である。ただ一つ『五元集』だけは作者の生前に出したも のである。発句集は出さないでもよいなどと思われる。句 新花つみ 集が出てのちには、すべてこれまでの名声や栄誉は減ずる ばくりんしゅう げんばうしゅう ごげんしゅう ものである。『玄峰集』や『麦林集』なども、世間に面目 『五元集』は其角の自撰であって、もとより自分の筆でき はん - もレ」 ない心地がするのである。 れいに書き写して版元に与え、世に広めようと思っていた まして普通の連中はいうまでもない。よい句というもの ものであるから、十分に精選したものであろう。そうでは あるが、その集も読んでみると、大部分はわかりにくい句はきわめて得がたいものである。其角は俳人中の李白とよ ばれたものである。それでも、さまざまある句のうち、立 ばかりで、よいと思う句はまことにまれである。そのなか みで世間によく知られているのは、いずれも平易であって意派だといわれるものは二十句に足らないと思われる。其角 の句集はわかりにくい句が多いけれども、読むたびにあき 花味のわかる句である。そうしたわけで、作者が心のうちで、 新 ることがないと思われる。これが其角のすぐれている点で 「この句はよくできている」と得意に思っているものでも、 らいら・く ある。ともかく句は磊落であるのをよしとすべきである。 文たいへんむすかしくてわかりにくいものは、闇の夜に錦を 『麦林集』などは、よい句もあるが、読んでゆくうちに、 着ているようなもので、役に立たないしわざというもので 3 あろう。 まもなく厭わしい気持がしてくる。 『五元集』は其角がこの世に出そうと計画したもので、み 他の宗匠たちの句集を見ると、多くは没後に出したもの しんはな きかく 蕪村俳文 やみ
つけあい 蕉一座の連句には、一巻の基調として濃密な現実性が漂っていたし、その付合も付として余情が重視され ろうまん ているが、蕪村一派の作品では、浪漫的なものが主調となり、付合の運びも隠微な余情をさぐるというより 彼の発句の性質につながる点でもある。 集は、もっとあらわな印象的構成を選んでいる。このことはまた、一 村 俳文では、『新花つみ』「『春泥句集』序」「洛東芭蕉庵再興記」などに、達意な筆力が認められる。 蕪 参考文献 『蕪村集一茶集』暉峻康隆 / 川島っゅ日本古典文学大 ①本文 系岩波書店昭三四 『蕪村自筆句帳』尾形仂筑摩書房昭四九 『蕪村集』大谷篤蔵 / 岡田利兵衛 / 島居清古典俳文学『与謝蕪村集・小林一茶集』栗山理一 / 中島斌雄古典日 本文学全集筑摩書房昭三五 大系集英社昭四七 『蕪村秀句』水原秋桜子春秋社昭三八 評論・研究 『近世俳句俳文集』栗山理一 / 山下一海 / 丸山一彦 / 松尾 『与謝蕪村』大礒義雄俳句シリーズ桜楓社昭四一 靖秋日本古典文学全集小学館昭四七 『詩人与謝蕪村の世界』森本哲郎至文堂昭四四 『与謝蕪村』安東次男日本詩人選筑摩書房昭四五『連歌俳諧集』金子金治郎 / 暉峻康隆 / 中村俊定日本古 典文学全集小学館昭四九 『潁原退蔵著作集』第十三巻中央公論社昭五四 『座の文芸蕪村連句』暉峻康隆小学館昭五三 注釈・評釈 『与謝蕪村集』潁原退蔵 / 清水孝之日本古典全書朝日『与謝蕪村集』清水孝之新潮日本古典集成新潮社昭 五四 新聞社昭三一一 『蕪村・一茶』清水孝之 / 中村草田男 / 栗山理一日本古『蕪村集』村松友次鑑賞日本の古典尚学図書昭 五六 典鑑賞講座角川書店昭三一一 こおいづけ
茶集 390 年 号 西 年 一茶事項 関連事項 寛政八一七九六 4 3 養』に入集。七月、升六編・一茶校『冬の日注解』成る。再徳布『素丸発句集』刊。 び四国に渡り、松山城内の観月の会に列し、冬より翌春にかけて、八月、破戒僧を処罰。 樗堂としばしば両吟歌仙を巻く。 マ奇淵撰『松風会』に入集。 都雀歳旦帖・絢堂歳旦帖に入集。春、松山を辞し、夏より秋に蕪村『新花つみ』刊。 かけて、備後福山に滞在。それより京坂へ向う。 八月、仙台領に農民一揆。九月、 マ闌更撰『月の会』、自楽撰『千秋楽後篇』、石人撰『霜のはな』な宝暦暦を廃し、寛政暦を頒布。 どに入集。 一〇一七九八大和長谷寺で迎春か。春、東帰記念集『さらば笠』を出す。 三馬『辰巳婦言』絶版となる。 六月二十六日、大津に赴き、辛崎・堅田を巡遊。七月、木曾路ニ月、諸国人別帳差出令。五月三 を経て東に帰り、八月、江戸帰着か。九月、郷里に帰省。同日、闌更没。七十三歳。十ニ月、 月より『急逓記』を記し始める。十月十日、下総馬橋の栢日庵近藤重蔵、蝦夷地探検。 めゅう * 、 立砂と真間手児奈堂に遊ぶ。 ▽駝岳撰『みつのとも』、尺艾撰『なにはの月』、丈左撰『題苑集』 などに入集。 浅草八幡町の旅宿で迎春。徳布歳旦帖・法雨春興帖などに入集。一月、三馬と版元、鳶人足に襲われる。 ニ月、改版『さらば笠』を各地に発送。晩春より甲斐・北陸行三月、北辺の防備を固める。六月 脚に赴く。十一月二日、立砂の臨終に侍して「挽歌」を作る。村落の興行物禁止。 マ八千坊撰『俳諧十家類題集』、万和撰『松内集』、升六撰『花柑 子』などに入集。 庸和歳旦帖『庚申元除楽』に出句。一一六庵を継ぎ、その庵号を使用。秋成『春雨物語』成る。艶二『南 ほかに徳布歳旦帖・我泉歳旦帖にも入集。ニ月二十七日、夏目門鼠』絶版となる。 成美との付合二句あり。両者同座の連句の初見。七月二日、今伊能忠敬、測量のため蝦夷地に赴く 日庵元夢没。七十四歳。 マ升六撰『題葉集』、亨撰『塵窪』、耒耜撰『菊の香』などに入集。 一二一八〇〇 九一七九七肪 一一一七九九 せいび
蕪村集一茶集 6 6 送り仮名については、俳文編のみ、活用語尾を送り、他は原形を残して、難読語には読み仮名を付し 底本のカタカナについては、俳文編のみ、適宜ひらがなに改め、他は原形を残した。 8 反復記号についても、「々・ゝ・ / 、」などは原形を残した。 いずれも、短詩形の字配りを伝えるための配慮である。 一、俳句編では、配列に従って句番号を付した。俳詩編では、各作品を構成するプロック毎に番号を付し た。連句編では、作品毎に句番号を付し、さらに懐紙にしたためられた状態を知るためのよすがとして、 該当する句の句番号の右横に、ウ ( 裏 ) ・二 ( 二ノ折表 ) などの略号を記した。 一、『蕪村集』『一茶集』の各巻末には、解説・年譜・初句索引を付した。 解説では、作者の生涯と芸術について説き、末尾に、比較的入手しやすい参考文献を掲げた。 年譜には、作者の生涯の主要な出来事を網羅し、また同時代の関連事項と対比できるようにした。 初句索引は、『蕪村集』『一茶集』について、別立てとし、収録するすべての句 ( 七・七形の付句も含 む ) を、五十音順に配列した。 一、本書の校注・評釈には、既刊の注釈・評釈書から、多くの示教を得た。主要なものは、参考文献として 紹介したが、 もとより掲げ尽せるものではない。 ここに、先学に対し謝意を表する次第である。 3 2 1
茶集 394 年号西暦年齢 文化八一八一一 四で越年。 〇『我春集』は、この一年間の手記。 マ一瓢撰『物見塚記』、閑斎撰『俳諧道中双六』、素丸十七回忌集 『青ひさご』などに入集。 九一八一二下総布川で迎春。一月二十三日より、守谷西林寺にあって、鶴四月、松平定信、退隠。五月十六 老と歌仙を巻く。 ニ月十五日、江戸に帰る。 三月二十七日よ日、士朗没。七十一歳。六月、浮 り、房総各地を行脚。四月三日、上総富津で花嬌三回忌に列し、浪者取締令。八月、高田屋嘉兵衛、 追善集を編む。五月八日、江戸帰着。同月十七日、随斎会で露艦に捕えられる。 一日百句を作る。六月十八日、柏原に帰り、本陣を宿とする。 遺産分配の交渉のためか。八月十八日、江戸帰着。同月一一十 七日、一峨方で甲州の一作、京の素玩に会う。九月八日、道彦 を訪う。十月一一十七日、・・流山の双樹没。その葬儀に参列。十 一月二十四日、柏原に入り、借家で越年。この年、一峨の今日 庵再興に助力し、その記念集『何袋』の序を書く。 〇『株番』は、この一年間を主とする手記。 マ恒丸大祥忌集『玉笹集』、梅寿撰『ほしなうり』、素玩撰『滑稽深 大寺』などに入集。 其日庵歳旦帖に出句。一月十九日、亡父の十三回忌を営む。 この年、全国豊作。幕府、大坂商 同月二十六日、明専寺住職の調停で、遺産問題につき仙六と和解成人より百万両の用金を取り立てる。 立。これより柏原に定住。四月九日、関之と地震の滝見物。 五月、露艦、高田屋嘉兵衛を送還。 六月十八日より、善光寺桂好亭で癰を病み、臥床七十五日。九同月十六日、松井没。八月十二日、 月十二日、柏原に帰る。十月十二日、長沼経善寺の芭蕉忌に出長翠没。九月、露艦長ゴロウニン 座。同月二十九日、湯田中に入り、希杖・其翠と三吟。十ニを釈放。同月三日、升六没。十 月八日、長月庵若翁、中村観国方で没。八十歳。魚淵撰『木槿月十三日、善光寺町に米騒動。 集』 ( 一茶七部集の一 ) 刊。 一茶事項 関連事項
茶集 388 寛政元一七八九 ( 1 ・ ) 年号西暦年齢 安永六一七七七新 七一七八七 関連事項 一月、信濃の高井・水内両郡の農民、 代官に強訴。五月、農民の都市出 稼ぎを禁止。九月、農民の徒党・ 強訴を厳禁。 この年、相模藤沢の堀内千砡が自邸内に菅神廟を再建、その奉納吟七月六日、浅間山大噴火。十一月、 そまる 中に素丸と共に肥喬の名が見え、あるいは一茶の前身か。 浅間山麓の農民蜂起。十ニ月二十 五日、蕪村没。六十八歳。 十一月、連俳の秘書『白砂人集』を小林橋の名で書写する。この三月、家斉、十一代将軍となる。 頃すでに一一六庵竹阿の門に入り、上野根岸辺にあった二六庵に出入五月、米価騰貴、江戸・大坂の市民蜂 りしていたらしい 起。六月、松平定信、老中に就任。 八月、三か年間倹約令。九月七日、 蓼太没。七十歳。 四月、今日庵安袋 ( 後に元夢 ) 撰『俳諧五十三駅』刊。菊明の号で一月、徒党禁止令出る。四月、丁 十二句入集。一茶の前身と推定される。八月、法眼苔翁 ( 安袋銀新鋳。 か ) より『俳諧秘伝一紙本定』を譲られ、奥書に蝸牛庵菊明と署名。 同月、風後撰『百名月』に一句入集。 一月、玄阿 ( 元夢門 ) の立机記念集『はいかい柳の友』に一句入集。この年、黄表紙に発禁絶版が多い。 今日庵執筆を勤める。 三月、風後撰『花勧進』に一句入集 三月、衣服調度の奢侈禁止。十月 同月、元夢撰『俳諧千題集』成る。同書正月部・三月部に一茶号で一一十三日、几董没。四十九歳。 三句入集。以後この号を用いる。八月九日、奥羽行脚の途次、 かんまんじ 象潟の蚶満寺を訪い、『旅客集』に菊明の名で句文を残す。 一一一七九〇三月十三日、一一六庵竹阿、本所の竹屋弥兵衛方で没。八十一歳。ニ月、出版取締令。五月、異学の 四月七日、葛飾派三世溝ロ素丸の門に入り、年末にはその執筆役と禁。九月二十三日、初代川柳没。 なる。 七十三歳。十月、洒落本版行禁止。 マ素丸撰『夏孟子論』、馬光五十回忌集『霞の碑』、素丸撰『秋顔 八一七八八 一茶事項
蕪村集一茶集 小学館
蕪村集一茶集 日本の古典学 日本の古典 定価 1 , 700 円 I S B N 4-0 9-5 5 6 0 5 8-4 C 1 5 9 5 \ 1 7 0 0 E
著者紹介 羅した『蕪村全集』を編纂されている。 栗山理一 ( くりやまりいち ) 松尾靖秋 ( まつおやすあき ) 明治四十二年、佐賀県生れ。昭和八年、広島文理科大学大正四年、宇和島市生れ。昭和十六年、早稲田大学国文 国語国文学科卒。近世文学専攻。現在、成城大学名誉教学科卒。現在、工学院大学教授。主著は『芭蕉論攷』 授、俳文学会代表。主著は『俳諧史』『芭蕉の俳諧美論』 『近世俳人』『近世俳句俳文集 ( 日本古典文学全集 ) 』 ( 共 『小林一茶』『近世俳句俳文集』 ( 共著 ) 『俳論集他』 ( 一一著 ) 等。海外流出の日本文献の調査及び海外の俳句事情 冊とも日本古典文学全集 ) 等。富士を望む高台のお宅で、 視察のための渡欧を重ねていられる。 園芸と美術鑑賞を楽しむ日々を送られている。 暉峻康隆 ( てるおかやすたか ) 編集室より 明治四十一年、鹿児島県生れ。昭和五年、早稲田大学国☆第八回配本『蕪村集・一茶集』をお届けいたします。そ 文学科卒。近世文学専攻。現在、早稲田大学名誉教授。れそれの俳諧復興期に傑出した両俳人の代表作を、ご堪能 主著は『西鶴ー評論と研究』『蕪村ー生涯と芸術』『井原ください 西鶴集一・二 ・三 ( 日本古典文学全集 ) 』 ( 共著 ) 『現代語訳☆次回 ( 五十八年八月 ) 配本は『古事記』 ( 荻原浅男校 西鶴全集』『座の文芸蕪村連句』等。教育テレビ注・訳定価千七百円 ) です。イザナギ、イザナミ二神の 「お達者くらぶ」レギュラー出演、講演旅行の合間には国生み神話などは、あまりにも有名ですが、それにも増し 海外の美術館めぐりなどをされている。 て、嫉妬深い皇后のために仁徳天皇がさんざんに悩まされ、 丸山一彦 ( まるやまかずひこ ) 臣下の謀反事件まで引き起した話、実の妹と通じたために かるのみこ 大正十年、足利市生れ。昭和十九年、東京文理科大学国追放され、ついにはともに命を絶った軽皇子の話など、古 語国文科卒。現在、宇都宮大学教授。主著は『一茶全集』代人の生ま生ましい営みが臨場感に満ちた筆致で描かれて ( 共編 ) 『小林一茶』『近世俳句俳文集 ( 日本古典文学全 います。 集 ) 』 ( 共著 ) 等。現在は、蕪村の全作品と周辺資料を網巻末に、神代から推古天皇までの系図を付しました。 むほん
5 凡例 凡例 一、本書は、芭蕉以後の代表的俳人、蕪村と一茶の主な作品を集めて、一巻に収めたものである。前半の 『蕪村集』と、後半の『一茶集』とは、それそれ独立して読まれるに便な体裁をとっているが、併読され るとき、芭蕉以後の俳諧の展開をたどることができる。 一、『蕪村集』は、俳句編・俳詩編・連句編・俳文編から成り、『一茶集』は、俳句編・連句編・俳文編から 成る。俳句編は、四季の順に配列し、句の下に出典を明記した。 各編の扉裏には、収録作品についての解説を施した。 一、本文は、底本を忠実に活字化することを旨としつつ、読解の便宜のため、次の諸点を考慮した。 底本にある漢字を仮名に、仮名を漢字に改めることはしなかった。 本文の仮名づかいは、歴史的仮名づかいに統一することを基本とした。 3 清濁のよみは、当時の発音に拠り、新たに濁点を施した。 底本の旧字体の漢字や略字・俗字・異体字などは、現行漢字に改めることを原則としつつ、貞 ( 顔 ) などはそのままにして、底本の形を残した。 底本の漢字で読み誤りやすいものには、できるだけ読み仮名を施し、その仮名づかいは歴史的仮名づ 力しに拠った。