芭蕉文集 128 月日は百代にわたって旅を続けて行くものであり、来て は去り去っては来る年々も、また同じように旅人である。 舟の上に身を浮べて一生を送り、旅人や荷物を乗せる馬を ひいて生涯を過し、老年を迎える者は、日々が旅であって、 旅そのものを常の住みかとしている。風雅の道の古人たち も、たくさん旅中に死んでいる。わたくしもいつのころか らか、ちぎれ雲を吹きとばす風に誘われて、漂泊の思いが 三月も下旬になっての二十七日、あけばのの空はおばろ や かす ありあけづき 止まず、この年ごろは、海沿いのあたりをさまよい歩き、 に霞み、月は有明月で、光は薄らいでいるが、富士の峰が ゃなか こずえ 去年の秋、隅田川のほとりの破れ家にもどり、蜘蛛の古巣かすかに見え、近いあたりの上野・谷中の花の梢をまたい すま を払って久しぶりの住いにようやく年も暮れたのだ。が、 つの日に見られようかと、心細い思いがする。むつまじい かすみ 新しい年ともなれば、立春の霞こめる空のもとに白河の関人々はみな、前の晩から集って、今日の門出に一緒に隅田 せんじゅ を越えたいと願い、そぞろ神にとりつかれて物狂おしく、 リを舟に乗って送ってくれる。千住という所で舟から上が 道祖神の旅へ出てこいという招きにあって、取るものも手ると、いよいよ人々と別れて、三千里もの長い旅に出るの ももひ ゅめまばろし につかない。股引きの破れをつづくり、笠の緒をつけかえ だなあという感慨が胸に一ばいになって、この世は夢幻 きゅう ちまた て、三里に灸をすえると、もう心はいっか旅の上ーーー松島と観ずるものの、しかしその幻の巷に立って、いまさらな の月の美しさはと、そんなことが気になるばかりで、二度がら離別の涙を流すのであった。 みち おくのほそ道 〔こ かさ と帰れるかどうかもわからない旅であるから、いままで住 さんぶう んでいた芭蕉庵は人に譲り、杉風の別荘に移ったころ、 すみかは 草の戸も住替る代そひなの家 ( わびしい草庵も自分の次の住人がもう代り住んで、時も雛 まつり 祭のころ、さすがに自分のような世捨人とは異なり、雛を飾 った家になっていることよ ) おもて いおり と詠んで、この句を発句にして、面八句をつらね、庵の柱 に掛けておいた。 ( 原文五〇ハー ) ひな
ては興ざめなことになってしまった。 美景に、自然を作りなせる神のみわざのみごとさを思い また一切の執着を断ち、身を行雲流水と思い捨てた人の跡 高野山 を慕い、風雅を愛した人々の心にもふれる。なおまた、住 きじ ちゝはゝのしきりにこひし雉の声 みかも捨て去った身であるから、器物を蓄えようとの願い ( 高野の奥にたたずんで、子を思うて鳴くという雉の鳴声を もない。無一物であるから、道中、盗人に襲われる不安も かご 聞けば、今は亡き父母の慈愛が思い出され、父母のことがし ない。駕籠に乗るかわりに、疲れないようにゆっくりと歩 キ、り・に亦 5 しいことだ ) き、空腹になってから遅いタ食を食べれば魚鳥の肉よりも ちる花にたぶさはづかし奥の院万菊 美味である。なんのあてもない旅だからどこで泊らなけれ ( 散る花に世の無常が感じられ、俗人として、もとどりを結ばならないという道程の制限もないし、朝何時に立たなけ った姿のままでいることの恥ずかしさよ ) ればならないという定めもない。ただその日その日の願い わらじ 和歌の浦 が二つだけある。今晩よい宿をとりたい、草鞋の、自分の ゆくはる おひっき 行春にわかの浦にて追付たり 足にあっ . たのが欲しいということだけは、ほんのいささか ( いま、この和歌の浦に出、かすむ海、浮ぶ島影の美しさに、 の、わたくしの願いである。旅のその時々に従って気分を 暮春の情をしみじみ味わいえたのであった ) 転じ、旅のその日その日に新しい心持を抱く。もし旅中で きみいでら 紀三井寺 少しでも風雅を解する人に出あったときは、限りなくうれ 文 しい気がする。ふだんは古くさく頑迷であるとにくみ捨て かたいなか の私の旅も長いので、かかとが傷ついていることは、あの たような人でも、片田舎の旅の道づれとなれば喜んで話を むぐら 笈 西行に似ており、それにつけても、西行の「天龍のわたするものだし、また葎にとざされたあばら家に風雅な人を がせき 見つけた時など、瓦石のうちに玉を拾い、泥の中から金を 幻し」の苦しみを思い、また馬を借りるときは、『徒然草』 に出てくるいきまいた上人の話が心に浮ぶ。山野・海浜の得た心地がして、物に書きつけたり、話の種にしようなど こうやさん
芭蕉文集 114 いわき らが、すぐれた文を書き、旅情をこまやかに述べてからは、 岩城の住人、長太郎という者が、右のような脇句をつけ、 かす その後の紀行文はみなどこか似通ってしまって、先人の糟 其角の邸で送別の宴を張ってくれた。 から、だれも抜け出すことができないでいる。まして私ご 時は冬よしのをこめん旅のっと ( 旅立ついまは冬だが、春ともなれば花の吉野に遊んで、吉 とき愚鈍無才のものが書いたとて、とても及ぶところでは 野の句をみやげに帰ってくることだろう ) ない。「その日は、雨が降り、昼ごろから晴れて、どこそ ろせん こに松が生えていた、あそこに何という川が流れていた」 この句は露沾公より下されたのだが、これを初めとし、 などということはだれでも言えそうに思えるけれど、そん 古い仲間や親しいもの、またそれほどでもない人たちゃ俳 わらじ 諧の門人などが、あるいは詩歌・文章を持参し、また草鞋なことを書いたって、つまらないことで、かの中国の詩人、 こう早一んこくそとうば の代金など包んでくれたりして、餞別の心を示してくれる。黄山谷・蘇東坡の詩にみられるような珍しさ、新しさがな ければ、し 、まあらためて紀行文を書くまでもないことだ。 かの中国の古人は千里を旅行くに三月も前から糧を集めた とはいうものの、旅をした先々の風景は、自然と心に残る というが、私は人々の心づかいに恵まれ、労せずして旅の ものだし、山野の宿の旅寝の苦しかった愁いも、過ぎてし 準備もすっかりととのった。紙衣・綿子などというもの、 ~ うし 幗子・足袋の類、そのほかさまざまの贈物が集って、霜凍まえば話の種となるもので、それらを書きとめておけば、 また天地自然に親しむよすがともなろうかと、、いに残って り、雪降る冬の旅も安心して行けるというものだ。あるい いおり いる所々を、前後もかまわず、ここに書き集めたのだが、 は舟遊びに招き、あるいは別荘で宴を開き、またわが庵に いわば酔っぱらいの出まかせ同様、眠っている人のうわご 酒肴を持参して、旅の前途を祝い、名残を惜しんでくれる とのたぐいと見なして、 しい加減に聞き流してもらいたい など、何か特別な人の旅立ちのようで、たいそう物々しい のである。 感さえすることである。 きのつらゆきかものちょうめいあぶつに ったい紀行文というものは、紀貫之・鴨長明・阿仏尼 しゅ、一う たび しいか かみこわたこ せんべっ わきく かて なるみ 鳴海に泊って、
たいすい ( 以下、乙州本と略称 ) を定稿と考えて底本とした。岱水編『木曾の谿」 ( 宝永元年刊 ) 所収のものは、杉風筆 と推定される付記によって、芭蕉が旅のあと平生世話になっている杉風のために書いた真蹟によるものと推 集定され、本文の上から見ても、初稿か、初稿に近いものと考えられる。もっとも、同書を定稿と考え、乙州 蕉本は真蹟草稿の写しとする村松友次氏の説 ( 「更科紀行の成立」〈『東洋大学短期大学紀要』一号〉、「更科紀行の成立続 考」〈『文学論藻』四 + 六号〉 ) があり、傾聴すべき点もあるが、『木曾の谿』本定稿説については、芭蕉は旅のあ となるべく早い時期に杉風に旅の記を書いて贈る習わしがある点なども考え合せ、諸本の問題は、しばらく 前記のように考えておく。 おくのほそ道 『更科紀行』の旅から江戸の芭蕉庵へ八月二十日ごろに戻った芭蕉は、元禄二年 ( 一六八九 ) の正月を迎えると、 もう『おくのほそ道』の旅に遊意を動かしている。実際の出発は三月下旬になったが、予定は三月三日の節 しら たち 句過ぎ出立であった。二月十五日付桐葉宛書簡に「拙者三月節句過早々、松嶋の朧月見にとおもひ立候。白 おうら かはしほがま ひな ・塩竈の桜御浦やましかるべく候」とあり、三月の雛節句の後すぐ出立し、桜の咲くころ塩竈に着く予定 すかがわとうきゅう だったことがわかる。しかし実際の出立は、白川の先の須賀川の等躬からまだ余寒がきびしいとの便りがあ ったりして、杉風やその他の門人に引きとめられ ( 杉風詠草詞書〈藤井乙男著江戸文学叢説』所収〉 ) 『おくのほそ 道』本文にあるように、三月二十七日に江戸深川を出立した。そのことは須賀川の等躬宅から杉風に宛てた、 うづき づけ せんじゅ そら 元禄二年卯月 ( 四月 ) 二十六日付の書簡によっても裏付けられる。千住から曾良を供に歩き出し、奥羽・ おおがき 陸の各地を踏破して、その年の八月二十日過ぎ大垣にたどりついた。この間約五か月、道のりは六百里 ( 約 かんなん 二三四〇キロ ) に近いといわれ、宿駅制も道路も完備していない地方の旅なので艱難も多かった。しかし、 とうよう すぎさう一う しおがま
こぶみ ことは『笈の小文』『おくのほそ道』でも全く同様である。だから紀行と俳文とは切り離せない密接な関係 がある。ただし、俳文を狭く考え、紀行等に採録されない文章こそ真の俳文とするのも一つの考え方である。 集芭蕉は紀行について独特の考えを持っていた。それは『笈の小文』の中ではっきり示されている。すなわ あり その はれ 蕉ち「其日は雨降、昼より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどいふ事」 ( ↓三二ハ , 五行 ) は、旅 の事実を事実のままに書く旅行記であって、文学としての紀行ではなく、これらに対して自分の書く紀行は ま、つ′ ) せんげん よへ 「酔ル者の妄語にひとしく、いねる人の譫言するたぐひ」であるという主張である。旅の事実をそのままに 書く旅行記や、旅行記に類する紀行は、自分の書こうとする紀行とは次元が違うと芭蕉は言いたいように見 ごと える。酔っぱらいのいい加減なことばや、眠っている人間のうわ言は、正気の人間のことばではない。正気 の人間は、事実に忠実な、正確な旅行記を書くが、自分の書く紀行は、正気の人間の書くものではなく、風 さんくわんやてい 狂の人間が書くものだから、旅の事実に忠実な旅行記ではない。道中の心に残った風景や、「山舘・野亭の うれひ くるしき愁」をとりまぜて書いて、世間尋常の人とは違う、風狂の人間が風雅の世界をさまよい歩く旅のさ まを描こうとするのだと主張する。 ただし、そんな考え方がはっきり意識されて来たのは、元禄三、四年 ( 一六九 0 ~ 九 l) ごろ、『おくのほそ道』 の旅のあとのことで、それまでの『野ざらし紀行』や『鹿島詣』などには、自覚的にはっきり意識されては いなかった。元禄三、四年ごろ『笈の小文』にそんな紀行を書こうと芭蕉は考えたが、結局それは未完成の まま終ってしまった。芭蕉は『笈の小文』で書こうとした紀行の世界を、『おくのほそ道』の中で実現しょ うと試みたように見える。『笈の小文』の紀行論は、その意味で『おくのほそ道』の序論だとも一言えよう。 晩年の芭蕉が、胸の中に抱いていた風雅の理想図を書いたのが『おくのほそ道』であるからには、それが ふり
さが 作品解説 かっし 野ざらし紀行「甲子吟行」とも呼ばれるように、芭蕉が貞享元年 ( 一六会、甲子 ) 八月江戸を立ち、上方各地を遊歴して、 翌年四月江戸へ戻るまでの旅を素材にした紀行で、紀行の第一作でもあり、蕉風樹立後まだ年を経ない時期の執筆でもあ るので、はつらっとした気分がどこかにある。ここに翻刻した底本は芭蕉真蹟絵巻で、多少の誤記・誤脱があるとはいえ、 本作品の定稿と考えてよいであろう。底本の執筆は貞享四年前半ごろか。 かしまもうで 鹿島詣「鹿島紀行」とも呼ばれ、貞享四年八月、芭蕉が鹿島に月見に行った旅を素材にした紀行で、ここに翻刻した底本 しようらいあんしゅうか は松籟庵秋瓜が、本間家伝来の芭蕉真蹟を模刻出板した『鹿島詣』 ( 宝暦一一年刊 ) である。他に天理図書館蔵芭蕉真蹟 『かしま紀行』があるが、一部脱落がある。杉風に贈られたものであろう。 おい こぶみ 笈の小文芭蕉が貞享四年十月に江戸を立ち、郷里へ戻ったのち、門人の杜国と二人で吉野・高野山・和歌の浦・奈良・大 あかし おとくに 坂・須磨・明石と巡遊した旅を素材にした紀行で、未完成のまま門人の乙州に預けられていたものを、芭蕉没後の宝永六 年 ( 一セ 0 九 ) に乙州が平野屋佐兵衛から「笈の小文」と題して出板した。ここに翻刻した底本は右の乙州本である。作品の 成立は元禄四年 ( 一六九 l) 初夏ごろであろうが、未定稿である。 さらしな 更科紀行芭蕉が『笈の小文』の旅のあと、名古屋から木曾路を経て、信州更科の名月を賞でた旅を素材にした紀行で、こ たいすい こでは前記乙州刊の『笈の小文』に付載されたものを底本にして翻刻した。岱水編『木曾の』 ( 宝永元年刊 ) に収める ものは、芭蕉が旅のあと杉風に贈った文によるもので初稿か。沖森直三郎氏蔵真蹟は両者の中間に位置すると見ておく。 おくのほそ道芭蕉が元禄二年三月下旬江戸を立ち、奥羽・北陸を歩いて八月二十日過ぎに大垣へ着くまでの、約五か月、 六百里 ( 約一一三四〇しの旅を素材にした紀行で、執筆は元禄六年ごろと推察される。ここに翻刻したものの底本は、 素龍筆芭蕉所持本で、同書は芭蕉が自筆稿本を門人の素龍に清書させ、自分用の本としたもので、末尾に素龍の跋文があ る。敦賀、西村家蔵。次に同じく素龍筆と推定される柿衛文庫蔵写本は、一一葉の脱簡があるが、芭蕉所持本と比べて本文 に多少の異同があり、参考になることが多い。三番めは、曾良が、芭蕉の草稿を筆写し、のちに芭蕉の定稿によって補訂 したと推定される書で、書写が忠実で前二書に勝るとも劣らぬ貴重な書である。 らくしー ) わ、 嵯峨日記芭蕉が元禄四年四月十八日から五月四日まで、京都の郊外嵯峨にあった去来の別荘落柿舎に滞在中につけた日記 で、日記ではあるが一種の文学的意識があり構成があって、文学作品たり得ている。芭蕉真蹟と伝えるものに野村本と曾 我本があり、両者は酷似しているが、やはり野村本を真蹟またはその忠実な写しとし、曾我本を模写と見るべきであろう。 ここでは野村本を底本として翻刻した。 こうやさん
芭蕉文集 50 一李白の「春夜ニ桃李園ニ宴ス それてんち ばん ルノ序」の冒頭の一節「夫天地ハ万 ぶつげきりよ くわういんはくたい 物ノ逆旅ナリ。光陰ハ百代ノ過客 ナリ」 ( 古文真宝後集 ) による。 ニ馬子。船頭と同じく毎日を旅 に暮す者。「とらえ」はハ行下二段 活用の動詞のヤ行化したものの連 用形で、近世一般の傾向。「物」は ゆき 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬「者」と書くべきところ。 三風雅の道の古人。日本の西行 もの すみか そうぎ のロとらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死や宗祇、中国唐代の李白・杜前ら。 四貞享五年 ( 一六八 0 八月。九月三 よ せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、十日改元して元禄元年となる。 四 五 五隅田川のほとりのあばら家。 かう・ーしや、つはを」く くれ 海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春すなわち芭蕉庵。 六人を旅に誘う神。芭蕉の造語。 だうそじん 立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神七自分の心の中の詩的精神にそ ぞろ神が乗り移って。 ゃぶれ かさをつけ ひぎがしら のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、 ^ 膝頭の下の外側のくばんだ所 きゅうてん 九 で、健脚になるという灸点。 きう まっしま まづ さんぶうべっ 三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別九芭蕉は三月三日の節句過ぎに は深川を立ち、松島で春の朧月を 見る予定であった。 墅に移るに、 一 0 杉風は魚問屋の杉山元雅で、 芭蕉の門人であり後援者。 草の戸も住替る代そひなの家 ( 現代語訳一二八ハ たて 〔こ つきひはくたい みち おくのほそ道 く . わかく すみかは とる ひび 六 がみ七 く、も すめ
なみだ とりなきうを ゆくはる しようと出かけたのだが、紙衣一枚は夜の旅寝の寒さを防 行春や鳥啼魚の目は泪 ぐ料として、ゆかた・雨具と、墨や筆の類、あるいは義理 ( 春はもう逝こうとしている。去り行く春の愁いは、無心な せんべっ 鳥や魚まで感ずるとみえ、鳥は悲しげになき、魚の目は涙がある人の断りきれない餞別など、さすがに捨てるわけにも いかず、これらが荷物として大きくなり、道中の苦労とな あふれているようである ) あんぎや ったのは、なんとも是非ないしだいである。 これを旅の句の書き初めとして行脚の第一歩を踏み出し たのだが、まだ後ろ髪をひかれるようで歩みが進まない 〔四〕 人々は途中に立ち並んで私どもの後ろ姿の見えるかぎり むろやしまみようじん 室の八島明神に詣った。同行の曾良が「この明神にまっ はと見送っているらしい せんげん このはなさくやひめ ってある神は、木花開耶姫といって、富士の浅間神社と同 じ神です。この神が四方壁で塗り固めた家の中にはいって、 今年といえば、たしか元禄二年のことだが、奥羽のあた火を放ち、もし自分にやましい点があるなら、その火とと りへ長い行脚の旅をすることを、ふと思いついて、呉国のもに燃え滅びようと誓いを立てられた、その火のただ中に、 しらが ひこほほでみのみこと 空から降った雪が笠に積り、それがそのまま白髪になって彦火々出見尊がお生れになったので、それで竈の神の名と しまうような、そんな昔の話そっくりの旅の嘆きを重ねる同じく室の八島と呼んでおります。また、室の八島といえ 、和歌では煙を詠むのが習わしになっていますが、それ 道のは、わかりきったことだけれども、耳には聞いても、ま もこのいわれによるのです」と話す。またここでは、この ぼだ目には見たことのない所を見て、もし生きて帰ることが の しろという魚を食べることを禁じている。こういう八島明 できたら仕合せではあるまいかと、あてにもならないこと お を頼みにして歩みを続け、その日ようやく草加という宿駅神の縁起の趣旨が、世間に伝わっていることもあるようで ある。 にたどり着いたのであった。痩せて骨もあらわな私の肩に かかる荷物の重さにまず苦しんだ。私は、ただ体一つで旅 〔三〕 や ぜひ かみこ かまど
芭蕉文集 122 と思うのだが、これも、また旅の楽しさの一つといえよう。 ころもが 衣更え うしろ ころも 一つぬひで後に負ぬ衣がヘ ( 今日は四月一日の衣更えの日であるが、旅のこととて着か える夏衣の用意もない。二枚着ていた一枚を脱いで、背中の 荷物の中に入れ、衣更えとしたことだ ) めのこうり 吉野出て布子売たし衣がヘ万菊 ( 吉野山を出て衣更えをしたが、いままで着ていた綿入れは、 荷になるので売り払ってしまいたい ) かんぶつ 釈迦の生れた灌仏の日は、奈良であちこちお詣りしたと ころ、鹿が子を産むのを見て、こともあろうに御仏の誕生 日に生れ合せてと、おかしかったものだから、 こかな か 灌仏の日に生れあふ鹿の子哉 ( 仏の縁にふれて、ちょうど灌仏の日に生れ合せた鹿の子が みようが いる。さても冥加な鹿の子であることよ ) とうしようだいじ がんじんわじよう 唐招提寺の開祖鑑真和尚が来朝のとき、船中で七十余度 の難に耐えておられるうち、御目の中に塩風が吹きこんで、 ついに盲目となられたという御像を拝んで、 おん しづく 若葉して御めの雫ぬぐはばや おひ ( 目のさめるような若葉にかこまれておわす和尚の像よ、こ の清らかな若葉をもって盲目の御目のしずくを拭ってさしあ げたいものだ ) 奈良で旧友に別れた。 つのまづひとふし 鹿の角先一節のわかれかな ( 春の終りに新しく生え出た鹿の角ま、、 。しままず一節めが別 れかけたところ。ちょうどそのように、あなた方とも一時の お別れである ) 大坂で、ある人のもとで、 かきつばた 杜若語るも旅のひとっ哉 ( かきつばたを眺めて語るのも、旅の一興です。あの『伊勢 物語』の主人公めいていて ) ま す 須磨 るす なり 月はあれど留主のやう也須磨の夏 ( 夏の須磨の空に月は出ているが、尋ねあてた庵の主人が留 守のような、何かしら物足りない感がすることよ。やはりこ こは秋眺めるべき所なのか ) 月見ても物たらはずや須磨の夏 ( 月が出ているのを見ても、なんとなく物足りない気がする いおり めぐ
式である。だから、ほとんど発句を俳文の末尾に据え、しかも、ます発句が作られ、発句を補う形の文があ とから書かれる手順である。例えば最古の俳文と考えられている「しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉」 集を末尾に据える俳文は、その前に「冬月江上に居をうっして、寒を侘る茅舎の三句」と詞書を付し「草の戸 蕉に茶を木葉かくあらし哉 / けし消に薪わる音かをのゝおく / 櫓声波を打て腸氷る夜や泪」 ( 真蹟拾遺 ) を並記 した真蹟があったと考えられている。多分、芭蕉はこれらの発句だけでは、宗匠生活を打ち捨てて、深川に いんせい 隠栖し隠者となった心境を十分に表現し切れないと考えたのであろう。それで「草の戸に」を「しばの戸 に」に直して、それに「こゝのとせの春秋、市中に住侘て、居を深川のほとりに移す。 ・ : 」以下の文を詞 書として添え、隠者となった心境を述べようとした。三句の中「櫓声波を打て」の句についても『寒夜の 辞』 ( この題は芭蕉自身のつけた題ではあるまいが、今、便宜上使う ) の文を添え、隠栖の心境を述べ、「櫓声波を おだわらちょう 打て」の句を補強している。芭蕉にとって、繁華な日本橋に近い小田原町の住居での宗匠生活を捨て、川向 こうの深川に隠栖して隠者になることは、人生行路上の大きな転回であり、文学上の作風の大転換でもある から、そのことを十七字の発句にのみ託すのでは物足らなかったのであろう。そこから芭蕉の俳文がだんだ きしムりく げんじゅうあんのき 、一と・は ん発展して、後年の『幻住庵記』ともなり『許六離別の詞』ともなったのだと考えたい。 紀行について言えば、芭蕉の最初の紀行は『野ざらし紀行』で、初稿は貞享二年 ( 一六会 ) ごろの執筆かと 推定されるから、最初の俳文の執筆より約五年遅れるが、その間には旅らしい旅がなかった。天和二年末の 大火で芭蕉庵が類焼し、甲州へ疎開したのは、旅とはいえないであろう。 『野ざらし紀行』が書かれたのは、芭蕉が江戸に出て来て、ようやく宗匠として一家をなしたのち、俳諧隠 者の生活に入ってからの最初の帰郷の旅で、一時期を画する気持が胸中にあったからであろう。しかしこの