物第、ミヾを洋、 さけ、川の深浅により道筋は曲折した。宮城県内に 中世期になると、この古道全体の呼称ははっきり 入っても、江戸時代の奥州街道の西側を北進し、福しなくなるが、地域的呼称として「鎌倉街道」 (å あずまかいどう せんどうおくどおり 島県浜通りの山沿いを北進する「東海道」とも同 県郡山方面から白河・宇 ) 、「東路」、「仙道奥通」、宮城県 あずまかいどう にを高と終 流し、仙台市域を横断して、いったん奥州街道の東内に入ると「東海道」、「松山道」などがあげられ るを 辺一い , 路通くめ旅 山着がのる 側に出て、ふたたび西側にもどり北進していた。前 南にな日知 道っ内を一を 戦国期に入り、各地に大名が割拠することで、他 に述べたように出羽国へは小野 ( Ⅱ県 ) から分か の立大宿はと もがみ 宿のとら人こ れ、笹谷峠を越えるのが主たる最上道であった。 領との交通は絶えがちであったが、領国がしだいに 内碑むか旅 大石進台きえ 拡大してくるにしたがい、領国内の交通制度は整え られた。 米沢を本拠としていた伊達政宗は、現在の福島県 中通りに進出し、当時伊勢国から移って現在の郡山 に住んでいた豪商山本伊勢なる者に対して、伊勢の 荷物一〇疋一〇駄を、伊達氏分国中北南一筋の諸関 かしょ 所を相違なく、永代通行させるという過所手形龕 てんしよう 程しを与えた。これは天正十六年 ( ←し七月二十 日付のことであるが、当時の伊達氏の分国は南の あさか 安積郡島 ) から北の志田郡城 ) に及んでいたか ら、この両郡間の街道の通行を公認し、関銭を免除 したのである。 天正十九年 (lf) 伊達政宗は米沢から岩出山 ぶんろく 城 ) に移るが、入部早々の文禄四年岩出山の にツ ~ 城下を起点に、真山・宮野・金成を経て東山地方 岩手県南部・ ) に至る街道に伝馬制を実施している。 けいちょう には、仙台城下への移転に 下って慶長六年 (8 六 ) 伴「て、しから佐沼・高清水・岩出山・ 黒川を経て城下に達する街道の各駅に、伝馬五疋を幻
米沢街道 渓谷の美一一東北を縦 走する奥羽山脈の谷あ いはまた、四季折々の 景観を呈して、道ゆく 人々の目を慰める。 米沢街道は、米沢から東に板谷峠を越えて、庭坂を経経て宇津峠を越え、小国から越後に入る街道が分かれて て福島で奥州街道に結はれ、一方、会津若松との問は、 いた。米沢の周辺は置賜地方と呼ばれて、冬の気候は厳 大峠越えで中小屋・根小屋を経て喜多方 ( 小田付 ) に出しく、交通の不便なところであり、加えて領主上杉家は るか、檜原峠を越えて檜原湖の北を通り大塩・熊倉・塩三〇万石から一五万石に減封されていたしかし、名君 8 川を経て会津若松に出る道であった。また、糠目から治憲 ( 鷹山 ) が出て藩を再建、今日の置賜地方繁栄の基 赤湯を経て上山で羽州街道と結ばれ、赤湯からは飯豊を礎を築いた。 、 - 一尹崋第 冫みこ「ヤ、丸 お、一たま 米沢の家並みーーーー最上 川の上流松川と鬼面川 にまたがり、上杉鷹山 の殖産興業・質素倹約 の気風を今に残す。
= , を第、 , を第イ .3 ・第を , 米沢街道の峠 - ー - ー米沢 街道は会津・米沢両地 方を結ぶ幹線だが、檜 原峠など大小の峠がっ づく難路てもあった。 笹谷峠・有耶無耶関跡 陸奧と出羽を結ぶ 古道。その名は旅人に 山鬼の有無を烏が知ら せたことによるという。 【を 2 の帰路をこの会津街道にとり、檜原峠から磐梯山を 軽井沢番所跡 望んで会津に再び入ったのであった。この檜原峠の 一一五〇ゞゴ 昭和五十四年五、六月、地元小野田町が緊急発掘調 メートルカ日肝 会津街道は明治十七年、西方に大峠 ( 査した。それによれば、半森山の麓のやや東西の平坦 通したため衰え、大峠越えもまた奥羽線の開通で衰 なところに境目番所跡・足軽屋敷跡が一段高い台地に えた。檜原越えも板谷越えも大変に難所の多い峠道 ある。番所跡には、北側に幅二一〇メートル、八段の であった。板谷越えで米沢藩領に入った古川古松軒 石段があり、周囲を石垣で囲み、内部に井戸・土間跡 は、次のように記している。 が確認された。 街道は、これらの建物群の北側を東西に走り、墓地 奥州福島を出でてより悉く山路なり、中にも板 が三カ所に分かれ、あきらかに移植したと思われる 谷峠というは三里の嶮道にて、一人横たわれば ( 西 ) 杉・くるみ・李などの木が建物群の周辺にあり、街道 万人をとどむるというべき難所なり。南方は の北側には水田跡と思われる湿地帯がある。旧足軽が 会津より越ゆるなり。この道に奥州檜原峠、羽 明治中期まで住んでいたといわれ、耕作していたので けんそ 州綱木峠などの難所あり、その嶮岨筆紙に尽く あろう。番所遺構がほば完全な形で残されており、本 そうてん すべからず。峰に上れば蒼天に入るかと驚き、 格的な調査のうえ、貴重な歴史遺産として保存される こんりんざい ことが望まれる。 谷に下りては金輪際に落つるかと恐る。伝え聞 しよくさんさんどう く蜀山の桟道も、これには過ぎじと覚え侍る。 檜原・板谷の峠は中国の蜀山の桟道よりも険阻な この笹谷峠 ( ー 九 9 メ ) であったとする説もある。江 戸時代前期は羽州街道の参勤交代路として、中期以 道であるという。険阻な道でも輸送路であり、参詣 降は年貢米などの輸送路として利用された。仙台と の道となった。米沢方面から会津地方に移出された あおそ ふたくち もにわ 品物は青芋・木綿・漆・煙草など、移入品は焼き物・山形を結ぶ最も近い一一口街道は、茂庭・長町間が笹 くるみ 塗り物・胡桃などで、七、八月には一日四、五〇〇谷街道と重複し、幕末には一日二〇〇人から三〇〇 どうしゃ 人にのばる三山参詣の信者たちが二ロ峠を越え、山 人の湯殿山参詣の道者が通ったという。夏は牛馬だ 形方面からも多くの人たちが金華山参詣・松島遊山 が冬はすべて背負子で運んだ。 きさかた なかやまこうよう に越えてきた。文人中山高陽は仙台から象潟への旅 参詣の峠 に二ロ峠を越えて山寺に出て、帰路笹谷峠を越えて 仙台藩の南部と山形方面を結ぶ笹谷街道は、すで帰仙している。二ロ峠を越えるときの様子を、 うやむや 二口に着。国堺番、山中に二軒有。ここにてセ に代に開かれ、歌枕にうたわれた有耶無耶の関は 8
カラー・みちのくの , フたー カラー・随想 南京婆のやってくる道井上ひさし 紅花の里・行者のみち真壁仁 目には見えないものの列長部日出雄 街道小史みちのくの道は近世の道渡辺信夫 街道地図 奧州街道 / 会津西街道 / 米沢街道 / 石巻街道 カラー・ 北上山地 / 秋田街道 / みちのくの祭り 大名が往き文化の流れる道ーー・みちのくの幹道・奥州街道渡辺信夫 宿場と蔵の遺る道ーーー会津西街道と米沢街道竹川重男 北上川の舟運渡辺信夫 江戸へ米の行く道ーー 平泉・黄金の文化を支えた道大石直正 民俗の里へ・遠野と角館ーー遠野街道・秋田街道細井計 / 平川新 上山地の鉄と塩の道ーー、・、小本街道と野田・沼宮内街道深井甚三 目次 0 7 8 7 2
発田米 沢、沢 を 4- 喜多方 猪苗代 ニ本松 会津Å本松街道 大内い猪苗 河 高原峠道 藤原 日光。 今市 宿場と蔵の遺る道 竹川重男 福島県教育委員会 会津西街道と米沢街道 八年 (Æ) の伊達政宗小田原参陣のときと、同年の 会津藩の本道五筋 豊臣秀吉会津下向の際の道筋が、近世初期の姿をわ 四方を高い山々に囲まれた会津は、他国へ出るにずかに伝えている。 は必ず山を越えなければならない。江戸時代、峠を 天正十八年、豊臣秀吉が北条氏のたてこもる小田 越えて他国に通じる主要な街道は五つあった。藩で原城を包囲したとき、会津にいた伊達政宗にも秀吉 はこれを本道五筋、または会津五街道といった。慶より参陣の催促があった。政宗は黒川城 ( のちの会 あん 安二年 ({) 会津藩が幕府へ差し出した報告による津若松城 ) をあとにし、南山通りで高原峠を越え、 しもつけ おおうち と、会津藩内の本道・小道の数は、「本道五筋、 下野国 ( 栃木県 ) を経て小田原に出ようとし、大内 現・南会津郡下郷町大内、 道二十五筋に候」とある。 地元では〈おおち〉という ) まで行ったが、「関東の諸城 本道五筋とは、会津若松城下大町札辻より白河へ 悉く小田原に相属し」ていたため、黒川に引きかえ 出る道 ( 白河街道、白河通りともいう ) 、南山を通り宇し、米沢街道を通って米沢へ出、小国から越後・信 都宮領藤原村へ出る道 ( 会津西街道、南山通りともい 濃を迂回して小田原へ参陣したという家記 う ) 、越後新発田領へ出る道 ( 越後街道 ) 、檜原を通 しかし、小田原に参陣した政宗は、秀吉から参陣 って米沢へ出る道 ( 米沢街道 ) 、猪苗代を通って二本のおくれを責められ、会津を没収される。そのあと がもううじさと 松へ出る道三本松街道 ) である。 秀吉は、彼の最も信頼する武将の一人蒲生氏郷 ( ← この本道五筋の整備されはじめた時期ははっきり ¯) を会津の大守に封じ、自ら「奥羽仕置」のた ほしなまさゆき しない。保科正之 (— 一六こ ) が会津に入った寛永一一め会津に下向するのである。 / こは、すでにある程度の整備はなされて + 年 ( も。 秀吉の会津下向の道筋 いたから、街道の成立はもっとさかのばるだろう。 てんしよう 天正十八年、秀吉は小田原から宇都宮・白河を経 会津の主要街道通過の史料は少ないが、天正十 かんえい 6 5
会津西街道 会津西街道は南山通りとも呼はれ、会津若松から関山・津川から赤谷を過ぎ、越後の新発田、または津川から阿 大内・糸沢を経て山王峠を越え、五十里から藤原に出た賀野川沿いに新潟に出る越後街道、会津若松から大峠か 山あいの村々の農民が荷を運んだ道でもあった。このほ檜原峠を越えて米沢に出る米沢街道かあり、「会津五街 か、会津若松から猪苗代湖の西南岸を通り、勢至堂を経道」といわれた。参勤交代路は、会津西街道があまりに て白河に出る白河街道、猪苗代湖の北岸を通って、ル毎・険しいため、白河街道・ニ本松街道を利用するようにな 本宮を経てニ本松に出るニ本松街道、会津坂下・野沢・ 36
別府の一里塚・ -- 米沢 街道の宿駅塩川に残る - 里塚。道の両側の円 い塚が江戸時代の姿を 伝えている。 2 源頼政とともに宇治で戦死した以仁王が、実は生きわれる小田付翁かじから根小屋・中小屋を経由し ひのえまた のびて、尾瀬をこえ、檜枝岐を通り大内に逃れ住んて、大峠を越え米沢へ出る道、また、小荒井 あっしおにつちゅう だという。高倉神社は、この高倉宮以仁王をまつつ 多方市から、熱塩・日中を経て大峠を越える道が ている。大内の人々は、この伝説を大切に育ててきあった。しかしこの二つは、ともに難所であったた た。安住の地のない旅人へのやさしいいたわりの心め、寛永四年 ( 一し、加藤氏によって交通が禁止さ からだろうか。祭日は、はじめ以仁王の命日とされれ、檜原峠を越える道が米沢への街道となった。慶 はんげしよう る五月十九日だったが、明治になって半夏生の七月安二年し幕府へ報告したときの米沢街道はこの はんげ 二日になったので、大内では、この祭りを「半夏祭道である。街道筋の塩川町の別府には、このころっ り」といっている。祭りの当日は、御神体が神輿に くられた一里塚が今も残っている。 わかれんちゅう 移され、社総代から若連中に引き渡される。神輿『新編会津風土記』によると、米沢街道の主要宿駅 だし ろくさいいち につづいて、子供のひく山車もくり出し、村中総出の一つ熊倉では、近世初期六斎市 ( 毎月六回定期 ) 、、目」 に開かれた市カ日肝 の賑わいとなる。半夏生とは、夏至から一一日目、 かれていたが、慶長三年 (l しからは月三度しか開 田植えの終わるころで、田の神をまつるのが普通だ かれなくなり、その後すたれてしまったという。近 、はたさく が、関東では畑作の祝い日とするところも多いとい 世初頭、蒲生氏・上杉氏が会津を領していたころ は、米沢も会津の支配下にあったから人々の往来も 高倉神社の半夏祭りは、宿駅としての伝統を背負多かったが、上杉氏が米沢に去ってからは、会津と いながら、農業に依存しつつ生きなければならなく の交流も昔ほどではなくなったのであろうか。 なった大内の人々の苦闘の歴史と願いを、象徴的に 小荒井・小田付の発展 あらわしているものといえるのではないだろうか。 しかし熊倉の西、小荒井村と小田付村は、江戸時 米沢街道の変遷 代を通じ、この地域の商業や手工業の中心地となっ てんしよう 会津若松から米沢に出る道筋は、近世初頭以来何て賑わった。小荒井村と小田付村は、天正年間 度か変遷を重ねている。古くは、塩川・熊倉・大塩 (- 一五七三 ) にすでに町割りがおこなわれ、六斎市が たづき を経由して檜原湖の北に出、そこから檜原峠を越え門 幵設されていたという。この両村は田付川の両岸 て米沢へ出る道があった。そのほかに伊達政宗が米で、距離にして一キロメートル弱しか離れていなか 沢から会津への侵攻を企てた際ひそかに開いたとい ったため、市の開設日をめぐってしばしば争論をお
ニ井宿六地蔵ーー屋代 郷義民、高梨利右衛門 が刑場に連行された道 筋に地元の人たちが建 てた。盆の祭りはその 供養祭だという。 勢至堂峠への村一一一白 河を発ち長沼町江花を 過ぎると曲折の多い山 道となる。さらに勢至 堂集落を通り過ぎると、 いよいよ峠への上り坂 てある。 寒の正月二十五日、朝、雪だった空も勢至堂宿を出となった利右衛門の思想と行動は長く義民として語 発するころには晴れていた。しばらく坂をのばり勢りつがれ、いまでも屋代郷六地蔵や利右衛門酬恩碑 至堂嶺に達し、彼はここで会津の山磐梯山の遠景に などに利右衛門義民伝ロ碑がのこっている。 足をとめたのである。 険阻な板谷と檜原 山路なれど難所なし 奥州街道八丁目宿を起点に米沢に通じる旧米沢街 陸奥国から出羽国に入る幹線は、奥州街道桑折宿道は伊達氏が開さくしたという。伊達氏が本拠を伊 を左折する羽州街道である。奥羽山脈に発するどの達郡から米沢に移した後は軍事上はもちろん経済的 谷川も陸奥国側が奥深くなだらかであるが、出羽国にも重要な道となり、江戸時代には米沢藩の参勤交 側はその反対に傾斜は比較的急である。その顕著な代路となった。山脈に深く食い込んだ谷がないた こさか 七五五メ 例がこの羽州街道である。桑折宿を発して小坂宿にめ、板谷峠 ( ー ) のほか副峠を二〇〇メートル つくと、福島県と宮城県の県境にかかる小坂峠 ({ 余りも上り下りしなければならない険しい峠路で通 一メー ) が目前である。旧道は、峠の頂上をめざし 行は容易でなかった。慶長六年 (8 , ) 十一月、加賀 としいえ けいじ て、胸つき八丁といわれる急坂を登るが、小坂峠を藩主前田利家の甥にあたる武人前田慶次が伏見を出 しち 越えれば「山路なれど難所なし」といわれた山中七発し、この峠道を通って米沢に入った。亡き秀吉の かしゆく くみ かげかっ ケ宿街道となり、山形県と宮城県との境の金山峠恩を忘れず関ヶ原の役で西軍に与した上杉景勝を慕 ゅのはら にわさか にかかる。やや戻って旧湯原宿から西に 、客分となって景勝に仕えたのである。庭坂ー板 にいじゅく すももたいら げんな 五六八メゞ 二井宿街道を進むと二井宿峠 ( ー ) 力ある。両谷間の仲継駅李平宿の元和四年 ( ~ しの文書によ 街道ともともに分水界を越すとまもなく眼下に、そ ると上下の伝馬は馬でなく牛であった。険阻な峠道 れぞれ金山宿や二井宿の集落が現れ、急斜の道が曲には牛がより適していたからである。 折する。一一井宿街道を下りる途中の一一井宿上宿の一 米沢と会津地方を結ぶ会津街道 ( 会津地方では米沢み ひばら の坂に、高梨利右衛門という義民の処刑場がある。 街道 ) は高い峠の連続であった。中心は檜原峠 ( 九四 き・もいり 五四〇メ、 農民利右衛門は二井宿村の肝煎で問屋を兼ねていた しであるが、米沢と関の間の船坂峠 ( ー かんぶんめやす つなぎ といわれ、米沢藩の苛政を訴える寛文目安 ( しをつぎが綱木峠 (? 」比メ ) とつづき、檜原湖畔に下っ げんろく あららぎ 九六三メ 八六四メ つくり幕府に直訴し捕えられ、元禄一兀年 ( ←し十二 てからも蘭峠 ( ー レ ) ・大塩峠 ( ート ) を越えな やしろごう 月、雪の中で斬罪された。屋代郷郷民のために犠牲ければならなかった。青年志士吉田松陰は東北旅行 かなやま こおり しらおんひ
七ケ宿街道・上戸沢宿 ゆるやかな坂道と 茅葺き屋根の家並みは、 旧道を進む者にいっそ、を、 う旧宿駅の風情を感し させる。 廃して院内峠を開き、江戸への道を整備している。 側のいう会津道である。秀吉が小田原から会津入り また、東海道や中山道の伝馬制に類似する、青印のしたときに開発された。のちに延長され、越後に入 伝馬制を領内で実施したのも慶長期である。ただ当り、三大佐渡路の一つとして佐渡産金を江戸に運ん 初、出羽国から陸奥国への羽州街道の道筋は、山形 だ。会津では白河までを東通り・白河通り ( 白河街 城下から東に折れて笹谷峠を越え奥州街道の刈田宮道 ) などと呼び、幕府役人の往来、会津藩主の参勤 宿に出ていたが、しだいに山中七ケ宿街道を利用す交代路として、また庶民の江戸往還路として賑わっ たのである。 るようになり、桑折宿が奥州街道との分岐点となっ たのである。羽州街道の呼称もまた固定したもので 会津若松と扛戸を結ぶもう一つの主要街道は南山 はなく、最上道・山形道・秋田道などと呼ぶことも通り ( 会津西街道 ) である。日光道中の今市宿を起 あったのである。 点に北上し、会津若松に通じる街道で、江戸・会津 一方、秋田・津軽両藩では羽州街道を「大道」と若松間の最短距離として会津藩の江戸廻米が送ら 称し、他の領内道を「脇街道」と呼んで区別してい れ、民間の運送業者である中附馬などが往来した。 た。江戸に通じる道、参勤交代路、他国者も通る往南山通りの旧大内宿は、かっての宿場のたたずまい をいまも山中にとどめている。 還路などの意味がそこにこめられているのであろ 白河宿を東に入るのが棚倉街道である。六万石の 棚倉が中心で、南下して常陸に入り江戸城下に達す 白河につづく道 る。幅三間 (f い ) と奥州街道と同じ道幅の大道 みちのくを南北に走る奥州街道と羽州街道を幹にであった。郡山宿から太平洋岸の平方面に通じる道 多くの脇街道が走り、秘境や名勝地にも通じてい が岩城街道である。沿道の守山藩や二本松藩の江戸 た。玄関口白河宿を起点に北進しつつ、主な脇街道廻米の津出し路で、岩城浜の諸湊から船で常陸の那 かみなと をたどることにしよう。 珂湊に運んだのである。帰り荷は塩荷が多く牛によ はじめに、奥州会津への道である。秀吉の奥州下 り駄送された。郡山宿を北上し本宮・二本松などを しずめ 向以来、会津はつねに奥羽の鎮として重きをなし、 通過すると板倉三万石の城下福島に着く。ここから 譜代大名が配置されてきた。水運に恵まれず、関東現在の国鉄奥羽線沿いに北進し米沢城下に至り、羽 に近いこともあって街道が発達した。白河宿を西に 州街道の上山宿に連結するのが米沢街道である。 折れ、長沼・勢至堂を経て会津若松に至る道が白河米沢藩の参勤交代路として利用された。 かみのやま 2
( 秋耳 ) 青森 弓ムな い北 象潟町 平泉 有壁 、新圧金成 有巻 。松島 山形 仙台 ′価台物 , 米沢 桑折村 第島 ニ本松 苗代 白河 大田原 君命に従った江戸時代の旅の代表的なものは、い 家なども奥州街道に出て江一尸に上る場合と水戸街道 うまでもなく大名の参勤交代であった。奥州街道をを通って江一尸に向かう場合とがあった。 ぶんせい 上り下りした諸大名を文政四年 ( (f) に調べた幕府 江戸への道は遠く の記録がある。それによると奥州は一九家、羽州一 一家、野州四家、松前一家となっている。これを街参勤交代が制度として定期的に実施されたのは寛 道沿いにみると、八戸藩の南部家、盛岡藩の南部永十一一年 ( 一一しに幕府が武家諸法度を改訂してから 家、仙台藩伊達家、一一本松藩丹羽家、白河藩松平家である。ときの仙台藩主は独眼竜伊達政宗 (L 〔七 などは当然ながら奥州街道を参勤交代路とした。こ 六 ) であった。かって天下人豊臣秀吉に抵抗し、江 みんまや はせくらつねなが れに松前藩の松前家が海路三厩に出て奥州街道を利戸幕府が生まれた後も家臣支倉常長をローマに派遣 用し、会津藩の松平家は会津道を白河宿に出、棚倉して、奥州の王を主張した政宗ではあったが、天下 藩の井上家は棚倉街道を白河宿に出て奥州街道を上は大きく変わり、齢七十の、膈噎 ( 胃癌 ) の症で苦 った。弘前藩の津軽家、久保田藩の佐竹家、新庄藩しむ老骨の一国の主となっていた。政宗は翌寛永十 こおり の戸沢家などは羽州街道を上り、桑折宿で奥州街道三年四月一一十日仙台城を発ち江一尸に上った。国許の に出た。羽州街道から離れている庄内藩の酒井家家臣にはもはや逢うこともあるまいと告げての悲愴 は、新庄または山形城下で羽州街道に出たが、米沢な旅立ちであった。途中、彼は奥州道中 ( 奥州街 藩は仙台藩領の通過を避けたのであろうか、険阻な道 ) の大田原宿から日光に向かい、東照宮に参詣し 米沢街道を福島に出て江戸に向かった。江戸浜街道ている。かっての盟友徳川家康の一一一回忌にあたる ( 陸前浜街道 ) 沿いの中村藩の相馬家、磐城平の安藤からでもあったが、今生の別れと覚悟しての日光立 ち寄りであったにちがいない。彼は自ら予期したよ うに同年五月一一十四日、江戸桜田屋敷において七十道 歳の生涯を閉じたのである。翌日政宗の遺体は江戸 を出発し奥州街道を仙台に下った。道筋では彼の死 を悼み多くの人びとが合掌して別れを惜しんだとい う。追い腹を切り壮烈な殉死を遂げた家臣一五人を きようがみね ずいほうでん・大 従えて、彼はいま仙台経ケ峰の豪華な霊廟瑞鳳殿 に眠っている。 日光。 宇都宮 水戸。 至江戸 あるじ よわい かん