月山一 -- 出羽三山の主 峰て、山頂には月読命 を祀る月山神社がある。 島海山をはしめ、遠く 佐渡を望める雄大な眺 望はすばらしい。 羽黒山神社随神門ーー 羽山神社は出羽三山 神社といい、月山・湯 殿山を合祀した三神合 祭殿がある。随神門は 、、冫イ ) 第を二を卩、 = 、を各デ製第蕚ぃ′。」な ~ 廴第 その入り口てある。 羽黒山五重塔ーー随神 門をすぎると、杉木立 と高さを競うように美 しい姿を見せる。 こけ ら葺き、素木造りて、 東北最古の塔てある。 95
修験の世 . 、トヾ、をトハ 一気いノを くろうしやま 月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山は、紀州の熊野三山、ており犂牛山とも呼ばれ、山頂の月山神社は参拝者が多 九州筑紫の英彦山とともに三大修験道の地であった。六 湯殿山は三山の奧ノ院として信仰の究極の目的をも 世紀末、崇峻天皇の第三皇子蜂子皇子が開山したといわち、古来「口外禁止」の霊地であった。出羽三山への道 れるほど歴史か古い三山のうち羽黒山はいちはん低い は、羽州浜街道の鶴岡からは、羽黒山・月山・湯殿山のイ が、山頂に三神合祭殿があり、全山古木に覆われた聖地順をとり、山形からは六十里越街道を利用して寒河江を である月山は三山の主峰で、牛が伏せたような姿をし通 り、問沢から月山へ、本道寺から湯殿山へ登った。 ひこさん 0 を 00 を 00 つユ 0 ト第
鳥海山一一古来、日本 百景の一つに数えられ、 「出羽富士」と呼ばれ、 出羽三山の帰途に登る 人の多い信仰の山てあ った。 十み ;_2. れ . 島毎山の禰呂に光れる斑雪あり 古き雪にはあらさる如し 72
鶴岡 ( 庄内 ) 。羽黒 出羽三山の七ロ・修験の道 △羽黒山 。川代 七五三掛 大網 田麦俣 。肘折 △月山 △湯殿山 志津 。岩根沢 本道寺 。大井沢十の 大岫峠 羽州街道 岩 第会を △朝日岳 ゅどのさん のは、そういう呼びかたが広くゆきわたっていたせ 湯殿山の八方七ロ いもあるが、湯殿山を月山と羽黒山の総奥ノ院と唱 出羽三山の主峰は月山 ( 9 ) であるが、中世え、羽黒山から月山を経て湯殿山に詣でることによ の末になると月山の南一二キロメートルの地点にこ り、即身成仏の願いが成就すると説く羽黒山として ゅどのさん メートルが、信仰のは、その呼びかたを認めるしかなかったのである。 ぶのようにもりあがる湯殿山 ( 一五〇四 中心を占めるようになった。そのため三山の守り札 道者を迎える「さかむかえ寺」 や絵札も実際の位置にかかわりなく、湯殿山を中央 しめかけ に一段高く描くようになったばかりか、三山信仰圏 八方七ロとは庄内平野に面した羽黒・七五三掛・ かわだい の中にある村々に建立されている三山供養碑も、湯大網・川代の四登山口と、西村山郡の大井沢ロ・本 ひじおり 殿山を中心に置いた。珍しく月山が中央になってい 道寺ロ・岩根沢ロおよび最上郡の肘折ロである。こ かんえい る石碑があると思ってみると、それは明治以後に建のうち川代ロは寛永年 (— 1 一六二四 ) に羽黒山別当の てられたものであったりする。 天宥が閉鎖したから、その後は七方七ロとか七ロと はぐろさん あが だいほうじ たかでら 四一九メ 湯殿山が月山や羽黒山 ( ー ) の奥ノ院と崇め . いった。川代ロは大宝寺鶴 ) 周辺の者が高寺 ( 蛉 ふだらく られるのは、この山は数多い仏の中でも最も尊ばれ羽黒町 ) を経て川代に一夜をすごし、西補陀落の雷電 もう ばん る大日如来の浄土で、ここに詣でればすべての苦し磐を拝して月山に登り、湯殿山から仙人沢を抜けて みや悩みから救われ、安楽な境地に到ることができ Ⅱ代に下向したコースである。天宥がこのロを封じ ると信じられていたからである。 た理由は不明だが、おそらくは利用者が少なかった うばがっこう 三山には八カ所の登山口があった。普通なら主峰のと、江戸中期になっても姥月光から湯殿山のあた である月山の八方七ロというべきなのに、月山の祭りで参詣人が物取りに遭うこともあったからであろ がっこ、つ 祀権を握る羽黒山までが湯殿山の八方七ロといった う。その物取りの頭目との間に、月光坂にまかれた がっさん 戸川安章 日本民俗学会評議員
三、、二朝一のな 春の白石川一一蔵王の 山々を北に望む白石川 は、白石盆地を潤し、 今も上流の上戸沢・下 戸沢などに山中七ケ宿 の面影が残る。 羽州街道は奥州街道桑振から分か れて山中七ケ宿街道を通り、出羽上山 に出て山形・天童・楯岡・尾花沢・舟 形・新庄・及位から院内峠を越え、湯 沢・横手を経て六郷で秋田街道と重な り、秋田に出るさらに秋田から琴立・ 鶴形・大館を過ぎ、矢立峠を越えて碇 ヶ関・弘前・浪岡を経て青森に出る五 八宿で、奧州街道とともにみちのくの 主要な参勤交代路であ 0 た。山形から は出羽三山に向かい、鶴岡に出る六十 里越街道、舟形からは酒田に向かう酒 田街道、横手からは本荘に向かう本荘 街道があり、本莊には湯沢・及位から も行ける道か分かれて、こ。 しオ羽州街道 の峠は高く、河川も多か 0 たので参勤 交代は難渋をきわめた。
岩木山遠望 -- ーー津軽の 人々の尊崇を集める津 軽富士は、百余年前ま ては山項より噴煙を上 げることがあった。 が盛岡城下に急ぐ道でもあった。 路であり、藩士の巡察路として宿駅が置かれ、ある いは馬継所が設けられていた。他国往還路の藩境に Ⅱ街道は、金山 桑折宿で奥州街道から分かれた羽か , 、 は厳しい番所も置かれていたが、江戸時代中期とも 峠で奥羽山脈を越えると山形盆地・秋田平野など比 較的ゆるやかな平地を北上する。金山峠の手前で羽なると、生活のため、諸国巡礼のため、あるいは遊 州街道を左折する一一井宿街道は、米沢盆地の城米な山のため往来する庶民の通行が急速に増えてきた。 どの輸送路であった。山形城下に入り、左に折れてむしろ庶民の道中の感をもつようになった。 庄内に向かう六十里越街道は、出羽三山の参詣路で 仙台国分町の菅原屋安兵衛が『諸方早見道中記』 奥羽のみならず関東の人々で賑わった。庄内藩主のを発行販売したが、 , 従来の江戸・大坂を起点とする 参勤交代路に利用されたこともある。 道中記ではなく、仙台城下を起点とする景勝松島・ 秋田藩領に入って、盛岡城下から西に入ってくる金華山・平泉・出羽三山などの案内書であった。仙 秋田街道は、羽州街道の六郷宿と結び、越後から鼠台中心のローカルな庶民の参詣・遊山が盛んとなっ ヶ関を通って北進する羽州浜街道は、久保田 ( 秋たからにほかならない。 田 ) 城下で羽州街道に合流した。秋田から数宿北進 仙台城下を起点に奥州街道の全宿駅をおもしろく こつなぎ ぶんかぶんせい すると荷上場宿に達する。ここから小繋宿までの詠みこんだ『奥道中歌』と『道中往来』が文化文政 文化Ⅱ一八〇四 5 一八 一里ほどは大変珍しく「カチ道ナシ舟ニテ往来ス」 文政Ⅱ一八一八 5 三〇 ) 期につくられたのも、奥州街道 と陸上の街道は途切れ、羽州街道は川となり、通行が諸士に加えて、庶民の通行が盛んとなったことを 示すものである。 人はすべて舟で往来した。しかも舟は「大木ヲクリ タル」丸木舟であった。 いま、村里のなかに歴史の道をたずねると、この 大館を通過して津軽領に入って矢立峠を越える主要街道から分かれ、あるいは在町から在町へ、村 と、まもなく弘前城下に達する。この矢立峠越えのから村へと通じる生活道に行き当たる。山なみのす いかりがせき かんぶん 碇ヶ関街道は寛文五年 ( ~ 篏 ) から津軽氏の参勤交そを曲折しながら通るこの道の傍らに、村里のあゆ あじがさわ 代路となった。それまでは海岸の鰺ケ沢に出て大間 みを刻む古碑や追分石が静かにたたずんでいる。村 越えで秋田領に出ていたのである。 里に入る他国者に対する案内であったことを思う と、村里の温かい心根と、この道もまた、幹線を介 藩の道から庶民の道へ して他国に開かれた窓となっていたことを知らされ 奥羽の道の、これら主要街道は、大名の参勤交代るのである。
羽州浜街道 西目の冬ーー - 日本海の、た” 風雪にまけす、文政 11 年 ( 1828 ) から 6 年をか けて西目潟を干拓、今 も産業・教育の模範村 とされている。 ねすがせき 羽州浜街道は、日本海に面した念珠ヶ関から海沿いに、温泉の湧 く毎、加茂・大山から酒井一四万石の城下町で出羽三山の西の入 り口、鶴岡を経て、庄内米の積出港酒田を過ぎ、庄内砂丘のある吹 きさかた 浦から三崎の険路を経て、鳥海山を南に仰ぐ景勝の地象潟に出た 象潟からは西目海岸を通り、六郷ニ万石の本荘、生駒一万石の矢島、 岩城ニ万石の亀田などの城下町を経て秋田に出る街道であった。しのはた麓見 おが 田山げ、を かしこの道は、秋田以北にもつづき、土崎を経て追分で男鹿に向か 廼海ろち う道が分かれ、八郎潟沿いに大久保・鹿渡を過ぎ、日本海の要港で 鳥ひも様 るくをな 秋田杉の積み出しの能代に出た。能代からは八森・岩館を経て津軽 山えき容麗 に入り、深浦から鰺ケ沢・弘前に至った。 海び大山華 島そをなは のに野麗春る 春北裾秀のせ 酒田の山居倉庫ーー酒 田は最上川河口の良港 て、庄内平野の物資の ー大集散地。庄内米の 貯蔵庫、山居倉庫にも それがうかがえる。 92
奧羽山脈を横ぎる峠みちーーー陸奧から出羽へ渡辺信夫 名勝の道・遊山の道ーーー松島・金華山への旅齋藤鋭雄 カラー・羽州街道 / 羽州浜街道 / 修験の山 山河を越える深雪の道ーーー羽州街道横山昭男 潮風に ~ 示の文化が香る道ーーー・日本海に沿う羽州浜街道半田市太郎 / 磯村朝次郎 出羽三山の七ロ・修験の道戸川安章 恐山と岩木山・祈りに満ちてーーー下北と津軽の霊場楠正弘 おくのほそ道・出羽への道・・・・・・ー・・・・・・・・松尾芭蕉の旅金沢規雄 みちのく遊覧の道ーー菅江真澄の旅新野直吉 紅花に舟唄の流れる道 , ーー最上川の水運梅津保一 津軽の海を越える廻船ーー木材と米の海路渡辺信夫 カラー・平泉 / みちのくの民芸工芸品 / 名城 みちのくの長い日ーーー戊辰戦争・会津の攻防難波信雄 小林注月ム 戦国の武将と諸藩の歩みーー・奥州の居城をめぐる 交通網の礎を築いた中世の道伊藤信 頼朝の奥州進攻の道ーーー鎌倉から平泉へ服部英雄 ト毋ロいを打く義経伝 " の道伊藤信 要衝に城柵のあった古代の道ーー多賀城から胆沢城へ平川南 106 161 1 5 3 12 9 1 18 1 5 7 120 1 3 6 124 14 5 1 10 16 2 10 2
小坂峠からの国見町 羽川街道の最初の 難所、小坂峠からの眺 望は美しく、奥少街道 沿いの国見町が見える。 と簡潔に書いている。外湯とは共同浴場のことでから左折し、四ッ谷街道を直進した。この通りはい きようわ あった。ところで上山藩では享和元年 (d) ノ ) 、風俗まは人通りも少なく、昔の面影を残している地点の 取り締まりの目的で、この飯盛女を置くことをいっ 一つ。街道はここから松原宿を経て山形へ入る。 よしあき さい禁止したのである。これは旅籠屋中にとって大 山形は近世のはじめ、五七万石の大名最上義光 によってつくられた城下町であるが、そ きな打撃であった。文化五年の復活では、はじめ飯 ( ~ 六鬲 盛女一人を置けば必ず駅馬一疋の飼育を義務づけたの後領主の交替はひんばんであった。しかし町方は が、やがてそれは馬代金に変わり、これが大庄屋を商人町、職人町など三〇町を数え、宿場としての中 通して助郷の村々へ配分され、結局、役馬はいくら 心は本陣のある旅籠町であった。 か補助金を増したものの、助郷村が提供することに この町は単に山形藩の城下町としてだけではな 変わりがなかったのである。 く、むしろ村山郡全体の経済的中心として、商業の べにばな 町として発展したところである。山形を起点とする 紅花の里を行く 道路も多い。まず羽州街道が南北に町の中央を走 しんちょうさかした 上山市街の新丁坂下より、まっすぐ北に通じる り、東に通じる笹谷街道、西へは出羽三山へ登る六 道路は明治初期に開かれたもので、羽州街道はそこ十里越街道があり、また最上川舟運を利用するため に、船町がその外港としての位置にあった。さら べにばな に、郡内唯一の特産物である紅花が山形商人の蔵に 集められ、それが上方との交易の大きなよりどころ になっていたのである。 羽州街道は山形から村山平野の平坦部を、最上川 にほば平行して、その東側をまっすぐに北上する。 ろくたみやざき もといだとちゅうだ 天童・六田・宮崎・楯岡・本飯田・土生田と、いわ ゆる六カ宿がつづく。天童・楯岡には本陣がある 深 る カ ほかは間の宿の機能を果たした。しかし大名通え を 行の際は、例えば六田・宮崎・楯岡の三宿のように 河 山 合宿して継ぎ立てを分担し、近郷の一六カ村を共通 の助郷村としている。 あ
慈恩寺本堂ー -- ー寒河江 市郊外にあり、奈良時 代の創建という。近世 には東北地方最大の寺 領を有した。 ゆずりじよう ) に及ぶことを禁じている。このほかにも譲状 古道と板碑 の記載のなかには、奥大道を境界線の目じるしにし たものがあり、大道の周辺に開発の手が伸びたこと 板碑 ( いたび・ばんび ) は石塔婆とも呼ばれ、東国に げ・ん、」う・ 発生した中世の石造の供養碑である。東北地方では、 を物語っている。さらに元亨四年 ( 一一四 ) の留守家明 こうあん あおそ ふつう鎌倉中期の弘安年司 ( 一二七八 尸 5 八八 ) から南北朝期に 一一譲状には、青麻神社 (% 駘市 ) に関して、「宿を立て かいさく かけて造立されたものが多い。東国のものにくらべる 新道と号す」と記されており、積極的に新道の開削 と、碑面や頂部などの整形が少なく、素朴な趣のもの にも乗り出していることを示している。これはおそ しゅじ 梵字で仏 を示す が大半で、種子 ( ) 、年代、造立の趣旨などを らく、多賀国府から北上して黒川郡へ抜ける奥大道 刻んでいる。石材の入手・運搬・加工には大きな負担 に、青麻神社から通じる新道を開いたものと思われ を要したと思われ、造立者は武士や僧侶が多かった。 る。 板碑は東北各地に見られるが、なかでも仙台市南方 こういう地頭たちの働きで、鎌倉時代の街道は、 の名取市川上から、いわゆる東街道沿いに仙台市東 とうさんどう 部の岩切まで、多くの板碑が分布しており、名取市だ その姿をかなりかえたのであろう。東山道の延長で けで道路沿いに約六〇基が確認されている。この付近 ある奥大道は、平泉からさらに北上して、青森県南 ぬかのぶ とさみなと えぞち には東北地方の熊野信仰の草分けと思われる名取熊野 部の糠部地方を経て津軽十三湊に達し、蝦夷地や日 三山があり、死後の浄土往生のため熊野ゆかりの地に だいもん 本海航路との交易をさかんに行ったらしい。この地 建立されたのであろう。とくに名取市熊野堂の大門 がこい 域には早くから北条氏の所領があり、代官として曾 囲は二〇〇基をこえる碑が密集し、この地が特別な霊 我氏や安東氏が活躍していた。鎌倉後期には南部氏 場とみられていたことを示しているようである。 さんのヘ が登場し、青森県南の三戸地方を根拠地にやがて秋 かづの 田県鹿角地方へ進出し、青森県全域を支配するにい などの由緒ある寺社が存在していたから、地頭たち たる。出羽路では北陸道の延長である水道駅路沿い の街道保護策とならんで、信仰を求めて往来する人 おが の庄内地方に武藤・安保の諸氏、秋田県の男鹿・秋びとも多かったことであろう。 田地方には橘氏らが配置された。一方、内陸部の山 おきたま 街道に残る信仰の跡 道駅路沿いには、置賜・村山地方に大江・二階堂・ 安達の諸氏、横手地方には平賀・小野寺などの諸氏 街道を往来するのは、たしかに商人だけではなか おおばん が居を据えた。水道駅路沿いには東北での修験道の った。地頭以下の武士たちも京都大番役・鎌倉番役 中心である出羽三山、山道駅路には慈恩寺・立石寺などをつとめるために往来し、上方の進んだ文物や よこて いわきり