紫波町陣岡蜂社 ( 神社 ) 源頼朝は、はるか この地にまて足跡を残 している。藤原泰衡の 首級は、この地におか れた頼朝の陣に届けら れた。 さすと記述している ( 「大日本地名辞書』はこの説に否経路については『吾妻鏡』に、 まつやま ここにほん 定的である ) 。 爰に二ロロ 口が頼朝のこと、松山道を経て津久毛橋 たかばば 八月二十日、泰衡の多加波々 ( 高波々 ) 城を攻略 に到り給ふ むつわき したが、すでに泰衡は逃亡した後だった。多加波々 とある。この松山道は『陸奥話記』 (S 経 ) きちじ くずおか にもみえる古道である。吉次街道、あるいは秀衡街 城について、『仙台領古城書立』は葛岡村にありと する。『大日本地名辞書』も葛岡村岩の沢にある城道とも呼ばれているように、『義経記』に登場する かねうり いそぎのまっ 跡をそれとする。葛岡には磯田の急松のように源伝説の人物金売吉次たちが往来したとされる古代・ よしつね 義経にかかわる伝説もある。 中世の道である。近世の奥州街道よりははるかに西 多加波々城攻略が圧勝であったため、勢いにのつ方の山際を通過している。近世の上街道 ( 松山街 て一、二千騎で平泉を攻めようとはやるものがいた道 ) の前身であるが、そのルートは必ずしも上街道 つくも が、頼朝は書状を回覧し、津久毛橋あたりに敵が潜とは一致しない皺物「・ ととの じんう んでいるので、二万騎を相調えてから攻略にとり こうして八月二十二日、甚雨の中、頼朝は平泉に かかるよう伝えている。このことは『吾妻鏡』に詳到着した。すでに泰衡は、その豪華な館に火をかけ さつばんきゅうきざっろく しいが、『薩藩旧記雑録・前編』という書物にも、 逃亡したあとで、無血入城であった。鎌倉を出発し この記事に対応するものが収められている。 てから一カ月あまり後のことである。 よりよし かんなり その津久毛橋は金成町にある。現在架かる津久毛 このあと九月二日、頼朝は、源頼義 ( 九八八 一〇七五 くりやがわ よしいえ 橋よりは南方に古橋があったらしい。その跡はいま義家 ( 一ま六 5 ) の遺跡でもある厨川に向けて出 しわじんがおかはちのみや 一面の田園となっている ( 宮 査結果略報』〈宮城県文化調発、四日には志波郡陣岡蜂社に到着して ほうふつ せいいたいしようぐん いる。後の征夷大将軍の呼称が彷彿とうかんでく 報告書五 ) 。「安永風土記』 ( 三迫・平形村の項 ) によれば ひないぐん つくも る行動である。一方、泰衡は、九月三日、肥内郡 「江浦草橋長六間 (f 」 9 【八 ) 幅二間にい にえのさく 半」とある。 贄柵において、家臣河田次郎の手にかかり殺され しゆきゅう た。その首級が陣岡の頼朝の陣に届けられたの おおだてに 頼朝、雨の中の平泉到着 は、九月六日のことである。贄柵は大館市一一井田に すがえますみぶんか 八月一一十一日、激しい暴風雨をついて、頼朝は平 比定され、菅江真澄も文化十三年 ( ~ し六月、その 泉に進発した。栗原・三迫の要害において、泰衡の地を訪れている。平泉を隔っこと、二〇〇キロメー 郎従が抗戦したが、いずれも討ち取られた。頼朝のトルであった。
物第、ミヾを洋、 さけ、川の深浅により道筋は曲折した。宮城県内に 中世期になると、この古道全体の呼称ははっきり 入っても、江戸時代の奥州街道の西側を北進し、福しなくなるが、地域的呼称として「鎌倉街道」 (å あずまかいどう せんどうおくどおり 島県浜通りの山沿いを北進する「東海道」とも同 県郡山方面から白河・宇 ) 、「東路」、「仙道奥通」、宮城県 あずまかいどう にを高と終 流し、仙台市域を横断して、いったん奥州街道の東内に入ると「東海道」、「松山道」などがあげられ るを 辺一い , 路通くめ旅 山着がのる 側に出て、ふたたび西側にもどり北進していた。前 南にな日知 道っ内を一を 戦国期に入り、各地に大名が割拠することで、他 に述べたように出羽国へは小野 ( Ⅱ県 ) から分か の立大宿はと もがみ 宿のとら人こ れ、笹谷峠を越えるのが主たる最上道であった。 領との交通は絶えがちであったが、領国がしだいに 内碑むか旅 大石進台きえ 拡大してくるにしたがい、領国内の交通制度は整え られた。 米沢を本拠としていた伊達政宗は、現在の福島県 中通りに進出し、当時伊勢国から移って現在の郡山 に住んでいた豪商山本伊勢なる者に対して、伊勢の 荷物一〇疋一〇駄を、伊達氏分国中北南一筋の諸関 かしょ 所を相違なく、永代通行させるという過所手形龕 てんしよう 程しを与えた。これは天正十六年 ( ←し七月二十 日付のことであるが、当時の伊達氏の分国は南の あさか 安積郡島 ) から北の志田郡城 ) に及んでいたか ら、この両郡間の街道の通行を公認し、関銭を免除 したのである。 天正十九年 (lf) 伊達政宗は米沢から岩出山 ぶんろく 城 ) に移るが、入部早々の文禄四年岩出山の にツ ~ 城下を起点に、真山・宮野・金成を経て東山地方 岩手県南部・ ) に至る街道に伝馬制を実施している。 けいちょう には、仙台城下への移転に 下って慶長六年 (8 六 ) 伴「て、しから佐沼・高清水・岩出山・ 黒川を経て城下に達する街道の各駅に、伝馬五疋を幻
長品く 技術をもたらした。さらにこのころには熊野詣でな 信仰の名残は、今日でも当時の街道の各所に残っ の術多る いたび 社は美、す ど、信仰のための往来もさかんになってくる。葛西ている。それは板碑と呼ばれる鎌倉中期ー南北朝期 一」神修要め蔵 野文重し所 に造立された石碑である。一種の供養碑であるが、 、はを氏兪し・岡本氏」 ) や、後には大崎氏 (R 要鉢を財 えこう . 方重銅鐘化 近などもはるばる紀州熊野への参詣を果たしてこれは多くの人の目にふれ、回向されることで功徳 多の・銅文 喜国床のの いる。民衆にとっては遠路の宮参りは不可能だった があると信じられたので、寺社の境内や、街道のほ が、近くの熊野社へ詣でて来世の幸福を祈ったのでとりに建立されることが多かった。板碑の分布から なとり きたかた あろう。宮城県名取市の熊野三山、福島県喜多方市中世の街道を考えることができるのである。 岩山創風 の熊野社などは古くからの由緒を誇ったし、宮城県 市い期中る うだ 台近中 街道の発達に伴う社会の変化 山に安 0 栗原郡宮沢の新熊野社、福島県宇多郡の熊野堂、山 郡平あれ さがえ カき」 形県寒河江市慈恩寺の今熊野社なども地方民衆の信 街道の整備は、しかしよいことずくめではなかっ 社里 ~ る伝と 神、あ社様 た。とくに幕府にとっては新しい問題を生む根源と 麻のにの神印を集めて繁栄したのであろう。 青切中建の もみられたのである。その一つは、従来幕府は馬・ 金・絹布など奥州特産品を年貢として徴発していた が、交通や商業の発達の結果、特産品は商人が買い 集めてしまい、幕府はその代銭納でがまんしなけれ ばならない状況が生じた。暦仁二年 ( ~ 一し幕府は 白河関以東における銭貨の流通を禁じ、奥羽から上 洛する者はよいが、下向する商人たちには銭の所持 を認めないことにした。こういう政策が実現不可能 なことはいうまでもないが、街道の整備と商業の発世 達が、社会の変化を生み出していることに注目して また一方では、交通が便利になった結果、治安のの こうげん 維持に苦心することにもなった。康元元年 (l 、 ) 幕通 府は宇都宮泰綱ら奥大道沿いの一一四人の地頭に、奥 大道で夜討強盗が蜂起しているのは、地頭たちの職 、の心 . りやくにん
越河の峠 ( 国見 ) 古代の延喜式古道も、 中世の頼朝の道も、そ して近世の奥少街道と 現代の国道 4 号線も、 いずれもこの峠を越え ている。 鳥取という地名は、今日も国見町にある。国見か た。この記述からしても、中世の中通りが、このあ ら北方、今日の県境尾根を越える峠は、東より先述たりでは近世の奥州街道と同じ道であることがわか の越河・ついで石母田峠・山崎峠・小坂峠とある る。今日の柴田町船迫には街道沿いに関所という小 あざ が、鳥取は小坂峠の麓小坂に接している。小坂峠は字があって、古来より交通の要衝だったことがわか しちかしゆく にらかみ 近世の山中七ケ宿街道である。あるいは中世にも る。また船迫の西方に韮神山があるが、この山麓一 この街道が機能していたのだろうか。いずれにせ帯は白石川、荒川の合流地点で沼沢地帯をなしてお り、天然の要害であった。 よ、頼朝の別働隊はこの鳥取より山中に入り、国衡 とき の陣の後方で鬨の声を発し、矢を射かけたのであ 『吾妻鏡』は、阿津賀志山敗戦後船迫まで、奥州方 る。折しもすでに頼朝の大軍は木一尸ロへの総攻撃をの抵抗についてはとくに記述していないが、この韮 からめて しかけていた。搦手からの攻撃に不意をつかれた国神山、船迫の地にも激戦を思わせる伝承が多い。す てるいたろうたかなお 衡軍は総崩れとなったのである。 なわち韮神山は平泉方の照井太郎高直が戦死した所 ふなはざま であり、地名として照井橋・洗首池・照井塚があ しそっ 伝説の古戦場、船迫 り、戦死した士卒の墳墓が々とする千塚もある。 ながと 国衡は「出羽道を経て、大関山を越えむと欲す」 また船迫は船迫長門なる人物が頼朝の大軍をここで ささや と、出羽への逃亡をはかった。この道は笹谷街道でひきとめた古戦場とも伝えられている。勝者の記 宮城県教育委員会「歴史の道・調査報告 録である『吾妻鏡』と、敗者の記録である伝承 あろうとされている ( 書・笹谷街道」〈宮城県文化財調査報告 いずれの側がより真実に近い姿を伝えてい 題六 + ) 。しかし結局、国衡は芝 ( 柴 ) 田郡大高宮 原町金ケ瀬、現位置は大正四年の移転後 のもので、かっては平村台の山にあった ) のあたりで討たれるのかは、にわかには決しがたい。 しゅんめ たかばば た。国衡の乗る馬は高楯黒と呼ばれる奥州一の駿馬 圧勝に終わった多加波々城攻略 で、大肥満の国衡を乗せて、日に三度、平泉の高山 に登っても汗をかかぬ名馬であったが、肥満の国衡 頼朝軍は、翌八月十二日晩景、多賀国府 ( 多賀道 わだよしもり あぶくま が和田義盛の二の箭を恐れて逃げまわり、深い田に城 ) に到着、この日三方軍の一つ、海道軍も逢隈 みなと はまったため、ついに抜け出すことができなかった湊を渡って到着した。一日の休息をおいて黒河を経鳧 たまっくり と『吾妻鏡』は述べている。このあたりの筆致は敵て玉造郡に向かった。途中、国府中山上物見岡に たた 将を称えるものとはけっしていえない。 おいて泰衡郎従と合戦を行っている。この物見岡に ふなはざま たにかりちょうめい 明けて八月十一日、頼朝は船迫宿に軍を進めついて、『平泉雑記』は宮城郡上谷刈村長命山を たがのこくふ せんづか こ
げ夫式で、首を回すとキーキーと音がで館には伝統こけしや木地玩具が展示もあり、町は将棋駒の看板や置駒が 曲丈 る。角のないこけしに描かれる顔は、されている。八時半ー一七時四月目立つ。製造実演している店は、栄 つく思いなしか笑っているような目と丸一日ー十一一月一五日まて一一〇〇円春堂。八時半ー一一一時将棋駒の実 使軽 演は九時ー一八時第一火曜定休 をはい鼻に赤いおちよば口が特徴。鳴子谷〇一三九八・三・三六〇〇 ) の町にはこけしの製造者が多く、九・天童将棋駒全国生産量の九割以谷〇一一三六五・三・一一八四 = l) 秋わ月七ー九日に行われる全国こけし祭上を占める天童の将棋駒は、幕末の 駒 ころ、天童織田藩の家老、吉田大八 生活の知恵が生んだ伝統工芸品でありの開催地ともなっている。 ( 鳴子温 棋 が下級藩士の内職として奨励したこ る。丈夫な杉材は、たわめても折れ の 汐ら ( し る心配がなく、軽くて持ち運びにも " まマこ安とに始まる。書き駒が特徴で漆を用 彫 いて草書体で書くのが主流だったが、 便利。秋田名物として民謡「秋田音 手 っ 頭』にも歌われている。 ( 自分て作っ 老 ( 、柔は現在は楷書体が多い。また、高級品 ~ 第たて っ めっとして彫駒がある。これはツゲの木 てみたい方は田代細総合開発センタ 。極あ をが地に紙を貼り、紙の上から字を書く ーへ。九時ー一六時一〇〇〇円 谷〇一八六五四・三五〇こ 、ように彫「ていくもの。彫「たとこ・相良人形この土人形はもともと ・仙台タンス伊達政宗が仙台を治泉町にはこけしを作るところを見学ろに漆を埋めて、できあがりは書い京都の伏見人形の製法と同しである。 めたころに活躍した御用専門の大工、てきる店が多い。また、日本こけしたようにみえる。 ( 天童市は温泉街て安永年間 ( 一七七二ー八一年 ) に相 梅村日向によって創案された。欅材 を木地呂塗りにし、豪壮な打ち出し、 あるいは線彫りの模様の重厚な鉄金 具で飾ったタンスである。堅牢にし て見栄えもよいこのタンスは、昔は 太刀なども収蔵できるように特別設 仙宮「福 計されていた。現在は伝統工芸品と しての価値が高い。 ( 仙台市内の工芸 童 / 品店、家具専門店て ) 天山′ , ′尺・喜 ・伝統こけし宮城県に限らす、こ けしは東北の各地で作られている。 その単純を極めた形にそれぞれの故 郷を現わす。宮城県の北、山形県と の境に近い鳴子のこけしは、伝統こ けしの本流を継承する一つである。 丸いだけの首を胴にさす、はめこみ 汞北①哽礬マツア 。多クをを , ノ , 津軽塗て」 叱前肖森 . 大館メ / 穴橋工ん爪 岩手 ・酒田 ・鶴岡 え第に ・郡山
小高城跡ー一一南北朝期 から較国期まて約 280 年間のオ目馬氏の本城。 現在小高神社の境内。 相馬野馬追の野馬掛神 事がここて行われる。 さがら ておこう。現在の福島県浜通り地方である。浜通り城 ) があるだけで、全国的にも九州の島津氏・相良 の南部、全国一の広域都市といわれるいわき市の地氏などとともに稀有である。 いわき にのみやしほう 域は、戦国期には岩城氏の領国であった。平安後期 相馬藩は、幕末期の二宮仕法の成功により、藩勢 以来この地に根を張った岩城氏は、戦国期には南の隆々として維新を迎え、廃藩後は藩士たちが農地を しもうさ ひたちさたけ まさか′」 てんしよう 常陸佐竹氏に従いながら、天正十八年 0 しの秀手にして土着帰農した。下総相馬、平将門翁 のまおい 吉の「奥羽仕置」にも生きのび、一二万石の大名と 以来の八〇〇年の伝統を誇る相馬野馬追の神事 けいちょう せきがはら して慶長初年に及んだが、関ヶ原の戦の後、領地は、このような相馬藩の命脈とともに保持されてい げんな を没収された。代わって入部した鳥居氏は元和八年るといえよう。 ( 一一 = ' ) 山形に移り、以後内藤氏が七万石を領して、 えんきよう いわきたいら 仙台藩祖伊達政宗の意気 延享四年 (Z) まで磐城平城主となった。幕末 おう ゅながや 仙台の名に伊達政宗を想起しない人はなかろう。 応のころには、磐城平安藤氏三万石・湯長谷内藤氏 いずみほんだ 一万五千石・泉本多氏二万石の小藩に分かれた。 事実、政宗は仙台の命名者であり、また創設者であ しかし、分散と集中という、矛盾する二つの傾向る。 を統一しているのが、この地方の歴史の特色であ 政宗は米沢城 (ä形 ) に生まれた。しかし、伊達氏 なこそじようばんうち 1 」う る。かっての常磐五市 ( 平・磐城・勿来・常磐・内郷 ) は鎌倉期以来、伊達郡を本領とした武家である。伊 などが統合して、いわき市が成立したのも、古来の達氏直属の軍事力を構成する名掛衆は、政宗の米沢 時代にも伊達郡に住んでいた。仙台地方に移る以前 伝統によるものといえよう。なお、いわき地方に、 力さい おおむね譜代大名が配置されたことは、白河・会津の政宗は、大崎・葛西など宮城県北から岩手県南に に共通する点である。 わたる大名たちを服属させ、福島・山形・宮城・岩 戦国期、岩城氏ときびしい抗争をくりかえしたの手の四県にまたがる大勢力を築きあげていた。そし そうま たねむね おだか 、靂 ) 以来、奥州探題 は相馬氏である。南北朝期以来、小高城 (\ 離しをて、彼の家は曾祖父稙字 ( うしごえ 本拠とし、慶長三年から数年間、牛越城あるいは陸奥国守護であった。彼の戦国大名として 櫞こに移ったが、再び小高に復し、慶長十六年の領土拡張は、このような奥州探題家の意識によっ て推進されたものだし、近世大名となっての仙台藩 (; , ) 、中村 ( 相馬市 ) に移り、六万石の卦を保つ づくりも同じ抱負から実現したのである。 て幕末を迎えた。鎌倉から江戸末期までの七世紀に なんぶ 近い本領保持の例は、東北ではほかに南部氏 ( 盛岡 仙台市街北西部の大崎八幡神社 ( し・南東部の AJ り おおさき なかけ しまづ
、き、、燾 : ー、 ! 胆沢城跡ーー胆沢川の 南側の平野部にあり、 通称「方八丁」といわ れる。一辺約 650 メー トルの土塁状の高まり は道路となっている。 ふじわらのなかまろ に至って、時の権力者、藤原仲麻呂 ()? あさかり 陸奥と出羽を結ぶ道 朝﨟 ( 性杯によって、雄勝城が築かれ、同時 さるばねひらほこよこかわ に、出羽柵へ通じる玉野・避翼・平戈・横河・雄 そこで、天平九年 ($ 三 ) 出羽柵と陸奥国府のある 多賀柵 ( 多賀城 ) との連絡路を整備する計画が実行勝・助河の駅が設置された。 ゆりの に移された。 ここに、従来の庄内平野の旧出羽柵ー由理柵 ちんじゅふ おおののあずまんど 県本庄 鎮守府 ( 奈良 て陸奥におかれた最高し将軍大野東人 市付近 ) ー秋田城ルートに加えて、多賀城 ( 柵 ) ー雄 しかま 」 0 が率いる六千の大軍は、色麻柵鱸劬 ) か勝城ー秋田城ルートが完成したのである。 なべこしごえ おおむろ ら、鍋越越 ( 道 宮城・山形県境国 ) で出羽国の大室駅に着 ひらほこやま 敗退した五万の政府軍 き、出羽軍と合流して、比羅保許山に陣どったが、 せんぼく おがち 結局、当初の目的であった、仙北平野の中心、雄勝 一方、陸奥国の北へ伸びる新たなルートは、八世 村を征して、出羽柵への直路を開くことはできなか 紀後半の伊治呰麻呂の乱後、より活発となった胆沢 っ」 0 地方翁県 ) の蝦夷の蜂起に対する戦いとともに整 このときの大野東人の報告書には、「自ら導きて備されていくのである。 、 , 、新たに開通する道、すべて一百六十里、或いは石を 宝亀年間の戦いが不調に終わったあとを受けて、 きざ たにうず とお えんりやく 尅み、樹を伐り、或いは澗を填め、峰を疏すこと、 延暦二年 (ll\ 八 ) 蝦夷地の動乱がつづいたため、中 おおとものやかもち 賀美郡より出羽国最上郡玉野に至る八十里、すべて央政府は、征夷大将軍として大伴家持 (— 生 ) を けんそ おう これ山野にして形勢険阻なりといえども、人馬の往任命した。つづいて、延暦五年 ()\ 八 ) 八月から、翌 かん かんなん 七三三 5 ・還は大いなる艱難無し。玉野より、賊地の比羅保許年九月にかけて、紀古佐美 ( 七九七 ) を征東 ( 夷 ) 大 へいたん 山に至る八十里は、地勢平坦にして危険あること無将軍として、胆沢の蝦夷と戦っている。この戦いの し」とある。しかし、結局、この時点では、無理をようすは『続日本紀』に詳しく述べられている。 京都から東方 して雄勝村を攻略し、城を築くことは地元の人びと 延暦七年 (? 八 ) 三月に、広く東海 ( の海沿いの国 とろ・さん 東海に対して、 の反発を招くという配慮から、一六〇里っ在約二 山沿いの国々 ) ・坂東諸国から、歩尾・騎 国 ) ・東山 ( 一〇四キロ メートル ) の道を新たに開いたところで、計画は中兵五万人余を徴発し、一年後に多賀城に集合するよ城 う命令が出されている。多賀城跡の西南部の一郭 ごまんざき あぎな ところが、陸奥・出羽間の連絡路の整備は、絶対に、五万崎という字名が残っており、このときの五 に必要なものであっただけに、ついに、八世紀後半万の兵の集結にちなんでつけられたという。延暦八 すけかわ きのこさみ いさわ
ニ井宿六地蔵ーー屋代 郷義民、高梨利右衛門 が刑場に連行された道 筋に地元の人たちが建 てた。盆の祭りはその 供養祭だという。 勢至堂峠への村一一一白 河を発ち長沼町江花を 過ぎると曲折の多い山 道となる。さらに勢至 堂集落を通り過ぎると、 いよいよ峠への上り坂 てある。 寒の正月二十五日、朝、雪だった空も勢至堂宿を出となった利右衛門の思想と行動は長く義民として語 発するころには晴れていた。しばらく坂をのばり勢りつがれ、いまでも屋代郷六地蔵や利右衛門酬恩碑 至堂嶺に達し、彼はここで会津の山磐梯山の遠景に などに利右衛門義民伝ロ碑がのこっている。 足をとめたのである。 険阻な板谷と檜原 山路なれど難所なし 奥州街道八丁目宿を起点に米沢に通じる旧米沢街 陸奥国から出羽国に入る幹線は、奥州街道桑折宿道は伊達氏が開さくしたという。伊達氏が本拠を伊 を左折する羽州街道である。奥羽山脈に発するどの達郡から米沢に移した後は軍事上はもちろん経済的 谷川も陸奥国側が奥深くなだらかであるが、出羽国にも重要な道となり、江戸時代には米沢藩の参勤交 側はその反対に傾斜は比較的急である。その顕著な代路となった。山脈に深く食い込んだ谷がないた こさか 七五五メ 例がこの羽州街道である。桑折宿を発して小坂宿にめ、板谷峠 ( ー ) のほか副峠を二〇〇メートル つくと、福島県と宮城県の県境にかかる小坂峠 ({ 余りも上り下りしなければならない険しい峠路で通 一メー ) が目前である。旧道は、峠の頂上をめざし 行は容易でなかった。慶長六年 (8 , ) 十一月、加賀 としいえ けいじ て、胸つき八丁といわれる急坂を登るが、小坂峠を藩主前田利家の甥にあたる武人前田慶次が伏見を出 しち 越えれば「山路なれど難所なし」といわれた山中七発し、この峠道を通って米沢に入った。亡き秀吉の かしゆく くみ かげかっ ケ宿街道となり、山形県と宮城県との境の金山峠恩を忘れず関ヶ原の役で西軍に与した上杉景勝を慕 ゅのはら にわさか にかかる。やや戻って旧湯原宿から西に 、客分となって景勝に仕えたのである。庭坂ー板 にいじゅく すももたいら げんな 五六八メゞ 二井宿街道を進むと二井宿峠 ( ー ) 力ある。両谷間の仲継駅李平宿の元和四年 ( ~ しの文書によ 街道ともともに分水界を越すとまもなく眼下に、そ ると上下の伝馬は馬でなく牛であった。険阻な峠道 れぞれ金山宿や二井宿の集落が現れ、急斜の道が曲には牛がより適していたからである。 折する。一一井宿街道を下りる途中の一一井宿上宿の一 米沢と会津地方を結ぶ会津街道 ( 会津地方では米沢み ひばら の坂に、高梨利右衛門という義民の処刑場がある。 街道 ) は高い峠の連続であった。中心は檜原峠 ( 九四 き・もいり 五四〇メ、 農民利右衛門は二井宿村の肝煎で問屋を兼ねていた しであるが、米沢と関の間の船坂峠 ( ー かんぶんめやす つなぎ といわれ、米沢藩の苛政を訴える寛文目安 ( しをつぎが綱木峠 (? 」比メ ) とつづき、檜原湖畔に下っ げんろく あららぎ 九六三メ 八六四メ つくり幕府に直訴し捕えられ、元禄一兀年 ( ←し十二 てからも蘭峠 ( ー レ ) ・大塩峠 ( ート ) を越えな やしろごう 月、雪の中で斬罪された。屋代郷郷民のために犠牲ければならなかった。青年志士吉田松陰は東北旅行 かなやま こおり しらおんひ
街道。史みちのくの道は近世の道 イ社ら 念珠ヶ関付近ーー越後 との国境に近く、白河関・ 勿来関とともに奥羽三 関の一つ 0 、一 / ・毋冫ロ いに羽州浜街道が走る。 陸奥に達する東山道 えぞ 古代奥羽の交通路は、律令国家の「蝦夷地」経略に 伴って発達したとみてよい。もちろん蝦夷地内の交 通がこれより先になかったというわけではないが、 他地方にくらべて国家の政策のもっ力が大きかった るいじゅうさんだいきやくじようわ のである。『類聚三代格』承和二年 GiII) の太政 官符によると、白河・菊多両関が四〇〇年余り前に 設置されたとある。四〇〇年余り前は疑問として も、両関が蝦夷の南下を阻止するために相当古くか ら設置されたであろうことは疑いない。越後と出羽 ねずがせき の国境に設けられた念珠ヶ関も同様であろう。 むつのくに 最初、東北地方は陸奥国一国だけで、出羽国が独 わどう 立したのは和銅五年 ()\ 一 ) のことである。それでも 陸奥国は大国で、現在の青森、岩手、宮城、福島の 四県にまたがっていた。この大国の国府が、このこ とうさんどう ろどこにあったか正確ではないが、官道の東山道は こ , っ于 . けしもつけ 上野、下野の国府を通って、白河の関を越えて陸奥 の国府に達していたわけで、その途中には多くの駅 が置かれた。 とうさんどう 渡辺信夫 東北大学教授 20
阿武隈川 ( 県境付近 ) -- ー福島盆地を形成し た阿武隈川もこのあた りては狭い山間を流れ る。古道はこの川を離 れて国見を通過した。 泉 平 成 頼朝の奧州進攻の道鎌倉から平泉、 むつのくにだて あっかし て、八月七日に陸奥国伊達郡阿津賀志 ( 厚樫 ) 山 くにみぎわ 頼朝、鎌倉を発っ 約二八九、 ) 辺国見沢 ( 国見駅 ) に到着、というもので みなもとのよりとも ふじわらのやすひら 源頼朝 (L 七 ) が奥州の雄、藤原泰衡を討たあった。 ぶんじ ぼ、つるい んとして鎌倉を出発したのは、文治五年 ( ←し七月 おくいり 長大な阿津賀志山の防塁 十九日のことである。奥入合戦はここに開始され た。あらかじめ、遠く九州の御家人たちにも七月十 さて国見に到着した頼朝を迎えたのは、夜半の激 日以前に関東に参集するよう動員令が出されていた しい雷鳴ばかりではなかった。彼の眼前には阿津賀 うんか 記雑当 ) 。頼朝軍はしだいに増加し、雲霞のごと志山に泰衡方が構築した堅固な城壁が横たわってい あ き大軍となっていった。鎌倉幕府の史書である『吾 たのである。この要塞について『吾妻鏡』は、「国 ずまかがみ かの にわかくち′」じよう 妻鏡』は頼朝軍が三軍から構成されていたことを見宿と彼山 ( 阿津賀志山 ) の中間に俄にロ五丈の堀 あぶくま せき 述べている。すなわち頼朝率いる大手ノ軍、これはを構え、逢隈川 ( 阿武隈川 ) の流を柵に堰入れ : : : 」 はった 中通りを侵攻した。次に千葉常胤 ( ~ 一八 5 ) ・八田と記している。 とうかいどう あっかし ふもと 知家率いる東海道方面軍は浜通りを侵攻、そして 厚樫山とその麓国見は、今日の福島・宮城県境 えちご 越後・出羽を侵攻する北陸道方面軍の三軍である。 にほど近い。福島盆地を流れてきた阿武隈川は、こ まるもりかくだ このうち『吾妻鏡』が詳述するのは大手ノ軍の動の県境において再び地峡部に入り、丸森・角田へ抜 しもつけのくにこ 向である。その経路は、七月二十五日、下野国古けていくが、近世の奥州街道はいったん阿武隈川と たはし うつのみや こたおしきり こすごう 多橋駅、すなわち近世の宇都宮城下小田町押切橋離れ、国見・厚樫の麓から越河の峠 ( 国見峠 ) を越 ほう . へい 神前に幣 ( 小田橋 ) ( 誌 え、白石川の流域に入っていく道であった。現在の 〈ぬさ〉 『下しに到着、宇都宮に奉幣 ( をたてま 0 つること ) 七月一一十八日には新渡戸駅に到着。翌一一国道四号線・東北本線・東北自動車道などは、いず しらかわのせき せきみようじん とうしゅう 十九日、白河関を越え、関の明神に奉幣。そしれもほばこの道を踏襲している。おそらく中世に 多賀国府 ! 、 船迫 小坂。 国見 土湯。 河 白 宇都宮 なか ともいえ た つねたね しろいし 月立ロ ~ 央雄 文化庁文化財保護部 ノ 57