賤ヶ岳古戦場一一天正 11 年 ( 1583 ) 4 月 21 日、 秀吉軍は柴田勝家軍を 冫貴走させたが、加藤清 正らの奮戦が賤ヶ岳七 本槍として伝えられる。 昭の督促もいれて信長追討を承諾し、能登・加賀へ 北陸路を下った秀吉の大軍 侵出するようになる。信長は柴田勝家にこれを撃退 やまもとでらかげなが させたが、あえて加賀境を越えて越中まで攻め入ら それにしても小津城の守将山本寺景長以下の討ち せなかった。しかし、天正六年三月、謙信が京都へ死にはおしまれ、多くの軍記に語り伝えられてい 向け西上しようとした直前に急死すると、さっそ る。しかし、このときの状況を直接に伝える史料と く、信長は自己の領国として越中へ佐々長秋を派しては、最近見出された「佐々成政書状」 ( 『佐野家 遣、さらに天正九年はじめに佐々成政を越中に分封文書』 ) が唯一のものである。その差し出しの日付 し、また十月には前田利家を能登に分封した。 は六月五日であって、おそらく信長の悲報を聞いた 上杉方では謙信の死後、家督争いがあって、景勝直後であろう。また、宛名の鞍谷・諏訪両名は、も があとをついだが、越中へ出動してきた織田方に対とは朝倉氏の家臣であったが、天正三年信長の越前 ろうにん して、越中の松倉城と小津 ( 魚津 ) 城を両翼として攻めのとき、越前牢人衆として活躍し、信長と直臣 防御の陣をしいた。両城は相呼応して北陸道の山・ 関係をむすび、軍事的関係では成政の与力になって 浜両街道をおさえる要衝であり、ことに小津城は海 いた。本状には「一昨日三日卯刻小津城へ入、大将 のこさずことごとくうちはたし 岸線を確保し、海上交通を制する拠点であったの分十三人其外城中ニ籠候者一人も不残、悉討果 で、上杉方にとっては加越能三州へ侵出する基地と申候」とあり、これにつづけて、この勝利に乗じて なり、また越後守備の前線基地にもなっていた。そ越後へ進撃、上杉方の討滅も間近いと述べている。 れだけに織田方の成政・利家・勝家の連合軍は、天織田軍の諸将の間では、信長の悲報を聞いて、この しれつ 正十年三月からこれを包囲、攻撃は熾烈を極めた。 際一挙に越後へ進撃するか、各自の領国へひきあげ しかし当時、上杉景勝は信濃からも織田軍に攻めら るか、激論が交わされたというが、これには成政の れていたため、これを救援できず、三カ月間に及ぶ進撃の覚悟がうかがえる。しかしそれは実現せず、 えびえ 辛苦籠城のすえ、ついに六月三日、守将十三人以下数日後には全軍が撤収した。このとき利家は海老江 ほうじようづ ことごとく討ち死にして果てた。ところがその前 明神から放生津へ、さらに大境見 ) まで舟を利用 日、六月二日には京都本能寺で信長がたおされ、そ し、そこから七尾へ夜道をついで撤退したという。 なお、成政も勝家も人質を城中に入れておいて、 の悲報は四日に小津の陣中に届いたという。形勢一 転、織田軍は退散、小津城は再び上杉方に奪回され総攻撃を加えたため、上杉方の守将らはこれら人質 を刺殺して自害したという。しかしこの書状によれ 2
の門徒農民の応援をうけて、織田信長の部将である へいせんじ 砂金台地と金沢の地名 府中城主富田長秀を包囲殲滅し、平泉寺を焼き討 けんろくえん 兼六園・金沢大学キャンパスのある小立野台地を、 ち、また、一乗谷に住んだ戦国大名朝倉義景を滅亡 むほん かげあきら 地質学の故大木謙一博士 ( ) は砂金台地と呼ん に追いこんだ謀叛人として知られる朝倉景鏡を自 沖積 だ。博士によれば、少なくとも一万年前 ( 世 さいがわあさのがわ 、 , = 物第 , 殺せしめ、越前に門徒領国をうちたてた。このとき あさくらしまっき で、犀川・浅野川は小立野台地上を蛇行していたが、 の門徒農民の奮戦のようすを『朝倉始末記』は次の 海の沈下にともなって傾斜が急となり、台地を浸蝕し よ一つに圭「いている。 て河岸段丘をつくるとともに、上流の片麻岩がふくむ さとかた やかんこなべかぶと たみのよろい 里方の一揆は薬鑵・小鍋を胄とし、田蓑を鎧と 多量の金が台地上や河岸段丘に沈澱したという。この たくつわなわ いもほりとう ) 」ろう ことは芋掘藤五郎の伝説がよく示していよう。 引張りて、疲れたる馬に荷鞍を置き、田轡に繩 たづなくわえ あぶみ ひょうはく 一五世紀から一六世紀にかけて漂泊の本願寺派門 手綱、鍬柄を切りて鐙として乗るも有り、或い かなや ひそう くまでねずみつき 徒の金掘人 ( 金屋 ) たちは、台地の突端で砂金掘りを は筐笊を冑に着、熊手・鼠突を振りまわし、馬 やりなづけ はじめ、本願寺にも砂金を送った。砂金掘りで削られ 地の子を竹柄に仕込み、鑓と名付て持つも有 やまかた しかくま 平らになった場所に金掘人たちが住んだ。後にここを かなやごてん り。山方の者は木の皮を胄とし、鹿熊の皮を鎧 金屋の居住地と呼び、江戸時代には金谷御殿が建つ うらうら さめ はちまき に着る有り。さて、浦々の者共は鮫を以て鉢巻 た。台地に阿弥陀如来を祀る御堂が建てられると、一 ほうちょろ・なまばしうおか、さばさしさいとう かなあらいぎわ かなざわ し、庖丁・生膾箸・魚鍵や鯖刺・菜刀に至る 帯は「金洗沢」から「金沢」と呼ばれ、金沢御堂、 さおえ にんち 金沢御坊のように金沢の地名が公的に認知された。 までも、棹を柄として持つも有り。 門徒農民たちはあらゆるものを持ち出して、信長 しんちょうこうき 軍と戦った。これに対し、信長は柴田勝家・羽柴秀る。『信長公記』 ( 織田信長の一代記。 一六〇〇年ごろ成立によると門徒鷓 たけふ 吉・明智光秀らをひきいて殲滅戦を展開した。武生民の老若男女、合わせて一万一三五〇人余が斬殺さ こまるやまじよう またざえもんのじよう れたとある。小丸山城跡から出土したこの瓦は、右 市小丸山城跡から「前田又左衛門尉いき ( 一揆 ) せいさん そうろうや のような凄惨な文が刻まれていたことから″文字 千人ばかりいけど ( 生捕 ) りさせられ候也、御せ いはい ( 成敗 ) ははつつけ ( 磔 ) 、かま ( 釜 ) にい ( 入 ) 瓦〃といわれている。 そうろうや かわら られあぶ ( 炙 ) られ候哉」と書かれた瓦が発見さ 北国路の城砦都市、寺内町 れた。前田又左衛門尉とは後の加賀藩祖前田利家で じないちょう はりつけかまいり あるが、門徒農民一〇〇〇人余を捕え、磔や釜煎 この戦国争乱の時期に寺内町といわれる都市が れんによ などにした虐殺のようすが眼前に浮かぶようであ発達した。寺内町とは蓮如やその子孫により開かれ 高尾城跡ーー守護富樫 政親が一向宗門徒に攻 撃され自刃。この後 1 世紀にわたり一向宗門 徒の領国となった。 富樫館跡の碑ーー加賀 国の守護富樫氏は高尾 山麓の地から交通・流 通の要衝、野々市に移 り館を築き栄した。 せんめつ よろい かわら へんまがん
魚津城址碑ーーー魚津市 佐々成政書状ーー信長 、容、 ' 1 大町小学校校庭にある。 の悲報が届いた直後て このあたりはもと明神 あろうが、それに 、。川・角川・沼沢に囲ま もふれていない。しか れ、北は海に面する自 し文面のかげから成政 然の要害地てあった。 の声が聞こえるようだ。 の凍死者が出たという。 貞追討の賞として、北朝の光明天皇から征夷大将軍 この〃木目峠〃が敦賀と今庄の間の木ノ芽峠とすに補任されたのである。 れば、その経路は遠く東北方に迂回して、後の北国 信長と秀吉の北陸制覇 街道 ( 北陸街道 ) をとったことになる。しかし、北 てんしよう 織田信長はその統一事業において、北国制圧のた 国街道は天正六年 (lk) に柴田勝家が初めて開い たとされるので、この部分の『太平記』の記述は誤め、みずから三回の越前攻めを行った。一回目は元 ばいしようろん あら りであろうとする説もある。『梅松論』には、「荒亀元年 ( 七し四月、朝倉義景を敦賀手筒山に攻めた 茅の中山にて大雪に逢て軍勢とも寒の為めに死す」 が、近江浅井氏の背反のためかろうじて退却、二回 てんしよう とあって、これでは七里半越の西近江路をそのまま 目は将軍足利義昭の追放直後、天正元年 (ALIfi) 八 越えたことになる。いずれにしても寒気に悩まされ月、朝倉氏を滅ばし、越前を領国とした。しかし翌 いっこう たことは事実らしい。木曾の檜の年輪の調査によっ 二年、一向一揆勢により門徒領国化されたので、三 て、この年が極めて寒冷であったことは証明される回目はその一揆勢を徹底的に討滅した。府中では ばかり とい一つ。 「死がい計にて、一円あき所」なかったといい、 さつりく かねがさき 敦賀に入った義貞は金ヶ崎城によって、遠く越のほか各地で凄惨を極める殺戮が行われた。九月に 後・上野と連絡をとろうとしたが、斯波軍に包囲さ はいわゆる国割りが行われた。越前の国支配権を地 こうのもろやす えんげん れ、またその援軍高師泰に攻められ、延元二年 ( 一一域的に分割して、柴田勝家をはじめ金森長近・原政 し三月落城して、尊良親王・義貞の嫡子義顕らは茂・府中三人衆 ( 不破光治・佐々成政・前田利家 ) ・武 自害、また恒良親王は捕われて京都へ送られた。 藤舜秀に与え、これによって越前の支配体制ができ 落城前に脱出していた義貞は、瓜生氏のよる杣山るとともに、北国攻略のための基礎ともなった。 えいろく 城に入り、翌三年一一月、越前国府に斯波高経を攻め ころから接触し ところで、信長は永禄六年 ( 一 0 て、これを占領し、ようやく勢いを回復した。閏七てきた上杉謙信に対して、天正元年八月に越中の平 月には高経の居城黒丸城を攻めようとしたが、平泉定を勧告するとともに、加賀の能美・江沼両郡は自 しゆと 寺衆徒が高経方に寝返ったため、彼らのこもる藤島己の勢力圏であることを通告した。これは将軍義昭 京 城に向かう途中、燈明寺畷の細道で敵の歩射部隊に の追放によって、みずからはそれにかわる統一者国 遭遇し、矢をうけて深田の中に倒れ、自害して果てで、謙信は自分の配下とみる立場からであろう。し た。ここに宮方は最大の支柱を失ったが、尊氏は義かし、天正四年、謙信は本願寺と和すとともに、義引 きょひで
鯨波 - 一一 -- 海と山の風景 に富む海水浴場として 賑わう。明治 32 年、尾 崎紅葉が訪れ、付近 - 帯の七浦の奇勝を絶讃 31Y ば、人質は信長の命令をうけて城中に入り、その た。途中、格別なこともなく、北国街道から中山道 際、成政はその人質の入城を知らなかったといささ を通って、四月四日に江一尸に入った。すでに、東海 か弁解のように記している。ならば、この人質作戦道軍は三月十二日、東山道軍は翌十三日に江戸に到 は信長の命令で行われ、しかも敵を欺くため、味方着しており、四月十一日には江一尸城が新政府軍に接 にも知らせず、その結果、人質を見殺しにする総攻収された。 撃となったのであろうか。 ところが、奥州諸藩に北越の六藩が加わり、奥羽 周知のように、信長の死によってその統一事業は 越列藩同盟を結成して新政府に対立した。まず政府 秀吉にうけつがれる。天正十一年 ( ← 0 四月、勝家軍の矢面に立ったのは、奥州会津藩であり、また北 しず はみずから開いた北国街道を近江に進出したが、賤越の長岡藩であった。北越での戦闘に、北陸道筋か がたけ ヶ岳の合戦で秀吉に敗北し、北ノ庄に追撃されて自 ら出兵した加賀藩についてみると、閏四月十五日に 害した。このとき秀吉は金沢まで進むが、勝家に通 北越出兵の命令をうけ、十九日に前田直信を主将と じた成政に対してはその越中支配を認め、つづいてする藩兵が金沢を出発した。二十七日には柏崎の手 七月には上杉景勝との和睦もととのった。しかし、 前の鯨波で、加賀藩兵も薩・長の兵や高田藩兵など 天正十二年、利家と成政が対立、翌十三年八月には とともに戦って敵を撃退し、五月十九日には長岡城 を陥落させた。しかし、その後は各地に戦線が拡大 一成政討伐のため、秀吉の大軍がまた北陸路へ下った が、成政の恭順、降服によって、合戦にならず、こ し、政府軍は補給になやまされ、戦局は停滞した。 、れは秀吉の北国に対する一大デモンスト」ーシ , ン逆に、同盟軍は地理に明るく、新潟港を通じて武器 となった。 の補給が可能であった。そのため同盟軍の反撃もみ られたが、その後、戦局は政府軍に有利となり、同 北陸路に散った列藩同盟 盟軍に加わっていた会津兵は国許へ向かって敗走し けいおう た。これを追撃した加賀藩兵は九月十四日に南会津 北陸道に起こった最後の戦乱は、慶応四年 ( 一し ぼしん ありすがわのみやたるひと の戊辰戦争である。明治新政府は、有栖川宮熾仁の地へ攻め入っているが、同二十二日には会津藩は へ 親王を東征大総督とし、東海・東山・北陸の三道に奥州街道方面から入った政府軍の猛攻をうけ、一カ 京 へ 分けて鎮撫軍を派遣し、江戸に向かわせた。 月の籠城のすえ降伏した。 国 北陸道鎮撫軍は、一月十五日北陸七カ国の諸藩に 奇しくも、会津は四道将軍の話と同様に、東海道 対して服属・従軍を命じ、一一十日に京都を出発し軍と北陸道軍との会合の目的地となった。
ー乗滝ーーー剣豪佐々木 小次郎が燕返しの術を 会得した修業地と伝え られ、夏には涼を求め て訪れる人が多い。 げこくじよう 城た氏め 守護斯波氏の家臣として福井平野の北西部、九頭竜を実力で支配下に治めていった。下剋上の典型と 見つ倉たる くろまる 伏あ朝、つえ は・てがら」怯 川下流西岸にあった一条家の荘園黒丸庄に居城を構されるのはこのような行動によるところが大きい とっ吉むと も一秀とた え、以後七代一三〇余年にわたってしだいに勢力を越前の支配者となった朝倉氏は、その本拠を一乗 の臣をし あすわ 門韆、拡大し、北ノ庄 ( 現・福井 谷に移し、隣国加賀から押し寄せる一向一揆と戦い 市中心部 ) や、足羽郡東郷庄翁か 唐のがのに 町などへ一族を分出していった。 ながら領国の支配体制を整え、戦国大名の城下とし としかげ しかし、一五世紀前半の朝倉氏はなお斯波氏の守て一乗谷の経営を進めていった。一般に『朝倉敏景 るいかん 護代をつとめる甲斐氏の下風に立っていたのであ十七カ条』として知られる家訓の中に「当家塁館の まじくそうろう り、このような状態からぬけ出して、朝倉氏が越前外、必ず国中に城郭を構えさせらる間敷候、総て おうにん こと′」と 一国の支配者として君臨するようになったのは応仁大身の輩をば悉く一乗の谷へ引越しめて、其村其 元年 (*I($) から一一年間にわたって展開され、戦国郷には、只代官下司のみ可被居置事」と記している ぶんめい 時代の開幕をつげることになった応仁・文明の乱のことが端的にこのことを示している。 うじかげさだかげ たかかげ 過程においてであった。当初、朝倉氏は西軍に属し その一乗谷で敏景 ( 孝景ともいう ) 、氏景、貞景、 よしかげ・ ていたが、途中で東軍に寝返って将軍から恩賞を受孝景と星霜を重ねて五代目、義景の時代に至って、 えいろく けるなどたくみな動きをみせ、ついには越前の大半朝倉氏は黄金時代を謳歌した。永禄十年 (*l( し、時 よしひで よしあきら の将軍足利義栄の弟義昭を迎えたときはその絶頂 ′期であ 0 たが、翌十一年、義昭が織田信長をたよ「 て一乗谷を出たときから転落の歩みが開始された。 げんき 元亀元年 ( ←しには近江姉川の合戦で朝倉・浅井の てんしよう 」連合軍が信長軍と対峙して敗北を喫し、天正元年 一五 ) には、越前府中翁武 ) まで進撃してきた信 長軍を前になすすべもなく、一乗谷を脱出した義景夢 おおのろくぼうけんしようじ は、奥越の大野六坊賢松寺で自殺して朝倉氏は滅 び去った。 山麓の小城下町をしのぶ かいじん 朝倉氏の滅亡とともに灰燼に帰し、その後四〇〇 “ま第を ほか やから
金沢城海鼠 ( なまこ ) 塀 ( 長塀 ) と石川門 ( 右 ) 石垣に面し、もと 百間堀といわれた水濠 があり、鉛瓦とともに 美を競った。 守護畠山政長は細川勝元の東軍に属して応仁の乱を佐々木六角氏討伐の軍をおこすと政親はこれに従軍 戦っていた。富樫政親は北陸の本願寺門徒農民の援し、国を留守にした。門徒農民はこの留守をさいわ こうちょ 助を得て、弟の幸千代軍と戦い、守護職を守ろうと いとして蜂起した。政親は急を聞いて帰国し、高尾 していた。その後、政親は本願寺門徒が寺社領の年城 ()# 0 にたてこもったが、数万の門徒農民は南 貢を払わないとして門徒農民を討った。このため、 無阿弥陀仏のむしろ旗をたてて押し寄せた。 あさくらしまっき おもだった門徒農民は越中へ逃げ、蓮如も吉崎を脱『朝倉始末記』は「同年五月下旬に、一揆ことごと 出した。 く加州石川郡に打ちのぞみ、高尾の城に押寄せて、 ちょろ・きよう . あしかがよしひさ 長享元年 ( ←し、将軍足利義尚が近江の守護昼夜終日、火水になれと攻めける程に、富樫すでに しようがいたま 討ち負けて、六月九日、遂に生害し給ひぬ。誠に きゅうそねこか 一、、窮鼠猫を噛むといふは、かかることをや申すべ き」と書いているが、政親は六月九日、自刃して果 やかた ミ一 ) てた。三十四歳であったという。富樫氏館付近と ののいち 、 ~ 一見られる石川郡野々市町には「富樫館跡」の碑が建 きゅうやかた ち、旧の館 0 の後背にある高尾城跡には石川 県教育センターが建っている。 こだつの 金沢市小立野台地の突端、江戸時代には金沢城が 建設され、現在、金沢大学のキャンパスとなってい てんぶん かなざわみどう る地に、天文十五年し、本願寺は金沢御堂を置 かなざわごぼう じないちょう き金沢御坊を建設し、金沢寺内町に発展した。こ てんしよう れが金沢の始まりであり、天正九年 ( ←一 ) 、織田町 さくまもりまさ 信長の部将佐久間盛政に攻略されるまで、北陸の地 は金沢御坊を拠点に一世紀にわたる本願寺の支配が つづいた。 凄惨な歴史を語る「文字瓦」 天正一一年 ()] し、越前の一向宗門徒農民は、加賀
てんびようほうじ 愛発の関の名がはじめて見えるのは、天平宝字難であるが、軍団が駐屯できる条件、交通路の集中 ちょう 、レようとく 八年 (\ 六 ) のことである。称徳女帝の寵をめぐっ性などから考えれば、疋田をその地と仮定するのが どうきよう さきのだじようだいじんふじわらのなか よいのではなかろうか。 て、僧道鏡との政争に破れた前太政大臣藤原仲 まろえみのおしかっ 麻呂 ( 恵美押勝 ) は、越前の国司であった子供をた 平安時代の末には、北国から都へと攻め上ろうと さえきのいたち たいらのこれもり よって北国へ逃れようとした。しかし、佐伯伊多智した木曾義仲を討ち取るため、平維盛が一〇万の らが愛発の関に兵を入れ、仲麻呂の退路をはばみ、 兵をともなってこの地を北国へと進軍した。しか ざんしゅ となみやま 仲麻呂を捕えたうえ斬首に処した。この事件から四し、義仲の軍に越中砺波山で敗れ、この道を都へと えんりやく みなもとのよりとも 半世紀たった延暦八年八 ) 、愛発の関は他の一一敗走していった。また、この道は、兄源頼朝と くろうよしつね つの関とともに廃された。 仲が悪くなり、奥州へ落ちていった源九郎義経が越 ところで、愛発の関はどこにあったのだろうか。 えたといわれる道でもあった。 あしかが 従来よりさまざまの説があり、山中だとも、疋田だ 南北朝時代、西国において再起した足利軍に追わ にったよしさだ とも、道ロだともいわれている。これまで知られてれた新田義貞の軍は、北国へ落ちんがために、十 さんちゅう いる史料から、関の位置を確定することはかなり困月、愛発を越えるが、山中で大雪にあい多くの軍 びよう 兵が凍死した。その後を追って足利軍の大将高師 やす かねがさき 泰も峠を越え、新田義貞が籠る敦賀金ヶ崎へと向か っていった。 戦国時代、この地は、天下統一を目前にして死ん あさくら だ織田信長と越前朝倉氏の戦場と化した。かって美 さいとうたつおき 濃を治めた戦国大名であった斎藤龍興も、朝倉軍の 武将の一人としてこの戦いで敗死した。いま、疋田 じようこういん の定広院に彼の墓がある。その後も、越前一向一 揆を攻める織田の軍勢が、天下人となった秀吉の軍 広名順宝 定法宗た 勢が、北ノ庄の柴田勝家を攻めるためにこれらの道 の山れ 興宝ま 立月十 . 「 を越えていった。 の、るとあ みと たけだこううんさい 興にれ」が 幕末、武田耕雲斎が率いた水戸浪士の一隊は、京 龍地ら士塔 斎院と大篋都まであとわずかのところまで来ながら、この道を こうのもろ ぐん
白山一一日本三霊山の ーっ。万年雪をいただ く優美な姿は、古くか ら白山信仰を集め、多 くの人々に尊崇された。 可第を 立山は古 立山より 代から富士・白山と並 び日本三霊山の一つ。 雄山・浄土山・別山を 立山三山といい、雲海 の向こうに望み見る富 士とともに崇高てある。 越後三山 三国街道 の六日町から浦佐に向 かう東に聳える八海山 は、中ノ岳・駒ヶ岳と ともに、古来より、越 後三山と呼ばれ信仰を 集めた。 37
、 0 ツに第 常願寺川タ景 芦峅寺集落 立山信 。を山に鎮まる神の猛くし 仰登山の基地てある。 て常願寺川を御手洗と かっては 33 坊が並んて せり」と歌われた暴れいた。今も宿坊村のな ごりをとどめている。 あくとふち べっさん 川阿久濤の淵で白山姫の姿を拝したともいう。両山地を経て、別山から頂上に至るもの。もとは各コー むろどう の登山路も、ほばこの開山の道筋をたどるわけだ。 スごとに室堂 ( 越前室・加賀室・美濃室 ) があった 立山登山道は、平野部では幾筋もあって、時代に が、現存の室堂は越前室の後身である。三馬場とも よる変遷もあったが、すべての道は常願寺谷に集ま 開基は泰澄大師と称し、それぞれ伝承をもち伝えて またち ってゆく。立山信仰の拠点は前立岩峅寺・中宮芦峅 いるが、本来は白山を望む各地から別々に発生した 寺両地に分かれ、両寺たがいに勢力を争ったが、と 白山信仰が、相互に影響しあい、越前の泰澄伝承に もに同じ常願寺川右岸の道筋に沿う宗教的村落であ同化したものである。 った。対岸の文珠寺・本宮を通る登山道もあったら 北アルプスの諸山脈が折り重なってそびえている しいが、それとて同じ常願寺川沿いの道であった。 ため、立山を平野部から望むことができるのは越中 信州側からの裏道も細々とつづいていたけれど、そ 側だけで、その信仰は越中側に発生したが、白山は れはどこまでも「裏道」であって、信仰基地を形成加賀・越前・越中・飛騨・美濃五カ国にまたがって そびえ、周囲の山々は比較的低いため、東海地方か するにはいたらなかった。 立山参道が一方面から開かれたのに対して、白山らも見え、白山信仰は大きな広がりをもったわけ を禅定道は三方面から開かれた。すなわち、越前 かりろ・′」 ロ・加賀ロ・美濃ロで、その登山基地、山岳信仰の 立山の伝説をみると、狩人の射殺した熊が仏であ ばんば 拠点を「馬場」と称した。越前馬場は九頭竜川にほ ったとか、立山権現が、狩人姿で現れたとか、山民 へいせんじ ど近い平泉寺で、ここから法恩寺山塊の峠を越え、 的・狩猟民的性格が濃く、海の伝承は乏しい。これ むろどう 手取川の市ノ瀬に下り、急峻な坂を登り、室堂を経に対して白山の伝説は、泰澄の両弟子、臥りの行者 きよさだ て頂上に達するもの。加賀馬場は手取川の峡ロ白山は能登島出身、浄定行者は出羽の船頭の出身、いず みにえ 本宮の地 ( この地形が立山常願寺川峡ロの岩峅に似ているれも海民である。加賀七浦から御贄を献じて大漁を さかのぼ おぞう ことも興味深い ) で、ここから谷を溯り、支流尾添祈るとか、航海のしるべの山として沖行く舟は帆を ひのしんぐう おおなんじ 川に入り、中宮・檜神宮から大汝峰を経て頂上御おろして白山を拝むとか、白山と海との縁は深く、 ながら ちょうりゅうじ 前に達するもの。美濃馬場は長良川沿いの長滝寺白山神社は海伝い浦伝いに越後から東北にかけて、 ちゅうきょ いしどしろ まっ で、ここから檜峠・石徹白っ年はイト ) 中居神社の港々に祀られた。 比較的閉鎖的な立山が、全国から注目を浴び、信 仰を集めたのは、その生き地獄のためであった。 ころ ふせ ノ 26
0 北陸路の山は、古くから高山峻岳に神 か宿るという山岳信仰の山々であった 「越のしらやま」と歌に詠まれた白山は、 越前・加賀・美濃にまたがり、平安初期 には、登山口である加賀馬場 ( 白山宮 ) 、 越前馬場 ( 平泉寺 ) 、美濃馬場 ( 長滝寺 ) か開かれ、その勢力を競い合い、かって は越前馬場が優位を占めたか、明治維新 後は加賀が主となり、現在に至っている 越中立山は、大宝年 1 七 9 ) に開かれた といわれ、室町時代は修験者の道場とし て知られ、江戸時代には多くの人々か信 仰と行楽をかねて登山した。このほか 越後一の宮を祀る弥彦山、米山薬師を祀 る米山、三国街道沿いの越後三山など、 北陸路の山々は信仰の対象であるものか 多かった。 36