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検索対象: 日本の街道3 雪の国 北陸
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1. 日本の街道3 雪の国 北陸

相川 0 。赤泊 出雲崎 柏崎 潟 新 新発田 赤谷 津川 会津若松 佐渡から江戸へ・御金荷の道 桑原孝 北国・三国・会津″佐渡三道〃 の港で陸揚げされ、厳重な警戒のもとに、高田から ほっこくかいどう 越後から江戸へ通じる脇街道 信濃追分に結ぶ「北国街道」を通って江一尸へ運ばれ 「佐渡島は、ただ金銀をもってつき立てたる宝の山ていった。そのため「北国街道」はいち早く整備さ おかねに なり。此金銀を一箱十二貫目入合せ、百箱を五十駄れ、御金荷が泊まりとなる宿場には御金蔵が設けら つぎたて 積の舟につみ、毎年五艘十艘づつ、能波風に佐渡島れ、御金荷を輸送するための特別な継立体制ができ 道 より越後のみなとへ着岸す。是を江城へ持運ぶ。おあがっていた。 山 中びただしきこと昔をたとへてもなし。」これは佐渡 越後の主要街道はこの「北国街道」のほかに、三 の金山で掘り出された金銀が、江戸城に運ばれて来国街道と会津街道 ( 会津通り ) の、合わせて三道が けいちょうけんもんしゅう 浄 ) の一節あったが、いずれも江戸と佐渡とを結ぶ街道で、佐 るようすを伝える『慶長見聞集』 (), 」を である。 渡奉行や佐渡へ向かう諸役人の通行や、佐渡への御 てんりよう あんえい 江戸幕府直 と用状の継ぎ立てなどに利用されていた。安永七年 江戸時代のはじめに、佐渡は天領 ( 下轄の領地 みずかえ なった。幕府は佐渡の金銀を手中に収めることが目 ( 七八から開始された、金山水替に従事するための 的であった。そして佐渡奉行として乗り込んだ田中無宿者の輸送には、一つの街道だけに重い負担をか りんばん 佐渡奉行の期 清六 ( 佐奉行の期間は慶長六 けないために三街道輪番の原則で送られていた。 ) や大久保長安 ( 間は慶長八 —十八年〈一六 一目」佐渡奉行の期間は元和四年 5 越後の主要街道である「北国街道」・三国街道・ 〇三—一三〉 ) や聿市左衛 ( / 尸寛永四年〈一六一八 5 二七〉 などの新しい経営法によって、おびただしい量の金会津街道の三道は、近世交通制度のなかでは、いず 銀の産出をみるにいたった。 れも脇街道に属するものであったが、脇街道のうち ごきんぞう 佐渡の金山で産出した金銀は、江戸の御金蔵に運でも、江戸と佐渡金山とを結ぶ道であったために佐 び込まれて徳川幕府の基礎を固める強力な財政的な渡三道と呼ばれて、五街道につぐ重要な脇街道の一 いずもざき 基盤となった。佐渡から積み出した金銀は、出雲崎つに数えられていた。 岡 泊長 鳥井峠 至白河 南山通り 高田ノ / / 町 日 湯 関川 野尻 峠 崎 渋高 三三国街道 光 日 北国街道 浅問山 △ 追分 至江戸至冫戸 くに 月出町教育委員会 み 762

2. 日本の街道3 雪の国 北陸

柏崎の番神堂 - ー - 日蓮 宗の霊場て、参詣者が 絶えない。堂宇は名工 篠田宗吾の作て、とく にその彫刻は精巧を極 めている。 の地であった。江戸時代には高田藩が支配した関所 おおさだ 淋しく死んだ大定の心 があり、佐渡産金江戸輸送の際の御金蔵があり、と ぼしん くに警戒堅固であった。北越戊辰戦争では長岡城攻 秋の夜は長いものとはまんまるな 月見ぬ人のこころかも 略の第一の関門で、会津、桑名と官軍との激戦地で ふけて待てどもこぬ人の ある。 ちょうきよう おとずるものは鐘ばかり 柏崎は古くは長享二年 ( ←し、詩僧万里集九 かぞふる指のねつおきっ 没年不明 ) がここを通り、戸数五、六〇〇〇戸と書 わしゃ照らされているわいな はうた き残しているが、はたしてどんなものか。上杉時代 これは有名な端唄「秋の夜」である。この作者はな あおそ おおさだ には直江津とともに、越後特産青苧の移出港であっ んと、佐渡へ流されて鉱山で働かされた大工の大定で っちたがね ある。大工といっても家大工ではない、鉱山で鎚と鑽 た。江戸初期、佐渡産金江戸輸送の要地として、大 ほだ をもって鉱石を穿り出す鉱夫のことである。 久保長安が監視所を置き、自ら多くの女性を囲い淫 大定の前身については何も知られていないが、彼が 楽をほしいままにした。彼の居館をごたくといっ よねやまけんぎよう 一夜孤島の西に浮かぶ月を眺め、江戸をしのびなが た。市内の長鳥村は勝海舟の曾祖父米山検校の出 うたぎわ 端唄の ら、心に浮かんだままを江戸の歌沢 ( ) の家元 身地で、彼は江戸へ出て成功したが、社会のために へ送ったものと伝えられている。 尽くし、全財産を投じて盲人学校を建てようとした 流人としての大定のやるせない望郷の心境を、この が許されず、宝暦の飢饉には郷里柏崎桑名藩の郷倉 哀調のうちに聞くことができるであろう。 三カ所の米を買い集め、村の窮民を救った。現在米 すずきよねわか 山検校に感謝の石塔が二基建っている。 和に入ってからは、寿々木米若の浪曲「佐渡情話」 がお光・吾作の物語として人口に膾炙しており、柏 天保八年 ( 一一し五月三十日、大坂の大塩平八郎の いくたよろず 乱に呼応したかのように、柏崎の国学者生田万が乱崎もその舞台となった。 を起こしたことは、あまりにも有名である。柏崎は 柏崎の山間地には、国の無形文化財に指定された えいしよう あやこまい 桑名藩の領地で、戊辰戦争の激戦地であったことで「綾子舞」がある。その名のおこりは、永正六年 代家感 ながおためかげ ひがしくびき 時嵐聚はた も知られている。 (&) 越後守護代長尾為景に攻められて、東頸城 倉十るにし ぶんえい ふさよし ごおりあまみず 鎌五え院寓 家伝蔵仮 市の西端にある番神堂は、文永十一年 (lß) 日蓮郡天水翁いしで自刃した上杉房能の奥方綾子が 旧と蜜時 おんる 跡の跡の一 上人が佐渡遠流を赦免され、たどりついたところ伝えた踊りであるところからきているという。踊 院泊敷隣が はやし 蔵寺屋の寛 で、篠田宗吾の建てた立派なお堂である。また、昭 り、囃子、狂言などで構成され、少女一一、三人が頭 蜜のの園良 てんぼう かいしゃ 7 イ 0

3. 日本の街道3 雪の国 北陸

、きすを辷 奉行以下役人の往来、それに鉱山を目がけて群がり かなほ 金銀の輸送路をたどる 寄る金穿りたちの往来でにぎわった。 げんな しずめ 天文 (l 砡 ) のころ、越後寺泊の商人によって 元和年間 ( 」一一五 ) 、鎮目市左衛門という奉行に よってできた金銀輸送路は、相川ー尼瀬ー高田を通 鶴子銀山 (\ しが発見されたのを機に、佐渡の銀は セド銀といわれ石見銀とともにポルトガル人に知ら り、信州を経由して駿府、江戸に達するものであっ けいちょう かんえい 一五九六 れた。やがて慶長期 ( —四四 ¯) 、相川では岩石のたが、寛永 ( ) のころから、人は三国山脈を うが おぢや 山のこ人 中を穿って銀をとる坑道掘の採用で莫大な銀を産出越える場合が多かった。小千谷からの舟運を利用し 度相とっ跡 島の夫負史するよ一つになる。 たのである。 質太け定 良宗請指 小木は島の南西端に位置する。海中に突き出した 佐渡は一国が金銀山のお囲い村供 ) として天 坑も、を国 しろやま 夫てて道 太中脈坑領となった。江戸と相川を結ぶ街道は金銀の輸送と五ヘクタールほどの城山と陸をつなぐ砂嘴に町があ 宗の鉱のの る。港は南向きの内の墹 C) と北向きの外の墹が あって、内の墹の方が浅く、古くは内の墹が使われ きさき 力いまの木崎神社の本殿が船待ちのための金銀蔵 ござ とされ、すぐその先に海中に出た突堤を御座の墹と 人は相川から陸路で小木に出たが、金銀は海路小 木に出ることが多かった。陸路は丸一日かかり、し かも五、六倍の人を要したからである。相川から江 戸に運ばれた金銀は、慶長ー元和ー寛永期で銀が一 一貫は三・七、 五キログラム ) 金が百貫、そのほかに砂金が 少々あった。 相川金銀山は量的には銀山だったといってよい ゞ金は小判に鋳造されて江戸へ運ばれる場合が多かっ たが、その額は一年間、およそ二万五千両ほどであ った。銀一万貫を両になおすと、およそ一五万両と なる。それを一三回ほどに分けて船積みした ( 渡風 佑休金 狸穴一 - ーーすわって体ひ とつだけ入れる試掘坑。 金穿りたちは音ひとつ しない静寂に堪えつづ けた。 てんぶん 759 ー一流人と黄金の島・佐渡

4. 日本の街道3 雪の国 北陸

はがせ船 ( 新潟能生神 社 ) 11 人乗り・ 25 反帆・ 450 石積みくらい。 この絵馬によって船型 構造が解明された。 北陸地方では不足材を背後の飛騨に求めた。 活躍も木材購入からはじまった。 飛騨天領後の奥羽地方などからの木材購入は、北 元禄五年 (lfi) 幕府は突如、飛騨を天領とした。 幕府が飛騨を直支配してから木材は、同国を分水嶺前船の活動分野を拡大するものであった。 により南北に分け、南方は飛騨川を下って尾張国熱 武家から転身した綿屋彦九郎 田白鳥港に、北方は庄川・神通川を利用して越中国 にいかわ 伏木・東岩瀬港に集め、この三港から江戸・大坂に 越中の木綿は、近世後半には新川木綿の名で知ら 輸送した。徳川幕府は世界最大の都市江戸をつくりれていた。自給的に生産された新川木綿は、寛政十 維持していくため、伊那谷・木曾谷の山々と木材を 二年 ()ä ) から信州松本に、文政十一年 ( 一一し以来 直支配したが、伊那谷は乱伐の結果荒廃してしまっ 江戸市場に登場したことから急速に農村に普及し、 かみいち た。木曾谷は元和元年 ( ~ し、尾張藩祖徳川義直上市・滑川・魚津・三日市・生地・入善・泊町など 第九しに与えていたので、飛騨から新しく木材を七カ所を中心として組織だてられ、文政年間に一〇 入手しようとしたのである。北陸地方では飛騨から〇万反の生産をもち、加賀藩領内の最大の商品とな 木材が供給されなくなったので、松前・南部・津軽っこ。 オこの新川木綿の原綿は、越中高岡綿場より供 / こはじまる から木材を求めざるをえなくなった。越中放生津・ 給された。高岡綿場は寛文十二年 ) し 氷見・伏木港などの海商が元禄五年から同八年にか といわれ、和泉国堺より繰綿を輸入していた。 けて、南部牛滝にて船を新造した史料があるが、そ 堺町には、文化年間 ( 一八 9 四 ) 高岡綿場に繰綿を れはこのためであった。 供給する問屋が、小山屋久兵衛など一一軒あった。 享保十一一年 ( 二し、越中高岡木町の材木問屋鳥山しかし、新川木綿が信州、江戸に販路を拡大したこ 屋善五郎は、加賀藩から前銀をうけ、越中放生津、 とから需要が激増したので、文政八年 ( 一し以来、 びんご びぜん 加賀橋立、越前吉崎・北潟・新保浦からの雇船で、 備後国福山・備前国下津井からも輸入した。その量 津軽宇田・蟹田・三馬屋 ( 三厩 ) 、松前江差、南部川 は三万本から三万六〇〇〇本 ( 一本貫Ⅱ五 ) に達 内から一万五二四二石の木材の輸送にあたり、そのした。これは「西廻り航路」を利用して廻送された 後も木材の購入にあたった。加賀国粟崎の木屋藤右ので、北前船の活動に大きな刺激を与えた。 てんめい この高岡綿場に綿の輸送にあたった海商は、越中 衛門も早くから木材問屋として活躍し、天明期 ( 七 八一 八九 ¯) には大船三〇艘を所有し、奥羽地方から木材放生津新町の綿屋彦九郎で、綿屋の屋号はそれに由 を購入して富をなした。銭屋五兵衛の海商としての来するといわれている。綿屋は、はじめ能登国守護

5. 日本の街道3 雪の国 北陸

飛騨鰤ーー昭和 55 年、 魚津市の鍼田商店て製 造されたもの。今はも つは。ら地元の歳暮用と してつくられている。 ただ、今もって〃絶滅〃はしていない。越中の魚 津には、昔ながらの方法で塩鰤をつくる店があり、 しの かっての飛騨鰤の面影を偲ばせてくれるのである。 牛も通わぬ冬の千国街道 北陸から飛騨・信濃へ送られる物資の輸送にあた ったのは、牛とポッカである。ポッカは人が自ら荷 物を背負って運ぶものだが、これが主な輸送機関と されていたのは戦国時代ころまでで、江戸時代には 牛の背に積んでゆくことが多くなっていた。 どしま うしかた 牛追いのことを、飛騨では度市参、信州では牛方 と呼ぶ。彼らは村ごとに組織をつくって活動したよ な うだが、なかでもその名を知られていたのは信州奈 がわ 川村の牛稼ぎであった。 奈川は野麦峠を下ったところにある村で、江戸時 おわり 代は尾張藩領で、尾張藩が牛追いをする者には鑑札 びしゅうおかふね を与えていたことから、尾州の岡船と呼ばれてい る。四〇〇頭もの牛をもち、信濃はおろか越後・上 降って牛が動けなくなったりしても、街道沿いの 野・名古屋・江戸まで活躍していたからである。 おうし 奈川では牡牛が使われ、牛方一人が五頭を追っ人々が助けてくれたが、それ以後は助けてもらうこ めうし た。これに対し、糸魚川・大町間では牝牛が使わとはできない決まりになっていたのである。 くつは 牛の足には藁で編んだ沓を履かせてやる。足を保 れ、牛方一人が六頭を追った。牡牛はカは強いが気 護するためである。これは一日一回くらいは代えて が荒く、牝牛はカは弱いが扱いやすいという。 ) 。小さな鎌で沓の紐を切り、 野麦街道では冬も牛が動いていたが、千国街道でやらなければならなし にじゅう は冬の牛輸送は禁止されていた。すなわち、二十新しいものとつけかえるが、これは牛方にとって熟 こゆき よんせつき 四節季の小雪の日が限度とされ、それ以前なら雪が練を要する作業の一つであった。 づ う 忍ぶ恋路の一里塚ーーー入山の御殿桜 にゆうやま 奈川村のいちばん北に入山というところがある ごてんざくら が、ここに御殿桜と呼ばれる立派な桜の木があって、 恋物語が伝えられている。 昔、ある武士が御殿女中と恋におちた。しかし、当 時は身分違いの恋は許されず、殿様に知れれば二人と も殺されてしまう。そこで、家老が二人を逃してくれ た。二人は手をとりあって入山まで来たが、食べ物が とほう なくなり、途方にくれていた。見かねた村人が蕎麦を 分けてやると、その礼に桜の実を差し出した。そし て、もしもこれが立派な桜の木に成長したら、二人は どこかで幸福に暮らしていると思ってくれ、といい残 して立ち去ったという。まいた実はやがて大きな木に 成長し、美しい花を咲かせ、誰からともなく御殿桜と 呼ばれるようになった。 二人の恋は実ったわけだが、この桜の木は、いわば いちりづか 幸福の道への一里塚になったといってもよいのではな 、かつつ一つ、か 0 ひも 722

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ら江一尸期にかけて作られたものといわれ、大ぶりのている。 うるし 部厚い木地にくすんだ暗色の漆がたつぶりとかけら 輪島の木地師は江戸時代からすでに専業化したた こうずか ひのき れていて、この素朴な木椀は、今日その好事家からめ、小屋掛けすることもなく、自分の家に材料の檜 あて ひどく珍重されている。 や樰の原木を運び込んでひいたのである。したがっ この合鹿椀の起源についても判然とせず、木地師て、ろくろの綱曳き専門の職人もいて、比較的安定 こうか がどのような経路で、なにゆえに能登の奥深い山あした営業をつづけることができた。弘化三年 ( 八 いに住みつき、ろくろをひいたのかわからない。し ) 、木地屋九郎兵衛なる人物が町中に家を求めた かし、一説に壇の浦で戦いに敗れ、能登に流された 借用証文に、間ロ三間半、奥行き九間と記され、比 たいらのときただ 平時忠 (L 七 ) の一行に従った木地師の集団と較的ゆったりとした屋敷規模のほどがうかがわれ も伝えられるが、いずれにしろ合鹿木地師は、江戸る。 そじよう ぶんきゅう 時代に輪島の木地師に吸収されたことは確かであ 文久三年 (*l<ll<l) の訴状に、木地屋佐兵衛という うにゆう る。 者が、輪島の西の鵜入村の山で椀木地のコロ切り 化政期 (— 一八〇四 ) には、輪島ではろくろ師が木地を積んで置いたところ、海士町の漁民がこれを数本 きじびきしさしものしぬ 師と塗物師に分業し、さらに木地引師と指物師、塗盜んで返さず、逆に斧でおどかされたので訴え出た 師と塗物商が分業化するのである。輪島塗の生産が ことが記されている。このささいな盗難事件にはそ 急激に拡大したためで、漆器行商人の影響によるもれなりの背景があった。山を持たない海士町の漁民 のとされるが、あたかも町全体が工場化したような は、藩から近くの山のホ工木を自由に採取してもよ 形態は、合鹿木地師を完全に押しつぶしてしまった いというお墨付をもらっており、これをたてにした ようである。 彼らには漁民魂の威信がかかっていた。一方、輪島 の漆器業を支える木地師には職人魂ともいえる誇り 道 山の民と海の民の争い があって、山の民と海の民のこの対決は、能登半島勿 輪島の木地師には厳重な徒弟制度が古くからあっ の複雑な地形の中ではぐくまれた異なった生活観を出 た。江戸時代には一三年の年季を務めなければ一人示す象徴的な出来事のように思われる。 の 前とされなかった。しかしその後、七年、五年、三 能 ちそう 参考文献「珠洲市史』第六巻「能登杜氏」文 年と短縮され、年季明けには親方から馳走がふるま 化庁編「木地師の習俗』 3 「輪島市 3 われ、紋付羽織が贈られるという慣習は今もつづい 史資料編」第六巻「輪島漆器資料」 ぬりものし だんうら おの

7. 日本の街道3 雪の国 北陸

たらい舟ーー杉材て作 られた楕円形のこの舟 は、小本の風物てあり また実生活ても魚介と りに使われている。 というから、一度に一万五千両ほどの金銀が ら、多いときは数百艘の船で港はうずまった。 船積みされたことになる。元禄一兀年 ( ←しの記録に 椿地蔵と奉行街道 よると、金は一箱に千五百両つめられていたから、 輸送用の箱は千両箱ではなかったらしい 小木から相川への街道は、小木道中と呼ばれてい じようおう 積み込む船は佐渡奉行所の官船であった。金銀のる。いまも承応二年 (lk) につくられた一里塚が 箱一つごとに三百尋の繩がつけられ、端にウキがっ のこっている。小木の一里塚には椿地蔵と呼ばれる つばきお けられる。海のもっとも深いところが三百尋あつ大きな石地蔵がある。椿尾村の石工、五兵衛の作品 た。だから、繩をつけておけば船が沈んでも金銀箱である。 こどまり いしきり のありかはわかるというもの。しかし、実際には幕 小泊、椿尾両村の石工は国用の余り近国に及 末まで一度も沈船は出なかった。尼瀬から江戸まで び、殊に石仏を造ることに巧にして、北陸七州 は継送りで、宰領役人が三人ほどっいていた。江戸 と羽州の海浜、村里迄も、彼の像至らざる所な 、時代というと、山賊が出没して物騒だから警固の役 し渡 ) 人がたくさんついているか、と思われるが、実際は 小泊と椿尾を合わせると、石屋は七〇軒にも及ん 数十頭の馬と馬方、それに宰領役人の旅だった。巡 だ。名工五兵衛の地蔵は七回も舟積みしたが、シケ 見使が八、九〇人 0 街道を来する 0 とくら〈て不で渡せず、 = = = さめたと」う。越中富山 0 廻船 思議なほど大きな差がある 問屋善次郎が、一度佐渡へ寄るごとに一体ずつ持ち ごひやくらかん 運んだという呉羽山長慶寺の五百羅漢もここの石で 金銀渡海場として生まれた小木は、寛文期 ( かわむらずいけん 三 ) 、河村瑞賢によって西廻り航路の中継地となるある。一里塚はさらに村山、小泊、西三川とつづ すがね と、海の道の要衝としてにぎわう。「女千両、男五 く。西三川は『今昔物語』に出てくる能登の鉄取 百両」といわれる小木町では、明治にはいっても りの黄金を稼いだ場所、一里塚は、小立・豊田とっ めしもり 七、八〇軒の家が島の各地の娘を養女として「飯盛づき新町にはいる。ここには本陣格の山本家があっ 女」に育てた。江一尸時代の遊女の数は公式には七四て、いまも奉行の休み札が玄関にかけられている。 人とあるが、一軒一人だけ登録して法を逃れたとい 相川の町だては、慶長八年 (81*fi) 、大久保長安の うから、伝えられるように四〇〇人前後の「飯盛手で行われた。石見国から派遣された吉岡出雲は、 女」がいたのであろう。とくに小木は、新潟へ米積播州赤石から番匠水田与左衛門を呼んで、陣屋の構 みに来る船が新潟入港の順を待って日待ちをしたか築をさせた。それがのちの佐渡奉行所である。江戸 ひろ かんぶん しんまち ノ 60

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中道通 街をた ) / 国田れ " 道値北高ら各 街町たはめ 、こ・乂 ー》ーしコし の今 近はて世に月 付てつ近う 田ま通、よ、、 高世をがる を手ナ攵 ホ田切弋天人 一 ( 五十れ 1 を人父 ニ + 八人 野ん 相原 / ッ ~ 滲け 沢市金石 ) や能登の親ノ湊龕島 ) を舞台にしての人全国的に街道と宿駅が整備されることになり、古代 身売買の話が出てくるので、直江津に限ったことで以来の幹線であった北陸道も、江戸を中心とする道 はなかった。説教節『山椒太夫』に、「直井 ( 江 ) 路網として再編成されることになった。北陸地方を 千軒」とその繁栄ぶりを表現しているが、直江津に通る主要な街道には次のようなものがある。 あお は越後の特産物である苧 ( 麻 ) の集散地として青 まず、佐渡は金・銀の産地として幕府の直轄地で わきおうかん 苧座も結成されていた。 あったから、江戸と佐渡とをつなぐ佐渡路は脇往還 室町時代中期の成立と考えられる、中世の海上法のなかでもとくに重視され、三通りのルートがあっ かいせんしきもく 『廻船式目』に、「三津七湊」としてあげられる七湊た。すなわち、会津通り ( 会津街道 ) と三国街道と もとよし みくに わじま ほっこく は、越前の三国、加賀の本吉、能登の輪島、越中の 「北国街道」 ( 「と区別するため、山道追分宿と越部田を結 いままち てらどまりいずも 岩瀬、越後の今町 ( 直江津 ) 、出羽の秋田、奥州津軽 この道は「北国 F) であり、佐渡への渡船は寺泊と出雲 とさ ぎき あかどまり の十三で、これらが北陸から東北地方にかけての日崎から、佐渡の小木または赤泊に向かった。 本海側の代表的諸港であった。本吉は比楽湊の後身 次に日本海沿岸を北上する本来の北陸道にあたる であり、岩瀬は『延喜式』磐瀬駅、直江津は水門駅ものとしては、中山道の関ヶ原から栃ノ木峠を越え で越後国府の外港でもあったなど、古代以来の交通て越前に入り、加賀・越中を通って越後の高田で、 の要地であったところが多い。 前記佐渡路の「北国街道」に合流する道があり、こ 陸路は古代末にすでにそうであったように不便れもまた北国街道 ( 北国路 ) あるいは北陸街道と呼 で、水路の補助的な役割をはたしたにすぎなかったんだ。越後では海岸を通る「浜通り」に対して、柏 しばた ようである。たとえば、商品の流通が拡大するにつ崎から長岡に出て新発田方面に通じる内陸路を「中 ばしやく れて、馬による専門の運送業者である「馬借」も、 通り」と称した。また、新潟から海岸沿いに村上に こうのうら 越前河野浦などに出現しているが、これも古代以来至り、ここから内陸の峠越えで鶴岡に至る出羽街道 の国府の外港にあって、内陸の越前平野との連絡を があり、その延長は陸奥は津軽半島先端の三厩に達陸 ずりゅう はかるもので、内陸では九頭竜川の水運がまた発するが、関ヶ原からここまでを総称して北国街道ま 達していた。 たは北陸街道ということもあった。 北国街道と山国の飛騨・信濃とを連絡する道とし ちくに 北国路と結ぶ街道の網 ては、飛騨街道や千国街道などが代表的であった 江戸時代になって徳川幕府が全国を統一すると、 が、飛騨街道は越中側からの呼び名で、飛騨側では おや からむし みんまや

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0 、義第 / を討 = メ参川 1 井宿を過ぎると、街道は妙高山の山裾をめぐって登担を分散するためでもあった。 りとなり、人馬の通行が難渋する。やがて、広々と 天保十一一年 (5) に三国街道を赴任した久須美六 はつが した高原の風景が開ける。現在は上信越高原国立公 郎左衛門祐明は、四月一一十三日江戸を発駕し、同三 園となっている。 十日に寺泊に到着している。途中、吾妻川の増水で 関山からは中山三宿と呼ばれ、街道の高度がいよ渋川宿に滞留しているので、実質は七日間の行程 いよ増していく。 関山宿には、関山・二俣・田切・ で、三国街道はずいぶんと近道であった。以下、久 上原・関川の各宿の馬が詰めて待ち受けている。一一須美六郎左衛門の書き残した『佐渡之日次』からそ 俣と田切、上原と関川は、それぞれ一五日交代で宿の足跡をたどってみよう。 役を務める、合わせて一宿扱いの小宿であった。関 江戸から三国街道を越後に向かっていくには、中 山からは、関川関所を越えて信州野尻宿まで継ぎ立山道高崎宿から分かれて、金古・渋川と北上してい おおたぎり てていくが、この途中にある大田切が、この街道一 く。途中、上尾・本庄・渋川・須川と泊まりを重 ' ま裾の挾賑 番の難所であった。 ね、渋川宿で滞留一日があったのを加えて六日目の の宿を、た 山三道くっ 高山街多あ これは天保四年 ( 一 0 に、御金宰領として江尸に四月二十八日ご三国峠の頂上に立って、越後国に第 妙中、もて るてみ場 向かった早川為四郎の『道中記』に拠っているが、 ぐ場並宿 一歩を踏み入れている ( 八木原通で渋川宿に出る ~ 宿め宿家う 山をのだわその後追分宿から中山道に入り、出雲崎を出発して 三国峠は、上州永井宿から越後浅貝宿まで三里の 関野初んぎ から十一日目に、江戸城内の御金蔵へ運び込まれて山道の中間にあり、両国分水嶺上に、白木の鳥居と 三社宮が建てられていた。この三社とは、上州赤 城・越後弥彦・信州諏訪の各一の宮を祀ったもの . 第一第 1 一佐渡奉行の赴任 で、三国峠の名前の由縁であった。上越国境は鳥居 道 の 佐渡奉行が二人制となり、江戸と佐渡とに分かれの真ん中にあたる。 荷 しようぎ て、一年交代で職務を分担するようになったのは、 久須美六郎左衛門は社前に床几を据えさせ、しば しようとく 正徳三年 ( ) からである。それ以来、佐渡奉行し上州・越後の山々を眺望したあと、股引はんてん ~ てらどまり あかどまり わらじ 江 ら は赴任するときは三国街道を通って寺泊から赤泊草鞋ばきの姿で浅貝まで下っている。駕籠に乗る 渡 に渡航し、帰府のときには小木港より出帆して出雲と、多くの人の苦労が大変であることを配慮したた 佐 崎港に上陸し、「北国街道」を通っていくことが定めであった。 ふたい 6 式とされるようになった。これは「北国街道」の負 浅貝・二居・三俣は、三宿と呼ばれる山間谷間の 関川関所跡ーー「北国 街道」信州境に設置さ れた高田藩の管理する 関所て幕府の規定て取 り締まりが行われた。 てんぼう ゆえん

10. 日本の街道3 雪の国 北陸

十日町雪まつり 国の新しい行事。雪の 芸術展や雪の舞台のき ものショーが華麗に繰 り広げられる。 る文人墨客も多く、その影響をうけた彼は、若年か しかし、著作の経験がなく、出版界の事情も知ら ら文芸に親しみ、俳句や書画に上達した。 ない彼だけではどうしようもない。しかるべき作者 牧之は十九歳のときに縮八〇反を持ってはじめて に素材を提供して協力を求めなければならない。彼 さんとうきようでん 江戸へ出、一一十七歳で伊勢参宮をした。雪のない世はまず、当時江戸で人気随一の小説家山東京伝 ( 七 界に接して彼は、いまさらながら郷里の雪深い生活 八一六 ) に頼みこんだ。京伝は牧之の熱意と題材の に感慨を覚えた。しかも雪国の実状を伝える書物面白さにひかれたのであろう、興味を示した。話は は、まだどこにもない。文才のある彼は、越後魚沼進んだが、版元に一〇〇両も入れなければと聞かさ の自然と習俗、また住民の生活の哀歓を、薄雪の地れては、さすがに牧之も引きさがらざるをえなかっ ばきん の人々に紹介しようと企てた。 た。ついで京伝の弟子で売り出し中の滝沢馬琴 ( 七 六七い一 ) に当たってみたが、ていよく断られた。し ぎよくざん かし牧之はあきらめず、その後さらに岡田玉山、 ふよう 鈴木芙蓉、もう一度馬琴と、依頼を繰り返す。半生 きようざん の苦心がみのり、京伝の弟、山東京山の好意的な 協力をえて、『北越雪譜』初編三冊を世に出したの てんぼう は天保八年 ( 一一しの秋であった。 刊行されるまで苦心があったが、売り出されると 雪の風土を描いた珍書として好評で、続編が待望さ れた。牧之は中風の床で執筆をつづけ、天保十二年 ) 、二編四冊を出版、翌年七十三歳の一生を終 ぼだいじ ちょうおんじ わった。墓は菩提寺の塩沢町長恩寺にある。長恩 寺の境内にはまた、 , 彼の遺品・遺墨を集めた牧之記 念館があって、訪ねる人が多い。 雪掘りと雪下ろし 鈴木牧之は『北越雪譜』の中で、 くら しよう へうへん 雪の飄々翩々たるを観て花に喩へ玉に比べ、勝 ぼっかく たと