旧鎌倉街道ーーー鎌倉街 道というのは関東から 中部まて各地に残って いる。これは武蔵野の 雑木林を走る道てある。 この大都市は大きな特色を持っていた。一つは参 ほかに、樽屋三四郎・奈良屋市右衛門という江戸の 勤交代する大名がいることである。多くの大名は、 町年寄も駄賃の決定などに参加している。次いで、 一年ごとに、関東の大名は半年ごとに、その領地と大坂の役後になると、酒井忠世・本多正純・酒井忠 の間を往復する。何百人また何千人という大部隊の利・土井利勝・安藤重信らの年寄衆すなわち後の老 旅行である。また領国と江戸間の絶え間のない連絡中たちの名で渡船・駄賃・荷物などの法規が出され が行われる。この交通・通信量はきわめて大きい るのは、大名の通行が多くなったためと思われる。 まんじ また江戸は政治の中心とはいっても、そこが唯一で こうして幕府の交通政策は次第に整い、万治二年 おおめつけ はない。朝廷や西国大名に備えて京都・大坂も重要 ( 五九 一六 ) には大目付から一名が道中奉行を兼任し、元 しよしだいじようだい 拠点として、老中に次ぐ重職の所司代・城代が派祿十一年 (l しには勘定奉行から一名が道中奉行を 遣されている。二条城や大坂城を警備する大名・旗兼帯して、道中方を専任に扱う役職が置かれること となったのである。 本も交代で勤務に赴く。 江戸は政治の中心ではあるが、その初期には、大 この体制下で管理される街道が五街道である。江 坂・京都方面の上方が経済の中心である。多くの物戸から四方に出る東海道・中山道・甲州道中・日光 資は、ことに加工された製品は上方から輸送されて道中・奥州道中であるが、奥州道中は宇都宮までは くる。さらに多くの食糧その他の日常必需品は東日 日光道中と重なる。このほかに道中奉行の管轄に入 本の各地から江戸に運びこまれていた。江戸は大消った街道は、それぞれ年代は違うが、東海道と中山 費地であった。そこに住む人口の半数の武家やその道とを結ぶ美濃路、伊勢湾の北岸を通って、東海道 さや 従者・奉公人は生産とは直接に関係のない人たちでの宮 ( 熱田 ) と桑名を結ぶ佐屋路、浜名湖の北を通 ほんさかどおり れいへいし あった。 る本坂通 ( 姫街道 ) 、中山道から日光へ向かう例幣使 おなりみちみぶ 全国を統治するために、江戸を防衛するために、 街道、日光道中に並行している日光御成道・壬生 江戸の大人口の生活資源を確保するために、幕府は通、水戸佐倉道の一部、東海道の大津・大坂間の伏 その交通政策を樹立しなければならなかったのであ見宿から分かれて、山崎・芥川・郡山・西宮などを 水高辺とる 掛屋て左い に茶名「書花にの原な る。関ヶ原の役後すぐに着手した宿駅設置はその目経て尼ヶ崎または兵庫に出る山崎通などがあった。 て手こガと の有はと 尾レ J はに」 出右、い所 的を果たすものでなければならない。初期の交通に 柏も」標道を 宿とあ」坦 たや石ら 上り・下り専用の宿 のめ るが平関与していた者は伊奈忠次・彦坂元正・大久保長 渡山 ( た 宿橋こたまる 塚る「つかあ塚を寺唐っ 安・板倉勝重など行財政の実務に通じていた役人の これら幕府直轄の街道では、宿駅の設置、道路の 戸かのありて平川廉はい 2
3 碓氷関所跡ー -- - ー信越線 横川駅の近くにある。 門扉 1 枚が残っていた のを復元した。資料館 も作られている。 中山道が一般旅行者の交通路として重要であった が発達していたことである。東海道方面では、海上 、いたるところに湊かあっ とすれば、これらの脇街道は物資運送の通路として交通が盛んであったから くつかけ 欠かすことができないものであった。信濃の沓掛・ て、主要な物資は廻船で運搬した。関東では、利根 ちゅうま かりやど 追分両宿間の借宿から入山峠を越えて、上州の入山 川の水運が利用された。信州の物資が中馬悧 村から、松井田・坂本両宿の間に出る道は古い東山 農民が行 ) などで運び出されてきても、水の便のある 道であるが、これは、小諸・上田・岩村田・龍岡な所に来れば、そこで船積みされた。秩父山中の材木 いかだ どの藩米の輸送には重要なものであった。これらのも荒川を筏などで下されることが多かった。もとよ り馬の背で江戸まで運ばれる物も少なくはなかった ため、信濃米に対しては、松井田・下仁田・本宿・ 高崎などが市場となり、越後米には三国街道の永井が、水運のある場合には、できるだけそれを利用し たので、いたるところに河岸ができたのである。 一 ) 宿が払米市場として栄えたのである。 したがって中山道は、主として旅行者のための交 これらの街道に関所が多いのも特色である。江戸 通路として考えるべきであろう。やや平坦に過ぎ を守るために、特に関東の四囲には多く、相摸国に て、単調ではあるが、見る所はいくらでもあったは は駿河側には箱根を中心に河村・谷ケ村・仙石原・ 矢倉沢があり、甲州側には鼠坂・青野原、伊豆方面ずである。大宮宿はその名の起こりの氷川神社があ おうかんわき る。往還脇の石の大鳥居からの長い参道、広い境 には根府川と八関があった。上野国では、中山道に もく さるがきよう 内、朱印領三〇〇石で、武蔵一の宮にふさわしい大 は碓氷の関、三国街道では杢ケ橋と猿ケ京に、信州 街道では大戸・狩宿・大笹に、下仁田街道では西牧社であった。明治元年十月十三日、明治天皇は江戸 に東幸になると直ちに江一尸城を東京城と改めたが、 と南牧にあり、十石街道では白井にあった。また例 幣使街道と沼田道の交差する五料に、会津街道では十七日には氷川神社を武蔵国の鎮守となし、一一十七 日に東京城を発し、浦和の本陣星野家を行在所と 戸倉にあり、利根川渡では大渡・真政・福島にあり、 かんむ 合わせて一四カ所あった。幕府設置の関所は全国でし、翌二十八日に氷川神社に親拝された。桓武天皇 が平安遷都にあたって、賀茂神社を鎮守の社とされ 五〇余力所であるから、四分の一以上が上野国内に ていた例によったものである。 置かれたことになる。 えんじ 臙脂で知られた桶川宿や雛人形の鴻巣宿を過ぎ さしたび 物は河、人は陸行く中山道 て、吹上村や榎戸村は刺足袋の産地、いずれも忍藩 ぎようだ 関東の交通の一つの特徴は水運、それも河川交通領であったから、城下町の行田足袋として売られた いりやま
谷文い 、一る ・、こなかて るれにるし あら道い出 石に作農て露 の方にはれけ 坂西ろ今さだ 谷のご。装分 金宿政う舗部 通常の旅行にそれほどの恐怖はなくなった。やがて取られ、書き伝えられていき、その間には道中記も 庶民にも、生活に余裕が生じてきた。参勤交代その いくつかできて、旅行者はそれを頼りに、たやすく じっぺんしゃいつく 他によって、国内のさまざまな情報が得られるよう旅行もできた。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が になった。主用や商用で旅行をする、あるいは就職圧倒的な人気を博し、弥次郎兵衛と喜多八は、京 のために江戸や大坂・京都に出かける。 都・大坂でとどまることができず、金毘羅宮に行 旅行することは珍しいことではなくなってきた。 き、宮島に詣で、さらに善光寺に参拝して、草津温 やがて伊勢参宮を兼ねて上方見物に出かける。ある泉に浴して江戸に帰ってくることになる。それでも いは東国から金毘羅参詣に行けば、西国から善光寺人気が衰えないので、一九は人物をかえて松島旅行 参りに赴くようにもなる。伊勢講・富士講・秋葉をさせている。二〇年余もつづいた『膝栗毛』人気 講・榛名講など、講を結んで、交代で参拝に出かけ は、当時の江一尸の人たちの旅へのあこがれを如実に る風習が盛んになり、それは神社側の御師と結びつ 示しているものといえよう。時々に起こったお蔭参 いて組織化された。 りという、何百万人もの爆発的な伊勢参宮のかげに とうじ 熱海・箱根・草津などへの湯治も容易になり、そ は、こうした潜在的な願望があったのであろう。 こには自炊などをして安価に滞在できる施設ができ 江戸末期になると、旅行鏡などという案内書が多 ていたから、農閑期に骨休めに出かけることも可能 く出版されて、街道ごとの宿間の距離、旅籠屋の名 こよっこ。 前、人馬の賃銭、あるいは名所産物まで書き記し、 旅行者の必携品となっている。そしてまた多くの人 案内書は貴重な史料 びとによって旅行記も書き残されている。武士のも このように旅行が盛んになった理由は、交通が便のもあれば、庶民のものもある。きわめて簡単な記 利になり、経済的な余裕ができたなどのほかに、道録もあれば、宿泊賃まで細かく記しているものもあ 中記や紀行文のごときものが出版されて、人びとのる。それらが交通史研究の貴重な史料となっている 旅ごころを呼び起こしたのではないかと思われる。 ことはいうまでもない。さらに宿の問屋や本陣に保 歌人が歌枕をたずねて旅をしたように、少し文事に存されていた史料は、多くの県史や市町村史に利用 心ある人は、その土地土地の名所旧跡をたずね、あされているし、また史料集としても刊行されてい るいは神社寺院のいわれを聞くのが常であった。そて、私たちはそれらをひもときながら街道の歴史を してそれらの人に書かれたものが、またのちに写し書いているのである。
佐原の利根川 利根 は、関東、ことに江戸 市民の台所へ物を運ぶ 大動脈て、佐原は下総、 の物資の集散地てあっ 戸に向かったし、越後・信州から馬の背で峠を越え人は小売り商よりも問屋が多く、鮮魚・塩魚などを ほしかしめかす くらがの てくる廻米は、上州倉賀野で川船に積み替えられて扱う「浜方問屋」、干鰯・〆粕などの魚肥を扱う 利根川を下り江一尸に入った。関東各地の廻米も、利「干鰯問屋」、米・麦・大豆などを扱う「雑穀問屋」 などである。また、旅人の休泊のために「茶屋」が 根川水系の舟運を利用したことはいうまでもない。 はたご あ このような廻米・諸荷物を揚げおろしするためあり、「旅籠屋」がある。医師や道心などもいる。 に、関東の河々には多くの「河岸」と呼ばれる船着船の新造や修理をする船大工などの職人も河岸の重 場・湊ができた。元祿年間には関東の内だけでも百要な住人だった。また、渡し船を操る「渡し守」も 数十の河岸があったことが知られている。この河岸おり、女の稼ぎとしては、旅人や船頭・小揚人足な どの衣類洗濯仕立てなどがあった。 には、船問屋や船持・船頭をはじめ多くの商人や問 屋が集まり、活気ある賑わいをみせた。 人気のあった乗り合い夜船 じようきよろ・ 交易の中心地河岸の人びと 貞享四年 ( ←し八月、俳人松尾芭蕉は鹿島での 河岸は、街道の宿場と同じ交通の町である。陸付月見を思いたち、門人曾良と宗波をともなって芭蕉 けしてきた荷物を船におろし、船に積んできた荷物庵の門前から舟に乗り、小名木川を通って江戸川に やわた しもふさぎようとく 出て下総行徳河岸に着いた。ここから徒歩で八幡、 を陸へ揚げる。これが「河岸問屋」・「船積み問屋」 かまがや と呼ばれる交通業者で、河岸間屋はまた名主・庄屋鎌ヶ谷と筑波山を行く手に望みつつ、小金ヶ原を横 などの村役人を兼ねる場合が多かった。荷物を川下切って日暮れには利根川の岸に着いた。 すでくれ とねがわ 日既に暮かゝるほどに、利根川のほとり、ふさ げして送るには船が必要である。この船の所有者が この さけあじろ ( 布佐 ) といふ所につく。此川にて、鮭の網代 「船持」であり、同じように陸揚げした荷物を運ぶ こ、ついち といふものをたくみて、武江の市にひさぐもの 「馬持」もいる。このような荷物の揚げ下げの労働 あり そのぎよか かる 有。よひのほど、其漁家に入てやすらふ。よる に従事する人足が「小揚人足」であり「日雇」・「軽 のやど、なまぐさし。 子」とも呼ばれた。また「船持」に雇われて実際に と、『鹿島紀行』に記した布佐の漁家に休み、 船を動かす者は「船頭」「舟乗」「水主」で、これ まなく晴れた月明かりの利根月。 ーこ船を浮かべて、鹿 らはみな腕一本で稼ぐ労働者である。 河岸には揚げ下げのために大量の荷物が一時滞留島へ下った。 この芭蕉一行の乗った船も夜船であったが、利根 する。そこに交易が生まれ、商人が集まる。この商 かこ 75 イ
新居関跡ーー浜名湖ロ の西岸にあり、建物が 残っている。舞坂から 船て渡ると、この関所 前に着くようになって いた ( 史跡 ) 。 蹟きを竃第 日本橋の伝馬役所へ提示しておけば、それが先触とあったからである。そこで一般庶民が旅行するとき なって、先々の宿へ通達されている。朱印状や証文には、問屋場には行かないで、馬士や駕籠舁と直接 による人馬は無賃であるが、それで不足のときには交渉をして利用することになったのである。 賃人馬を雇う。その必要数も先触のなかに記してお 道路の管理・補修や並木の手入れ・補植などは沿 おさだめ く。その賃銭は道中奉行が定めた御定賃銭であ道の村々に責任を持たせており、また街道の掃除町 る。 場を決めておいて、特別な通行があるときには、宿 参勤交代の大名などは御定賃銭による人馬を使から触れて、その村々に清掃をさせ、敷砂などをし う。しかしこれは大部隊であるから無制限に使われたのである。 ては宿場が疲弊する。というのは、御定賃銭が通常めしうりおんな 食売女で有名だった軽井沢宿 の人馬賃銭と不均衡になって、江戸後期では大体半 ぶんせい 額になっていたからである。文政五年 ( 一一 (i) に道中宿には宿泊のために本陣・旅籠屋、休憩のために 奉行が定めたところによると、東海道では二〇万石茶屋があり、そのほか諸種の商い店があった。本陣 以上の大名は三日間、五〇人・五〇疋ずつ、一〇万は大名などの宿泊を主としたものであるから、建て 石以上は二日間、五〇人・五〇疋ずつ、ただし福岡坪はときには数百坪に及び、門や玄関・書院などを の黒田、佐賀の鍋島の両家は長崎警備の用務がある備えているのが普通で、逆に通常の旅籠屋では門や ので、藩主通行当日は一〇〇人・一〇〇疋を認めら玄関は許されなかった。 れた。中山道は、一〇万石以上は三日間、二五人・ 大名が休泊するときには何カ月も前から判ってい せきふだ 二五疋、五万石以上は二日間、二五人・二五疋、たて、「松平備前守泊」などと記した大きな関札を持 だし金沢の前田家は将軍の御内慮によること、福井ってくるから、本陣の前に青竹に挾んで高く掲げ、 の松平家が中山道を通れば、五日間、一一五人・一一五 門前には定紋を打った幕を張り、高張提燈を建てた 疋というようなことが定められた。これを超過すれりする。大大名であれば家臣従者の泊まる下宿とし あいたい ば相対賃銭になる。 て、旅籠屋がほとんど占領されてしまうこともあ これは一度に通行するから制限されたのである る。旅籠屋では足りなくて、寺院などを利用するこ が、通常の場合は、藩士の旅行でも御定賃銭の人馬ともある。 を使用できたし、渡船場などでは武士は無賃という 東海道の旅籠屋では、ほとんど畳敷きになってい むしろ 所が多かった。これは当時の交通政策が公用優先でたと思われるが、他の街道では、板敷きや莚敷き さきぶれ 2
不破の関跡ーーー岐早県 不破郡関ヶ原町にあっ た。近江と美農の国境 に置かれ、中山道の要 も東海道の河川行政に積極的に取りくんでいったのの席に侍ったと記している。 で、東海道の致命的な交通障碍である河川の悩みも 平安時代の東海道最大の変化は、東海道がさきの 徐々に解消されていった。ただ、尾張と伊勢との境伊勢路からしだいに近江・美濃の内陸部をへて尾張 び の木曾川、長良川、揖斐川などの下流地帯は氾濫し にでる美濃路に移っていったことである。平安初 ありわらのなりひら 易く、横断が困難なため、中流の内陸部を通ってい 期、在原業平の東下りには近江甲賀郡・から鈴鹿越 るが、この三川は、後々まで東海道交通の最大のが えに伊勢に出ており、古代『延喜式』通りの道を経 由している。しかるに平安中期の『更級日記』の筆 んであった。 こうして東海道は東山道に対する交通上の優越性者一行は、伊勢路をとらず、美濃路を通行して美濃 をしだいにかちとるようになり、東山道地域の関野上宿に宿泊しさきの足柄山の麓のように、あそび 東、東北地方の人びともしだいに東海道を利用する ( 遊女 ) ども出てきて夜ひとよ歌をうたったとい ようになった。 う。東海道地域と京との往還に、かなり早くから美 濃路が利用されていたもののようである。 中世では美濃路、近世では伊勢路 その後、美濃路の利用者は年ごとに増え、鎌倉時 東海道は、先にも述べたように、京都から伊勢、 代に入ると幕府によって公式に東海道の本道として 尾張などを経て、太平洋岸の国々を通る街道であっ指定される。一方伊勢路はとうぜん裏道となって、 た。一般に平坦であったとはいえ、幾つかの難所が さびれるが、その理由は何であろうか。伊勢路の難 えんりやく あった。その一つは足柄峠であるが、延暦二十一所の一つ鈴鹿峠を避けるためと、木曾川中流でかな 年 (lfi 〇 ) 富士山の噴火のため、一時ここが遮断されり迂回するため、しだいに敬遠されたのであろう。 たことがある。 源頼朝の父義朝に寵愛された美濃青墓宿の遊女の くまさかちょうはん ここで新しく箱根の山路が開かれて交通の便宜が 話や、同じく美濃赤坂宿に熊坂長範などの強盗が はかられたが、間もなく足柄路はふたたび復活し、 出没したなど、いずれも平安末期における美濃路の 中世まで東海道の本道となっていた。 繁栄と宿場の発達の一面をのぞかせるものがある。 すがわらのたかすえの 平安のなかごろ、『更級日記』の筆者菅原孝標 しかるにその後、江戸幕府は、再び伊勢路を、東 むすめ 女が、上総の国守を解任された父にしたがい、帰洛海道の本道とした。伊勢参宮の発達などの影響もあ したときもここを通り、足柄山のふもとに宿泊、遊ろうかとも思われる。しかしこれらは木曾川などの 女三人がどこからともなく風のようにきたって一行 交通障碍が、完全に除かれたわけではなく、依然、 はべ 6
薩垤峠よりの富士一一 - 一遍上人絵伝ーー上人 東海道の難所として知が生家を離れて修行に られる。図会に「三保旅たつ情景から正応 2 松原手にとる如く道中年 ( 1289 ) 入減に至る諸第 = ま第 : 、 無双の景色也」とある。国遊行の生涯を描く。 = 1 第、 ようになった。 、、家政権とをつなぐ政治街道としての役割は低下し た。しかしながら鎌倉時代の末から南北朝時代、室 まず太田道灌の開いた江戸もその一つであった。 ひたち 江戸の市場には、安房 ( 千葉県 ) の米、常陸 ( 茨城 町時代にかけて、一般に地方経済が発達したので、 しゆく 東海道の交通量も高まり、宿もいっそう繁栄してい 県 ) の茶、越後 ( 新潟県 ) の竹箭などのほか、遙か っ」 0 和泉 ( 大阪府 ) の珍奇品まで売買され、その外港品 Ⅱには、遠く伊勢 ( 三重県 ) その他の船が、たえず 戦国時代に変わる道の性格 入港していた。さらに北条氏の小田原には、西国・ 北国から多くの商人達が集まり、その繁栄はかって 戦国時代になると、近江の浅井氏、尾張の織田 しの 氏、三河の徳川氏、遠江・駿河の今川氏、伊豆・相の鎌倉を凌ぐものありといわれ、今川氏の城下町駿 きよろ・ろく 摸の北条氏など有力戦国大名が、覇者をめざして東河府中 ( 現静岡市 ) は、享祿三年 ( ~ 一二千余軒が 海道で、しのぎをけずっていた。かれらは領国の拡焼失したというから、当時の地方都市としては傑出 ぶんめい 張に努め、富国強兵をモットーに領国経営に没頭し したものであった。遠江引間宿 ( 現浜松市 ) は文明 たため、地方の産業・経済が大し冫 ゝこ発展し、さらに の末ころ ( 駟他 ) の一僧侶の紀行記によれば、富め ぶん 戦国大名は交通の便利な東海道に城下町を設けて分る家が千戸もあったと記されている。また織田信長 えいろく 国の中心としたので、東海道は一段と殷盛を加えるの城下町岐阜もこのころから発展した。永祿十一 年、京より岐阜に下った宣教師ルイス・フロイス は、人口は約一万人、宿屋の出入りの騒がしきこと バビロンの混雑に等しいと述べている。 このような地方都市、地方経済の発達につれて、 東海道を往き来する人びとの数も増したが、さらに 戦国大名の城下町と領内の重要地点との間に、頻繁 な交通が展開されるようになった。こうして東海道 は従来、中央と地方とを結ぶ中央集権的街道の性格近 が濃厚であったが、戦国時代となってそれとともに 城下町を中心とする分国単位の地方分権的交通が顕 著となっていった。 こく いんせい
湯坂道ーー平安時代か らの古道という。秋に なるとすすき野と化し、 古道の寂しさを今に伝 える。 一つまで、も 交通上の悩みであった。そのためこの辺りは、海路し、交通量は飛躍的に上昇していった。い を採ることとなったが、宮・桑名両宿間の七里の渡なく、鎌倉に武家政権が樹立されたのがその決定的 な要因である。古代政権の所在地である京都と、新 し、あるいは、十里の渡しなどがそれである。 しかし、尾張の午頭天王津島社へ参詣のため、こ興幕府の首都鎌倉とを結ぶ大動脈としての新たな使 の間、陸路を通り、佐屋宿へでて、木曾川を舟で下命が、東海道に負わされたからにほかならない。 東海道はもともと国の重要な一一点を結合する街道 り、桑名に上陸、それから伊勢神宮や京都に向かう ではなく、京都を起点として一方的に東国にながれ 旅人も、多かったのである。 るだけの道路にすぎなかった。しかしながら鎌倉幕 不振だった東海の海運 府の成立により、東海道は京都・鎌倉という二大政 東海道は、平安の中ごろから、京と東国を結ぶ最権所在地を結ぶ大幹道となった。これまで鎌倉は東 大の幹道となり、その重要性は、時代の降下に伴っ海道に面しなかったが、ここに鎌倉は東海道の事実 て、いよいよ高まってゆくが、その理由の一つに上の発着地点と化することになり、それにともない 付近の道路が改訂されていった。これまで平安朝期 は、東海海運の宿命的な不振があげられる。 東海海岸は湾曲が少なく、自然的良港に恵まれのこの付近の東海道は、足柄路が本道で、足柄を越 えると坂本 ( 北足柄村辺り ) より、小総 ( 酒匂村 ) 、国 ず、そのうえ遠江灘・熊野灘などの難所もあって、 古来海運の発達が阻害されていた。平安の初め公的府 ( 高座郡海老名村付近 ) 、箕輪 ( 足柄中郡伊勢原付 には三河 ( 愛知県 ) までしか船は行っていなかった近 ) 、浜田 ( 高座郡麻清町辺りか。以上何れも市町村合併 以前の地名 ) などを通じて武蔵に入り、かなり深く ようである。これに対して、京都と西国の交通に は、山陽道とともに瀬戸内航路が便利なため、水陸内部に入りこんでいた。しかし鎌倉時代になって東 ち 両路が利用されたが、東国では、海運に期待できな海道は現在の海岸沿いと変わり、大磯、茅ヶ崎、藤 立 いので、陸路のみが一手に交通を引き受けた。東海沢をへて鎌倉に至るようになった。 生 いんしん の さらにこの時代に、箱根路がしだいに開発されて へ 道殷賑ってさ しの一因に東海海運の未発達が、あ 世 近 いったこともまた、東海道史上の大きな変革の一つ げられよう。 の であるが、これまた、鎌倉幕府の成立と大いに関係道 大 ニ大政権を結ぶ幹線道路 があるのである。これまでの足柄路が迂回であるた 6 鎌倉時代に入ると、東海道は格段に重要度を増め、京都・鎌倉の迅速な連絡を必要とする幕府にと
武士と庶民の「江一尸への道」 支配権確立のための道路 「道はローマに通ずる」という一一一一口葉がある。かって ローマ帝国がヨーロッパからアジア・アフリカにま たがる大帝国を建設したとき、その得意な土木技術 をもって、支配圏の隅ずみまで道路を造営して、中 央の威令を貫徹させたことを示すものである。これ はローマに限ったことではない。 支配者がその権力 を徹底させるためには、交通網の整備と確保とは欠 くことができない条件であった。 中国の各王朝もまた都城を中心に四方への交通路 を設定した。日本においては大化の改新以来、その み一一一駅制を採用して、京師を中心に諸国に達する官道を 開き、駅を置いて、公用旅行者の通行・宿泊、ある いは通信などの便を計ったのである。その中心は、 はじめは奈良であり、ついでは京都であった。その 、、主要道路は大宰府に向かう山陽道であ「た。政治の 面からも文化の上からも、眼は大陸に向けられてい とろ・ たのである。それに次ぐのは東へ向かう東海道と東 さんどう 山道とであった。 街道小史一 ツィ 児玉幸多 学習院大学名誉教授
道切りのわらし - ーー富津 市関尻の街道沿いにあり、 由来には諸説があるが、 村や道中の安全を祈願す るためといわれ、街道脇 の木にさげてある。 なむみようほうれんげきよう えどばし 南無妙法蓮華経を唱え、立宗宣言をしたという。 権のみならず、江戸府内の日本橋と江戸橋の中間に さらに南にくだり鴨川にいたると、日蓮にゆかり河岸場の特設と、さらに安房・上総二国への渡船営 きようにんじ ぶんえい とう の深い鏡忍寺がある。文永元年 ( 一し十一月、東業の特権をも与えられたのである。 じよう たいらの ねんぶつ もともと木更津は中世の時代にも、湊としての機 条の地頭で念仏門徒の平景信が、他宗を攻撃する 能をもっ地であった。近世となり木更津船の往来が 日蓮を待ち伏せ負傷させる事件がおこった。世にい こまつばら こうはいち う小松原の法難である。そのとき日蓮の身がわりとひんばんとなり、房総中央地帯の後背地の物資を集 くどう なり死んだ鏡忍坊と天津城主工藤吉隆の菩提を弔う荷し、江戸に積み出すことが定期化すると、木更津 にあつまる房総の内陸の往還は急速にその重要性を ため、日蓮の弟子日隆が弘安四年 ( ←一一 ) に建立した ゆかりの寺である。 たかめていった。特に幕末にいたると、木更津船は 以上は日蓮のゆかりの地の一端をしるすにとどま単に物資の輸送のみにとどまらず、大なり小なり江 しろしようぞく ったが、古くから白装束の信者たちが集団をなし戸文化をストレートに房総に伝える機能をももつよ うになった。 て行きかうすがたは、人の目をひかずにはおかなか かえ、 せがわじよこう っ , 」 0 ) しまでは電車を団体で貸し切っておとずれる 嘉え六年 (ll<l) 三世瀬川如皐は八代目市川団十郎 よわなさけうきなのよこぐし のために八幕の『与話情浮名横櫛』をつくった。 信者が圧倒的にふえてきた。時代の変化をつくづく せわきようげん と感じさせる情景でもある。 この世話狂言は大当たりをとったが、一般には げんやだな とみよさぶろう 『切られ与三』他に『玄冶店』『お富と与三郎』など 木更津船の活躍 ともよばれた。しかも各幕には木更津の地名がふん 房総と江戸をむすびつける重要な動脈として木更 だんに出てくる。当時の江戸と木更津の深い交渉を づぶね 津船があった。その起こりは慶長十九年 ( 一し大坂端的にものがたるものである。 ろんこうこうしよう の陣に際し、木更津村の水夫が活躍した論功行賞 ともかく、この狂言の当たりによっても、木更津 として、幕府が木更津ー江戸の航路の特権を付与し は幕末から明治にかけて、特有の〃木更津情緒〃を たのにはじまる。すなわち徳川方の水軍に参加した 生み、一種の遊侠的ロマンの舞台となった。こうし 木更津村の水夫は二四人で、うち一二人は戦死して木更津は陸上交通と海上交通の接点として、江戸 た。幕府はその労をねぎらい、木更津付近二万石のと一すじの水路で深くむすばれたが、それは房総人 幕領の年貢米の運送を右の一一四人 ( 遺族を含めて ) に の経済生活のみならず、生活全般のための重要な動 命じ、船賃の三分を彼らに与えた。そして、右の特脈であったのである。 きさら 752