みちのくの関門、白河藩 みちのくの南端の藩は白河藩である。白河といえ しらかわのせき らくおう ば、ひとはすぐに白河関を連想し、また白河楽翁 てん 松平定信 ( ) を思いおこすにちがいない。天 さくに 町三年 (& 七 ) 、養父定邦のあとをうけて白河藩主と なった彼は、四年後には幕府老中首席となり、寛政 かいかく の改革 (&$) を断行した。その政策の基調は、自叙 うげのひとごと きんこく 伝『宇下人一一一一口』によれば、「金穀の柄を上にとりか えす」ことにあった。つまり、田沼時代 ( 一〔七 までの間に、すっかり商人に掌握されてしまった経 済の主導権を、幕府・大名の手にとりもどすことに あった。しかし、風俗取り締まりを伴う彼のきびし い改革は、思うように成功しなかった。 白河の清き流れに魚すまず もとの田沼の泥ぞ恋しき 氏神年どる 馬のなれ 結局、大奥の反対にあって、定信は失脚する。以 相来。較わ ぶんか 以る〔 - 行 れ争が 後、彼はもつばら白河藩政に精励するが、文化九年 追将ら旗事 。」 ( 三 " 馬平え神神 ( 一「 ) 隠居して楽翁と称し、花鳥風月を友とした。 ごさんきようたやす 馬祖と月社 相の事 7 勇御三卿田安家の祖で、万葉調の歌人としても著名 うお 木主月ムロ 福島大学教授 かんせい 7 イ 5
白河小峰城跡ーー - 中世 は、結城白川一族小峰 氏の居城。寛永 4 年 ( 16 27 ) 入部した丹羽長重 の修築て本格的な平山 城となった。 むねたけ であった宗武 ) の子に生まれた定信は、学された。中世以来幕末に至るまで、歴代の白河の領布 ひろせてん 主のもっこの重みは、東北における白河の位置の政 問を好み、歴史を愛した。家臣広瀬典 ( 、生年不詳 5 ) こ しようこもんじよ 命じて、『白河風土記』『白河証古文書』などを編治的重要性を反映するものにほかならない。 かきん 集し、また部類別の全国的な文化財研究書ともいう しゅうこじっしゅ 会津藩に遺る保科正之の「家訓」 べき『集古十種』のほか、数々の書物を著した。 白河市街の南に現存する南湖 (Wk) は、藩士の水「会津」の地名は、東北最古のものといってよい。 かん力い すじん しどう 練・庶民の遊楽、さらに耕地の灌漑のために、定信『古事記』『日本書紀』は、崇神天皇の派遣した四道 らくよう しようぐん おおひこのみこと が中国洛陽の名園に模して造営したものである。 将軍のうち、北陸道を進んだ大彦命と東海道を たけぬなかわわけのみこと ところで、小峰城ともよばれる江戸期の白河城進んだ武渟川別命が出会ったのがここであったこ は、戦国期まではこの地方の本城ではなかった。中とから「会津」の地名がおこったという伝説を載せ ゅうきしらかわ 世白河郡の領主結城白川氏は、この城から約三キロ ている。政治・文化の両面で大きな意義をもっこの からめ メートル東の白川搦目城を本拠としたのである。そ 一一つのルートが合流する会津は、少なくとも戦国末 むねひろ でわ の祖、結城宗広っ年 1 ' ) は南北朝の動乱に南朝方期までは陸奥・出羽二国、すなわち東北の要の地で ごだいご ・」、つ」カ として活動し、後醍醐天皇 ( 一三三加から「公家のあったのである。 てんぶん あんのん ごなら 宝」という言葉を賜わった。 一五世紀の中葉に至っ 天文七年 ( 一朝 ) 、国中の安穏を祈って、後奈良天 しんびつ はんにやしんぎよう て、結城白川氏の勢威は絶頂に達し、南奥州から北 皇宸筆の「般若心経」が国ごとに一巻ずつ配付さ せつけん あしなもりきょ 生年不詳— 関東まで席巻する。 れたが、 その一巻は会津の蘆名盛舜 ( 一五四三 ) のも ぶんめい だてまさむね 一五六七— 文明十三年 (& 四 ) 晩春の三月二十一日、白河鹿島とに届けられている。のちに、伊達政宗 ( しやとう なおとも くろかわ 神社の社頭に、結城白川直朝とその子政朝以下一〇が蘆名氏を滅亡させて、米沢から会津黒川城 ( のち の鶴ケ城、 〇人の白川家中の衆が集まり、満開の桜花の下で、 津若 ) に移ったことも、また豊臣秀吉が おううしおき げ・、」う 一日一万句の連歌の会を催した。家督政朝の「世を「奥羽仕置」をこの会津黒川に下向して断行したこ みこころ 照らす花や御心神の春」、隠居直朝の「時しるやとも、ともに会津の地の重要性を明白に物語ってい つづみ 鼓にひらく春の花」の句は、まさに桜花とあわせてる。 力も、つ わが世の春をたたえるものであった。 蘆名氏の滅亡後、伊達・蒲生・上杉と、一〇〇万 かんえい 石クラスの大名の本拠となった会津若松は、その後 江戸初期の寛永二十年 ( 四 (I) 以降、白河城には、 徳川譜代で一〇万石以上の大名が交替しながら配置再び蒲生六〇万石・加藤四〇万石の治世を経て、寛 こみね まさとも かしま
勢、守を いーを】第・ノ 白河関跡ーー白河の南 東の旗宿関ケ森にある。 奥羽三関の一つ。松平 定信の建てた「古関蹟」 の碑がある。 しさをおもう気持も籠められているようだ。 白河の関から先の道の奧ーーーみちのくは、遠い昔 の人にとって「蝦夷」が住むという異国であった。そ 上を岩ル 坂堂 こへ旅することは、はばいまのわれわれにとっての れ一刻 沙わメを 窟いリ像外国旅行にひとしいか、それ以上に大変なことであ ったにちかいない 達呂たさ如 しらかわのせき ・麻し高日 泉村立に大 現在、国定史跡に指定されている白河関跡は、市 平田建壁の の中心からだいぶ離れた栃木県境に近い小高い森の なかにある。初めて訪れたのは夏で、立ち並ぶ樹齢 さいぎよっ 数百年の杉の大樹が、印象的であった。西行も芭蕉 も、ここを通って、みちのくの旅に向かったのであ ひらいすみ つわもの 芭蕉は平泉で、「夏草や兵どもが夢の跡」という 句をよんだ。その平泉に、壮大な仏教文化の都をつ そと きよっら くり上げた奧州藤原氏の初代清衡は、白河関から外 青森県津軽半島の陸 奥湾に面した海辺 ) まで、二十余日の行程の道に、 かさそとば 一町ごとに笠卒塔婆を立てた、と伝えられている。 平泉は白河関へ十余日、外ケ浜へ十余日、つまり 奧州のはば中央にあたる。『吾妻』によれば、か ってはその両方の道の一町ごとに、立札のかたちを あみだ した面に金色の阿弥陀像を図絵した笠卒塔婆が、立 っていたというのだ。 昔の街道のことを考えると、目には見えないもの が、むに映ってくるような気がする。 山の中や平野を縫って蜿蜒と続く道の傍らに立っ ていて、旅人の不安を慰め、励まし、カづけ、とき には道のりの遠さを強く感じさせ、あるいは遙かな 行く手への夢をかきたてていた笠卒塔婆の列か、脳 裡に浮かんでくる。 カ′第
七ケ宿街道・上戸沢宿 ゆるやかな坂道と 茅葺き屋根の家並みは、 旧道を進む者にいっそ、を、 う旧宿駅の風情を感し させる。 廃して院内峠を開き、江戸への道を整備している。 側のいう会津道である。秀吉が小田原から会津入り また、東海道や中山道の伝馬制に類似する、青印のしたときに開発された。のちに延長され、越後に入 伝馬制を領内で実施したのも慶長期である。ただ当り、三大佐渡路の一つとして佐渡産金を江戸に運ん 初、出羽国から陸奥国への羽州街道の道筋は、山形 だ。会津では白河までを東通り・白河通り ( 白河街 城下から東に折れて笹谷峠を越え奥州街道の刈田宮道 ) などと呼び、幕府役人の往来、会津藩主の参勤 宿に出ていたが、しだいに山中七ケ宿街道を利用す交代路として、また庶民の江戸往還路として賑わっ たのである。 るようになり、桑折宿が奥州街道との分岐点となっ たのである。羽州街道の呼称もまた固定したもので 会津若松と扛戸を結ぶもう一つの主要街道は南山 はなく、最上道・山形道・秋田道などと呼ぶことも通り ( 会津西街道 ) である。日光道中の今市宿を起 あったのである。 点に北上し、会津若松に通じる街道で、江戸・会津 一方、秋田・津軽両藩では羽州街道を「大道」と若松間の最短距離として会津藩の江戸廻米が送ら 称し、他の領内道を「脇街道」と呼んで区別してい れ、民間の運送業者である中附馬などが往来した。 た。江戸に通じる道、参勤交代路、他国者も通る往南山通りの旧大内宿は、かっての宿場のたたずまい をいまも山中にとどめている。 還路などの意味がそこにこめられているのであろ 白河宿を東に入るのが棚倉街道である。六万石の 棚倉が中心で、南下して常陸に入り江戸城下に達す 白河につづく道 る。幅三間 (f い ) と奥州街道と同じ道幅の大道 みちのくを南北に走る奥州街道と羽州街道を幹にであった。郡山宿から太平洋岸の平方面に通じる道 多くの脇街道が走り、秘境や名勝地にも通じてい が岩城街道である。沿道の守山藩や二本松藩の江戸 た。玄関口白河宿を起点に北進しつつ、主な脇街道廻米の津出し路で、岩城浜の諸湊から船で常陸の那 かみなと をたどることにしよう。 珂湊に運んだのである。帰り荷は塩荷が多く牛によ はじめに、奥州会津への道である。秀吉の奥州下 り駄送された。郡山宿を北上し本宮・二本松などを しずめ 向以来、会津はつねに奥羽の鎮として重きをなし、 通過すると板倉三万石の城下福島に着く。ここから 譜代大名が配置されてきた。水運に恵まれず、関東現在の国鉄奥羽線沿いに北進し米沢城下に至り、羽 に近いこともあって街道が発達した。白河宿を西に 州街道の上山宿に連結するのが米沢街道である。 折れ、長沼・勢至堂を経て会津若松に至る道が白河米沢藩の参勤交代路として利用された。 かみのやま 2
会津西街道 会津西街道は南山通りとも呼はれ、会津若松から関山・津川から赤谷を過ぎ、越後の新発田、または津川から阿 大内・糸沢を経て山王峠を越え、五十里から藤原に出た賀野川沿いに新潟に出る越後街道、会津若松から大峠か 山あいの村々の農民が荷を運んだ道でもあった。このほ檜原峠を越えて米沢に出る米沢街道かあり、「会津五街 か、会津若松から猪苗代湖の西南岸を通り、勢至堂を経道」といわれた。参勤交代路は、会津西街道があまりに て白河に出る白河街道、猪苗代湖の北岸を通って、ル毎・険しいため、白河街道・ニ本松街道を利用するようにな 本宮を経てニ本松に出るニ本松街道、会津坂下・野沢・ 36
白河関跡 - ー白河藩主 の松平定信が建てた 「古関蹟」の碑てある。 関ケ森とよぶ丘の上に あり、柵列の跡や古硯 などが発掘された。 。当第の物 、一一一を物をな 第 、置く伝馬制を実施した。ともに、中世以来の古道沿奥州道中の北限を白河宿としたのも当然であった。 いにひとまず新領国経営の必要から伝馬制を設置しそこまでの奥州道中とは、江戸を起点にして奥州に たものと思われる。 至る街道という意味であって、東海道のように、地 このように、古代以来の奥羽の街道は再び整備さ域内を通過する主要街道という意味から名づけた街 れはじめるのであるが、本格的な整備は江戸幕府と道名ではないからである。 各藩の交通政策をまたなければならなかった。 江戸に幕府が開かれ奥州が近くなったとしても、 江戸の人々にとって奥州はいぜんとしてみちのく 奥羽の道は近世の道 ( 道の奥 ) であったのである。 いま奥羽の大道といえば、多くは江戸時代の奥州 新しい奥州街道の整備 街道 ( 奥州道中 ) を連想するにちがいない。それに はそれなりの理由がある。古くから発達し、中世に 奥州の道は奥州の人々の手でしだいに整備されて は宿も存在した東海道や山陽道とは違い、奥羽の街 いった。参勤交代の実施、藩による領内街道の整備 道は江戸時代に入って急速に整備されたからであなどによって、白河以北の、福島・仙台・盛岡と北 る。その意味で奥羽の道は近世の道なのである。 進する道筋にも宿駅が設けられ、一里塚も設置さ 徳川氏が奥州道中の一部に伝馬制を布きはじめたれ、奥州道中の延長路として一筋の街道ができあが っていった。 のは、開幕の前年にあたる慶長七年 ((bh) のことで あるが、区間は江戸千住宿を起点に奥州の玄関口白 それは、古道の道筋に沿うものではあったが、地 河宿までの一一七宿にすぎない。しかも、宇都宮宿ま域的にみれば古道と江戸時代の奥州街道の道筋が同 では日光道中と同道であったから、狭義の奥州道中一でないことでもわかるように、古道そのものの整 は白沢宿から白河宿までのわずか一〇宿ということ備ではなかった。新しく開いたり、あるいは古道の にもなる。いずれにせよ、奥州の玄関口白河宿まで脇道を拡張したりして、まったく新しく道路をつく である。 るようなものであった。 幕府が江戸と京坂を結ぶ東海道・中山道の一一大街 そして新しい街道を整備するのには一つの原則が 道と、江戸を起点とする関東の主要街道を道中奉行あった。すなわち、一定の区間に宿駅を設置し、そ 管轄の五街道と定め、勘定奉行管轄の脇街道と区別の宿駅の維持を宿住民に負担させるかわりに、商工 して、別扱いにすることが原則であったとすれば、 業の営業を認めるという原則である。宿駅村に町屋 2
奧州へ向かうこの街道は、江戸から宇都宮までは日光 道中と同じ宿駅を通り、奧州白河までが五街道の一つで ある奧州道中で、道中奉行の支配下であった。白河から 郡山・ニ本松・福島・白石を経て仙台までを仙台道中ま たは仙台道、仙台から一関・平泉・水沢・花巻を経て盛 岡までを南部街道、盛岡から沼宮内・一戸・三戸・七戸 を経て野辺地に出、青森を過ぎて津軽半島の突端三厩に 着き松前に至るのを松前道とも呼び、白河から松前まで を仙台松前道と呼ぶこともあった。また、千住から三厩 までを奧州街道とも呼んだ。いずれにしろ奥州街道は、 みちのくの最も重要な道であった。 な・す 春の里道ーーー安達大良 の山々の中腹には大小 の高原が開け、谷間に は多くの温泉が湧く。 二本松付近は、農業を 主体に酒造りも盛んだ。 花巻の農家ーーーー花巻は 古くから奥州街道の宿 駅として栄え、 こか ら遠野に出る遠野街道 が分かれていた ニ本松から安達太良山 を望む 二本松は、 西に安達太良山を仰ぎ、 南は阿武隈川の丘陵に 囲まれ、古い城下町の 面影を残す。 第を 1 を みんまや 3 イ
日目には見えないものの列 夏であったら、そんなに感じなかったのかもしれ オし 二月の終わりごろに、東北本線の急行列車で、 白河に向かった。 よく晴れた日で、東京を出てしばらくは、雪もな 春が間近に来ているのを感しさせる風景だった。 宇都宮を通り、矢板をすぎたあたりから、景色が変 わってきた。リ 、歹車が平野部を離れて、少しすつ高い ところへ登っていくのが感じられる。線路の両側の ところどころに、雪が見えてきた。 日が翳ってきたせいもあって、その変化はドラマ チックであるとさえおもえた。白河には雪がちらっ いていた。いまのわれわれは、交通機関に頼って旅 をする。けれどもこの日は、もつばら徒歩で旅をし くらか実感できたような気がし た古人の気持が、い 都ん」ば ~ 牋ととに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関 のういん 一〇五〇 いうまでもなく平安時代の歌人能因法師「 ' 、 ' 、 の作で、一説には都で想像してつくったものともい 、王一信る ~ ・す ~ のる城定れ われているかここではその問題には触れす、歌に ちあて平ら みに代松知 ついてだけ考えてみたい。 河交、て ・白かかし 春霞と秋風の対照によって、都からの遙かな距離 跡、名たと 城門大っ君 峰関代な名 が示され、それとともに花やかな都にくらべて、白 の譜とが の関の寂しさが、身にしみるおもいかする。また、 はるばるとよくもここまで来たものだなあ、という 感懐と、さらにこれから先の道のりの長さと冬の厳 すを を物ぎ = ゞ こ 0 長部日出雄 作家
街道。史みちのくの道は近世の道 イ社ら 念珠ヶ関付近ーー越後 との国境に近く、白河関・ 勿来関とともに奥羽三 関の一つ 0 、一 / ・毋冫ロ いに羽州浜街道が走る。 陸奥に達する東山道 えぞ 古代奥羽の交通路は、律令国家の「蝦夷地」経略に 伴って発達したとみてよい。もちろん蝦夷地内の交 通がこれより先になかったというわけではないが、 他地方にくらべて国家の政策のもっ力が大きかった るいじゅうさんだいきやくじようわ のである。『類聚三代格』承和二年 GiII) の太政 官符によると、白河・菊多両関が四〇〇年余り前に 設置されたとある。四〇〇年余り前は疑問として も、両関が蝦夷の南下を阻止するために相当古くか ら設置されたであろうことは疑いない。越後と出羽 ねずがせき の国境に設けられた念珠ヶ関も同様であろう。 むつのくに 最初、東北地方は陸奥国一国だけで、出羽国が独 わどう 立したのは和銅五年 ()\ 一 ) のことである。それでも 陸奥国は大国で、現在の青森、岩手、宮城、福島の 四県にまたがっていた。この大国の国府が、このこ とうさんどう ろどこにあったか正確ではないが、官道の東山道は こ , っ于 . けしもつけ 上野、下野の国府を通って、白河の関を越えて陸奥 の国府に達していたわけで、その途中には多くの駅 が置かれた。 とうさんどう 渡辺信夫 東北大学教授 20
発田米 沢、沢 を 4- 喜多方 猪苗代 ニ本松 会津Å本松街道 大内い猪苗 河 高原峠道 藤原 日光。 今市 宿場と蔵の遺る道 竹川重男 福島県教育委員会 会津西街道と米沢街道 八年 (Æ) の伊達政宗小田原参陣のときと、同年の 会津藩の本道五筋 豊臣秀吉会津下向の際の道筋が、近世初期の姿をわ 四方を高い山々に囲まれた会津は、他国へ出るにずかに伝えている。 は必ず山を越えなければならない。江戸時代、峠を 天正十八年、豊臣秀吉が北条氏のたてこもる小田 越えて他国に通じる主要な街道は五つあった。藩で原城を包囲したとき、会津にいた伊達政宗にも秀吉 はこれを本道五筋、または会津五街道といった。慶より参陣の催促があった。政宗は黒川城 ( のちの会 あん 安二年 ({) 会津藩が幕府へ差し出した報告による津若松城 ) をあとにし、南山通りで高原峠を越え、 しもつけ おおうち と、会津藩内の本道・小道の数は、「本道五筋、 下野国 ( 栃木県 ) を経て小田原に出ようとし、大内 現・南会津郡下郷町大内、 道二十五筋に候」とある。 地元では〈おおち〉という ) まで行ったが、「関東の諸城 本道五筋とは、会津若松城下大町札辻より白河へ 悉く小田原に相属し」ていたため、黒川に引きかえ 出る道 ( 白河街道、白河通りともいう ) 、南山を通り宇し、米沢街道を通って米沢へ出、小国から越後・信 都宮領藤原村へ出る道 ( 会津西街道、南山通りともい 濃を迂回して小田原へ参陣したという家記 う ) 、越後新発田領へ出る道 ( 越後街道 ) 、檜原を通 しかし、小田原に参陣した政宗は、秀吉から参陣 って米沢へ出る道 ( 米沢街道 ) 、猪苗代を通って二本のおくれを責められ、会津を没収される。そのあと がもううじさと 松へ出る道三本松街道 ) である。 秀吉は、彼の最も信頼する武将の一人蒲生氏郷 ( ← この本道五筋の整備されはじめた時期ははっきり ¯) を会津の大守に封じ、自ら「奥羽仕置」のた ほしなまさゆき しない。保科正之 (— 一六こ ) が会津に入った寛永一一め会津に下向するのである。 / こは、すでにある程度の整備はなされて + 年 ( も。 秀吉の会津下向の道筋 いたから、街道の成立はもっとさかのばるだろう。 てんしよう 天正十八年、秀吉は小田原から宇都宮・白河を経 会津の主要街道通過の史料は少ないが、天正十 かんえい 6 5