別府の一里塚・ -- 米沢 街道の宿駅塩川に残る - 里塚。道の両側の円 い塚が江戸時代の姿を 伝えている。 2 源頼政とともに宇治で戦死した以仁王が、実は生きわれる小田付翁かじから根小屋・中小屋を経由し ひのえまた のびて、尾瀬をこえ、檜枝岐を通り大内に逃れ住んて、大峠を越え米沢へ出る道、また、小荒井 あっしおにつちゅう だという。高倉神社は、この高倉宮以仁王をまつつ 多方市から、熱塩・日中を経て大峠を越える道が ている。大内の人々は、この伝説を大切に育ててきあった。しかしこの二つは、ともに難所であったた た。安住の地のない旅人へのやさしいいたわりの心め、寛永四年 ( 一し、加藤氏によって交通が禁止さ からだろうか。祭日は、はじめ以仁王の命日とされれ、檜原峠を越える道が米沢への街道となった。慶 はんげしよう る五月十九日だったが、明治になって半夏生の七月安二年し幕府へ報告したときの米沢街道はこの はんげ 二日になったので、大内では、この祭りを「半夏祭道である。街道筋の塩川町の別府には、このころっ り」といっている。祭りの当日は、御神体が神輿に くられた一里塚が今も残っている。 わかれんちゅう 移され、社総代から若連中に引き渡される。神輿『新編会津風土記』によると、米沢街道の主要宿駅 だし ろくさいいち につづいて、子供のひく山車もくり出し、村中総出の一つ熊倉では、近世初期六斎市 ( 毎月六回定期 ) 、、目」 に開かれた市カ日肝 の賑わいとなる。半夏生とは、夏至から一一日目、 かれていたが、慶長三年 (l しからは月三度しか開 田植えの終わるころで、田の神をまつるのが普通だ かれなくなり、その後すたれてしまったという。近 、はたさく が、関東では畑作の祝い日とするところも多いとい 世初頭、蒲生氏・上杉氏が会津を領していたころ は、米沢も会津の支配下にあったから人々の往来も 高倉神社の半夏祭りは、宿駅としての伝統を背負多かったが、上杉氏が米沢に去ってからは、会津と いながら、農業に依存しつつ生きなければならなく の交流も昔ほどではなくなったのであろうか。 なった大内の人々の苦闘の歴史と願いを、象徴的に 小荒井・小田付の発展 あらわしているものといえるのではないだろうか。 しかし熊倉の西、小荒井村と小田付村は、江戸時 米沢街道の変遷 代を通じ、この地域の商業や手工業の中心地となっ てんしよう 会津若松から米沢に出る道筋は、近世初頭以来何て賑わった。小荒井村と小田付村は、天正年間 度か変遷を重ねている。古くは、塩川・熊倉・大塩 (- 一五七三 ) にすでに町割りがおこなわれ、六斎市が たづき を経由して檜原湖の北に出、そこから檜原峠を越え門 幵設されていたという。この両村は田付川の両岸 て米沢へ出る道があった。そのほかに伊達政宗が米で、距離にして一キロメートル弱しか離れていなか 沢から会津への侵攻を企てた際ひそかに開いたとい ったため、市の開設日をめぐってしばしば争論をお
米沢街道 渓谷の美一一東北を縦 走する奥羽山脈の谷あ いはまた、四季折々の 景観を呈して、道ゆく 人々の目を慰める。 米沢街道は、米沢から東に板谷峠を越えて、庭坂を経経て宇津峠を越え、小国から越後に入る街道が分かれて て福島で奥州街道に結はれ、一方、会津若松との問は、 いた。米沢の周辺は置賜地方と呼ばれて、冬の気候は厳 大峠越えで中小屋・根小屋を経て喜多方 ( 小田付 ) に出しく、交通の不便なところであり、加えて領主上杉家は るか、檜原峠を越えて檜原湖の北を通り大塩・熊倉・塩三〇万石から一五万石に減封されていたしかし、名君 8 川を経て会津若松に出る道であった。また、糠目から治憲 ( 鷹山 ) が出て藩を再建、今日の置賜地方繁栄の基 赤湯を経て上山で羽州街道と結ばれ、赤湯からは飯豊を礎を築いた。 、 - 一尹崋第 冫みこ「ヤ、丸 お、一たま 米沢の家並みーーーー最上 川の上流松川と鬼面川 にまたがり、上杉鷹山 の殖産興業・質素倹約 の気風を今に残す。
米沢旧市街の町並み 大正 6 年・同 8 年” : の大火て市街の大部分 を消失したが、静かな 町並みにはなお城下町 の名残がうかがわれる。 : 、一贐気蹴脚Ⅷい職 そうけ なお、宗家 ( 本家 ) に匹敵する実力を保持し、また立は、再び始まったのである。 くのへまさざね 三戸南部の一族九戸政実 ( 一五九一 生年不詳 5 ) は、三戸宗家の のぶなお 米沢藩の節倹と知恵 家督相続をめぐって、南部信直 (—九九 一五四六 ) と敵対す でわのくに あしな もがみ 出羽国の諸藩を南からたどってみよう。まず最初 ることになった。南奥羽の伊達・蘆名・最上など が、すでに戦国期には同族の服属統合を達成したのは米沢藩である。天正十九年伊達政宗は誕生地の米 に反して、北奥羽の南部氏・安東 ( 秋田 ) 氏など沢を去り、大崎・葛西の旧領を与えられて岩出山に 移った。以後、米沢は蒲生・上杉の支城となった は、同族並立の情況を克服できなかったのである。 かげかっ 秀吉の「奥羽仕置」にひとり抵抗した九戸政実が、関ヶ原の戦で上杉景勝 ( 一¯) が、会津・中 あさのながまさ は、浅野長政 ( 11J 以下、一六万余の軍勢を迎通りの一部・佐渡・庄内を失い、一二〇万石から三 てんしよう 〇万石への大減封をうけて米沢に移ってからは、上 えうち、天正十九年 (I) の八、九月をもちこた かんぶん えた。しかし最後には、恩賞を条件とする降伏勧告杉氏の本拠となって幕末に至る。この間、寛文四年 あぎむ には、綱勝急死後の後継問題にからんで、一五万石 に欺かれて、城を焼かれ一族郎党をなで斬りにされ たかはた たのである。 に減封されて、信夫・伊達・高畠 ( 齟 東 ) を失っ こずかた 南部氏は慶長三年 (l し、不来方城の築営を開た。 としなお 旧石高の八分の一という大削封にもかかわらず、 始、信直の子利直 ( 六 = = 一 一伍七六—) は元和元年 ( ~ 0 三戸 ちぎよう からここに移っこ。 オこれに盛岡と命名して、最終的家臣団の整理は行わず、知行削減によって切りぬ しげなお におちついたのは寛永十年 ( 一一 , ) 重直の世になってけたために、藩当局・家臣団ともに財政窮乏に苦し いけがき からである。八戸南部氏はのちに宗家に服属し、寛んだ。田のあぜには大豆を植え、屋敷の生垣には食 とおの 用となるうこぎ 永四年遠野に移った。 翁 20 を植えるなど、米沢の人 せつけん びとの節倹と生活の知恵は、このような減封のなか 家臣を整理するために、目を閉じて名簿に墨を引 ちゅうこう めはな ではぐくまれたのである。米沢藩中興の英主、上 いて数十人を召し放したという、暴君の悪評高かっ ころ・し により、国産奨励の一策として導 た重直が、後嗣のないままで死去したのを契機に、 杉鷹山 ( 一八一一一一 ちぢみおり 寛文四年 (*l( し南部藩から二万石をわけて八戸藩が入、樹立された縮織は、のちの米沢織のはじめと なおふさ しげのぶ なるが、これもまた、財政難打開の手段として起こ 成立し、重直の弟重信が南部藩八万石、同直房が八 戸藩二万石を継ぐことになった。二つの藩は対等のされたものであった。 たかなべ ひゅうが 九州日向 ( 宮崎県 ) の高鍋藩から養子に入った鷹 藩として取り立てられたとはいえ、南部氏同族の対 ようざん ノ 50
ニ井宿六地蔵ーー屋代 郷義民、高梨利右衛門 が刑場に連行された道 筋に地元の人たちが建 てた。盆の祭りはその 供養祭だという。 勢至堂峠への村一一一白 河を発ち長沼町江花を 過ぎると曲折の多い山 道となる。さらに勢至 堂集落を通り過ぎると、 いよいよ峠への上り坂 てある。 寒の正月二十五日、朝、雪だった空も勢至堂宿を出となった利右衛門の思想と行動は長く義民として語 発するころには晴れていた。しばらく坂をのばり勢りつがれ、いまでも屋代郷六地蔵や利右衛門酬恩碑 至堂嶺に達し、彼はここで会津の山磐梯山の遠景に などに利右衛門義民伝ロ碑がのこっている。 足をとめたのである。 険阻な板谷と檜原 山路なれど難所なし 奥州街道八丁目宿を起点に米沢に通じる旧米沢街 陸奥国から出羽国に入る幹線は、奥州街道桑折宿道は伊達氏が開さくしたという。伊達氏が本拠を伊 を左折する羽州街道である。奥羽山脈に発するどの達郡から米沢に移した後は軍事上はもちろん経済的 谷川も陸奥国側が奥深くなだらかであるが、出羽国にも重要な道となり、江戸時代には米沢藩の参勤交 側はその反対に傾斜は比較的急である。その顕著な代路となった。山脈に深く食い込んだ谷がないた こさか 七五五メ 例がこの羽州街道である。桑折宿を発して小坂宿にめ、板谷峠 ( ー ) のほか副峠を二〇〇メートル つくと、福島県と宮城県の県境にかかる小坂峠 ({ 余りも上り下りしなければならない険しい峠路で通 一メー ) が目前である。旧道は、峠の頂上をめざし 行は容易でなかった。慶長六年 (8 , ) 十一月、加賀 としいえ けいじ て、胸つき八丁といわれる急坂を登るが、小坂峠を藩主前田利家の甥にあたる武人前田慶次が伏見を出 しち 越えれば「山路なれど難所なし」といわれた山中七発し、この峠道を通って米沢に入った。亡き秀吉の かしゆく くみ かげかっ ケ宿街道となり、山形県と宮城県との境の金山峠恩を忘れず関ヶ原の役で西軍に与した上杉景勝を慕 ゅのはら にわさか にかかる。やや戻って旧湯原宿から西に 、客分となって景勝に仕えたのである。庭坂ー板 にいじゅく すももたいら げんな 五六八メゞ 二井宿街道を進むと二井宿峠 ( ー ) 力ある。両谷間の仲継駅李平宿の元和四年 ( ~ しの文書によ 街道ともともに分水界を越すとまもなく眼下に、そ ると上下の伝馬は馬でなく牛であった。険阻な峠道 れぞれ金山宿や二井宿の集落が現れ、急斜の道が曲には牛がより適していたからである。 折する。一一井宿街道を下りる途中の一一井宿上宿の一 米沢と会津地方を結ぶ会津街道 ( 会津地方では米沢み ひばら の坂に、高梨利右衛門という義民の処刑場がある。 街道 ) は高い峠の連続であった。中心は檜原峠 ( 九四 き・もいり 五四〇メ、 農民利右衛門は二井宿村の肝煎で問屋を兼ねていた しであるが、米沢と関の間の船坂峠 ( ー かんぶんめやす つなぎ といわれ、米沢藩の苛政を訴える寛文目安 ( しをつぎが綱木峠 (? 」比メ ) とつづき、檜原湖畔に下っ げんろく あららぎ 九六三メ 八六四メ つくり幕府に直訴し捕えられ、元禄一兀年 ( ←し十二 てからも蘭峠 ( ー レ ) ・大塩峠 ( ート ) を越えな やしろごう 月、雪の中で斬罪された。屋代郷郷民のために犠牲ければならなかった。青年志士吉田松陰は東北旅行 かなやま こおり しらおんひ
発田米 沢、沢 を 4- 喜多方 猪苗代 ニ本松 会津Å本松街道 大内い猪苗 河 高原峠道 藤原 日光。 今市 宿場と蔵の遺る道 竹川重男 福島県教育委員会 会津西街道と米沢街道 八年 (Æ) の伊達政宗小田原参陣のときと、同年の 会津藩の本道五筋 豊臣秀吉会津下向の際の道筋が、近世初期の姿をわ 四方を高い山々に囲まれた会津は、他国へ出るにずかに伝えている。 は必ず山を越えなければならない。江戸時代、峠を 天正十八年、豊臣秀吉が北条氏のたてこもる小田 越えて他国に通じる主要な街道は五つあった。藩で原城を包囲したとき、会津にいた伊達政宗にも秀吉 はこれを本道五筋、または会津五街道といった。慶より参陣の催促があった。政宗は黒川城 ( のちの会 あん 安二年 ({) 会津藩が幕府へ差し出した報告による津若松城 ) をあとにし、南山通りで高原峠を越え、 しもつけ おおうち と、会津藩内の本道・小道の数は、「本道五筋、 下野国 ( 栃木県 ) を経て小田原に出ようとし、大内 現・南会津郡下郷町大内、 道二十五筋に候」とある。 地元では〈おおち〉という ) まで行ったが、「関東の諸城 本道五筋とは、会津若松城下大町札辻より白河へ 悉く小田原に相属し」ていたため、黒川に引きかえ 出る道 ( 白河街道、白河通りともいう ) 、南山を通り宇し、米沢街道を通って米沢へ出、小国から越後・信 都宮領藤原村へ出る道 ( 会津西街道、南山通りともい 濃を迂回して小田原へ参陣したという家記 う ) 、越後新発田領へ出る道 ( 越後街道 ) 、檜原を通 しかし、小田原に参陣した政宗は、秀吉から参陣 って米沢へ出る道 ( 米沢街道 ) 、猪苗代を通って二本のおくれを責められ、会津を没収される。そのあと がもううじさと 松へ出る道三本松街道 ) である。 秀吉は、彼の最も信頼する武将の一人蒲生氏郷 ( ← この本道五筋の整備されはじめた時期ははっきり ¯) を会津の大守に封じ、自ら「奥羽仕置」のた ほしなまさゆき しない。保科正之 (— 一六こ ) が会津に入った寛永一一め会津に下向するのである。 / こは、すでにある程度の整備はなされて + 年 ( も。 秀吉の会津下向の道筋 いたから、街道の成立はもっとさかのばるだろう。 てんしよう 天正十八年、秀吉は小田原から宇都宮・白河を経 会津の主要街道通過の史料は少ないが、天正十 かんえい 6 5
会津西街道 会津西街道は南山通りとも呼はれ、会津若松から関山・津川から赤谷を過ぎ、越後の新発田、または津川から阿 大内・糸沢を経て山王峠を越え、五十里から藤原に出た賀野川沿いに新潟に出る越後街道、会津若松から大峠か 山あいの村々の農民が荷を運んだ道でもあった。このほ檜原峠を越えて米沢に出る米沢街道かあり、「会津五街 か、会津若松から猪苗代湖の西南岸を通り、勢至堂を経道」といわれた。参勤交代路は、会津西街道があまりに て白河に出る白河街道、猪苗代湖の北岸を通って、ル毎・険しいため、白河街道・ニ本松街道を利用するようにな 本宮を経てニ本松に出るニ本松街道、会津坂下・野沢・ 36
カラー・みちのくの , フたー カラー・随想 南京婆のやってくる道井上ひさし 紅花の里・行者のみち真壁仁 目には見えないものの列長部日出雄 街道小史みちのくの道は近世の道渡辺信夫 街道地図 奧州街道 / 会津西街道 / 米沢街道 / 石巻街道 カラー・ 北上山地 / 秋田街道 / みちのくの祭り 大名が往き文化の流れる道ーー・みちのくの幹道・奥州街道渡辺信夫 宿場と蔵の遺る道ーーー会津西街道と米沢街道竹川重男 北上川の舟運渡辺信夫 江戸へ米の行く道ーー 平泉・黄金の文化を支えた道大石直正 民俗の里へ・遠野と角館ーー遠野街道・秋田街道細井計 / 平川新 上山地の鉄と塩の道ーー、・、小本街道と野田・沼宮内街道深井甚三 目次 0 7 8 7 2
桃の花咲く道ーーー現在、 米沢と福島を結んてい る国道 13 号線沿いにあ る大滝付近。山国に春 は静かに訪れる。 39 i 諢響駐
= , を第、 , を第イ .3 ・第を , 米沢街道の峠 - ー - ー米沢 街道は会津・米沢両地 方を結ぶ幹線だが、檜 原峠など大小の峠がっ づく難路てもあった。 笹谷峠・有耶無耶関跡 陸奧と出羽を結ぶ 古道。その名は旅人に 山鬼の有無を烏が知ら せたことによるという。 【を 2 の帰路をこの会津街道にとり、檜原峠から磐梯山を 軽井沢番所跡 望んで会津に再び入ったのであった。この檜原峠の 一一五〇ゞゴ 昭和五十四年五、六月、地元小野田町が緊急発掘調 メートルカ日肝 会津街道は明治十七年、西方に大峠 ( 査した。それによれば、半森山の麓のやや東西の平坦 通したため衰え、大峠越えもまた奥羽線の開通で衰 なところに境目番所跡・足軽屋敷跡が一段高い台地に えた。檜原越えも板谷越えも大変に難所の多い峠道 ある。番所跡には、北側に幅二一〇メートル、八段の であった。板谷越えで米沢藩領に入った古川古松軒 石段があり、周囲を石垣で囲み、内部に井戸・土間跡 は、次のように記している。 が確認された。 街道は、これらの建物群の北側を東西に走り、墓地 奥州福島を出でてより悉く山路なり、中にも板 が三カ所に分かれ、あきらかに移植したと思われる 谷峠というは三里の嶮道にて、一人横たわれば ( 西 ) 杉・くるみ・李などの木が建物群の周辺にあり、街道 万人をとどむるというべき難所なり。南方は の北側には水田跡と思われる湿地帯がある。旧足軽が 会津より越ゆるなり。この道に奥州檜原峠、羽 明治中期まで住んでいたといわれ、耕作していたので けんそ 州綱木峠などの難所あり、その嶮岨筆紙に尽く あろう。番所遺構がほば完全な形で残されており、本 そうてん すべからず。峰に上れば蒼天に入るかと驚き、 格的な調査のうえ、貴重な歴史遺産として保存される こんりんざい ことが望まれる。 谷に下りては金輪際に落つるかと恐る。伝え聞 しよくさんさんどう く蜀山の桟道も、これには過ぎじと覚え侍る。 檜原・板谷の峠は中国の蜀山の桟道よりも険阻な この笹谷峠 ( ー 九 9 メ ) であったとする説もある。江 戸時代前期は羽州街道の参勤交代路として、中期以 道であるという。険阻な道でも輸送路であり、参詣 降は年貢米などの輸送路として利用された。仙台と の道となった。米沢方面から会津地方に移出された あおそ ふたくち もにわ 品物は青芋・木綿・漆・煙草など、移入品は焼き物・山形を結ぶ最も近い一一口街道は、茂庭・長町間が笹 くるみ 塗り物・胡桃などで、七、八月には一日四、五〇〇谷街道と重複し、幕末には一日二〇〇人から三〇〇 どうしゃ 人にのばる三山参詣の信者たちが二ロ峠を越え、山 人の湯殿山参詣の道者が通ったという。夏は牛馬だ 形方面からも多くの人たちが金華山参詣・松島遊山 が冬はすべて背負子で運んだ。 きさかた なかやまこうよう に越えてきた。文人中山高陽は仙台から象潟への旅 参詣の峠 に二ロ峠を越えて山寺に出て、帰路笹谷峠を越えて 仙台藩の南部と山形方面を結ぶ笹谷街道は、すで帰仙している。二ロ峠を越えるときの様子を、 うやむや 二口に着。国堺番、山中に二軒有。ここにてセ に代に開かれ、歌枕にうたわれた有耶無耶の関は 8
声、炎上する城下や村々、奥州街道沿いの道はその 日難民の群れで混雑した。泥と涙にまみれて短い命 だいりん を を絶った一一本松少年隊士の墓は大隣寺にある。戦死 群霊碑と五輪塔が静かに立つ。毎年十月、華やかな ) の『智恵 。一菊人形展が開かれ、高村光太郎 ( 贏 子抄』詩碑の立つ、霞ヶ城公園にほど近い閑静な場 少年隊士は十二歳から十八歳で、五一 所である ( 名のうち一七名が死傷したという。 この日、北越路では新潟・長岡が政府軍の手中に 帰した。開港場新潟から英人スネルを通し武器を買 っていた米沢や会津の諸藩は、これによって決定的 な打撃を受けた。陽暦でいえば九月中旬、秋風のな かで会津藩の孤立は目に見えてきた。 最後の砦、会津城落ちる 大総督府の作戦は米沢・仙台をまず降伏させ、会 じちまさ 津を総攻撃する予定だった。しかし板垣や伊地知正 (L 込」八 ) ら現地の参謀は、雪の積もる季節をお それていた。最終のターゲット会津藩攻略は、八月 二十日に開始された。当時、会津藩は戦線八〇キロ メートルにわたり、もっとも大規模な戦争となった 北越方面にも出兵、日光方面にも派兵して総力戦を 展開していた。四境とも敗色が濃く、兵力の分散は 避けられなかったのである。 政府軍は巧みに諸方面から陽動作戦をとりなが ら、主力の三〇〇〇近い兵を二本松から送り、本宮 いしむしろ ぼなり の守備軍をあわせて、玉井・石筵口から母成峠に 2 を、ーをー ニ本松少年隊士の墓、を 筒袖、袴や股引、 羽織の装いに髻 ( もと どり ) を切って髪を背 に束ねて戦った少年た こに眠る。 ちが、 1 檜原愁色 「俘虜記』「野火』の作家大岡昇平は、日光から会津 を転戦し、母成峠の戦いに敗れて檜原・秋元原をさま よった旧幕府伝習隊長大鳥圭介の手記『南何紀行』の 一句にひかれ、作品「檜原』を書いている。敗兵大鳥 の目に映じた「万山千峰愁色を帯び」 ( 朝柯紀 ) という心理状態に、自らのフィリピン戦線彷徨の記憶 を重ねたのである。 明治二十一年 ( ←八 ) 磐梯山噴火によって風景は一 変し、満々の水をたたえた檜原湖・秋元湖となり多く の観光客をひきつけているが、檜原はもと会津と米沢 を結ぶ道の山村であった。星新一『祖父・小金井良精 の記』は、この作家の曾祖母の記憶をもとに長岡藩士 家族の会津ー米沢ー仙台に至る逃避行を描いている。 檜原は落葉が山おろしに舞う季節であった。敗れた者 の長い流浪の旅は、子捨ての哀話や人間の温かさと非 情を織りまぜて、底知れぬ愁いと不気味な怖れのおも いに彩られている。 742