つけあい じいん 其角」 ( 次韻・鷺の足の巻 ) という付合をふまえた句作りである。脇句の句案は、 うた くっ 別に「沓音寒き柴門の外」、「杜詩を諷へば寒き唇」があり、几董に選択をゆだ ねた結果、この句に定まったのである。 集 いっしや三 雑。一中国の一里は日本の 村 3 五里に一舎かしこき使者を労て 六町 ( 約六五〇 ) 。ニ『春秋 蕪 左氏伝』に「一宿ヲ舎ト為シ、再宿 おも 前句を詩の諷詠と見立て、その場を付けた。「五里に一舎」は前句の杜甫の面ヲ信ト為ス」とある。休息のため 影よりの連想で、五里すなわち日本道にして一里にも達しない距離ごとに茶店の宿舎。蕪村も几董宛書簡で「休 み茶店」と述べている。三高貴な を設けた、ねんごろな応接の体。中国王侯の外交使節の交歓風景である。蕪村 使者。勅使など。 は書簡で「右二句 ( 脇句と第三をさす ) 共に尋常の句法にてはなく」と自信のほ どを語っている。脇句の悲壮な漢詩調を穏やかな句境へ転じて、自在に中国的 イメージをくりひろげていることを言ったものであろう。 董 茶にうとからぬあさら井の水 前句の使者のもてなしに対し、場を見定めてその情景を付けた。「茶にうとか らぬ」ののびやかな曲節に、茶の水を吟味し珍重している、明るい気分がある。 おもむき 「あさら井」は雅語で、一句に清雅平明な趣を添えている。煎茶を愛した文人 くむ 好みの詩趣である。蕪村に「みじか夜や浅井に柿の花を汲」 ( 落日庵句集、安永 おき 五年句稿 ) の秀吟があり、連句でも次の付合をものしている。「起いでゝ落首よ みくだすをかしさよ几董 / 茶に汲水の浅くてに澄ム蕪村」 ( ↓一四一ハーの三三、 三四 ) 。几董の付句は、あきらかに蕪村のこの付合の濃密な影響下に成ったもの とい , んよ , つ。 ふうえい くむ ネギラヒ 雑。一茶に適した。ニ浅ら 井。「ら」は形容詞「浅しーの語 幹に付いた接尾語で、雅語。
89 俳句編秋 203 ゆ お ち えていることは、蕪村の田福宛書簡 ( 安永三年九月十五日付 ) に「右は、まづた あり のむ椎の木も有と翁の句により候」とあるので明らかである。この丸盆に盛ら れた椎の実を動かして、その昔、芭蕉翁が国分山の幻住庵で耳にされたと同じ 音を聞きたいものだ、の意。暁台に対する挨拶吟であるが、俳諧中興運動の同 との意もこめられていよう。 志として、蕉翁の風韻に通う句も聞せてほしい、 季語は「椎 ( 椎の実 ) 」。 一産卵した鮎は水流に流され ( 宇治行 ) 鮎落ていよ / 、高き尾上かな て下る。このころになると、 はもの 体面に刃物のさびのような斑紋が さびあゆ 天明三年 ( 一大三 ) 、宇治の門人奥田毛条に招かれて茸狩をした時の紀行文「宇 できるので、錆鮎・渋鮎ともいう。 治行」 ( ↓二〇七ハ -) に収める。落鮎の季節となって、澄んだ秋空にそびえ立り鮎・秋の鮎も同じ。 ばうおく っ山の峰がひときわ高く仰がれる、の意。前文と合せ読めば、山頂には茅屋も はるかに望まれ、絶壁を切って奔流する秋の水、渓谷に架した橋などが、心象 に浮び出て、一幅の南画を見るようである。省略のきいた、格調の高い秀吟と いえよう。季語は「落鮎」。 しんしゅ おにつら ( 蕪村句集 ) 鬼貫や新酒の中の貧に処ス 新酒の出荷が始った伊丹は、町中が活気にあふれているが、清貧に処する俳人 鬼貫は、町の雰囲気をよそにひとり静かに句作を楽しんでいる、の意。漢詩調 。し力にも孤高の鬼貫を叙するにふさわしい。「新、貧」 による高朗の調べま、、ゝ 「酒、処」の対応が美しく張っている。『鬼貫句選』に跋をよせて鬼貫を称えた 蕪村は、『春泥句集』序 ( ↓一九七ハー ) にも鬼貫を推称している。季語は「新酒」。 いたみ をのヘ あいさつぎん きのこがり ばっ たた 一その年の新米で造った酒。 0 伊丹は兵庫県の東端に位置 し、古来、清酒の醸造で有名。伊 丹酒は江戸時代の最上酒とされた。 鬼貫は伊丹の酒造家油屋の一族。
蕪村集 179 きつね う。さらに諏訪湖が凍ると氷上を狐が渡るという伝説 ( 『松屋日記』その他 ) な どを結びつけて、詩的幻想をほしいままにしたのであろう。季語は「名月」。 探題雁字 一幾つかの題の中から雁の字 いん いっかう がん ( 蕪村句集 ) を探りあてた、の意。ニ一 一行の鴈や端山に月を印す みやこりんせんめいしようずえ 列の意。『都林泉名勝図会』の東山 なんこく 大通寺中東林院の条に「南谷師の いちぎゃう ちょうど端山に満月が姿をあらわしたとき、その上空を雁の一列が飛びさて むな へうへう か・つせう 、 : フギ、ん - 一く 一行を見てーと前書して、この句 ゆく、という情景である。黄山谷の「虚シク飄々」の詩句にも「雁字一行絳霄 が出ている。南谷は大通寺を中興 ニ書ス」 ( 「絳霄」は大空の意 ) とあり、和歌にも「薄墨にかくたまづさと見ゆる し、また幻幸庵と号する名筆家。 かなかすめる空をかへるかりがねー ( 後拾遺・春上津守国基 ) とあるように、雁この句は名筆の一行を雁の一列に たと 列を文字に喩えることは珍しいことではない。ただ「月を印す」とあるように、落款を端山の月に見立てている。 きえ した′一う らっかん 満月を落款に見立てた着想のおもしろさに、蕪村らしい芸域の広さが認められ源順の「一行ノ斜雁雲端ニ滅ヌ」 ( 和漢朗詠集 ) を踏むか。『安永四 よう。季語は「鴈」。 年句稿』所収。 ぢ ゅ・くかり ( 蕪村句集 ) 2 紀の路にも下りず夜を行鴈ひとっ 正名宛書簡 ( 安永五年九月二十二日付 ) に「紀は日のもとの南方のかぎり、なほ なき それにもおりず、只一羽友を尋ねていづちをさして啼わたることにや。千万里 めいりう はたう の波濤、孤雁のあはれをおもひっゞけ候」とあるによって句意は明瞭。おそら ぐう - もく く作者が紀州へ旅した折の寓目の作と思われるが、ただ一羽夜行する雁にみす からの旅愁を感じとったのである。「下りず夜を行」の急迫した律調が、孤雁 ひしよう のひたむきな飛翔ぶりを描ききっている。季語は「鴈」。 お はやま
蕪村集 78 174 175 構図である。「湊がましき」が一句の眼目。季語は「花火」。 あさい ( 蕪村句集 ) 虫売のかごとがましき朝寝哉 「かごとがましき」は、本来、虫の音であるのを、虫売に転じた俳諧化である。 虫売は、夜遅くまで町に出て虫を売る。売られた虫は、よもすがら、恨みがま おおしおは 一陰暦八月十五日の大潮。葉 しく鳴きつづけていたが、虫売は夜ふかしの疲れで、遅くまで朝寝をむさばっ づき 月潮・望の潮ともいう。なお ている。それも虫のせいだとばかりに、言いわけがましく寝つづけている、の 「潮」は朝しお、「汐」はタしおをさ 意。『源氏物語』 ( 幻巻 ) の「つれづれとわがなきくらす夏の日をかごとがまし す。ニ伊豆は静岡県、相模は神 き虫の声かな」の巧みなバロディーである。季語は「虫売」。 奈川県。三浦半島あたりから展望 さわとも した大観であろう。なお、源実朝 あさひ づさがみ はっしほ はこねち の歌・箱根路をわがこえくれば伊 ( 落日庵句集 ) 初潮や旭の中に伊豆相模 豆の海や沖の小島に波のよるみ なる ばんちょう ゅ」 ( 金槐集 ) や、凡兆の「初潮や鳴 相模湾には大潮が寄せている。折から東方に姿をあらわした朝日が金色の光の 門の浪の飛脚舟」 ( 猿蓑 ) などが胸 束を投げかけると、見はるかす伊豆・相模の海岸線と山塊がくつきりと浮び出 裏にあったか。景観の壮大さにお てきた、の意。「旭の中に」という中七の語法には、よく晴れた中秋の清朗な いては比肩しながらも、声調の緊 ひとっか 天地を一掴みにしたような力強さが感じられる。「伊豆相模」の並列は語感と迫した密度は蕪村の句がはるかに してもこの順序は動かせないが、視点の移動もおのずから含まれており、作者すぐれていよう。 の位置が推測されよう。季語は「初潮」。 一召波にも「白壁に蜻蛉過く る日影かな」 ( 春泥句集 ) とい ( 新五子稿 ) 蜻蛉や村なっかしき壁の色 う句があるが、浅い即物的印象に 終っていて、蕪村の句にこもる豊 かな内心のゆらぎはない。 久しぶりに見る郷村である。空には低く、蜻蛉の群が縦横に飛び交い、夕日に と , れば、つ
317 俳句編冬 138 139 140 おくび ふきこむ えり ( 文政版一茶句集 ) 療養中の作。ニ袵は、着物の襟 袵なりに吹込雪や枕もと から褄に至る半幅の部分。上端を ちゅうぶう 袵先または剣先といい、尖った剣 ひしな 中風で倒れ、病臥中の吟である。この句は、戸のすきまから吹きこんだ粉雪が、 形をしている。初案は「菱形りに はじめは細く、しだいに末広がりになって、枕もと近くまで、くつきりと剣形 雪が吹き入る畳哉」 ( 八番日記・文 を描いているさまを、「袵なり」と形容したのである。新鮮で、しかも巧みな政三年 ) 。 0 文政 = 一年十一一月作。 ひゅ 比喩であり、雪国の冬のきびしさを活写している。季語は「雪」。 一他人の悪口を言う会合。 ふゅごもり たっ 0 文政六年二月作。「誹る」は ( 文政句帖 ) 人誹る会が立なり冬籠 一茶の頻用語の一つで、「月さへ もそしられ給ふタ涼み」 ( 文化八 いよいよ冬ごもりの生活がはじまると、炉ばたや炬燵のまわりなど、火の気の 年 ) 、「おれが田を誰やらそしるタ ある所に人の寄り集ることが多くなる。しかし話題に乏しい山村では、結局、 涼み」 ( 文化十三年 ) 、「白壁の誹ら うわさばなし 他人の噂話でもするほかはなく、その場にいない者の悪口をあれこれと言い合れながらかすみけり」 ( 文政二年 ) など、用例が多い うことに熱中する。雪に閉じこめられた人々は、そこに抑圧された気分の吐け ぐち いんうつ 口を求めようとするのである。雪国の陰鬱な生活と、村民たちの底意地の悪い 一小寒から節分まで、およそ 陰湿な性情を、皮肉な目でとらえた句である。季語は「冬籠」。 三十日間を寒の内といし、 の寒にはいることをいう。 0 句 かん よひすぎ 帖の文政六年の部の余白に、七年 ( 文政句帖 ) 作として記入してあるが、同七年 わ 十二月の条に「庵の夜や寒し破 この年の八月、後妻雪女を離縁した一茶は、まもなく持病の中風が再発して、 るゝはどの柱」があり、その改作 言語も不自由になったが、身のまわりの世話をしてくれる者もないありさまで であろう。旧作に「うす壁にづん あった。これはいよいよ寒にはいるころの作で、「宵過」とあるから深夜では づと寒が入りにけり」 ( 文化十四 なく、夜になってまもない時分であろう。夕食もすませて寝床にもぐりこむと、年 ) というのもあるが、この「づん 寒気がひしひしと迫ってくる。「ミリ / 、」は、寒気のために柱が緊まって割づ」もうまい表現である。 まくら こたっ つま
茶集 310 かれの 一新年に用いる品々、神棚・ も当時の窮状を伝える一つである。小庵から見渡される枯野のひろがり。かな 2 しめ 注連飾り・ 門松・若水桶・ しいまでに晴れあがった空。空腹をかかえて、野の果てを見やっている放心し だいだい こんぶ 橙・裏白・昆布などを売る市。 たような顔。「何そ喰たき」に切実な実感がこもっている。季語は「枯野」。 江戸では深川八幡や浅草観音の境 内に市が立ち、人出でにぎわった。 ( 文化句帖 ) 盟年の市何しに出たと人のいふ 0 句帖の文化元年 ( 一へ 0 四 ) 十一一月十 七日の条に「晴、浅草市ニ逝ク」と 年の市が立っと、町には歳末気分が横溢する。人々は家族うち連れて、あれこあって、この句が出ている。浅草 れと楽しい正月の買物をするのであるが、身一つで懐中も乏しい一茶には、人市は、浅草観音境内の年の市。 「人並みに出る真似したり年の市」 並の買物もできるはずはない。ただ人恋しさの気分にそそられて、人ごみのな の句を併記。 かをうろうろしているだけなのだ。それを「何しに来た」などと耳の痛いこと を言われてま、 。いたたまれない思いがする、というのである。芭蕉の「何にこ 一茎漬のこと。かぶや大根の しはす からす 茎・葉を塩または麹で漬けた の師走の市に行く烏」と比べてみると、やはり一茶らしい体臭が強く感じられ もの。桶にたくわえて冬期の食用 る。季語は「年の市」。 にする。 0 文化三年十月作。一 くき まで 茶は三十歳に達しないころから、 はまぐりば ( 文化句帖 ) 初霜や茎の歯ぎれも去年迄 前歯は欠け、すり減った蛤歯を嘆 いていた。歯の質の悪かったこと くぎづけ は、「花げしのふはつくやうな前 茎漬は、そのあざやかな緑と歯切れのよさが喜ばれる。初霜のおりるころに食 べごろとなるのだが、今年はめつきり歯が悪くなって、その茎漬も、歯切れよ歯哉」 ( 文化九年 ) 、「すりこ木のや か うな歯茎も花の春」 ( 文化十年 ) な く噛み切ることができなくなった、というのである。一茶はもともと頑健な体 どの句に示されている。 驅の持主であったが、若いころから歯の質が悪く、いよいよ茎漬も味わえなく あいおいちょう なったという嘆息である。この句は四十四歳の作であるが、このころから身体 一本所相生町五丁目 ( 現、墨 田区緑一丁目 ) の仮寓をさす。 の衰えを嘆く句がめつきり多くなる。季語は「初霜」。 0 文化三年十二月作。句帖には おういっ たい おけ かぐう
309 俳句編冬 119 120 かきねや ( 享和句帖 ) りやみそれふる」 ( 享和三年 ) 、「灯 ゆで汁のけぶる垣根也みぞれふる の洩るゝ壁やみそれの降り処」 ( 文 みぞれ 化三年 ) 、「飯の湯のうれしくなる みすばらしい家並のたてこんだ、市井の一隅であろう。冷たい霙の降るなかを やちるみぞれ」 ( 同 ) など、それそ 行くと、垣根越しに、あたたかいゆで汁のにおいがただよってくる。台所口か ゅうげだんらん れにおもしろい ら流れ出た、大根か菜などの煮汁であろうか。タ餉の団欒を思わせる、その湯 気やにおいが、一茶の心をとらえたのである。このころ一茶は、江戸も場末の 一世渡りの道。ニ町の辻で おおじま ひとこま 謡曲の一節をうたい、通行人 本所五ッ目大島に住んでいた。そのあたりの庶民生活の一齣が、しみじみとし に銭を乞う者。 0 文化元年 ( 一八 0 た情感をたたえて詠まれている。季語は「みそれ」。 四 ) 十月作。ほかにも、社会の底辺 に押しひしがれている貧窮生活者 でかはり 世路山川ョリ嶮シ を詠んだ句は多い。「出代の市に さらすや五十顔」 ( 文政一一年 ) 、「時 つじうた おし 雨るゝや親椀たゝく唖乞食」 ( 同 ) 、 ( 文化句帖 ) 木がらしや地びたに暮るゝ辻諷ひ 「霜がれや鍋の炭かく小傾城」 ( 文 政四年 ) など、痛ましい人生の断 江戸街頭の所見であろう。こがらしの吹きすさぶ街路にべったりとすわりこん 面をとらえて、一茶らしい特色を で、風の音に消されまいと懸命に声をふりしばりながら、道行く人に銭を乞う 出している。 つじうたい 辻謡の男。謡は士分の者の嗜みであったから、これも零落した浪人者なのであ のり 文化元年十月作。句帖の同年 ろう。日ははや暮れかかり、地べたは薄暗がりにつつまれているのに、ロを糊 四月二十日の条に「貧して分 するためには、寒さも恥も忍んで、うたいつづけなければならぬ。当時の、き を知らざれば盗か、おとろへて分 びしい世相の一端を示す句である。季語は「木がらし」。 をしらざれば病をうく」とあり、 くひ このころの窮迫の状を伝えている。 ( 文化句帖 ) 野ハかれて何ぞ喰たき庵哉 ほかに「花ちるやひだるくなりし 貌の先」 ( 文化二年 ) という句もあ 享和期から文化初期にかけては、底をついたような貧困生活が続いた。この句る。 じる せいろ たしな かほ
蕪村集 246 明和元一七六四 年号西暦年齢 宝暦一〇一七六〇 五一七六八 四一七六七 51 50 48 47 蕪村事項 の動かして行く案山子かな」の句を詠む。 〇冬、「清蔭双馬図」を描き、長庚の雅号を用う。 三月「雪景山水図ーを描く。 四月二十七日、雲裡房没す ( 六十九 〇雲裡房追善の歌仙興行に出座。 歳 ) 。 マ文素の撰による右の追善集『烏帽子塚』 ( 明和一一年刊 ) に右の十一月松木淡々 ( 其角門 ) 没す ( 八十 歌仙入集。 八歳 ) 。藤井晋流 ( 其角門 ) 没す ( 八十二歳 ) 。 〇樗良、宇治山田に無為庵を結ぶ。 〇芭蕉七十回忌。 四月「春秋山水図」を描く。春星の雅号を用う。 八月「野馬図」を描く。 マ以後三年ほどは画事に専念する。 六月「山水図」を描く。 十一月「柳塘晩霽図」を描く。 〇「何遜堂図」「渓山帰廬図」など六点の画作がある。 〇春、旅に出て京不在。 三月十二日、望月宋屋没す ( 七十九 六月二日、寺村百池の大来堂で蕪村を盟主とする俳諧の結社「三 しよどうききみみせけんぎる 菓社ーの第一回句会を開く。連衆は、太祇・召波・鉄僧 ( 百〇上田秋成『諸道聴耳世間猿』『世 てかけかたぎ ーしげーしげや 池 ) ・竹洞・印南・蛾眉・百墨など。 間妾形気』刊。近路行者『繁野 さめき 九月より翌春にかけて、絵行脚のため讃岐に滞在す。 三月京に帰り、宋屋一周忌追善集『香世界』 ( 武然編 ) に一句を寄す。 五月讃岐へ行き、一年間滞留す。 マ「秋景山水図」「水辺会盟図」を描く。 〇三月刊の『平安人物志』画家の部に名を掲げられ、住所は「四三月秋成の『雨月物語』の稿成る。 条烏丸東へ入ル町」とある。 〇暁台の『秋の日』成る。 ふすまえ 四月丸亀の妙法寺で襖絵「山水図」を描く。 関連事項
つけあい 蕉一座の連句には、一巻の基調として濃密な現実性が漂っていたし、その付合も付として余情が重視され ろうまん ているが、蕪村一派の作品では、浪漫的なものが主調となり、付合の運びも隠微な余情をさぐるというより 彼の発句の性質につながる点でもある。 集は、もっとあらわな印象的構成を選んでいる。このことはまた、一 村 俳文では、『新花つみ』「『春泥句集』序」「洛東芭蕉庵再興記」などに、達意な筆力が認められる。 蕪 参考文献 『蕪村集一茶集』暉峻康隆 / 川島っゅ日本古典文学大 ①本文 系岩波書店昭三四 『蕪村自筆句帳』尾形仂筑摩書房昭四九 『蕪村集』大谷篤蔵 / 岡田利兵衛 / 島居清古典俳文学『与謝蕪村集・小林一茶集』栗山理一 / 中島斌雄古典日 本文学全集筑摩書房昭三五 大系集英社昭四七 『蕪村秀句』水原秋桜子春秋社昭三八 評論・研究 『近世俳句俳文集』栗山理一 / 山下一海 / 丸山一彦 / 松尾 『与謝蕪村』大礒義雄俳句シリーズ桜楓社昭四一 靖秋日本古典文学全集小学館昭四七 『詩人与謝蕪村の世界』森本哲郎至文堂昭四四 『与謝蕪村』安東次男日本詩人選筑摩書房昭四五『連歌俳諧集』金子金治郎 / 暉峻康隆 / 中村俊定日本古 典文学全集小学館昭四九 『潁原退蔵著作集』第十三巻中央公論社昭五四 『座の文芸蕪村連句』暉峻康隆小学館昭五三 注釈・評釈 『与謝蕪村集』潁原退蔵 / 清水孝之日本古典全書朝日『与謝蕪村集』清水孝之新潮日本古典集成新潮社昭 五四 新聞社昭三一一 『蕪村・一茶』清水孝之 / 中村草田男 / 栗山理一日本古『蕪村集』村松友次鑑賞日本の古典尚学図書昭 五六 典鑑賞講座角川書店昭三一一 こおいづけ
0 師宋阿への敬慕と自己の俳諧観 いまじよ とを述べる。 はじん 一早野巴人。↓一九二ハー注四。 『むかしを今』序 集 ニ服部嵐雪。江戸の人。其角と そうへき 並び芭蕉門の双璧。宝永四年 ( 一七 0 村 七 ) 没。 ばうしそうあ おきなげふせっちゅうあん ひやくりきんぶうともがらかなへ 蕪亡師宋阿の翁は、業を雪中庵にうけて、百里、琴風が輩と鼎のごとくそばだ = 高野氏。江戸小田原町の魚問 屋。嵐雪門。享保十一一年 ( 一七毛 ) 没。 ち、ともに新意をふるひ、俳諧の聞えめでたく、当時の人ゆすりて、三子の風四生玉氏。摂津国 ( 現、大阪府 ) 東成郡の人。江戸に出て其角門で くわいしゅ 調に化しけるとぞ。おの / 、流行の魁首にして、尋常のくはだて望むべきには活躍、百里と並び称せられた。享 保十一年没。 あらざめり。 五鼎のように三者が並びたつ。 六騒ぐこと。 ぶかう 、 ) く・ちゃ・う やど 師や、昔武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりに、あやしき舎りして市中セ首唱者。首領。 〈武蔵国の江戸府。江戸の異称。 しもよ に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老のねざめのうき中にも、予ととも九日本橋石町三丁目にあった。 一 0 和う。満足する。 に俳諧をかたりて、世の上のさかごとなどまじらへきこゆれば、耳つぶしてお = 道理に合わないこと。 三聞えないふりをして。 ろかなるさまにも見えおはして、いといと高き翁にてぞありける。ある夜、危一三正座。 一四たちまち。にわかに。 なづ 坐して予にしめして日く、「夫俳諧のみちゃ、かならず師の句法に泥むべから一五禅家の三十棒に比していった もの。三十棒とは、禅僧が弟子を こっえん あひ ず。時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとく有るべし」と棒で打ち、教え導くこと。 一六にわかに悟りをひらくこと。 いちばうかとんご 宅心のままの世界。 ぞ。予、此一棒下に頓悟して、やゝま、 。しかいの自在を知れり。 ( 現代語訳一三二 かん一 0 それ のぞ おい よ し かなえ