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検索対象: 日本の街道1 風かけるみちのく
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1. 日本の街道1 風かけるみちのく

桃の花咲く道ーーー現在、 米沢と福島を結んてい る国道 13 号線沿いにあ る大滝付近。山国に春 は静かに訪れる。 39 i 諢響駐

2. 日本の街道1 風かけるみちのく

猪苗代湖一一一湖畔に恵 日寺、野口記念館、民 俗館がある。戦火に亀 ケ城 ( 猪苗代城 ) 、土津 神社 ( 藩祖保科正之を 祀る ) が炎上した。 ィい トい、 しちかしゆく にあたり、山中七ケ宿街道を通れば米沢と結ばれ都政府に対抗して大政元年という年号を用い、よう る。この街道は現在でも宿駅のおもかげをよく残しするに京都の南朝に対して北朝をつくったという噂 ているがダムの底に沈もうとしている宿も多い。美さえ流れた。宮のほうではそのつもりはないことを しい山峡の道である。 表明しているが、アメリカ公使などは母国の南北戦 白石に拠点をおいた仙台藩と米沢の間を、この山争をひきあいにして、北の正義を唱えた同盟の通知 峡の街道を通って使者が往来する。やがて仙・米の に大いに感銘したようである。 使者は、会津征討応援の命をうけ去就に迷っていた うるう 激烈な白河の攻防 奥羽二七藩にとび、閇四月十一日、白石で会合、 会津救済・征討軍解兵の歎願書ができたが、この歎 歌枕で有名な白河はみちのくの人り口である。宇 2 ャ願書は鎮撫軍参謀世良に一蹴されてしま「た。同月都宮方面から旧幕府脱走兵のゲリラ戦に悩まされな 末白石の盟約は、「まことの勤王」を貫きとおすた がら北上してくる政府軍の拠点となるはずだし、奥 めに薩長を排撃すること、天下の諸藩に大義を訴え 州街道から分かれ会津南方への通路の要である。閇 て味方につけ、外国公使にも書簡を送って、自らの四月九日、世良は白河城にはいった。 これより先の 立場をひろくよびかける方針に傾いていった。盟約四月十四日、副総督の沢と参謀大山は庄内藩征討の ささや しんじよう 書が調印され、作戦計画が成ったのは仙台で、五月目的で笹谷峠の残雪を踏み、新庄へ行っていたし、 三日である。これに長岡藩など北越六藩が参加し 仙・米の動きは世良の孤立をはっきりさせてきた。 た。奥羽越列藩同盟の成立である。歎願は京都にも 同盟結成が決定的になった閇四月二十日、世良は 提出されるはずだったが、戦乱にはばまれて成功し福島城下北町にある金沢屋に泊まっていた。大山に なかった。 あてて「奥羽を皆敵と見て進撃の大策」を西郷など ひらかた 五月末、福島県境の平潟翁市 北 ) に江戸上野の寛と練り直すべきだという、長文の密書を書いたばか りんのうじのみやこうげんしんのう りである。この密書がもれた。午前二時ごろ、仙 永寺を脱出した輪王寺宮公現親王宮九子、のち北 四、・九しが上陸、会津にはいった。同盟は宮を白台・福島両藩士に就寝中を襲われたこの長州藩士 石城に迎え、七月なかば奥羽越公議府を開いた。こ は、とり出したピストルも間に合わず捕えられ、阿 かっきょ なが れには元幕府老中の板倉勝静 ( 一 ) や小笠原長武隈川支流須川河原で斬首された。胴体は川に投げ みち こまれ、首は白石に運ばれた。墓も福島市中心部に / イ—九一 ) も加わっていたので、京都側も警戒し じんばやま 。世間には皇統をつぐ宮が、東武皇帝と名のり京ある稲荷神社境内と白石市陣場山に建立されてい 八九 かなめ 738

3. 日本の街道1 風かけるみちのく

阿武隈川 ( 県境付近 ) -- ー福島盆地を形成し た阿武隈川もこのあた りては狭い山間を流れ る。古道はこの川を離 れて国見を通過した。 泉 平 成 頼朝の奧州進攻の道鎌倉から平泉、 むつのくにだて あっかし て、八月七日に陸奥国伊達郡阿津賀志 ( 厚樫 ) 山 くにみぎわ 頼朝、鎌倉を発っ 約二八九、 ) 辺国見沢 ( 国見駅 ) に到着、というもので みなもとのよりとも ふじわらのやすひら 源頼朝 (L 七 ) が奥州の雄、藤原泰衡を討たあった。 ぶんじ ぼ、つるい んとして鎌倉を出発したのは、文治五年 ( ←し七月 おくいり 長大な阿津賀志山の防塁 十九日のことである。奥入合戦はここに開始され た。あらかじめ、遠く九州の御家人たちにも七月十 さて国見に到着した頼朝を迎えたのは、夜半の激 日以前に関東に参集するよう動員令が出されていた しい雷鳴ばかりではなかった。彼の眼前には阿津賀 うんか 記雑当 ) 。頼朝軍はしだいに増加し、雲霞のごと志山に泰衡方が構築した堅固な城壁が横たわってい あ き大軍となっていった。鎌倉幕府の史書である『吾 たのである。この要塞について『吾妻鏡』は、「国 ずまかがみ かの にわかくち′」じよう 妻鏡』は頼朝軍が三軍から構成されていたことを見宿と彼山 ( 阿津賀志山 ) の中間に俄にロ五丈の堀 あぶくま せき 述べている。すなわち頼朝率いる大手ノ軍、これはを構え、逢隈川 ( 阿武隈川 ) の流を柵に堰入れ : : : 」 はった 中通りを侵攻した。次に千葉常胤 ( ~ 一八 5 ) ・八田と記している。 とうかいどう あっかし ふもと 知家率いる東海道方面軍は浜通りを侵攻、そして 厚樫山とその麓国見は、今日の福島・宮城県境 えちご 越後・出羽を侵攻する北陸道方面軍の三軍である。 にほど近い。福島盆地を流れてきた阿武隈川は、こ まるもりかくだ このうち『吾妻鏡』が詳述するのは大手ノ軍の動の県境において再び地峡部に入り、丸森・角田へ抜 しもつけのくにこ 向である。その経路は、七月二十五日、下野国古けていくが、近世の奥州街道はいったん阿武隈川と たはし うつのみや こたおしきり こすごう 多橋駅、すなわち近世の宇都宮城下小田町押切橋離れ、国見・厚樫の麓から越河の峠 ( 国見峠 ) を越 ほう . へい 神前に幣 ( 小田橋 ) ( 誌 え、白石川の流域に入っていく道であった。現在の 〈ぬさ〉 『下しに到着、宇都宮に奉幣 ( をたてま 0 つること ) 七月一一十八日には新渡戸駅に到着。翌一一国道四号線・東北本線・東北自動車道などは、いず しらかわのせき せきみようじん とうしゅう 十九日、白河関を越え、関の明神に奉幣。そしれもほばこの道を踏襲している。おそらく中世に 多賀国府 ! 、 船迫 小坂。 国見 土湯。 河 白 宇都宮 なか ともいえ た つねたね しろいし 月立ロ ~ 央雄 文化庁文化財保護部 ノ 57

4. 日本の街道1 風かけるみちのく

会津鶴ケ城ーーー国史跡。 戍辰戦争て 1 カ月余の 籠城に耐えたこの城館 は明治 7 年に廃棄され たが、昭和 40 年五層の 天守閣が再建された。 ほしなまさゆき 永一一十年、保科正之 (L ) の入部以後、保科松人口三万余の小都市にすぎないが、藩政時代には仙 いえみつ 台・盛岡に次ぎ、白河とならぶ奥州街道屈指の城下 平二三万石の城地となる。三代将軍家光の異母弟に いえつな あたる正之は、四代家綱の後見として幕政を主導し町であった。 た人物である。 城跡は公園として整備され、毎年秋には恒例の菊 かきん 彼が藩の老臣たちに遺した「家訓十五か条」は、 人形展が開催される。公園の入り口、大手前には寛 かいせきめいひ 会津藩不磨 ( 不朽 ) の憲法となり、幕末に至るま延二年しに刻まれた戒石銘碑 (æしがある。 なんじがほうなんじがろくはたみのこうたみのしなりかみんはしいたげやすくしよう で、正月十一日と八月一日の年二回、会津城中で藩 爾俸爾禄民膏民脂下民易虐上 なら てんはあぎむきがたし 主以下がその朗読を謹聴する習わしとなった。その 天難欺 ふたごころ 第一条に、「藩主が将軍に二心を抱いたときは、家 藩士たちを戒しめるこの銘文は、今なお十分に用 臣たちは藩主に従わず将軍に忠勤をはげむべし」と いられてしかるべき一言葉であろう。ただし、この銘 あるように、家訓をつらぬくものは、将軍に対する が刻まれた半年後の同年冬には、一万数千人の農民 絶対忠誠であった。 ゞ蜂起し、たちまちにして県内各地に広がる一揆と ぼしん 幕末戊辰の会津藩の悲劇は、この家訓によって定なった。格調高いこの銘文の裏には、深刻な藩政危 められた命運だったといってよい。最後の会津藩主機が実在したのである。 かたもり だいぶつ 二本松の北、福島市には、室町・戦国期には大仏 松平容保 (— 一八三五 ) は、破局を予知しながらも、幕 とばふしみ すぎのめ 府のために京都守護職の任についた。鳥羽・伏見の城または杉妻城とよばれた城があった。い まの県庁 戦いに始まる戊辰戦争は、ついに会津鶴ケ城の落城の地区にあたる。この城地は近世には福島と改名さ ほった へとつながるのである。 れ、一時は堀田氏一〇万石の居城となったこともあ げんろく る。しかし、元禄十五年 (8\) 、板倉氏の入部以後 ニ本松一〇万石と福島三万石 は三万二千石の小城下として幕末に至った。 しのぶ しんたっ 会津盆地から再び奥州にもどって北上すると、ま 信夫・伊達の二郡からなって信達地方とよばれた にほんまっ かすみがじよう もなく二本松城が西に見える。俗に霞ヶ城とよばれ県北部の地域は、ほとんどが幕領であり、古来よ る。室町・戦国期の二本松城は、かって奥州探題に り、養蚕・生糸・絹織物業が盛んであった。 はたけやま いわきたいら 任じた名門畠山氏の居城だったが、江戸初期の寛 にわみつしげ 浜街道の磐城平藩と相馬藩 永一一十年、丹羽光重 ( 一七〇一 ¯) が入部して以来、一 はまかい′一、つ 仙台に入る前に、奥州街道の東の浜海道をたどっ 〇万石の雄藩として幕末に至った。二本松は現在、 ふま のこ たんだい えん かん 7 イ 7 ーー戦国の武将と諸藩の歩み

5. 日本の街道1 風かけるみちのく

長品く 技術をもたらした。さらにこのころには熊野詣でな 信仰の名残は、今日でも当時の街道の各所に残っ の術多る いたび 社は美、す ど、信仰のための往来もさかんになってくる。葛西ている。それは板碑と呼ばれる鎌倉中期ー南北朝期 一」神修要め蔵 野文重し所 に造立された石碑である。一種の供養碑であるが、 、はを氏兪し・岡本氏」 ) や、後には大崎氏 (R 要鉢を財 えこう . 方重銅鐘化 近などもはるばる紀州熊野への参詣を果たしてこれは多くの人の目にふれ、回向されることで功徳 多の・銅文 喜国床のの いる。民衆にとっては遠路の宮参りは不可能だった があると信じられたので、寺社の境内や、街道のほ が、近くの熊野社へ詣でて来世の幸福を祈ったのでとりに建立されることが多かった。板碑の分布から なとり きたかた あろう。宮城県名取市の熊野三山、福島県喜多方市中世の街道を考えることができるのである。 岩山創風 の熊野社などは古くからの由緒を誇ったし、宮城県 市い期中る うだ 台近中 街道の発達に伴う社会の変化 山に安 0 栗原郡宮沢の新熊野社、福島県宇多郡の熊野堂、山 郡平あれ さがえ カき」 形県寒河江市慈恩寺の今熊野社なども地方民衆の信 街道の整備は、しかしよいことずくめではなかっ 社里 ~ る伝と 神、あ社様 た。とくに幕府にとっては新しい問題を生む根源と 麻のにの神印を集めて繁栄したのであろう。 青切中建の もみられたのである。その一つは、従来幕府は馬・ 金・絹布など奥州特産品を年貢として徴発していた が、交通や商業の発達の結果、特産品は商人が買い 集めてしまい、幕府はその代銭納でがまんしなけれ ばならない状況が生じた。暦仁二年 ( ~ 一し幕府は 白河関以東における銭貨の流通を禁じ、奥羽から上 洛する者はよいが、下向する商人たちには銭の所持 を認めないことにした。こういう政策が実現不可能 なことはいうまでもないが、街道の整備と商業の発世 達が、社会の変化を生み出していることに注目して また一方では、交通が便利になった結果、治安のの こうげん 維持に苦心することにもなった。康元元年 (l 、 ) 幕通 府は宇都宮泰綱ら奥大道沿いの一一四人の地頭に、奥 大道で夜討強盗が蜂起しているのは、地頭たちの職 、の心 . りやくにん

6. 日本の街道1 風かけるみちのく

・、ド・諸、豸第 一 0 田島 ・干し柿福島にはいたるところに 柿の木がみられる。秋に実ったしぶ 柿を一家総出でもぎ取り、夜なべし て皮をむいて軒先に干す。そのすらり : の ) りとたれさがった干し柿のれんは、 風物詩とさえいえる。後で白く粉が 吹きだし、アンポ柿と呼ばれる。 ・棒タラ煮会津若松は周囲を山に 囲まれた城下町だったため、食生活 、山形市能笠祭第 男鹿市たな る この祭りも津軽地方の代表的な祭り は京都に似ている。海から運ばれて・弘前ねぶた ( 弘前市八月一日 5 である。 くる干したタラを水につけ、とろ火七日市内一円 ) カ る ん で長時間煮た料理は、はくはくして、弘前ねぶたは、巨大な扇形の紙燈・えんぶり ( 八戸市一一月十七日ー 0 つの骨まで柔らかい 籠に、『三国志』や『水滸伝』などを一一十日市内一円 ) まの 真冬に行われるこの祭りは、その 一を深柿海のない会津若松にと「ては、カモデルにした極彩色の武者絵を描い ルシウムを補う役目ももっていた。 たもの。独特の音色をだす笛や太鼓年の豊作を祈願するもの。黒装束に のはやしにあわせ、町内総出でこれワラぐっ姿の男たちは、頭に馬の頭 を引く。ャーヤー ーの掛け声は、部をかたどったをつけ、古式 祭りと行事、お国自慢 青森ねぶたにくらべて哀調がある。豊かに田植えから稲刈りまでの農作 ラッセラ、ラッセラの掛け声と、 業の所作を舞う。 ・青森ねぶた ( 青森市八月三日 5 男も女も花笠をつけた、ハネトの踊 ・燈・竿灯 ( 秋田市八月五日ー七日 七日市内一円 ) 青森のねぶたは、武者や馬、猛獣る行列は、街をねぶた一色に染めつ 扇市内・一円 ) 高さ一一メートルもある長い竹竿 をかたどった立体的なもの。高さがくす。圧巻は八月五、六日の夜に行 た ぶ 五みートル余りの巨大なこの紙人形われる連合運行で、その華やかな行 に四六個の提燈を九段にわけて吊る ね は、夜になると中に明かりがともる。列は青森の夏の夜を色鮮やかなもの 前したものを、太鼓や笛にあわせて腰、 津軽地方の代表的な祭りとして名高とする。 肩、額、手のひらなどで支えながら の松焚祭で売る藩やアヤメダン ゴ、また、名横綱谷風にあやかるよ うにとされた相撲取り飴など、子供 が喜びそうな楽しい駄菓子が多い。 0 』」盛間市 へ戸市んんぶ」チ , グク馬コ、 ねぶ引ⅶ市わぶた 青森 子市 岩手「 三山な 0 一山形 野町 ノト . ) 廠釜のみなと - 。 ( 福島 柳津 課まいリ (

7. 日本の街道1 風かけるみちのく

米沢街道 渓谷の美一一東北を縦 走する奥羽山脈の谷あ いはまた、四季折々の 景観を呈して、道ゆく 人々の目を慰める。 米沢街道は、米沢から東に板谷峠を越えて、庭坂を経経て宇津峠を越え、小国から越後に入る街道が分かれて て福島で奥州街道に結はれ、一方、会津若松との問は、 いた。米沢の周辺は置賜地方と呼ばれて、冬の気候は厳 大峠越えで中小屋・根小屋を経て喜多方 ( 小田付 ) に出しく、交通の不便なところであり、加えて領主上杉家は るか、檜原峠を越えて檜原湖の北を通り大塩・熊倉・塩三〇万石から一五万石に減封されていたしかし、名君 8 川を経て会津若松に出る道であった。また、糠目から治憲 ( 鷹山 ) が出て藩を再建、今日の置賜地方繁栄の基 赤湯を経て上山で羽州街道と結ばれ、赤湯からは飯豊を礎を築いた。 、 - 一尹崋第 冫みこ「ヤ、丸 お、一たま 米沢の家並みーーーー最上 川の上流松川と鬼面川 にまたがり、上杉鷹山 の殖産興業・質素倹約 の気風を今に残す。

8. 日本の街道1 風かけるみちのく

をつを 山河を越える深雪の道羽州街道 《、第み・羽丼街道と旅日記 この街道は、福島の北方、桑折で奥州街道に分か しちかしゆく かみのやま れ、山中七ケ宿街道を通り、上山・山形・新庄 秋田・弘前の主な城下町を結んで青森に達する。そ の宿駅の数は五八宿といわれているが、もちろんこ れは「間の宿」とも呼ばれる補助駅も加えての数で ある。南から村山平野・新庄盆地を通り、横手盆 地・秋田平野と、多くの盆地や平野を結びながら走 るが、そのためにまた多くの峠を越え、奥羽山脈か ら流れる無数の川を渡らなければならなかった。こ の街道の特色は、冬期には二メートル以上の深い積 さばね おがち 、 ( 瑟雪で途絶えがちとなる猿羽根峠や雄勝峠などの峠 と、川の難所が多いことであろう。 この街道の旅日記として知られる主なものには、 げんろく ) 、物近世初頭の『梅津政景日記』、元禄四年 (l*f) の丸 てんめい かん 山可正『奥羽日記』があり、また天明 (L 坐 ふるかわこしようけん 斑 ( 範 5 九 5 ) 年間の古川古松軒『東遊雑記』や高 山彦九郎『北行日記』も、関連するところは部分的 だが、興味深い記述がある。上山から青森まで、街 横山昭男 、」おり 山形大学教授

9. 日本の街道1 風かけるみちのく

奧州へ向かうこの街道は、江戸から宇都宮までは日光 道中と同じ宿駅を通り、奧州白河までが五街道の一つで ある奧州道中で、道中奉行の支配下であった。白河から 郡山・ニ本松・福島・白石を経て仙台までを仙台道中ま たは仙台道、仙台から一関・平泉・水沢・花巻を経て盛 岡までを南部街道、盛岡から沼宮内・一戸・三戸・七戸 を経て野辺地に出、青森を過ぎて津軽半島の突端三厩に 着き松前に至るのを松前道とも呼び、白河から松前まで を仙台松前道と呼ぶこともあった。また、千住から三厩 までを奧州街道とも呼んだ。いずれにしろ奥州街道は、 みちのくの最も重要な道であった。 な・す 春の里道ーーー安達大良 の山々の中腹には大小 の高原が開け、谷間に は多くの温泉が湧く。 二本松付近は、農業を 主体に酒造りも盛んだ。 花巻の農家ーーーー花巻は 古くから奥州街道の宿 駅として栄え、 こか ら遠野に出る遠野街道 が分かれていた ニ本松から安達太良山 を望む 二本松は、 西に安達太良山を仰ぎ、 南は阿武隈川の丘陵に 囲まれ、古い城下町の 面影を残す。 第を 1 を みんまや 3 イ

10. 日本の街道1 風かけるみちのく

大内の家並みーー寄せ 棟、カヤ葺きの家々が 軒を並べ、会津西街道 の宿場のおもかげを今・ にとどめている。 第 7 南山通りは、この南山を南に下る街道である。白 間五十里川が山崩れでせきとめられ、交通不能にな きようほ、つ 河街道から奥州街道に出て江一尸へ行くコースを「東り一時打撃をうけたが、享保年間 ()\ 一六 , ) には修 通り」というのに対して、「南通り」ともいわれ復し、藩の廻米制度が整ったこともあって、南山通 りの宿駅は人馬で活況を呈した。しかし、南山通り 南山通りに宿駅制度が整備されるのは、藩政が確の賑わいはそう長くはつづかなかった。それまで南 立し、参勤交代や廻米が本格的にはじめられる一七山通りを通過していた参勤交代は、幕府の意向もあ 世紀中ごろである。南山通りの宿駅は、時期によっ って東通りで行われるようになり、また廻米も東通 て多少の変化はあるが、城下会津若松のほうから、 りが整備されて、南山通りの廻米は激減した。 みしまみちつね 本郷・福永・関山 ( 以上会津藩領 ) 、大内・倉谷・楢 明治十七年福島県令三島通庸は、河野広中らの自 はら なかみより 原・田島・川島・糸沢・横川・中三依・五十里 ( 以由党の激しい反対を弾圧しながら、会津三方道路を 上南山御蔵入領 ) などがあった。南山通りはこれから 開さくした。三方とは、会津から関東・越後・米沢 さき宇都宮領に入り、高原・藤原・高徳・大桑を経へ出る新しい道路である。新しい道はこれまでの大 みぶ て今市に出、今市から江戸へは、例幣使街道・壬生内峠を通らず、大川沿いに開かれたため、旧南山通 通りを通って奥州街道に合流し、小山・春日部を通りの若松・楢原間にある関山や大内などの宿駅は決 って江戸へ行くのが最短コースであった。会津藩初定的な打撃をうけ、宿場の機能を失った。 代正之と二代正経が参勤交代で通っている。 大内宿にみる江戸時代のおもかげ 南山通りは、また江一尸廻米路としても賑わった。 江戸屋敷に詰めている家臣への扶持米運送は、初期 南山通りで江戸時代の宿場の姿を最もよく残して では白河街道から原方街道を経て鬼怒川の河港阿久 いるのは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定 された、南会津郡下郷町の大内宿である。大内宿 津 ( 高 ) へ出る東通りと、南山通りで阿久津に つまご 出る南通りが主要な道筋であったから、多いときでは、宿駅としては、妻籠と奈良井についで選定され 年間数万俵の米が南山通りで送られたといわれる。 たが、カヤ葺きの家の並ぶ宿駅ということでは、全 主要宿駅には問屋がおかれ、年寄・馬指・帳付など国的に貴重な存在として注目されている。大内宿 の宿場役人がいて、人馬継ぎ立てや宿場の管理など は、会津若松から半日の行程、会津藩領から南山御 をおこなっていた。 蔵入地に入って最初の宿駅である。参勤交代のとき 南山通りの最盛期は一八世紀中ごろである。そのは、早朝に城を出発し、大内峠で休憩、大内宿で昼 れいへいし なら