立山 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道3 雪の国 北陸
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1. 日本の街道3 雪の国 北陸

「日本国ノ衆生多ク罪ヲ造リテ越中立山ノ地獄ニ 堕ツ」と平安時代の『今昔物語』にも記され、亡者 だじ のゆく山、亡霊に逢うことのできる山、そして堕地 ごく 獄の罪を免れるために登拝すべき山という信仰が、 広く民衆の心を動かし、全国から参詣者を集めたの であった。 修験者たちの足跡 白山・立山両山つづけて登った記録は数々ある。 どうこよノじゅこう ぶんめい 文明十八年 ( ←し道興准后は加賀国たちばなから州 浜川・弓波・仏の原・吉野川 ( 手取川 ) を経て白山 禅定し、能登石動山から越中に入り、岩蔵川 ( 常願 さんず 寺川 ) を渡り、三途川を越えて立山禅定を遂げ、も ろもろの地獄をめぐって下山した。その紀行は『廻 、 ( ~ ~ 国雑記』に収められた。簡単なものだが両山登山記 最古のものとして興味深い てんな おおよどみちかぜ 天和三年 ( 」 (i) 、俳人大淀三千風は魚津で旅装を 解き、立山禅定を志した。芦峅に宿り、翌未明、常 ふじづる 願寺川沿いの崖道をたどり、藤蔓の橋を、肝を冷や あまっ みだ して渡り、材木坂を登って天津原 ( 弥陀ヶ原 ) を越 くさり洋 え、一ノ谷の鎖場の険所を過ぎ、室堂に一泊 ( この きようほう 室堂は加賀藩の造営。現在も建築内部は享保十一年 ( 七 l,l) 、和八年 ( 一七 ) の風格をとどめた日本最古の山小屋聳 のりと である ) 。翌朝風雨止まず。風祭の祝詞を作ってさ さげたかいあって風雨和み、急峻な岩場を息も絶え を絶えによじ登って絶頂の神社にたどりつく。 , 」こで しゅじよう がけ

2. 日本の街道3 雪の国 北陸

白山遠望 - ーー白峰村西 山から望む秀麗な山容。 神仏分離に際し、山上 仏はこの白峰村の林西 寺に集めて祀られた。 を一簽 わたし じゃ 奇霊光 ( プロッケン ) を見て感涙にむせぶ。早坂か ら室堂に下りつき、地獄をめぐり、はるかに劔岳の 雄姿を見て下山、芦峅の神職の家にくつろぐ。今日 もケープルカー ハスを利用するほか、おおむね三 千風のたどった古来の禅定道のままで、地獄谷の噴 煙に見え隠れする劔岳も三千風の見たままである。 かごの 三千風はその後、金沢から白山本宮を拝し、籠 渡を越え、尾添村から白山禅定し、「九里八町、雪 なり 峰名所旧跡、別山地獄等、立山に同じゃう也」と記 した。 ぎよう ほうれき いけのたいが 宝暦十年 (AI(B) には画家池大雅が越前口から行 者姿で白山に登って加賀側に下り、富山から立山に 登り、『三岳記行』と題する興味深いメモを残し ぶんせい 。文政六年 ( 一一 0 には尾張藩士某が美濃口から白 山を極めて加賀側に下り、越中立山に登り、富士山 まで足をのばし、四〇日近い大山岳旅行を詳しく めぐり じっぺんしゃいつく 『三の山廻』に書きとどめた。十返舎一九もまた立 かねのわらじ 山・白山両山登拝を種にした『金草鞋』を文政十 一八二八に刊行した。 ともに神聖な山と仰がれた。その古代以来の神山・ 山名の由来と古道のなごり 霊山に、多数の修験者、無数の民衆が登拝し、禅定 白山・立山は古くはシラヤマ・タチャマと呼ばれ道ーーー信仰登山の道を現在に残した。その古道を こけ たどり、越前平泉寺の苔の緑、加賀手取川阿久濤の た。白山は名のとおり雪白き山、すなわち神聖なる そび 淵の青、そして越中芦峅の宮の立山杉の黒々とした 色の山。タチャマは聳え立ち、切り立ちたる山で、 同時に神仏の現れ顕ちたもう山の意であった。白山茂りをながめるとき、・山岳信仰の息づかいが今も聞 こえてくるかのようである。 はその山の色から、立山はその山容から命名され、 白山・立山の女人禁制伝承 とおるうば 白山下の酒屋の融の婆は山上で酒屋を開こうと考 え、酒甕を携え、美女をつれて登ったが、神罰で美女 は美女石に化し、婆の小便した地は裂けてシカリバリ よノ - いし の深い谷となり、甕は破れ、婆も婆石に化したとい とうろ 若狭の止宇呂尼は美女と童女をつれて立山へ推参し たが、またいだ材木は材木石と化し、美女は美女杉と 化した。童女がこわがると、尼は小便しながら「この しかりばり 意気地なしめ」と叱りつけた。小便のあとは叱尿と かむろ いう深い穴になり、童女も禿杉と化した。尼の投げ た鏡は鏡石となり、尼は姥石に化したという。 両山の女人禁制侵犯伝説がよく似通っており、止宇 呂・融と名まで似ているのが興味深い。これとは別 はは′」いし に、白山美濃道には開山泰澄大師の母が化した母御石 の伝説があるが、立山でもまた開山慈興上人の母が 「息子の登った山に母の登れぬ道理があるか」といっ て禁を犯したが、やはり姥石に化したという伝説があ って、いよいよ興味深い。 さかがめ ノ 28

3. 日本の街道3 雪の国 北陸

0 北陸路の山は、古くから高山峻岳に神 か宿るという山岳信仰の山々であった 「越のしらやま」と歌に詠まれた白山は、 越前・加賀・美濃にまたがり、平安初期 には、登山口である加賀馬場 ( 白山宮 ) 、 越前馬場 ( 平泉寺 ) 、美濃馬場 ( 長滝寺 ) か開かれ、その勢力を競い合い、かって は越前馬場が優位を占めたか、明治維新 後は加賀が主となり、現在に至っている 越中立山は、大宝年 1 七 9 ) に開かれた といわれ、室町時代は修験者の道場とし て知られ、江戸時代には多くの人々か信 仰と行楽をかねて登山した。このほか 越後一の宮を祀る弥彦山、米山薬師を祀 る米山、三国街道沿いの越後三山など、 北陸路の山々は信仰の対象であるものか 多かった。 36

4. 日本の街道3 雪の国 北陸

雪白く聳え立っ霊峰への道 白山と立山の信仰登山 古典に現れた白山・立山 りようじんひしよう 『梁塵秘抄』に これより北には越の国、夏冬とも無き雪ぞ降 するが る、駿河の国なる富士の高嶺にこそ、夜昼とも けぶり なく煙立て と歌われ、火を噴く駿河の富士山に対して、北陸 越の国の万年雪の山が印象強くとりあげられてい はくさんたて る。」陸の名山といえば、ゝ しうまでもなく白山・立 やま 山であるが、『万葉集』の「敬和立山賦」には「夏 しろたえ 冬とわくこともなく、白妙に雪は降り置きて」と歌 われ、その表現が『梁塵秘抄』の「夏冬とも無き雪 ふせつ ぞ降る」と符節を合わしている点も興味深い。同じ げんぶち ひんがし 『梁塵秘抄』の「験仏の尊きは」の筆頭に「東の しらやま 立山」、「すぐれて高き山」は「日本国には白山」 と、北陸の両名山がとりあげられ、白山・立山の名 が、院政期の民衆の歌声を集めたこの歌謡集をいろ どっている。 しゅげん 白山・立山ともに修験の山で、同時に庶民信仰の 山であるが、古代末から中世にかけて、修行の聖地 学」し たかね 廣瀬誠 富山県立図書館長 72 イ

5. 日本の街道3 雪の国 北陸

立山連峰と海 - ーー富山 平野の東に聳える立山 連峰は、夏ても雪をい ただき、北国街道を旅 する人々に、高い浄土 の世界を連想させた。

6. 日本の街道3 雪の国 北陸

ほしがれいをやくにおいかする石をのせた家々 からんとしたしろい街道を ふるさとのさびしいひるめし時だほそばそとほしがれいをやくにおいがする山の雪売りかひとりあるいている 板屋根に ( 田中冬ニ『ふるさとにて』より ) ふるさとのさびしいひるめし時だ 後立山連峰と黒部湖 立山連峰と後立山 連峰にはさまれて紺碧 の水を湛える黒部湖は、 黒四ダムによっててき た人造湖てある。 黒部の民家 - ーーー里部川 河口にひらけた黒部は、 越中早場米・部スイ カて知られる農業地帯 てある。 73

7. 日本の街道3 雪の国 北陸

白山一一日本三霊山の ーっ。万年雪をいただ く優美な姿は、古くか ら白山信仰を集め、多 くの人々に尊崇された。 可第を 立山は古 立山より 代から富士・白山と並 び日本三霊山の一つ。 雄山・浄土山・別山を 立山三山といい、雲海 の向こうに望み見る富 士とともに崇高てある。 越後三山 三国街道 の六日町から浦佐に向 かう東に聳える八海山 は、中ノ岳・駒ヶ岳と ともに、古来より、越 後三山と呼ばれ信仰を 集めた。 37

8. 日本の街道3 雪の国 北陸

、 0 ツに第 常願寺川タ景 芦峅寺集落 立山信 。を山に鎮まる神の猛くし 仰登山の基地てある。 て常願寺川を御手洗と かっては 33 坊が並んて せり」と歌われた暴れいた。今も宿坊村のな ごりをとどめている。 あくとふち べっさん 川阿久濤の淵で白山姫の姿を拝したともいう。両山地を経て、別山から頂上に至るもの。もとは各コー むろどう の登山路も、ほばこの開山の道筋をたどるわけだ。 スごとに室堂 ( 越前室・加賀室・美濃室 ) があった 立山登山道は、平野部では幾筋もあって、時代に が、現存の室堂は越前室の後身である。三馬場とも よる変遷もあったが、すべての道は常願寺谷に集ま 開基は泰澄大師と称し、それぞれ伝承をもち伝えて またち ってゆく。立山信仰の拠点は前立岩峅寺・中宮芦峅 いるが、本来は白山を望む各地から別々に発生した 寺両地に分かれ、両寺たがいに勢力を争ったが、と 白山信仰が、相互に影響しあい、越前の泰澄伝承に もに同じ常願寺川右岸の道筋に沿う宗教的村落であ同化したものである。 った。対岸の文珠寺・本宮を通る登山道もあったら 北アルプスの諸山脈が折り重なってそびえている しいが、それとて同じ常願寺川沿いの道であった。 ため、立山を平野部から望むことができるのは越中 信州側からの裏道も細々とつづいていたけれど、そ 側だけで、その信仰は越中側に発生したが、白山は れはどこまでも「裏道」であって、信仰基地を形成加賀・越前・越中・飛騨・美濃五カ国にまたがって そびえ、周囲の山々は比較的低いため、東海地方か するにはいたらなかった。 立山参道が一方面から開かれたのに対して、白山らも見え、白山信仰は大きな広がりをもったわけ を禅定道は三方面から開かれた。すなわち、越前 かりろ・′」 ロ・加賀ロ・美濃ロで、その登山基地、山岳信仰の 立山の伝説をみると、狩人の射殺した熊が仏であ ばんば 拠点を「馬場」と称した。越前馬場は九頭竜川にほ ったとか、立山権現が、狩人姿で現れたとか、山民 へいせんじ ど近い平泉寺で、ここから法恩寺山塊の峠を越え、 的・狩猟民的性格が濃く、海の伝承は乏しい。これ むろどう 手取川の市ノ瀬に下り、急峻な坂を登り、室堂を経に対して白山の伝説は、泰澄の両弟子、臥りの行者 きよさだ て頂上に達するもの。加賀馬場は手取川の峡ロ白山は能登島出身、浄定行者は出羽の船頭の出身、いず みにえ 本宮の地 ( この地形が立山常願寺川峡ロの岩峅に似ているれも海民である。加賀七浦から御贄を献じて大漁を さかのぼ おぞう ことも興味深い ) で、ここから谷を溯り、支流尾添祈るとか、航海のしるべの山として沖行く舟は帆を ひのしんぐう おおなんじ 川に入り、中宮・檜神宮から大汝峰を経て頂上御おろして白山を拝むとか、白山と海との縁は深く、 ながら ちょうりゅうじ 前に達するもの。美濃馬場は長良川沿いの長滝寺白山神社は海伝い浦伝いに越後から東北にかけて、 ちゅうきょ いしどしろ まっ で、ここから檜峠・石徹白っ年はイト ) 中居神社の港々に祀られた。 比較的閉鎖的な立山が、全国から注目を浴び、信 仰を集めたのは、その生き地獄のためであった。 ころ ふせ ノ 26

9. 日本の街道3 雪の国 北陸

白山比咩神社 の鼻も向かぬ」と畏れ られた加賀馬場の白山 本宮。今も神厳古雅な 風格を備え、人々の篤 い信仰を集めている。 立山雄山神社 - ーー一雄山 約 3 千メートルの絶項。 強風に備え石垣・屋根 石て守られた簡素剛健 な社殿は、万延元年 ( 1860 ) 加賀藩が造営し たもの。 こんじゃく としてこの両山を併記したものが多く、『今昔物つかの史徴から考えて、白山・立山は奈良時代末か げ・んころ・ 語』の僧海蓮の修行地、『元亨釈書』の僧蔵縁修練ら平安時代初期にかけて相ついで開かれたとみてよ いであろう。 地など、いずれも両山名連記である。『平家物語』 しらやまひめ もんがく なお、白山の神たる白山比咩神の文献初出は『文 は文覚修行の地一一カ所を列挙したなかに「白山、 にんじゅ おやま たけ 立山、富士の嵩」と三山をつづけて一グループとし徳実録』の仁寿三年 (ll<l 五 ) 、立山の神たる雄山神は ぜんじよう じようがん 宗教登山の て扱い、後世の日本 = 一霊山・日本三禅頂 ( ことを禅定 『三代実録』の貞観五年 (II<IAN) の条で、両神とも ゆいしょ えんぎしき または禅頂という。その山 『延喜式』に載せられた由緒ある神社である。両山 ) の観念の萌芽をみせている。 頂を禅頂ということもある わが国古代の文献に現れる山で二七〇〇メートルをへの信仰の道は、そのように古くから踏み固められ 超える高峰はこの三座のみで、まさに日本を代表すていたのであった。 こしじ る歴史的名山であった。 北陸の別称「越路」には美称・敬称の接頭語 「み」を添えて「み越路」ともいう。このような例 開山は奈良・平安か は、ほかに「み吉野」「み熊野」があるのみで、そ じ、」う たいほう 両山の縁起によると、立山は大宝元年 (\ 〇 ) 慈興の吉野・熊野が古くから山岳信仰第一の聖地とさ ようろう たいちょう 上人の開山、白山は養老元年 (l) 泰澄大師の開れ、修験の霊場とされたことを思えば、越路もまた ちょうじよう 山という。社寺縁起の年代はそのまま史実とは認め山岳重畳たる異郷的霊地と考えられていたのであ つるぎだけ にくいが、立山山中の劔岳頂上からも大日岳頂上ろう。その「み越路」修験の霊山が白山・立山であ しやくじよう っ ? 」 0 からも平安初期の錫杖頭 ( と 要重 ) が発見されて こうさい いる。『師資相承』に「越中立山建立」の康済律師 しようたい 霊山への道筋をたどる 八九と記されている。慈 が没したのは昌泰二年 ( 九 ) さえきありわか えんぎ ありより 興の俗名といわれる佐伯有若の自署文書は延喜五年 立山開山伝説では、佐伯有若 ( または嫡男有頼 ) が の いわくら しらたか へ 白鷹・熊のあとを追い、常願寺川沿いの岩峅・横 ({ 〇 ) の日付である。泰澄の署名のある写経の日付 てんびよう ちがきあしくら っ 立 は、天平二年 (8 三 ) である。白山に登った僧宗叡江・千垣・芦峅を経て立山に登り、神仏顕現の霊験 がんぎよう に遭ったという。白山開山伝説では、泰澄が白山神聳 と『三代実録』に記 が没したのは元慶八年 (ä八 ) おちさん くずりゅう こうにん りよういき 白 力の霊夢に導かれ、越知山から九頭竜川の東の伊野 す。弘仁 (S 一しころ成立の『日本霊異記』にはロ 雪 みどり おののにわまろ 賀郡の山々を修行して歩いた小野庭麻呂のことを記原、平泉の地を経て白山禅頂に達し、翠ケ池で神仏 2 し、白山信仰の外縁をのぞかせている。これらいくの姿を拝し、感涙にむせんだという。あるいは手取

10. 日本の街道3 雪の国 北陸

だった。人びとはこれをおがみ、旅中の無事ととも に、のこしてきた肉親の安否をきづかったことであ ったろう。 里塚からは白馬の山がみえた。つい数日前、山 は初冠雪をみた。まぶしく、きらきらとかかやく 嶺は、とつぶり夕日に染まりだした。わたしは、ふ と、『山姥』の話を田 5 っていた。 竟川は上流に上蹶肝をもっていて、上路は山姥が ようきよく 住んでいたことを伝えている。謡曲の『山姥』には 芭蕉もふかい関心をもった。芭蕉の句、「一つ家に 遊女も寝たり萩と月」の遊女は、『山姥』に登場する し・りびようし 白拍子が胸中にあったのだろうとされている。 とすると、かっては芭蕉もこの一里塚の木陰でや すみ、加賀藩の領内へと踏み入った感慨を深めたに げんろく ち力いなし : 『曾良随行日記』によれば、元禄年 ( 八と七月十三日 ( 旧暦 ) 市振立、とあり、残暑のき びしいころと思われるからである。 さじん 一里塚にたたすむわたしに、車の砂塵がはげしい。 いまは、すっかり歩きよくなった北陸の街道である。 と同時に、めつきり緑がすくなくなった。木陰も、 雑草もなくなった。 緑を失った幾筋もの道に、 いまも残るもの、それ は日本海のあらなみと、白山山脈や立山連蜂の雪嶺 である 一里塚の木陰にたつわたしに、ヒョがしきりに啼 いて、まだ行ったことのない上路の里を思わせるこ としきりであった。 白馬岳遠望 - ー - 白馬・ 杓子・鑓の三つの岳が 並び白馬三山という。 姫川沿いの千国街道か ら見る姿は優雅てある。 立山の秋ーーー立山の紅 葉は、 9 月に入ると頂 上付近が色づきはしめ、 10 月上旬には、室堂平・ 弥陀ヶ原、 11 月上旬に は山麓と移り変わる。 やまうは