秩父 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道2 江戸への道
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1. 日本の街道2 江戸への道

秩父往還道一 - ー秩父の 札所は素朴な民の信仰 を反映して明るくつつ ましい。野の仏たちも 御詠歌を唱えているよ 第 肥・糠・干鰯などの肥料、一方、領内からは川越い によって郡中をめぐり、札所の由緒を調べた。かれ認 もをはじめとする蔬菜類が、大八車で搬出され、江は江戸より秩父に入る熊谷通、川越通、吾野通や札 えんきよう 戸の町々に日夜売りひろめられていた。Ⅱ , 越城下町所を解説し、延享一一年 (E) に『秩父順礼独案内 くらづく 記』として刊行した。また幕末期には二代目安藤広 は白壁の土蔵造りの家並みが今日まで保存され、 重と歌川国貞が中心となって描いた浮世絵『秩父観 「小江戸」と称されるように、江戸文化の精華がい 音霊験記』は、三十四カ所の札所の様々な霊験を、 まだ伝えられている。十月十四・十五日の川越氷川 だし 服部応賀の文とともに収めたもので、江戸の人びと 祭りの華麗な山車はその代表であろう。 に秩父への歩みを誘ったのである。『秩父市史』に かんえん 観音霊場三十四カ所巡りの道 よれば寛延三年 (l しの春の最盛期には巡礼は二、 秩父と江戸の交流は秩父絹の取り引きからもみと三千人にのばる日もあり、三月までに四万人から五 ろくさいいち 一か月のうち 万人の人びとが札所をめぐったという。 六日間の日を められ、秩父大宮郷では古くから六斎市 ( 秩父に足跡をとどめた人たちは、札所めぐりだけ れ期しが立ち、諸産物が流通した。すでに元祿 ではなく、三峰山に登る講中の多数の庶民がみられ 年間より賑わいをみせたがそれは絹市としてであっ た。三峰神社の『日鑑』や、竹村玄義『秩父巡拝 た。山間村落の養蚕によって生産される生糸・絹織 けんぞく り物は安政の横浜開港によって大いに発展した。秩記』によれば、三峰信仰の御眷属 ( 講 なしは各地 父往還はまた絹の道でもあった。 に広まり、文化十四年 ( 一しには関東で四千組にも 江戸との交流の一面に近世江戸町人の観音信仰と達し、秩父往還より三峰に通ずる山道を歩む庶民の 行楽があげられる。秩父観音霊場三十四カ所めぐり姿は絶えまなく続いていたのである。 秩父大宮郷は信心深い善男善女の賑わいと同時に である。秩父観音霊場は坂東三十三カ所、西国三十 三カ所と合わせて日本百番のうちに数えられ、秩父絹の町であった。秩父盆地の町人の心意気は、十二 市栃谷の四万部寺からはじまり、四十四番秩父郡皆月二・三日におこなわれる秩父神社の夜祭りにしめ かさぼこ 野町日野沢の水潜寺に終わる行程である。早春の訪されている。国指定重要民俗資料になっている笠鉾 ひきやま 一一台と屋台四台を擁し、日本三大曳山祭りの一つと れとともに白衣に手甲のお遍路姿で御詠歌を誦しな され、秩父屋台ばやしのもとに不夜城を現出するの がら歩む人びとも多い かんぼう 江戸中期の寛保三年 (dl) に、円宗なる人物はである。 参考文献「秩父市史』「埼玉県史地誌編』 『円通伝』を執筆するため、秩父地方の俳人の案内

2. 日本の街道2 江戸への道

利 谷 深 小前田 寄居 矢那瀬 宝 山△ノ上 金崎粥新田峠戸川 0 江戸から小江戸へ観音霊場へ 川越街道と秩父往還 各河岸段丘に多数の古墳が遺されてくる。 え 太古の歴史を秘めた秩父 大和朝廷が全国支配を確立すると、秩父からも衛 じ はんでん 秩父は地球の歴史そのものだという。たしかに浦士や防人として徴発される班田農民も少なくなかっ おおともべのおとせ みこと 山渓谷に歩をすすめれば、秩父古生層は眼前にせま た。万葉集に秩父郡大伴部少歳の作った「大君の詔 、荒川上流の岩だたみは結晶片岩でおおわれてい かしこみ愛しけ真子が手離れ島伝い行く」がみられ そ ようちょうぞうよう る。日本列島の造山運動が、この地に豊富な地層をる。さらに租・庸・調・雑徭の負担も強化され、そ のこし、「地球の窓」となり、また多数の化石を包れらの貢納品は遠く都に運ばれた。 さめ けしうん げんめい みこんでいる。大きな鮫のカルカロドン・メガロド 元明天皇の慶雲五年 (? 〇 ) 正月十一日、秩父郡よ ンの歯、奇獣デスモスチルスをはじめ、東洋象ステり産出した和銅が朝廷に献上され、天皇はこの盛事 ゴドン・オリエンタリスやナウマン象など、われわを祝い、和銅元年と改元してこの年の武蔵国の庸 れに太古への夢をかきたたせてくれる。 と、秩父郡の調を免じた。また日本最古の貨幣であ また秩父の山塊には無数の洞窟がある。人類の生る和同開珎も鋳造されるようになった。秩父びとの 活はそれらを利用して展開した。繩文人は「けもの足跡が西国にまでのびたのである。 みち」を疾駆して山野に鳥獣や植物を求め、渓谷で 絹とともに賑わった秩父の道 は漁労に従事した。影森の札所霊場一一十八番石立山 橋立寺のある橋立鐘乳洞などはその代表であろう。 秩父往還が賑わうのは戦国の動乱期を経て、徳川 羅幻成るさ 百完なん 五いて異か 野獣を追った太古の人びとは、秩父から信州・甲家康が天正十八年 (Æ) 関東に入国し、江戸を居城 の年けのら 院 2 か清なる 州への山岳地帯を踏み分けて、小さな道をつくりは としてからである。秩父と江戸をめぐる往還は、絹 多明を表スあ 喜天年っラて じめていた。稲作が展開し、各地に集落が形成さの流通と秩父札所や三峰講の盛況から発達する。秩 ずモち 越ら体一た 川漢か一ユまれ、地方の支配者が生まれるとともに、荒川水脈の 父は現在の市街地を中心に大宮郷と呼ばれた。大宮 谷 0 忍 ( 行田 ) 熊谷通 鴻巣 中桶川 松山 正丸峠吾野 卍 子ノ権現 芦ケ久保 △武甲山 秩父大宮 至雁坂口 川山上尾 大宮 浦和 高 間一 名 所 折 至内藤新宿 さきもり うつく 大舘右喜 浦和第一女子高校教諭 7 イ 0

3. 日本の街道2 江戸への道

動の動導畧顰動第輯卵 秩父の民家 秩父盆 秩父・長瀞ーー荒川中 地は、甲武信岳・雲取 流にある峡谷て、川は 山などに囲まれ、自然 巨岩を縫って瀬となり、 がおだやかて、陽の当 淵となる。「秩父赤壁」 たる農家のつるし柿も と呼ばれる数十メート ほほえましい。 ルの岩壁がそそり立つ。 金昌寺の石仏ーー秩父 栄福寺山門ーーー秩父 34 34 カ所第 4 番の札所て カ所第 22 番札所て、童 千数百体の石仏は、飢 子堂と呼ばれ、参道の 饉・洪水の多かった天 田と桑畑の中に延命地 明・寛政の建立という。 蔵が祀られている。 し編くこ中遍所三盆をを 珎銅も がが秩て入、の山路のカ地経通江 作献父いさ大道道さ観所へてり戸 ら上でたれ化を熊ん立、 か寄川ら が霊坂 るの秩谷 、場東っ居、、越秩 たれ元わま改父か 、明がで新往ら鈴が たにか父 出らへ 日天国は還妻をあ十 江て槻の 本皇で知ち六と坂振り の初々ち四呼峠り、カ戸粥切に道 で 初和め夫ぉ五んをな関所時新沿は て国にだ越が東と代田だい め銅 、峠の板 えら各と て元銅とに の年が称よ秩て巡地も秩を和橋 貨採しつ父秩礼かに父越紙か 、はえのら 幣七掘、ての父しら 、〇さー武歴にた白三西て里川 和八れ国蔵史下。衣十国 同たを国はりまの四三秩小街 開にの成へ古、たおカ十父川道 727

4. 日本の街道2 江戸への道

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5. 日本の街道2 江戸への道

ゞ 0 し冫ーなー考ー 郷から江戸への道は数カ所がみとめられる。主なも より小鹿野ー三山ー志賀坂峠を越えて上州・信州に のをあげると、 通じている。 あがの 田熊谷通は大宮郷より金崎ー野上をぬけ矢那瀬ー末 ③吾野通は大宮郷より芦ケ久保ー正丸峠を越えて たなし 野ー寄居宿を通り小前田より熊谷を経て中山道を下吾野ー飯能宿ー所沢宿から田無を経て内藤新宿経由 るもので、また大宮郷から大野原ー三沢ー釜伏峠を江戸に続いた。これら秩父往還の中で、公用伝馬は 越え折原より寄居宿を経て熊谷にも通じていた。熊大宮郷・大野原村・三沢村が請負っていたのであ 谷市石原の中山道・秩父往還の分岐点には、明和一一一る。 年 ( 一し渋沢宗助らによって建てられた「秩父道し 江戸文化の精華伝える川越氷川祭り るべ」があり、「しまふ ( 四万部 ) へ十一里」と、秩 父札所一番四万部寺 ( 妙音寺 ) への道程を示してい 秩父往還の川越通は江一尸に向けて水田地帯をよぎ ちえいず る。この熊谷通は大宮郷より大滝村を経て雁坂峠か り、ようやく家並みもみえるところは、知恵伊豆と のぶつな 称された松平信綱に整備された川越城下町である。 ら甲州・信州への道でもある。 かゆにた ( 川越通は、大宮郷より三沢ー粥新田峠を越え、坂信綱は寛永十六年 ( ~ し正月五日、武蔵忍城 ( 行田 本ー安戸より小川宿を経て高坂を通り川越城下町経市 ) から川越に転じ、幕府老中として施政に励ん だ。信綱は川越城を修補し、さらに荒川の治水や新 由川越街道に続くものである。この川越通は大宮郷 田開発に力をそそぎ、他に検地などを実施して農業 生産力の上昇に尽くした。城下町にはこれより以 前、家康・秀忠・家光の三代に信任された天海僧正 じげんだいし ( 慈眼大師 ) が、焼失した仙波の喜多院中興のため へ に、江一尸城紅葉山御殿を移築している。 川越街道は城下町と江戸を結ぶ新河岸川の舟運と へ 戸 同様に重要な幹線であった。川越から大井宿・大和 田宿・膝折宿・白子宿・下練馬を経て中山道板橋宿 に結ぶものであった。川越藩にとっては、参勤交代戸 や幕末期の相州三浦郡への海防派遣などの通行はも とより、農業経営のために江戸から運搬される下 オをま , ツの ( 第 蔵造りの家と櫓 ( やぐ ら ) 時計一一 - 川越は小 江戸ともよばれ、 10 万 石の城下てある。時の 櫓が数百年にわたって 市民に時を告げている。

6. 日本の街道2 江戸への道

五浦海岸ーー福島県東 部を水戸に出て、江戸 に向かう岩城街道と呼 ばれる道があった。水 戸光圀は五浦海岸を愛 し、観海亭を設けた。 江戸を基点とする東海道・中山道・甲州道中・日光道中・ 奧州道中のほか、物資を消費する江戸には、関東各地から かすミ、 物産が集まった。江戸時代、安房・上総ニ国の物資輸送の 独占権を与えられていた木更津からは、木更津船で続々と 運ばれたし、また、利根川の水運を利用して、関宿を経由 して銚子からも運ばれた。陸路は五街道を経るほか、川越 に集められた物資は、川越街道の新座・練馬・板橋を経て 送られ、新河岸川の運河も、江戸と結ばれていた。秩父か らの物資は、秩父往還によって運ばれ、また、遠く奥州か らの物資は奥州道中から日光道中を経て、あるいは水戸街 道を経て、江戸に運ばれていた。江戸は関東の大消費地で あったのである 川越の蔵作り民家 川越は、江戸時代、江 戸と直接結ばれ、「小 江戸」と呼ばれるほど の第栄を見せ、蔵作り の商家が多い。 せ、 - や当 ノ 25

7. 日本の街道2 江戸への道

塩のばり米くだる急流ーー田士川の水運若林淳之 「江一尸っ子」の意気と富士講若林淳之 成人へのみち・大山道大護八郎 湯の国の山なみを越えてーーー伊豆路林英夫 茶壺が通る山あいの道ーー。申州道中飯田文弥 盆地と海を結ぶ参詣みちーーー身延道飯田文弥 カラー・日光 将軍の往く道ーーー日光道中と御成道本間清利 東照宮と朝廷をつなぐ道ーー日光例幣使街道河内八郎 カラー・江一尸へ / 秩父路 街道の起点・大江一尸ーーー町人と気質吉原健一郎 平野を走る信濃路への幹道ーー中山道武州・上州路児玉幸多 川越街道と秩父往還大舘右喜 江戸から小江一尸へ観音霊場へ 幕末に燃える葵御紋の道ーー・水戸街道秋山高志 江戸の台所みち・鮮魚のみちーーー房総・佐倉道川村優 川名登 江戸の命綱・大利根の賑わい 武蔵野の江一尸道・青物のみちーー・青梅街道と五日市街道伊藤好一 文明の開化に導く「絹の道」ーーー横浜から武州・上州へ辺見じゅん 124 1 5 3 1 10 95 88 1 2 8 10 ー 14 3 14 7 1 18 1 3 6 140 1 5 8

8. 日本の街道2 江戸への道

下田市民が当時の服装に身を包み、 ・例幣使街道水神祭 ( 玉村町五料のを代表する神社。当日は、奈良時代 の防人が東国から選ばれて、九州の外国文化の伝播の道であり、参 黒船道中の行列を繰り広げる。当日利根川七月一一十五日高崎線新町駅より 勤交代の道でもあった、小倉と 防備に門出した様式が再現される。 はアメリカ大使館側からも式典に出バス四〇分 ) ? っすかわ 長崎を結ぶ九州の大幹道長崎路 ・水戸街道総社宮例大祭 ( 常陸総 席し、日米親善の友好をはかる。夜利根川と烏川の合流する五料は、 をはじめ、火の山阿蘇の裾野道 社九月十四ー十六日駅から徒歩六分 ) や南国への道など、古代から近 には花火が打ちあげられ、下田に初昔関所があったところ。この祭りは 世に至る、神話と石仏に満ち満 夏の訪れを呼ぶ。 水の神様に舟を供養するもの。祭り 三百年前には武家の祭りだったが、 ちた西海道の「道」の姿を描き ・身延道万燈行列 ( 身延町九月 + 五の前日に作った支わらと青竹でできだんだんと民衆の間にひろまった勇 ます。 日身延線身延町下車一一〇分 ) た舟を神輿にして、村内を練り歩い壮な祭り。屋台造りの山車や、太鼓、次回配本ーー年 6 月日発売予定 奈良時代から伝わる古い行事で、 た後に川へ放す。川面に流れる提燈笛を積んだ獅子の山車がにぎやかに 第 8 巻 町中を練り歩く。浅草の三社祭り、 仏様を迎えるあかりを提燈にたくしの赤い灯は夏の夜にふさわしい たことから始まった。当夜は、四、 冕一一荒山。夏祭りととも」、関東日燃ゆる九ー れ祭 五十人の持っ提燈が、身延寺参道に わ神三大祭りの一つとして知られている。筑紫路日向路薩摩路 行水 長崎路唐津街道 チラチラと並び夜に映える。この祭 にのこ 責任編集・丸山雍成元州大学助教授 ) りが過ぎると身延山にも本格的な秋 ど祭 盛五 な大 っ町 が到来する。 ・主な内容 車例 ま村 山宮街道小史丸山雍成 ・秩父往還秩父夜祭り ( 秩父市 + た社 夏る 一一月一「三日西武秩父駅、秩父線お花畑 い総筑後川と有明海野澤秀樹 水郷柳川と北原白秋半田隆夫 ・例幣使街道百八燈流し三荒山 の歩 頭り 大宰府とその周辺倉住靖彦 京都の祗園祭り、飛騨の高山祭り神社湊町八月六日一八時ー一三時栃 子練古代の道をもとめて日野尚志 とともに日本の三大曳山祭りの一つ。木駅から徒歩一〇分 ) 伊万里への道西田宏子 夕方に提燈あかりのや屋台が市栃木市内を流れる巴波川のほとり キリシタンと東西貿易中村質 内を練り歩く。夜が更けるにつれ、 は、昔舟積問屋や豪商の倉庫が並ん・江戸・木更津船道八剣八幡例大 西海道の豪商武野要子 屋台ばやしゃ屋台芝居が夜空に響く。でいた。今も白壁の土蔵や黒塀が残祭 ( 八剣八幡神社七月十一ー十三日木 国東の石仏めぐり橋本操六 ( 沼田市 ・沼田道沼須の人形芝居 っており、燈籠流しをするのに風情更津駅から徒歩五分 ) 英彦山への道佐々木哲哉 沼須四月三日上越線沼田駅からバスてがあるところ。百八のろうそくを立応神天皇を祀る八剣八幡神社の夏豊後街道と阿蘇山松本寿三郎 下野町下車徒歩一一〇分 ) てた小舟を浮かべて流す。この他に祭りは、巷町木更津にふさわしく豪人吉城と球磨川服部英雄 安政年間に阿波の人形芝居一座か二百近くの燈籠も合わせて流す。 快である。約一・五トンもある神輿薩摩藩主の参勤交代路黒田安雄 ・利根川水運鹿島神宮祭頭祭 ら買い請けた人形を使って、沼須の ( 鹿を一五〇人もの人でかつぎあげ、町 琉球使節と文化喜舎場一隆は 人の間で始まったという。現在、沼島神宮三月九日駅から徒歩一〇分 ) をもみ練り歩く。それもたった二本 ・カラー 随想山崎朋子椋鳩十 須の民家に常設舞台が設けられ、地旧官幣大社である鹿島神宮は、国の支え棒のため、神輿は波のように 街道のうた / 豊前から薩摩まで 元の人によって義経千本桜などが演宝に奈良時代に作られたという二メうねり、スリルを増す。 しられる。 ートルあまりの直刀を持つ、常陸国 ( 旅行ライター・萩田佐智子 ) ひきやま

9. 日本の街道2 江戸への道

香取神社ーーイ左原市香 取。旧官幣大社。朱塗 りの楼門を始め権現造 りの社殿が、森の中に ひときわ荘厳てある。 ⅲⅱⅲⅲⅲ田Ⅲ そめる。そこでいったん河岸へ上り、問屋で指定し まかな ておいた二軒の賄い宿に入って温かい味噌汁で朝食 をしたため、それより小舟に乗って小名木川を通 り、江戸日本橋小網町に着くのである。 この船賃は、境河岸から新川口まで一人につき鐚 はしけ 二四〇文、新川口から小網町まで紛下賃として一人 前鐚四八文であった。また、文化期には、向下河岸 勘兵衛という者が、新規に夜船を仕立て、江戸まで 一人前夕食付き二七〇文で乗せ、多くの客を集めた こともあった。 江戸時代の遊覧船「木下茶船」 たわら 文政八年 ( 一一し六月一一十九日の早朝、田原藩士渡 かぎん 辺登、というより画家として有名な渡辺崋山は、江 戸を出立して小舟で小名木川を通り行徳河岸にあが きおろし った。そこから木下街道を八幡宿・鎌ヶ谷宿と歩い て白井宿に泊り、翌日大森宿を通って利根川の岸、 木下河岸に着いた。この木下河岸は、当時江戸で きおろしちゃぶね ゝ」っ」 0 . し子 / 子 / 名高かった「木下茶船」の発着するところである。 かとり 「木下茶船」とは、利根川下流の有名な香取神宮、 木下河岸に入った崋山は、河岸問屋に着いて風呂 かしま いきす 鹿島神宮、息栖神社の三社に参詣し、銚子浦の磯めに入り、埃と汗を洗い流してタ食をしたため、日が ぐりに遊ぶ貸し切りの遊覧船で、旅人は船中に座し西に傾くころ、木下茶船を雇って両岸の風景をスケ て悠々とした両岸の景色を愛でながら、酒をくみか ッチしながら、利根川を下っていった。 わし、川肴に舌つづみをうった。これはちょうど今 また、「木曾路名所図会」の著者も、江戸日本橋 の貸し切り観光バスと同じで、江戸の遊客の好みに 小網町を出て木下河岸に着き、茶船をもとめて三社 あったらしく、発着所である木下河岸は大変な賑わ参詣に向かっている。 め びた 江戸を支えたもう一つの川「荒川」 荒川はその源流を奥秩父の山々に発し、武蔵国を南 流して東京湾に落ちるが、その昔三百余年以前は、利 根川と合流して東京湾に入っていた。それを徳川幕府 ゞリ艮Ⅱと分離し、当時の入間川筋を流すようにした のは、利根川改流と同じく関東の水運の便を考えたか らであった。それ以来、江戸から熊谷の南、久下河岸 ひらた 辺まで高瀬船や歸船が上下して、秩父地方で生産さ れる炭・薪や、木材・米穀などを江戸へ積み送った。 また、近世の科学者として名高い平賀源内が、秩父の 鉄鉱石採掘のために、熊谷より上流にまで川瀬の困難 を乗り越えて水運を開いたこともあった。また、荒川 の支流新河岸川には、川越城主となった松平伊豆守信 綱が「新河岸」を設けて江戸への水運を開いたが、こ れに刺激されて川越郊外に河岸が続出し、「川越五河 岸」といって城下町川越の外港として栄え、付近で産 出される農産物や木材は、川船で新河岸川・荒川を下 り、千住大橋を経て花川戸辺に送られた。 ・はこり・ 756

10. 日本の街道2 江戸への道

新緑と富士山一一一甲府ま 盆地の南東御坂峠から 富士山麓への地域は、 古くから歴史と伝説を 秘めた世界てあった。 茶壺が通る山あいの道甲州道中 みで、一般にひらかれた街道ではなく、「日陰ノ四 甲州と武州を結ぶ山あいの道すじ 寸道」とよばれたように、当時あまり関心が払われ いによう 高峻の山岳によって囲繞された甲斐の国は、まさていなかったし、甲州と武州を結ぶ道筋として、 やまかい に山峡の国である。そして、さらに中央を南北に走仏峠越えはまたきわめて困難であったことから、甲 みさか 州道中が開設される以前、関東に通ずる甲州の古道 る山嶺が、笹子峠・御坂峠を境に、この国を西側の くになか やっしろ 国中 ( 山梨・八代・巨摩三郡で甲府盆地一帯 ) と東側のは、これにかわる道筋が他に求められなければなら ぐんないつる なかったはずである。 郡内 ( 都留郡 ) とに分けている。 けいちょうげんな 江戸時代のはじめ、慶長ー元和 ( 塾「 武田氏減亡とお松の方 に開設され、五街道の一つにあげられた甲州道中 ないとうしんしゆく ひのき 古代以来、甲斐の国が歴史の檜舞台に登場する は、甲州を東西に横断して、武州の内藤新宿から むさし ことはまずなかった。軍事的に四隣を圧して、甲斐 信州の下諏訪宿まで五〇里の氤キ レ ) 余、武蔵一三 しなの さがみ 宿、相摸四宿、甲斐二五宿、信濃三宿の四五宿を数武田の名を全国にとどろかせたのは、短期間ではあ しんげん えるが、その行程に甲州が大きな部分を占めること —七三 ったが戦国末期であった。武田信玄 ( するが 甲府を起点として信濃・駿河・関東に通ずるいわゆ に、甲州道中の名は由来するのであろう。 ところで、この街道は当初、江戸と甲州支配の拠る九筋の街道を整備したが、これらの道路が大動脈 点である甲府との間を最短距離をもって結ぶためとなって領国統治はもちろん、四隣経略に威力を発 に、成立以前に生活道路として地域的に設けられて揮して、積極的な対外政策の展開をみせるのであっ かりさかぐち かいさく た。当時、西関東への道は、雁坂口と萩原口の二つ いた道筋を基本に開削されたものにちがいない。し こ・はとけささ′」 かし、この間に存在する峻険な小仏と笹子の二つのが考えられる。前者は笛吹川をさかのばって北上 ちちぶおうかん 峠のうち、笹子峠を越す道は元来都留郡への通路のし、雁坂峠を経て武州秩父郡へ通ずる後の秩父往還丐 イツ , 第ヾ、 ~ 第 ~ ささ′」 飯田文弥 山梨県立図書館