そうし 腸も凍るほどに寒く悲しい夜だ。思わず涙が流れることであ無為自然を尊ぶ荘子の心を、もう一度考えてみよ、と言う のである。最後に、蓑虫が玉虫に恋したことを一言うのは、 る。季語は「氷る」で冬 ) 色欲を戒めようとするのであろう。素堂翁でなかったなら みのむしせつばっ ば、誰がこれほどまでに、この虫の心を知ることができょ 四草の戸さしこめて ( 「蓑虫ノ説」跋 ) 、つ・カ 「万物静観すれば皆自得す」という。万物は、心を静めて ( イ ) よく見れば、皆、天理を内に蔵し、悟りを得ているという。 この句の真意を、自分は今、素堂翁によって、初めて知る 草庵の戸をさして、ひとり籠り、もの侘しい折節に、ふ ねききこ ことができた。 と、「蓑虫の音を聞に来よ草の庵」と一句を詠んだ。わが きよう そどうおう 昔から詩や文章を書く人の多くは、言葉の花を飾って内 友人山口素堂翁は、この句をたいへん興がって、詩を作り、 にしきししゅう 容の実が貧弱であったり、あるいは内容にのみとらわれて め文章を書いてくれた。その詩は、錦を刺繍したように美し 一一一一口葉の美しさを失ったりする。しかるに、この素堂翁の文 しく、その文章は玉を転がすような響きがする。しかも、よ りそう くっげん 戸くよく味わってみると、屈原の悲痛な詩編「離騒」のごと章は、言葉の花も美しく、内容である実もまた、十分食べ 第一うギ一ん・一く そとろ′ば 草きうまさがある。また、蘇東坡の新しさ、黄山谷の奇抜さ得るほど充実している。 ちょうこ ここに何がし朝湖という絵師があって、この蓑虫の句や、 のもある。 文の初めに、父に憎まれても、かえって孝を尽した虞の素堂の文章のことを伝え聞いて、これを絵に描いてくれた。 舜のことや、孔子の弟子で、親に孝行して有名な曾子のこ実に、色彩はあっさりとしていて、心持は深くこまやかで 深 ある。心をとどめて見ていると、なんだか蓑虫が動くよう とを言っているのは、人々に、このような虫からでも教訓 であり、枝の黄色い葉は、今にも落ちるのではないかと思 を汲みとれ、というのである。また、蓑虫がなんの能もな われる。耳を傾けて聞いていると、画中の蓑虫が声を出し く才もないところに感心しているのは、人知の小を説き、 くさ 、一も そうし じねん
名印もなく、賛句もないか 芭蕉の筆であることは盟友 そどうばっ 素堂の跋文により明らかで 。、一 ) あるただし素堂によれば ~ 巴蕉が「淡き墨もて書ちら し、濃州大垣の画工に丹青 をくはヘさせ」たとあり、 もっこっ 画を見ると没骨法が多用さ れているので、彩色の部分 が重要な働きをしていて、 芭蕉自画というより共同制 作とい、つべきかもしれない が、モチーフは芭莅にある。 「一凹ェ」は、『野ざらー ) 衂礼一行 絵巻』の清書本を描いた濁 たんせい
ふう . しばら し侍らんや」。先師日く「暫く今の風なるべし。五、七年も過ぎ侍らば、また 変あらん」となり。 抄 そだうじゃうらく ↓三四七ハー注九。 今年、素堂上洛の人に伝へて日く「蕉翁の遺風天下に満ちて、漸くまた変ず一 来 ニ同輩に対する敬称。あなた。 ぎんくわい ひと 去べき時いたれり。吾子志あらば、我も共に吟会して、一つの新風を興行せん」 0 前半は風体の変化を予期した芭 蕉の言葉を記し、後半は新風を興 そうとの素堂のすすめを辞退した となり。 去来の身辺の事情が述べられる。 去来日く「先生の言葉悦び侍る。予も兼ねてこの思ひなきにもあらず。幸ひ おそ ひとたび に先生をうしろだてとし、二、三の新風をおこさば、恐らく一度天下の俳人を しか 驚かさん。然れども、世の波、老の波日々打ち重なり、今は風雅に遊ぶべきい おのこり とまもなければ、ただ御残多く思ひ奉るのみ」と申す。 - もと はくらんけんさい 素堂子は先師の古友、博覧賢才の人なり。本より世に俳名高し。近年、この みち 道打ち捨て給ふといへども、またいかなる風流か出で来らん。いと本意なき事 へん よろこ よ ひび ゐふう きた ゃうや
鳥たちももはや寝入ってしまったのであろう ) 私もいっしょに句会に加わって、一つの新しい風を興そう ではないか」と。 先師は、この句には細みがある、と評されたということで それに対して私は「素堂先生のお言葉は喜ばしく存じま ある。また、 とをだ一 す。私もかねがねその考えがないわけではありません。幸 十団子も小粒になりぬ秋の風許六 いに先生を後ろ楯として、二、三の新しい風を興したなら ( 名物の十団子も、以前に来た時より小粒になった。折から 吹き渡る秋風に、世路のけわしさが感じられる ) ば、おそらく一度は天下の俳人を驚かすことでしよう。け よわい 先師は、この句にはしおりがある、と評されたということれども、世事が重なり、齢も老いてきて、今は風雅に遊ぶ である。、つこ、、 しオしさび・位・細み・しおりのことは、言暇もありませんので、ただ残念に存ずるのみです」とお答 葉や文章では十分に説明しがたいものである。ただ、先師えした。 素堂子は先師の古い友人で、博学賢才の人である。もと の評された句をあげてみるだけである。その他はこれによ こ亠ギ、かっ より俳人として世にその名も高い近年は俳諧し、 って推察してほしい」と答えた。 ておられるが、またどのような俳諧を詠み出されるかも知 〔三九〕変風のこと 先師が亡くなられた年に、深川の庵を出られる時、野坡れない。そのおすすめに応じられなかったのは、はなはだ が「俳諧はやはり今のような風に作っていてよいでしよう不本意なことである。 か」と問うた。先師は「しばらくは今の風でよいだろう。 行 しかし、五、七年も過ぎたら、また変化するだろう」とい われた。 修 今年、素堂が京都に行く人に伝言していわれるには「芭 蕉翁の遺風は天下に行きわたったが、今やようやくその風 。ゝ変化すべき時がやってきた。君にもしその志があるなら、 だて おこ
しゅん て鳴いており、秋風が絵の中からそよそよと吹き出して来 初めに舜の孝を言っているのは、人に、この蓑虫からも て、寒いほどである。 教えを受けよと言っているのだ。また、蓑虫の無能に感心 この静かな窓辺で、静かな時を得て、こうして、文人素しているのは、もう一度莊子の心を考えて見よと言うので 集 ちょうこ 文堂と画家朝湖の二人の好意をこうむることは、蓑虫の ある。蓑虫の体の小さなことを愛するのは、足るを知れと りしばう 蕉 このわたくしのーー面目この上もないことと感謝する次第教えるのである。また呂望 ( 太公望 ) や子陵の故事を引い である。 て隠逸の用意をうながしているのであろう。玉虫の戯れを 芭蕉庵桃青 述べたのは好色をいさめようとするのであろう。 翁 ( 素堂翁 ) でなかったら、誰がこの蓑虫の心を知るで あろうか。「静かに見れば、物は皆、その中に理を蔵して、 ( ロ ) 悟りを得ている」と言う。私は今、この素堂翁によって、 草庵の戸を閉ざし、籠っていて、もの侘しい折、ふと この言葉の意味を悟ることができた。 「蓑虫の音を聞に来よ草の庵」の句を作った。わが友素堂 昔から詩歌・文章を書く人の多くは、華美を求めて質朴 きよう 翁は、甚だこの句を興がって、詩を作り、文章を草してく さに欠けたり、逆に質朴さのみで、風流を忘れてしまうも れた。 のである。しかるにこの文章は、華やかさもすばらしく、 にしきししゅう その詩は錦で刺繍したように美しく、その文章は玉を転その実質もまたひけをとらない。 ばすような響きがある。またその文章は、よくよく見れば ここに朝湖なにがしという者があり、私が蓑虫の句を作 ちん 屈原の「離騒」の技巧があるようである。また宋の詩人陳ったことを伝え聞いて、これを絵に描いてくれた。まこと しどう そしせん 師道が「蘇子瞻 ( 蘇東坡 ) ハ新ヲ以テ、黄魯直 ( 黄山谷 ) にその色どりは淡く、情は濃い。心をとどめて見れば蓑虫 たた 奇ヲ以テ」と蘇・黄二詩人を称えたが、全くそれと同じく は動くようであり、黄色く色づいた木の葉は今にもはらは 新と奇がある。 ら散るかと思うほどである。耳を傾けて聞くと、寒い秋の
〔三 ^ 〕自然の妙応 いところだ。そうすれば、次の付句までよくなるだろう。 み そどう 4 この「台にのせ」というところから付句の運びが重く渋滞 行かずして見五湖いりがきの音をきく 素堂 ( 中国の太湖にも比べられる水郷深川で、あなたがいりがき してくることになる。すべて一句にいい尽してしまっては、 抄 を作っている音が、行って見ないでもここまで聞えてくるよ その後が付けにくいものである。 来 うだ ) 〔一毛〕惟然の句風 去 こそで 梅の花あかいはあかいはあかいはな惟 なき人の小袖も今や土用ばし芭蕉 ( 梅の花はまったく赤いことだなあ ) ( 亡き人の小袖も、今ごろは土用干しされていることであろ たぐい う ) 惟然坊の今の句風はおおかたこの類である。これらは句 とは見えないものである。先師が亡くなられた年の夏、惟 素堂師の句は深川芭蕉庵に送られた句である。先師の句 然坊の俳諧を指導されたが、その詠み癖のすぐれた点に着は、私の妹千子が亡くなったころ、美濃の国から私に送ら 目して、「磯際にざぶりざぶりと浪うちて」とか、あるい れた句である。どちらもその事 ( いりがきと土用干し ) をし さいちゅう は「杉の木にすうすうと風の吹きわたり」などという句を ている最中にきた句である。 ふるぐらしゅう ほめられた。 このころ『古蔵集』を見ると、先師の事をいろいろ書き また「俳諧は気勢に乗って無分別に作るのがよい」とい 散らした片端に素堂師の句をあげ、煎牡蠣をしている最中 われ、また「この後はますます風体は軽くなるだろう」と に句が届けられたことをもって、名人・達人であると不思 いわれたことを聞き違え、それを自分の得意な詠みぶりに 議がっている。そのことでもって名人というなら、非難さ 勝手に引きつけてしまい、自分 ( 惟然 ) の撰集の歌仙にあれている先師の句もその通りである。それは皆人が知って いることである。 る「妻呼ぶ雉子」の句や「あくるがごとく」という雪の句 ことわざ むしろ などについて先師が評された句の勢や句の姿などの話は、 そればかりでなく、諺にも「人事いはば筵しけ」という うわさ みな忘れてしまったと見える。 ように、人の噂は当人に通じやすいものである。人の気持 ( 原文三四六ハー ) いりがき
け′一ろも は、千鳥が鶴の毛衣を借りることを歌に詠んでいるが、いま に吹き曲げられて、その曲った枝ぶりは自然に生じたもの は千鳥の季節ではなく、ほととぎすの鳴く季節である。ほと ながら、ことさら曲げ整えたようにいい格好である。この そと、つば とぎすよ、白い鶴に身を借りて、この松島の上を鳴き渡れ ) ような松島の景色は深味のある美しさで、蘇東坡の詩にあ るように、美人の顔を思わせるものがある。神代の昔、大という句を作った。 やまつみ 私は、このすばらしい景色に向っては句を案ずるどころ 山祇の神がつくりなしたわざなのだろうか。自然をつくり たま 給う神のはたらきのみごとさを、人間のだれが絵画や詩文ではなく、句作をあきらめて眠ろうとするのだが、といっ そどうせんべっ に十分に表現できよう。とてもできるものではない。 て眠るに眠られない。芭蕉庵を立ち出でる時、素堂が餞別 はらあんてき うん 雄島の磯は、陸から地続きで海に突き出た島である。雲 に松島の漢詩を作ってくれ、原安適が松が浦島の和歌を贈 ごぜんじ ぎぜんせき ずだぶくろ ってくれた。眠られぬままに、頭陀袋のロを解いてこれら 居禅師の別室の跡や、坐禅石などがある。また、松の木か げに出家隠遁している人も少しはいるらしく、落葉や松笠の詩歌を取り出し、今夜の風雅の友とした。このほか、袋 じよくし さんぶう そうあん の中には松島を詠んだ杉風や濁子の発句もはいっていた。 など焼く煙が立ちのばる草庵に、一人静かに住んでいて、 どんな人かはわからないが、なんとなく心ひかれるので、 近くに立ち寄って様子をうかがっていると、折から出た月 が海に映って、昼の眺めとはまた変った趣になった。海岸 十一日、瑞巌寺に参拝した。この寺は、最初、天台宗で、 あ まかべの 道にもどって宿をとると、その宿屋は、窓を海上に向って開その三十二代めの昔に、真壁平四郎という人が出家して、 そ けた二階造りで、自然の風光のまっただ中に旅寝をするよ唐に渡り、帰国してから、今日の瑞巌寺を開いたものであ うんごぜんじ の る。そののちに至り、雲居禅師が住持となられ、徳を及ば うな気分になり、あやしいほどよい心持がするのであった。 きんばく お 曾良は、 して、七堂の建物も改築され、金箔をおいた壁、仏前のき らびやかな飾りなどが光り輝き、仏の教化の行きとどいた 松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす曾良 けんぶつひじり ( 松島に来てみると、 いかにも壮大秀麗な風景である。古人大伽藍とはなった。あの見仏聖の跡はどこであろうかと慕 いんとん おお だいがらん ずいがんじ
一 0 楚の屈原が讒にあって朝廷を ・ヘきら 追われ、泪羅に身を投げる決心を するまでの悲痛な心情を自ら述べ た詩編。 = 「王介甫ハエヲ以テシ、蘇子 せん 瞻ハ新ヲ以テシ、黄魯直ハ奇ヲ以 テシ : ・」 ( 陳後山詩話 ) による。こ れは南宋末の評論集『詩人玉屑』 ( 一 一一四四年序 ) に引く わが国では『玉 屑』の復刻本が寛永十六年 ( 一六三九 ) そとうば こうざん に出た。蘇東坡の新しさと、黄山 谷の奇抜さ、の意。この語『笈の 小文』 ( ↓三一一ハー注四 ) にも出る。 九 三中国古代の帝王。虞の国の人 たまたまみのむし わがともそをう め草の戸さしこめて、ものゝ侘しき折しも、偶蓑虫の一句をいふ。我友素翁であるから虞舜という。舜とも。 一三曾子。孔子の弟子。至孝の人 もの あはれ にしキ ) ーし として知られる。素堂の「蓑虫ノ さはなはだ哀がりて、詩を題し文をつらぬ。其詩や、錦をぬひ物にし、其文や、 説」中には曾参のことは出てこな り - き : っ 。また杉風に伝わる伝芭蕉真蹟 草玉をまろばすがごとし。つら / 、みれば、離騒のたくみ有にゝたり。又、蘇新 には、曾参の語は削ってある。 くわうき の 一四荘子。南華と追号された。 黄奇あり。 6 一五御伽草子の『玉虫草子』で多く ぐしゅんそうしんかう なりそのむのうふさい はじめに虞舜・曾参の孝をいへるは、人にをしへをとれと也。其無能不才をの虫が玉虫姫に恋文を贈るが、蓑 深 虫のは捨てて顧みられなかった。 なんくわ をはり一五 かんず 一六戯。ここは好色。 感る事は、ふたゝび南花の心を見よとなり。終に玉むしのたはれは、色をいさ 宅「なるらし」の約。 おきな たれこの 一 ^ 素堂翁。 めむとならし。翁にあらずは誰か此むしの心をしらん。 たま くさと 四草の戸さしこめて ( 「蓑虫ノ説」跋 ) ( イ ) し だい ぶん わび をり みのむしせつばっ そのし ある そのぶん そしん ぎん
うち おちば はた 将、松の木陰に世をいとふ人も稀 / 、見え侍りて、落穂・松笠など打けぶりた三松島の二階建は当時著名。 一三『猿蓑』に「松島一見の時千鳥 たちよる いほりしづかすみ もかるや鶴の毛衣とよめりけれ いかなる人とはしられずながら、先なっかしく立寄ほど る草の菴閑に住なし、 ば」の前書で収録。これは鴨長明 もとむ かうしや、つ に、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓を『無名抄』の「寒夜千鳥といふ題に て、ちどりもきけり鶴の毛衣とい たへ つくり ひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせふ歌をよみたりければ : ・」によ。 たもの。 一四服部土芳『三冊子』に「師のい らるれ。 はく、絶景にむかふ時はうばはれ かなはず て不レ叶。・ : 師、まっ嶋に句なし。 松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす曾良 大切の事也」。 そだう 予はロをとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂松嶋の詩一 = 江戸における芭蕉の雅友。山 口氏。馬場錦江『奥細道通解』に はらあんてき 「家集ニ云フ、夏初ノ松嶋自ラ清 あり、原安適松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、 とけん 幽、雲外ノ杜鵰声未ダ同ジカラズ、 さんぶうぢよくし あは 眺望心ヲ洗フ都テ水ニ似タリ、憐 杉風・濁子が発句あり。 せいばう レムペシ蒼翠ノ青眸ニ対スルヲ。 あにこれか 豈是歟」と見える。 ・ : っ 一六江戸の歌人で医師。芭蕉と交 誼があった。松が浦島は末の松山 道 そ の東北方の海岸の小島。歌枕。 にったう まかべ まうづ ずいがんじ 窈十一日、瑞岩寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝宅江戸詰の大垣藩士で蕉門 こんべきしゃうごん より いらかあらたま うんごぜんじ 4 わのちかいさん その の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光天松島の臨済宗の大寺院 一九法心より前に雄島に住んだ高 かのけんぶつひじり がらん かかやかしぶつどじゃうじゅ 僧。『撰集抄』に見える。 を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとした まれまれ はべ きうあん とき まづ かっ
^ 「ふるふがごとくこぬか雪ふ わたり、などといふを賞し給ふ。 る鳳仞」に、芭蕉は「うちあくる むふんべっさく また、俳諧は気先を以て無分別に作すべし、とのたまひ、また、この後いよごと」とすれば文勢があると評。 0 惟然の自由な口語調は芭蕉も認 ふうてい いよ風体かろからん、などのたまひける事を聞きまどひ、わが得手にひきかけ、めていたが、師の没後は放恣に流 れ、無季の句も作り、許六の激し かせん い非難をあびている ( 去来宛書簡 ) 。 みづからの集の歌仙に侍る、妻呼ぶ雉子、あくるがごとくの雪の句などに評し むさしぶり 九『武蔵曲』 ( 天和一一年刊 ) に長い いきほひくし - ばうきやく 給ひける句の勢、句姿などといふ事の物語どもは、皆忘却せらるると見えた前書を付けて取む。「五湖」は中国 の太湖か。「いりがき」は牡蠣を包 り」。 丁で細かくたたき、塩を加えて鍋 で煎る料理。中国の太湖にも比べ 〔三〈〕自然の妙応 られる水郷深川で、あなたがいり がきを作る音が、行って見ないで ゅ おと そだう もここまで聞えてくるようだ。 行かずして見五湖いりがきの音をきく 「見」は「みる・みん」とも読める。 こそで ひと どよう 素堂は山口氏。儒・歌・俳を学び、 なき人の小袖も今や土用ばし芭蕉 しの 芭蕉と親交があった。当時は、不 ふかがは ばず 素堂師の句は、深川芭蕉庵におくり給ふ句なり。先師の句は、予が妹千子が忍池畔に隠栖 一 0 『猿蓑』に「千子が身まかりけ ころみの ただなか 評身まかりける比、美濃の国よりおくり給ふ句なり。共にその事をいとなむ只中るをききて、みのの国より去来が もとへ申しつかはし侍りける」と 前書。亡き人の小袖も今ごろは土 卩に来れり。 同 用干しされていることであろう。 ごろふるぐらしふ この比、古蔵集を見るに、先師の事ども書きちらしたるかたはしに、素師の = 著者不詳。元禄九年 ( 一六九六 ) 刊。 主として伊丹俳諧を論難する。 句をあげ、いりがきの只中に来る事を以て、名人・達人と名誉がられたり。是三珍しく思う。不思議に思う。 み きた きさき きた きじ ^