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検索対象: 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集
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1. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

蕪村集 205 洛東ばせを庵にて しぐれ 一京都市左京区一乗寺才形 -0 ちょうこんぶくじ ( 蕪村句集 ) 冬ちかし時雨の雲もこゝよりぞ 町の金福寺に、蕪村は樋口道 りゅう 立と共に芭蕉庵を再興し、「洛東 ようやく冬も近づき、四辺の風物も落莫とした眺めになってきた。やがて洛ヒ 」芭蕉庵再興記」 ( ↓二〇二ハー ) を書 の空には名物の時雨が訪れてくるであろうが、その時雨の雲もこの丘上の芭蕉 いている。なお「洛東芭蕉庵落成 じもく たま 日」と前書した「耳目肺腸 , てに玉 庵から湧き起るにちがいない、の意。時雨を好んだ芭蕉を追慕した吟であり、 同時に芭蕉庵を再興し、蕪村一派の俳席をここに設けたことからも、正風復興巻ばせを庵」 ( 落日庵句集 ) という 句もある。 への自負と決意もこめられていよう。それほどに張りつめた格調である。季語 は「冬ちかし」。 くす しぐれ 一時雨が、連歌以来、風雅の ( 蕪村句集 ) 楠の根を静にぬらす時雨哉 好題材とされたのは、初冬の 空を乱して移行する時雨のすみや 寺院の境内などであろう。急に時雨がはらはらと降ってきた。軒端を打ち、庭 しめ かな変化にあった。蕪村はその伝 石をたたく音とともにたちまち地面は湿ってくる。境内に楠の大樹があるが、 統を継承しながら、これを純粋な はじめのうちは茂りあった枝葉にさえぎられて、その下陰は乾いた色を見せて感性の世界に転化しようと試みて いたが、だんだん雨が降りつのるうちに、幹から根もとへと濡れてきた、の意。いる。 時雨は長く降りつづく雨ではないだけに、短い時間の経過のうちに時雨の本情 冬の部 わ しづか らくばく のきば さいかた どう

2. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

げんじゅうあんのき 0 以下は、芭蕉の『幻住庵記』を踏 まえて書かれている。 らくと , つばせをあんさいこうき 一四明岳。比叡山中の最高峰。 洛東芭蕉庵再興記 さいかたちょう ニ京都市左京区一乗寺才形町。 三仏日山金福寺。もと天台宗で、 村 近世初期から臨済宗。蕪村を葬る。 しめいさんか いちじようじむらぜんばう こんぶくじ どじん 蕪四明山下の西南一乗寺村に禅房あり、金福寺といふ。土人口称して芭蕉庵と四山の中腹。また山の色の青い のをいう。『幻住庵記』に「翠徴に あん 呼ぶ。階前より翠微に入ること二十歩、一塊の丘あり。すなはちばせを庵の遺登る事三曲二百歩 : ・」。 五王稚・竹里館」に「独リ坐ス幽 りよくたい また 蹟也とそ。もとより閑寂玄隠の地にして、緑苔やゝ百年の人跡をうづむといへ篁ノ裏琴ヲ弾ジ復長嘯ス」。 五 六長安は京都をさす。「長安古 い、つく . わ、つ ゅ ども、幽篁なほ一炉の茶煙をふくむがごとし。水行き雲とゞまり、樹老い鳥睡来名利ノ地空手金無キハ行路難 シ」 ( 白氏文集 ) 。 みやうり りて、しきりに懐古の情に堪へず。ゃうやく長安名利の境を離るゝといへども、セ「ひたぶるに閑寂を好み、山 野に跡をかくさむとにはあらす」 ぞくぢん ひたぶるに俗塵をいとふとしもあらず。鶏犬の声籬をへだて、樵牧の路門をめ ( 幻住庵記 ) 。 ^ 陶淵明「桃花源記」の「阡陌交 とうふ しじんぎんかく ぐれり。豆腐売る小家もちかく、酒を沽ふ肆も遠きにあらず。されば詞人吟客通シ鶏犬相聞ュ」によるか。 あひわうらい うゑ 〈芭蕉の『峨日記』に、木下長 の相往来して、半日の閑を貪るたよりもよく、飢をふせぐまうけも自在なるべ嘯子の『挙集』の「山家記」に見え る「長嘯隠子の日く、客は半日の 閑を得れば主は半日の閑をうしな ふと」を引く。 わらべ 抑いつの比より、さはとなへ来りけるにや。草かる童、麦うつ女にも、芭蕉 0 金福寺芭蕉庵の由来について。 一 0 金福寺第四世の住職。元禄十 なり 庵を問へばかならずかしこを指さす。むべ古き名也けらし。さるを、人其ゅゑ一年 ( 一六九 0 没。 そもそも ころ 四 すいび はんじっかんむさば いちろ きた カ 。けいけ、ん みせ 六 まがき せうばくみち その ねむ

3. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

茶集 388 寛政元一七八九 ( 1 ・ ) 年号西暦年齢 安永六一七七七新 七一七八七 関連事項 一月、信濃の高井・水内両郡の農民、 代官に強訴。五月、農民の都市出 稼ぎを禁止。九月、農民の徒党・ 強訴を厳禁。 この年、相模藤沢の堀内千砡が自邸内に菅神廟を再建、その奉納吟七月六日、浅間山大噴火。十一月、 そまる 中に素丸と共に肥喬の名が見え、あるいは一茶の前身か。 浅間山麓の農民蜂起。十ニ月二十 五日、蕪村没。六十八歳。 十一月、連俳の秘書『白砂人集』を小林橋の名で書写する。この三月、家斉、十一代将軍となる。 頃すでに一一六庵竹阿の門に入り、上野根岸辺にあった二六庵に出入五月、米価騰貴、江戸・大坂の市民蜂 りしていたらしい 起。六月、松平定信、老中に就任。 八月、三か年間倹約令。九月七日、 蓼太没。七十歳。 四月、今日庵安袋 ( 後に元夢 ) 撰『俳諧五十三駅』刊。菊明の号で一月、徒党禁止令出る。四月、丁 十二句入集。一茶の前身と推定される。八月、法眼苔翁 ( 安袋銀新鋳。 か ) より『俳諧秘伝一紙本定』を譲られ、奥書に蝸牛庵菊明と署名。 同月、風後撰『百名月』に一句入集。 一月、玄阿 ( 元夢門 ) の立机記念集『はいかい柳の友』に一句入集。この年、黄表紙に発禁絶版が多い。 今日庵執筆を勤める。 三月、風後撰『花勧進』に一句入集 三月、衣服調度の奢侈禁止。十月 同月、元夢撰『俳諧千題集』成る。同書正月部・三月部に一茶号で一一十三日、几董没。四十九歳。 三句入集。以後この号を用いる。八月九日、奥羽行脚の途次、 かんまんじ 象潟の蚶満寺を訪い、『旅客集』に菊明の名で句文を残す。 一一一七九〇三月十三日、一一六庵竹阿、本所の竹屋弥兵衛方で没。八十一歳。ニ月、出版取締令。五月、異学の 四月七日、葛飾派三世溝ロ素丸の門に入り、年末にはその執筆役と禁。九月二十三日、初代川柳没。 なる。 七十三歳。十月、洒落本版行禁止。 マ素丸撰『夏孟子論』、馬光五十回忌集『霞の碑』、素丸撰『秋顔 八一七八八 一茶事項

4. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

たもと ひえいぎん 靖の風流を奪いとり、比叡山の麓に杖をひいては、麻の袂けで、消えることのない墨の色もめでたく、年月のたった かすみ で暁天の霞を払い、京都から白川道を山越えして、琵琶湖筆跡が、どうして残らないということがあろうか。ところ どうていこ ふりゅうもんじ を一望する眺めに、杜甫が洞庭湖に対したと同じく目を見が、禅家の無功徳の宗風は心たけだけしく、不立文字とい からさき おばろよ はり、ついに辛崎の松の朧夜の光景に、一代の妙境をきわ う考え方から、心眼をきらめかせて、仏の経文や聖人の書 められたのであろう。そんなわけで、都から往来するのに なども捨てて無用のものとしてしまう。どうしてそんな筆 つごうがよいというので、ときどきこの岩の上に休息され跡など長く保存しておく心要があろうかと、たいへん無風 めぐ かれの たのであろうか。ところが「夢は枯野をかけ廻る」の句を流な気ちがい男のために、むなしくごみ箱の底で朽ち、い しみ 最後として芭蕉翁が亡くなられてのち、かの高僧は深く悲 いかげんにされて紙魚の住みかとなって滅びてしまったの しんで、そこで草堂を芭蕉庵と名づけ、いっそう翁の風雅であろう、けしからんことだ」などと嘆き語るのである。 の趣を慕い、後世忘れ去ることのないようになさったので ままよ、滅びたものは追ってもしかたがない。ただこの あろう。雨を喜んで亭の名にするなど、中国でもそのよう ような景勝の地に、このような尊い名が残っているのを、 わけもなく捨てておくことは、その罪さえ恐ろしく思われ 記な例は多いそうである。 再そうではあるが、ここで芭蕉翁が口ずさまれたものであるので、まもなく同志の人々と相談して、形ばかりの一草 蕉ると、世に知られる句はない。ましてお書きになったもの庵を再興して、ほととぎすを待っ四月のはじめ、牡鹿の鳴 く九月の末には、かならずこの寺に集って、芭蕉翁の高風 東が、筆跡としてすら残っていないのだから、はっきりと論 じぎいあんどうりゅう 洛 証できるとも思われない。住職の松宗師が、「それよ、『う を仰ぐこととなった。再興を企てた首唱者は、自在庵道立 たんあん 文き我をさびしがらせよ』と芭蕉翁が吟じて、俗世から遠ざ子である。道立子の曾祖父担庵先生は、芭蕉翁が漢籍を学 かんこどり ばれた師であられたということだ。だから道立子が今この かられた閑古鳥のものさびしい句は、翁がこの山寺にはい 事業にあずかられたのも、並々ならぬ前世の因縁であるよ。 られての慰みの作であると、最近まで生きていた老人で、 へいしん 学問の道に通じた人が話しておりましたよ。そのようなわ 安永丙申五月望前一一日 っえ びわこ

5. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

蕪村集 226 か このはやう はだ おの 。というわけで、文士や詩人が を買う店もそう遠くはない 肌寒し己が毛を噛む木葉経 ( 狸が、自分の毛で作った筆先を噛みながら、木の葉の経を往き来して、半日の閑を楽しむにも便利で、食事のしたく 書いている。肌寒い思いのすることだ ) をするのも望み次第である。 のうどうじん 、つごろからそのようによぶようになったの 洛東間人嚢道人釈蕪村 だろうか。草刈りの子供、麦打っ女にも、芭蕉庵を聞くと らくとろ・ばし・よろ・あんさいこうき かならずあそこを指さして教えてくれる。なるほど古い名 洛東芭蕉庵再興記 なのだろう。ところが人々はその由来を知らない。ひそか てっしゅう いもレよう・じ・むら - こんぶくじ に聞いているところでは、その昔鉄舟という高僧が、この 比叡山の麓の西南、一乗寺村に禅寺があり、金福寺とい とな う。土地の人は口々に称えて芭蕉庵とよんでいる。石段の寺に住んでおられたが、別に一室をここに構えて、みずか せんたくすいじ ら洗濯・炊事をして清貧を楽しみ、客をことわって深くこ 前から山の中腹にはいること二十歩ほどで、一かたまりに もっておられたが、芭蕉翁の句を聞くと涙を流しながら、 見える丘がある。それが芭蕉庵の遺跡だということだ。も とより静かな奥深い所で、緑の苔がほば百年前の人の足跡ああ、ありがたいことだ、ここに世俗をのがれ無我・寂静 ろ ぜんじよう たけやぶ を埋めてしまったけれども、奥深い竹藪は、茶を熾じた炉の境に入り禅定の世界に遊ぶことができたといって、つね に芭蕉の句を口ずさんでおられたということだ。そのころ、 の煙がこもっているようである。水が流れ、雲がたなびき、 ちり きょたき 木も老い、鳥も眠っているようで、あたりはひっそりとし芭蕉翁は山城のあちこちを吟行され、清滝の波で目の塵を ていて、しきりに懐古の情にたえないほどである。ようや洗い清め、嵐山の雲を眺めては時の移りゆく姿を思い、あ じようぎん るいは丈山の夏衣を見ては、薫風が万里に吹きわたる快適 く京都という名聞利欲の地を離れているとはいうものの、 はち よ ちトっしよう まったく俗塵の世界を嫌っているというわけでもない。鶏さを詠まれ、長嘯の墓では寒夜に修行する鉢たたきを憐れ まがき み、また「薦を着てたれ人います」とうめき出されてから、 や犬の声が籬を隔てて聞え、木こりや牛飼いたちの通る道 いんせい りんわ とうふ : が門の所を曲って通じている。豆腐を売る小家も近く、酒「きのふや鶴をぬすまれし」と、あの孤山に隠棲した林和

6. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

連句作品解説 むちょう どうりゅう 菜の花やの巻『続明烏』所収。半紙本一一冊。几董編。道立序。無腸 ( 上田秋成 ) 跋。安永五年 ( 一七七六 ) 刊。橘仙堂善兵衛板。 りようが 『続明烏』は『蕪村七部集』の一。『あけ烏』 ( 安永一一年 ) の続集であるが、質量ともこれを凌駕し、『蕪村七部集』中最大 のものというだけでなく、蕪村調を確立した意義深い撰集である。『続明烏』中の連句は十二巻の多きを数え、春夏秋冬そ れそれ三巻を配している。蕪村一門における連句復興の気運を物語るものといえよう。春の部に収める蕪村・樗良・几董 三吟の本歌仙は、『続明烏』刊行に先立っ安永三年に成立している。蕪村と几董は同年三月二十三日に、前年から京都に 滞在していた伊勢の樗良と相会して、昼夜二巻の歌仙となった。昼のうちに巻いたのが本歌仙で、古典趣味、中国趣味な ど文人的風趣をもつばらとし、ゆるぎない蕪村調連句を確立している。 牡丹散ての巻冬木立の巻『もゝすもゝ』所収。半紙本一冊。蕪村著、自序。安永九年冬刊。橘仙堂板。『もゝすもゝ』は しゅんば 『蕪村七部集』の一。成立の事情は、のちに几董が門人の春坡にゆすった、『もゝすもゝ』の草稿の端書によれば、安永九 年の晩春三月から十一月初旬にかけて、往復の書簡によって句を練り、二歌仙が成ったという。 せっさたくま 師弟が往復書簡で切磋琢磨したこの二歌仙は、重厚華麗で格調高い文人趣味の作品となっており、まさに天明調を代表 する連句というべきであるが、そのかわり、付合文芸美の一側面である、即興性からくる軽快な躍動美が失われている。 漢語・雅語の使用、怪異趣味、伝奇趣味、中国趣味、日本的王朝・中世趣味など、すべて蕪村の発句と共通の高踏的な文 人趣味で、卑俗化した当代俳諧を意識した、風雅への傾斜の所産にはかならない。 作者解説 むいあん ちよら 樗良享保十四年 ( 一七一一九 ) ~ 安永九年 ( 一七八 0 ) 。三浦樗良。通称勘兵衛。別号、無為庵・一一股庵・榎本庵。剃髪して玄仲と号 した。志摩国 ( 現、三重県 ) 鳥羽の生れ。十四歳の折、父とともに伊勢山田岡本町に移り住んだ。俳諧は紀州長島の百 しらががらす 雄に学んだ。宝暦九年処女撰集『白頭鴉』を著し、同十一一年には岡本町に無為庵を結び、門人多数を擁した。明和三年 たいろ らんこうきようたい 無為庵を退き、闌更、暁台ら各地の俳人と交わり、とくに安永一一年以降は蕪村、几董、大魯らと親交を重ねた。安永五 年六月には、京都木屋町三条に庵を得て移り、中興俳壇の一翼を担う有力な俳人として活躍した。句風は平明な中に和 歌的な余情を含むものが多く、独自の詩境を確立している。編著には『樗良七部集』などがある。 らいふしんめい こうししやしゅんやろうえんギ ~ んてい きとう 几董寛保元年 ( 一七四一 ) ~ 寛政元年 ( 一七八九 ) 。高井几董。幼名、小八郎。別号、雷夫・晋明・高子舎・春夜楼・塩山亭・三世 夜半亭等。京都の人。父である巴人門の几について俳諧を学ぶ。明和七年、几董三十歳の折、請われて父几圭と同門 の蕪村に師事した。入門の翌々年、明和九年には『蕪村七部集』の一でもある父几圭の追善集『其雪影』を撰し、蕪村 りようた 門の重鎮としてしだいに世に認められた。蕪村没後、天明五年十月、師の旧友江戸の蓼太のすすめで三世夜半亭を襲名、 しせん 寛政一兀年、伊丹の士川宅で急逝した。イ 乍風は、蕪村調を墨守し、繊細な感覚をよく生かしている。 ていはっ ひやく

7. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

茶集 390 年 号 西 年 一茶事項 関連事項 寛政八一七九六 4 3 養』に入集。七月、升六編・一茶校『冬の日注解』成る。再徳布『素丸発句集』刊。 び四国に渡り、松山城内の観月の会に列し、冬より翌春にかけて、八月、破戒僧を処罰。 樗堂としばしば両吟歌仙を巻く。 マ奇淵撰『松風会』に入集。 都雀歳旦帖・絢堂歳旦帖に入集。春、松山を辞し、夏より秋に蕪村『新花つみ』刊。 かけて、備後福山に滞在。それより京坂へ向う。 八月、仙台領に農民一揆。九月、 マ闌更撰『月の会』、自楽撰『千秋楽後篇』、石人撰『霜のはな』な宝暦暦を廃し、寛政暦を頒布。 どに入集。 一〇一七九八大和長谷寺で迎春か。春、東帰記念集『さらば笠』を出す。 三馬『辰巳婦言』絶版となる。 六月二十六日、大津に赴き、辛崎・堅田を巡遊。七月、木曾路ニ月、諸国人別帳差出令。五月三 を経て東に帰り、八月、江戸帰着か。九月、郷里に帰省。同日、闌更没。七十三歳。十ニ月、 月より『急逓記』を記し始める。十月十日、下総馬橋の栢日庵近藤重蔵、蝦夷地探検。 めゅう * 、 立砂と真間手児奈堂に遊ぶ。 ▽駝岳撰『みつのとも』、尺艾撰『なにはの月』、丈左撰『題苑集』 などに入集。 浅草八幡町の旅宿で迎春。徳布歳旦帖・法雨春興帖などに入集。一月、三馬と版元、鳶人足に襲われる。 ニ月、改版『さらば笠』を各地に発送。晩春より甲斐・北陸行三月、北辺の防備を固める。六月 脚に赴く。十一月二日、立砂の臨終に侍して「挽歌」を作る。村落の興行物禁止。 マ八千坊撰『俳諧十家類題集』、万和撰『松内集』、升六撰『花柑 子』などに入集。 庸和歳旦帖『庚申元除楽』に出句。一一六庵を継ぎ、その庵号を使用。秋成『春雨物語』成る。艶二『南 ほかに徳布歳旦帖・我泉歳旦帖にも入集。ニ月二十七日、夏目門鼠』絶版となる。 成美との付合二句あり。両者同座の連句の初見。七月二日、今伊能忠敬、測量のため蝦夷地に赴く 日庵元夢没。七十四歳。 マ升六撰『題葉集』、亨撰『塵窪』、耒耜撰『菊の香』などに入集。 一二一八〇〇 九一七九七肪 一一一七九九 せいび

8. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

249 蕪村略年譜 天明元一七八一 九一七八〇 十一月几董との両吟歌仙『もゝすもゝ』 ( 蕪村七部集の一 ) 成り、こ十一月十六日、三浦樗良没す ( 五十 二歳 ) 。 れに序を書く。 〇「農家飼馬図」を描く。 四月二十九日、山本風律没す ( 八十 五月一一十八日、「芭蕉庵再興記」を自筆して金福寺に納む。 四歳 ) 。 十ニ月中旬、其角の句稿を得て、その像を描き、これに賛を付す 正月「春景農家飼馬図」を描く。 三月吉野の花見に赴く 五月『花鳥篇』 ( 蕪村七部集の一 ) 刊。これに序を書く。 ろう 六月伏見の山本鷺喬編『俳題正名』に序を書く。 正月「衡岳露頂図」を襖八枚に揮毫。 三月十七日、洛東安養寺における暁台主催の芭蕉追善俳諧および 二十三日、金福寺における同追善俳諧に列席。 八月九日、島原不夜庵における太祇十三回忌追善腓諧に出席。 きの・一カり 九月中旬、宇治田原の門人奥田毛条に招かれて茸狩に赴く。 十月初旬より病む。 ごしやほうぐ 〇病中、維駒撰になる召波十三回忌追善集『五車反古』 ( 蕪村七 十ニ月二十六日、夜半亭において門 部集の一 ) に序を書く。 人ら追善俳諧を催す。 十ニ月二十五日未明、永眠。 正月追善集『から檜葉』 ( 几董編 ) 刊。 四一七八四没 1 正月二十五日、金福寺にて葬送す。 十ニ月几董編『蕪村句集』刊。 一一十七日、遺骨を金福寺芭蕉庵墻外の芭蕉碑の辺に納む。 〇冬、几董、江戸において夜半亭 五一七八五没 2 三世を継承す。 やゅう 六月十六日、横井也有没す ( 八十二 十月十四日、堀麦水没す ( 六十六歳 ) 。

9. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

蕪村集 % 222 きつねび 似から、この句の幻覚はむしろすなおで美しい。季語は「草枯」。 かれをばな 一狐火は冬から春先にかけて ( 蕪村句集 ) 狐火の燃えつくば かり枯尾花 出るといわれ、闇夜の山野に 見える燐火をさす。「鬼火」ともい ようやく暮れそめた野原は、見渡すかぎりばうばうと髪をふり乱したような枯 一つ二つと数限りもなくふえ、 ひとところ 尾花に覆われている。いっしか一所に青い狐火が現れたかと思うと、みるみるやがてしだいに減ってゆくという。 うちにその数がふえ、その勢いは今にも枯尾花の原に燃えっきそうだ、の意。ニ葉も穂も枯れつくした薄。安永 三年 ( 一耄四 ) の作。大魯宛書簡 ( 安 蕪村好みの妖怪趣味による幻想である。季語は「枯尾花」。 永三年九月二十三日付 ) に、この 句について「是は塩からき様なれ こんぶくじ 金福寺芭蕉翁墓 ども 、いたさねばならぬ事にて 候 . 、と自注を加えている。「塩から ひ ほとり かれをばな き」は趣向をこらす意。 ( 蕪村句集 ) 川我も死して碑に辺せむ枯尾花 一蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」 金福寺丘上の芭蕉翁の墓のほとりは、いま枯尾花に埋れている。私もいずれは ( ↓二〇二ハー ) に「四明山下の 死ぬことであろうが、その時はどうかこの碑のほとりに葬ってほしいものだ。 西南一乗寺村に禅房あり、金福寺 どじん そうなれば、畏敬してやまぬ芭蕉翁の霊魂のそば近く、永久に侍座することが といふ。土人口称して芭蕉庵と呼 すいび できるのだから、の意。「我も死して」は、もし死んだらという末来の予測でぶ。階前より翠微 ( 山の中腹の意 ) に入ること二十歩、一塊の丘あり。 はなく、むしろ強く翁の霊に仕えたいという念願を吐露したものであり、それ すなはちばせを庵の遺蹟也とそ」 だけに「枯尾花」が象徴的である。季語は「枯尾花」。 とある。墓は安永六年九月に建立 せうでう いる された「祖翁之碑」をさす。蕪村の ( 蕪村句集 ) 蕭条として石に日の入枯野かな 願いは、その死後、門人たちによ って忠実にはたされた。 ・一うりよう 見渡すかぎり荒寥とした枯野、その枯野にある大きな石のほとりに、今、冬日

10. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

げんむ ちくあ 今日庵元夢や一一六庵竹阿に師事して俳諧を学んだ。葛飾派は、江戸市中よりもむしろその周辺の農村地帯を 勢力圏とし、俳風も平俗で、農村出身の一茶が身を寄せるにふさわしい俳団であった。特に元夢や竹阿の門 集人は下総・房総方面に広く分布し、その地盤はやがて一茶の生活圏として利用されることになる。 そまる 茶大坂から江戸にもどった竹阿が、寛政二年八十一歳で没すると、一茶は葛飾派の頭領溝ロ素丸の門に転じ しゅひつやくばってき て執筆役に抜擢され、翌年四月には十五年ぶりに晴の故郷入りを果した。『寛政三年紀行』はこの旅の記録 である。さらに寛政四年三十歳の春、先師竹阿の足跡を慕って西国行脚の途に上り、遠く四国・九州まで遍 あんぎや 歴し、各地の有力俳人と会吟して俳諧の修行に努めた。この足かけ七年にわたる行脚修業のあと、俳人とし ての前途に夢と野望を賭けて江戸に帰った一茶は、竹阿の名跡を嗣いで二六庵を襲名してはみたものの、そ れが一人前の俳諧師として通用するほど、江戸は甘いところではなかった。寛政末期の俳人番付を見ると、 西国行脚で知り合った大坂の大江丸・二柳、京の丈左・月居、伊予の樗堂らが、それぞれ重要な地位を占め そうちょ - っ ており、また、のちに一茶と親交を結ぶ江戸の成美・道彦・巣兆、信州の蕉雨らも、みな十位以内にランク されているのに、一茶は東方の五十六番目にやっと顔を出す。寛政期における一茶の俳壇的地位は、その程 度のものにすぎなかったのである。 寛政十二年に旧師元夢を失い、翌享和元年には父の死を迎えることとなった。同年三月、一茶は久しぶり しようかん に帰郷して父との再会を喜んだが、翌月父は悪性の傷寒 ( チフスの類 ) にかかり、一か月ほどの病臥ののち、 六十九歳で世を去った。その間の手記『父の終焉日記』には、父の遺言による遺産分配をめぐって、継母や うずま らち 仙六との激しい反目抗争が随所に渦巻いている。この遺産問題の埒が明かぬまま江戸に帰った一茶には、あ いも変らぬ浮草のような流寓生活が続いた。しかし孤独と貧窮に耐えながら、なお江戸における俳人として せいび