茅屋「芭蕉庵」のイメージを置けばよいのか、予見できぬ ままに、新宿から都営新宿線に乗った。隅田川の下をくぐ もりした りぬけ、森下で下車。階段を駆けおりてきた娘さんが、手 日本の古典 に朝顔の鉢を下げているのも下町らしい 第巻芭蕉旬集 地上に出ると、暑い梅雨曇り。大通りにはひっきりなし ・昭和年 9 月日に車が流れ、歩道せましと自転車が置かれて、その間を縫 うようにして人間と自転車とが通っている。都会の騒音の 真っ只中に放り出されて、いったいこのコンクリート・ジ 深川芭蕉記念館ー古典文学散歩ー ャングルのどこへ行くべきなのか、少々とまどい気味であ ちよき った。粋な深川へ「猪牙で通う」どころか、地下鉄で運ば 尾崎左永子 れてくる現代なのだからむりもないが、深川はすでに大都 東京で「深川」といえば、昔から粋でいなせで気っ風が会の一角として喧燥のなかに呑みこまれてしまっているの 、というイメージがある。江戸城から辰巳の方角 ( 東である。 さて気をとり直して、地図を頼りに、芭蕉記念館をめざ 南 ) にあたり、辰巳芸者といえば、格は高くはないがその しんめい きょすみ でんばう す。清澄通りをちょっと下って右折すると、深川の神明さ 歯ぎれのよい伝法な口調とともに、独特の魅力があった。 みこしぐら 素足に塗り下駄、粋に羽織をひっかけた深川の芸者は、江まの前に出た。りつばな神輿庫がずらりと並んでいる。氏 戸の色男たちの心をそそった。堀割が縦横に走り、昔は大子十一町の神輿が、三年ごとの本祭りの時には勢揃いして、 きな木材を浮べて貯木する木場があった。木場の男衆が張夜明けから町を練るのだ。こんなところにも江一尸下町の伝 じゅろうじんまっ りのある声で唄う「木遣り」は、今に江戸情緒を伝えるも統が遺っていた。深川七福神のひとっ寿老人も祀っている。 ののひとつである。 正月には、七福神めぐりをして、七福神の土鈴を集めるの この粋な土地柄のどこに、破れ芭蕉の下で雨もりのするも一興であろう。 月報 きぶ ばうおく のこ
深川退隠 あぶら ところが、どうしたことか、そんな社会的にも、精神的にも、最も充実して脂の乗りきった延宝八年の冬、 みまた 集桃青は江戸市中の宗匠生活をあっさり放棄、深川三つ股の辺りに退隠してしまった。年来の願望であった俳 にんきか 蕉諧宗匠の立机後、わずかに二、三年しか経っていないのである。おそらく、俳諧宗匠になってみて、人気稼 ぎよう こきやく 業の俳諧宗匠が、先生とは名のみで、その実、顧客である門人の機嫌を伺う商人にすぎず、文学固有の価値 は無残にも金銭の価値に従属させられるという事実を、嫌というほど思い知らされ、宗匠であることを潔し としなかったからであろう。いわば、社会全体が拝金主義に傾いてゆく世相の中で、先に述べた文化の商品 化の波が、俳諧の文学性や遊戯性の岸をひたひたと洗い始めたのである。 わびずき しかし、原因はそれだけではない。 この侘数寄・草庵好みという隠逸志向は、ひとり芭蕉たちのものでは なく、当時の上級武士や富裕町人の喫茶をめぐる趣味や美意識と多くの点で共通しており、例えば京におけ しゅうふう しもやしき る三井秋風の山荘の構想、江戸における上級武士の下屋敷の設計等とみごとに照応していたと考えられる。 ちくどう この点に関して、とりわけ注目すべきことは、桃青の親友であった山口信章 ( 素堂 ) が、人見竹洞など江戸 の儒者と親交があり、江戸の文化人たちのそんな趣味・嗜好をよく知っていたということである。 ふかがわ しのばずのいけちはん 桃青の深川退隠に先立っこと一年、その素堂は上野不忍池池畔に退隠、文人趣味豊かな草庵生活を始め た。当然のことながら、当時その草庵に出入りしていた桃青や谷木たちも、またひとかどの隠逸気どりで しゅうわ 句の酬和 ( やりとり ) を試みている。 すうせい 桃青の深川退隠は、このような時代の趨勢にうながされたという一面もあったとみられる。最初その草庵 はくせんどう かんかそうどうおもかげしの は「泊船堂」と名づけられた。遠く成都西郊の杜前の山居、浣花草堂の俤を偲び、その詩句「窓含西嶺千 せいと い」一よ
がしら 名月や くる潮頭芭蕉三日月日記 一沖からさして来る潮の波頭。 海の満ち潮が、ふくれ上がっ て隅田川に逆流してくるさまで、 小文庫 ( 泊船集・ 名月や 門にさし込潮がしらばせを 逆流してくる潮の波頭。ニこの 蕉翁句集 ) 第一う - 一う そうあん 句形は、芭蕉が別に作ってみたの 八月十五夜の名月が皎々と照り輝き、隅田川の川べりにあるわが草庵の門ロの かもしれないが、また江戸で詠ん あたりには、折からの満ち潮がひたひたと寄せて来て、その波頭が月光に光っ だ句形が上方へ伝わる間に誤伝さ ていることだ。季語は「名月」で秋。この年の五月に成った新芭蕉庵も、旧芭れたのかもしれない。 0 『芭蕉庵 おなぎがわ 三日月日記』の名月の句三十七句 蕉庵のほど近くにあったようで、隅田川の東岸小名木川が隅田川に流れ入る、 また の最初に掲げてあり、自信のあっ いわゆる三つ股のほとりの川べりにあった。隅田川もそのあたりはもう河口に た句であろう。元禄五年秋、新芭 近いから満潮、ことに秋の大潮の時には、東京湾の海水が逆流してきて、川の 蕉庵の名月のさまを詠んだ句で、 水位が上がり、「門にさし来る」感じであっただろう。情景が生動している。 八月十五夜の名月の後、一、二日 が潮の一番高くなる時といわれる。 天には皎々たる名月の光、地には満々とふくれ上がってくる隅田川の潮のさま、 いぶき 新芭蕉庵は、隅田川の川幅が広く 自然の息吹がそのまま伝わってくるようである。 また なっている「三つ股」の東岸にあり、 そのあたりは水の流れもゆるく、 深川夜遊 河口に近いので、満潮の時は海水 が逆流し、水位が上がる。 たうがらし 深川 ( 陸奥鵆・泊 五青くても有べき物を唐辛子芭蕉船集・染糸・蕉翁 句集 ) 一深川の芭蕉庵で、俳諧の連 元 句の会をして遊んだという意 唐辛子の実が、青いままでもよいものを、秋になって、こんなに真っ赤に色づ 編 味。 0 『深川』 ( 洒堂編、元禄六年 句 いていることよ。それぞれに季節の移りゆきに従って、自分なりの営みに励ん いたいた 刊 ) にこの句を発句にした、芭蕉 らんらんたいすい でいる。そうして、こんなみごとな赤い色になる。なんだか痛々しくさえ思わ ・洒堂・嵐蘭・岱水の四吟歌仙を れる、おのがじしの営みよ。季語は「唐辛子」で秋。脚注にあるように、上方収める。元禄五年九月下旬の作。 しやどう から江戸へはるばる出府した洒堂を迎えての俳席の発句であるから、洒堂への九月六日夜、上方から芭蕉庵に着 めい か は や う さし かど ある こむ
四俳句編 ( 天和元年 ) ばうしやフヲ 茅舎買レ水 ニ氷片の実の味であるとともに、 『虚栗』芭蕉跋にいう「世に拾はれ こほりにが エンそ 虚栗 ( 橋守・泊船 ぬ」味を具体的に示したもの。 氷苦く偃鼠が咽をうるほせり芭蕉集書入・絵大名・ 真蹟懐紙 ) 三『荘子』逍遥遊篇「偃鼠ハ河ニ飲 えんそ ムモ腹ヲ満タスニ過ギズ」による。 もぐらもち 草庵の買い置き水は凍りやすく、ほろ苦い味がするが、それでも偃鼠のような 偃鼠は黄河で水を飲んでも、腹一 私ののどを潤すにはこと足りる。もともと「買レ水」という題に答えた句であ杯飲むだけで、満足する。 そうじ って、草庵生活の貧窮ぶりを直ちに侘びた句ではない。だから『荘子』の語に しんり 一深川芭蕉庵。ニ櫓のきし すがりながら、事々しく知足安分の境涯を誇示しなければならなかった心裡の る音。一句全体を漢文訓読的 不安を読み取ることのほうが肝心である。季語は「氷」で冬。 措辞でまとめるため、「櫓の声波 ヲ打つ」と端的にいった。状況と しては、岸を打ち舟を打っ波の音 深川冬夜ノ感 があり、寒天に響く櫓の音がある。 こゑ 天和・貞享のころには「胡馬雪ヲ 櫓の声波ヲうって腸氷ル夜ゃなみだ芭蕉 鳴」 ( 武蔵曲 ) 、「さくらを舞」 ( 虚 栗 ) 、「笠に詩ヲ着ル」 ( 同 ) 、「香ヲ 折ル」 ( 同 ) などの語法が流行した。 櫓声波を打てはらわた氷る夜や涙 ゅめみとせ 0 『夢三年』には「寒夜の辞」と題す みつ はらわた る前文、「深川三またの辺りに草 櫓ー声波をうって膓氷る夜は涙 庵を侘て、遠くは士峯の雪をのそ み、ちかくは万里の船をうかぶ。 こぎゅく 冬夜の感 あさばらけ漕行船のあとのしら浪 あし に、蘆の枯葉の夢とふく風もやゝ 続深川集 櫓の声にはらはた氷るよゃなみだ くれすぐ 暮過るほど、月に坐しては空しき 隅田川畔の草庵で、寒酸孤独の思いにふるえながら、冬夜の川面に冴えわたる樽をかこち、枕によりては薄きふ 櫓の音、ものを打っ波の音を、じっと聞き染めていると、腹の底まで凍てつくすまを愁ふ」がある。 ろ はらわた よ 真蹟懐紙 歴代滑稽伝 武蔵曲 ( 泊船集・ 夢三年 ) なく ま なみ
ものである。それが受験勉強の妨げになっていたのか、ほ どよい慰安になっていたのか、そこのところは、自分でも よく分らない そんなある日のこと、学校からの帰り道、私は町の本屋 で、『荒地詩集一九五一年版』を見つけた。そして、開巻冒 頭の序文「 X への献辞ーを読むうち、私は次第に興奮し、 確実に混乱していった。自分でも自分が上気していくのが よく分った。しばらくは、急に駆けだしたくなる焦りを、 じっと我慢していなければならなかった。乏しい小遣いを はたいて、これを買い求めたことはいうまでもない。いま 堀信夫 見ると、奥付の脇に、稚拙な文字で「一九五一年十月十八 5 しき′ ) 人には、気恥ずかしいことだが、一度は他人に語ってお日、於くるみ屋購入」という識語が書きつけられている。 かなければならないこと、あるいは語っておいたほうがい 親愛なる >< : ・ あまり人目につかぬ僕達の仕事を、好意をもって見 い体験の一つや二つはあるものだ。以下は、最近ゼミの学 生に求められて、ふと漏した「私の心の十字架」。 守ってくれる君は、今迄どのような詩によっても、心 かって九州の片田舎で受験勉強に熱中していたころ、私 から満足したり、感動したりしたことがなかったであ の机右にはいつも受験参考書にまじって、幾冊かの詩集が ろう。そして君はほんの偶然から、僕達の詩を読んで 散らばっていた。アポリネール『動物詩集』 ( 堀ロ大学訳 ) 、 みることになったのかも知れない。しかしたまたま僕 西脇順三郎『あんばるわりあ』、中原中也「在りし日の歌』、 達の詩が、君の眼にふれる機会を持ち、君の精神のな 金子光晴『落下傘』など。、 しまになって思えば、じつにい がい遍歴の過程に於て、たとえ一時とはいえ時を借り ろいろな傾向の作品を、手あたり次第に読みあさっていた たということは、単に偶然ではないように思われる。 清澄庭園入園は時まで。月曜休。入園料百円。 ー一九六八。 臨川寺 0 三ー六四一 * 深川七福神 / 富岡八幡宮 ( 恵比寿 ) 、円珠院 ( 大黒天 ) 、竜 光院 ( 毘沙門天 ) 、冬木弁天堂 ( 弁財天 ) 、深川稲荷 ( 布 袋 ) 、心行寺 ( 福禄寿 ) 、深川神明宮 ( 寿老人 ) 。 私の心の十字架
33 俳句編 ( 天和三・四年貞享元年 ) 天和三年 ( 一六八三 ) 癸亥 ( 四十歳 ) ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて がしは 続深川集 あられきくやこの身はもとのふる柏 あられ ふたたび結んだ芭蕉庵で、屋根にたばしる霰の音をしみじみと聞きながら、 そうあん 「草庵は新しくなったが、この身は、あたかも冬木にすがるもと柏のように、 わ 代りばえせぬまま世を経ることだ」とただただ思い侘びている。俳風革新の激 しぐれ しい渦中にあったころの芭蕉の自省である。「時雨の宿」の観相は和歌・連歌 以来の伝統であるが、「霰の宿」の観相は珍しい。季語は「あられ」で冬。 天和四年 ( 一六会 ) 甲子 ( 四十一歳 ) 貞享元年醐」 たっ しんねん一 はる立や新年ふるき米五升ばせを あは 似合しや新年古き米五升芭蕉翁鵲尾冠 であろう。季語は「雪」で冬 こめ 真蹟短冊 ( 三冊子 ・蕉翁句集 ) 一最初の芭蕉庵は、天和一一年 十二月二十八日の大火で類焼。 翌三年冬に知友・門弟たちの尽力 により再建された。なお『続深川 集』梅人の跋文に「ふたゝびばせを 庵を造りて、霰きくやの観相は : ことある。つまり、この句は観 相の句である。ニ柏は若葉が芽 ぶくまで、古葉が枯れながらも落 ちず、だいたい初夏に散る。これ を「もと柏」という。「霰」に「柏」は 縁のもの ( 類船集 ) だが、「ふる」も また縁語となっているか はぎかいき 一米は端境期を境にして新 米・古米と呼び分ける。ここ のように、旧年から持越しの米を 「ふるき米」と呼ぶ例は珍しい しやくびかん えつじん ニ『鵲尾冠』には編者越人の書き添 えた前書「歳旦此発句は芭蕉江 カマビスシキウミ 府船町の囂に倦、深川泊船堂に 入ラれしつぐる年の作なり。草堂 のうち茶碗十ヲ・菜刀一枚・米入 ひ寺ン」 るゝ瓢一ツ、五升の外不レ入、名 を四山と申候」がある。これによ れば延宝九年 ( 一六八一 ) 作。ただし、 しぎんのひさご ほく - 一ん 「四山瓢」は天和三年の冬、北鯤が
し、その『虚栗』の編集に、一門が没頭していた天和二年の歳暮のこと、深川の芭蕉庵は江戸の大火のため か 類焼、芭蕉はしばらく難を甲斐の谷村に避けなければならなかった。其角の伝えるところによると、芭蕉は はかな りんせんあん 集この時初めて人の生命の儚さを悟ったという ( 芭蕉翁終焉記 ) 。あるいはこの前後、大悟徹底すべく、臨川庵 . 句ぶっちょう 蕉の仏頂和尚のもとに参禅していたかもしれない。なお、焼失した草庵は、門人・知友らの芳志により、天和 三年九月、もとの芭蕉庵近くに再建されていた。 幸い、『虚栗』の刊行は、新進気鋭の集団蕉門の存在を、天下の人びとに強く印象づけた。確かな手ごた えもあった。しかし、その反響がどうであれ、芭蕉個人はこの時、新しい表現論と実作の間に、ある種の難 題を抱え込んだことを自覚して、ひどく緊張していた。というのも、「無為自然」を重んじる『荘子』が、 技巧・作意との絶縁を強く芭蕉に迫ってきたからである。 『野ざらし紀行』の旅 貞享元年八月、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅に出かけた理由として、去年死亡した母の墓参りということ も数えられるが、主たる目的はあくまで右にいう難題の解決ということであっただろう。だから、道みち芭 しつよう 蕉は無心の境地で、無作為の句を詠む試みを執拗に繰返している。ことに江戸から東海道・伊勢・伊賀上 やまと おうみ みのおおがきぼくいんてい 野・大和・吉野・京・近江を経て、九月末、美濃大垣の木因亭にたどり着くまでの前半に、その傾向が強い そのことを記した『野ざらし紀行』の前半は、さながらその実験報告書の趣がある。その後、芭蕉は尾張に 出て名古屋俳人を相手に『冬の日』 ( 芭蕉七部集・第一 ) を完成、年末年始は再び郷里に帰り、一一月以降、奈 はいあんぎや 良・京・近江・尾張と俳行脚を続け、四月末、木曾路を経て深川の草庵に帰り着いた。 あけ いっすん 明ばのやしら魚しろきこと一寸 ( ↓六四 ) アポ
芭蕉句集 1 すす げぎ が、さすがに今日は袴を着けて下座ながら、もっともらしい様子で控えている。 季語は「えびす講」で冬。「着せにけり」は、夷講が酢売りのような小商人に しわすぶくろ まで袴を着せた、の意。『師走嚢』に「遊宴酒興の余り、酢はじかみの狂言な どせし時の句と見えたり」とあり、以来その説によるものが多いが、従いがた おおだな いっちょうら 。大店の夷講に、出入りの酢売りが一張羅の袴をはいて、酒宴の取持ちなど をしているのは、本人はけっこう楽しんでいるのだろうが、 はたから見るとま 一隅田川の現在の新大橋の少 いちまっ た一抹のあわれがある。 し川上に架けられた新大橋。 元禄六年七月下命、同年十一一月七 しんりゃう′」く 日渡り初めがあった。長さ京間百 新両国の橋かゝりければ 間 ( 約二〇〇 ) 、幅三間七寸 ( 五 しもぢかな 余 )。芭蕉庵の少し川上にでき みな出て橋をいたゞく 霜路哉 たので、芭蕉には非常に便利にな った。今までは渡し船に乗るか、 ずっと川上の両国橋に回り道をし 芭蕉句選 有がたやいたゞひて踏はしの霜 ていた。ニ『芭蕉句選』に「武江の かか 新大橋はじめてかゝりし時の吟な 両国橋の川下に新しく深川の大橋が架って、たいへん便利になった。人々は皆 りと聞侍る」と頭注して出す。「み やって来て、ありがたい感謝の心持で橋の霜の路を踏むことである。季語は な出て」の別案か。 そのたより なかば 「霜路」で冬。『其便』に「深川大橋半かゝりける比 / 初雪やかけかゝりたる橋 一煤掃きは、新年を迎える準 の上芭蕉」とあるのは、まだ架橋中の様子を詠んだもので、隅田川の向こう 備に、一年間たまった煤や埃 岸に住み、渡船で往来していた芭蕉としても、この新大橋には関心が深かった を払うことで、江戸では当時、十 もののようである。 二月十三日にそろって行った。煤 すすおさめ 炭俵 ( 元禄七・五・払いとも、煤納ともいう。西鶴の おの たな だいく せけんむわぎんよう 一四付芭蕉宛去来 煤はきは己が棚つる大工かな芭蕉 書簡・陸奥鵆・泊『世間胸算用』に「毎年煤払は極月 船集 ) 十三日に定めて : ・」とある。 あり ころ 泊船集書入 ごくげつ
今日は夷講の日で、町通りの商家はもとより、深川のような郊外も、お祭気分をつける。当時、「かり」は雅語で、 で、道を通る人々も外出着の人が多い。そんな中を、雁をかかえて声をあげて口語としては「がん」がふつうだっ たから、この振売りの男も「がん」 売り歩いている男がある。その雁の、首をだらりと垂れた姿の、いかにもあわ ゅうゆう と発音していたのであろう。 れであることよ。季語は「えびす講」で冬の句。平生は悠々空を飛んでいるの 四「えびす」と書くべきところ。夷 に、死んで振売りの男に売物にされている雁があわれげであるというのだが、 講は陰暦十一月二十日または十月 雁はかなり大きな鳥であるから、死んでだらりとしたさまが、見る人に痛まし 二十日 ( 十九・二十日と両日する しちふくじん い感じを与えるのである。また、空飛ぶさまを平生なっかしい気持で仰ぎ見てこともある ) に七福神の一神であ えびす る恵比須を祭る行事。商家では商 おり、詩文でも読んでおり、自分でも句に作っている鳥が、売物にされている 売繁盛を祈って鯛を神前に供え、 ことにも、あわれを催したのであろう。しかも、にぎやかな夷講の日であるだ 客を招いて酒宴を催す。また各地 けに、一層あわれである。だから「あはれ也」は、直接には「鳫」であるが、 の恵比須を祭る神社では祭礼が行 寒空の下の振売りの男のあわれさにも、おのずから響いている。そうしてまた、われ、参詣の人々で町はにぎわっ 周囲がにぎやかな、お祭気分であるのに、そのにぎやかさに浸りきれない芭蕉 の目が「あはれ」を捉えたのである。だから「あはれ」はまた芭蕉の心情でも きよりく あろう。許六が「深川独坐」とあえて前書を付したのも、にぎやかな祭の日の 中で、さびしい気持でいる芭蕉の心情を思いやったものかもしれない。ただし この句は日常的な素材をさらっと受けとめている句で、深刻ぶったところはな 年 。それがこのころの芭蕉の軽みの作風である。なお次に掲げる「ゑびす講」 禄 の句も同日の作で、句会の発句に二つ作ってみたのであろう。 元 一「えびすと書くべきところ。 - ) うす・うり はかま ↓ = 九六の注四。◆前句と同日 詢鰤ゑびす講酢売に袴着せにけり芭蕉続猿蓑箔船集 ) の作。なお前句を発句とした四吟 しぐれ 歌仙の脇句は「降てはやすみ時雨 えびすこう 今日は、夷講の日で、大きな商家に、人々が集って、にぎやかに酒宴が行われする軒野坡」であるから、当日 こあきな てんびんばう はしぐれ模様だったかもしれない。 ている。平生天秤棒をかついで小商いをしている酢売りの姿もその中に見える とら がん がん
59 俳句編 ( 貞享三年 ) ら佳興に酔うたことである。実際に池をめぐって夜を明かしたかどうかは、さ 一深川芭蕉庵をさす。当時、 江戸では初雪を賞し、雪見船 して重要な問題ではない。「夜もすがら」は、良夜の清影を愛する心の深さを を仕立てたり、茶会を催したり、 言おうとして工夫された、俳諧の言葉のあやである。中七の「池をめぐりて」 うそぶ 雪のためにぎやかな遊楽をする者 、古今の詩歌を嘯く余情がある。季語は「名月」で秋。 があった。草庵の初雪を見たいと けんそう いう願いは、そのような喧噪を嫌 わが そあり 、閑かな草庵で隠者らしい初雪 我くさのとのはっゆき見むと、よ所に有 の味わい方をしてみたいという意 ても空だにくもり侍れば、いそぎかへる ニしはすなか 味もあったのであろう。ニ中の ことあまたゝびなりけるに、師走中の八 ふり 八日は十八日の意。陰暦十二月十 日、はじめて雪降けるよろこび 八日の初雪は、江戸でも遅いほう あつめ句 ( 続深川 さいはひあん である。初雪を待っ心の強さは、 集・続虚栗・泊船 はっゆきや幸庵にまかりある 集・今日の昔・蕉あながち降る日の早晩に関係はあ 翁句集草稿 ) るまいが、やはり遅い初雪であれ ば、それだけそれを待ち得た喜び 初雪がちらちらと舞いはじめた。いっか芭蕉庵の初雪の景趣を、心ゆくまで味 も、またひとしお大きかったこと わってみたいと願っていたのだが、幸い今日こうして草庵にゆっくり腰を落ち であろう。三「あり」「おり」の謙 着けている折に初雪が降ってきたことだ。初雪という無用の風趣に興じる狂者 譲語。あります。おります。 のさまを、「まかりある」という改った口調により、句のふりにふり出したと ころがおもしろい季語は「はっゆき」で冬 一暖地に自生するひがんばな 科の多年草。葉は細長く線状 すいせん あつめ句 ( 陸奥鵆をなして叢生。十二月から三月ご ・泊船集・蕉翁句 % 初雪や水仙のはのたはむまで 集・真蹟自画賛 ) ろまで、高さ三〇ほどの花茎を 出し、茎頂に白色六片の花をつけ もくうちわ 今日は待っていた初雪が降った。初雪のこととて、水仙の葉をわずかにたわま る。雪中花。 0 『目団扇』に「初雪 せて、うすく降り積っている。一句は初雪の「初」の字の味を言い取ろうとしや水仙の葉のたはむほど」とある が、拠る所不明。 て、水仙の葉のわずかなしなえに、その風情を見いだしたもの。また水仙のも はべ