寺泊 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道3 雪の国 北陸
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1. 日本の街道3 雪の国 北陸

をみ、、第を 物第なを、 犀川大橋ーー - 旧北国街 道を南て切るこの橋は、 第華街の片町・香林坊 につづき、藩政期から 人の往来が激しかった。 銭屋五兵衛ーー - 宮腰町 が生んだ藩政末期の海 商てある。藩当局によ り財産を没収され、牢 死した。 かつらりきゅう ともひと ともただ ぜにやごへえ 四女で桂離宮を増造した八条宮智仁親王の嗣子智忠 天保の豪商・銭屋五兵衛をしのぶ 親王の妃である。 みやのこしおうかん かないわ 金沢の北ロは宮腰往還 ( 後の金石往還 ) につづく 〃百万石文化〃の始祖たち が、四キロメートル余の往還のつきるところに金沢 がいこう さきにも述べたように、金沢市は美術工芸都市で城下町の外港宮腰港硺 0 がある。藩政以前はこ つな じざむらい かずえ あるが、そのはじまりは江戸時代に溯る。利常・綱の地の地侍、中山主計の支配するところであっ のり 紀治世の一七世紀から一八世紀初頭にかけて、数多た。前田利家がこの地を金沢城攻略の基地とする ごとうけん くの名工が来沢した。そのなかには金工の後藤顕と、中山氏はこれに協力し、利家が豊臣秀吉から金 じよう まきえ かくじようみずのげんろく 乗・後藤覚乗・水野源六など、漆塗・蒔絵の十沢城を与えられると、中山氏に対し自らの絵像 ( らしどうほ おおひ ぜんろく しみずくへえ 利家画像」石川 嵐道甫父子、井川善六・清水九兵衛や陶工の大樋 県有形文化財 ) を与えて賞した。これを契機に宮腰は たわらやそうたっ ちょうざえもん きたまえぶね 長左衛門などもあった。また、絵画では俵屋宗達外港特権を得て繁栄し、藩政後期には北前船が連日 そうせつ あいせつ ぜにやごへえ の画房に育った俵屋宗雪 ・北川相説が来沢して王朝往来し、ついに銭屋五兵衛を輩出した。 風の絵を残した。ことに宗雪は寛永十九年 G}fi) 利 銭屋五兵衛は安永二年 ()L 、宮腰町の質屋の家 ともただ 常の四女富姫が八条宮智忠親王に嫁した際、八条殿 に生まれた。三十九歳のとき質流れの一二〇石船に ふすまえ 内に新築した御内儀殿内部の襖絵を描き、また金沢よって廻漕業をはじめ、しだいに事業を伸ばした あきくさずびようぶ はぎうさぎずふすま ぐんかくず てんぼう においても「秋草図屏風」「萩兎図襖」「群鶴図屏が、やがて藩の政治的実力者と結び、天保四年 (æ 風」などを残している。 三 ) には御用金一〇万六〇〇〇両を上納、同十一年 金沢の美術工芸が質的に高い水準を有して来たの し、藩の御用船を支配するなど北陸屈指の海商 は、こうした伝統によることはいうまでもない。東となった。二五〇〇石積の商船四艘を筆頭に、大小 京都居住の人間国宝蒔絵の松田権六氏や人間国宝漆合わせて一一百数十艘、諸国の港に置かれた支店数三 あかちゅうさい 塗の赤地友哉氏は金沢出身である。このほか、地元四、使用人一六〇人に達したといわれる。 うぎん ゅうぜん には近年他界した人間国宝の、友禅の木村雨山氏や その後、河北潟干拓事業をはじめたが、多くの魚 ひみこうどう てらいなおじ 木工芸の氷見晃堂氏がいた。現在、蒔絵の寺井直次が死ぬという事件がおこり、政治方針の転換と相ま ひょうもん しようせ、よ 氏、平文・蒔絵の大場松魚氏らが日本工芸会に所って五兵衛をはじめ一族は入牢、全財産を没収され賀 現在の五〇〇 ともいわれて 属し、石川県無形文化財として伝統技術を駆使してた。その額は三〇〇万両 ( 億円余という かえい 創作活動をつづけている。 いる。五兵衛は嘉永五年 (lf) 八十歳で牢死した。

2. 日本の街道3 雪の国 北陸

大野の朝市いまむかし 明治 13 産物まて売る観光化した朝市や、 年 4 月、奥越の小京都大野に遊ん衣料品まて広く扱う越後の定期市 だ国文学者佐佐木弘綱 ( 1828 ~ 91 ) とは、またひと味ちがらた素朴な は、「竪 ( たて ) の筋 ( すじ ) 七問通は趣が、「小さな旅」の愛好者をひき : 、 日まぜ ( 隔日 ) に市あり。其さま町つけ始めている。 はば広けれど。左右二行に。市人昔と同じく、市 ( いち ) まてほぼ i 近きあたりの村々より。野菜種々 2 キロメートル以内の村々から主 の物を持来てうるなり。其中筋をにやって来る、ほとんどが 50 歳以 かよひて買ふめり。いと賑は、し」上のおばちゃんたちは、多いとき ( 「加越日記」 ) と記している。それて 40 ~ 50 人、少ないときて 20 人ほ から百余年たった今、市の場所は、ど。思い思いの場所にすわり、思 当時、一番通りから五番通りまてい思いのやり方て朝露が残ってい の両側だったのが、三番通りからる野菜や草花を並べ始める。使い 五番通りの片側 ( 隔月て交代 ) に縮 込まれたさおばかりの出番がくる められたけれども、春分の日から ころ、ようやく " 七間 " の街に朝 12 月まての間、毎日、朝市は開か 日の輝きが感じられる。 れている。 朝市と清水、これがある限り、 金森長近が大野の次につくった大野は美しい表情がある都市 ( ま 町、あの飛騨高山の、民芸品や土ち ) として生きつづけるてあろう。誉 ( セ間朝市をい才 古城の町丸岡を伝えている。その瓦には足羽山からの谷口集落松岡に出たのち、幅狭い志比地溝をぬけ しやくだにいし 出る笏谷石 ( 凝灰岩 ) が使われている。 て勝山にいたる道で、さらに谷峠を越えて加賀白峰 長崎宿の次の金津宿は、役馬三〇疋、旅籠屋五八 へとつづく。今もそれぞれ岐阜・石川県方面への幹 軒、揚屋三〇軒を数えた越前随一の宿駅で、竹田川 道をなし、和泉村朝日までは越美北線、勝山までは の河港を兼ねる交通の要衝、三国湊への接続基地で京福電鉄が通じる。 あった ( 福井藩はここを重視し、金津奉行所をおいてい この間、足羽川と九頭竜川が福井平野に出る直前 しこく た ) 。この接続基地的性格は、荘園開発が進められでそれぞれに合流する支谷には、文明三年 ( 七一 ) か あわら みやこ たとき以来のものであり、今は芦原温泉への基地と ら約百年間、朝倉氏が営んだ越前の都、一乗谷と曹 なっている。 洞宗大本山永平寺があり、内容は異なるものの、と ほそろぎ 金津宿から加越台地を細呂木宿に出て、なお北行もに心洗われる魅力をもっている。 てんな すると、加越国境の要害の地で、かっ海陸交通の要 大野は金森長近 ( が建設し、天和二年 れん 衝だった吉崎御坊にいたる。ここは真宗中興の祖蓮 ( 八 0 以後ここを領した土井家の初代利房が整備し 如が創建した寺内町で、御坊跡は国の史跡である。 た城下町である。亀山に城を築き、その東に武家屋 まちゃ 敷、中央に町屋、東縁に寺町を配したプランは今に 清冽な水の城下町、大野へ 残り、城からみえる家並みは端正である。 大野盆地を中心とした奥越は、九頭竜川がつくる 南北五本、東西六本の直交街路で町割りされてい もう一つの大切な生活空間である。だから、ここを た町屋の南北街路の中央の用水路には、かって清冽 訪れずして九頭竜川流域の旅は終わらない。越前のな流れがあった。これが埋立てられたのは残念だけ しようず 東西方向の幹道は、福井平野と奥越を結ぶ道であれど、清水といわれる泉が、イトヨ トゲウォ ) の住 り、また九頭竜の流れに沿う道である。その名を美む本願清水をはじめ、町のあちこちにある。大野は まち 濃街道・勝山街道という。 山に囲まれた水の都市だ。静かな町の一角にある大 しようず 美濃街道は、福井 ( 古くは浅水 ) から足羽川とそ清水で私がいつも感じるあの爽やかさは、透きとお わきみずのど まちびと の支流沿いを溯って奥越は大野にいたり、ついで九つた湧水が喉を通るためだけではない。町と町人と かこく 頭竜河谷をぬってその源の油坂峠に出、美濃は白清水との一体感をそこにみるからである。多くの家 とりん、 2 レよう 鳥、郡上街道に連なる。 にある井戸の水同様、清水は生活の中に生きてい る。 他方、勝山街道は福井城下志比口から、九頭竜川 によ しろ ほんがん さわ しらみね せいれつ おお