新緑と富士山一一一甲府ま 盆地の南東御坂峠から 富士山麓への地域は、 古くから歴史と伝説を 秘めた世界てあった。 茶壺が通る山あいの道甲州道中 みで、一般にひらかれた街道ではなく、「日陰ノ四 甲州と武州を結ぶ山あいの道すじ 寸道」とよばれたように、当時あまり関心が払われ いによう 高峻の山岳によって囲繞された甲斐の国は、まさていなかったし、甲州と武州を結ぶ道筋として、 やまかい に山峡の国である。そして、さらに中央を南北に走仏峠越えはまたきわめて困難であったことから、甲 みさか 州道中が開設される以前、関東に通ずる甲州の古道 る山嶺が、笹子峠・御坂峠を境に、この国を西側の くになか やっしろ 国中 ( 山梨・八代・巨摩三郡で甲府盆地一帯 ) と東側のは、これにかわる道筋が他に求められなければなら ぐんないつる なかったはずである。 郡内 ( 都留郡 ) とに分けている。 けいちょうげんな 江戸時代のはじめ、慶長ー元和 ( 塾「 武田氏減亡とお松の方 に開設され、五街道の一つにあげられた甲州道中 ないとうしんしゆく ひのき 古代以来、甲斐の国が歴史の檜舞台に登場する は、甲州を東西に横断して、武州の内藤新宿から むさし ことはまずなかった。軍事的に四隣を圧して、甲斐 信州の下諏訪宿まで五〇里の氤キ レ ) 余、武蔵一三 しなの さがみ 宿、相摸四宿、甲斐二五宿、信濃三宿の四五宿を数武田の名を全国にとどろかせたのは、短期間ではあ しんげん えるが、その行程に甲州が大きな部分を占めること —七三 ったが戦国末期であった。武田信玄 ( するが 甲府を起点として信濃・駿河・関東に通ずるいわゆ に、甲州道中の名は由来するのであろう。 ところで、この街道は当初、江戸と甲州支配の拠る九筋の街道を整備したが、これらの道路が大動脈 点である甲府との間を最短距離をもって結ぶためとなって領国統治はもちろん、四隣経略に威力を発 に、成立以前に生活道路として地域的に設けられて揮して、積極的な対外政策の展開をみせるのであっ かりさかぐち かいさく た。当時、西関東への道は、雁坂口と萩原口の二つ いた道筋を基本に開削されたものにちがいない。し こ・はとけささ′」 かし、この間に存在する峻険な小仏と笹子の二つのが考えられる。前者は笛吹川をさかのばって北上 ちちぶおうかん 峠のうち、笹子峠を越す道は元来都留郡への通路のし、雁坂峠を経て武州秩父郡へ通ずる後の秩父往還丐 イツ , 第ヾ、 ~ 第 ~ ささ′」 飯田文弥 山梨県立図書館
甲州道中 - ー一八王子を 過ぎ山間に入ると道は 蛇行し、山は迫り甲川 独特のきびしい自然が 眼前に迫る。 だいぼさつれ であり、後者は甲府から北東〈大菩薩の険を越えの甲州道中に沿 0 た道筋でないことはたしかである おうめおうかん て、武州多摩郡へ通ずる後の青梅往還であった。 が、都留郡に勢力をもった小山田氏の目をさけるた 甲斐を本拠に勢威を四隣に張った武田王国も、信めには、都留郡の北部をできるだけ早く抜けるコー 玄の死によってかげりを見せ、その後の凋落は急速スがとられなければならない。大菩薩の険を越え、 てんしよう さいはら 度であった。天正十年 ( ← F) 、織田・徳川連合軍尾根道伝いに小金沢から西原 ( 上野原町 ) を経て武 しんぶ ひのはら の侵入によって、その前年築城の新府城 ( 韮崎市 ) 州の檜原へ、そして北条氏照の城下八王子へたどり かつより をすてた武田勝頼 ( 一 —一一六 ) がめざしたのは、東へ着いたものであろう。その後、お松は心源院で得度 かっぬま いわとのさん 甲府・勝沼を経て笹子峠越えの都留郡岩殿山 ( 大月 して信松尼と称し、八王子横山の草庵に隠棲、元和 市 ) への道であった。しかし途中、小山田氏の背反二年 ( ~ >) 五六年の波瀾の生涯を閉じるが、遺言に につかわ にあって日川上流の田野 ( 大和村 ) で滅亡する。 より住まいを寺とし、信松院が興されるのであっ その三月、甲州から難をさけて、大菩薩越えに武た。 州をめざす落人の小さな群があった。信玄の六女お 宇治から江戸への茶壺道中 ¯) とっきそう従者である。世に松姫さ せんげん こゆずり ま、あるいはお松御料人とよばれた彼女は、七歳の 中世、武州檜原からは浅間尾根に小棡峠を越え ゆずりはら とき、武田・織田の政略により、信長の嫡男信忠とて、甲州の棡原から上野原方面へ抜ける甲州街道 じんばさん の間に婚約が成ったが、その後の情勢は両雄の間をか開かれていた。これより南方にあたり、陣馬山と あんぶ こ・はとけ 冷却から断交へ導くとともに、婚約が破談同様とな高尾山の鞍部に位置する小仏峠は、甲州から武州 るのも当然であった。 への最短経路ではあるが、地勢峻険なため日常の通 兄盛信の高遠城 ( 長野県高遠町 ) から新府城へ移っ 行には利用できなかったのである。 たお松は、織田軍の進攻によるあいつぐ敗報の中 江戸開幕により五街道の整備が進められるにとも で、一族と運命をともにすることなく落人の身とな ない、小仏谷を通る甲州道中にかわると、さきの浅 ったのであった。 間尾根を通る道は古甲州街道、あるいは、甲州裏街 きりどおし 甲府の東、栗原 ( 山梨市 ) にある武田氏ゆかりの道とよばれるようになる。ところで、小仏峠の切通 えんざん 海島寺から、塩山の向岳寺へ、ここでお松の落ち行 によって、甲府への街道を通ずる工事がおこなわれ くさきは武州八王子の心源院と定まった。これから たのは、慶長七年 (bfi) から元和四年 ( ~ しの間と さき一行のたどった道筋は杳として知れない。のち考えられている。またもう一つ、難所ながら古くか よう
下部の信玄公まつり 西八代郡下部町は信玄 のかくし湯の温泉て知 られる。 5 月 14 ・ 15 の 両日、遺徳をしのぶ祭 りが行われる。 下町園芸と 5 ー ゐ羅」に成田屋三升 ( 七代目団十郎 ) の発句を配してけようとする風のあったことであり、まして四月十の 商品価値を高めようと試みている。安藤広重が画用二日の信玄の命日には、甲府の大泉寺や岩窪の廟所 を帯びて甲府を訪れたのは天保十一一年 (5) 四月ででは、諸商人の屋台や見世物などもあって、参詣す る群衆がおびただしかったのも当然であった。そし 」あるが、滞在中、町人から依頼の絵をかく仕事の合 ちょうよう ばかり て、またいう「九月重陽、武家斗祝ふ、市中は常 間に、亀屋座への芝居見物はしきりであった。 りんりん の如し、児女に至りても衣服を改めず、伝へいふ、 「武田の遺風凜々として」 信玄川中島にて敗北の日なるによりてなりとぞ」 だいしようぎり 近世国中三郡でお 江戸時代、甲州を訪れる文人や旅人が、甲州を この時代、甲州に存続した大小切 ( こなわれた特殊な 「武の国」と感じたのは、甲州人の気質に、戦国武幣 ) の税法や甲州金・甲州枡など、独自の制度を信 田氏の勢威を二重写しに見てとったのではなかろう玄の遺制とする甲州人は、はては特産物や方言の中 かでん えちぜんつるが か。江一尸後期、越前敦賀の出身で甲州に住んだ俳人にさえ、信玄を生みの親とするなどの訛伝 ( 3 らん力い 辻嵐外は、「竹具足脱ぐよりすぐに大根引」の句の と ) を生み出している。 前文に、「此甲斐の国と申は、武田の遺風凜々とし あの山見れば思い出す我殿はあの山蔭でうた て、野守山守までも屯居のいとまには、刀剣の柄握 れた る事を稽古のむねとす」と記しているが、当時の甲 現在も甲州盆歌にうたいつがれてきているこの歌 州に、武田の遺風を感じとった一人の外来の文人では、ほとんど幕領として国主をもっことのなかった ふうび ばん あった。 甲州の人びとが、かって戦国を風靡した英雄への挽 か 「信玄の遺風はエ商にも存すれ共、農家の頑乎とし歌であり、武田氏を追慕したものであったにちがい て尊信するにはしかず」というのは、江戸末期甲府ない。 てぶり きてんかん に赴任した徽典館学頭の筆に成る『甲斐の手振』で いまから三七〇年ほど前、戦国以前の道にかわっ あるが、同書は甲州の年中行事のなかにもそれを見て江一尸と甲州を結ぶ大動脈となった甲州道中は、明 出している。正月の道祖神祭りの盛んなさまを述べ治以後も山梨県における幹線道路として大きな役割 こと′」と たあとに、「紋所 ( 燈 燈し尽く武田菱にて、正月をになって存続した。そして現在、全面開通も間近 九日頃より町々子供夫々集会、太皷・噺子の音、日 い中央自動車道にとってかわられているが、甲州人 かまびす 夜甚囂し、此調子、信玄陣太皷の遺風也と」 の意識は、甲州道中の時代を一足飛びに、戦国武田 と、この祭りの遊戯などにも、武田の勢威に結びつ氏への古につながれていくようである。 ら がん
■■宿■ ー物を ・曇を 1 ツをを 雪降る忍野 ( おしの ) 忍野には富士の裾 野唯一の湯宿があり、 宿から見る朝焼けの霊 峰富士は美しい。 身山 甲州道中四十三次は、四谷大木戸から、内藤新宿・高 井戸・府中・八王子・上野原・大月を過ぎ、笹子峠を越 え、勝沼を経て、甲府に至る道だったが、甲府から中山 道下諏訪までも、甲州道中と呼んだ。もうひとつの甲州 への道青梅街道は、内藤新宿で甲州道中と分かれて、中 野・田無・青梅を通り、難所大菩薩峠を越えて、甲府で 甲州道中に結ばれた。富士山へは、甲州道中随一の宿場 といわれた大月から桂川に沿って谷様を経て、吉田口か ら登り、富士吉田は信仰の厚い富士講の人々で賑わいを 見せた。日蓮宗の祖山、身延山には、甲府から笛吹川と 釜無川が合流して富士川となる水運の要衝鰍から、人 人は身延への道を急いだ 身延山山門ーー一身延山 久遠寺は、文永 11 年 ( 1274 ) 日蓮が西谷に草 庵を営み、数多くの著 述を残した、日蓮宗の 祖山てある。 55
富士川一一 - 甲州の物資 は、この川によって太 平洋岸に出荷される。 南部町付近のこの中法 は、流れに魚影をうっ している。 塩のばり米くだる自流富士川の水運若林淳之 古くから盛んであった。一つは身延山久遠寺の開創 三つの往還を集約した富士川水運 にかかわり、身延に参詣する信者の通る身延道とも 慶長十一一年 ((b{) 徳川家康は駿府に移り住もうと重なる東海道興津から北上、富士川左岸を通り甲府 すみのくら して、駿府城の修築を命ずるとともに、同年角倉盆地に出る駿州往還である。 りようい 了以に天竜川と富士川の水運開削を命じていた。こ またこの往還は戦国期には駿・甲境のいずれかの れら一連の事実は全くの偶然の一致なのか、それと地に甲州塩関二カ所も設けられていた塩の道でもあ も何らかの意図が家康にあったのか、それを知る手つた。 かかりは全くないので何とも言えないが、家康には 一一つめは駿河湾の奥潤井川及び沼川の合流した河 以上三者を関連させる意図があったように思えるの口付近に発達した吉原湊を起点に、厚原・根原・上 である。すなわち天竜川・富士川の水運開削の終着九一色を経て右左ロ峠をこえて甲府盆地の中央に出 地は、通常江戸であろうと考えているのであるが、 る中道往還、三つめが狩野川の河口に開けた大岡湊 ′をそれは家康なき後の事であ「て、家康は信濃や甲斐を起点に神山、グミ沢など富士山麓の東側を北上、 くになか の経済力を駿府に結びつけようとしたのであろうと籠坂峠から富士吉田、御坂峠などをこえて甲斐国中 いう事であった。それは家康にとってみれば五カ国に出る往還などの発達がそれを物語る。またこれら 「支配時代果たし得なかった夢でもあったと思われるの往還を自らの領国経営に関連づけて、その整備に ものである。 特に意を用いた武田信玄の交通上の施策にも見られ 天竜川と富士川、なかんずく富士川の水運の開削ている。 は、天竜川のそれをほるかにこえる経済的・社会的 こうした交通路整備の重要性は甲斐・信濃など五 意義の高かったものである。 カ国を手に入れた家康にも継承されるのであるが、 すなわち甲斐や信濃東南部と駿河とを結ぶ交通は それが具体的に実現しようとしたのが慶長十二年の うるい 6
ぶどう畑ーーー笹子峠を 越した勝沼の町は見度 す限りぶどう畑だ。甘 いワインの香りととも ぶどうは今日の甲 斐国の象徴てもある。 封により、豊臣氏の領するところとなって国主の交 代がめまぐるしいが、慶長五年 (&5) 関ヶ原の役 甲州ぶどう くになか 後、都留郡を除く国中三郡は再び徳川氏の直轄領と 勝沼や馬士は葡萄を喰ひながら ばしようぎん なる。次いで徳川義直・徳川忠長、さらに甲府家 この句は、一般に芭蕉吟として伝えられている ( 徳川綱重・綱豊 ) など、領国に就かない家門を領主と が、その証拠はなく、文化八年 ( 一 7 ) に成る「青ひ するか、幕府の直轄領で推移したのは、甲州が江戸 さ。こ』 には、松本蓮之 ( 一七四 一一没 ) の句として掲げられ ている。 に隣接する政治的軍事的要衝と目されたことにほか 江戸をたって甲州道中を西へ進んだ旅人が、途中一一 ならない。 ほ、つえい ゃなぎさわよしやす 泊して、三日目に笹子峠の険路から山間の駒飼・鶴瀬 宝永元年 ()b し、武蔵川越城主柳沢吉保が甲州 の宿とくだって、ようやく甲府盆地を一望におさめる に一五万石を受封したが、徳川一門以外にはかって ことのできる所に位置するのが勝沼宿である。宝永三 ~ 、許されることのなかった要枢の地、甲州の領有が慣 年九月、荻生徂徠の『峡中紀行』にも、その ~ 一一例をやぶ 0 て吉保に認められるという、破格の恩典 従僕たちが葡萄棚の下で、葡萄を買い求めているさま であったことはその朱印状に示されるところであ が記されているが、旅人がその途次一息つきながら、 る。 葡萄でのどをうるおしたのもこの宿場であろう。元祿 ほんちょうしよくかがみ きよ、つほ、つ こおりやま 時代の『本朝食鑑』が、葡萄産地として甲州を第 享保九年 ( 一一し、柳沢吉里が大和郡山へ国替え 一とするのは、もちろん勝沼周辺の葡萄である。しか となると、その後、甲府城は城主を迎えることがな し、当時著名なほどには生産地は広くなく、現在の勝 かった。甲州は一円天領化されて、甲府勤番支配と 沼町に属する勝沼・菱山・上岩崎・下岩崎の四カ村に なし 代官の支配下に置かれることになった。勤番支配は すぎなかった。これらの村で産する梨とともに、馬背 大手・山手の二組から構成され、その配下にそれぞ で運ばれていったさきは、多くは江戸神田の水菓子問 れ組頭二名、勤番士一〇〇名、与カ一〇騎、同心五 屋であった。 〇名が属し、幕府直属の兵力として、甲府城の警衛 にあたるとともに、甲府城下の民政を主たる任務と 州道中をくだる旗本たちにとって、甲府在番は体の した。甲州の直轄化は、いわゆる享保の改革による よい配流、〃山流し〃とうけとめられたらしい。山 幕政強化策の一環として、要衝の地を幕領に組み込 間を縫う街道のもっ暗さもさることながら、赴任す んだものであった。 る勤番士の心情は、〃甲州〃の語感にことのほか寂 江戸から小仏・笹子峠を越えて、勤番士として甲莫の感を深めたにちがいない。しかし、周囲を山で ぼう ぶどう せき 8
甲州路 久一イいー 史し畏かた 有火に来っ 噴々古な も人、と 氷ど、え象 霧んは与対 とな山をの 山、士念仰 士来富の信 富以たら 甲府の桃畑ーーー甲府は 江戸時代、幕府の直轄 地となり、甲州道中て 江戸と結び栄えた。甲 ナ日は、ぶどうとともに 桃もまた、有名てある。 メ、
武田神社 -- ーー甲府市古 府中町の信玄をまつる 社。この一帯は武田の 館跡て、よく遺構を残 している。 隔絶され、外からの文化の流入にとばしく、ともすはないといわれるまでになった。 全国的な商品経済の進展のめざましいこのころ、 れば孤立しがちな甲朴し ーことって、彼らにより江戸文 他国商人の甲府への往来も繁くなり、また甲州道中 化が移入されたことは看過しえないだろう。 ぶどう は、甲州産の煙草や綿、葡萄その他の商品を江戸へ 江戸文化の流入 甲府のにぎわい 送る駄馬や、信州中馬の通行でにぎわうようになっ 江戸風の流入は甲府家時代に進められるが、柳沢た。 この時代、庶民の代表的な芸能であった歌舞伎芝 時代になると顕著であった。まず城下甲府は、寛文 げんろく 一妣三ル以降、町人 ー元祿期 ( 一七〇三 ) に商業活動に活気がみられるよ居は、甲府においても享保期 ( 階級の娯楽としてひろく楽しまれるようになった。 うになるが、それも甲府家初政のころは、 江戸から赴任する勤番士たちの江戸文化の普及に果 万事不自由にして、朝夕の物に欠けたる事多か など びんづけきやら りしとかや ( 略 ) 、鬢付伽羅の油抔も不自由に たした一例であろう。はじめ城下の社寺地内に仮小 て、大方在役の面々は江府より取り寄せらる屋を建てての興行であったが、やがて亀屋与兵衛が る、又魚肉も塩物乾物共に品の善きはなし、 常設の芝居地を設け、春夏秋の三季芝居の興行を願 のれん 町々の暖簾もなし、八日町・柳町抔 (\ いの所 い出たのが明和元年 (*l( しである。翌二年に教安寺 じようるり も藁屋造りなりしとぞ 境内での浄瑠璃仕形芝居にはじまった興行は年々盛 「裏見。 ) 甲府と江一尸んになり、坂田藤十郎や市川小団次らが入甲して以 という状況であったという寒話』 の間に、月三回、三の日に甲府をたち、八の日に江来、江戸歌舞伎の名優がつぎつぎと訪れるようにな きよ、つわ 戸をたっ、いわゆる三度飛脚の便が開かれたのは元 った。享和三年 (bl?l) の甲府大火のあと、亀屋は自 日印約二〇メ 祿七年しであった。江戸との結びつきはいっそ宅のある西一条町に間口一一 ) ・奥行二四 ほうえゝ 日印約四三メ という劇場をつくるが、これが関東八 う深められた。宝三年 (b し、柳沢氏の命を受け おぎゅうそらい ぶんせい て入峡した荻生徂徠は、甲府城下の人家は富み、 座の一つに数えられる亀屋座であった。文政五年道 町々のよく整って繁華なさまを、江戸と異なるとこ あ ( 一一「 ) の夏芝居は、七代目市川団十郎の甲府初舞台 山 ろがないと、誇張はあろうが、江戸風のたかまりを で大成功をおさめた。甲府のひいき筋はもちろん町る 「カ 「風流使 ) 。二〇年におよぶ柳沢父子の時の富裕商人であり、当時江戸の狂歌師として著名な 述べている ( 者 やどやめしもり 茶 代には、甲府の面目は一新してにぎやかさを増し、 宿屋飯盛とも交際のあった旦那衆であった。その一 ますや 香具や呉服の類をはじめ、商品などで不自由なもの人、八日町の牡丹亭升屋太郎右衛門は、銘菓「升て わら かんぶん ます
盆地と海を結ぶ参詣みち身延道 甲斐より駿河への三道 周囲を山岳によって囲まれた内陸の甲斐に、海の するが 香は三筋の道を経て、南接する駿河から導かれた。 みさかとうげ おうかん 一つは鎌倉往還であった。御坂峠から富士北麓 かごさかとうげ すんとうぐんすばしり を通り、籠坂峠を越えて駿州駿東郡須走村へ出る 道筋で、甲斐における最古の官道であるが、鎌倉時 代には鎌倉への主要道路となったことからその名が あり、江戸時代には駿・豆・相州への往還となり、 とりわけ沼津・小田原方面との交易の道であった。 かしよう あなん なかみち 次に中道往還は、甲府から迦葉坂・阿難坂の険 しようじ もとす を越え、精進・本栖両湖畔の間を抜け、富士西麓を 駿州へ出て、東海道吉原に至る道筋である。天正十 年 ( ← 0 武田氏滅亡の年、徳川家康が駿州から甲州 に入国したのはこの道であった。そしてこの往還 は、江戸時代にはさきの鎌倉往還とともに、魚貝類 など海産物が馬の背で運ばれる輸送路であった。 これに対して、甲駿両国を富士川沿いに最短距離 かわうち みのぶ で結んだのが河内路、ここでいう身延道である。江 戸初期に富士川開削による通船の便が開かれ、また 修行僧の奥ノ院参拝 久遠寺の境内は枝 垂桜が多い。 1148 メー トルの山項辺りは急坂 て思親閣がここにある。 飯田文弥 山梨県立図書館 .7 田
鰍沢の農村風景ーー一周 囲を山におおわれ、秋 の陽もつるべ落としに 暮れてゆく。すすきを 流れる風も冷たさを増 す。 、此坂を西行ざかと申す、この松は西行の松 ) の『金草鞋十二編・身延道の記』 も書かれるわけである。なかには江戸の下層市民で と申すといふ、歌などあらんとおもへど、とは んよしなし あろうか、娘をともない参詣の旅に出たものの途中 病のため路用金に欠け、甲府柳町宿の旅籠に娘を飯 西行伝説は各地にのこるが、この西行坂のいわれ もりおんな も、旅する人にとっては気がかりだったようであ 盛女として奉公人証文を差し入れるものもあった。 年間を通して身延道がにぎわいを示すのは、毎年る。次のような話がある。 むかし、駿河から甲斐に入った西行が、この峠に 十月十三日、身延山でおこなわれる大法会であっ えしき た。いわゆる身延山会式である。四方から老幼男女やってきて、一人の木こりに会う。甲斐にも歌よむ の群参はおびただしかった。このときは鰍沢と黒沢人がいるかと問うと、木こりは「イキッチナ、ツポ しん の番所を往来する参詣の女人が多いため、甲府の信ミシ花ガ、キッチナニ、ブッピライタル、桶トジノ りゅうじ 立寺以下、日蓮宗五カ寺の証文をもって、女人通花」と自分がよんだ歌を示した。行くときにはまだ 行を認めたといい また会式中、にぎわう鰍沢宿つばみであった花が、帰るときにはもう咲いていた は、酒食店も土地の者ばかりではたりず、甲府や市ということで、桶とじの花とは、その樹皮をもって 月大門から男女料理人を集め、酒肴の類の仕入れも曲物をしめるのに使ったことから、桜の花だとい 多かったという。 う。西行は、甲斐では木こりでさえこんな歌をよむ のかと驚いて、そこからひき返したといい、西行坂 伝説残す西行坂の周辺 の名はそこから起こったというのである。 道はけわしく、旅人の目には駿州と異なり、人々 東海道から身延への道は、興津から道細く、つづ へき ししなら のなりわいもごく山中の僻村と映る。江戸中期の俳 らおりの坂を上り下りして四里ほどで宍原へ、そこ こくろ からさらに三里ほどして甲駿国境をすぎると万沢で人で、駿州と甲州に地盤を築いた山口黒露 (— ち ある。 も、この道をたどったとき、以下のような文を詣 参 まんじ げんせい つづっている。 万治一一年 (l{) 八月、京都深草の元政上人 結 ある年、駿河より甲斐の山中へ入るに、道の海 八 ) は、七十九歳の老母をともない父の遺骨を奉じ かしわぎ 程、栢木峠・西行坂などいふ所を行、二月の中地 て身延山に参詣する。その紀行文が『身延道の記』 である。 比にて麦艸の青み立たる山畑の畦に、何やらむ 獣の皮を焼て四五寸に切て串にさし、畦ごとに 廿五日万沢を出て坂あり、馬をふもののいは かねのわらじ ごろ くさ 一六八亠 なか