てんびようほうじ 愛発の関の名がはじめて見えるのは、天平宝字難であるが、軍団が駐屯できる条件、交通路の集中 ちょう 、レようとく 八年 (\ 六 ) のことである。称徳女帝の寵をめぐっ性などから考えれば、疋田をその地と仮定するのが どうきよう さきのだじようだいじんふじわらのなか よいのではなかろうか。 て、僧道鏡との政争に破れた前太政大臣藤原仲 まろえみのおしかっ 麻呂 ( 恵美押勝 ) は、越前の国司であった子供をた 平安時代の末には、北国から都へと攻め上ろうと さえきのいたち たいらのこれもり よって北国へ逃れようとした。しかし、佐伯伊多智した木曾義仲を討ち取るため、平維盛が一〇万の らが愛発の関に兵を入れ、仲麻呂の退路をはばみ、 兵をともなってこの地を北国へと進軍した。しか ざんしゅ となみやま 仲麻呂を捕えたうえ斬首に処した。この事件から四し、義仲の軍に越中砺波山で敗れ、この道を都へと えんりやく みなもとのよりとも 半世紀たった延暦八年八 ) 、愛発の関は他の一一敗走していった。また、この道は、兄源頼朝と くろうよしつね つの関とともに廃された。 仲が悪くなり、奥州へ落ちていった源九郎義経が越 ところで、愛発の関はどこにあったのだろうか。 えたといわれる道でもあった。 あしかが 従来よりさまざまの説があり、山中だとも、疋田だ 南北朝時代、西国において再起した足利軍に追わ にったよしさだ とも、道ロだともいわれている。これまで知られてれた新田義貞の軍は、北国へ落ちんがために、十 さんちゅう いる史料から、関の位置を確定することはかなり困月、愛発を越えるが、山中で大雪にあい多くの軍 びよう 兵が凍死した。その後を追って足利軍の大将高師 やす かねがさき 泰も峠を越え、新田義貞が籠る敦賀金ヶ崎へと向か っていった。 戦国時代、この地は、天下統一を目前にして死ん あさくら だ織田信長と越前朝倉氏の戦場と化した。かって美 さいとうたつおき 濃を治めた戦国大名であった斎藤龍興も、朝倉軍の 武将の一人としてこの戦いで敗死した。いま、疋田 じようこういん の定広院に彼の墓がある。その後も、越前一向一 揆を攻める織田の軍勢が、天下人となった秀吉の軍 広名順宝 定法宗た 勢が、北ノ庄の柴田勝家を攻めるためにこれらの道 の山れ 興宝ま 立月十 . 「 を越えていった。 の、るとあ みと たけだこううんさい 興にれ」が 幕末、武田耕雲斎が率いた水戸浪士の一隊は、京 龍地ら士塔 斎院と大篋都まであとわずかのところまで来ながら、この道を こうのもろ ぐん
千国一一一千国は四区に 分けられ、糸魚川より から元町・木戸下・仲 町・横見沢とつづく。 番所は木戸下の少し先 にあった。 村から大町方面へ向かって親坂という急坂がつづく 千国の名物は年末の市であった。十二月二十日こ くつかけ が、これを登りつめたところが沓掛、そして親ノ原ろから行われ、雪の中に二〇—三〇軒もの小屋が掛 で、この付近には今も旧道の面影がそこここに残さ けられたという。糸魚川、大町、あるいは遠く松本 れている。 からも商人が来て賑わったものである。しかし、こ 千国の村はかって宿場でもあった。街道沿いの他の市も明治三十年ごろには消え去ってしまった。 の宿場はようすの変わってしまったところも多い 千国から親坂を登ってゆくと、沓掛の少し手前に が、ここの家並みはほば当時のままといわれ、昔の牛の水飲み場の跡がある。かっては、ここで荷物を 夢を語りかけてくれる。 つけて歩いた牛を休ませたという。牛といえば、沓 うしやど 掛には牛宿の建物が残されていて、興味をひく。一 うしかた 階に牛を入れ、牛を追ってきた牛方は二階に寝るよ うになっていた。 牛宿を出れば、ほどなく親ノ原である。親ノ原は つがいけ 現在栂池高原と呼ばれ、夏はキャンプ、冬はスキー と多くの人々がレジャーを楽しむところとなってい しやくし る。ここから仰ぐ白馬三山 ( 白馬岳・杓子岳・鑓ヶ岳 ) の眺めは素晴らしい。ことに、雪化粧をしたところ へ朝日がさすときは、たとえようもないほどの美し さである。 しかし、かっての親ノ原は街道の難所であった。 >•白馬三山から吹きおろす風雪は道を凍てつかせ、雪道 ′ィー の下に消えていった旅人もあると聞く。そんなこと ほとけ も、今は道端に立っ百体観音の仏たちだけが知るこ ととなってしまった。 謙信の塩送りの道 千国街道は、ソルト・ロードⅡ塩の道とも呼ばれ 沓掛の牛宿ーー - ー入り口 をはいってすぐ左が牛 小屋てある。牛方は「ダ イドコ」と呼ばれる板 の間の部屋に寝泊まり おやざか おやはら しろうま やり
五智街道の松並木 ・、かっては奥の細道行脚 の松尾芭蕉も曾良も、 、、・ともにこの松並木の涼 風に旅の疲れを癒した が、今は見る影もない。 ゞこ・ 新 現年りの大 過ぎて糸魚川の城下に至る。 かのばるコースである。天下の公道とはいえないが 造名最 どき 呆欅寺邦 寛延四年 (l\) 四月二十五日八つ刻、突如として山口・虫川に番所があった。ポッカの名で知られた 堂総分本 本ま。国はる 塩かつぎも昔語りとなった。 寺ー成、てあ起こった大地震によって、山崩れが起こり、逃れた 分宇完てして なだち 国堂物との 糸魚川は松平日向守の城下であるが、わずかに一 ものはわずかに数人、全村地下に埋没した。「名立 後の別建藍も 越在いの伽の 崩」の名によって劇化され、有名にはなったが悲し万石の定府大名で、郡代か代官をおいて管理した。 きようわ のうただたか い歴史である。この年ばかりは加賀百万石の大名も享和三年 (51) 八月九日、幕命を帯びた伊能忠敬 一七四五— 幕府に乞い、中山道を迂回して参勤交代した。 一八一八 ) の一行が測量に来た。しかしその郡代ら 長享二年 (& し十一月十八日、詩僧万里集九が廻の無知と怠慢により、忠敬の測量に少しも協力せ 国の途次、能生へ来て雪に閉ざされ動くこともできず、かえって妨害するという不祥事をおこし、忠敬 ず、能生山泰平寺に宿して越年した。そのとき、その測量史に大きな汚点を投じた。のち、糸魚川事件 として江戸訴訟となり、松平日向守も大いに面目を ばを馳走され、京洛にもないうまさに驚き、その作 り方を尋ねたところ、「山芋を入れてあるから」と失った。 おやしらずこしらず 糸魚川を過ぎれば、やがて親不知・子不知の天下 聞かされ、感心した。これは万里の『梅花無尽蔵』 に書いてある話である。 の険を、生きた心地もせず、打ち寄せる波に逃げま えいしよう いちぶり 能生白山神社は永正十二年 ( 一しの建立で平安どいながら、ようやく市振の宿へ着きホッとする。 時代の木彫聖観音像や県文化財指定の神社舞楽、数ここで市振の関所へ手形を示して越中国へと北国街 げ・んろく 多くの古い船絵馬などを蔵している。また、元禄一一道はつづく。 めいおう 親不知・子不知とは誰が名づけたのであろうか。 年 ( ←し芭蕉がこの神社で憩い、明応八年 (l し能 登で鋳たという大きな汐路の鐘を、 大納言平頼盛の妻が、ここを通って愛児を波にさら 路 曙や霧にうづまく鐘の声 われ、悲嘆にくれ「親知らず子はこの浦の波まく る せ と詠んだ。神社の森にすだくヒメハルゼミは国のら越路の磯のあわと消えゆく」と歌ったことによ るといわれるが、いかにもよくできている話であ 考一物天然記念物に指定されている。 おやしらずこしらず る。 海 ききよう 親不知・子不知を越えて 芭蕉の俳諧行脚は七月十二日、市振の宿桔梗屋 「塩の道」として、近年、急に有名になった信濃に着き、旅をする新潟の遊女と偶然同宿して「一家 5 いといがわ 大町、松本への街道は、糸魚川で分岐して山道をさ に遊女もねたり萩と月」と詠んだ。 ひとつや
日本海に大きく突き出る能登は、北陸道の 陸路幹線からははすれるが、海上交通ではき わめて重要であった。渤海国の使船が到着し たのも多くは能登であったから、奈良時代に は半島の先端まで駅路も通じていた平安初 期に駅路が廃止されてからは、平野の開ける 半島基部のロ能登は別として、山が海にせま って平地に乏しい奧能登は避遠の地と化した が、それだけに古い民俗などがよく残ってい る。近世も陸路は不便であったか、海岸では 揚浜塩田で塩が生産され、遠く飛騨などの山 間地に送られ、また西廻り海運の発達ととも に、半島の先端部に位置する寺家や輪島が 日本海航路の主置な寄航地として繁栄するな ど、能登にとって海上交通が果たした役割は 大きい 能登 よド . をんツ 1 第 ・れ第ノ丿
滑川街 小杉の道標ーー - 小杉て 0 ・北国街道は富山に至る ものと浜街道になって 岩瀬に至るものとに分 かれた。加賀の前田侯 通った。 国 水橋道 東岩瀬 四万 高岡大 ー , ーを : 屬第引 ) つ物 ~ 物第 杉 黒川・ 薬売りのふるさと・富山から 北国街道を西へ東へ 庄 新 富飛騨街道 尾 八 ◎は行商人が 2000 人内外、 〇は川 0 ~ 200 人内外、 ・は若「・名を表す。 よかたひがしいわせ といって、小杉から分かれて四方、東岩瀬を通っ 薬売りのふるさと て水橋に出る道もある。これは加賀藩主の参勤交代 富山売薬行商人は、江戸時代後半期に広く全国の の通路であって、往還ともいわれていて、富山の城 はんごんたん 諸地方に反魂丹をはじめ、数多くの薬を行商した。 下町をさけて通った。しかし、このルートも富山を 原則として春と秋の年二回出かけたが、その人数は 通るルートも、注意されることは、富山売薬商人の 四五〇〇人内外とみられる。富山の町がその中心で多く分布する町や村の大部分を結んでいることであ あって過半数をしめるとともに、その活動ももっと る。こうしてみると、富山売薬業はこの交通路をそ も組織的であって、仲間組をつくり、 活発であっ の形成の要因としているといえる。北国街道は単な た。そのほかは富山平野に、とくに、海岸やその近る地方的な道路ではなく、したがって地方的な商圏 くの町や村に広く分散していて、同じく組をつくる を形成する交通路ではなく、それは天下の台所とい ものが多く、全国に行商した。中でも関東や関西、 われた大坂から、日本海岸に沿って東北へ結ぶわが 中国、九州や東海に多く出かけた。 国の主要街道であり、この街道に沿って売薬行商の 行商人たちが旅先に行くには、陸路を通ることが町々が分布したことは、その全国的行商の形成に大 多く 、北国街道 ( 北陸街道 ) と飛騨街道が利用されきく貢献したのであった。また、飛騨街道も富山か た。この両街道はともに全国行商には重要な意義をら南下して太平洋岸に至る交通路であった。 もっていた。自ら売薬の荷を背負い、あるいはこれ 柳行李を背に西へ東へ を運ぶ労働者を雇い入れ、また馬の背を利用した。 北国街道は、富山平野では高岡、小杉そして富 もともと行商は、ある地域に商品を持ち歩いて売 みずはし 山、さらに富山についで行商人の多く出る水橋 ( 約りさばくのであって、その運搬方法はさまざまであ なめりかわ おはらめ 五〇〇人 ) や滑川 ( 約三〇〇人 ) を通る。また浜街道る。京都大原女の花売りや四国の阿波阿部村のイタ 植村元覚 富山大学名誉教授 77 イ
笙ノ川一一一池河内に源 を発する笙ノ川は、五 位川・黒子川・木ノ目 川を次々と合流し、敦 賀湾に流れ込む敦賀最 大の河川てある。 れた茶であった。米の敦賀入津量がピークを迎えた 近世に入ると、豊臣秀吉の武将で敦賀の領主とな かんぶん はちゃよりたかおおたによしつぐ った蜂屋頼隆や大谷吉継らによっても運河が計画さ 寛文期 ( ) に、敦賀で売買され北国へと送ら れていった茶は三万六〇〇〇本余、敦賀を通過し北 れたといわれるが、具体的なことはわかっていな ゝ。計画を具体的に知ることのできるのは江一尸時代 国へと運ばれた茶は一万九〇〇〇本余、合計五万五 〇〇〇本余の茶が北国へと送り出された。このほか に入ってからである。寛文九年 (*l< し、京都の町人 〃下り荷〃には、木綿や紙、敦賀近郊で生産された田中四郎左衛門によって計画されたものである。こ 釘、むしろなどがあった。 の計画は、新道野峠を開鑿し、塩津ー沓掛ー新道野 いはらさいかく にほんえいたいぐら ー疋田ー敦賀を水路で結ばうとするものであった 井原西鶴は、『日本永代蔵』という書において、 一七世紀中葉の敦賀の繁栄ぶりを次のように記してが、敦賀湾内で塩業を営む村々や水路近くで洪水を 心配した村々、塩津と競合する海津や大浦などの反 越前の敦賀の港は、毎日入船判金一枚 ( 一〇対にあって実現しなかった。 うわまい 両 ) ならしの上米ありといへり。淀の川舟の運 この後も、元禄九年 (l し、享保五年 ( 一一し、殪 上にかわらず。万事の問丸、繁昌の所なり。殊五年 ( ←しと数度にわたって運河計画がたてられ 更秋は立つつく市の借屋、目前の京の町、男ま たが、どれも多くの利害の対立から実現しなかっ かたぎ じりの女尋常に、其形気、北国の都ぞかし。旅た。しかし、文化十二年 ( 一しに、敦賀から疋田ま しようのかわ 芝居も爰に心かけ、巾着切も集まれば、 での間を、笙ノ川沿いに幅九尺にい ) あまりの 舟川が完成した。小さいながらも運河の一部ができ まばろしの運河跡 たのである。しかし、この舟川も洪水などで水路が 琵琶湖と日本海を運河で結ばうとする計画は、古破壊され、二〇年余り使用されたにすぎなかった。 くからなん回となくあった。伝説として伝わる話でその後もなん度か運河開鑿が計画されたが、今日ま あるが、平安時代の末期、平清盛は、越前の国司でで日の目を見ていない。だが、少し見方を変えれ かいさく あった長男平重盛に命じて、深坂峠を開鑿しようと ば、深坂峠の真下を通る国鉄北陸本線の深坂トンネ ミ ( 、第。一一、一した。しかし、工事は巨石にはばまれ、中止せざる ルや、最近完成した北陸自動車道の滋賀から敦賀へ を得なくなった。そのときの因縁で造られたのが深のトンネルは、江戸時代を通じてまばろしであった 坂地蔵であるという。この地蔵は、またの名を堀止敦賀・琵琶湖間の運河が形をかえて現れたともいえ めの地蔵とも呼ばれている。 るのではなかろうか。 一六六一 5 七三 いんねん 85 ーー海と湖をつなぐ山塊の道
十日町の古い町並み 明石縮に雪の肌と 歌われるこの町は、豪 雪と高級織物て有名。 雪国独特の雁木が見ら れる。 がわ 武びを後る この川がなければ、国際港として重要港湾に指定さ 川を合わせ、さらに越後から信州に入る要衝飯山を ・そ源越な れている現在の新潟港はなく、したがって人口四五過ぎて越後に入る。 甲境麓は 国の川農 の山曲信万、北陸第一の都市は成立しなかったのである。 奇妙なことに、千曲川は信濃の国を離れて初めて 岳農の千て 一 = 員一言こるつ 信濃川の源流は、甲州・武州・信州にまたがる甲信濃川と名乗る。信濃川は越後でも沿岸に多くの都 武・るす入 ぶしだけ 甲相え発に 武信岳 ( 一 ) こある。この山のカエデ、シラビ市を育てた。リトル京都と呼ばれ、着物と雪祭りで ちくま ちぢみ とおかまち ソなどの昼なお暗き密林の一地点に「千曲川・信濃有名な十日町市、雪と縮と闘牛で早くから知られた おぢや ぼしん 川水源地」の標柱が立っている。延長三六七キロメ 小千谷市、戊辰戦争と太平洋戦争で焦土となりなが ートルの大河も、この地点に湧く伏流水に始まる。 らも復興した長岡市、それに家庭用金物生産の三条 信濃川の長野県部分は千曲川と呼ばれる。千曲川 市などがある。 こうみ は、日本の屋根を走る小海線とからみ合いながら、 そして、この母なる川、信濃川の生み育てた優良 島崎藤村の詩に歌われた「暮れ行けば浅間も見えず児は、なんといっても新潟港である。 さくだいら 、」もろ ももふねちふね 歌哀し佐久の草笛」の佐久平を貫流し、「小諸なる 百船・千船、歌もさまざま 古城のほとり雲白く遊子悲しむ」の小諸城の下を通 ももふねちふねつど り、関ヶ原の役の際、徳川軍に抵抗し西征を妨げた 江戸時代の新潟港は百船・千船の集うところであ さなだまさゆき 真田昌幸の居城のあった上田市を流れ、川中島で犀っこゞ、 オカひときわ目立つのは千石船であった。北へ 上れば「蝦夷地」と呼ばれる北海道まで、西に廻れ ば下関、大坂、江戸まで帆走する海船である。千石 こまわ 船を小型にしたようなのが小廻しである。小廻しも 海船ではあるが、佐渡の島や近い港を往復するもの の で乗組員も少ない。 信濃川、阿賀野川という大動脈はもちろん、小動 る れ 脈ともいうべき支流を走り回り、さらに網状の毛細 て。もっ 入えを血管のように新潟の町中を流れる西堀、東堀、御飆 十・に ( は杦 9 風 宀明後をて風堀などの堀にまで入り込むのが川船である。 日越名りの ながふね 、 : 、十はとた河 ー船にもいろいろある。形の長いのが長船にコウ 川あ大 ひらた あんこう 【曲農の 一言丁后こ ~ ム レンボウ、底のひらたい艟船、魚の鮟鱇に似たの 757
春日崎からみた榔Ⅱ 慶長 9 年 ( 1604 ) 大久保 長安はここに春日社を 建て、都の能楽師に能 をさせた。以来、都の 能が佐渡に根づいた。 国府からのぞむ金北山 雑太 ( さわた ) にあ る佐渡国府跡からは、 大和に似た盆地的景観 のかなたに金北山 ( 11 73 メートル ) がのぞめ る。 たであろう。 難所を思わせる。中雑太付近は佐渡の都の跡、国分 もんがく 文覚上人、法然事件の法本坊行空、日蓮聖人、順寺や惣社、それに国府の跡がのこる。 ひのすけともぜあみ まゆみ 徳上皇、京極為兼、日野資朝、世阿弥と、かぞえた 秋たけし檀の梢吹く風に ら二〇〇人にも及ぶ人たちが流罪者として島に着い 雑太の里は紅葉しにけり とうたった日野資朝はここに流された。いまもこ いささか小さいが、佐渡は古代以来一国である。 のあたりには檀の木が多い。 はた だから越後と佐渡の間の海路は、佐渡にとってはい 中世になると、府中は波多郷 ( 畑野町 ) に移っ おおだ わば海の往還であった。海の往還は陸の峠道といち た。中世の街道は多田の村から一息に小佐渡の山脈 じるしく違う。陸の道が自然に制約されるのにくらを目がけてのばりだす。山の頂上にのばると眼下に べると、海の道はそれをさえぎるものがなかった。 国仲平野がのぞめる。そこが飯出山である。朝、松 だから、人間の側の条件で海路は変わっていったの崎を出た旅人はここで昼食をとった。 あまいおり である。 その夜は大田の浦に留まり、海士の庵の磯枕し 古代・中世のころには、寺泊と松崎が結ばれた。 て、明くれば山路を分け登りて、笠かりと云峠 あかどまり しかし江戸時代になると、寺泊と赤泊を江戸から に着きて駒を休めたり。ここは都にても聞きし 相川への奉行街道が結び、産金銀輸送路として、相 名所なれば、山はいかでか紅葉しぬらんと、夏 おぎあまぜ 山楓のわくらばまでも、心ある様に思ひ染めて 小木ー尼瀬 (\ 雲 ) が結ばれた。また、小木港は はせ き。そのまま山路を降り下れば、長谷と申て観 西廻り航路と松前翁海 ) への海の道の中継基地とし て栄えることになった。 音の霊地わたらせ給。 (} 弥『金 ) 一五世紀のなかば、世阿弥は七十二歳の老いの身 世阿弥ゆかりの長谷寺 を佐渡の島に移した。将軍の怒りに触れて配流の身 渡 古代のころ、佐渡には三つの駅が置かれていた。 となり、この街道を府中へと向かった。 佐 おぐら 松崎、三川、雑太の三駅である。松崎はいま小佐渡 長谷寺は畑野町小倉にある山寺、石段の両側にあの むしろば ぼうおく 黄 南岸にある松ヶ崎、三川は赤泊村の莚場付近、そこ る坊屋は大和の長谷寺とそっくりである。その昔、 きようづか 人 から街道は六〇〇メートル余の経塚山を越えて雑都から来た人たちの手によって成った寺だからだろ 流 一太 ( 真野町に中雑太がある ) におりる。途中には昔を う。寺には世阿弥が拝んだ平安時代の観音像が、い 7 5 語るものはなく、経塚山の地名だけが往時の官道のまもそのまま祀られている。また、世阿弥が拝んだ さわた ほうねん
を霧気、レー、一 津 。、東岩 0 能尾見木 七伏 0 前 言田ッ ネ九 下時国家ーーー能登の北 部にあり、平氏の子孫 といわれる。多くの人 を使って農業・海運に 従事した、大庄屋てあ る。 0 島 当 美 山 立山△ △白山 0 敦賀 おばま から津軽十三湊に至る北国航路が実在したことにな 貢米を北国海運を利用して敦賀・小浜に運び、陸運 と琵琶湖の水運を利用して大津・京都・大坂などに この北国航路の実態を示すものに『能登時国家文販売した。敦賀・小浜は北国から上方への北関門と まっえい 書』がある。時国家は大納一言平時忠の末裔といい伝して栄えた。しかし、時代は動いてゆき、新しいコ えられる名門である。 ースが開拓されていった。 げんな かこ びみようこうやわ 『微妙公夜話』におもしろい話が記されている。 元和四年 ( ~ し、時国藤左衛門の所有船の水主五 こんぶ 人が松前海 ) で過分の昆布を仕入れ、敦賀で販売それは、加賀三代藩主前田利常は、島原の乱に際 ますや したが売れず、大津に運んだ。大津でも売れなかっ し、同地への出陣に備え、大坂町人木屋・升屋に命 じ、大量の「西国通り船」を雇い入れたので、西国 たので京都・大坂に運び販売した。しかし、駄賃・ 運賃がたくさんかかり欠損となった。水主五人にはの大名は雇船ができなくなり困ったというものであ る。 その弁銀ができず処罰されるところを許された。そ こで五人は償いとお礼として給銀がわりに請けてい 加賀藩から島原への派兵は、一つは大坂から、も た田地の年貢の上納と、それぞれの息子・娘を時国う一つは加賀藩領内から派遣された。瀬戸内海と日 家に永代の奉公人として渡した。 本海を西航した二つの船団の航跡は下関において合 この昆布販売の松前ー ( 日本海 ) ー敦賀ー海津ー ( 琵流し、別々にあった航路は一つに結ばれ、加賀藩領 琶湖 ) ー京都ー大坂へのコースは、当時の松前から内ー ( 日本海 ) ー下関ー ( 瀬戸内海 ) ー大坂となり、ここ 大坂へのコースをみごとに示している。 に新航路が考えられることになった。 島原の乱が契機となって、西国海運への関心が深 西廻り航路の開拓 まり、敦賀経由に対し海難の危険はあるが経済性の てんしよう 天正十九年 (lf) 、加賀藩は加賀・越中・能登の高い、下関経由の航路の開拓が現実問題となってき 年貢米を敦賀の初期豪商である高島屋伝右衛門のと た。寛永十六年 ( 三しに前田利常は、米価のようす道 けいちょ . う よりをみるため「為御試米百石」を大坂に運んだ。これ ころに運び販売にあたらせ、慶長九年 (8{) る 敦賀三日町にあった蔵屋敷も高島屋に預けた。つづ がいわゆる「西廻り航路」の開拓であった。 くみやそうえん ひしやげんじ いて小浜の組屋宗円、大津の菱屋源次にも蔵米宿を 海 北海道と大坂を結ぶ北前船 命じた。 きたまえぶね 北陸・山陰・奥羽地方の各領主は、このように年『和漢船用集』に北前船を次のように説明してい ときくに かんえい
十日町雪まつり 国の新しい行事。雪の 芸術展や雪の舞台のき ものショーが華麗に繰 り広げられる。 る文人墨客も多く、その影響をうけた彼は、若年か しかし、著作の経験がなく、出版界の事情も知ら ら文芸に親しみ、俳句や書画に上達した。 ない彼だけではどうしようもない。しかるべき作者 牧之は十九歳のときに縮八〇反を持ってはじめて に素材を提供して協力を求めなければならない。彼 さんとうきようでん 江戸へ出、一一十七歳で伊勢参宮をした。雪のない世はまず、当時江戸で人気随一の小説家山東京伝 ( 七 界に接して彼は、いまさらながら郷里の雪深い生活 八一六 ) に頼みこんだ。京伝は牧之の熱意と題材の に感慨を覚えた。しかも雪国の実状を伝える書物面白さにひかれたのであろう、興味を示した。話は は、まだどこにもない。文才のある彼は、越後魚沼進んだが、版元に一〇〇両も入れなければと聞かさ の自然と習俗、また住民の生活の哀歓を、薄雪の地れては、さすがに牧之も引きさがらざるをえなかっ ばきん の人々に紹介しようと企てた。 た。ついで京伝の弟子で売り出し中の滝沢馬琴 ( 七 六七い一 ) に当たってみたが、ていよく断られた。し ぎよくざん かし牧之はあきらめず、その後さらに岡田玉山、 ふよう 鈴木芙蓉、もう一度馬琴と、依頼を繰り返す。半生 きようざん の苦心がみのり、京伝の弟、山東京山の好意的な 協力をえて、『北越雪譜』初編三冊を世に出したの てんぼう は天保八年 ( 一一しの秋であった。 刊行されるまで苦心があったが、売り出されると 雪の風土を描いた珍書として好評で、続編が待望さ れた。牧之は中風の床で執筆をつづけ、天保十二年 ) 、二編四冊を出版、翌年七十三歳の一生を終 ぼだいじ ちょうおんじ わった。墓は菩提寺の塩沢町長恩寺にある。長恩 寺の境内にはまた、 , 彼の遺品・遺墨を集めた牧之記 念館があって、訪ねる人が多い。 雪掘りと雪下ろし 鈴木牧之は『北越雪譜』の中で、 くら しよう へうへん 雪の飄々翩々たるを観て花に喩へ玉に比べ、勝 ぼっかく たと