牛方 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道1 風かけるみちのく
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1. 日本の街道1 風かけるみちのく

洋式高炉ーー一幕末に大 島高任によって南部藩 に設けられ、砂鉄ては なく鉄鉱石を原料とす る方法を切り開いた。 4 っ ? 」 0 オここに輸送物資・商品の増大とともに、専業の生産量が、市場関係の変化と砂鉄確保の困難によ 的に牛方稼ぎを行う者が、広汎にこの地域に登場すり減少していった。また塩・海産物生産も停滞し、 ることになった。彼らは鉄山の製品輸送を請け負っ輸送物資が減少してきたことにともない、 この地域 たり、あるいは土砂・砂鉄輸送を行うかたわら、 の専業牛方の営業は困難になっていった。天保の飢 塩・海産物輸送を行って、牛方を専業としたのであ饉 ) による疲弊も癒えがたいのに、藩の年 る。この地域の専業牛方成立は、鉄産業発展と結び貢・諸役の収奪は強化され、牛方の生活はもちろ きゅうはく ついていたところに特色がある。しかも、この地域ん、この地域全体の農民の窮迫の度は増していっ こうか の牛方は、一人の牛方が中期には六頭を、その後は た。このため、弘化四年 (5) ・六年 (II<I) 両 七、八頭まで扱ったが、ふつう他地域の牛方が扱う度の、牛方も加わっての一揆 ( 三閉伊大一揆 ) が引き のは五、六頭程度であり、この点でも特色がみられ起こされたのである。 る。これも鉄山が生みだした特色であった。 しかし、商品生産低迷化の状況は変わらなかっ この時期の上下牛・平付牛の場合もやはり多額のた。しかも一方では、幕末に、宮古周辺に、砂鉄に 前貸し金を受けているのだが、それを返済してしま よらず、鉄鉱石を利用した新たな製鉄産業が起こ う牛方も少なくなく、大炭牛とは異なっていた。ま り、洋式の溶鉱炉が釜石に設けられている。このた た、請負的存在すらみられるこの時期の上下牛や、 め、野田通りの旧式の製鉄は、すでに発展が望めな 他の自立的な専業牛方を目標として、さきの目石のくなった。 長治郎のような者が、鉄山で最も確保に辛苦してい 長治郎と同じように、多くの住民が望んだ専業的 る大炭牛稼ぎに鉄山へ出向いたのである。しかし、 牛方稼ぎは減少し、ほかに産業もないこの地域で 鉄山は藩によって定められた山法によって、厳重な は、再び農閑期だけの、季節的牛方稼ぎが主流とな 労働者管理を行っており、この点、上下牛・平付牛っていった。しかし、それも明治末年になると、塩 もその制約下にあり、請負の牛方でさえも、働きが は専売になったため、販売方法が変化し、牛方の運 悪ければ繩でしばられるめにあわなければならなかぶ荷はほとんどなくなったのである。こうして、こ っ , 」 0 の山間の街道に牛方の姿がみられなくなるととも に、街道もさびれていくことになったのである。 衰退する鉄の道・消える牛方 参考文献『中村家文書』 ( 岩手大学所蔵 ) 森嘉兵衛「九戸地方史・下」 天保期 (— 一坐一〇 ) 以降には、野田通り地域の鉄山 てんぼう きん 一八三三 ひへい みやこ 北上山地の鉄と塩の道 8

2. 日本の街道1 風かけるみちのく

この北上 ' 北上山地ーーー 山地は豊かな砂鉄や森 林資源を有し、辺地と されながらも一時、経 済発展をもたらした。 籌 間地の物資輸送に適した牛が利用された。野田・沼り、多額の資本を投下して、鉄山周辺の農民に、多 宮内街道では、馬も利用できるため牛とともに使わ額の前貸し金を与えるという方法で、鉄山労働者を なんぶ れた。『南部牛追唄』で有名な、南部の牛方の本場確保した。燃料の炭や、資材の土砂・砂鉄、製品の はこの小本街道であった。近世中ごろまでは、小本鉄を運送する牛方も、同じ方法で確保した。鉄山で 街道を、塩・海産物をつけた数頭の牛を追う野田通は、労働者を精いつばい働かせるために山法を定 りの農民が、晩秋と春に頻繁に通い、さらに一八世め、怠ける者を繩でしばり、また、逃亡を防ぐため かんせい 紀末の寛政期 ( ~ 砒 5 『¯) 以降になると、鉄輸送に従厳重に山内を監視した。牛方で山内に居住する者 おおずみうし 事する牛方が、一年中、この街道と野田・沼宮内街は、炭を運ぶ牛方 ( 大炭牛 ) と、鉄山支配人に隷属 ぎゅうし 道を通って、盛岡・沼宮内へと向かったのである。 する牛士であり、他の牛方は自宅から通った。さき にふれた目石の長治郎は、この大炭牛である。 興隆する鉄山のかげに 鉄山で働く牛方は、大炭牛と、土砂・砂鉄運送に ひらっきうし じようげうし 小本街道、野田・沼宮内街道を、頻繁に鉄が輸送従事する平付牛と、盛岡へ鉄を運送する上下牛に大 されるようになったのは寛政期以降のことであっ きくわかれる。燃料確保が経営の要であったため、 鉄山は大炭牛確保を非常に重視した。このため支配 北上山地は、豊かな砂鉄と、製鉄の燃料になる森人は、大炭牛方が、たえず借金を負うような状況を 林資源をもっていたため、江一尸時代前期には、この つくりだすようにし、他の鉄山労働者と同様に、厳 地方で鉄生産が始まった。鉄生産には、大量の炭を重に労働者管理を行った。しかし、この地域には他 必要とするため、野田通りでは、江戸時代中期以降に産業もなく、現金・米穀確保のためには、鉄山は には、北部と南部に地域を二分して、鉄山がいつも重要な働き場であった。 稼働できるようにしていた。北部の野田村周辺の鉄 専業牛方の登場 山は、盛岡への鉄輸送に野田・沼宮内街道を使い かせい 小本街道を使ったのは、田野畑・岩泉地域の鉄山で 一九世紀の化政期 ( 文化Ⅱ一八〇四 5 一八 文政一八一八—三〇になると、 あった。 鉄山の発展は著しく、野田通りで生産された鉄は、 えちご 南部藩 ( 盛岡藩 ) は、近世中期のころに、鉄山経関東方面や越後へも販売されるようになった。ま 営に力を入れ、鉄山を直営としたが、実際の経営は た、塩・海産物の生産も順調で、野田通りの農民の 地元の有力商人を利用して行った。また、寛政期よ 飼育する牛が増加し、その経営は安定することにな かなめ

3. 日本の街道1 風かけるみちのく

平庭峠 葛巻 戸 至 田 野田・宮内街道 北上 。萩牛 岩泉 小本街道 沼呂内 。田野畑 盛岡 至花巻 岩泉町の町並み - ーー岩 泉は竜泉洞のある町と まツ第い して有名てあるが、藩 、 = 第第参げ制時代は鉄山と結びっ き成長・発展した町て ある。 本 北上山地の鉄と塩の道 深井甚三 小本街道と野田・沼宮内街道 も打てた。そして、なによりも、この地域では村の 牛方長治郎の逃亡 中でも富裕な農民にしかかなわぬ、六、七頭の自分 ぶんせい 江戸時代も後半の文政四年 (llll<) 十二月、北上山の牛を利用した牛方稼ぎへの夢がもてた。鉄山に勤 てつざんうしかた めいしむら 牛を使っ 地の一村、目石村の久之助が、鉄山で牛方 ( て荷物をめ始めた当座は、若干の持ち牛と、鉄山から貸し付 ぶ ) として働くため、親類につきそわれて、目石けで売り渡された牛とで、長治郎が牛方として独立 はぎゅう より西北へ三里 ( メ 約一二キ。 ) ほど山間に入った萩牛のできるのは目前のことのように思えた。 わりさわ おもむ 割沢鉄山へ赴いた。久之助の心は、兄長治郎の行方 しかし、賃金は安く、酒代・米代を払うと、牛代 と多額の借金のことで重く暗かった。久之助は、判 口を返す金などたいして残りはせず、おまけに勤める 沢鉄山から逃げ出した兄の代わりに、鉄山で牛方を期間が長くなるにつれて、牛代を主とする大きな借 勤め、借金を返さねばならないのだが、借金を全額金ができてしまった。勤めはつらく、怠けると、罰 返済しきれるかどうかわからないのである。 として容赦なく繩でしばられた。 ふさ 兄長治郎が割沢鉄山に勤め始めたのは、鉄山が開 借金の重みに心も塞がり、からだは疲労し、真夏 ぶんか に向かう日射しはきつい かれた文化十一年 ( ~ しのことであった。長治郎は 。ついに文政三年 ( 一一 5 ) の 肌を刺すような冷たい風の吹く日も、焼けつくよう夏の日に、夢の潰えた長治郎は、牛を山中に解き放 な炎天の日も、六、七頭の、名目だけが自分のものち、追手から逃れるため必死に山道を駆け抜けた。 である牛を追い、製鉄に使う炭を炭焼き場から鉄山あとに残す弟たち家族のことが、頭にこびりつきな へ運ぶことを仕事としていた。 からも。 鉄山には、この北上山地の住人には常食できない 塩を運ぶニつの道 米の飯があった。疲れをいやしてくれる酒も飲め ぶりよう ばくち うえだ のだ た。鉄山役人の目をかすめ、無聊をなぐさめる博奕 長治郎が生きた江戸時代に、野田通り・上田通り 早坂峠 山地 3 富山大学講師 8

4. 日本の街道1 風かけるみちのく

わにぐち 菩薩の一つ、福満虚空蔵菩薩を祀っ ってかけ登り、麻縄でできた鰐口に 器・桜皮細工小京都の名にふさわし 6 ている。 むらがっていく。 われ一番と、押し 部いは武家屋敷の枝垂桜と檜木内 この行事はその年の無病息災を願あいもみあいしながら、登っていく。 る川岸の染井吉野が美しい町である。 あ桜皮細工は桜の皮を使った手工芸品 う奇祭で、下帯一つの若者たちによ夜の冷たい空気がたちこめる一月 って演しられる。午後七時の鐘とと にもかかわらす、本堂はむらがる若 で、秋田県北部の山間地帯に伝承さ 一三段の石段を本堂に向か者たちの熱気でいつばいになる。 味れていたものを、角館藩士がその技 熱術を覚えたことに始まる。表面が桜 す風鈴をはじめ、昔ながらの風炉やの皮のため、素朴ではあるけれど柔 懐かしい北国の民芸・工芸 湯釜、鉄瓶、そしてすきやき鍋やスらかい手ざわりと通気性、通湿性が ・津軽塗り藩の奨励で始められたんでいる。黒と赤を基調に牛若丸、テーキ皿など斬新なデザインのもの生かされている。 ( 角館市内てはいた といわれている。特産のひば材に布源為朝をモデルにしたものが多く、 も目立つ。 ( 鉄器が作られるまてを一るところに製作所兼販売店がある。 をかぶせて、各色の漆を塗り、砥ぎ祭りのねぶたの絵と似ている。大胆般公開している岩鋳工場がある。八また、角館町伝承館内ては桜皮細工 と塗りを繰り返すこと四十数回、一なデサインと華麗な色彩が喜ばれて時ー一七時半日曜、祭日は休み実演のほかに、武家、民俗、工芸品 つの品を完成させるのに二カ月近く いる。金魚ねぶたとはねぶた祭りの谷〇一九六・三五・一一五〇一製品などの資料も展示されている。九時 かかるという。津軽塗りは蒔絵のなときに、おもに子供たちが持ち歩くは盛岡市と水沢市の専門店て ) ー一六時半木曜休館三〇〇円 かでも、「砥ぎだし蒔絵」といわれ、人形燈籠のこと。可愛らしいまっ赤 ・小久慈焼陸中海岸の最北端の町 谷〇一八七五・四・一七〇〇 ) 紋紗塗り、いろいろ塗り、錦塗りななミニサイズの金魚ねぶたは、土産久慈は、海女の北限としてよく知ら としてもよい。 ( 津軽凧絵、金魚ねぶれている。小久慈焼は約一五〇年前 む、つ たとも、青森市、弘前市の民芸店てから伝わる陶器。初代熊谷甚左衛門 いい売っている。金魚ねぶたの作り方をが、福島県の相馬焼の陶工から学ん 使す 教わりたい方は、弘前市和徳町の津で始まった。 ( 窯元は一軒。久慈市内 りを軽凧絵師の中野敬造さんまて。谷〇て売られている ) 塗味 一七一一・七一一・七〇三 lll) ・忍び駒南部は馬の産地として恵 津ど ・南部鉄器南部の鉄山については、まれたために、岩手県には人形の馬 どがその代表とされている。艶のあ本書の「北上山地の鉄と塩の道」にや玩具が多い。忍び駒もその一種で る表面や使いこむはどに冴える色が詳しい。 4 上山系から産出する砂鉄子供の玩具であり、縁結びの伝説を・曲げわっぱ大館の西に位置する 優稚。 ( 青森市、弘前市の津軽塗り専や良質の砂や粘土、木炭は、盛岡やもっている。ワラで作った駒を人に田代町は秋田杉を使った曲け物を作 門店て。見学したい方は弘前市に津水沢に三〇〇年の歴史をもっ伝統工知られないように神社に奉納すると、る家が多い。曲げわっぱとは曲げ物 軽塗り団地がある。谷〇一七一一・三 芸品を継承させてきた。今、この地願いごとがかなうといわれており、の一種で、この土地で働く山林業の では伝統を絶やさす、しかも現代の成就したときにはそのワラ駒を飾っ人々の弁当箱のこと。薄く切った杉 ・津軽凧絵、金魚ねぶた津軽の凧息吹きを感しさせる鉄器が多く作らてまた奉納する。 ( 花巻市内などて売板をたわめて曲げ、端をとめて輪に 絵は葛飾北斎や歌川国芳の流れをくれている。透き通るような音色をだられている ) してから底板を貼りあわせるという、 角館名産の桜皮細工

5. 日本の街道1 風かけるみちのく

カッパ狛大一一常堅寺 境内にある一対の狛大 は、「民話のふるさと」 を訪れる旅行者に、何 を語りかけようとして いるのだろうか。 宝を いるという意味である。 眼前に広がる明るい市街の光景に接したとき、『遠 現在は、東北本線の花巻で下車して、釜石線に乗野物語』をとおして心に描いたイメージと、あまり りかえ、急行で約一時間ほどすると、北上山地の中にもかけはなれた現実にまず驚くことであろう。し に明るく開かれた盆地に至る。そこが、「民話のふかし、失望することはない。旅行者の一人ひとり るさと」といわれている遠野である。 が、一歩踏み込んで観察すれば、町並みの片隅に、 また、山や川、草や木、寺院や神社、それに郊外の 路傍にかよう民話のこころ のどかな田園の中に、そして、路傍の草むらの中に 遠野を「民話のふるさと」として、また、日本民静かに立っている石碑や石像、そんな一つ一つか 郷守工地 野宮鉄産る 遠下蹄馬れ俗学のメッカとして、一躍有名にしたのは『遠野物ら、「民話のふるさと」としての息吹が自然に伝わ のた「 昔つもての 語』であった。その一節には、 ってくるだろう。 あてっし うねどりさまたいし て今あが 遠野郷は今の陸中上閉伊郡の西の半分、山々に オシラサマ・コンセイサマ・卯子酉様・太子様・ 守っ、が影 かまなりじん きつね 宮一は」面 じゅうおう 下の、に場の て取り囲まれたる平地なり。新町村にては、遠十王様・釜鳴神・カッパ・多賀神社の狐・池の端 っちぶちつくもうし あおざさかみごうおとも うすじようけん てんぐ 野、土淵、附馬牛、松崎、青笹、上郷、小友、 の石臼・常堅寺・松崎沼・天狗森・ . 遠野三山 あやおりますざわみやもり ろっこうし いしがみ 綾織、鱒沢、宮守、達曾部の一町十ケ村に分か池峰・六角牛・石上 ) の女神・雪女等々。いずれも つ。近代あるいは西閉伊郡とも称し、中古には 『遠野物語』の中に出てくる話の主人公たちであ また遠野保とも呼べり。今日郡役所のある遠野る。彼らは、われわれに何を語ってくれるのであろ 町はすなわち一郷の町場にして、南部家一万石うか。機会があれば、この話の生まれた土地をぜひ の城下なり。城を横田城ともいふ。この地へ行訪れて、『遠野物語』の世界を肌で感じとってほし くには花巻の停車場にて汽車を下り、北上川を 渡り、その川の支流猿ケ石川の渓を伝ひて、東 多彩な民俗芸能の宝庫 の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥 には珍しき繁華の地なり。 「民話のふるさと」としての遠野は、民俗芸能の宝遠 しの かみはやせ とあって、明治ごろの遠野が偲ばれる。 庫でもある。遠野の町はずれにある上早瀬橋を渡へ しろいわ 遠野を訪れる旅行者は、「民話のふるさと」、『遠り、土淵方面へと進むと、その途中の松崎町白岩の はちまん ごうちんじゅ 野物語』のふるさとを求めてやってくるのであろ 八幡山に、遠野郷の鎮守であった八幡神社が鎮座し う。そんな旅行者の誰もが、遠野駅に降り立って、 かみへ たに

6. 日本の街道1 風かけるみちのく

遠野盆地ーー早池峰・ 北上山地を望む一一南 六角牛・石上の遠野三 は社鹿半島から、北は 山に囲まれた盆地は、 八戸の白銀崎まて延び 内陸と海岸を結ぶ物資 る広大な山地て、早池 の輸送路として、また 峰山・姫神山・五葉山 産地として栄えた。 などの高峰がある。 浄土ヶ浜 三陸海岸 の重要な港てあった宮 古に近く、剣ノ山・賽 ノ河原・血ノ池などの 奇勝がある。優美て華 麗な海岸てある。

7. 日本の街道1 風かけるみちのく

嵐ふく古城の花に津軽富士ーー飯田蛇笏ーー 岩木山一一津軽平野の 西南にあり、津軽富士 と呼は・れる。山項部は 岩木・巌鬼・島海の 3 峰が並ひ津軽の人々の 厚い信仰を受けている。 津軽の石仏 津軽地 方の石仏は群集してい ることが多い。地蔵尊 に祈願をこめるという より、地蔵尊が亡きわ が子なのてある。 津軽平野一一一白神山地 に源を発して十三湖に 注ぐ岩木川は、津軽平 野を豊かに満たし、名 産の津軽米とリンゴを 生んだ。 ( 前ページ )

8. 日本の街道1 風かけるみちのく

遠野の朝霧 - ー - 北上山 地の盆地にある遠野は、 豊かな自然に恵まれ、 幻想的な数々の民話や 伝説は、この地方の素 朴な人情から生まれた。 おちあい 遠野の町は南北の川の落合に しちしちじふり 在り。以前は七七十里とて、七 つの渓谷各々七十里の奧より売 買の貨物を聚め、其市の日は馬 千匹、人千人の賑はしさなりき。 四方の山々の中に最も秀でたる はやちね つくも、つし を早池峯と云ふ、北の附馬牛の ろっこうし 奧に在り。東の方には六角牛山 立てり。 ( 柳田國男『遠野物語』より )

9. 日本の街道1 風かけるみちのく

越河の峠 ( 国見 ) 古代の延喜式古道も、 中世の頼朝の道も、そ して近世の奥少街道と 現代の国道 4 号線も、 いずれもこの峠を越え ている。 鳥取という地名は、今日も国見町にある。国見か た。この記述からしても、中世の中通りが、このあ ら北方、今日の県境尾根を越える峠は、東より先述たりでは近世の奥州街道と同じ道であることがわか の越河・ついで石母田峠・山崎峠・小坂峠とある る。今日の柴田町船迫には街道沿いに関所という小 あざ が、鳥取は小坂峠の麓小坂に接している。小坂峠は字があって、古来より交通の要衝だったことがわか しちかしゆく にらかみ 近世の山中七ケ宿街道である。あるいは中世にも る。また船迫の西方に韮神山があるが、この山麓一 この街道が機能していたのだろうか。いずれにせ帯は白石川、荒川の合流地点で沼沢地帯をなしてお り、天然の要害であった。 よ、頼朝の別働隊はこの鳥取より山中に入り、国衡 とき の陣の後方で鬨の声を発し、矢を射かけたのであ 『吾妻鏡』は、阿津賀志山敗戦後船迫まで、奥州方 る。折しもすでに頼朝の大軍は木一尸ロへの総攻撃をの抵抗についてはとくに記述していないが、この韮 からめて しかけていた。搦手からの攻撃に不意をつかれた国神山、船迫の地にも激戦を思わせる伝承が多い。す てるいたろうたかなお 衡軍は総崩れとなったのである。 なわち韮神山は平泉方の照井太郎高直が戦死した所 ふなはざま であり、地名として照井橋・洗首池・照井塚があ しそっ 伝説の古戦場、船迫 り、戦死した士卒の墳墓が々とする千塚もある。 ながと 国衡は「出羽道を経て、大関山を越えむと欲す」 また船迫は船迫長門なる人物が頼朝の大軍をここで ささや と、出羽への逃亡をはかった。この道は笹谷街道でひきとめた古戦場とも伝えられている。勝者の記 宮城県教育委員会「歴史の道・調査報告 録である『吾妻鏡』と、敗者の記録である伝承 あろうとされている ( 書・笹谷街道」〈宮城県文化財調査報告 いずれの側がより真実に近い姿を伝えてい 題六 + ) 。しかし結局、国衡は芝 ( 柴 ) 田郡大高宮 原町金ケ瀬、現位置は大正四年の移転後 のもので、かっては平村台の山にあった ) のあたりで討たれるのかは、にわかには決しがたい。 しゅんめ たかばば た。国衡の乗る馬は高楯黒と呼ばれる奥州一の駿馬 圧勝に終わった多加波々城攻略 で、大肥満の国衡を乗せて、日に三度、平泉の高山 に登っても汗をかかぬ名馬であったが、肥満の国衡 頼朝軍は、翌八月十二日晩景、多賀国府 ( 多賀道 わだよしもり あぶくま が和田義盛の二の箭を恐れて逃げまわり、深い田に城 ) に到着、この日三方軍の一つ、海道軍も逢隈 みなと はまったため、ついに抜け出すことができなかった湊を渡って到着した。一日の休息をおいて黒河を経鳧 たまっくり と『吾妻鏡』は述べている。このあたりの筆致は敵て玉造郡に向かった。途中、国府中山上物見岡に たた 将を称えるものとはけっしていえない。 おいて泰衡郎従と合戦を行っている。この物見岡に ふなはざま たにかりちょうめい 明けて八月十一日、頼朝は船迫宿に軍を進めついて、『平泉雑記』は宮城郡上谷刈村長命山を たがのこくふ せんづか こ

10. 日本の街道1 風かけるみちのく

い第 1 : をい一 雪の生保内川一一生保 内宿は佐竹藩 ( 秋田 ) と 南部藩 ( 岩手 ) の境にあ り、関所が設けられ栄 えた宿場て、民謡「生 保内節」は有名てある。 を朝物第島臨第 ・宿響宿宿 10 第 : 朝第 00 物・第物第 ー臨住第ー宿自ン ッー第ー 第ー宿第角ーみー姦二「一 仙北の民家ーー仙北地 田沢湖の秋ーー東に奥 方は純農村地帯て、 羽山脈、西に出羽山地 面に水田がひろがる。 が連なる山間にある。 閉ざされる季節への備 日本て一番深い湖とし えてあろうか、軒下に て知られ、ほぼ円形の 餅が吊るされている。 明るい湖てある。 イ 5