143 連句編牡丹散ての巻 牡丹散ての巻 しし力いも・もす・もも 俳諧桃李序 一四時四巻の歌仙とは蕪村の虚 構で、事実は夏冬の二歌仙。蕪村 あり きとう いつのほどにか有けむ、四時四まきの歌仙有。春秋はうせぬ、夏冬はの几董宛書簡、ならびに几董が門 しゅんば 人の下村春坡に与えた『ももすも いふ こひニ のこりぬ。壱人請て木にゑらんと云。壱人制して日、この歌仙ありても』草稿の端書によって、この二 歌仙は安永九年 ( 一天 0 ) 三月から初 わらひ それ やゝとし月を経たり、おそらくは流行におくれたらん。余笑て日、夫俳冬にかけて成立したことが知られ る。 あり そひ 諧の活達なるや、実に流行有て実に流行なし、たとはゞ一ー円ー廓に添ニ板木に彫らん。出版しよう、 の意。 かへつおく 三闊達。物にこだわらず滞りな て、人を追うて走るがごとし。先ンするもの却て後れたるものを追うに キ、こと。 せんご 似たり。流行の先後何を以てわかつべけむや。たゞ日々におのれが胸懐四一つの円のまわり。 五見分けることができようか。 あす をうっし出て、けふはけふのはし力しし 、ゝ、こして、翌は又あすの俳諧也。題六胸中の思い。風雅の情。 セ上から読んでも下から読んで これ かいぶん も同じ回文で端がないように、 してもゝすもゝと云へ、めぐりよめどもはしなし。是此集の大意也。 の集は流行を超えたものである、 の意。 蕪村識 つき さき かせん
一茶略年譜 391 享和元一八〇一 3 9 其日庵歳旦帖に出句。三月十七日、東下した士朗を迎え、道六月、出羽に農民一揆。七月、町 ( 2 ・ 5 ) 彦・成美らと半歌仙を巻く。その後、柏原に帰る。四月二十三人百姓の名字帯刀禁止。 日、父、傷寒にかかり、病床に侍して看護。家産分配をめぐり継 母・弟と反目起る。五月二十一日、父没。六十九歳。法名、宗 源。『父の終焉日記』成る。六月十八日、野尻の関之と両吟歌仙 を巻く。 九月、江戸帰着か。 マ道彦・士朗撰『鶴芝続篇』に入集。 徳布歳旦帖に出句。この年、古暦の裏を利用した句稿が現存す一九『東海道中膝栗毛』初編刊。 る。 ニ月、蝦夷地奉行を置く。 江戸に風邪大流行。七月、諸国洪 マ白図・少汝撰『三日月集』、升六撰『面目棒』などに入集。 水、江戸大被害。十月、密貿易厳 禁。 れ本所五ッ目大島の愛宕社に住み、一茶園雲外と称す。四月二十三月二十八日、二柳没。八十一歳。 日、詩経の講義に出席。以後、詩経や易の章句の俳訳に専念。 七月、谷中延命院の破戒僧、死刑とな 同月二十八日、成美と両吟歌仙。十月三十日、梅夫・浙江と半る。十月二十六日、五明没。七十 歌仙を巻く。十一月、下総流山の双樹と両吟歌仙。 この年、三歳。 しばしば房総行脚に赴く。 〇『享和句帖』は、四月より十二月までの句日記。 マ杉長撰『水の音』、三津人撰『春の山口』などに入集。 白芹歳旦帖『甲子元除遍覧』に出句。ニ月二十五日、乙一一・道『絵本太閤記』『絵本拾遺信長記』、歌 彦と共に巣兆宅を見舞う。 三月五日、徳本上人の教化を聴聞。麿錦絵発禁。 第・ろ・寺一い 八月六日、道彦の十時庵会で亀田斎に会う。十月、本所相生一月十八日、重厚没。六十三歳。 町五丁目に移転か。 九月、露使レザノフ、長崎に来る。 〇『文化句帖』は、この年初より文化五年五月までの句日記。 町人の武芸禁止。 マ乙二撰『はたけせり』、柴居撰『蝉丸』、騏道撰『松蘿』などに入 集。 完来歳旦帖・白芹歳旦帖に出句。ニ月三日、道彦と上野に遊ぶ。一月、沿海警備令。 文化元一八〇四 ( 2 ・Ⅱ ) 二一八〇五 0 -4 4- おつに 三月十八日、
247 蕪村略年譜 安永元一七七二 三一七七四 四一七七五 六一七六九 二十三日、讃岐を出立し、帰京の途につく。 五月六日、大来堂にて三菓社句会を再開す。 正月太祇編の『鬼貫句選』に跋を寄す。 〇五月刊の太祇らの『平安二十歌仙』に序を寄せ、かつ出句。 〇三菓社句会は、一月十日から十月五日までに十四回開かれる。 七一七七〇 三月夜半亭二世を継承す。この頃、室町綾小路下ル町に住む。 〇暁台、奥州に遊ぶ。 十月一日、これまでの三菓社中句会の記録を夜半亭社中と改む。 しんばうのはる 八一七七一〇夜半亭最初の歳旦帖『明和辛卯春』を刊行する。 八月九日、炭太祇没す ( 六十三歳 ) 。 三月夜半亭の文台開きを行い、「花守の身は弓矢なきかゝし哉」十ニ月七日、黒柳召波没す ( 四十五 の句を詠む。 歳 ) 。 じゅうべんじゅうぎず 八月池大雅との合作「十便十宜図」 ( 蕪村は十宜図 ) を揮毫。 〇秋、『其雪影』 ( 蕪村七部集の一 ) に序を寄せる。 九月『太祇句選』に序を寄せる。 いさおかがんとう 六月大坂の旧国 ( 大江丸 ) 上京、円山睡虎亭に会して歌仙を興行。七月三十日、砂岡雁宕没す。 〇仲秋、「三十六俳仙図ーを描く。 〇秋、大魯、大坂へ移り、蘆陰舎 九月初旬、伊勢の三浦樗良を迎え、嵐山・几董と四吟歌仙『この を結ぶ。 たけべあやたり すいこでん ほとり←夜』 ( 蕪村七部集の一 ) 成り、蕪村は序を寄せる。〇建部綾足『本朝水滸伝』 ( 前篇 ) 刊。 〇秋、几董撰『あけ烏』 ( 蕪村七部集の一 ) 刊。 やかな 正月下旬、秋成の『也哉抄』に序を書く。 三月十八日、建部綾足没す ( 五十六 四月七日、夜半亭で暁台・几董・丈芝と四吟歌仙を興行。以後、 しばしば興行を続ける。 ほうえ 六月巴人三十三回忌追善の法会を営み、追善集『昔を今』を撰す。 八月『芭蕉翁附合集』を撰び、これに序を寄せる。 蕪村編『玉藻集』 ( 女流句集 ) 刊。 九月「秋渓雨霽図」を描く。 十月義仲寺の芭蕉翁碑前で暁台・一音・美角・几董らと俳諧興行。 三月発病。一時小康を得たが、十一月下旬よりまた悪化す。 その 三月『去来抄』 ( 暁台編 ) 刊。
蕪村集 146 たた ら祟りがあったかもしれない。 くがぢニ 雑。一長途の旅路。百里は、 百里の陸地とまりさだめず 董 六町 ( 約六五〇 ) を一里とす ーししく - もく る中国里程による漢詩的表現。 前句を旅の途上の属目と見て、その感慨を付けた。「百里の陸地」は単に長途「陸地」は「ろくぢ」とも読むが、語 の旅をいうのでなく、広漠たる大陸のイメージがある。「年ふりし」を「とま調的に「くがち」がよい。「方百里 りさだめず」とうけて、漂泊流離の感を表現している。「百里」「陸地」「とま雨雲よせぬばたむ哉蕪村」 ( 新花 り」はすべて漢詩的、古典的な情趣によって統一され、高い格調がある。この摘 ) 。 = 旅のやどり。蕪村の几董 宛書簡によれば、初案は「とまり 初表は夏の句が二句のみである。第三以下すべて「雑」で、かつ人事の句がっ わびしき」であったが、述懐の句 づき、単調である。 は表六句にふさわしくないとして 改めた。 ウうたまくらオコリおち 7 哥枕瘧落たるきのふけふ 董 雑。一歌枕。歌名所を集め た書。ニおこり ( マラリアの 前句の人を歌人と見立て、歌枕に心を寄せるさまを付けた。旅立ちも間近く、 こが 古名 ) の熱が引くことを「おこりが 歌枕に焦れる歌人の心情を、病後のさまを描くことによって表現したのである。 落ちる」という。 「きのふけふ」に、おこりの落ちた直後のおばっかない姿がある。「とまりさだ めず」に「哥枕」がよく応じている。 をだ わせ かるころ 秋 ( 早稲 ) 。一山間の田。 8 山田の 田の早稲を刈比 村 田の「小」は接頭語であるが、 おのすから小さい田の意味もふく 前句の歌人の旅体に時節と場を定めた。刈入れ時を迎えた山間の早稲田に、す まれている。ニ九月上旬に刈る みやかな季節のうつろいを見てとったのである。秋の訪れのはやい山村のさわ早場米。 やかな初秋の情感が、「瘧落たる」という、ほっとした気分と、よく映り合っ
連句作品解説 むちょう どうりゅう 菜の花やの巻『続明烏』所収。半紙本一一冊。几董編。道立序。無腸 ( 上田秋成 ) 跋。安永五年 ( 一七七六 ) 刊。橘仙堂善兵衛板。 りようが 『続明烏』は『蕪村七部集』の一。『あけ烏』 ( 安永一一年 ) の続集であるが、質量ともこれを凌駕し、『蕪村七部集』中最大 のものというだけでなく、蕪村調を確立した意義深い撰集である。『続明烏』中の連句は十二巻の多きを数え、春夏秋冬そ れそれ三巻を配している。蕪村一門における連句復興の気運を物語るものといえよう。春の部に収める蕪村・樗良・几董 三吟の本歌仙は、『続明烏』刊行に先立っ安永三年に成立している。蕪村と几董は同年三月二十三日に、前年から京都に 滞在していた伊勢の樗良と相会して、昼夜二巻の歌仙となった。昼のうちに巻いたのが本歌仙で、古典趣味、中国趣味な ど文人的風趣をもつばらとし、ゆるぎない蕪村調連句を確立している。 牡丹散ての巻冬木立の巻『もゝすもゝ』所収。半紙本一冊。蕪村著、自序。安永九年冬刊。橘仙堂板。『もゝすもゝ』は しゅんば 『蕪村七部集』の一。成立の事情は、のちに几董が門人の春坡にゆすった、『もゝすもゝ』の草稿の端書によれば、安永九 年の晩春三月から十一月初旬にかけて、往復の書簡によって句を練り、二歌仙が成ったという。 せっさたくま 師弟が往復書簡で切磋琢磨したこの二歌仙は、重厚華麗で格調高い文人趣味の作品となっており、まさに天明調を代表 する連句というべきであるが、そのかわり、付合文芸美の一側面である、即興性からくる軽快な躍動美が失われている。 漢語・雅語の使用、怪異趣味、伝奇趣味、中国趣味、日本的王朝・中世趣味など、すべて蕪村の発句と共通の高踏的な文 人趣味で、卑俗化した当代俳諧を意識した、風雅への傾斜の所産にはかならない。 作者解説 むいあん ちよら 樗良享保十四年 ( 一七一一九 ) ~ 安永九年 ( 一七八 0 ) 。三浦樗良。通称勘兵衛。別号、無為庵・一一股庵・榎本庵。剃髪して玄仲と号 した。志摩国 ( 現、三重県 ) 鳥羽の生れ。十四歳の折、父とともに伊勢山田岡本町に移り住んだ。俳諧は紀州長島の百 しらががらす 雄に学んだ。宝暦九年処女撰集『白頭鴉』を著し、同十一一年には岡本町に無為庵を結び、門人多数を擁した。明和三年 たいろ らんこうきようたい 無為庵を退き、闌更、暁台ら各地の俳人と交わり、とくに安永一一年以降は蕪村、几董、大魯らと親交を重ねた。安永五 年六月には、京都木屋町三条に庵を得て移り、中興俳壇の一翼を担う有力な俳人として活躍した。句風は平明な中に和 歌的な余情を含むものが多く、独自の詩境を確立している。編著には『樗良七部集』などがある。 らいふしんめい こうししやしゅんやろうえんギ ~ んてい きとう 几董寛保元年 ( 一七四一 ) ~ 寛政元年 ( 一七八九 ) 。高井几董。幼名、小八郎。別号、雷夫・晋明・高子舎・春夜楼・塩山亭・三世 夜半亭等。京都の人。父である巴人門の几について俳諧を学ぶ。明和七年、几董三十歳の折、請われて父几圭と同門 の蕪村に師事した。入門の翌々年、明和九年には『蕪村七部集』の一でもある父几圭の追善集『其雪影』を撰し、蕪村 りようた 門の重鎮としてしだいに世に認められた。蕪村没後、天明五年十月、師の旧友江戸の蓼太のすすめで三世夜半亭を襲名、 しせん 寛政一兀年、伊丹の士川宅で急逝した。イ 乍風は、蕪村調を墨守し、繊細な感覚をよく生かしている。 ていはっ ひやく
245 蕪村略年譜 一〇一七六〇 九一七五九 五一七五五 六一七五六 七一七五七 4 八一七五八昭 たんたい 居た。炭太祇もこの頃入洛す。 もうえっ 〇冬、毛越編『古今短冊集』に跋を寄せ、発句一入集。 をしどり 〇冬、洛北に遊び、「鴛に美をつくしてや冬木立」の作がある。 さかきひやくせん ほうらくとっぴやくいん 二一七五二三月十三日、洛東双林寺における貞徳百回忌法楽十百韻に列席八月十五日、彭城百川 ( 画家。俳諧 にも長じた ) 没す ( 五十六歳 ) 。 す。 〇秋、望月宋屋を訪ね、宋屋・稲太と三吟歌仙一を巻く。 ほごふすま 〇雁宕・阿誰撰『反古衾』に李井・百万との三吟歌仙三、発句一一 入集。 四一七五四〇春・夏の頃、京を去って丹後に赴き、三年間滞在し、画・俳六月宋阿の十三回忌に当り、江戸で は雁宕らが『夜半亭発句帖』を編 に作品をのこす。画号、四明・朝滄。 し、京では宋屋の主催で追善集 〇雁宕ら編『夜半亭発句帖』 ( 一一月刊 ) に跋を送る。 あけはす 『明の蓮』を撰ぶ。 むみようあんうんりばう 五月粟津無名庵の雲裡房を迎え、宮津の俳人らと歌仙一巻を興行 す。 〇この頃、「三俳僧図」「妖怪図巻」「李白観瀑図」 ( 五年 ) 「天橋〇其角・嵐雪五十回忌。 立図賛」 ( 七年 ) などを描く。 ひじり 〇洒落本『異素六帖』『聖遊廓』刊。 九月京に帰る。 ちはっ はなし 〇結城の雁宕上京し、追善俳諧に 四月高井几圭の薙髪賀集『咄相手』に挿絵・発句二入集。 列席す。 六月宋屋編の宋阿十七回忌追善集『戴恩謝』に追悼の発句・連句入 集。 〇この頃、趙居の雅号を用い、「棕梠図」「陶淵明図」「牧馬図」 などを描く。 六月二十一日、服部南郭 ( 儒者・詩 人 ) 没す ( 七十七歳 ) 。 りようわ 十月大場寥和 ( 嵐雪門の俳人 ) 没す ( 八十三歳 ) 。 〇秋、雲裡房より筑紫巡遊をすすめられたが同行せす、「秋風十ニ月高井几圭没す ( 七十四歳 ) 。
195 俳文編『むかしを今』序 されば今、我門にしめすところは、阿叟の磊落なる語勢にならはず、もはら一 ^ 宋阿翁。「叟」は老人の敬称。 一九小事にこだわらないこと。巴 ニ 0 これそときょ 蕉翁のさび・しをりをしたひ、いにしへにかへさんことをおもふ。是、外虚に人の作風には、静かに自然を見入 るという態度があるといわれるが、 そむ うちじっ ここは巴人が、ものにこだわらな 背きて内実に応ずるなり。これを俳諧禅と云ひ、伝心の法といふ。わきまへざ いで自然に句作した態度をいった し士このものであろう。 る人は、師の道にそむける罪おそろしなど沙汰し聞ゅ。しかあるに、、 ニ 0 芭蕉が重視した俳諧理念。こ くちつきなら ふた巻の歌仙はかのさび・しをりをはなれ、ひたすら阿叟のロ質に倣ひ、これの一節は、芭蕉の虚栗調を意識し ていったもの。 れいゐたてまっ を霊位に奉りて、みそみめぐりの遠きを追ひ、強ひて師のいまそかりける時のニ一芭蕉の説いた俳諧理念で、 「言語は虚に居て実をおこなふべ し、実に居て虚にあそぶことはか 看をなすといふことを、門下の人々とともに申しほどきぬ。 たし」 ( 風俗文選・陳情ノ表 ) といっ たと一い , つ。 一三禅の直覚的な会得の方法を、 俳諧の理解にあてはめたもの。 = 三心から心に伝える。以心伝心。 一西『むかしを今』に収める二巻の 歌仙。 一宝口調。俳風のこと。 ニ六三十三回忌。 毛言訳をする。弁明する。 かん ニ四まき わが あそうらいらく さた ニ七 みなしぐり
連句作品解説 一茶は生涯に約二百五十巻の連句を遺している。この数は、芭蕉の三百四十巻には及ばないが、蕪村の百十二巻よりもは るかに多い。蕪村以後は兼題・席題による発句の会が盛んになり、連句の制作はむしろ敬遠される傾向が強くなったが、そ おもてげい の中にあって一茶がこれだけ多くの作品を遺していることは、俳諧師の表芸としての連句の習練を重視していたことの証左 であろう。 ちよどうらんこうし その作品を通覧すると、寛政期から文化前期にかけては、西国や江戸の俳人たちとの対吟が多く、連衆も樗堂・闌更・士 ろうせいびそうちょう かたひじ 朗・成美・巣兆など、当代一流の代表的俳人たちである。それらは他流試合としての緊張感もあり、やや肩肘を張った吟調 いっぴょう のものが多いが、一茶調の確立した文化後期になると、江戸でとりわけ親交のあった一瓢との両吟などには、一茶らしい特 色が十分に発揮されてくる。 郷里帰住以後は、いわゆる俳諧寺社中との連吟が多くなるが、気心の知れた郷里の弟子たちを相手にしたものは、ずっと つけあじ くだけて吟調も自在になり、郷土色豊かな付合が随処に見られる。もとより芭蕉や蕪村の連句に比べると、付味も粗雑で、 作品としても整ってはいないが、土俗的な庶民の生活をエネルギッシュに活写しているところに、一茶調の連句のおもしろ わいぎつ さがある。庶民と一体になって、泣いたり笑ったりわめいたりするその猥雑さの中に、俳諧を底辺からまくり上げていく庶 民のしたたかな活力を感じるのである。 鳶ひょろの巻出典『西歌仙』 ( 一瓢編、文化十三年夏序 ) 。前書に「去年の冬」とあるから、その前年の十二年 ( 一八一五 ) 冬 の作である。一茶の郷里帰住後の作品であるが、『七番日記』によると、九月八日、江戸に出てきた一茶は、十月六日、 ゃなか 一瓢の居住する谷中の長久山本行寺に入り、翌七日「長久山両吟始一とあるので、この日の興行であることがわかる。一 瓢は日蓮宗の僧だが俳諧を好み、成美とともに一茶のよき理解者・庇護者でもあった。その飄逸洒脱な吟調は、一茶の俳 風に最も近く、この両吟も半歌仙にすぎないが、付合の呼吸もよく合い、軽みのある楽しい作品となっている。 しゅんははくよう 小男鹿やの巻出典『茶翁聯句集』。長沼の春甫亭で催された歌仙である。春甫・柏葉・一茶の三吟で始り、名残の表六句 目から春甫の代りに士英が加わっている。一茶の付句に「親子三人筆でやしなふ」とあるので、文政元年 ( 一八一 0 五月、 長女さとが生れ、親子三人健在であった同年秋の作であろう。『七番日記』を検すると、一茶は九月十四日、毛野から長 沼に入り、春甫亭に泊った記事があって、この推定を裏づける。一茶の俳諧寺社中は北信一帯に分布していたが、とりわ け長沼 ( 現、長野市内 ) は門弟の数も多く、有力な拠点となっていた。気心の知れた忠実な長沼連衆との連吟であり、一 茶の捌きの手腕をうかがうに最適の作品である。 けんだいせきだい な 1 」り
たびや 一 0 宿場。ここは、宿場の宿屋。 の旅舎を尋ね、「いっ / 、法 を 板 = ありがたいことに。 木三硯の銘。 師のやどりたるが、しかみ、 れ キロメ 0 一三一里は約四ートル わす 一四稀有。珍しいこと。 の物遺れおけり、それもとめ 置 にまかでぬ」といはせければ、 0 三俳仙の図に賛する淡々。 の 一五大坂の人。江戸に出て芭蕉に えきてい 石 白師事、呂国と号し、のち其角につ 駅停のあるじ、かしこくさが っ いて渭北と号し、其角没後、淡々 と改めた。宝暦十一年没。 ・刀 し得てあたへければ、得てか ももちどり いなおおせどり ぎよ のち 鯡一〈百千鳥・稲負鳥・呼子鳥。 『古今伝授』の中で、三木 ( をがた へりぬ。後雁宕ったへて、魚 まの木・めどにけづり花・かはな すずりふた 鶴といへる硯の蓋にしてもてり。結城より白石までは七十里余ありて、ことに草、など諸説がある ) とともに三 鳥と呼ばれる烏。三俳仙を三鳥に 擬した機知の句。この句は『延享 日数もへだたりぬるに、得てかへりたる、けうの事也。 二十歌仙』 ( 延享二年〈一七四五〉刊 ) の 中の渭北 ( 麦天 ) の独吟歌仙に付句 み っ として見える。渭北 ( 麦天 ) がその たんたんなほぎりともがら せうをうしんしせっちゅうぶく 花 新淡々は等閑の輩にはあらず。むかし余、蕉翁、晋子、雪中を一幅の絹に画き師淡々の発句を付句に借用したも のか、あるいは淡々が渭北の付句 を借りたものか。 文て、賛をもとめければ、淡々、 しもつけ 宅下総。ただし日光は下野国 ( 現、栃木県 ) 。蕪村の誤り。 もゝちどりいなおほせ鳥呼子どり いまいち 一 ^ 下野国今市の富豪。安永六年 、」こん につくわう はいせん 三俳仙の賛は、古今、淡々一人と云ふべし。今、しもっふさ日光の、珠明と ( 一 ) 没。 かく よぶこ しゅめい
蕪村集 246 明和元一七六四 年号西暦年齢 宝暦一〇一七六〇 五一七六八 四一七六七 51 50 48 47 蕪村事項 の動かして行く案山子かな」の句を詠む。 〇冬、「清蔭双馬図」を描き、長庚の雅号を用う。 三月「雪景山水図ーを描く。 四月二十七日、雲裡房没す ( 六十九 〇雲裡房追善の歌仙興行に出座。 歳 ) 。 マ文素の撰による右の追善集『烏帽子塚』 ( 明和一一年刊 ) に右の十一月松木淡々 ( 其角門 ) 没す ( 八十 歌仙入集。 八歳 ) 。藤井晋流 ( 其角門 ) 没す ( 八十二歳 ) 。 〇樗良、宇治山田に無為庵を結ぶ。 〇芭蕉七十回忌。 四月「春秋山水図」を描く。春星の雅号を用う。 八月「野馬図」を描く。 マ以後三年ほどは画事に専念する。 六月「山水図」を描く。 十一月「柳塘晩霽図」を描く。 〇「何遜堂図」「渓山帰廬図」など六点の画作がある。 〇春、旅に出て京不在。 三月十二日、望月宋屋没す ( 七十九 六月二日、寺村百池の大来堂で蕪村を盟主とする俳諧の結社「三 しよどうききみみせけんぎる 菓社ーの第一回句会を開く。連衆は、太祇・召波・鉄僧 ( 百〇上田秋成『諸道聴耳世間猿』『世 てかけかたぎ ーしげーしげや 池 ) ・竹洞・印南・蛾眉・百墨など。 間妾形気』刊。近路行者『繁野 さめき 九月より翌春にかけて、絵行脚のため讃岐に滞在す。 三月京に帰り、宋屋一周忌追善集『香世界』 ( 武然編 ) に一句を寄す。 五月讃岐へ行き、一年間滞留す。 マ「秋景山水図」「水辺会盟図」を描く。 〇三月刊の『平安人物志』画家の部に名を掲げられ、住所は「四三月秋成の『雨月物語』の稿成る。 条烏丸東へ入ル町」とある。 〇暁台の『秋の日』成る。 ふすまえ 四月丸亀の妙法寺で襖絵「山水図」を描く。 関連事項