甲州路 久一イいー 史し畏かた 有火に来っ 噴々古な も人、と 氷ど、え象 霧んは与対 とな山をの 山、士念仰 士来富の信 富以たら 甲府の桃畑ーーー甲府は 江戸時代、幕府の直轄 地となり、甲州道中て 江戸と結び栄えた。甲 ナ日は、ぶどうとともに 桃もまた、有名てある。 メ、
ぶどう畑ーーー笹子峠を 越した勝沼の町は見度 す限りぶどう畑だ。甘 いワインの香りととも ぶどうは今日の甲 斐国の象徴てもある。 封により、豊臣氏の領するところとなって国主の交 代がめまぐるしいが、慶長五年 (&5) 関ヶ原の役 甲州ぶどう くになか 後、都留郡を除く国中三郡は再び徳川氏の直轄領と 勝沼や馬士は葡萄を喰ひながら ばしようぎん なる。次いで徳川義直・徳川忠長、さらに甲府家 この句は、一般に芭蕉吟として伝えられている ( 徳川綱重・綱豊 ) など、領国に就かない家門を領主と が、その証拠はなく、文化八年 ( 一 7 ) に成る「青ひ するか、幕府の直轄領で推移したのは、甲州が江戸 さ。こ』 には、松本蓮之 ( 一七四 一一没 ) の句として掲げられ ている。 に隣接する政治的軍事的要衝と目されたことにほか 江戸をたって甲州道中を西へ進んだ旅人が、途中一一 ならない。 ほ、つえい ゃなぎさわよしやす 泊して、三日目に笹子峠の険路から山間の駒飼・鶴瀬 宝永元年 ()b し、武蔵川越城主柳沢吉保が甲州 の宿とくだって、ようやく甲府盆地を一望におさめる に一五万石を受封したが、徳川一門以外にはかって ことのできる所に位置するのが勝沼宿である。宝永三 ~ 、許されることのなかった要枢の地、甲州の領有が慣 年九月、荻生徂徠の『峡中紀行』にも、その ~ 一一例をやぶ 0 て吉保に認められるという、破格の恩典 従僕たちが葡萄棚の下で、葡萄を買い求めているさま であったことはその朱印状に示されるところであ が記されているが、旅人がその途次一息つきながら、 る。 葡萄でのどをうるおしたのもこの宿場であろう。元祿 ほんちょうしよくかがみ きよ、つほ、つ こおりやま 時代の『本朝食鑑』が、葡萄産地として甲州を第 享保九年 ( 一一し、柳沢吉里が大和郡山へ国替え 一とするのは、もちろん勝沼周辺の葡萄である。しか となると、その後、甲府城は城主を迎えることがな し、当時著名なほどには生産地は広くなく、現在の勝 かった。甲州は一円天領化されて、甲府勤番支配と 沼町に属する勝沼・菱山・上岩崎・下岩崎の四カ村に なし 代官の支配下に置かれることになった。勤番支配は すぎなかった。これらの村で産する梨とともに、馬背 大手・山手の二組から構成され、その配下にそれぞ で運ばれていったさきは、多くは江戸神田の水菓子問 れ組頭二名、勤番士一〇〇名、与カ一〇騎、同心五 屋であった。 〇名が属し、幕府直属の兵力として、甲府城の警衛 にあたるとともに、甲府城下の民政を主たる任務と 州道中をくだる旗本たちにとって、甲府在番は体の した。甲州の直轄化は、いわゆる享保の改革による よい配流、〃山流し〃とうけとめられたらしい。山 幕政強化策の一環として、要衝の地を幕領に組み込 間を縫う街道のもっ暗さもさることながら、赴任す んだものであった。 る勤番士の心情は、〃甲州〃の語感にことのほか寂 江戸から小仏・笹子峠を越えて、勤番士として甲莫の感を深めたにちがいない。しかし、周囲を山で ぼう ぶどう せき 8
武田神社 -- ーー甲府市古 府中町の信玄をまつる 社。この一帯は武田の 館跡て、よく遺構を残 している。 隔絶され、外からの文化の流入にとばしく、ともすはないといわれるまでになった。 全国的な商品経済の進展のめざましいこのころ、 れば孤立しがちな甲朴し ーことって、彼らにより江戸文 他国商人の甲府への往来も繁くなり、また甲州道中 化が移入されたことは看過しえないだろう。 ぶどう は、甲州産の煙草や綿、葡萄その他の商品を江戸へ 江戸文化の流入 甲府のにぎわい 送る駄馬や、信州中馬の通行でにぎわうようになっ 江戸風の流入は甲府家時代に進められるが、柳沢た。 この時代、庶民の代表的な芸能であった歌舞伎芝 時代になると顕著であった。まず城下甲府は、寛文 げんろく 一妣三ル以降、町人 ー元祿期 ( 一七〇三 ) に商業活動に活気がみられるよ居は、甲府においても享保期 ( 階級の娯楽としてひろく楽しまれるようになった。 うになるが、それも甲府家初政のころは、 江戸から赴任する勤番士たちの江戸文化の普及に果 万事不自由にして、朝夕の物に欠けたる事多か など びんづけきやら りしとかや ( 略 ) 、鬢付伽羅の油抔も不自由に たした一例であろう。はじめ城下の社寺地内に仮小 て、大方在役の面々は江府より取り寄せらる屋を建てての興行であったが、やがて亀屋与兵衛が る、又魚肉も塩物乾物共に品の善きはなし、 常設の芝居地を設け、春夏秋の三季芝居の興行を願 のれん 町々の暖簾もなし、八日町・柳町抔 (\ いの所 い出たのが明和元年 (*l( しである。翌二年に教安寺 じようるり も藁屋造りなりしとぞ 境内での浄瑠璃仕形芝居にはじまった興行は年々盛 「裏見。 ) 甲府と江一尸んになり、坂田藤十郎や市川小団次らが入甲して以 という状況であったという寒話』 の間に、月三回、三の日に甲府をたち、八の日に江来、江戸歌舞伎の名優がつぎつぎと訪れるようにな きよ、つわ 戸をたっ、いわゆる三度飛脚の便が開かれたのは元 った。享和三年 (bl?l) の甲府大火のあと、亀屋は自 日印約二〇メ 祿七年しであった。江戸との結びつきはいっそ宅のある西一条町に間口一一 ) ・奥行二四 ほうえゝ 日印約四三メ という劇場をつくるが、これが関東八 う深められた。宝三年 (b し、柳沢氏の命を受け おぎゅうそらい ぶんせい て入峡した荻生徂徠は、甲府城下の人家は富み、 座の一つに数えられる亀屋座であった。文政五年道 町々のよく整って繁華なさまを、江戸と異なるとこ あ ( 一一「 ) の夏芝居は、七代目市川団十郎の甲府初舞台 山 ろがないと、誇張はあろうが、江戸風のたかまりを で大成功をおさめた。甲府のひいき筋はもちろん町る 「カ 「風流使 ) 。二〇年におよぶ柳沢父子の時の富裕商人であり、当時江戸の狂歌師として著名な 述べている ( 者 やどやめしもり 茶 代には、甲府の面目は一新してにぎやかさを増し、 宿屋飯盛とも交際のあった旦那衆であった。その一 ますや 香具や呉服の類をはじめ、商品などで不自由なもの人、八日町の牡丹亭升屋太郎右衛門は、銘菓「升て わら かんぶん ます
甲州道中 - ー一八王子を 過ぎ山間に入ると道は 蛇行し、山は迫り甲川 独特のきびしい自然が 眼前に迫る。 だいぼさつれ であり、後者は甲府から北東〈大菩薩の険を越えの甲州道中に沿 0 た道筋でないことはたしかである おうめおうかん て、武州多摩郡へ通ずる後の青梅往還であった。 が、都留郡に勢力をもった小山田氏の目をさけるた 甲斐を本拠に勢威を四隣に張った武田王国も、信めには、都留郡の北部をできるだけ早く抜けるコー 玄の死によってかげりを見せ、その後の凋落は急速スがとられなければならない。大菩薩の険を越え、 てんしよう さいはら 度であった。天正十年 ( ← F) 、織田・徳川連合軍尾根道伝いに小金沢から西原 ( 上野原町 ) を経て武 しんぶ ひのはら の侵入によって、その前年築城の新府城 ( 韮崎市 ) 州の檜原へ、そして北条氏照の城下八王子へたどり かつより をすてた武田勝頼 ( 一 —一一六 ) がめざしたのは、東へ着いたものであろう。その後、お松は心源院で得度 かっぬま いわとのさん 甲府・勝沼を経て笹子峠越えの都留郡岩殿山 ( 大月 して信松尼と称し、八王子横山の草庵に隠棲、元和 市 ) への道であった。しかし途中、小山田氏の背反二年 ( ~ >) 五六年の波瀾の生涯を閉じるが、遺言に につかわ にあって日川上流の田野 ( 大和村 ) で滅亡する。 より住まいを寺とし、信松院が興されるのであっ その三月、甲州から難をさけて、大菩薩越えに武た。 州をめざす落人の小さな群があった。信玄の六女お 宇治から江戸への茶壺道中 ¯) とっきそう従者である。世に松姫さ せんげん こゆずり ま、あるいはお松御料人とよばれた彼女は、七歳の 中世、武州檜原からは浅間尾根に小棡峠を越え ゆずりはら とき、武田・織田の政略により、信長の嫡男信忠とて、甲州の棡原から上野原方面へ抜ける甲州街道 じんばさん の間に婚約が成ったが、その後の情勢は両雄の間をか開かれていた。これより南方にあたり、陣馬山と あんぶ こ・はとけ 冷却から断交へ導くとともに、婚約が破談同様とな高尾山の鞍部に位置する小仏峠は、甲州から武州 るのも当然であった。 への最短経路ではあるが、地勢峻険なため日常の通 兄盛信の高遠城 ( 長野県高遠町 ) から新府城へ移っ 行には利用できなかったのである。 たお松は、織田軍の進攻によるあいつぐ敗報の中 江戸開幕により五街道の整備が進められるにとも で、一族と運命をともにすることなく落人の身とな ない、小仏谷を通る甲州道中にかわると、さきの浅 ったのであった。 間尾根を通る道は古甲州街道、あるいは、甲州裏街 きりどおし 甲府の東、栗原 ( 山梨市 ) にある武田氏ゆかりの道とよばれるようになる。ところで、小仏峠の切通 えんざん 海島寺から、塩山の向岳寺へ、ここでお松の落ち行 によって、甲府への街道を通ずる工事がおこなわれ くさきは武州八王子の心源院と定まった。これから たのは、慶長七年 (bfi) から元和四年 ( ~ しの間と さき一行のたどった道筋は杳として知れない。のち考えられている。またもう一つ、難所ながら古くか よう
■■宿■ ー物を ・曇を 1 ツをを 雪降る忍野 ( おしの ) 忍野には富士の裾 野唯一の湯宿があり、 宿から見る朝焼けの霊 峰富士は美しい。 身山 甲州道中四十三次は、四谷大木戸から、内藤新宿・高 井戸・府中・八王子・上野原・大月を過ぎ、笹子峠を越 え、勝沼を経て、甲府に至る道だったが、甲府から中山 道下諏訪までも、甲州道中と呼んだ。もうひとつの甲州 への道青梅街道は、内藤新宿で甲州道中と分かれて、中 野・田無・青梅を通り、難所大菩薩峠を越えて、甲府で 甲州道中に結ばれた。富士山へは、甲州道中随一の宿場 といわれた大月から桂川に沿って谷様を経て、吉田口か ら登り、富士吉田は信仰の厚い富士講の人々で賑わいを 見せた。日蓮宗の祖山、身延山には、甲府から笛吹川と 釜無川が合流して富士川となる水運の要衝鰍から、人 人は身延への道を急いだ 身延山山門ーー一身延山 久遠寺は、文永 11 年 ( 1274 ) 日蓮が西谷に草 庵を営み、数多くの著 述を残した、日蓮宗の 祖山てある。 55
新緑と富士山一一一甲府ま 盆地の南東御坂峠から 富士山麓への地域は、 古くから歴史と伝説を 秘めた世界てあった。 茶壺が通る山あいの道甲州道中 みで、一般にひらかれた街道ではなく、「日陰ノ四 甲州と武州を結ぶ山あいの道すじ 寸道」とよばれたように、当時あまり関心が払われ いによう 高峻の山岳によって囲繞された甲斐の国は、まさていなかったし、甲州と武州を結ぶ道筋として、 やまかい に山峡の国である。そして、さらに中央を南北に走仏峠越えはまたきわめて困難であったことから、甲 みさか 州道中が開設される以前、関東に通ずる甲州の古道 る山嶺が、笹子峠・御坂峠を境に、この国を西側の くになか やっしろ 国中 ( 山梨・八代・巨摩三郡で甲府盆地一帯 ) と東側のは、これにかわる道筋が他に求められなければなら ぐんないつる なかったはずである。 郡内 ( 都留郡 ) とに分けている。 けいちょうげんな 江戸時代のはじめ、慶長ー元和 ( 塾「 武田氏減亡とお松の方 に開設され、五街道の一つにあげられた甲州道中 ないとうしんしゆく ひのき 古代以来、甲斐の国が歴史の檜舞台に登場する は、甲州を東西に横断して、武州の内藤新宿から むさし ことはまずなかった。軍事的に四隣を圧して、甲斐 信州の下諏訪宿まで五〇里の氤キ レ ) 余、武蔵一三 しなの さがみ 宿、相摸四宿、甲斐二五宿、信濃三宿の四五宿を数武田の名を全国にとどろかせたのは、短期間ではあ しんげん えるが、その行程に甲州が大きな部分を占めること —七三 ったが戦国末期であった。武田信玄 ( するが 甲府を起点として信濃・駿河・関東に通ずるいわゆ に、甲州道中の名は由来するのであろう。 ところで、この街道は当初、江戸と甲州支配の拠る九筋の街道を整備したが、これらの道路が大動脈 点である甲府との間を最短距離をもって結ぶためとなって領国統治はもちろん、四隣経略に威力を発 に、成立以前に生活道路として地域的に設けられて揮して、積極的な対外政策の展開をみせるのであっ かりさかぐち かいさく た。当時、西関東への道は、雁坂口と萩原口の二つ いた道筋を基本に開削されたものにちがいない。し こ・はとけささ′」 かし、この間に存在する峻険な小仏と笹子の二つのが考えられる。前者は笛吹川をさかのばって北上 ちちぶおうかん 峠のうち、笹子峠を越す道は元来都留郡への通路のし、雁坂峠を経て武州秩父郡へ通ずる後の秩父往還丐 イツ , 第ヾ、 ~ 第 ~ ささ′」 飯田文弥 山梨県立図書館
下部の信玄公まつり 西八代郡下部町は信玄 のかくし湯の温泉て知 られる。 5 月 14 ・ 15 の 両日、遺徳をしのぶ祭 りが行われる。 下町園芸と 5 ー ゐ羅」に成田屋三升 ( 七代目団十郎 ) の発句を配してけようとする風のあったことであり、まして四月十の 商品価値を高めようと試みている。安藤広重が画用二日の信玄の命日には、甲府の大泉寺や岩窪の廟所 を帯びて甲府を訪れたのは天保十一一年 (5) 四月ででは、諸商人の屋台や見世物などもあって、参詣す る群衆がおびただしかったのも当然であった。そし 」あるが、滞在中、町人から依頼の絵をかく仕事の合 ちょうよう ばかり て、またいう「九月重陽、武家斗祝ふ、市中は常 間に、亀屋座への芝居見物はしきりであった。 りんりん の如し、児女に至りても衣服を改めず、伝へいふ、 「武田の遺風凜々として」 信玄川中島にて敗北の日なるによりてなりとぞ」 だいしようぎり 近世国中三郡でお 江戸時代、甲州を訪れる文人や旅人が、甲州を この時代、甲州に存続した大小切 ( こなわれた特殊な 「武の国」と感じたのは、甲州人の気質に、戦国武幣 ) の税法や甲州金・甲州枡など、独自の制度を信 田氏の勢威を二重写しに見てとったのではなかろう玄の遺制とする甲州人は、はては特産物や方言の中 かでん えちぜんつるが か。江一尸後期、越前敦賀の出身で甲州に住んだ俳人にさえ、信玄を生みの親とするなどの訛伝 ( 3 らん力い 辻嵐外は、「竹具足脱ぐよりすぐに大根引」の句の と ) を生み出している。 前文に、「此甲斐の国と申は、武田の遺風凜々とし あの山見れば思い出す我殿はあの山蔭でうた て、野守山守までも屯居のいとまには、刀剣の柄握 れた る事を稽古のむねとす」と記しているが、当時の甲 現在も甲州盆歌にうたいつがれてきているこの歌 州に、武田の遺風を感じとった一人の外来の文人では、ほとんど幕領として国主をもっことのなかった ふうび ばん あった。 甲州の人びとが、かって戦国を風靡した英雄への挽 か 「信玄の遺風はエ商にも存すれ共、農家の頑乎とし歌であり、武田氏を追慕したものであったにちがい て尊信するにはしかず」というのは、江戸末期甲府ない。 てぶり きてんかん に赴任した徽典館学頭の筆に成る『甲斐の手振』で いまから三七〇年ほど前、戦国以前の道にかわっ あるが、同書は甲州の年中行事のなかにもそれを見て江一尸と甲州を結ぶ大動脈となった甲州道中は、明 出している。正月の道祖神祭りの盛んなさまを述べ治以後も山梨県における幹線道路として大きな役割 こと′」と たあとに、「紋所 ( 燈 燈し尽く武田菱にて、正月をになって存続した。そして現在、全面開通も間近 九日頃より町々子供夫々集会、太皷・噺子の音、日 い中央自動車道にとってかわられているが、甲州人 かまびす 夜甚囂し、此調子、信玄陣太皷の遺風也と」 の意識は、甲州道中の時代を一足飛びに、戦国武田 と、この祭りの遊戯などにも、武田の勢威に結びつ氏への古につながれていくようである。 ら がん
身延山久遠且師堂ーー 文永 11 年 ( 1274 ) 日蓮が 領主南部氏の帰依をう け草庵を営んだことに 始まるという。 を叔象まメを・まをを強まま・まを・まし第を・ま・ 慶 8 第食、・第第第まを第ま基、をま等守 0 、 : いわぶち も、川舟によれば一 甲州道中が開設されると、東西からこの街道を経駿州岩淵まで一八里 9 て、甲府城下の西青沼町で分岐する身延道をたどる挙に達するが、岩淵からの挽舟は鰍沢へ四日を要す こまぐんなかごおりすじ ことになる。荒川を越えて巨摩郡中郡筋を、次い るという水路から察せられるように、早瀬を下る舟 にしごおりすじ で釜無川を渡り同郡西郡筋を南下して、富士川一一一は矢を射るほどで、第一の険難といわれた天神滝を かじかざわ 河岸の中心としてにぎわう鰍沢宿をめざす。ここ はじめ屏風岩その他の難所があったにもかかわら から南は河内領で富士川右岸の道となるが、以下、 ず、所要時間の短縮という舟行の便によったもので あった。 切石 ( 交代で八日市場 ) ー下山ー南部の各宿を経て、 し . しら 鰍沢からこの水路によらず陸路をとると、 ~ 甲州南端の万沢宿から駿州宍原を通り、東海道興津 へ達する道筋であった。この間、甲府から鰍沢へ四 大方山添ひの道にて、富士川の西の岸なれば、 或は嶮しきかけ路をよち、或は河原のいしまを 里八町 ( 吶浜いキ ) は盆地の平坦部にあたるが、鰍 いはら むずかし 沢から南へ、駿州庵原郡との国界に至るまで一二里 伝ふ、されは、足もとはいと六敷けれど、山川 約四七キロ のけしきはえもいはす面白し ) 余の河内領は、盆地の諸河川が合流し、 はるむら 日本三急流の一つとなって南下する富士川の両涯に と記すのは、国学者黒川春村 ( 一砒仇 ) の『並山 沿って長く延びた河谷地帯であり、川沿いに進む道日記』であるが、彼はこの道を身延山に詣でてい がけみち はほとんどが困難な崖道であった。河内路の名はそる。 こにあり、またその中ほどに位置して、日蓮宗総本 古くは寛文年間一 ) 、甲府西方の徳島堰開 くおんじ 山の身延山久遠寺へ参詣する人びとの道筋であった 削の大土木事業の発端となったのは、江戸の商人徳 ことから、身延道ともよばれるのであった。 島兵左衛 ( 生年 尸一六暉が深く信仰する身延山参詣の 途次、巨摩郡の地勢に接したことによるといわれ、 そどう 老幼男女でにぎわった身延詣で また元祿九年 (l し、俳人山口素堂 ( 一 にごりがわ 身延山参詣の旅人の中には、鰍沢から大野まで富府代官桜井政能 (l に協力して濁川治水工 士川を舟で下るものも多かったようである。富士川 事に従事することになったのも、その前年素堂が亡 水運は、元来甲州の年貢米を江戸に回送するいわゆ母の遺志を継いで身延山詣での帰途、甲府に滞在中 ′」かいまい る御廻米を主としたが、そのほか甲州で産する諸商での出合いであった。 品の搬出や、商用・一般旅行のための交通の手段と 身延参りが普及することによって、文人による参 じっぺん して大きな役割をはたしていたのである。鰍沢から 詣の紀行文なども数多くみられるようになり、十返 おきっ せき ノ 02
下部町の蔵ー - ー山梨県を、 の西八代郡。富士川の 東岸の山地て、養蚕と 林業と温泉の町。甲州 独特の民家が陽に映え ている。 5 ト◆◆◆◆◆◆◆◆、、◆◆ はたうつ いくつも立たり、 いかにやと尋ければ、畑打男があるというが、駿州に近い河内地方は、南下する のやいかゞし ( 焼嗅 ) 也といふ、猪の毛を焼 にしたがって比較的温暖な地であったことが、農業 て、麦あらすしゝにかゞせ、追驚かすかゞしと生産力の低いこの地方にとって救いであった。生産 云といふに、清濁の違ひたるよとおもふに、 は多くはないが、南部辺からは所々に茶の栽培も散 くるみ すもも かゞしとは嗅き匂ひを猪の類にかゞする事也見された。林産物として榧や胡桃、梅や李、あるい かやあめ と、珍らしげに今迄のひが覚えを改侍る は椎茸を産する村々があり、加工された榧飴は道中 そうめんゅば 西行坂を越えて進むと南部宿になるが、ちょうどの宿で売られた。身延名物とされた素麺と湯葉は、 うつぶな ここから富士川をはさんで東岸に位置する内船村に 門前町で製せられたものであろう。また、南部川原 は、若者の間に伝承され、農民の芸能として親しまの押し売りは有名だったようである。舟で下る旅人 れてきた「内船歌舞伎」がある。江戸後期、身延山を相手に、川岸にいくつかの掛茶屋を出し、娘たち に参詣した江一尸の役者が、帰途この地に立ち寄ってが南部名物といって、田楽やあんころ餅、団子の類 村人に伝授したのにはじまるという。 を客に押し売りするのであるが、その売り方が、 「買はねば色々の事言ふてののしるさま、いと興あ 海国駿州へのあこがれの道 り」と、この地の名物ともされたのである。 身延道を旅する人びとにとっては、おそらく富士 身延道は駿河湾に注ぐ富士川とともに、海に結ば こちゅう 川沿いのけわしい崖道や、またこの地方の風土あるれる道である。 " 壺中の天。甲州に対して、海に向 ほうじよう いはなりわいに、その旅路を印象づけられたにちが かってひらけた駿州は豊饒な国であった。古くは いない。駿州はもちろん、甲府盆地中央部にひらけ武田の勢力が駿州一円をおさえ、海への出口をもっ た水田地帯とは、あまりにも対蹠的なものがあった たことがあり、武田親族衆の巨頭で河内地方を領有 あなやまのぶきみ からである。 し、下山を本拠とした穴山信君 ( 一 を、二 ) か駿丼江 耕地にとばしい河内地方は、江戸時代を通して製尻城に拠ったことがあった。戦国末期、西上を志す す こうぞみつまた 紙原料である楮や三椏を産し、紙漉きを営む村が多武田氏にとって駿州は完全に掌握しておかなければ かった。貧弱な農業経営を補うため、農民の副業生ならない海国であった。 産として漉き出される紙は現金収入の第一であり、 近世、甲州の人々がたどる身延道は、その険路で この道を甲府に運ぶ商人の姿が古くから見られた。 あることとひきかえに、海国駿州へのあこがれをつ 寒気が強い甲州の冬は、駿州と綿入れ一枚の違い なぐ道であったにちがいない しいたけ かや
富士川一一 - 甲州の物資 は、この川によって太 平洋岸に出荷される。 南部町付近のこの中法 は、流れに魚影をうっ している。 塩のばり米くだる自流富士川の水運若林淳之 古くから盛んであった。一つは身延山久遠寺の開創 三つの往還を集約した富士川水運 にかかわり、身延に参詣する信者の通る身延道とも 慶長十一一年 ((b{) 徳川家康は駿府に移り住もうと重なる東海道興津から北上、富士川左岸を通り甲府 すみのくら して、駿府城の修築を命ずるとともに、同年角倉盆地に出る駿州往還である。 りようい 了以に天竜川と富士川の水運開削を命じていた。こ またこの往還は戦国期には駿・甲境のいずれかの れら一連の事実は全くの偶然の一致なのか、それと地に甲州塩関二カ所も設けられていた塩の道でもあ も何らかの意図が家康にあったのか、それを知る手つた。 かかりは全くないので何とも言えないが、家康には 一一つめは駿河湾の奥潤井川及び沼川の合流した河 以上三者を関連させる意図があったように思えるの口付近に発達した吉原湊を起点に、厚原・根原・上 である。すなわち天竜川・富士川の水運開削の終着九一色を経て右左ロ峠をこえて甲府盆地の中央に出 地は、通常江戸であろうと考えているのであるが、 る中道往還、三つめが狩野川の河口に開けた大岡湊 ′をそれは家康なき後の事であ「て、家康は信濃や甲斐を起点に神山、グミ沢など富士山麓の東側を北上、 くになか の経済力を駿府に結びつけようとしたのであろうと籠坂峠から富士吉田、御坂峠などをこえて甲斐国中 いう事であった。それは家康にとってみれば五カ国に出る往還などの発達がそれを物語る。またこれら 「支配時代果たし得なかった夢でもあったと思われるの往還を自らの領国経営に関連づけて、その整備に ものである。 特に意を用いた武田信玄の交通上の施策にも見られ 天竜川と富士川、なかんずく富士川の水運の開削ている。 は、天竜川のそれをほるかにこえる経済的・社会的 こうした交通路整備の重要性は甲斐・信濃など五 意義の高かったものである。 カ国を手に入れた家康にも継承されるのであるが、 すなわち甲斐や信濃東南部と駿河とを結ぶ交通は それが具体的に実現しようとしたのが慶長十二年の うるい 6