歌枕 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄
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1. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

ふたみがた を入れて土を砕き、田面をかきな 三 0 〕ニ見潟の文台 らすこと。住吉神社の御田植 ( 五 ぶんだい ふたみがた 月二十八日 ) などの代掻をさすか。 しかが」。去来日く「しかり。 卯七日く「先師に二見潟といふ文台侍るよし、 六去来の妻。蕉門 ぢき ばうきやく 一しづ 0 みだりに新奇を好まぬ芭蕉では 史邦、これを乞ひて写し侍る。先師の指図・寸法を直に聞き侍れど忘却せり。 あるが、季語の発見をすすめるの しょぢ は「俳諧自由」という立場からは必 本より文台も所持せず。その後、門人写し侍る人多し」。 然のことであろう。 セ桐の一枚板で、表に二見が浦 三一〕俳書の名 の景と扇子を描き、裏に「うたが ふな潮のはなも浦の春」と芭蕉の 去来日く「先師日く、俳諧書の名は、和歌・詩文・史録・物語等とたがひ、 句を記す芭蕉使用の文台。↓ロ絵。 みなしぐりみかづきにつ 俳諧あるべし、となり。されば、先師の名づけ給ふを見るに、虚栗・三日月日〈連・俳の会席で用いる小机。 0 文台は懐紙や短冊などを載せる おもむき さるみのくずまつばらおひこぶみ 台。古く歌会では硯箱の蓋が用い 記・冬の日・ひさご・猿蓑・葛の松原・笈の小文、皆その趣なり」。 られ、文台の使用は連歌の会席か ありそうみ らうくわしふ らである。俳人にとって文台は単 去来日く「浪化集の時、上下を有磯海・となみ山と号す。先師日く、みな和 に道具として以上に尊重された。 九浪化編。元禄八年刊。芭蕉の 歌の名所なれば紛らはし。浪化集と呼ぶべし、となり」。 指示で成り、去来・其角が協力。 一 0 有磯海・となみ山ともに越中 実魯町日く「浪化集と、俳書の名は、詩・和歌・史・文を分かつべからず」。 の歌枕。 去来日く「されば、浪化、詩人ならば詩集なるべし。俳諧者なれば、見るより 0 書名にも独自な俳味が求められ 故 ている。「有磯海」や「となみ山」は 歌枕として知られ、新味はない。 俳諧書といふ事あきらけし」。 芭蕉の求める俳味は、軽妙で新鮮 さがある。 ふみくに もと うしち まぎ もんじん やま・かう など

2. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

芭蕉文集 68 一「栗原のあねはの松の人なら ばみやこのっとにいざといはまし を」 ( 伊勢物語・十四段 ) などで著名 な歌枕。 みちのくを ニ「陸奥の緒絶の橋や是ならむ ふみみふまずみ心まどはす」 ( 後拾 ひらいづみ ききったへ まれち 十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉遺左京大夫道雅 ) などで知られ 四 た歌枕。 とすうぜうゆき つひみち 兎蒭蕘の往かふ道、そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に三猟師と柴刈り。 四実際は道に迷ったのではない。 さく いづ 六 たてまつり きんくわぎんかいしゃう くわいせん 五北上川河口の港町。石巻市。 出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船、 六「すめろぎの御代さかえむと ち いりえ かまどたち - 一がね 入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立っゞけたり。思ひかけず斯る所あづまなるみちのく山に金花さ く」 ( 万葉・巻十八大伴家持 ) 。 きた かな ゃうやう にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸、まどしき小家にセ歌枕。石巻北部の北上川の渡 ーし。 あく ゆくそで 一夜をあかして、明れば又、しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・ま ^ 歌枕。石巻東部の丘陵付近の 牧場。 かや はるか ながめま のゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそうて、戸伊麻と九歌枕。尾駮の牧の東北方の地。 一 0 登米の当字。 そのにじふより いふ きょひらもとひらひでひら = 藤原清衡・基衡・秀衡三代の 云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおばゅ。 栄華 - まつりし書っ 三「黄梁一炊の夢」の故事によ る。一炊を一睡と誤るのは、中世 からのこと。 ひらいずみのたち 一三平泉館の南大門の跡があっ 」と一い , っ はる。 えいえういっすいうち 三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に だいもん ありひでひら いしまき と かか でんや みなと

3. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

の移り変りで、昔の歌枕の跡も、確かでないものが大半な のに、この壺碑だけは、まちがいない千年の昔の記念であ 加右衛門の描いてくれた絵図に従って歩いて行くと、奥り、これを見るといま、眼前に古人の心を確かめる思いだ。 みようり あんぎや まことに行脚のおかげであり、生き長らえた冥利であると、 の細道と呼ばれる細い街道があり、その街道の山側に添っ とふすげ て、古歌で有名な十符の菅が生えていた。いまでも毎年十感動のあまり、旅の疲れを忘れて、涙もあふれ落ちそうで すがごも あった。 符の菅菰を編んで、藩主に献上するという。 たがじよう つばのいしぶみ 壺碑市川村多賀城の跡にある。 この壺の碑は、高さが六尺余り、横が三尺ばかりもあろ それから、野田の玉川や沖の石の名所を訪ねた。「君を うか。一面苔むした石で、苔ごとくばんでいる所が文字だ が、かすかで、はっきりとは読めない。 ここから四方の国おきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」の古 まっ じんき 境までの里数が書いてある。そのあとに「この城は神亀元歌で有名な歌枕の末の松山は、いまは寺を建て、山号を末 おおののあそんあずまひと しようざん あぜちちんじゅふ 松山という。あたりの松原は、木々の間がみな墓場で、そ 年、按察使鎮守府将軍、大野朝臣東人が作ったものである。 ひょくれんり てんびようほうじ いつまでも変るまいとの 天平宝字六年、参議であり、かっ東海東山節度使で、兼ねれを見るにつけ比翼連理の仲 ちぎり えみのあそんあさかり て同じく将軍の恵美朝臣朝臈が更に修理を加え、ここに碑男女の契も、結局はみな、このような墓の下に帰してしま しおがま 道を建てる。十二月一日。と書いてある。神亀元年は、奈良うのだと、悲しさをそそられ、やがて着いた塩竈の浦のタ さび しようむ そ 暮時の鐘の声を淋しく聞いたことである。さみだれの空も 時代の聖武天皇の御代にあたる。ところで、昔から古歌に まがき の 詠まれている歌枕の類は、今日までたくさん語り伝えられ少し雲が切れ、タ月がほのかに光って、籬が島も近くに見 お ているが、それらの歌枕を現在訪ねてみると、歌枕だった渡される。小さな漁船が連れ立って漕ぎよせ、海辺で魚を おぶね 山は崩れ、川は流れを変え、道は改り、石は埋れて土中に分ける声を聞いていると、「あまの小舟の綱手かなしも」 隠れ、木は老い朽ちて若い木に生え変っているので、時代と古人が詠んだ気持が共感され、一段と旅の哀れが身にし うみペ

4. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

今・離別 ) ほかの詠のある歌枕。 山。 の名残をとどめない。その北隣に、線路 いずみじよう そで と旧街道に挟まれて、秀衡創建の無量光和泉が城秀衡の三男、和泉三郎忠衡の居 袖のわたり『曾良旅日記』五月十日の条 しんみどう やしろ 館であったと伝える所。『曾良旅日記』 院 ( 新御堂とも ) の跡がある。 「住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也」。 きんけいざん 歌枕覚書に「泉城衣河二方ヲ廻リ流ル。 石巻北部の北上川の渡し。寂念「しるら金難山平泉館の西方、秀衡が富士山に擬 平城也。平泉廿町程有。南部海道ノ左ノ して築き、山頂に黄金作りの鶏を埋めて、 めや袖の渡りハ時雨してみちのおくまで 方、山ノキワ也」と見える。 平泉鎮護にしたという山。 深き思ひを」 ( 夫木 ) ほかの詠のある歌 ころもせき たかだち 高館平泉館の西北の小山で、源義経の居衣が関『曾良旅日記』歌枕覚書に「衣関 枕。 みんぶのしよう まき 高館ノ後、切通シノヤウナル有リ。是 城跡と伝えられた所。義経は、民部少輔 尾ぶちの牧石巻東部の丘陵付近の牧場 らひさ ころもがわのたち 也。南部海道也。ソバノ小キ土橋ヲ桜川 基成の衣河館を居館とし、そこで泰衡に 『曾良旅日記』歌枕覚書に「石ノ巻ノ向、 ト云」とあり、『奥羽観蹟聞老志』には 攻められて自害したのだが、この衣河館 牧山ト云山有。ソノ下也」。相模「つな たえ 「高館ヲ去ルコト一町余、山下ニ小関路 の所在が『義経記』では高館となってお 絶てはなれ聚にし陸奥のおぶちの駒を昨 有リ。是レ古関門之址也」と見える。衣 り、『一目玉鉾』に「文治五年源義経合 日みし哉」 ( 後拾遺・雑一 l) などの詠のあ 笠内大臣「旅人の衣の関のはるみ、と都 戦の場なり」と注するように、当時、高 る歌枕。 か へだてゝいく日きぬらん」 ( 続拾遺・羇 館は衣河館の跡で、義経最期の地と伝え まの、萱はら石巻の東北約一〇尾 ぶち 旅 ) ほかの詠のある歌枕。 られていた。頂上に天和三年 ( 一六公 (l) 伊 駮の牧の東北方。現、宮城県牡鹿郡稲井 なんぶくち 達綱村によって建立された義経堂がある。南部ロ平泉から南部地方への出入口。 キっレ」う 覧村字真野。定家「露分む秋の朝けは遠か きたかみがわ 北上川北上山脈の姫神缶に源を発し、岩経堂経文を納めておく堂。経蔵。光堂の 巡らで都やいくかまのゝかやはら」 ( 玉葉・ 西北に隣接して建つ。寺伝では大治元年 手県中央部・宮城県北東部を貫流して南 地夏 ) ほかの詠のある歌枕。 かわらぶ とよままち ( 二一一六 ) 四月に二階建て瓦葺きで建立さ 下、石巻湾に注ぐ、奥州第一の大河。 戸伊麻現、宮城県登米郡登米町。当時は なんぶ れたが、建武四年 ( 一三一宅 ) の火災で二階 そ伊達綱宗の四男、伊達大蔵村直一一万石の南部平泉の北方、南部氏十万石の領地の を焼き、残存下層部に修理を加えて今日 通称で、その城下盛岡を中心とする、か 領地。 の ひらいずみ に至るというが、昔の面影を伝えている なり広い地方をいう。 平泉↓本章の冒頭「平和泉参照。 ころもがわ お のは一部にすぎないらしい。藤原氏三代 衣川平泉西方の山中に源を発し、平泉 ひらいずみのたち きやら 発願の一切経を納めていた。現存の金銀 の北方を東流し、高館の北で北上川に合 伽羅御所本文には「秀衡が跡」。平泉館 字交書経と金字経合せて一一千七百三十九 流する。源重之「衣河ミなれし人の別に の中心をなした秀衡の居館が伽羅御所で、 巻は漆塗箱二百七十五合と共に国宝指定。 はたもとまでこそ波はたちけれ」 ( 新古 いま平泉駅の北方がその跡であるが、昔 かや とめ おが

5. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

たまだ つばのいしぶみさかのうえのたむらまろ 玉田・よこ野大淀三千風編『松嶋眺望集』 たが、寛文七年 ( 一六六七 ) 十二月榴が岡に 壺碑坂上田村麿が征夷大将軍として ( 天和二年刊 ) に「とりつなげ玉田横野 社殿を建立して遷宮した。いま境内には 蝦夷を征伐した時、弓の弾で「日本の中 のはなれ駒っゝじが岡にあせみ花咲此 句碑が多く見られる。 央のよし」を書きつけた石で、「陸奥の まっしま 松嶋↓ = 四 集歌は河内国玉田横野の題にあり。此処に おく」「日本の東のはて」にあったと伝 いふところ しお 文も玉田横野と云処ありといへり。さだか塩がま↓ = 三 える古碑 ( 袖中抄 ) 。歌枕。右大将頼朝 しらかき 蕉 にしれず」と見える。所引の源俊頼の歌 「みちのくのいはでしのぶはえぞ知ぬ書 ほそみち の中に玉田・横野が一緒に詠みこまれておくの細道仙台東北郊、岩切村入山 ( 現、 つくしてよ壺碑」 ( 新古今・雑下 ) 。寛文 いるので、「つゝじが岡」との連想のも 仙台市のうち ) の東光寺門前付近の、 のころ、伊達綱村の代に多賀城址より一 とに設定された歌枕。金沢規雄説によれ 古碑が発掘され、その多賀城碑が壺碑と 冠川沿いの塩釜街道に、延宝・天和・ ば、仙台東郊に横野、東照宮東北の丘上、 貞享期に三千風らによって再整備された 混同されるに至ったもので、『松嶋眺望 ひとめたまーこ 万寿寺付近に玉田が、三千風らによって 名所。 集』も西鶴著『一目玉』 ( 元禄一一年刊 ) とふすげ 貞享年間に設定されたという。 十苻の菅古来、陸奥国各地で産出し、後 も多賀城碑を壺碑として疑うところはな おか つ、じが岡仙台の東郊、宮城野原の西。 に岩切村付近の名産となった「十苻の菅 。芭蕉も当時の一般的理解と同様に、 つつじ すげ 現、榴が岡公園の地。歌枕。源俊頼の和 菰」を作るもとになる菅。高野幽山編 多賀城碑を壺碑と信じていたものである。 はいまくら いちかわむら 歌は前項参照のこと。 『誹枕』 ( 延宝八年刊 ) に「十符菅宮城市川村当時は陸奥国宮城郡のうち。現、 した 木の下『古今集』東歌の「みさぶらひみ 郡仙台ト塩釜トノ間、岩切ト云辺ナリ」。 宮城県多賀城市大字市川 こしたっゅ たがのじよう かさと申せ宮城野の木の下露は雨にまさ 『曾良旅日記』歌枕覚書の「十府浦」の多賀城もと蝦夷統治の根拠地として、 ひれがみ あり れり」によって作られた歌枕。宮城野原 鰭紙に「今市ヲ北へ出ヌケ、大土橋有。 鎮守府や陸奥国府等が置かれた所。多賀 の南、薬師堂・国分寺旧跡の付近一帯。 北ノッメョリ六七丁西へ行所ノ谷間、百 城碑の北方三〇〇の地が多賀城址で、 現、仙台市木の下。 姓やしきノ内也。岩切新田と云。カコヒ 多賀城政庁跡として整備されている。所 やくしどう あり 薬師堂陸奥国分寺金堂址 ( 現、仙台市木 垣シテ有。今モ国主へ十苻ノコモアミテ 在地は共に多賀城市大字市川 の下 ) に建てられ、薬師像と十二神将像 貢ス」とあり、当時は伊達藩の名所保護 たまがわ を安置する。慶長十二年 ( 一六皂 ) 伊達政 政策で大事にされていたらしい。「十符」野田の玉川能因「タされば汐風こしてみ 宗の再建に成り、いま国宝建造物。 が歌枕。経信「水鳥のつららの枕隙もな ちのくの野田の玉川千鳥鳴くなり」 ( 新 てんじんみやしろ つつじ 天神の御社いま榴が岡公園の東南にある しむべさえけらしとふの菅こも」 ( 金 古今・冬 ) ほかで知られた歌枕。『奥羽観 つつじがおか 躑躅岡天満宮のこと。もと小田原にあっ 葉・冬 ) 。 蹟聞老志』によると、「塩釜村以南ニ在 の かんむり おおあぎ

6. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

歌枕。源重之「松嶋やを嶋が礒にあさり ロへ潮が逆流して奇観をなすといわれる。 あま まっ ひらいずみ せし蜑の袖こそかくハぬれしか」 ( 後拾松がうらしま『曾良旅日記』歌枕覚書に平和泉現、岩手県西磐井郡平泉町。奥州 遺・恋四 ) など。現、宮城県宮城郡松島 「松賀浦島塩竈辰巳ノ方、所ニハ松ガ 藤原氏三代 ( 清衡・基衡・秀衡 ) の栄華 集町の、松島湾内外に散在する大小二百六 浜ト云」と見える。現、宮城郡七ケ浜町 および源義経の古跡。「平泉」が普通の 文十余の諸島と湾岸一帯の名勝地。 のうち、菖蒲田浜から松ケ浜に至る海岸 表記であるが、『一目玉鉾』『男色大鑑』 おじまいそ 蕉 雄嶋の礒雄島は松島湾竹の浦の東南、瑞 近くにある小島で、松島に劣らぬ景勝の にも「平和泉」の表記が見られる。 まっ 巌寺からは西南方にある島。「松嶋の左 地と称された。歌枕。素性法師「音に聞あねはの松姉葉松。鴨長明「古郷の人に 地をはなれし処に、十三間の橋あり。藤 松が浦嶋けふぞみるむべも心あるあまハ かたらん栗原ゃあねハの松のうくひすの もっ A 一も すみ 咲かゝる松しまの橋とよめる是也。尤 住けり - ( 後撰・雑一 ) など。 声」 ( 夫木 ) などで知られた歌枕。現、 境地無双の地也」 ( 松嶋眺望集 ) 。陸地と 宮城県栗原郡金成町姉歯字梨崎に植え継 ずいがんじ は渡月橋で通じている。古歌に「雄嶋が瑞岩寺現、宮城県宮城郡松島町にある青 がれてある。 礒」「をじまの礒ーと詠まれたものが多 竜山円福瑞巌禅寺の略称。「巌」が正し 緒だえの橋定家「白玉の緒だえの橋の名 おっ いが「岩」も用いられた。臨済宗妙心寺 もつらしくだけて落る袖の涙に」 ( 続後 ふそう 扶桑昔、中国で日本国をいった呼称 派に属する寺院。承和五年 ( 八三 0 慈覚 撰・恋四 ) などで知られた歌枕。現、宮 とうてい 洞庭中国湖南省北部にある中国第一の大 大師の創建と称し、また天長五年 ( 八 = 0 城県古川市の旧国道、三日町と七日町の ーし・う 湖。湘江・沆江などの諸流を入れ、岳州 説もあるが、確実なことは不詳。鎌倉時 境界の橋と伝える。 ー ) し - っーししっ そう いしのまき で揚子江に注ぐ。付近に瀟湘八景の景 代に至り、北条時頼が当時宋より帰朝し石の巻現、宮城県石巻市。北上川河口 めいび ほっしん 勝地があり、古来、風光明媚な湖として た法身和尚を迎えて再興をはかり、禅宗 の両岸にまたがる港町。当時は仙台領最 多くの詩文・絵画に紹介されている。当 に改め、松島山円福寺と号した。のち建 大の港で、江戸への海路の東北基地とし 時はトウティと清音読み。 長寺派に属し、更に妙心寺派となった。 て栄えた。 せつこう きんかぎんおが 西湖中国浙江省杭州市の西にある湖。著 近世初頭、慶長十年 ( 一六 0 五 ) 伊達政宗が金花山牡鹿半島の東南端にある島。いま 名な景勝地で、西湖十景をもって詩文・ 寺院を造営し、同十四年に落成。やがて は「金華山」と書くが、『松嶋眺望集』 絵画に知られる。 海旻を招いて住職とし、瑞巌寺と号し、 『一目玉鉾』には「金花山」。鎌倉右大臣 せつこう みちのく たっ 浙江中国浙江省を流れ、杭州湾に注ぐ大 以後伊達家の菩提所となった。寛永十三 「こがねほる陸奥山に立民の命もしらぬ うん′」 河、銭塘江のこと。河口は満潮時と干潮 年 ( 一六三六 ) 雲居が招かれて住職となり、 恋もするかな」 ( 夫木 ) などでも分るよ かな 寺門を再興した。 時の差が甚だしく、満潮時には海から河 うに、歌枕としては、陸奥山あるいは金 さき せんとう げん かいびん たつみ きく

7. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

レーレゅ - っ 行平「わくらばにとふ人あらバすまの浦 に時宗の本山清浄光寺 ( 俗称、遊行寺。 わぶこたへ に藻塩たれつゝ侘と答よ . 、 ( 古今・雑下 ) 現、神奈川県藤沢市 ) から来て、敦賀湾 の海浜の砂を運び、神前にまいた行事 〔五 0 〕 北国北陸道の諸国をいう。 みの、国↓三七 〔四九〕 うねめの おおがき 種の浜敦賀湾北西部の海岸で、現、敦賀大垣現、岐阜県大垣市。当時、戸田采女 しよう 正氏定十万石の城下町。蕉門俳人の多 市色ケ浜。西行「泓染むるますほの小貝 い土地柄であった。 ひろふとて色の浜とはいふにゃあるら 伊勢↓三九四四 む」 ( 山家集 ) などの詠のある歌枕。 わたらい ほんりゅうじ 本隆寺本文には「侘しき法花寺」。もとふたみ現、三重県度会郡二見町。二見が 浦は伊勢の名勝地。西行「今ぞしるふた 金泉寺と称して、敦賀の曹洞宗永厳寺の ミの浦のはまぐりを貝あハせとておほふ 末寺であったが、応永三十三年 ( 一四 = 六 ) なり 成けり」ほかの詠で知られる歌枕。 法華宗に改宗して本隆寺と称するに至っ 現、敦賀市色ケ浜にある。 須磨現、神戸市須磨区。その海岸は古来 風光既媚の地として名高く、歌枕でもあ 巡る。『源氏物語』須磨巻の一節「須磨に はいとゞ心づくしの秋風に、海はすこし 地 ゆきひら 遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆる 道 といひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞 そ えて、またなくあはれなるものは、かゝ の る所の秋なりけり」は著名であるが、芭 お 蕉はこれをうけて「かゝる所の秋なりけ ま・一と りとかや。此の浦の実は秋をむねとする なるべし。かなしさ、さびしさ、い。 かたなく・ : 」 ( 笈の小文 ) と述べている。 いろはま よる

8. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

まっしようぎん つくり すゑまつやま 多賀城市八幡の池中にある石。 それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て、末松山といふ。 しほひ 「わが袖は潮干にみえぬ沖の石の ちぎり つひに 松のあひ / 、皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も終はかくのご人こそしらぬ乾くまもなし」 ( 千載 一一条院讃岐 ) に付会した歌枕 きく さみだれ ま一 ときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊はれ一四沖の石の北一〇〇「君を おきてあだし心をわが持たば末の こゑごゑ あまをぶね まがきしま ゅふづくよかすか 松山波も越えなむ」 ( 古今・東歌 ) ほ て、タ月夜幽に、籬が嶋もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかっ声 / 、に、 かで知られた歌枕 そのよめくら あはれ 「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜目盲法師の琵一五白楽天「長恨歌」に「天ニ在ラ ハ願ハクハ比翼ノ鳥ト作ラン。地 れんり おくじゃう 琶をならして奥浄るりと云ものをかたる。平家にもあらす、舞にもあらず、ひニ在ラバ願ハクハ連理ノ枝ト為ラ まくら 一六今の塩竈市海岸。歌枕。 なびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざ 宅塩竈湾中の小島。歌枕。 しゅしようおばえ 一 ^ 「世の中は常にもがもななぎ るものから、殊勝に覚らる。 さこぐあまの小舟の綱手かなし みちのく も」 ( 新勅撰源実朝 ) 、「陸奥はい づくはあれど塩竈の浦漕ぐ舟の綱 手かなしも」 ( 古今・東歌 ) 。 こド ) ようるり 一九仙台地方の古浄瑠璃の一種。 さいてん みやばしら みやうじんまうづ へいきよく 道早朝塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやか = 0 平曲。 ・一うわかまい 三舞々。幸若舞。 はてぢんど いちのみや きざはしきうじんかさな 窈に、石の階九仞に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果塵土 = = 塩竈神社。古来、奥州一宮と して著名。慶長十二年 ( 一六 0 七 ) 伊達 たふと お わがくに いと貴けれ。神前政宗が修造した。 の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、 ひでひら ニ三藤原秀衡の第三子で、義経を あり おもて ぶんぢ いづみのさぶらう ほうと、つ . あり に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎寄進」と有。五百年守って戦死。 さかひ あげ たづ いりあひ さかな いさ一か び な

9. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

芭蕉文集 一仙台市東北郊、岩切村入山の 東光寺門前付近の塩竈街道をいう。 ゆけ ぐわと すげこも かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十苻の菅有。今も年々ニ編目の十筋ある菅の菰を作る 材料の菅。歌枕。 すがごもととのヘ 三元来、坂上田村麻呂が奥州七 十苻の菅菰を調て国守に献ずと云り。 戸壺村の北に建てたと伝える碑 たがのじゃうあり つばのいしぶみ 『新古今集』ころまでの歌枕はそれ 壺碑市川村多賀城に有。 四 をさすが、寛文のころ伊達綱村の あまり ばかりかこけうがちもんじかすかなりしゆいこくかい つばの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺斗歟、苔を穿て文字幽也。四維国界代に多賀城址より一古碑が発掘さ れ、混同されるに至った。 おほののあそんあづまひとのおくところ このじゃうじんき あぜちちんじゅふ 之数里をしるす。「此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置四四方の隅の国境までの里数。 五聖武天皇の即位元年 ( 七一一四 ) 。 ゑみのあそんあさかりをさめつくる一一 とうかいとうせんのせつどしおなじく てんびやうほうじ 也。天平宝字六年、参議、東海東山節度使同将軍恵美朝臣朝臈修造也。十六地方官の治績や諸国の民情を 視察した役人。 おけ あた ありしゃうむ 一一月朔日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほくセ神亀元年 ( 七 = 四 ) 、陸奥出羽地 方の蝦夷鎮撫のため置かれた役所。 うづもれ くづれながれ かたりった 語伝ふといへども、山崩、川流て、道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は ^ 三本とも「所里」と誤記。 九奈良時代淳仁天皇の御代 ( 七六 おいわかき 老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至り = ) 。「聖武皇帝の御時」ではない。 一 0 奈良時代、東海道・東山道の あんぎや ぞんめいよろこ せんぎい かたみ うたがひ て疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇兵政を司るため臨時派遣した官職 = 三本とも「而」と誤記。 りよらう なみだおっ 。「タ 一ニ多賀城址の東方約言 旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。 されば潮風越してみちのくの野田 の玉川千鳥鳴くなり」 ( 新古今能 因 ) などで著名な歌枕 一三多賀城址の南東約三現、 の ついたち けん よ その けみ やまぎはとふすげあり ここ のヘ しはかぜ

10. 完訳日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄

263 『おくのほそ道』地名巡覧 。往昔ハ河流有リ、潮汐モ亦来往」し ただ ていたが、当時は「唯野田ノ溝渠ヲ遺ス ノミ」という状態であった。現、多賀城 市と塩竈市の境界を流れる細流 ( 暗渠と なっている ) で多賀城碑の東方約一言。 さぬき 沖の石二条院讃岐「わが袖は汐干に見え ぬ沖の石の人こそ知らね乾くまもなし」 ( 千載・恋 ) に付会した歌忱。『曾良旅日 おきのる 記』歌枕覚書に「興井末ノ松山ト壱丁程間 拝 巡 輩 四 イ、 の 、ム ョレ : ッ公、 円マしれ : てうせき しほひ げ」 ( 千載・秋上 ) ほかで知られた歌枕。 有八幡村ト云所ニ有。仙台より塩竈へ行 千賀浦とも。現、宮城県塩竈市の塩竈湾。 右ノ方也。塩竈より三十町程有。所ニテ まがきしま 籬が嶋「わがせこを都にやりて塩竈の籬 ハ興ノ石ト云。村ノ中、屋敷之裏也」、 の嶋のまっそ恋しき」 ( 古今・東歌 ) で知 『陸奥鵆』にも「八幡村百姓の裏に興の まがきの られる歌枕。塩竈湾内の小島で、色籬明 井有。三間四方の岩、廻りは池也。処の 神をまつる小祠がある。 者は沖の石と云」と見える。伊達綱村の 代、寛文九年以降に、領内整備事業の一 みようじん しお っとして新しく設定された歌枕。現、多塩がまの明神古くから東北鎮護、陸奥国 一の宮として朝野の崇敬を受けて来た塩 賀城市八幡にある。 しおっちのおじの すえまつやま 竈神社。祭神は塩土老翁神 ( 別宮 ) ・武 末の松山清原元輔「契りきな形見に袖を ふつめしの みかづちの 甕槌神 ( 左宮 ) ・経津主神 ( 右宮 ) 三座 しばりつゝ末の松山波こさじとは」 ( 後 いちのみや を合せて陸奥国一宮正一位塩竈大明神 拾遺・恋四 ) ほかで著名な歌枕。『奥羽観 と号す。社領千四百石。現塩竈市の西北 蹟聞老志』には「青松数十株有リ」とす 部、一森山に鎮座する。 るも、今は宝国寺裏の墓地に隣接する丘 ぶんじとうろう 、連理の枝を模した二本の巨松がそび文治灯籠本文には「神前に古き宝燈」。 『松島眺望集』に「神前に、たけ一丈一 えるのみ。多賀城市八幡、沖の石の北方 尺の鉄塔あり。むかし秀衡三男和泉の三 約一〇〇にある。 まっしようざん 郎建立、再興寛文年中、仙台堺屋宗心。 末松山青竜山円福寺 ( いま瑞巌寺 ) の 荘厳美なり」とあり、芭蕉が見たのは寛 末寺で、林松寺 ( 隣障寺とも ) と称して ゅうしゅ 文年間に再建された灯籠であったことが いたが、八幡邑主天童頼澄 ( 旧山形天童 わかる。南蛮鉄製の扉の、向って左に日、 領主。慶長十六年没 ) によって再興され、 右に月の形を打抜きにし、右上端に「奉 のち頼澄の諡号「宝国寺殿」を寺号とす 寄進」、左端に「文治三年七月十日和泉 るに至った。当時は既に末松山宝国寺。 ただひら 三郎忠衡敬白」と彫ってある。 現、多賀城市八幡にある。 うら しお 塩がまの浦藤原清輔朝臣「塩竈の浦吹か まっしま 松嶋陸奥国の景勝地で、日本三景の一。 ぜに霧はれてやそ嶋かけてすめる月か ふく たけ