり ばたんしペ 「牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉」とその詞書等々を書き溜め、それらを材料に紀行を構成している。その わけいづ
芭蕉文集 114 いわき らが、すぐれた文を書き、旅情をこまやかに述べてからは、 岩城の住人、長太郎という者が、右のような脇句をつけ、 かす その後の紀行文はみなどこか似通ってしまって、先人の糟 其角の邸で送別の宴を張ってくれた。 から、だれも抜け出すことができないでいる。まして私ご 時は冬よしのをこめん旅のっと ( 旅立ついまは冬だが、春ともなれば花の吉野に遊んで、吉 とき愚鈍無才のものが書いたとて、とても及ぶところでは 野の句をみやげに帰ってくることだろう ) ない。「その日は、雨が降り、昼ごろから晴れて、どこそ ろせん こに松が生えていた、あそこに何という川が流れていた」 この句は露沾公より下されたのだが、これを初めとし、 などということはだれでも言えそうに思えるけれど、そん 古い仲間や親しいもの、またそれほどでもない人たちゃ俳 わらじ 諧の門人などが、あるいは詩歌・文章を持参し、また草鞋なことを書いたって、つまらないことで、かの中国の詩人、 こう早一んこくそとうば の代金など包んでくれたりして、餞別の心を示してくれる。黄山谷・蘇東坡の詩にみられるような珍しさ、新しさがな ければ、し 、まあらためて紀行文を書くまでもないことだ。 かの中国の古人は千里を旅行くに三月も前から糧を集めた とはいうものの、旅をした先々の風景は、自然と心に残る というが、私は人々の心づかいに恵まれ、労せずして旅の ものだし、山野の宿の旅寝の苦しかった愁いも、過ぎてし 準備もすっかりととのった。紙衣・綿子などというもの、 ~ うし 幗子・足袋の類、そのほかさまざまの贈物が集って、霜凍まえば話の種となるもので、それらを書きとめておけば、 また天地自然に親しむよすがともなろうかと、、いに残って り、雪降る冬の旅も安心して行けるというものだ。あるい いおり いる所々を、前後もかまわず、ここに書き集めたのだが、 は舟遊びに招き、あるいは別荘で宴を開き、またわが庵に いわば酔っぱらいの出まかせ同様、眠っている人のうわご 酒肴を持参して、旅の前途を祝い、名残を惜しんでくれる とのたぐいと見なして、 しい加減に聞き流してもらいたい など、何か特別な人の旅立ちのようで、たいそう物々しい のである。 感さえすることである。 きのつらゆきかものちょうめいあぶつに ったい紀行文というものは、紀貫之・鴨長明・阿仏尼 しゅ、一う たび しいか かみこわたこ せんべっ わきく かて なるみ 鳴海に泊って、
は注目すべきで、発句や連句に表現しきれない胸中の鬱懐がこの頃からとみに高まったと考えると、俳文を 0 単に俳諧世界の延長とのみは見られない一面もある。 きつくっ 集解説の初めに述べたように、俳文にも変化があり、初期の俳文はやや佶屈で、それに伴い意気軒昻の趣が 蕉あるが、次第に落ち着いた表現の中に確固たる隠者的精神を盛るようになってくる。元禄三年 ( 一六九 0 ) 夏秋 げんじゅうあんのき 芭『幻住庵記』を執筆したころは、芭蕉に俳文集編集の意図があって、同記はそのために書いた文である。同 記の執筆に芭蕉がいかに心を砕いたかは、そのころ書いた有名な去来宛書簡に委曲を尽していて明らかであ るが、また同記が幾度も改稿され、それらの形が今日もいくつか伝存していることによっても察せられる。 改稿を大ざっぱに分ければ、『芭蕉翁手鑑』所収のもの、『芭蕉文考』所収のもの、米沢家本、『猿蓑』所収 定稿となろうか。今日、全部が伝わらない真蹟断簡 ( 本書収録 ) をこれらの前に置けば五段階になろう。こ れらの改稿の過程を検討すれば、新しい文体を樹立するために芭蕉の腐心した跡が歴然としている。芭蕉は 『方丈記』につぐ隠者的文学のスタイルを打ち立てようとしたのであろう。 それほど苦心した『幻住庵記』であるのに、俳文集の企画を放棄したのは、門人たちの寄せて来た俳文が 『方丈記』の伝統を継いでこれを越える域に到底達していないことに気がっき絶望したからであろう。たと らんらん えば嵐蘭の『焼蚊之言葉』 ( 後に『本朝文選』に『焼レ蚊辞』として所収 ) 、加生 ( 凡兆 ) の『憎烏之文』 ( 芭蕉が大 おお 幅に手を入れて芭蕉作としたが、原作の低調を覆うべくもない ) 等によってもその一斑は察せられる。 かいぎやく 『幻住庵記』以後も芭蕉は折々に俳文を書いているが、それらは門人たちの多く書いている諧謔を主調にし せいきょのべん た戯文とは全く性質を異にしている。たとえば元禄五年二月ごろの執筆と推定される『栖去之弁 ( こゝかし こうかれありきて ) 』には発句も添えず胸中の悲懐を端的に吐露している。同年八月の『芭蕉を移す詞』や翌 てかがみ - つつかい けん - 一う
芭蕉文集 30 りくぎうそなは 一「百骸九竅六蔵骸リテ存ス」 ( 荘子・斉物論篇 ) 。百骸は百骨、 竅は身体にある穴。両方で人間の 肉体の意。 ニ芭蕉の別号。 三「放擲せん事をおもひ」と対句 にするためやや無理な語法となっ 。人に勝って誇らんとし、の意。 四立身すること。このあたりか ら以下の文は『幻住庵記』と似通う。 風羅坊芭蕉 笈之小文 五さえぎられ。 つくしみちのき 六宗祇の『筑紫道記』の「二毛の ものあり ひやくがいきうけう 昔より六十の今に至るまでおろか 百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに なる心ひとすぢにひかれて : ・」。 , 一のむ つひ 破れやすからん事をいふにゃあらむ。かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはか七『幻住庵記』の初案形に以下と 同意の文がある。同記で削除した 後ここに圧 ~ かしたものか りごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかた 〈道を貫くこと。「文ハ貫道ノ やす これ たて うつはもの しようれいの む事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立器也」 ( 集 = 昌黎文一序 ) はパジ エス『日仏辞書』や『下学集』等にも しばらまなんぐ 見える。また「道ハ通ジテ一ト為 む事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学で愚を暁ン事をおもへども、 ス」 ( 荘子・斉物論篇 ) も踏むか。 ただこの さいぎゃう 是が為に破られ、つひに無能無芸にして、只此一筋に繋る。西行の和歌におけ九天地万物を創造する造物主、 または創造された自然。『荘子』の りきう せっしう そのくわんだう そうぎ けんさいこうぎ りんきいっ る、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する注釈書『荘子虞斎ロ義』 ( 林希逸 ) に したが 「造化ニ順ッテ万物トナル」。 ぎうくわ 物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る一 0 四季。 ( 現代語訳一一三ハー ) 笈の小文 ぜひ こぶみ うんはうてき 六 なづけニ つなが さとら い 0 ふうら・はう 四
式である。だから、ほとんど発句を俳文の末尾に据え、しかも、ます発句が作られ、発句を補う形の文があ とから書かれる手順である。例えば最古の俳文と考えられている「しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉」 集を末尾に据える俳文は、その前に「冬月江上に居をうっして、寒を侘る茅舎の三句」と詞書を付し「草の戸 蕉に茶を木葉かくあらし哉 / けし消に薪わる音かをのゝおく / 櫓声波を打て腸氷る夜や泪」 ( 真蹟拾遺 ) を並記 した真蹟があったと考えられている。多分、芭蕉はこれらの発句だけでは、宗匠生活を打ち捨てて、深川に いんせい 隠栖し隠者となった心境を十分に表現し切れないと考えたのであろう。それで「草の戸に」を「しばの戸 に」に直して、それに「こゝのとせの春秋、市中に住侘て、居を深川のほとりに移す。 ・ : 」以下の文を詞 書として添え、隠者となった心境を述べようとした。三句の中「櫓声波を打て」の句についても『寒夜の 辞』 ( この題は芭蕉自身のつけた題ではあるまいが、今、便宜上使う ) の文を添え、隠栖の心境を述べ、「櫓声波を おだわらちょう 打て」の句を補強している。芭蕉にとって、繁華な日本橋に近い小田原町の住居での宗匠生活を捨て、川向 こうの深川に隠栖して隠者になることは、人生行路上の大きな転回であり、文学上の作風の大転換でもある から、そのことを十七字の発句にのみ託すのでは物足らなかったのであろう。そこから芭蕉の俳文がだんだ きしムりく げんじゅうあんのき 、一と・は ん発展して、後年の『幻住庵記』ともなり『許六離別の詞』ともなったのだと考えたい。 紀行について言えば、芭蕉の最初の紀行は『野ざらし紀行』で、初稿は貞享二年 ( 一六会 ) ごろの執筆かと 推定されるから、最初の俳文の執筆より約五年遅れるが、その間には旅らしい旅がなかった。天和二年末の 大火で芭蕉庵が類焼し、甲州へ疎開したのは、旅とはいえないであろう。 『野ざらし紀行』が書かれたのは、芭蕉が江戸に出て来て、ようやく宗匠として一家をなしたのち、俳諧隠 者の生活に入ってからの最初の帰郷の旅で、一時期を画する気持が胸中にあったからであろう。しかしこの
まち まうりゃうぜひ の端にかゝれば、夜座静に月を待ては影を伴ひ、灯を取ては罔両に是非をこら一『風俗文選』に「ウン」と振りが なのあるに従う。 す。 ニつくづく。 三愚かで劣った自分の罪・過ち。 かんじゃく 文かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさむとにはあらず。四官途につき、俸禄をもらえる 蕉 身分。 びやうしんひとうん つらつらとしつきうつり ったなみ 芭やゝ病身人に倦で、世をいとひし人に似たり。倩年月の移こし拙き身の科を = 仏陀の籬、祖師の室、で仏門 四 五 の意。祖師は一宗一派の開祖。 しくわんけんめいち ぶつりそしっとばそい おもふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむ六の『標注七部集』頭注の 「タドル方ナキ意力」が近いであろ ふううん くわてうじゃうらう . しばらしゃうがい とせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり う。『風俗文選』には「たよりなき」 としている。芭蕉の造語か。 つひむのうむさい このひとすぢ らくてんござうしん 事とさへなれば、終に無能無才にして此一筋につながる。楽天は五臓の神をや七花鳥風月に。 ^ 『風俗文選』には「労じて」と濁 らうとやせ けんぐぶんしつ まばろしすみか ぶり、老杜は痩たり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻の栖ならずや点し、『日葡辞書』には「 Banga 。 uua 「 6 と te cö naxi バンガクワラウ すて と、おもひ捨てふしぬ。 シテコウナシ。 Xuqiacuuo rosuru シュキャク ( 手脚 ) ヲラウスル」と まづ しひ ありなっこだち 先たのむ椎の木も有夏木立 清音の用例をあげる。 九文は、はでやかで才能がある こと。質は、質朴で平凡なこと。 一 0 『風俗文選』には幻に「ウッ、」 と振りがなをするが従えない。 こと は ( ロ ) やぎしづか ともなともしびとり さんや ひと ( 猿蓑 ) = 芭蕉この年四十七歳。 三桃の一種。実が小さくて固く、
下に「にや」を補う。 僧懐素はー初め「は」なし。「素」 の右下に「ハ」を補う。 4 貴とし ( 意改・蓬莱島 ) ー貴し 集 文 7 削りー削り削り ( 丁移りによる重複と 蕉見て、訂した ) 芭 9 愛すべき料にや ( 蓬莱島 ) ー「愛」 の下に割注して「此処字切ル」とあり、 「料」は次行の行頭にある。 4 破却 ( 意改 ) ー破布
〔四六〕算用を合す 駒ひきの木曾ゃいづらん三日の月去来 もちづき 今やひくらむ望月の駒、といへるをふりかへて、木曾ゃいづらん三日の月、 といへり さんよう 評先師日く「この句は算用をよく合せたる句なりと、あざけり給へり。 師 先 あたり ふみ 「桃花坊に春をむかへて」と前書し 先師、都より野坡がかたへの文に、この句を書き出し、「この辺の作者、 て収む。桃花坊とは京都の町名で まだこの甘味をはなれず。そこもとずいぶん軽みをとり失ふべからず」となり。去来の居宅があった。東山の辺に 朝霞がたなびき、空はほんのりと 紅に染まっている。山部赤人とは 〔四五〕長高き句 よくも名づけられたものだ。 がすみ うだのほうし 0 『宇陀法師』に、発句は百韻の巻 赤人の名はつかれたりはっ霞史邦 頭だから、たけ高き句を第一とし、 ほくたけたか 「大将の位なくては巻頭に立たず」 先師文に日く「中の七字よく置かれたり。発句長高く、意味すくなからず」 A い , つ。 セ今日は三日の月。今ごろは朝 となり。 廷に献上する駒が木曾を出ている ことであろう。平安時代、諸国の 牧場から馬を朝廷に献上した。 〈「逢坂の関の清水に影見えて 今やひくらむ望月の駒」 ( 拾遺・巻 三紀貫之 ) 。望月の駒は、信濃 の望月の牧場から毎年八月に献上 九駒牽の儀式は八月十六日であ るから、それに間に合せるために 三日ごろには木曾を出るはずだ。 0 古歌を踏まえるのはよいとして も、日数を計算するなどとはもっ しっせき てのほかだという叱責である。 あ六 と 、一ま ふみ な きそ 五 たけ つき ふみくに - 一まひき
しやくあさいぎゃうニ なし。たゞ釈阿・西行のことばのみ、かりそめに云ちらされしあだなるたはぶ一藤原俊成 ( 三四 ~ 一 = 0 四 ) の法名。 8 ここは和歌をさす。 ワ】 ところ ごとばしゃうくわう五 たま れごとも、あはれなる所多し。後鳥羽上皇のかゝせ給ひしものにも、「これら三はかないすさび。ちょっとし 集 た言い捨ての作。 はべり 四第八十二代天皇 ( 一一八 0 ~ 一一一三九 ) 。 文は歌に実ありて、しかも悲しびをそふるーとのたまひ侍しとかや。されば、こ 蕉 歌人。 その ひとすぢ なほ 芭のみことばをカとして、其細き一筋をたどりうしなふる事なかれ。猶「古人の = 『後鳥羽院御ロ伝』をさす。寛 文四年 ( 一六六四 ) 、『和歌手習』に収録、 なんざんだいし みち 跡をもとめず、古人の求たる所をもとめよ」と、南山大師の筆の道にも見えた初めて刊行された。 六同書に「釈阿はやさしく艶に とも、しび さいもんそと 心も深くあはれなる所もありき。 り。風雅も又これに同じと云て、燈をかゝげて、柴門の外に送りてわかるゝの ( 中略 ) 西行はおもしろくして、し み。 かも心も殊に深く・ : 」。 セ『風俗文選』には「る」なし。 ふうらばうばせうじゅっ ^ 空海『性霊集』に「書モマタ古 風羅坊芭蕉述 意ニ擬スルヲ以テ善シトナシ、古 ( 許六自筆巻子『癸酉記行』 ) 迹ニ似ルヲ以テ巧トナサズ」。 九空海 ( 弘法大師 ) のこと。南山 は高野山。 一 0 柴で作った門。柴の戸。 = 『風俗文選』等に以下なし。 あと まこと げんろくろくまうかすゑ 元禄六孟夏末 もとめ こじん 三門を閉じて閑居する。 一三『論語』の「季子」に「孔子日ク、 わか 君子ニ三ッノ戒メ有リ、少キ時ハ せき