多賀城跡ーーその遺跡 は東北本線北方の小高 い丘の上にある。現在 遺跡の東南隅に隣接し て東北歴史資料館があ こう . 現在、東門跡の東延長上には、塩釜市香津町があを求めたのである。 てんおう さがみ むさし るが、これは、国府津に由来する地名といわれてい 天応元年 (\ 八 ) 一一月、相摸 ( 神奈川県 ) ・武蔵 ( 東 かずさ 京都・埼玉県 ) ・安房 ( 千葉県安房郡 ) ・上総 ( 千葉県中 しもう・さ とうかいどうとうさんどう ひたち こうしてみると、多賀城の地は、東海道と東山道部 ) ・下総 ( 千葉県北部・茨城県の一部 ) ・常陸 ( 茨城県 ) が合流する陸上交通の要衝であると同時に、背後にのそれぞれの国に、海上を利用して、穀一〇万石を 塩釜の津 ( 港 ) をひかえた、海上交通の便にも恵ま運ぶよう指示している。坂東地方は当時「坂東八 こうずけ れたところで、東北地方の政治の中心地として、ま国」とされ、さきにあげた国のほかに上野 ( 群馬 しもつけ 県 ) ・下野 ( 栃木県 ) が含まれるが、両国とも内陸部 たとない条件をそなえていたのである。 で海をもたないため、命令からは除外されている。 みちのくの反乱 荷物は塩釜の港にあげられ、多賀城へ運びこまれた えみし 宝亀十一年 (8 八 ) 三月陸奥国の北部で、蝦夷の族のであろう。 いじのあぎまろ 長、伊治呰麻呂 ( 磁年 ) が反乱を起こし、当時の東 きのひろずみ 道をはばむ山海ニ道の勢力 北地方の最高行政官 ( 按察使 ) であった紀広純瓮 このころ、政府に対抗する勢力は「山海二道の 2 しを殺害し、一気に多賀城を攻めて倉庫の中の 賊」などと、史料に表現されている。山海一一道とい ものを奪い、放火するという事件が発生している。 うのは多賀城を中心にして南北にそれぞれ存在する この事件は、単に呰麻呂一個人の行動としてとらえ ることはできない。中央政府の政治支配の強化に対交通路であった。南の山道は下野国からの東山道の する不満が、地元の人びとの間に根強くあり、呰麻延長で、海道は浜海道とよばれる常陸国からつづい 呂を支持したからこそ、多賀城はいとも簡単に攻めている東海道である。一方、北は黒川郡から出発 ながおか たまっくり 落とされてしまったのである。そして、この事件をし、玉造郡翁酣市 ) に向かう山道と、長岡郡 =) おしか きっかけに、約三〇年間、東北地方は動乱の渦にま を起点として牡鹿郡翁靤市 ) へ向かう海道とがあっ きこまれるのである。 えんぎしき せいとう この反乱を鎮圧するため、征東大使 ( 饐邦大将 当時の文献、『延喜式』 ( た、現在でいう法律行の細則 わみようるいじゅしよう ) の郡名の記載順を 軍 ) が任命され、多賀城に軍営が置かれた。これかや『和名類聚抄』翁社轆分 から ら始まる戦いに備えて、空になってしまった多賀城参考にするならば、多賀城以北において、山道に属 かみしかま しだくりはら ばんどう の倉庫を満たすため、坂東の地 ( 関東地方 ) に食糧する郡は、黒川・賀美・色麻・玉造・志太・栗原の ほろ・き こく 763 ーー・ - 要衝に城柵のあった古代の道
徳川幕府が 五稜郭 安政 4 年 ( 1857 ) 着工 8 年の歳月を費やして 建設。箱館奉行の庁舎 だった。榎本車が占拠。 1 ミを せて二千数百名を収容し、海路を北上していった。 たのである。戊辰戦争当時十歳であった、のちの陸 榎本はこれより先、政府に歎願書を出していた。 軍大将・軍事参議官柴五郎 ( 贏 ) の回顧絖 それには蝦夷地 ( 北海道 ) に、ロシア侵略に備える る襾治人 ) によれば「野菊咲き乱れ、浜なすの赤き 軍団と開拓団を作る彼らの構想が描かれていた。士実」に彩られた下北の輝く海辺の地は、やがて氷点 族ュートピアの構想だ。十月二十日、蝦夷地鷲ノ木下一五度の厳寒に烈風のすさぶ毎日に豹変した。戸 に上陸した一行は、一面銀世界の道を進み、箱館の代わりに米俵を繩でくくりつけただけの仮屋。大 ( 函館 ) 五稜郭を占拠した。箱館府知事は青森に逃豆・馬鈴薯・海草の常食。凍死と餓死の恐怖。眼底 走していた。江差で主力艦開陽を風波で失う痛手は に浮かぶのは、会津若松城下を焼く紅蓮の炎の中で あったが、一カ月で松前藩領を手中にした。だが、 自害した祖母や母、やさしかった姉や幼い妹の白装 この新天地構想は結局幻にすぎなかった。 束のむくろであり、難民の群れにもまれながら母の 榎本軍は政府の交渉で外国勢力にも反乱軍と認定名をよび、地を叩き、草をむしって泣き、叔父の家 に送られていった自分を呪ったあの日の記憶であ され、翌明治二年 (*l(i) 三月からの政府軍の反撃を 受けた。宮古湾海戦に勝ち、津軽海峡を渡った政府る。 犬肉の塩煮をのみこめない少年に父は叱責してい 軍は江差北方の乙部に上陸、海陸協同作戦で榎本軍 を攻めたてた。四月十七日松前がおち、集中攻撃の う。「やれやれ会津の藩士ども下北に餓死して絶え 前に孤立した五稜郭にたてこもる榎本軍は、五月十たるよと、薩長の武士に笑わるるぞ、生き抜け、生 そそ 八日政府軍の軍門に降った。こうしてついに内乱は きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、こ 終わった。旧幕府・東北諸藩およそ五万、政府軍側 こはまだ戦場なるぞ」。日常的な飢寒の戦場。柴の およそ七万、総計約一二万の兵力動員は、日清戦争偽らざる感は「挙藩流罪という史上かってなき極 に匹敵するといわれる。 刑にあらざるか」の・一句に凝縮されている。戦争に よる収奪や略奪にさらされた農民たちの一揆、災禍 挙藩流罪にあらざるか と「賊軍」の烙印を残して、薩長藩閥政府・天皇制 たなぶ 明治三年 (lJö) 五月、田名立。 ( む。市 に青森県 ) に向かう陸国家の構築が進んでいた。 路や海路を約一一八〇〇戸の会津旧藩士家族が北上し 戊辰の戦いは、東北人に容易に癒せない負い目の ていった。旧南部藩から処罰でとりあげたこの下北 意識と「白河以北一山百文」に象徴される蔑視との となみ の荒地を、政府は斗南藩三万石として松平家に与え戦いとして、長く生きつづけたのである。 おとべ 7 イイ
さかのうえのたむらまろ 年八 ) 三月には、多賀城に集まった諸国派遣軍 延暦十年 (\ 九 ) 以降の有名な坂上田村麻呂 (?E は、道を分けて北へ進んだ。渡河上 ) して前進八一 一 ) の戦いは、実は、このような長期の戦乱によ し、胆沢地方の蝦夷の本拠を攻め、一四カ村八〇〇って、政府側も蝦夷側も疲弊しきったところに登場 戸を焼き払った。ところが、さらに勢いに乗じて苅 月して、両者の妥協をはかったことで成功をおさめた 進したところで蝦夷のはさみ討ちにあい、 戦死者・ もので、いわれているように、田村麻呂の武名がと できし こ篶、、を負傷者を多数出し、さらに、 どろいたために蝦夷が屈服した、というものではな 川に飛び込んで溺死し はだか た者一〇三六人、裸で泳ぎきり、ようやく逃げ帰っ 。東北各地に今なお残る田村麻呂伝説と史実と さんたん は、必ずしも一致しないのである。 た者一二五七人という惨憺たる敗北に終わった。 鎮守府、胆沢城に移る ( を史実とちがう田村麻呂伝説 この戦いについて、中央は、敗戦を征討軍首脳の 胆沢の地を治めた田村麻呂は、延暦二十一年 ( 5 作戦の失敗とした。しかし、現地からは、河陸両道 (l) 、胆沢城をつくった。それまで多賀城にあった しちょう . ほしいい の輜重翁し一万二四四〇人、一度に運ぶ糒鎮守府は胆沢城に移された。胆沢城を治める鎮守府 むつのすけ 蒸して乾燥させた貯蔵用の飯で、 水に浸せば、すぐに食べられる ) 六一一一五石 ( ←以五斗将軍は、陸奥国の第一一等官である陸奥介を兼務し、 る、という報告が届いている。征討軍二万七四七最終的な決裁は、陸奥国府、多賀城に仰いだが、胆 〇人が一日に食べるのは五四九石である。二万七四沢地方以北に関する政務は、おおよそ胆沢城ですま 七〇人 x 一日二升Ⅱ五四九石四斗代の勤労者の消せたようである。 升と定められ。 当時の文献によれば、胆沢城と多賀城の間には、 たことに△ロう ) この計算からすると、一度で運んだも のは、わずかに一一日を支えるにすぎないことがわ反対勢力が多かったという。この状況は、さきにみ かる。 た、天平九年の多賀城と出羽柵の間に直路を開いた ときと似ている。雄勝城は、賊地とされた仙北平野 また、長い戦乱で、相手方は田を耕作することが できないので、駐屯地で食糧を確保することはできの中心施設としてつくられ、駅が設置され、多賀城 ず、滅びざるをえないのである。 から出羽柵へのルートが整ったので亠をる。 現地の最高責任者である古佐美からの、このよう 多賀城と胆沢城の間の事情もまったく同じで、玉 つくりさい ( そこ ) な報告は、自己弁護の面もあるが、報告で強調して造塞域県古川市名生館〈みようだ遺 ) を中継点と ひへい ′、り・は、り いるのは、長期の戦乱による両軍の疲弊である。 して、とくに、広大な栗原地方の安定が急務とされ 厨 ( 台所 ) の土器 伊治城跡の、堅穴住居 は火災にあい、かまど 近くの食器が使用当時 の状態て発掘された。 たま ノ 66
尻屋崎 下北半島を 恐山 田名部 恐山と岩木山・祈りに満ちて 下北と津軽の霊場 最果ての霊場、恐山 湾の山、宇曾利山 おそれざん いわきさん れいじよう 恐山と岩木山とは、 ) しずれも青森県にある霊場 恐山という名称から想像すると、それは、一つの だ。私が初めてこれらの霊場を訪れたのは、昭和一一峰をもった山のように思われるかもしれないが、実 つるぎのやまおおっくし 十七年ごろだった。そのころ、恐山へ参詣するに はそうではない。八〇〇メートル級の剣山・大尽 のヘじ おおみなと やま こっくしやましようじゃまきたぐにやまびようぶやまかまぶせざんまる は、東北本線の野辺地駅で、大湊線に乗り継がな山・小尽山・障子山・北国山・屏風山・釜臥山・円 やまあさひなやま うそり ければならなかった。この支線は陸奥湾の内岸沿い 山・朝日奈山にとり囲まれた宇曾利湖周辺の湿地帯 たなぶおおはた に海岸の松林を縫って、大湊・田名部・大畑に達し をいうのだ。無数にある湖底の蒸気穴からは湯泡が ていた。旧街道は、これといくつかの踏切で交わり吹きあげられ、水は紺碧、水中には奇魚のウグイが ぐんせい ながら、田名部へ延びていた。昔から、この道を、 群棲している。湿地帯には奇岩がたちならび、ここ じゅんけんしおちうど どうう 武士・巡見使・落人・旅僧・行商人・罪人・旅人 に堂宇が建てられている。 びやっこたい らが、本州の最果ての地へと歩みつづけた。白虎隊 一説によると、恐山は宇曾利山と書き、宇曾利と となみ で名を知られた会津の藩士も、田名部へ落ち、斗南はアイヌ語 USOR ( ウソル ) であった。ところが、 やくも 藩をつくった。私が初めて乗った大湊線は、郵便車ウソルとは北海道八雲地方のアイヌ語の方言で、こ を改造したもので、窓の下には板のべンチが無造作の言葉はほかの地域には見出されない。言葉の意味 に打ちつけられ、六月というのに、車の中央には石は「湾」である。 つがる 炭ストープが燃え、常連と思える行商人が、ストー 津軽海峡に漁場をもとめて、船上の人となり、下 しりや おおま プのまわりに集まって、日干しの魚を焼いていた。 北を見たとき、尻屋崎から大間を結ぶ海岸線に、恐 かわうち そび 恐山に登るには、田名部参道・大畑参道・川内参山の群峰が、肩をよせあうように聳えている。宇曾 道などがある。バスが通るのは田名部参道だけだ。 利山、湾の山という名称はここに由来したのかもし 宇曽利 津軽半島 島霧ケ沢 野辺土 △八甲田山 弘前 こんべき 楠正弘 東北大学教授 770
焼けおちた塀の屋根瓦 宝亀 11 年 ( 780 ) 蝦 夷との戦いて多賀城は な建物はほとんど焼失。 この地域 秋田城跡 の井戸跡から「天平六 年月」 ( 734 ) と書かれ た木簡が出た。秋田城 ては最も古い時期の建 物の置かれた所。 論 ← お 各郡であり、海道に属する郡は、長岡・新田・」 掘してみると、多賀城跡のように、築地土塀で囲ま だとおだとよま ものおけせん 田・遠田・登米・桃生・気仙・牡鹿の各郡である。 れ、その中には整然と大きな建物が立ち並ぶ一大官 そして「海道の蝦夷」「山道の蝦夷」とは、多賀城庁街を形づくっていたことがわかる。このことは、 以北の海道または山道地域に住む、政府に服従しな城柵が、当時の中央政府の出先機関として、東北地 い勢力のことをさしているのである。 方の政治支配の中心施設であったことを示すもので 陸奥国から京に向かう道は、奈良・平安時代を通ある。したがって、東北地方の各地につくられた城 じて、山道が主要な幹線であったと思われ、平安時柵間で連絡を密にすることが、政治・軍事上、どう てんま しても必要であった。 代の初めには、陸奥国の海道の駅・伝馬は廃止され もっかん ている。多賀城の南辺の池跡から発見された木簡 陸奥国の成立を七世紀半ばごろとすると、出羽国 わ がつくられたのは、はるかにおそく、奈良時代の和 はら どう 武蔵国播羅郡米五斗 銅五年 (\l) である。その出羽国の国府が置かれた ことりづかい おさかべ でわのさく ( き ) しようない 部領使刑部古乙正 出羽柵は、最初、山形県の庄内平野の一角 ( 晒 てんびよう と書かれている。 郡 =) に置かれたが、天平五年 ()\ 三 ) に、約一〇〇キ たかしみずのおか これは、おそらく米五斗 ( 一俵 ) ごとに、荷札 ロメートルも北の秋田村高清水岡市 ) に移され ( 木簡 ) をつけ、一頭の馬の背には、当時のきまりど た ( その後、秋田城と改称された ) 。近年、この高清水 深谷市付近 ) かの井戸跡から、「天平六年月」と書かれた木簡が発 おり、三俵をのせて、武蔵国播羅郡 ( 埼玉県の北部、 ら、東山道を通り、多賀城に運んだもののようであ見され、天平五年の出羽柵の移転が、みごとに証明 された。 じよ、つさく この出羽柵 ( 秋田城 ) は、国府の位置としては、 城柵は中央政府の連絡網 あまりにも北に寄っていたため、十分にその役割を 城というと、そのイメージは、江戸時代のものに果たすことができなかった。平安時代に入るとまも 代表される、石垣を積み上げ、天守閣がそびえたっ なく、再び庄内平野にもどされている ( その遺跡 きのわのさく は、山形県酒田市にある城輪柵跡とされている ) 。 城郭であろう。そして柵といえば、高い材木で囲ま とりで れた西部劇に出てくる砦のようなものが頭に浮かぶ このころの陸奥国と出羽国は、ほば一体と考えら であろう。 れ、両国間の政治上の連絡は、密にしておかなけれ しかし、古代の東北地方につくられた城柵は、発ばならなかった。 さく でわのくに
田沢国見峠 雫石 秋田街道 生保内 細井計 岩手大学教授 民俗の里へ・遠野と角館 平川新 遠野街道・秋田街道 東北大学助手 とおの これらの街道は、三陸沿岸の塩をはじめとする海 盆地の町、遠野への道 産物を内陸に移入し、その帰り荷として、内陸の とおの 遠野は、北上山地の中にあって、周囲を緑なす山米・雑貨などを沿岸部へと運ぶための重要な交易路 ゃなぎたくにお また山に囲まれた盆地である。そこが、柳田國男であった。このように、三陸沿岸と北上川流域とを 結ぶ交通上の要所に位置していた遠野は、北上山地 一九「 ) の『遠野物語』を生んだふる里である。 太古は湖水であったという伝説があり、その語源はの中の宿場でもあったから、人びとの往来も盛んで アイヌ語の TO ( 湖 ) 、 NUP ( 丘原 ) にあるという。 あり、しかも、海陸の物資の集散地として、城下盛 遠野への道は、東北地方を南北に縦断する奥州街岡についで栄えた町であった。とくに、一の日と六 ろくさいいち 道から分岐して、北上山地へと進む二つのルート がの日に立てられた市日 ( 六斎市 ) には、近郷近在か はなまき っちざわしもみや あった。一つは、奥州街道の花巻宿から土沢・下宮らの人びとでたいへんな賑わいであったという。 もり ほうれき 守などを経て遠野に通じる道である。これが遠野街 宝暦十三年 (*l< 七 ) の『遠野古事記』には、「当所 しちしちじゅうり 道とか花巻街道などといわれていた。もう一つは、 の市日には、七七十里の旅人集会して、商売繁昌 なんぶ もりおか おとべおおはざまたっそ 南部氏二〇万石の城下盛岡から乙部・大迫・達曾の地なり」と記されている。『遠野物語』にも、 部などを経て遠野へと達する道がそれである。さら 「遠野の町は南北の川の落合にあり。以前は七七十 ふえふきとうげ おおっち に、遠野から笛吹峠を越えて、三陸沿岸の大槌に里とて、七つの渓谷各々七十里の奥より売買の貨物 うぐいすざき 通じる道が大槌街道であり、その途中の鶯崎で分を聚め、其市の日は馬千匹、人千人の賑はしさなり せんにん かっし かまいし 岐して仙人峠を越え、甲子から釜石へと達するのが き」と述べられている。「七七十里」とは、『遠野 こまっ こおりやま 釜石街道である。一方、この遠野からは小松峠を越古事記』によれば、内陸の花巻・郡山町 ) ひころいち いわやどう え、日頃市から盛へと通じる道もあった。これが盛岩谷堂、沿岸の大槌・釜石・盛・高田の七町が、遠 街道である。 野から七〇里 ( 約 トル〈一里。六「 ) のところに位置して 波奧州街道巻 。附馬牛 野街道達曾部崎土淵大街道大格 遠野 笛吹峠 石街道 仙人峠甲子右 宀鱒綾青笹 北上 至岩谷堂守沢織上郷 さかり -
極楽の浜ーー宇曾利湖 の白砂の浜を極楽の浜 という。無縁仏や阿弥 陀仏が祀られているが、 地蔵化されている。小 さな石積みがたくさん ある。 おうしゅうなんぶ れない。しかし、それは遠くから眺められた山のこ七年 ( 一 5 ) に発行された『奥州南部宇曾利山釜臥 ぼだいじ えんぎ とであった。 山菩提寺地蔵大士略縁起』によると、 じかくだいしえんにん この宇曾利を恐と書いたのは、実際にその地に登 慈覚大師円仁が唐に留学したとき、夢のお告げ 拝して、一〇〇を越す熱湯穴が躍動しているのを見 があった。本国に帰ったら東方に旅をせよ。王 やくし た北海道に移住した人々であった。そして、薬師の 城を去ること三十余日の所に霊山がある。温泉 ひえ にいたき 湯・比恵の湯・花染の湯・新滝の湯などがあって、 は湯量がゆたかで諸病悉く退除す。猛雲焔々と じぞうそんまっ 病いなおしのために利用され始め、地蔵尊が祀られ して孤独地獄の相を現す。汝、彼処に往って地 ぶんか た。これがいつごろ始まったかはわからない。文化 蔵一体を彫作して、一宇を造立、四恩に報じ、 三悪道の人をたすけよ : ・ 慈覚大師 (Y<#¯) は帰朝後、夢の霊山を訪ねて や、、東北〈旅をし、松島の蔬竜寺・山形の立石寺を建 立し、釜臥山に修行し、ついに恐山霊場を開いたと いう。慈覚大師が実際に下北に巡礼したとは考えら れないが、東北には、慈覚大師が開いたという寺社 どうしゃ は、平泉の堂社をはじめとして四〇以上ある。これ をたどると、天台宗、慈覚伝説の伝わった道を訪ね ることになるだろう。 この縁起はさらに、 こう伝えている。 その えしんじようちょう 其後、恵心定朝二子大師の徳を慕って此の山 しか に来た。然し一千仏を彫作して山の中間に安置満 してあるというが、年久しく過ぎて、堂舎仏体 悉く敗壊し、今はなし。唯残る所のものは大師 直作の地蔵尊のみ : おそらく、定朝の流派の人が地蔵尊を刻み、これ が慈覚大師作ということになったのだ。この縁起の げんろく 原型は、元禄年間 ( 5 哩 ¯) に整えられつつあっ マー 4 : な第を。いノ
小坂峠ーーー福島県国見 町と宮城県白石市の境 にある。福島県桑析町 と山形県上山市を結ぶ 山中七ケ宿街道の入口。 務怠慢のためだとし、警備を厳重にすべきことを命 小野寺などの諸氏で、いずれも支配する領域にしつ しようか かり腰をすえて、地元の確保に全力をあげる。やが じ、さらに二年後の正嘉二年 (l しには、地頭の管 とのいや 轄している郡内の宿々に宿直屋を設けて、交代で警て戦国大名に成長するこれらの諸氏は、領域の街道 備にあたるよう命令している。暮府はこの後も東北 沿いに小規模ながら城下町を形成し、家臣や寺社を 各地の治安維持には大きな努力を払っているが、つ集め、職人・商人を定着させて、支配の拠点とする いには津軽で発生した安東氏の乱をきっかけに、滅ようになった。伊達氏の西山・梁川、最上氏の山 亡への下り坂を転落することになった。 形、蘆名氏の黒川、南部氏の三戸などは知られてい るが、そのほかにも地方国人の小規模な城下町は各 戦乱、そして城下町の建設へ 地に出現した。さらにこれらの町場を結んで、脇街 南北朝内乱が始まると、街道はまたも軍勢の往来道や連絡道の整備拡充も行われた。とくに太平洋側 きたばたけあきいえ こさかごえ 山中七ケ する通路となった。北畠顕家 (— ) の二度にわと日本海側をつなぐ通路として、小坂越 ( さんのはざまっくも ささや ふたくち せきやま たる西征をはじめ、三迫津久茂橋の戦、広瀬川の笹谷越・二ロ越・関山越・軽井沢越・国見越・白木 戦など数多くの合戦が大道沿いの各地で争われる。 峠越などは重要な役割をになった。青森県と秋田県 そのたびに付近の民衆は略奪にあったり、労役を徴 を結ぶ鹿角路なども同様なものであった。近世の道 発されたりの苦労に泣いたのである。顕家の第二次路交通網の大枠は、この段階でほば固まったのであ 西征に際しての、『太平記』の有名な記事を思い出る。戦国大名も街道の管理に尽力したことは当然 じんかいしゅう してほしい。「路次ノ民屋ヲ追捕シ、神社仏閣ヲ焼で、伊達氏の分国法『塵芥集』には、道路の修理 払フ。総ジテ此勢ノ打過ケル跡、塵ヲ払テ海道二・ そのほかを規定し、道幅は一丈八尺 ト ) とす 三里ガ間ニハ、 在家ノ一宇モ残ラズ、草木ノ一本モ べしとしている。また関銭徴発のための関所も、南 無リケリ」という有様は、東海道でのことであった 北朝期以来設けられていた。熊野堂造営のための赤 ますだしゆくい 名取などが知られる。 が、東北地方でも同じような状況はあったものであ本関龕台 ) 、益田宿居関 ( 市 ) ろう。 僧侶・文人の巡遊もさかんで紀行文も残された。 っと 内乱が終わっても、東北地方では依然として戦い とくに『都の苞』 ( 観応年間の紀行 筑紫の人宗久の ) 、『廻国雑記』朔 はつづいたが、そのなかから姿を現してきたのは、 擎 ) 、『梵灯庵返答書』 ( 齪 ) などが知ら 地域の中心になる有力な武士たちだった。安東・南れており、当時の街道の状況をうかがうことができ る。 部・葛西・大崎・最上・伊達・蘆名・相馬・岩城・ あ 756
秋田城跡の瓦墫 ( がせ ん ) -- ーー博は今のレン ガやタイルのことて、 矢て首などを射抜かれ た人は誰をあらわすの だろうか。 要衝に城柵のあった古代の道 多賀城から胆沢城へ とおみかど 東の遠の朝廷〃多賀城み 仙台市の中心部から東におよそ一五キロメートル むつのこくふたがじよう のところに、古代の陸奥国府、多賀城の遺跡があ る。往時の多賀城は、一辺約九〇〇メートルの四方 ついじどぺい を築地土塀で囲まれ、城内には、朱塗の柱・白壁・ かわらぶき 瓦葺の建物が立ち並んでいた。多くの役人や一般 の人びとが城内・城下に集う、東北きっての都市で あった。 しおがま 多賀城跡を走る古い道路は、塩釜街道とよばれ、 まっ 遺跡の西南から東北に通じている。かって、俳人松 おばしよう 尾芭蕉 (— 一四 ) が『奥の細道』でたどった道であ り、また、仙台藩主が松島に憩うときの、通いなれ た道でもあった。ところが、多賀城跡を発掘してみ ると、多賀城内を走っていた古代の道も、ほばこの 街道に沿っていることがわかった。古代の道が東北 に抜けるところにある東の門は、約四〇メートル内 側にいちだん奥まってつくってある。これは、多賀 城内における東門の格が高く、しかも重要な出入り ロであったためと考えられる。 平川南 しゅぬり 762
白河小峰城跡ーー - 中世 は、結城白川一族小峰 氏の居城。寛永 4 年 ( 16 27 ) 入部した丹羽長重 の修築て本格的な平山 城となった。 むねたけ であった宗武 ) の子に生まれた定信は、学された。中世以来幕末に至るまで、歴代の白河の領布 ひろせてん 主のもっこの重みは、東北における白河の位置の政 問を好み、歴史を愛した。家臣広瀬典 ( 、生年不詳 5 ) こ しようこもんじよ 命じて、『白河風土記』『白河証古文書』などを編治的重要性を反映するものにほかならない。 かきん 集し、また部類別の全国的な文化財研究書ともいう しゅうこじっしゅ 会津藩に遺る保科正之の「家訓」 べき『集古十種』のほか、数々の書物を著した。 白河市街の南に現存する南湖 (Wk) は、藩士の水「会津」の地名は、東北最古のものといってよい。 かん力い すじん しどう 練・庶民の遊楽、さらに耕地の灌漑のために、定信『古事記』『日本書紀』は、崇神天皇の派遣した四道 らくよう しようぐん おおひこのみこと が中国洛陽の名園に模して造営したものである。 将軍のうち、北陸道を進んだ大彦命と東海道を たけぬなかわわけのみこと ところで、小峰城ともよばれる江戸期の白河城進んだ武渟川別命が出会ったのがここであったこ は、戦国期まではこの地方の本城ではなかった。中とから「会津」の地名がおこったという伝説を載せ ゅうきしらかわ 世白河郡の領主結城白川氏は、この城から約三キロ ている。政治・文化の両面で大きな意義をもっこの からめ メートル東の白川搦目城を本拠としたのである。そ 一一つのルートが合流する会津は、少なくとも戦国末 むねひろ でわ の祖、結城宗広っ年 1 ' ) は南北朝の動乱に南朝方期までは陸奥・出羽二国、すなわち東北の要の地で ごだいご ・」、つ」カ として活動し、後醍醐天皇 ( 一三三加から「公家のあったのである。 てんぶん あんのん ごなら 宝」という言葉を賜わった。 一五世紀の中葉に至っ 天文七年 ( 一朝 ) 、国中の安穏を祈って、後奈良天 しんびつ はんにやしんぎよう て、結城白川氏の勢威は絶頂に達し、南奥州から北 皇宸筆の「般若心経」が国ごとに一巻ずつ配付さ せつけん あしなもりきょ 生年不詳— 関東まで席巻する。 れたが、 その一巻は会津の蘆名盛舜 ( 一五四三 ) のも ぶんめい だてまさむね 一五六七— 文明十三年 (& 四 ) 晩春の三月二十一日、白河鹿島とに届けられている。のちに、伊達政宗 ( しやとう なおとも くろかわ 神社の社頭に、結城白川直朝とその子政朝以下一〇が蘆名氏を滅亡させて、米沢から会津黒川城 ( のち の鶴ケ城、 〇人の白川家中の衆が集まり、満開の桜花の下で、 津若 ) に移ったことも、また豊臣秀吉が おううしおき げ・、」う 一日一万句の連歌の会を催した。家督政朝の「世を「奥羽仕置」をこの会津黒川に下向して断行したこ みこころ 照らす花や御心神の春」、隠居直朝の「時しるやとも、ともに会津の地の重要性を明白に物語ってい つづみ 鼓にひらく春の花」の句は、まさに桜花とあわせてる。 力も、つ わが世の春をたたえるものであった。 蘆名氏の滅亡後、伊達・蒲生・上杉と、一〇〇万 かんえい 石クラスの大名の本拠となった会津若松は、その後 江戸初期の寛永二十年 ( 四 (I) 以降、白河城には、 徳川譜代で一〇万石以上の大名が交替しながら配置再び蒲生六〇万石・加藤四〇万石の治世を経て、寛 こみね まさとも かしま