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検索対象: 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集
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1. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

きふ とより貧しくて、衣食に給するてだても尽き、相しる人もなければ、たのみよ一厚意を寄せて。 ニわだちの中で苦しんでいる魚。 るべきょすがもなくてありしを、余わかゝりし時、いさゝかこゝろざしをはこ困窮に迫られている意。『荘子』外 物篇に見える。 集 ほんそう びて、轍魚のうれひをたすけ、とかくして月並の俳席をまうけ、西に東に奔走三毎月の例会。「俳席」は俳諧を 村 四 五 興行する座敷、句会の席。 はじんりとうれうわごじゃく 蕪して鼓吹しければ、巴人、吏登、寥和、午寂などをはじめとして、たれかれあ 0 早野氏。下野国 ( 現、栃木県 ) の人。江戸で其角・嵐雪門。門下 から蕪村が出た。寛保二年 ( 一七四一 D つまりけるほどに、のち / 、は草庵にこばるゝばかりなみ居っゝ、めでたき俳 没。 五桜井氏。江戸の人。嵐雪門 席となれり。 宝暦五年 ( 一七五五 ) 没。 もくさいせいが 麦天、本意とぐべきをりを得て、やがて黙斎青峨が門に属して、名を渭北と六大場仁左 ( 右 ) 衛門。江戸の人。 嵐雪門。宝暦九年没。 あらた セ人見氏。江戸の人。其角門 更め、万句の式ことゆゑな 寛保元年 ( 一七四一 ) 没。 ぶんだい ^ 二世青蛾。前田氏。江戸の人。 く、文台のあるじとなれり。 せんとく ろ 一世青蛾 ( 沾徳門 ) 門人。延享三年 あ ( 一七四六 ) 没。 で おのづから作家の名高く、諸 ち 九実際はなお淡々門にあったと 人き、元文二年 ( 一七三七 ) 渭北と改号、 侯の門にも出入りて、ことに 後同四年、万句の式を催した。 ときめきたり。されば田褊北、 一 0 連歌・俳諧の一体で、百韻を 百巻重ねたものをいうが、実際に 一ニれんれんの は千句を一単位として十回行った。 故人恋々情を謝せんがため の = 点者の列に加わること。文台 っ は、歌会や連歌・俳諧の席で、短 に、右の角がふみを余にゆづ 持 てつぎよ つきなみ あひ 九 ゐほく

2. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

蕪村集 160 かどたた の 七ッ限リ く音 敲 いんせい 前句の尼君の隠栖のさまに対し、その場と時を定めた。「七ッ限リ」と時刻を おもむき 定めて門を閉ざすさまに、小寺ではあるが由緒ある尼寺の厳格端正な趣がある。 下の句に、ほとほとと案内を請う音を配して、清閑な寺のたたずまいを強調し づる つけあい ている。『付合てびき蔓』に「前句、尼といへるに寺と趣向を定め、七ッ限に 門をとざすとせしが一句の作也」とある。 スクヒ かて 雨のひまに救の粮やおくり来ぬ 前句の「門敲く」を非常の場合と見て、救援米の搬入の体を付けた。雨のわず ひょうろう かな晴間を利して、救援の兵糧を送り込んだのである。「七ッ限リ」を、戦時 体制の門限に転じ、「門敲く音」の用を「救の粮ーと定めたのである。この句 す・い・う 初案は「送り来て」であったが、「おくり来ぬ」と推敲して、切迫感を強めて 董 弭たしむのとの浦人 のと 前句の「救の粮」を運ぶ人を、「のとの浦人」と見立てた。能登と見定めて、 へきえん ) 、うきばくとっ 北国僻遠の潮風に鍛えられた、剛毅朴訥な浦人のイメージをもたらしている。 おもかげ 「弭ーを好んで身につけているところにゲリラの面影がある。「たしむ」の古語 は「弭」にふさわしい古風な印象を添えている。 ッノュミ 村 雑。一弓の両端の筈を、鹿 や牛の角で作った弓。ニ「た ひょうかん しなむ」の古語。三剽悍な石川県 能登半島の漁師。 雑。一午後四時かぎりに閉 ざす門 雑。一雨の晴間。ニ救援の 食糧。

3. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

レつつしマンこれヲ クメパヲチ 多読レ書則書巻之気上升、市俗之気下降矣、学者其慎レ旃哉。それ、画の俗 0 俳人たるものの心構えを説く。 を去るだも、筆を投じて書を読ましむ。況や、詩と俳諧と、何の遠しとする事一『芥子園画伝初集』の成家に見 えるが、蕪村の引用は多少異なる。 集 諸名家は門を分ったり、戸を立て あらんや』。波、すなはち悟す。 村 たりせずして、流派は自然に生じ あるひ おのおのもんこ わか てくる、の意。 蕪或日又問ふ、『いにしへより俳諧の数家、各々門戸を分ち、風調を異にす。 ニ心の詩嚢にたくわえる。 だうあう 三俳諧の理想郷。 いづれの門よりして歟、其堂奥をうかゞはんや』。答へて日く、『俳諧に門戸な 四宝井其角。芭蕉門。都会趣味 ただこれ またこれ チヲテこヲ おういっ の横溢した闊達な作風をもった。 し。只是俳諧門といふを以て門とす。又是画論に日く、諸名家不 = 分レ門立」尸、 編著に『虚栗』ほか、句集に『五元 おのづかラリト / ニ いちなうちゅうたくは 集』がある。宝永四年 ( 一七 0 七 ) 没。 門戸自在 = 其中→俳諧又かくのごとし。諸流を尽してこれを一嚢中に貯へ、 三服部嵐雪。江戸の人。其角と したが ただ そうへき みづから其よきものを撰び、用に随ひて出す。唯自己の胸中いかんと顧みるの並び蕉門の双璧。発句集に『玄峰 三集』がある。宝永四年没。 まじは 外、他の法なし。しかれども常に其友を撰みて、其人に交るにあらざれば、其六山口素堂。甲斐 ( 現、山梨県 ) の人。江戸に出て儒学・和歌・書 と きゃう きかく 郷に至ることかたし』。波問ふ、『其友とするものは誰そや』。答ふ、『其角を尋道を学び、芭蕉とも親交があり、 蕉門の客分であった。享保元年 らんせっと そだういぎなおにつら ね嵐雪を訪ひ、素堂を倡ひ鬼貫に伴ふ。日々、此四老に会して、はつかに市城 ( 一と六 ) 没。 セ上島鬼貫。伊丹の人。蕉風に みやうり 名利の域を離れ、林園に遊び山水にうたげし、酒を酌みて談笑し、句を得るこ先んじて「誠の外に俳諧なし」と説 いた。元文三年 ( 一七三八 ) 没。 、 ) と たふとかくのごとく また とは専ら不用意を貴ぶ。如此する事日々、或日又四老に会す。幽賞雅懐はじめ ^ 名聞や利害にはしる俗世間。 九静かな楽しみと風雅な心境。 たちまち 、レ」′ま ごせきへきのふ のごとし。眼を閉ぢて苦吟し、句を得て眼を開く。忽四老の所在を失す。し一 0 蘇東の『後赤壁賦』の「道士 ほか な 0 ス えら いはん いだ この た いうしゃうがくわい こと その

4. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

年号西暦年齢 元文四一七三九 集 五一七四〇 村 蕪寛保元一七四一 % 蕪村事項 〇十一月跋のある其角・嵐雪三十三回忌集『桃桜』 ( 巴人撰 ) に 宰鳥の号で発句一が入集。 〇終、筑波山麓に遊び、「つくばの山本に春を待」と前書した 「行年や芥流るゝさくら川」の吟がある。 . しもう↓ - ゅう・き がんとう 〇秋、江戸を去り、下総結城の俳人雁宕のもとに寄寓した。 しんが マ結城には雁宕のほかに巴人門の先輩早見晋我やその子の桃 あすいせつこう 彦・丈羽・楚江らが居り、下総の関宿には阿誰・淅江父子、 ふう - 一う ひたちしもだて 常陸の下館には風篁・大濟らの先輩が居た。 〇以後十年、野・総・常・武の間を遊歴し、さらに奥羽にも足 跡を印した。 三一七四三 〇京の巴人門宋屋の撰に成る宋阿追善集『西の奥』 ( 五月刊 ) に宰〇芭蕉五十回忌。京の東山に芭蕉 わがなみだ 鳥の号で「我泪古くはあれど泉かな」の追悼句を寄す。 堂建立。 〇春、宇都宮において『歳旦帖』を出板。 延享元一七四四 マ処女撰集であり、この時、宰鳥の号を蕪村と改む。 一一一七四五〇「北寿老仙をいたむ」 ( 晋我追悼曲 ) を作る。 三一七四六引 〇十一月頃、江戸にあり、芝増上寺の裏門あたりに住む。 〇冬刊行の『西海春秋』 ( 浅見田鶴樹撰 ) に発句・連句入集。「川 寛延元一七四八 かげの一株づつに紅葉哉」 〇この頃までに「追羽子図」「漁夫図」「寒山拾得図」などを描き、〇寺村百池 ( 蕪村門 ) 生る。 二一七四九 きんろぎようじゃ はなぶさぞうし 「子漢」「四明」の雅号を用う。 九月怪異小説『英草紙』 ( 近路行者 ) 千・ ごしきずみ 三月『続五色墨』 ( 素丸・蓼太ら編 ) 刊。 宝暦元一七五一〇初冬の頃、京に移住す。 マ京には巴人門の宋屋・随古・几圭・嘯山・武・移竹らが まっ きとう 〇高井几董生る。 六月六日、巴人没す ( 六十六歳 ) 。 正月二十八日、早見晋我没す ( 七十 五歳 ) 。 関連事項

5. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

よ 杖の没後は結城に帰った。安永二年 り。さて余にはかりて、「毫 ぐきようじ 七月没。同地の弘経寺に葬る。 このしょ 首 を = 佐久間氏。幕府旗本の武士。 釐もたがはず、此書をうっし せんとく ′一しき 袋 はじめ沾徳門、長水と号し『五色 陀 おっゅう 得させよ」といへるを、容易 墨』の一人として活躍、のち乙由 門。延享五年 ( 一七四 0 没。 に , つけ・、がひっゝ、 いまだ業も 三筑波山権現に参詣すること。 装一三常盤氏。下野 ( 現、栃木県 ) 烏 はじめずありけるほどに、し 、を第蜘旅山の人。医を業とし、其角門。延 村享元年没。 ゅゑ と 一四いまの群馬県。 さゝか故ありて余は江戸をし 一五『おくのほそ道』に「松島は扶 潭 りそきて、しもっふさゆふき 桑第一の好風にして」とある。「好 風」はすぐれた風景。「おもてをは がんたう にちゃ りうきょ一ニば の雁宕がもとをあるじとして、日夜はいかいに遊び、邂逅にして柳居がつく波らふ」は目をみはる、の意。 一六陸奥国北端の海辺。青森県津 あ あるたんほくかうづけ まうでに逢ひて、こゝかしこに席をかさね、或は潭北と上野に同行して、処軽地方海沿いの地。 宅昔、中国の合浦郡の太守が貪 かうふう そとはま み処にやどりをともにし、松島のうらづたひして好風におもてをはらひ、外の浜欲であったため、その海の明珠が もう・ー ) トでつ 一セ 他へ移ってしまったが、孟嘗が代 ~ 化たびねがつば って太守となると、明珠がふたた 新の旅寝に合浦の玉のかへるさをわすれ、とざまかうざまとして既に三とせあま び還ってきたという故事 ( 後漢 せいさ・つ 文りの星霜をふりぬ。さればかの百万、いかで我帰江を待つべき。やがて亀成な書・孟嘗伝 ) 。「帰る」の序詞。 ぞんぎ 一 ^ 江戸の人。山本氏。存義門 とうしゃ るものに謄写せしめ、木にゑりてつひに世にひろうせり。すなはち今の世に行宝暦六年 ( 六 ) 没。 一九 一九少し、わずか。秋には獣類の これ しうが・つ はるゝ五元集是なり。原本と引きあはせ見るこ、、 レしさゝか秋毫のたがひもあら毛の先が細くなることからいう。 どころ りん が ^ う 九 わが かいこう すでみ きせい ところ ずみ どん

6. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

またしんが おきな ふうくわう 又、晋我門人といへる翁有りけり。一夜風篁がもとにやどりて、書院にいね 0 風篁の屋敷に泊。て狐にばかさ れる早見晋我。 ながっき せんぎいち たり。長月十八日の夜なりけり。月きよく露ひやゝかにて、前栽の千ぐさにむ一早見氏。下総国 ( 現、茨城県 ) 集 結城の人。名は素順。通称、次郎 しのすだくなど、ことにやるかたなくて、雨戸はうちひらきつ、さうじのみ引左衛門北寿と号した。はじめ其 村 角門、のち介我門。延享二年 ( 一七 しかう 蕪きたてふしたり。四更ばかりに、はしなくまくらもたげて見やりたるに、月朗 ) 没。七十五歳。俳詩「北寿老仙 をいたむ」 ( 一 ↓一三ハー ) はその死 を悼んだもの。 明にして宛も白昼のごとくなるに、あまたの狐、ふさ / 、としたる尾をふりた ニ佐保氏。通称、孫四郎。普 ひろえん そのかげ てて、広縁のうへにならびゐたり。其影あり / 、とさうじにうつりて、おそろ船・甘雨亭と号し、芭蕉門で其角 と親交があった。享保三年 ( 一七一 0 たゞは没。 しなんどいふばかりなし。晋我も今はえそたゆべき。くりやのかたへ、 三書院造りの表座敷 しりにはしりいでつ、あるじ 四陰暦九月。 五もともと「集る」意だが、後世、 「鳴く意に多く用いる。 のふしたる居間ならんとおば ーレ 六気をはらす方法がない、言い つまど 声 しき妻戸をうちたゝきて、 ようがない、などの意であるが、 や ここは感にたえすして、ほどの意。 っ セ午前二時ごろ。 「くは / ( 、おき出で給へ」と 通 ^ はからずも。ふと。 夜 声のかぎりとよみければ、し 九どうして我慢できようか 人 一 0 厨。台所。 もべ等めさまして、「すは、 = 「くは」は「こは」と同じく一種 婆 老の感動詞。これは、さあ。 賊のいりたるは」と、のゝし 下三声高に騒ぎたてる。 ぞく あたか きつね らう

7. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

ききよかんだん ながのり かりけりとぞ。それが中に、めでたき文章の角がふみ有り。起居寒暖を問ふこ浅野長矩の仇を報いたこと。 九幕府の職煮・高家」の誤記かと ほっく いう。吉良は高家の筆頭。 とはもとより也。次に、をりからの発句二、三章かいつけ、さてその次の段に 一 0 東京都港区芝の曹洞宗万松山 なにがし たちょうち ば、つくん 日く、「こたび何月某の日は、義士四十七士、式家の館を夜討して、亡君のう泉岳寺。赤穂浅野氏の菩提寺。 = 大高源吾。↓ 一七七ハー注一六。 せんがくじ しえふしゅんばん ひ せん らみを報い、ねんなふこそ泉岳寺へ引きとりたり。子葉、春帆など、ことに比三富森助右衛門。名は正因。沾 徳門。元禄十六年、細川邸で切腹。 このひごろ きへん 類なきはたらき有りたり。かの両士は此日来、我が几辺になれて、風流の壮士一三秋田藩能楽師。「新八郎」が正 しい。其雫門。元文五年 ( 一七四 0 ) 没。 なれば、わけて意気感慨に堪へず」など、書きっゞけたり。まことにたときふ一四中国の代表的美少年。何晏は 三国時代の魏の人。観る人が道に あふれたという。司馬懿に殺され み也とて、其雫さうなく秘蔵せられたり。 た。董賢は漢時代の雲陽の人で、 ふかみしんたらう かあんとうけん びどう そのころ深見新太郎といへる有り。何晏、董賢も恥づべきほどの美童也けり。哀帝の寵を得た。 そとうば 一五衆道の契り。蘇東坡が富陽新 きてきこの りせっすい 。し力しを城に赴くとき、美童李節推が東坡 其雫、此少年をあはれみ、蘇李のちぎりふかゝりけり。此新太郎、よ、、、 を風水洞に迎え、恋を語った故事。 え ぢゃうしゃう いだ み好きて丈菖といへり。かの角がふみを得まくおもひて、ロにはえ云ひも出さで漢の蘇武と李陵が互いに詩を贈答 っ したという深い友情とも。 その としへ たんたん 一六大坂の人。淡々門、のち江戸 新有りしを、其雫その心を悟り、やがて其ふみを得させたり。其後年経て、淡々 に出て、二世青蛾の門。別号、消 ナょには 」ほか。宝暦五年 ( 一七 ) 没。 文が弟子に麦天といへるあり。浪花より秋田に行きて、しばらく客居せり。丈菖、 一セ東京都千代田区内神田。江戸 すド ) ん ~ い 麦天がはいかいに心酔して、又そのふみを麦天にゆづりたり。それより麦天、時代、筋違門外の筋違橋より浅草 橋に続く柳原堤。「負郭」は城郭を 1 とうと ゃなぎはら 東都に来り、柳原といふ負郭の地に、あやしきやどりをもとめて住みけり。も背にすること。 ばくてん ふくわく そり しきけ この

8. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

蕪村集 232 ころ り画を好み、年をつみ、南北一一宗を写得し、終に筆あり墨あるの携にいたれり。はた弱冠の比より俳諧 あつめ ふけ しんし 。か - つまい に耽り、蕉翁・晋子の高邁を慕ひ、かたはら諸家の支流にわたり、縦横自在なる事集て大成すといふべ はじん やはんてい し。明和のはじめ、京師に再び先師巴人の業をつぎて夜半亭と号し、花守の身は弓矢なきかがし哉。爰 り一かさま すくな において其風調をしたひ、履を倒にして門に入るもの少からず。然ども元来習俗に触るる事を厭ふの癖 とぢ あれば、なべて世の人と交る事のものうしと、門戸を閉、画室にこもり、はつかに同調の徒と志を通し、 こころかなふ なかなか 意を適に遊ばんとて、中々にひとりあればそ月を友。 几董は蕪村に最も親しく仕え、感化をうけた門人であるから、その記述の内容は信頼できよう。「いはけ なき」は幼少の意、「弱冠」は二十歳の別称であるから、文字通りに解すれば、幼少にして画を好み、二十 歳の頃に江戸へ下ってから俳諧をたしなむことになる。 そうあ 蕪村が夜半亭二世として先師巴人 ( 宋阿 ) の後継者となったのは、明和七年 ( 一七七 0 ) 五十五歳の時であり、 それより彼の風調を慕って入門者がふえた、と几董は記している。蕪村の夜半亭継承は、同門の先輩高井几 圭の遺子几董を夜半亭三世とすることを条件に、無理に押しつけられたものと考えられる。そのことは前出 の「然ども元来習俗に触るる事を厭ふの癖あれば : : : 」という一節がこれを証していよう。 蕪村は俳諧宗匠として門一尸を張り、豪富を誇示するよりも、ひとり画事に専念することを好み、かたわら、 どうりゅう わずかな同調の士と俳諧を楽しむという姿勢であった。そのことは『から檜葉』によせた道立の追悼文に その 「むかし翁、生業を平安の地に創起する時、人或は誦せざるをもて、いまだ信ずる事あたはす。其意趣高妙 もと なるがゆゑに、其門に入もの、その意に達せずして師に悖る。翁謝して日、履戸に満っとも何の益そ。閉戸 しかれ その その つひ しかれ

9. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

蕪村集 224 に生じてくる、と。俳諧もまたこのようなものである。諸 いっそのこと、相手も知らず自分も意識しないうちに、自 然に変化して俗を離れる近道はありますまいか』。私が答流の作風を学び尽して心の詩嚢の中にたくわえ、みずから そのよいものを選び、必要に応じて取り出す。ただ自分の えて言うのに、『それはある。漢詩を研究するのがよろし あなたはもともと漢詩が巧みである。他に近道を求め胸の中が俗を離れたかどうかと考えてみるよりほかに方法 ーを十 / . し てはならない』。すると召波は疑ってまた進んで質問した。 。しかしつねに良い友を選んで、その人と心を通わ すのでなかったら、離俗の境に至ることはむずかしい』。 『そもそも漢詩と俳諧とはいささかその趣が異なります。 それなのに俳諧を捨てて漢詩を読めとおっしやる。まわりすると召波がきいた。『その友とするものはだれなのでし そどう きかく らんせつ ようか』。そこで答えた。『其角を求め、嵐雪を探り、素堂 道ではありますまいか』。私は答えた。『画家に去俗論とい せんだっ おにつら うのがある。説いて言うのに、画道で俗を去るには他の方の作を口ずさみ、鬼貫に随う。毎日この四人の先達に会っ 法はない。多く書物を読むと書物の精神が高揚してきて低て、いささか名聞利害の俗世間を離れ、木の茂った園に遊 び、自然の中に酒宴をはり、酒を酌んで談笑し、句を得る 俗な心は下降してしまう。道を学ぶ者はこれに気をつける この にはもつばら心を用いないことを尊ばねばならない がよい、と。そもそも画道で俗を去ることすら、絵筆を捨 ようにすることを毎日かさねて、ある日また四人の先達を ててまず書物を読ませるのです。まして詩と俳諧とでは、 思う。静かな楽しみと風雅な心境はいつもの通りである。 まったく遠いこととはいえない』。即座に召波は理解した。 目を閉じて苦吟し、句ができれば目を開く。するとたちま ある日また私に問うた。『昔から俳諧の宗匠たちは、そ ち四老が見えなくなってしまう。仙人となってどこへ行っ れそれ流派を分けて、俳風を異にしています。どの流派か たかわからない。 うっとりとして一人たたずんでいる。そ らはいって、その奥深い所をうかがいましようか』。私は 答えて言った。『俳諧には門戸がない。ただ俳諧門という のとき花の香が風とともにただよい、月光が水に浮ぶ。こ れがあなたの俳諧の芸術郷である』。すると召波は納得し のを門としている。またこのことは画論にも言っている。 諸名家は門を分ったり戸を立てたりしないが、流派は自然て微笑した。 こと しのう

10. 完訳日本の古典 第58巻 蕪村一茶集

113 俳詩編北寿老仙をいたむ きみ 君あしたに去ぬゅふべのこゝろ千々に なん 何そはるかなる ゆき ②君をおもふて岡のべに行っ遊ぶ をかのべ何そかくかなしき ほくじゅらうせん 北寿老仙をいたむ なん をか ちぢ 0 本文の改行は原文のままに従ったが、それそれの詩を 構成する連の冒頭には、便宜のために、番号を施した。 しもうさ はやみしんが 一俳人、早見晋我の別号。晋我は下総国 ( 現、茨城県 ) ゅうき 結城の素封家であり、蕪村にとって巴ん門のはるか先輩 に当る。その子の桃彦・田洪も同じく巴人門で風交があ った。延享二年 ( 一七四五 ) 正月二十八日、晋我は七十五歳で 没したが、その追悼曲としてこの詩が献ぜられたのは、 それより間もないことで、蕪村三十歳の春のころと考え られる。 ニ「去ぬ」は「さりぬ -J とも読めるが、蕪村のいくつかの 句例により「いぬ」と読む。 ①あなたは今朝にわかにこの世を去られました。彳し 麦こ残 された私は、夕方になるとさまざまありし日のことど もに思い乱れて耐えがたいほどです。どうしてあなた はそんな遠い所へ行ってしまわれたのでしよう。 ②あなたの切ない思い出に誘われて、かって共に遊んだ ことのある丘のあたりに行ってみましたが、悲しさは かえって募るばかりでした。 れん せつ つの