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検索対象: 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集
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1. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

茶集 394 年号西暦年齢 文化八一八一一 四で越年。 〇『我春集』は、この一年間の手記。 マ一瓢撰『物見塚記』、閑斎撰『俳諧道中双六』、素丸十七回忌集 『青ひさご』などに入集。 九一八一二下総布川で迎春。一月二十三日より、守谷西林寺にあって、鶴四月、松平定信、退隠。五月十六 老と歌仙を巻く。 ニ月十五日、江戸に帰る。 三月二十七日よ日、士朗没。七十一歳。六月、浮 り、房総各地を行脚。四月三日、上総富津で花嬌三回忌に列し、浪者取締令。八月、高田屋嘉兵衛、 追善集を編む。五月八日、江戸帰着。同月十七日、随斎会で露艦に捕えられる。 一日百句を作る。六月十八日、柏原に帰り、本陣を宿とする。 遺産分配の交渉のためか。八月十八日、江戸帰着。同月一一十 七日、一峨方で甲州の一作、京の素玩に会う。九月八日、道彦 を訪う。十月一一十七日、・・流山の双樹没。その葬儀に参列。十 一月二十四日、柏原に入り、借家で越年。この年、一峨の今日 庵再興に助力し、その記念集『何袋』の序を書く。 〇『株番』は、この一年間を主とする手記。 マ恒丸大祥忌集『玉笹集』、梅寿撰『ほしなうり』、素玩撰『滑稽深 大寺』などに入集。 其日庵歳旦帖に出句。一月十九日、亡父の十三回忌を営む。 この年、全国豊作。幕府、大坂商 同月二十六日、明専寺住職の調停で、遺産問題につき仙六と和解成人より百万両の用金を取り立てる。 立。これより柏原に定住。四月九日、関之と地震の滝見物。 五月、露艦、高田屋嘉兵衛を送還。 六月十八日より、善光寺桂好亭で癰を病み、臥床七十五日。九同月十六日、松井没。八月十二日、 月十二日、柏原に帰る。十月十二日、長沼経善寺の芭蕉忌に出長翠没。九月、露艦長ゴロウニン 座。同月二十九日、湯田中に入り、希杖・其翠と三吟。十ニを釈放。同月三日、升六没。十 月八日、長月庵若翁、中村観国方で没。八十歳。魚淵撰『木槿月十三日、善光寺町に米騒動。 集』 ( 一茶七部集の一 ) 刊。 一茶事項 関連事項

2. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

395 一茶略年譜 〇『志多良』は、この一年間の手記。 マ白老撰『せみ塚』、素台撰『松のしをり』、金堤撰『勝鹿図志』な どに入集。 ニ月十六日、浅野に入る。文虎と両吟。同月二十一日、弟と家馬琴『南総里見八大伝』初輯刊。 を折半して住む。四月十一日、赤川の常田久右衛門の娘菊を娶北辺の派兵を撤収。五月、富士講 る。二十八歳。六月二日、湯田中に入る。智洞・希杖と三吟。厳禁。八月二十一日、樗堂没。六 八月九日、江戸に入り、下総方面を巡回。十月十二日、深川長十六歳。十一月十七日、巣兆没。 慶寺芭蕉塚に参詣。十一月、江戸俳壇引退記念集『三韓人』を五十四歳。 梓行。十ニ月二十五日、柏原に帰着。 〇『ほまち畑』 ( 一茶・文虎両吟連句帖 ) は、この年より文政九年 までの作品を収める。 宇橋稿『栗本雑記四』、松隣撰『木公集』、三津人撰『いなのめ 抄』などに入集。 一二一八一五一月十六日、二倉よりの帰路、大酔し発熱。三月十九日、浅野種彦『正本製』初編刊。 に入る。文虎と両吟。五月五日、湯田中で其翠と両吟。八月六月六日、鹿都部真顔没。七十七歳。 十四日、雉啄来訪。九月八日、江戸に入る。房総各地を巡り、九月、武家屋敷の博奕禁止。 十ニ月二十八日、柏原に帰着。 マ宇橋稿『栗本雑記五』、久蔵撰『鼠道行』、耒耜撰『柳くやう』な どに入集。 一三一八一六三月、家庭療法の刷物を発行。四月十四日、長男千太郎生れ、三月、諸国の戸口調査。四月、江 お・一り 五月十一日、夭折。七月八日、浅野の文虎亭で瘧を病み、急戸に疫病流行。五月二十二日、関 ぎ柏原に帰る。関八月十二日、松宇六十賀集『杖の竹』 ( 一茶七之没。閏八月、畿内・東海道洪水。 部集の一 ) の編集を終る。十月一日、江戸に入る。十一月六九月七日、山東京伝没。五十六歳。 日、『迹祭』 ( 一茶七部集の一 ) を魚淵に発送。同月十九日、夏十月、英船、琉球に来航、通商を求め、 目成美没。六十八歳。一茶、下総布川でその訃を聞く。 十一月拒絶される。十ニ月、博奕厳禁。 ~ 十ニ月、疥癬を患う。十ニ月二十二日、守谷西林寺に入り、 越年。

3. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

249 蕪村略年譜 天明元一七八一 九一七八〇 十一月几董との両吟歌仙『もゝすもゝ』 ( 蕪村七部集の一 ) 成り、こ十一月十六日、三浦樗良没す ( 五十 二歳 ) 。 れに序を書く。 〇「農家飼馬図」を描く。 四月二十九日、山本風律没す ( 八十 五月一一十八日、「芭蕉庵再興記」を自筆して金福寺に納む。 四歳 ) 。 十ニ月中旬、其角の句稿を得て、その像を描き、これに賛を付す 正月「春景農家飼馬図」を描く。 三月吉野の花見に赴く 五月『花鳥篇』 ( 蕪村七部集の一 ) 刊。これに序を書く。 ろう 六月伏見の山本鷺喬編『俳題正名』に序を書く。 正月「衡岳露頂図」を襖八枚に揮毫。 三月十七日、洛東安養寺における暁台主催の芭蕉追善俳諧および 二十三日、金福寺における同追善俳諧に列席。 八月九日、島原不夜庵における太祇十三回忌追善腓諧に出席。 きの・一カり 九月中旬、宇治田原の門人奥田毛条に招かれて茸狩に赴く。 十月初旬より病む。 ごしやほうぐ 〇病中、維駒撰になる召波十三回忌追善集『五車反古』 ( 蕪村七 十ニ月二十六日、夜半亭において門 部集の一 ) に序を書く。 人ら追善俳諧を催す。 十ニ月二十五日未明、永眠。 正月追善集『から檜葉』 ( 几董編 ) 刊。 四一七八四没 1 正月二十五日、金福寺にて葬送す。 十ニ月几董編『蕪村句集』刊。 一一十七日、遺骨を金福寺芭蕉庵墻外の芭蕉碑の辺に納む。 〇冬、几董、江戸において夜半亭 五一七八五没 2 三世を継承す。 やゅう 六月十六日、横井也有没す ( 八十二 十月十四日、堀麦水没す ( 六十六歳 ) 。

4. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

一茶略年譜 393 七一八一〇 六一八〇九町 草庵は人手に渡り、やむなく成美の家で越年。 マ太筑撰『犬古今』、眉山撰『身滌集』などに入集。 この頃、滑稽本最盛。 白芹歳旦帖に出句。ニ月八日、葛斎会で恒丸・兄直と三吟。 三月五日、対潮庵会で花嬌・文東らと歌仙を巻く。四月五日、一月、江戸大火。津軽海岸に烽火台を 江戸を立ち、五月八日、帰郷。八月十五日、村松春甫と姥捨山設置。六月二十七日、秋成没。七 に仲秋の名月を見る。江戸に帰った時期は不明だが、上野坂本町に十六歳。九月、間宮林蔵、シベリ アを探検して帰国。 仮寓か 〇『文化六年句日記』は、この年一月 ~ 六月までの句日記。 マ于当撰『関清水物語』、鷺白撰『古今綾嚢』、巣兆撰『玉の春』な どに入集。 白芹歳旦帖に出句。ニ月 ~ 四月、しばしば下総方面へ出かける。一九『続膝栗毛』初編刊。 五月八日、蕉雨と両吟。同月十日、江戸を立ち、十九日、柏原ニ月、外国船防禦令出る。五月、 に入ったが、家人の冷遇を憤り、六月一日、江戸に帰る。六月英船、常陸に来る。六月、浦賀・ 十月九日より十一月一日まで、佐走水・城島の砲台を修造。九月十 ~ 七月、下総・上総に赴く。 原・香取地方を周遊。十一月三日、成美宅に滞在中、金子紛失四日、恒丸没。六十歳。 のため五日間の禁足を受ける。十ニ月二十三日、下総守谷の西 林寺に入り、ここに越年。鶴老・天外らと歌仙数巻成る。春甫 撰『菫艸』 ( 一茶七部集の一 ) 刊。 〇『七番日記』は、この年初より文化十五年末に至る句日記。 マ耒耜撰『菊苗集』、万和撰『春秋篇』、巣兆撰『老が染飯』などに 入集。 四白芹歳旦帖に出句。一月十五日、江戸に帰る。同月二十八日、三馬『浮世床』初編刊。 ニ月、柳橋に仮寓。閏ニ月五月、蝦夷守備兵、露艦長ゴロウニン 江戸滞留中の長月庵若翁を訪う。 三月、郷人の来訪多し。四を捕える。八月、いれずみ禁止。 十二日、随斎で再び若翁に会う。 月 ~ 五月、成美・一瓢らとしばしば会吟。六月十六日、上総旅十ニ月、五か年間倹約令。 寓中に奥歯を失った文を作る。十一月二日、馬橋の立砂十三回 忌に列し、句文を手向ける。十ニ月十九日、下総に赴き、布川

5. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

蕪村集 250 あかっき 暁の あきかぜ 秋風や あきたっ 秋立や ( 秋たつや ) さゆかうば ー素湯香しき ー何におどろく 秋のくれ 秋の灯や 秋ふるや 秋をうれひて 朝風に 朝がほや 朝霧や くひぜうつ ー杭打音 せんげん ー村千軒の 朝日さす あす 翌ははや あなたふと あ行 ひ 蕪村集初句索引 あはおひ 粟負し あひづつぶて 相図の礫 仰ぎ見て あふちさきち 三樗咲散る あふみ 一八一一近江のや 雨にもならず 一哭雨のひまに あゆおち 一四七鮎落て あゆ 鮎くれて あをや 一八九青柳や いかのばり * 几巾 イグチ Ⅷ兎唇の妻の いぎよひ 九三十六夜の 一六七磯ちどり 。富の いづこより いなづま 一一稲妻に いなづまや ( いな妻や ) かただどま ー堅田泊りの 一七 0 、この索引は、蕪村集の俳句編・俳文編本文の俳句と、連句編の連句 ( 長句五・ 七・五、短句ⅱ七・七 ) の初句を、歴史的仮名づかいによる五十音順に配列したも のである。 一、初句の下には、俳句編の句番号を漢数字 ( 一 = 三など ) で示し、連句編および俳文 編については、算用数字 ( など ) で本文のページを示した。 一、なお、蕪村以外の作者のものには、算用数字の上に * 印を付けた。 なみ がれ 一六 0 ー浪もてゆへる うら枯や いばらおい うれ 一六六愁ひっゝ * 茨老 えきすい いばら花白し 易水に えりまき 三七襟巻の * 妹が垣根 えんわう * 色も香も 七三閻王の おき うき我に 一九一一起いでゝ 剏 うぐひすの ( 鶯の ) 御国がへとは なく 一一 0 三 六遅き日の ー啼やちひさき ひえ 八八 五遅き日や ー日枝をうしろに きじお 一三七 七雨後の月 ー雉子の下りゐる - 一だま うすづく 一 0 八 ー谺聞ゆる 五五舂や おちあ 畑 うたゝ寝の 六一落合うて うたまくら おちば * 落葉して 崩哥枕 おちばひろ 一四六落穂拾ひ = 一四討はたす おてうち うづきはつか 一七九卯月廿日の * Ⅲ御手討の おにつら うつゝなき き鬼貫や うみて おほたき 五六御火焚や 皿海手より おはっゑ 大津絵に 一五九海やゝちかく 一一一およぐ時 梅が香の をちこち 一一おろし置 一五八梅遠近 か おく 131 141 四四 一三五 一究 七五 一一 0 四 四九 一九六 一一三九 四

6. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

201 俳文編木の葉経 ( 現代語訳一三五ハー ) 0 蕪村の妖怪趣味を示す。 セ栴檀の林の略。僧侶が学問を はぎゃう する場。弘経寺は浄土宗十八檀林 木の葉経 の一。茨城県結城市西町にある。 寿亀山松樹院弘経寺。徳川秀康 ( 家康の孫 ) の息女松姫が六歳で没 だんりんぐきゃうじ しもっふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これし、供養のため文禄三年 ( 一ミ ) 創 建。蕪村が同寺に寄寓したのは、 りしト - きゃう こよひ ^ がんとう を狸書経と云ひて、念仏門に有りがたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭に住職の第一一十九世成誉上人が雁宕 の血縁の人物であったからか。 みみ ひやくまんべんすぎゃう 百万遍を修行せらるゝにまうで逢ひ侍るに、導師なりける老僧、耳つぶれ声う ^ 宝暦四年 ( 四 ) 、巴人十三回 忌の追善集『明の蓮』に、閑泉亭故 ふるだめきふるぎめ ちふるひて、仏名もさだかならす、かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出でて、郷の名が見える。京都の人。 九京都の浄土宗知恩寺で、衆 りまうか 僧・信徒が集って「南無阿弥陀仏」 愚僧も又こゝに狸毛を噛みて、 を唱えながら、千八十顆の大数珠 はだ このはぎゃう を百回繰りまわす仏事。 肌寒し己が毛を噛む木葉経 一 0 「ふるき」の序詞に用いた。 = 蕪村は得度したわけではない が、「釈蕪村」と釈氏を用いた。 三筆の穂先。狸の毛で作った。 一三狸が自分の毛 ( 筆先 ) を噛みな がら経を書いている、肌寒い思い のすることだ、の意。 一四閑人。ひま人。 ずだぶくろ 一五「嚢」は頭陀袋と詩嚢の意。 一六「釈」は釈迦の弟子の意。 ぶつみやう おの あ はべ ためき だうし 一四なうだうじん一六 洛東間人嚢道人釈蕪村 せんだん

7. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

が「地蔵のひざも」とある。 そへぢ 添乳 0 長女のさとへの父性愛が表れて いる一文。なお、この文は、其角 一 0 ふし るい・」うじ こその夏、竹植うる日のころ、うき節茂きうき世に生れたる娘、おろかにしの『類柑子』中の一・・ひなひく鳥」 に着想を得ているといわれる。 とて ^ 文政元年 ( 一八一 0 。 てものにさとかれ迚、名をさととよぶ。ことし誕生日祝ふころほひょり、てう 九陰暦五月十三日。この日に竹 かぎぐるま おつむ ち / 、あはゝ、天窓てん / 、、かぶり / 、ふりながら、おなじ子どもの風車とを植えるとよく根づくという。さ との生れたのは五月四日。 一 0 憂いことの多いこの世。「竹」 いふものをもてるを、しきりにほしがりてむづかれば、とみにとらせけるを、 の縁で「節」という。 ただち っゅほどしふねん やがてむしゃ / 、しゃぶって捨て、露程の執念なく、直に外の物に心うつりて、 = 生れつき愚かでも、長じてり こうになれ。「おろか」は性質の素 がみ しゃうじ うちゃぶ そこらにある茶碗を打破りつゝ、それもたゞちに倦きて、障子のうす紙をめり直なさま、柔順 ( 富山県礪波方言 ) A ラも。 三幼児をあやすしぐさ。両手を / 、むしるに、「よくした / 、」とほむれば誠と思ひ、きやら / 、と笑ひて、 打って「てうち / 、」、手を口にあ ちり 抄 ひたむしりにむしりぬ。心のうち一点の塵もなく、名月のきら / 、しく清く見てて動かしながら「あはゝ」。 一三頭に手をあげて軽くたたくし しわのば わぎをぎ おゆれば、迹なき俳優見るやうに、なか / 、心の皺を伸しぬ。又、人の来りて、 一四幼児が頭を左右に振る動作。 ゅびさ 文「わん / 、はどこに」といへば犬に指し、「かあ / 、は」と問へば烏にゆびさす一 = 比類のない演技。 一六たいそう、非常に、の意。 こてふ つまさきまであいけう 、、よ春の初草に胡蝶の宅愛嬌。原本には「愛教」。 さま、ロもとより爪先迄、愛敬こばれてあいらしくし。。 一九 天幼児。 ・も たいや 3 たはむ 戯るゝよりもやさしくなん覚え侍る。此をさな、仏の守りし給ひけん、逧夜の一九亡くなった人の忌日の前夜。 あと この一八 あ からす はつく きた

8. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

0 師宋阿への敬慕と自己の俳諧観 いまじよ とを述べる。 はじん 一早野巴人。↓一九二ハー注四。 『むかしを今』序 集 ニ服部嵐雪。江戸の人。其角と そうへき 並び芭蕉門の双璧。宝永四年 ( 一七 0 村 七 ) 没。 ばうしそうあ おきなげふせっちゅうあん ひやくりきんぶうともがらかなへ 蕪亡師宋阿の翁は、業を雪中庵にうけて、百里、琴風が輩と鼎のごとくそばだ = 高野氏。江戸小田原町の魚問 屋。嵐雪門。享保十一一年 ( 一七毛 ) 没。 ち、ともに新意をふるひ、俳諧の聞えめでたく、当時の人ゆすりて、三子の風四生玉氏。摂津国 ( 現、大阪府 ) 東成郡の人。江戸に出て其角門で くわいしゅ 調に化しけるとぞ。おの / 、流行の魁首にして、尋常のくはだて望むべきには活躍、百里と並び称せられた。享 保十一年没。 あらざめり。 五鼎のように三者が並びたつ。 六騒ぐこと。 ぶかう 、 ) く・ちゃ・う やど 師や、昔武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりに、あやしき舎りして市中セ首唱者。首領。 〈武蔵国の江戸府。江戸の異称。 しもよ に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老のねざめのうき中にも、予ととも九日本橋石町三丁目にあった。 一 0 和う。満足する。 に俳諧をかたりて、世の上のさかごとなどまじらへきこゆれば、耳つぶしてお = 道理に合わないこと。 三聞えないふりをして。 ろかなるさまにも見えおはして、いといと高き翁にてぞありける。ある夜、危一三正座。 一四たちまち。にわかに。 なづ 坐して予にしめして日く、「夫俳諧のみちゃ、かならず師の句法に泥むべから一五禅家の三十棒に比していった もの。三十棒とは、禅僧が弟子を こっえん あひ ず。時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとく有るべし」と棒で打ち、教え導くこと。 一六にわかに悟りをひらくこと。 いちばうかとんご 宅心のままの世界。 ぞ。予、此一棒下に頓悟して、やゝま、 。しかいの自在を知れり。 ( 現代語訳一三二 かん一 0 それ のぞ おい よ し かなえ

9. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

茶集 392 文化二一八〇五 年号西暦年齢 一茶事項 関連事項 三月二日、巣兆来訪。四月、『一茶園月並』刊行。関八月二大江丸没。八十六歳。五月三日、 十七日、随斎会で一瓢と同座。両者の初見か。十ニ月九日、太歌麿没。五十三歳。 節と両吟。 マ文龍撰『節の友』、法雨撰『杖の華』、希言撰『蟹窟』などに入集。 一一一一八〇六白芹歳旦帖に出句。三月十三日、竹阿十七回忌、長応院に参詣。馬琴『椿説弓張月』初編刊。蜀山 七月二日、多太薬師の元夢七回忌に参列。八月二十五日、下総人『蜀山百首』刊 田川で京の丈左に再会。九月九日、野逸 ( 葛飾派四世 ) と金町伊能忠敬、本州測量を終る。 江戸大火。九月、露人、樺太に上 に遊ぶ。十一月三日、随斎で肥後の対竹と会吟。 陸。十一月、琉球使節引見。 〇『文化句帖補遺』は、ほばこの年より文化八年に至る手記。 マ万和撰『都鄙日記』、河洲撰『旅日記』 ( 仮題 ) 、升六撰『二葉草 寅巻』などに入集。 一月十九日、随斎で成美・浙江と三吟。四月十六日、友人滝耕この頃より合巻行われる。 舜没。「耕舜先生挽歌」を作る。五月十一一日、随斎での乙因追善一月十五日、野逸没。八十歳。四 俳諧に列座。七月 ~ 八月、亡父七周忌のため帰郷、渋温泉に遊月、露人、蝦夷に侵入。五月、東 び、「渋温泉紀行」成る。いったん江戸へ帰り、十一月五日、再び北各藩、蝦夷出兵。六月、堀田正 帰郷、遺産分配の交渉をしたが成功せず、同月十九日、江戸に帰着。敦、北海巡視。 マ鯉ロ十三回忌集『秋暮集』、素丸十三回忌集『俳諧教訓百首』、柑 翠撰『鹿嶋集』などに入集。 三月二十日、上野・三馬『浮世風呂』初編刊。秋成『胆大 五一八〇八ニ月八日、仙六、江戸へ出て一茶を訪う。 小心録』成る。 浅草・隅田川の花を見巡り、「花見の記」成る。同月二十三日、 風で住庵を吹き破られる。五月二十五日、帰郷の途につき、途間宮林蔵、間宮海峡を発見。四月、 中、草津温泉に遊び、七月二日、柏原に入る。「草津道の記」成る。下田・浦賀に砲台構築。六月、関 同月九日、祖母三十三回忌取越法要を行う。八月二十一日、野東洪水。八月、英船、長崎に侵入。 尻湖畔の秋色を探る。十一月二十四日、村役人立会いの上、亡九月、長崎砲台修築。関東飢饉。 父の遺産分配の取極めを行う。十ニ月、江戸に帰る。不在中、 四一八〇七

10. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

205 俳文編洛東芭蕉庵再興記 一九 じざいあんだうりふし たんあん ととはなりぬ。再興発起の魁首は、自在庵道立子なり。道立子の大祖父坦庵先一四わけもなく。 一五陰暦四月。 生は、蕉翁のもろこしのふみ学びたまへりける師にておはしけるとぞ。されば一六陰暦九月。 宅首唱者。首領。 、」のきょ 一 ^ 樋口氏、名は敬義、字は道卿。 道立子の今此挙にあづかり給ふも、大かたならぬすくせのちぎりなりかし。 伊藤坦庵の曾孫で、江村北海の第 一一子。蕪村門。文化九年 ( 一八一一 l) 没。 安永丙申五月望前一一日 一九伊藤氏。福井藩の儒員。名は せいか 宗恕。藤原惺窩の門人、那波活所 について朱子学を修めた。宝永五 年 ( 一七 0 八 ) 没。 ニ 0 宿世の契り。前世の因縁。 一 = 安永五年 ( 一七七六 ) 。金福寺本に は「天明辛丑五月下八日」とあり、 天明元年 ( 一七八 l) にあたる。自筆し て金福寺に納めたのは、この年五 月二十八日である。 一三十三日。 へいしん ほっき くわいしゅ ニ 0 平安夜半亭蕪村慎記 しんき