おやしらす 越後の海岸を北に通る北国 ( 北陸 ) 街道は、市振から親不知・ 子不知の難所にかかり、糸魚川を過ぎて高田に出た。高田から はまた「米山三里」の険を越え、柏崎・出雲崎・寺泊を過ぎ弥 彦・新潟に達した。新潟から村上を過ぎると、「笹川流れ」で知 られる海岸の難路を避けて、山路をたどって出羽に入った。江 戸から越後・佐渡に向かう諸道は、ます中山道の信農追分から 善光寺 ( 長野 ) を経て、関川で越後に入って高田に達する、こ れも「北国街道」 ( また善光寺街道 ) と呼ばれるものがあり、ま た、中山道の高崎から渋川・猿ケ京の関所を過ぎて三国峠を越 える三国街道が、湯沢・六日町・長岡を経て出雲崎に達し、奥 州街道方面では会津若松から新発田に出る、会津通り ( 会津街 道 ) かあった。ほかに、糸魚川から姫川沿いに信農大町・松本 に出る千国 ( 糸魚川 ) 街道などがある 、 . イみーいに : に、いャ 1 翡翠峡ーーー糸魚川は、 千国街道の分かれる宿 場として発達したが、近 くの姫川に合流する小 滝川は、縄文時代から の翡翠の産地てある。 越後の春 - ーー新潟から 会 / 聿若松に至る会津通 りの阿賀野川流域は水 田地帯だが、また、草 花の栽培も盛んてある。 寺泊ーー北に弥彦山、 西に佐渡を望む寺泊は、 越後海岸の要港て、北 前船が寄港し、また佐 渡への港てもあった。 ノ 3 ノ
寺泊港ーーー北国街道の 古い宿場町として、ま た佐渡への渡津として 史跡が多い。今は海産 物の市場て栄えている。 五智街道からの春日山 正面の標高 180 メ ートルの春日山は史跡 とされたが、近年宅地 化造成に悩んている。 くがみやま をした。良寛は生涯大寺の住職にもならず、国上山認 の五合庵の仮屋に寓居して、托鉢して所々を回り、 てんたん 無欲恬淡な生活を送ったのである。卓抜な麗筆をふ るい、詩を賦し、和歌を詠み、ときには子供らと遊 び、天保二年 ( 一一 f) 、七十四歳で大往生をとげた。 てらどまり ようしん 寺泊は佐渡へ渡る要津として、早くから開けて えんぎしきわたべ おり、舟を備えていた『延喜式』渡戸駅の比定地で しゅうちゅうしよう こうにん ある。『袖中抄』に弘仁十三年 ( 「一 ) 国分寺の法 光が布施屋を建てて、旅人の便宜をはかったという こくじよう が、国分寺は国上寺の誤りである。源平時代には 町が栄え、市場が立った。西行法師は『撰集抄』 で、「奥よりの津にて貴賤集りて朝の市の如し」と 、若き男女はもちろん白髪の老人の売買まで公 めの国 なみだ 台神は 高。点定然と行われていることに「すずろに泪をこぼし侍り のる弡指 けんきゅう 目」一一九〇 町あ馬に き」と、驚き悲しんでいる。建久年 (—九九 にい広 - 料一 せんしよう 媛中船史 山社のの俗倉幕府より「先蹤を以て」遊女四九人を公許され しとく 白神林蔵民 栞』たという。今でも四十九女屋敷、四十九女 橋の名のあるゆえんである。 じようきゅう 承久三年 ( 一一一 ) 北条氏によって、佐渡へ流され まの た順徳上皇は、寺泊から佐渡の真野へ渡海した。ま えいにん れいぜいさきのだいなごんためかね た、永仁六年 (IIJ) 冷泉前大納言為兼が佐渡へ配 流のとき、寺泊の駅長菊屋五十嵐家に泊まり、この 地で遊女初君を侍らせ、旅愁を慰めたことは『玉葉 和歌集』に収められた二人の恋歌の応答によって知 じゅかんえん られている。菊屋の屋敷は現在、聚感園という公園 になっている。 は
流人と黄金の島・佐渡 大 山 脈 尖閣湾 。夷 . ・ . 道遊ノ割戸 ・・・鶴子銀山 佐和田 佐 新町 0 畑野 渡 赤 山 00 ムヶ崎 道多田 渡 ツ、木 まっさき 渡の松崎が結ばれていた。 恨みの島、佐渡 たらちねの母がかたみと朝夕に わが命しまさきくあらば亦も見む 佐渡の島べをうち見つるかも ( 良寛 ) やひこ 志賀の大津によする白浪 (f 万葉攀 越後・弥彦海岸に立っと、海の向こうに佐渡の山 ようろう ほづみのあそみおゅ 養老六年 ()\ 一 l) 、穂積朝臣老は佐渡配流の道すが脈がけむって見える日が多い。この島は歴史上い ら、大津の浜でこう詠んだ。都から引き離されてい つかの顔をもちあわせてきた。そのひとつはおそれ く人々は、もう一度その道を都にもどっていくこと られた流刑の国であり、他のひとつは黄金花咲く島 を夢にみたにちがいない。馬三匹と警護の者にまも という顔である。これほどまでにかけはなれた二つ られて、流罪者たちは北陸路を越後に向けてくだっ の鮮やかな顔をもつ国もめずらしい。おおかたの流 てらどまり て行った。そのころ、越後の国寺泊は佐渡へ渡海人たちは、寺泊の岩をかむ白浪をみて、もう生きて するときの公津で、越後国分寺はそこに布施屋 ( 宿この海を渡ることはできないのでは、と不安におの 所 ) を建てて島にわたる人々に便宜を与えた、とい のいた。 われている。佐渡は日本海に浮かぶ島である。周囲 あふことのまたといっかはとゆふたすき が約一三〇キロメートル、面積約八六〇平方キロメ かけしちかひを神にまかせて きようごくためかね ートルの島で、北と南に東西二本の山脈がある。 という京極為兼の歌に、遊女初君は、 が大佐渡山脈、南が小佐渡山脈、高さは大佐渡のほ 物思ひこしぢの浦のしら浪も きんぼくさん うが高く、主峰金北山は一一七三メートル、、 月佐渡 立かへるならひありとこそをきけ ( 宝葉和 だいち の最高峰大地山は六四六メートルである。 となぐさめた。 りようつ いまは新潟港から両津港へ六五キロメートルほど そうはいわれても、都を出るとき決めた覚悟を、 おうせき の海上を海路で結んでいるが、往昔はこの寺泊と佐もう一度たしかめながら流人たちは船上の人となっ 田中圭一 新潟県史編集主任 やま 756
を望 . 織ぃ第第。を , を物 た一向宗寺院を核にし、門徒の商人・職人たちが市寺内町がある。 を立てるなどして町をつくり、その周囲を堀や土 吉崎寺内町吉崎御坊を核として発達した一向宗 さく おふみ 手、あるいは柵をめぐらして寺や町を守り、外敵の 門徒の町である。蓮如には吉崎について御文のなか 侵入があれば武装して戦った、要するに一向宗門徒で「吉崎トャランイヒテ、ヒトッノソビエタル山ア じようさい サレバコノ両三ヶ国ノウチニオイテ、ヲソ による城砦都市である。このような都市は近畿地 方に多いが、北国路では吉崎寺内町 ( 吉崎御坊 ) 、金ラクハ力、ル要望ョク、オモシロキ在所、ヨモアラ じようはな 沢寺内町 ( 金沢御坊 ) 、富山県砺波郡城端町の城端ジトゾオボへハンべリ」と書いているが、文明三年 ふるこふ いなみ 寺内町、同郡井波町の井波寺内町、高岡市の古国府 ( 七 f) 七月、蓮如が北国門徒布教の拠点として開い ばばおおじ た地であった。寺内には南北に通じる馬場大路があ り、両端にはそれぞれ大門が建ち、一〇〇軒から二 〇〇軒の僧侶、門徒の商人・職人の家があったとい う。このように、吉崎御坊は一向宗門徒の寺内町で あった。 金沢寺内町天文十五年 (åh?) 阿弥陀如来を安置 する壮大な金沢御堂が建立され、北国門徒の中心寺 院となった。寺地には多くの僧侶や門徒の家が建 ち、また、市が立ち、商人・職人の集住する町々が おう おうみ できた。近江国から移住してきた商人の居住する近 みちょう にしちょうつつみちょううしろちょうみなみちょう 江町をはじめ、西町・堤町・後町・南町など、 おやま ふるかなざわ ″古金沢〃といわれる諸町が、現在の尾山神社境内町 から背後の道路の地域に成立した。尾山町の薬舗で寺 しにせ 有名な老舗中屋家は、この〃古金沢〃南町以来の町 五引同文 人である。このように″古金沢〃は金沢御堂を核に 生いし名た 武年城有れ して発達した一向宗門徒の城砦都市であるが、大坂れ 城。政廃発 の石山本願寺を核とした石山寺内町につぐ大規模な 山町成にが 丸市々年瓦 小分佐 7 字寺内町都市であった。
吹雪に逝った ある瞽女への 叙事詩 斎 真 画家 しおさい 6 なり、コウモリ傘が横なぐりの風で吹き飛ばされそ 雨宿りの小屋で うになった。長靴をはいていても膝から下がびしょ 一〇年ほど前である。春まだ浅い日であった。私濡れになって、寒さにふるえてしまった。私は困り いずもざき は越後の出雲崎から、今まで一度も訪ねたことのな果てて、四、五軒しかないこの村の物置のような小 てらどまり い寺泊まで、四里の道程を日本海沿いに歩いてい 屋の軒を借りて、しばらく雨宿りしていた。そのと きである。坂の上から自転車で下りてきた六十歳ぐ こうや くったおちみず この街道には、郷野、久田、落水、山田と、まる らいの黒いビニール合羽を着た男の人に出逢った。 で人里から遠く取り残されたような小さな村が点在その人は急にプレーキをかけて立ちどまり、「もし している。村と村との間は、ゝ しまだに電柱すらない もし、そんな所で雨の中、一体なになさっています 潮騒のみの淋しい砂道のつづきであった。 か、旅の方のようですが : : 」とまことに慇勤」に問 あまあし 郷野まで来たときである。雨脚がますます烈しく いかけたのである。見るからに純朴そうな村人のよ うであった。 思いがけない出会いである。その人は、出雲崎に 住んでいる阿部さんという方であづた。 そのとき、雨の降りしきる、その物置小屋の中で しばらく阿部さんからお聞きしたノートの走り書き が発端になり、その後の調べで私の心の中で幻想と して煮つめていった一つの叙事詩がある。それはっ いこの先の落水の近くで四〇年ほど前、ある吹雪の 日にはかなく死んでいったお春という美しい瞽女の 悲恋物語なのであった。 私はその日、寺泊まで雨の中を歩きつづけ、お春 の死んだ場所を確認するため、久田、山田の村人か ら当時のようすをこまめに訊ね歩いてみた。だが、 村人の話は、長い時の経過で記憶も薄れ、まちまち で要を得なかった。
春日崎からみた榔Ⅱ 慶長 9 年 ( 1604 ) 大久保 長安はここに春日社を 建て、都の能楽師に能 をさせた。以来、都の 能が佐渡に根づいた。 国府からのぞむ金北山 雑太 ( さわた ) にあ る佐渡国府跡からは、 大和に似た盆地的景観 のかなたに金北山 ( 11 73 メートル ) がのぞめ る。 たであろう。 難所を思わせる。中雑太付近は佐渡の都の跡、国分 もんがく 文覚上人、法然事件の法本坊行空、日蓮聖人、順寺や惣社、それに国府の跡がのこる。 ひのすけともぜあみ まゆみ 徳上皇、京極為兼、日野資朝、世阿弥と、かぞえた 秋たけし檀の梢吹く風に ら二〇〇人にも及ぶ人たちが流罪者として島に着い 雑太の里は紅葉しにけり とうたった日野資朝はここに流された。いまもこ いささか小さいが、佐渡は古代以来一国である。 のあたりには檀の木が多い。 はた だから越後と佐渡の間の海路は、佐渡にとってはい 中世になると、府中は波多郷 ( 畑野町 ) に移っ おおだ わば海の往還であった。海の往還は陸の峠道といち た。中世の街道は多田の村から一息に小佐渡の山脈 じるしく違う。陸の道が自然に制約されるのにくらを目がけてのばりだす。山の頂上にのばると眼下に べると、海の道はそれをさえぎるものがなかった。 国仲平野がのぞめる。そこが飯出山である。朝、松 だから、人間の側の条件で海路は変わっていったの崎を出た旅人はここで昼食をとった。 あまいおり である。 その夜は大田の浦に留まり、海士の庵の磯枕し 古代・中世のころには、寺泊と松崎が結ばれた。 て、明くれば山路を分け登りて、笠かりと云峠 あかどまり しかし江戸時代になると、寺泊と赤泊を江戸から に着きて駒を休めたり。ここは都にても聞きし 相川への奉行街道が結び、産金銀輸送路として、相 名所なれば、山はいかでか紅葉しぬらんと、夏 おぎあまぜ 山楓のわくらばまでも、心ある様に思ひ染めて 小木ー尼瀬 (\ 雲 ) が結ばれた。また、小木港は はせ き。そのまま山路を降り下れば、長谷と申て観 西廻り航路と松前翁海 ) への海の道の中継基地とし て栄えることになった。 音の霊地わたらせ給。 (} 弥『金 ) 一五世紀のなかば、世阿弥は七十二歳の老いの身 世阿弥ゆかりの長谷寺 を佐渡の島に移した。将軍の怒りに触れて配流の身 渡 古代のころ、佐渡には三つの駅が置かれていた。 となり、この街道を府中へと向かった。 佐 おぐら 松崎、三川、雑太の三駅である。松崎はいま小佐渡 長谷寺は畑野町小倉にある山寺、石段の両側にあの むしろば ぼうおく 黄 南岸にある松ヶ崎、三川は赤泊村の莚場付近、そこ る坊屋は大和の長谷寺とそっくりである。その昔、 きようづか 人 から街道は六〇〇メートル余の経塚山を越えて雑都から来た人たちの手によって成った寺だからだろ 流 一太 ( 真野町に中雑太がある ) におりる。途中には昔を う。寺には世阿弥が拝んだ平安時代の観音像が、い 7 5 語るものはなく、経塚山の地名だけが往時の官道のまもそのまま祀られている。また、世阿弥が拝んだ さわた ほうねん
0 、義第 / を討 = メ参川 1 井宿を過ぎると、街道は妙高山の山裾をめぐって登担を分散するためでもあった。 りとなり、人馬の通行が難渋する。やがて、広々と 天保十一一年 (5) に三国街道を赴任した久須美六 はつが した高原の風景が開ける。現在は上信越高原国立公 郎左衛門祐明は、四月一一十三日江戸を発駕し、同三 園となっている。 十日に寺泊に到着している。途中、吾妻川の増水で 関山からは中山三宿と呼ばれ、街道の高度がいよ渋川宿に滞留しているので、実質は七日間の行程 いよ増していく。 関山宿には、関山・二俣・田切・ で、三国街道はずいぶんと近道であった。以下、久 上原・関川の各宿の馬が詰めて待ち受けている。一一須美六郎左衛門の書き残した『佐渡之日次』からそ 俣と田切、上原と関川は、それぞれ一五日交代で宿の足跡をたどってみよう。 役を務める、合わせて一宿扱いの小宿であった。関 江戸から三国街道を越後に向かっていくには、中 山からは、関川関所を越えて信州野尻宿まで継ぎ立山道高崎宿から分かれて、金古・渋川と北上してい おおたぎり てていくが、この途中にある大田切が、この街道一 く。途中、上尾・本庄・渋川・須川と泊まりを重 ' ま裾の挾賑 番の難所であった。 ね、渋川宿で滞留一日があったのを加えて六日目の の宿を、た 山三道くっ 高山街多あ これは天保四年 ( 一 0 に、御金宰領として江尸に四月二十八日ご三国峠の頂上に立って、越後国に第 妙中、もて るてみ場 向かった早川為四郎の『道中記』に拠っているが、 ぐ場並宿 一歩を踏み入れている ( 八木原通で渋川宿に出る ~ 宿め宿家う 山をのだわその後追分宿から中山道に入り、出雲崎を出発して 三国峠は、上州永井宿から越後浅貝宿まで三里の 関野初んぎ から十一日目に、江戸城内の御金蔵へ運び込まれて山道の中間にあり、両国分水嶺上に、白木の鳥居と 三社宮が建てられていた。この三社とは、上州赤 城・越後弥彦・信州諏訪の各一の宮を祀ったもの . 第一第 1 一佐渡奉行の赴任 で、三国峠の名前の由縁であった。上越国境は鳥居 道 の 佐渡奉行が二人制となり、江戸と佐渡とに分かれの真ん中にあたる。 荷 しようぎ て、一年交代で職務を分担するようになったのは、 久須美六郎左衛門は社前に床几を据えさせ、しば しようとく 正徳三年 ( ) からである。それ以来、佐渡奉行し上州・越後の山々を眺望したあと、股引はんてん ~ てらどまり あかどまり わらじ 江 ら は赴任するときは三国街道を通って寺泊から赤泊草鞋ばきの姿で浅貝まで下っている。駕籠に乗る 渡 に渡航し、帰府のときには小木港より出帆して出雲と、多くの人の苦労が大変であることを配慮したた 佐 崎港に上陸し、「北国街道」を通っていくことが定めであった。 ふたい 6 式とされるようになった。これは「北国街道」の負 浅貝・二居・三俣は、三宿と呼ばれる山間谷間の 関川関所跡ーー「北国 街道」信州境に設置さ れた高田藩の管理する 関所て幕府の規定て取 り締まりが行われた。 てんぼう ゆえん
にニライという赤布の冠をつけて、うしろにたら せんす し、振袖・だらりの帯・白足袋のいでたちで扇子を 持って踊る、京風の優雅な踊りである。 しいや 柏崎から椎谷・出雲崎間は、幕末から明治にかけ ての越後の石油ラッシュのころは、東山・西山油田 ゝ ) 、いたるところに石油採掘井戸のやぐらが林 立し、数多くの石油会社ができ、石油成金が豪勢を 極めたが、今は夢物語となった。 佐渡への渡津、出雲崎と寺泊 出雲崎といえば、すぐ思い出される良寛は、宝暦 なぬし 八年 (l?) 出雲崎の名主橘屋泰雄 ( 号以南 ) の長男 くさわけ に生まれた。橘屋は出雲崎の草分といわれ、中世の 駅鈴を伝える名門であるが、良寛はもの心のつくこ すいたい ろから、家運の衰頽をまのあたりにみなければなら なかった。 隣町尼瀬の新興勢力、京屋野口家との抗争が激し 、代官所が尼瀬に取られ、佐渡往来、とくに産金 輸送の事務も奪われ、京屋との訴訟に惨敗して家計 はますます苦しくなった。 父以南は学者肌で、家計を挽回する気力もなく、 よしゆき 家督を良寛に譲ろうとしたが、良寛は弟由之に譲っ あんえい びっちゅう て出家してしまった。安永七年 (IJY<) 備中玉島の 円通寺国仙和尚に従って玉島へ去り一〇年間修行し あんぎや かんせい たのち中国、九州へ行脚して、寛政十一年 (l し郷 里へ帰った。この間に父以南は京都桂川で投身自殺 日本海に沿う荒波よせる険路 ノイ 7
聚感園の西側にある昭明寺に、良寛が一時仮寓し た蜜蔵院がある。江戸時代の寺泊は港の繁栄は出雲 しらやまひめ 崎に奪われたが、白山媛神社には日本海を往来した きたまえぶね 北前船などの古い船絵馬が五一一点もあり、昭和四十 五年、国の文化財に指定された。 親鸞・恵信尼の出逢いの地 高田をあとに北国街道 ( この辺では五智街道 ) を北 に進めば、上杉謙信 (I 五三〇 ) の居城春日山が、す ぐ近くに見える。ついで五智街道の松並木を通る。 しかし並木とは名ばかりで、松の老木が道の両側に 二〇本ほど点在するだけで、大正時代にはチョン髷 をつけた俳優たちのチャンバラのロケーション場で あったが、現在は立ち枯れ、絶滅の寸前である。 やがて親鸞聖人 ( 一一壟一了 ) ゆかりの国府別院・越 しようげ・ん 後国分寺に到達する。承元元年 (8 七 ) 、聖人は法 たけうち 難にあって越後へ流された。国分寺内の竹の内草庵 たっきょ みよしためのり に謫居したという。謫居中に越後の豪族三善為教の えしんに 娘恵信尼 ( ~ 一一楚 5 ) と結婚した。親鸞は謫居七年で いなだ 常陸稲田へ去ったが恵信尼との間には子供が多かっ た。大正十年、恵信尼の子供らに与えた手紙が一〇よ 通も西本願寺で発見され、それまで親鸞に関する史 料不足のため越後での滞在が疑われていたが、発見 された恵信尼書状によって、親鸞の滞在を疑う者は なくなった。 現在の国分寺本堂は、天保十一一年八 ) の再建で 7
瑞泉寺一一 -- かっての井 波町は瑞泉寺を核にし た寺内町て、現在も残 る同寺の石垣は城砦都 市の名残てある。 古国府寺内町越中の国府のあった地である。南方にはこのような寺内町が多く見られる。 きようほう ほるい 享保期の『城端絵図』には善徳寺を核にして東 北朝期から戦国期にわたり土豪が堡塁を築いて住ん かみまちにしかみ あら かみよこ にしのげ れんじよう でいたが、蓮如が吉崎御坊にいたころ、子の蓮乗上町・西上町・荒町・上横町・西野下町・東野下 しん そうりんじ どやま はここに土山御坊を開いた。その後、土山御坊は安町・今町・大工町・新町・宗林寺町・下横町・袋 にししも ようじ しようこうじ 養寺村に移って勝興寺と改まったが、天正十二年町・西下町・東下町の名が見え、寺内町がつくられ ( ←し越中の大名佐々成政から古国府の地を寄進さていったプロセスを理解できる。町の地理的位置 も、池川・山田川の合流地点の台地上にあるため、 れ、ここに移り現在にいたっている。 勝興寺境内は周囲を堀、土手で囲み、内部には僧町は両河川による懸崖をめぐらし、内側には堀・土 侶・門徒の家が建ち、門徒商人・職人が居住して寺塁・藪をめぐらして防備していたようすが絵図の上 にはっきり見えており、一大城砦都市をつくってい 内町をつくった。古国府寺内町の住民は、領主から 労役を免除され、また犯罪者が逃げこんでも役人が た。現在でも、善徳寺境内には巨石を積んだ石垣が 勝手に町の中に踏みこむことができなかった。現在往時の威勢をしのばせる。 井波寺内町井波町も瑞泉寺を核に発達した一向 も寺郭の前面には当時をしのばせる水堀を残してい めいとく るが、右側には草に埋もれ、通路と見誤るばかりの宗門徒の都市である。瑞泉寺は明徳元年し、綽 らいしやく 空堀を確認できる。以前は水堀であったのだろう如が開いたが、文明年間に蓮如が来錫して越中の が、古い堀の形態をよく残している。 一向宗布教の中心となり、城端善徳寺・松寺永福寺 ぜんとくじ などとともに一向一揆の主導的な役割を果たした。 城端寺内町城端町も善徳寺を核にして発達した 当時、寺域には町家が三〇〇〇軒ほどあり、その周 一向宗門徒の城砦都市である。善徳寺はもともと、 じっえん 本願寺五代の綽如の曾孫蓮真の子実円が、砺波郡囲は堀や土手でかこまれていた。その後、佐々成政 りんじ ふく により焼かれたため、近くの北野村に移った。ここ 林寺村に開いた寺であるが、その子円勝の代に福 みつ らくいちらくざ 光村に移った。 では前田利長が楽市・楽座令を発令して、誰でも自 たまたま、城端の土豪荒木大膳は地域開発のため由に商いのできるようにした。それは、一向宗門徒 の市場独占を排除し、寺内町の経済力をおさえ、 に善徳寺を招き、寺内町の建設をはかった。当時、 寺内町ではいろいろの特権が許された・が、とくに税徒勢力を解体して前田氏に服属せしめようとするた の免除は商人たちを喜ばせ、遠くからも商人が集まめであった。瑞泉寺は慶長十八年 ( 一 , ) 現在地に移 り、市を起こし、定住して町々をつくった。近畿地った。 れんしん こくふ えんしよう あん るいやぶ しもよこ ひがし