271 俳句編春 ると、子供たちは「どんどやどんど」などとはやしたてる。ばらばらと天を衝や田の中に積み上げて、うたいは く火炎に、どんどん雪の降りかかるさまは、なかなかに迫力がある。「どんどやしながら焼く。農村ではその燃 えかたで一年の豊凶を占い、火勢 焼」から「どんど」と続けた頭韻がよくきき、はずみたつような気分が、声調 が高く上がると、豊年の予兆とし にも生かされている。季語は「どんど焼」 ( 新年 ) 。 て喜ぶ。 0 文政元年一一月作。 おり きはなりみか ( 七番日記 ) つくばねの下ル際也三ケの月 ゆっくりと舞い上がった羽根が、空の一点で一瞬静止し、やがてまたゆっくり と下りはじめる。その羽根の静止したあたりの空に、タ三日月が淡くかかって いたというのである。羽根の動きを追っていった視線が、一瞬ちらっと、その 三日月の影をとらえたのである。「下ル際也」は、まことにきわどい表現だが、 しろたへ 一茶の鋭く切れ味のいい感覚を思わせる。高浜虚子の句に「大空に羽子の白妙 とどまれり」がある。この極度に単純化した構図に比べると、一茶の句は、羽 根・三日月と焦点の二分する弱みはあるが、瞬間の把握のすばらしさ、的確さ そんしよく においては、遜色がない。季語は「つくばね」 ( 新年 ) 。 はるさめ ( 七番日記 ) 春雨やしたゝか銭の出た窓へ この窓は、ごっそり税金を取られた窓なのだ。だから、窓に降る春雨も、あだ やおろそかに見過すことはできない、 というのである。負け惜しみと恨みごと のまじった、苦い笑いの句である。「したゝか銭の出た窓」という言いかたに まどせん 憤懣が吐き出されている。春雨を詠みながら、窓銭に着目しているところが、 いかにも一茶らしく、おもしろい。季語は「春雨」。 ふんまん つき っ 一羽子板でつく羽根のこと。 つくばね もと衝羽根という木の実に羽 根をつけたものが、そのはじまり という。ニ初案は中七「落ちる際 也」 ( 七番日記・文政元年 ) 。 0 文 政元年一一月作。 一手ひどく。十二分に。 ニ窓銭。家の窓数に応じて賦 課された税金。日記には「春雨や ねんぐ 海見るのみの窓年貢」の句と併記。 0 文政元年三月作。
一茶の生涯で最も充実した時期であり、一茶調の最高潮期といってよい。古歌・古句のもじり、俗謡・川柳 からの取込み、俗語・方言の大胆な使用など、句法も軽妙自在を極める。詩的燃焼の稀薄な凡作もまじるが、 集その強烈な個性の表出には目をみはるものがある。談林風の軽妙な滑稽句、伝統的風雅観や風流趣味への反 茶発、明暗交錯する境涯句などの多彩な作品の中で、とりわけ都市や農村の現実をきびしく直視した生活詩・ 人生詩は、一茶によって開拓された新分野の一つである。 よそば 雪ちるや七十貌の夜蕎麦売 ( 文化七年『七番日記』 ) すす 煤はきや火の気も見えぬ見世女郎 ( 文化七年『七番日記』 ) しやくやふだ 雪ちるやきのふハ見えぬ借家札 ( 文化十年『七番日記』 ) ハけふもへる ( 文化八年『七番日記』 ) 田の厂や里の人数 鴨も菜もたんとな村のみじめさよ ( 文化十二年『七番日記』 ) 第四期は文政期であり、作品としては『八番日記』『文政句帖』などがある。この期間は一茶の最晩年に あたり、ひき続き旺盛な作句力を示しているが、大半は従来の反復・踏襲にすぎず、作風に新しい進展は求 まな められない。ただし、愛するわが子に注ぐ眼ざしや、郷土の風物を詠んだ句だけは、さすがに珠玉のような 光を放っている。 這へ笑へ二つになるそけさからは ( 文政二年『おらが春』 ) さと女三十五日墓 秋風やむしりたがりし赤い花 ( 文政二年『おらが春』 ) きゃう 秋風や磁石にあてる古郷山 ( 文政二年『八番日記』 )
俳文作品解説 かしわばら 父の終焉日記享和元年 ( 一合 l) の夏、三十九歳の一茶が故郷柏原に帰省中、父の死期をみとった、四月二十三日から五月一一 十八日までの日記。この日記には一茶の、父親への真情が吐露されており、継母や義弟仙六との対立にも筆が及んでいる。 自筆稿本として、長野県上高井郡高山村の久保田家に伝えられる。原本は無題で、「父の臨終記」「みとり日記」その他、 種々の名で呼ばれるが、大正十一年、束松露香によ 0 て『←父の終焉日記』として刊行された。 我春集文化八年 ( 一八一 D 、一茶四十九歳のときの一年間の発句・連句および随想等を記した句文集。ただし一部に文化三年 の作品が混入する。書名は巻頭の歳旦吟「我春も上々吉ぞ梅の花」によって後人のつけた仮題。自筆稿本として長野県湯 田中の湯本家に伝えられている。 おらが春一茶の五十七歳にあたる文政二年 ( 一八一九 ) の元旦から、歳末に至る一年間の、随想・見聞・発句などを収めた句文 集。一茶の没後一一十五年の嘉永五年 ( 一会一 l) に、門人の白井一之が影写覆刻した。書名は巻頭の「目出度さもちう位也おら が春」によって一之が名付けたもの。一茶晩年の円熟した境地を示す代表作で、自筆稿本は長野県中野市の小林家に伝え られている。
茶集 3 100 句意。この朝茶の味のように、淡々とした中にもうまみのある句である。「霧 おりる」に、山村らしい雰囲気がよく出ている。季語は「霧」。 一改案に「野ばくちの銭の中 ( 七番日記 ) 野ばくちゃ銭の中なるきりみ、す より小蝶哉」 ( 八番日記・文政 四年 ) とあるが、「きりみ、す」の すべてに綱紀のゆるんでいた化政期 ( 一八 0 四 ~ 三 0 ) の世相である。山村とはいえ、 ほうがおもしろい。 0 文化十一 かしわばら 街道筋の柏原あたりの風紀はけっしてよくなかった。この句も、野中にござ一年 ( 一八一四 ) 七月作。『七番日記』文化 枚敷いて行う小博奕のさまである。賭ける金も、たかの知れた銅銭ばかりであ七年五月二十日の条には、柏原の 旅宿を根城にして、ゆききの旅客 るが、そのばらまかれた銭のあいだから、きりぎりすが顔を出して、びよんび おういっ を悩ませていた流れ者の博徒八人 よん跳びはねているという、ユーモラスな、野趣横溢した賭博風景である。季 と、付近の住民との血なまぐさい 語は「きりみ、す」。 争いの記事などがあり、賭け事や 博奕は、半ば公然と行われていた いなづま あび らしい ( 七番日記 ) ”稲妻を浴セかけるや死ぎらひ 0 文化十一年八月作。同時の 「死にぎらひ」とは、並はずれて死ぬことを恐れている人間、それだけに生へ 作に「稲妻やうつかりひょん いなづま の執着の強い者をいうのであろう。「稲妻」は、経文に「是ノ身ハ電ノ如ク、 とした貌へ」がある。 とど ゆいま工っ 念々住マラズ」 ( 維摩経↓三四九ハー注一三 ) などとあるように、つかのまの人生に よくたとえられる。この無常迅速の理もわきまえず、生にしがみついている 「死にぎらひ」の上に、秋の天はことさらに稲妻を浴びせかけるというのであ る。一茶らしい皮肉なとらえかたがおもしろい。季語は「稲妻」。 青空ニ指で字をかく秋の暮 ぜに ( 七番日記 ) 0 文化十一年九月作。同じ系 8 列の句に「晴天の真昼にひと り出づる哉」 ( 享和三年 ) がある。 この青天にひく孤独な影にも、乾
ぞえてよい。季語は「ワか葉」。 あん 帰庵 集 ( 八番日記 ) 茶加の蚶我ョリ先へかけ入ぬ 旅笠にとまっていた蠅が、わが家の前まで来ると、自分より先に門ロへ駆けこ んだ、というのである。「かけ入ぬ」という急迫調が、そのときの心はやりを よく表している。家には、妻と、かわいいさかりの長女さとが、一茶の帰りを よ 待っていた。その妻子にひかれる、いそいそとした気持を、蠅に託して詠んで いるところがおもしろい。季語は「蠅」。 とがくしやま 一柏原の西方にそびえる高山 一尸隠山 で、海抜一九一一戸隠明 まっ しみづ 神を祀り、昔は修験道の道場とし ( おらが春 ) 居風呂へ流し込だる清水かな て栄えた。ニ『八番日記』には上 五「水風呂へ」 ( 文政二年 ) 。◆文 とがくしやま ーししムくもく せいれつ 戸隠山の句であるが、参詣人を泊める御師の家などの属目であろう。清冽な山政二年五月作。 ふろおけ 清水を、懸樋で、直接、風呂桶に流しこんでいる情景である。山の冷気ととも 一初案「寝並んでタ立雲の目 きき に、青い水の色が目にしみるような句だ。山中の宿坊の清涼感がよく出ている。 利哉」 ( 七番日記・文化十二年 ) 、 季語は「清水」。 再案「てんみ、に遠タ立の目利哉」 すい・ : っ ( 同日記・文化十三年 ) などの推敲 過程を経て、この定案に達したも た寝並んで遠タ立の評議哉 の。 0 文政二年作。 すゑふろ かけひ とほゅふだち こん ( おらが春 ) 一旅から帰ってくること。 0 文政二年 ( 一八一九 ) 閏四月作。 類作に「我庵の蠅をも連れて帰り けり」 ( 文化十年 ) 、「草庵にもどれ ば蠅ももどりけり」 ( 文政七年 ) な どがある。 め
281 俳句編夏 おは そらまめ ( 七番日記 ) 0 文化七年四月作。日記によると、 空豆の花に追れて更衣 ふかわ 下総行脚中に布川で詠んだ句。 しもうさあんぎや 下総行脚中の作である。田園の旅のあいだに衣がえの季節を迎えた。道ばたに ひとみ 一「寄るも触るもーという成句 空豆の花が咲いている。小さな白い花の瞳のような黒点が、葉陰からこちらを があり、「触る」が正しいし 見つめている。まるでこの空豆の花に衣がえをせきたてられているような感じ ついかなる場合にも、の意。 0 だ、というのである。童心の世界にかえったような楽しい句であり、こういう 日記の文化七年五月十九日の条に たつのこく 「雨、辰刻、柏原ニ入ル。小丸山 ときの一茶の無垢な詩心には、目をみはるものがある。季語は「更衣」。 墓参。村長・誰かれに逢ひて、我 うら さはる ふるさと 家に入る。きのふ心の占のごとく、 ( 七番日記 ) 古郷やよるも障も茨の花 素湯一つとも云はざれば、そこ / 、にして出る」という前文があ せっしよう 遺産問題の折衝のために、六十里の道をはるばるやって来た一茶は、雨のなか る。「小丸山」は亡父の墓所、「村 を柏原にはいり、亡父の墓参りを済ませ、名主嘉左衛門をたずねた。扇面真蹟長」は名主嘉左衛門をさす。別に 「扇面真蹟」には「柱ともたれしな の文によると、かねて預けておいた亡父の遺言状を取りもどすためだったらし ぬし嘉左衛門といふ人に、あが仏 いが、嘉左衛門は紛糾を恐れて渡さず、一茶はやむなく遺言状なしでわが家の さゆ の書一紙、いつはりとられしもの 門をくぐった。ところが、継母や仙六たちはそ知らぬ顔で「素湯一つ」とも言 から、 ( 中略 ) 墓より直に又六十里 ふんまん わらじ わぬありさまなので、草鞋も解かずに、そこそこに家を出た。そのときの憤懣外の東へふみ出しぬ」とある。「あ が仏の書 - は亡父の遺言状をさす。 をぶちまけたのがこの句である。故郷は、家族ばかりか、だれもかれも自分に とげ 敵意をもち、どちらを向いても棘だらけだというので、家人や郷党に対する憎 一口から出まかせをいうこと。 しみが露骨に示されている。季語は「茨の花」。 0 文化七年六月作。ほかにも、 こすみ 江戸生活への反感を示す句として、 ( 七番日記 ) あっき夜や江戸の小隅のヘらずロ 「板塀に鼻のつかへる涼み哉」 ( 文 化二年 ) 、「銭なしは青草も見ず門 涼み」 ( 文政二年 ) などがある。 江戸の市井人のむだ話である。蒸し暑い夏の夜の暇つぶしに、縁台などに腰か ころもがヘ
茶集 272 やまやき ( 七番日記 ) 一早春に山を焼くのは、枯木 山焼の明りニ下る夜舟哉 や枯草を焼き払って、若草を 昼ごろから始った山焼きの火が、燃えひろがったころには、夜のとばりがすっ萌え出させ、よい草刈り山を作る ためである。ニ『嘉永版一茶句 かりおりた。風もない穏やかな夜であろう。焼けるにまかせた山の火が、夜空 かがりびた 集』には下五「夜舟の火」。 0 文政 をあかあかと染め、山間をぬうひとすじの川を、篝火を焚いた夜舟が、音もな 元年 ( 一八一 0 三月作。 く下ってゆく。その一点の火が、山すそのあたりをゆっくりと回って、山かげ 前文「おのれらは俗塵に埋れ て世渡る境界ながら、鶴亀に に消える。山の火は、あるいは濃く、あるいは淡く闇をいろどって、夜はしだ たぐへての祝ひ尽しも、厄払ひの いにふけてゆくのである。闇と火との織りなす、美しい夜景をとらえた句であ 口上めきてそらみ、しく思ふから くづや る。日記には「山焼くや夜はうつくしきしなの川」の句と併記してあるので、 に、から風の吹けばとぶ屑家はく この句も、郷里の信濃川を下る夜舟を詠んだのであろう。季語は「山焼」。 づ屋のあるべきゃうに、門松立て ず煤はかず、雪の山路の曲り形り めでた くらゐなりニ まか ことしの春もあなた任せにな ( おらが春 ) 目出度さもちう位也おらが春 んむかへける」。一いわゆる中程 すすは 度の意ではない。あやふや、 『おらが春』の巻頭にすえられた句で、世間並に門松も立てず煤掃きもせず、 加減、どっちつかずの意の方言。 何の用意もなしに迎える正月だが、いずれ先の見えている老いの身こ、、 ししまさ ニ「わが春」に同じ。陰暦では新年 ら鶴の亀のと祝ってみたところでどうなるものでもなし、めでたさといっても と春がほとんど同時にくるので、 しい加減なもの、だからおのれの境涯にふさわしく、あるがままの姿で新年を「春」という字を新年の意にも用い 迎えよう、というのである。このころは一茶の生涯でも最も恵まれた時期であた。 0 文政二年正月作。『おらが 春』巻尾の「ともかくもあなた任せ り、働き者の妻は元気で、長女さとはかわいい盛りであった。この句も、親子 あんどかん のとしの暮」と呼応させた作。 三人そろって、ともかくも無事に新年を迎えたという安堵感と、そこから生れ 一種まきの用意に、畑の土を た平安な心境にすぎず、いわゆる悟りの境地とはほど遠いが、いかにも凡人一 掘り返すこと。ニ土筆の生 じねんほうに 茶にふさわしい自然法爾の安心境といえよう。季語は「おらが春」 ( 新年 ) 。 えた原。土筆は杉菜の胞子茎で、 あぜみち 早春のころ、日当りのよい畦道や くだ
( 七番日記 ) 0 文化十一一年二月作。現代の らふそくでたばこ吸けり時鳥 中村草田男の作に「燭の火を 煙草火としつチェホフ忌」がある。 しようしゃ タ闇もだいぶ濃くなった時分であろう。ろうそくに火をともして、縁先などで きせる この近代的な瀟洒な句に対して、 くつろぐひととき、煙管で一服吸いつけると、そのとき戸外をほととぎすが一 一茶の句はいかにも泥臭いが、そ 声高く鳴き過ぎていった、という情景であろう。妻も迎え、どうやら安定したれだけに生活に根をおろした確か 家庭生活を送れるようになったこのころの句には、しばらく人生の哀歓を離れさがある。 て、ほっと息をついた、くつろぎの気分が感じられる。季語は「時鳥」。 たうゑうた 0 文化十二年五月作。「たっ ( 七番日記 ) 藪陰やたった一人の田植唄 た一人」とか「一人きりは一 茶の頻用語で、ほかにも「はせを たうえがさ たった これは、そろいの田植笠でにぎやかにうたいはやす田植唄ではない。藪陰にあ忌と申すも只一人哉」 ( 文政八年 ) 、 やしろ る日陰田を、ひっそりと一人で植えている農婦が、つぶやくようにうたう田植「卯の花に一人きりの社かな」 ( 文 唄なのだ。「たった一人の田植唄」に、 一茶の愛憐の情がこめられている。し政二年 ) などの作例がある。 せきりようかん みじみとした寂寥感をたたえた句である。季語は「田植唄」。 うらだなすまひ 裏店ニ住居して すずかぜ まが 一『成美評句稿』には、前書 ( 七番日記 ) 夏“涼風の曲リくねって来たりけり 「うら長屋のつきあたりに住 編 みて」とある。ニ初案「涼風の横 江戸流寓時代の回想であろう。自分の住む裏長屋一帯は、家並も不揃いなので、 すぢかひに入る家哉」 ( 七番日記・ 涼風も曲りくねって、やっとのことで、いちばん奥のわが家まで吹きこんでく 文化十一年 ) 。 0 文化十一一年六月 る、というのである。おかしみといえばおかしみであるが、素直な笑いではな作。 じちょう 、。やはり一茶らしい自嘲がのそいている。しかし、「曲リくねって」という ゃぶかげ ゅうやみ すひ ほととぎす たばこび
茶集四 6 く、秋風に吹きなぶられているわびしさが、切々と迫ってくる。このころ一茶 ほんじよあいおいちょう は、江戸では本所相生町五丁目 ( 現、墨田区緑一丁目 ) あたりに仮寓していた が、それもしばらく留守にすると、ほかに転貸されてしまうような、たよりな しつわら い借家であった。郷里にも帰るべき家はなく、「家さへ持たぬ」は、、 一亡き祖母をさす。俗名かな、 ぬ実感であったろう。季語は「秋風」。 法名妙信。安永五年 ( 一七実 ) 八 月十四日、六十六歳で没した。 ほど 0 一茶は、文化五年 ( 一合 0 七月一一 ( 日記断篇 ) 8 秋風や仏に近き年の程 日、柏原に帰り、同九日、祖母の 三十三回忌を営んだ。日記断篇の 故郷で、祖母三十三回忌の取越法要を営んだときの作である。おりしも初秋で 九日の条に、「晴、老婆卅三年忌 あり、故郷の山河を吹き渡る風にも、ようやく秋の気配が感じられる。三歳の 治夜有」として、自分を愛育して ときから、母代りに自分を育ててくれた祖母であったが、思えば、亡き祖母の くれた祖母を追憶する一文があり、 年齢に、自分もいっしか近くなった、というのである。祖母の没年は六十六歳、その末尾に記された句である。 このとき一茶は四十六歳で、実際には隔りがあるが、吹きめぐる「秋風」のな 一蜩。森や林などで、高く美 かで、亡き祖母への深い慕情は、「仏に近き」と言わずにはいられないものが しい声でカナカナと鳴く。特 あったのであろう。季語は「秋風」。 にタ暮によく鳴くので、「日暮し」 という。夏から秋にかけて鳴くが、 あかる うみ ( 日記断篇 ) その澄んだ声は、いかにも秋らし 日ぐらしゃ急に明き湖の方 く、俳諧では秋季とする。ニ野 のじりこ 尻湖をさす。 0 文化六年七月作。 これも帰郷中の作で、野尻湖の印象を詠んだのであろう。山を負った湖には、 ぜみ 四月に帰国して、近隣を歩きまわ はや、秋の気配が濃い。暮れかかる水面にこだまして、かなかな嬋が鳴いてい っていた一茶は、七月十五日墓参 る。っと、雲間をもれたタ日の光が反射して、急に湖面が明るくなり、ひとし のため柏原に帰り、同十七日「晴、 きりかなかなの声も高くなった、というのである。「急に明き」は、すよや、 。し野尻ニ入ル」 ( 日記断篇 ) として、 この句を記す。 把握である。光と音の交錯するなかに、山間の湖水のひえびえと澄んだタ景が、 とり・一し かた
茶集 286 ろう第一う ほうふつ 吹く風の形容だけで、あたりの陋巷のさままでも彷彿とさせる手腕は、さすが すき であり、無造作な詠みぶりのように見えて、実は隙のない表現となっている。 季語は「涼風」。 一長男の名。日記によると、 文化十三年 ( 一八一六 ) 四月十四日 まうす 千太郎ニ申 に生れたが、五月十一日に夭折し た。この句は日記の六月の部に記 あはせ三 入してあるが、「初袷」という季語 ( 七番日記 ) 砺はっ袷にくまれ盛ニはやくなれ からしても、その生前の四月の作 であろう。ニ陰暦四月一日より、 長男千太郎が生れ、その成長を祝った句である。五十四歳で初子をもうけた一 はじめて袷に着かえること。ここ 茶の喜びはひとしおであった。無事に育ってほしいという祈りが、「にくまれ は赤子の初着を、初袷といったの 盛ニはやくなれ」という願望の形で、強くうち出されている。このとき一茶のであろう。三「七つ八つは憎まれ のうり 脳裡には、成長したわが子の初袷姿が生き生きと思い描かれていたのであろう。盛り」という諺による。 0 別に ようせつ 「小児の成長を祝して」と前書して しかし、この子も一か月たらずで夭折してしまう。季語は「はっ袷」。 「たのもしゃてんつるてんの初袷」 ( 文政二年 ) という句もある。 ( 七番日記 ) “蕗の葉 にいわしを配る田植哉 一民俗学的にいうと、田植日 の食事は田植飯または田飯と 柏原あたりの田植の実景を詠んだものであろう。平常は魚など口にしない農家 はれ たうえざかな でも、田植の当日は労苦をねぎらうために、とくに「田植肴」を用意する。海よばれて、晴の食事に属し、昼食 しおいわし は神供の意味もかねて特別に調製 に遠いこのあたりでは、むろん塩鰯であるが、それでもめったにロにはいらな たうえめし され、田植肴といって、かならず い貴重品である。田植の昼餉どきに、田の畔に運びこまれた田植飯を囲んで、 魚類や海藻などを添えた。のちに にぎやかな食事が始る。そして田植肴に用意した鰯が、蕗の葉にのせられて一 は宗教的意味は薄れて、田の人に 座の人々に配られる情景である。蕗の葉の緑に、新鮮な野趣が感じられる。季対する饗応を主とするようになっ 語は「蕗の葉」「田植」。 ふき ギ一かり・ ひるげ くろ はっ′ ) ◆文化十三年五月作。