輪島 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道3 雪の国 北陸
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1. 日本の街道3 雪の国 北陸

ら江一尸期にかけて作られたものといわれ、大ぶりのている。 うるし 部厚い木地にくすんだ暗色の漆がたつぶりとかけら 輪島の木地師は江戸時代からすでに専業化したた こうずか ひのき れていて、この素朴な木椀は、今日その好事家からめ、小屋掛けすることもなく、自分の家に材料の檜 あて ひどく珍重されている。 や樰の原木を運び込んでひいたのである。したがっ この合鹿椀の起源についても判然とせず、木地師て、ろくろの綱曳き専門の職人もいて、比較的安定 こうか がどのような経路で、なにゆえに能登の奥深い山あした営業をつづけることができた。弘化三年 ( 八 いに住みつき、ろくろをひいたのかわからない。し ) 、木地屋九郎兵衛なる人物が町中に家を求めた かし、一説に壇の浦で戦いに敗れ、能登に流された 借用証文に、間ロ三間半、奥行き九間と記され、比 たいらのときただ 平時忠 (L 七 ) の一行に従った木地師の集団と較的ゆったりとした屋敷規模のほどがうかがわれ も伝えられるが、いずれにしろ合鹿木地師は、江戸る。 そじよう ぶんきゅう 時代に輪島の木地師に吸収されたことは確かであ 文久三年 (*l<ll<l) の訴状に、木地屋佐兵衛という うにゆう る。 者が、輪島の西の鵜入村の山で椀木地のコロ切り 化政期 (— 一八〇四 ) には、輪島ではろくろ師が木地を積んで置いたところ、海士町の漁民がこれを数本 きじびきしさしものしぬ 師と塗物師に分業し、さらに木地引師と指物師、塗盜んで返さず、逆に斧でおどかされたので訴え出た 師と塗物商が分業化するのである。輪島塗の生産が ことが記されている。このささいな盗難事件にはそ 急激に拡大したためで、漆器行商人の影響によるもれなりの背景があった。山を持たない海士町の漁民 のとされるが、あたかも町全体が工場化したような は、藩から近くの山のホ工木を自由に採取してもよ 形態は、合鹿木地師を完全に押しつぶしてしまった いというお墨付をもらっており、これをたてにした ようである。 彼らには漁民魂の威信がかかっていた。一方、輪島 の漆器業を支える木地師には職人魂ともいえる誇り 道 山の民と海の民の争い があって、山の民と海の民のこの対決は、能登半島勿 輪島の木地師には厳重な徒弟制度が古くからあっ の複雑な地形の中ではぐくまれた異なった生活観を出 た。江戸時代には一三年の年季を務めなければ一人示す象徴的な出来事のように思われる。 の 前とされなかった。しかしその後、七年、五年、三 能 ちそう 参考文献「珠洲市史』第六巻「能登杜氏」文 年と短縮され、年季明けには親方から馳走がふるま 化庁編「木地師の習俗』 3 「輪島市 3 われ、紋付羽織が贈られるという慣習は今もつづい 史資料編」第六巻「輪島漆器資料」 ぬりものし だんうら おの

2. 日本の街道3 雪の国 北陸

= 『朝市と漆器の里島 - ① 輪島は能登半島の北端にあり、眼 前に日本海の荒波を望む港町だ。シ べリアから吹く冷たい季節風をまと もに受ける冬は、訪れる観光客も少 なく、寒さを忍ぶ町となる。けれど も冬にとれる寒プリやマダラは身が ひきしまっていておいしい時期であ る。 海の風がやわらぎ、北陸特有の黒 びかりする瓦屋根に春の陽が射しだ 根見 それも江戸時代までで、明治になっ る k 朝の七時ころからポッポッと集まその名を高めている。 す日 八時から十時までのピークには、潮風が香る町のあちこちには、輪てからは漁港の町となった。 光う朝市通りは一五〇人もの女性たちの島塗を作る店や売る店が多く、狭い 三国は、福井駅から京福電鉄三国 小さな店で埋まる。 ( 市は毎日開か市内には五〇軒ほどの漆器店を数え芦原線で、約一時間の終着駅。海に すと、そろそろ海に生きる女性たちれるが十日、一一十五日は休み ) るという。輸島器会館では、輪島面した町並みを歩くと、軒の低い古 はアワピとりに出かける。アワピと 塗の歴史と工程を見学できるコーナい民家や由緒ある寺々に出会う。海 ら りは夏が最も多く、日本海の舳倉島 ーがある。 ( 八時半ー一七時一一階岸近くには代々船問屋だった森田家 時 に渡ることが慣習となっている。 の漆器資料館内一七〇円谷〇七や油問屋の坂井家、藤田薬舗などが 輪島の朝市は、これらの漁民や海 昔のままの家構えで立ち並び、思わ 朝 あリ′ - 、 女が自分でとってきた魚介類を売る す時代のエアポケットに落ちる錯覚 の 島 市である。町を流れる輪島川の東、 その名も朝市通りは、作ったばかり ル頭冠川の Ⅱこ旧 , ・くノ、・ム・刀一オ ) 坊 。その呂 の干し魚や巻きプリ、コンプ、乾物輪島のもうひとつの顔に輸島港明 問麗の使者が 類などが並べられる。最近はこれにがある。起源は約一千年前ともいわ せ ーでと 加えて、手作り煎餅やワラ細工人れ、大陸人の渡来によって開かれた [ るこある。また、福月、」 る米を北海直の松」則 へ積み出す、 形、いも菓子などもゴザの上に顔をと伝えられている。類をみない堅牢 みせている。 」ーの出る港でもあった。しかし、 さと気品のある沈金彫りは、全国に

3. 日本の街道3 雪の国 北陸

見付島一一奥能登の内 甫、見付海岸にある。 弘法大師が佐冫度から能 登に , 度るとき、最初に 目についたところから 名付けられたという。 白米千枚田一一奧能登 輪島と曾々木の間にあ る。山裾が海に落ちこ む傾斜地を拓いた水田 て、実数は 2146 枚とい われる。 、ト膨物冱を第ら新 穴水 奧能登の民家 から輪島に向かう能登 = 井付近の民家て、紅 葉を背にした白壁が目 75

4. 日本の街道3 雪の国 北陸

七尾港ーー能登半島て は最大の港てあり交通 の要所てもあった城下 町。昔は所ロと称して 半島の表玄関てあった。 シオの重労働であった。海面から顔を出した海女あった。夫を失った海女たちは、毎年島渡りをする の、ヒューヒューと鳴るアマ笛は、労働の厳しさを とすぐに島の目印となるように海石を一つ一つ積み 訴える切ない響きなのである。 あげていった、と島の古老は伝えている。夫を失っ 島の周囲の漁場のことはハエとかマリアとか奇妙 た悲しみを込めた海女の手になる築島は、夕暮れの な一一一口葉でいわれ、いずれも共同で操業されるが、な入り日を背に美しいシルエットをつくる。明日は死 かでも一人の海女の胸の内にだけ秘められた特定の ぬかもしれない海の民の生活のシンポルであるがゆ 漁場をコメビッ ( 米櫃 ) と称して、稼ぎが必死なも えに、正視できないなにかが感じられてくるのであ る。 のであることを窺わせるのである。 えんぞう 獲れた魚介類は干物や塩蔵され、海士町では近年 能登木地師の源流 まで、秋の彼岸過ぎに船を家にして能登の内浦を回 り、長期間停泊しながら、ダンナバと呼ぶ農村地帯 能登半島の中央山間地帯の道を、古くは中通りと の得意先の家に魚介を売ったり、米や野菜と交換し称した。豊かな山林に囲まれた山の民の生活は、海 なだまわ みどり ていたといわれ、これを灘回りと呼んだ。また、輪に囲まれた半島とは思えないほど碧深々としてい 島の朝市でも露店をかまえて売るが、いずれにしろ る。そして、この山の民の中でも見逃せないのは、 販売は海女の仕事なのである。 能登木地師 ( ろくろ師 ) の存在である。 しつき 冬になると、若い海女たちは連れだって、加賀の 輪島は漆器の町として古くから栄えたが、その椀 旅館や料亭、温泉場のお手伝いとして稼ぎに出かけ木地を製作したろくろ師は、輪島周辺の山村に散ら た。人一倍気性が荒いと思われがちな海の女たちが ばって住んでいた。 女らしさをのぞかせる一面がある。冬の暇な折、夏 その起源については不明な点が多く、紀州根来寺 に使うサイジや仕事着に、木綿糸で細かな模様を刺の僧侶が、輪島の重蔵寺を訪れ根来塗の技術を教え して縫うサシコの技術が施され、その民芸的な美し たとも伝えられるが、輪島椀の形と塗は京都ろくろ さには目を見張るものがあった。 師の系統をひくものと目されているのである。 つきじま ゃなぎだむらごうろくむら 舳倉島の西端に築島という海石を積みあげた小山 能登の木地師のなかでも、かって柳田村、合鹿村 ごうろくわん があるが、舳倉島は最も高いところで一二メートル の木地師が作った合鹿椀は定評があった。不思議な という低い島なので、ほど近い沖からでも島を見失ことにこの合鹿椀は、ある日突然に消滅したのであ い、悲しい海の遭難事故があいついだという時代が る。現在残る数少ない合鹿椀は、主として室町期か 輪島塗椀の制作と輪島 塗ーー - 多湿な風土は塗 物制作に適しているが、 確かな技術の奥に能登 人の黙して語らぬ忍耐 の歴史が秘められてい ねごろ

5. 日本の街道3 雪の国 北陸

輪島港ー - ーかって八十 八夜に島渡りをしたと いう海女の根拠地海士 町は港に接した狭い土 地に幾代も生きてきた。 ほうじよう んらかの豊穣をもたらす神や仏、異人が訪れても がも」とあり、沖つみ神と称した舳倉島ですでに鮑 えいろく 不思議ではなかったにちがいない が採られていたことを記している。ロ伝では、永禄 かみざぐんかねがさき へぐらじま 十二年 (*l( し、九州筑前国 ( 福岡県 ) 上座郡鐘ヶ崎 はくいぐんあかすみむら 舳倉島のアマオトメ の漁民数名が、能登の羽咋郡赤住村に漂着し、以後 能登の海に生きる人々の間に「加賀のかからく、 磯づたいに北上して、現在の輪島辺りに借家し、定 能登のととらく」という言葉がある。加賀では亭主住したと伝えられる。 かんえい がよく働き、女房は家の奥で品よくおさまっている そして、寛永一一年 ( 一一 0 には加賀藩に熨斗鮑を献 約三三〇 が、能登ではおやじは漁から帰れば酒を飲んで寝る上し、慶安二年 (k) に藩から一〇〇〇歩 ( / 〇平方メ レ だけなのに、女房は魚を選り分け、木箱やザルに入 ト ) の土地が与えられた。 れて背に担ぎ、振り売りに出かけ、田畑や家事をき 舳倉島の海女のことを、古くはアマオトメと呼 りもりして、とにかく四六時中よく働くという意味び、潜水能力のある海女をジョウアマと称して、一 である。 日約十貫三響しの水揚げ量をものにしたといわ なかでも、能登のととらくの代表は、輪島の海女れる。舟に乗らず磯近くの浅い海に潜る若い海女 の生活である。 は、大きなカチカラオケを持っことからカチカラア あままち 能登半島の外浦に面した輪島市の一郭に、海士町マと呼ばれている。 という漁師町がある。この海士町の人々は、かって 海女の悲しみを語りかける島影 八十八夜を過ぎると、こぞって輪島の沖五〇キロメ ートルの海上に浮かぶ舳倉島に島渡りをし、秋の彼 海女は、昭和三十年ごろまで、サイジと呼ぶ下帯 岸過ぎまで島の周囲の魚介類を採って生活してい のみをつけた裸体で、腰にハチコという重りの綱を つけ、オービガネと称する岩から鮑を起こす道具を の 主に鮑、サザ工、海藻のエゴ草を潜水によって採手に、頭に水難除けのまじないである大の字を書い いのちづな るのだが、命綱を握る男は船上で待ち、海女が水たハチマキをしめて潜った。 出 深二、三〇メートルまで潜るのである。 一回の潜水をヒトカシラといい、海上では三〇秒適 の 能登の海女の歴史には不明な点が多く、大伴家持ほど休み、その間呼吸を整え、息を充分に吸って再 能 の万葉の歌に「珠洲のあまのおきつみかみにい び潜る。二五カシラつづけて暖をとりに陸や船に上 ひと わたりてかづきとるといふあはびたま いほち、も がるが、これを一シオと呼び、一日に三シオから五 あわび へぐらじま けいあん

6. 日本の街道3 雪の国 北陸

っ でつ。次。れ子など一二、 三種類を細かく刻んでちはこのころ島にやってきて、十月島の朝市でも売られている。 かわのわら ・かい一世よ、 オし、るら ダシと一緒に煮る。そうすると、自ごろまで海に潜ってアワピやササエ・高田のあめ十返舎一九の「金草 し人ま熊。にまでべめ カ う、つをるう、つ廡食ほ 然に具にとろ味がでて、おいしいのをとる。水深一〇 5 二〇メートル近鞋』の中に「評判は高田の町に年を 実いが餅あよもりでも でと夏たもるのつんに く潜ってとられたアワピは、輪島で経て、豊かに住める水あめの見世」 っぺい汁ができあがる。 粒。八初せのれもカめ九 新ら混もらいイう一 昔は、冬が来る前に一度にたくさ料理される。「いしる」という、新鮮とあるように、昔から高田のあめは 。し村かをた作たるそ舎 るい吉春ぎめ中冷す力返 ん作って、かめに入れて保存しておなイカやイワシの内臟を発酵させておいしいことでっとに有名。粟あめ、 いおの。も温年。徹イ十 ても藩うよ ーるをや、富 いた。椀に盛った冷たいのつべい汁作ったしよう油に似た調味料で蒸す。笹あめ、翁あめなど種類も多い。こ って山いのてはあ夜身は豊 がけ - 冨とりし ) が。 刺めもも美味。 すると、磯の香りをつつんだおいしれも越後でとれる良質の米のためで 徴広つ。たか蒸最味す。あ類 い独特の「蒸しアワピ」となる。輪ある。 がをのつばで、ろだるの種・イカ佐渡の夏はヤリイカの漁が 畑増引作たろがとれげ田ど う味いていいだなとあ高な盛ん。裸電球をつけたイカつり船が、 特き 2 さ芽、も自力酌判あ夕暮れどきに出て、闇夜の水平線に陸四未子の外不り っ焼保酵、はる、イを評翁 その光をまばたかせる。船は夜明け らを享発てでわりリカで なマ、然っ内伝入ャイとめ になると港に戻ってきて、とれたヤ・もっそう祭 ( 久手川町一一月十六日加賀市大聖寺町 ) ( リこあ 大ナく自使市てが 広や古にを潟し具でヤい笹 氏子の若者数十人が裸姿で手に五 リイカを陸にあげる。だから、イカ日輪島市 ) にのは代米新との海なま ロも源時 理類本鮮うめ め 三〇〇年間つづいている奇祭。輪メートルもある青竹を持つ。それを 刺やイカそうめんは朝食べるのが新 河け起いしの料種日新らあ 、叩きあって割る。 S つのないも月ロと、か粟鮮。佐渡では朝や昼の食卓にイカ刺島塗の未の椀に、三合の米を一度に互いに打ち振り しのおだ正 ~ る朝代 味 竜りす酢のんのになの時る がでる。 盛って食べるもので、食べきれないやがて拝殿にかけあがり、大蛇にな 頭おすだ後る陸。に日戸い ぞらえた綱を引きすり回し、最後に また、お土産用には、イカの生干 国九てまま越く北た夏の江て しや白造り、塩辛など種類も豊富。 第感。べ祭大聖寺川に投げ捨てるという珍しい の 食奇神事。災難疫病から逃れる意味があ 合店 こちらは身の厚いマイカを使ってお な店 り、参拝者は青竹を持って帰る。 柔らかい身に定評がある。 雪話Ⅱす 港商 のな 木で門 協幻す ・報恩大授戒会 ( 永平寺四月一一十 ・アワビの蒸し焼き輪島から船で 産一ま一 や物左 盛れ三日 5 一一十九日永平寺町 ) 特メ 約二時間はど北上した紬倉島は、初 山け 浜一ト一仙一家一港産孫一 道元禅師の開基による永平寺は、 里祐工し舎津土橋 三マよ田両の高 人が多いという。加賀藩時代、厳し曹洞宗の大本山。七堂伽藍を囲む老 ビい年貢の取り立てに雑穀しか食べら杉は樹齢七〇〇年を越え、幽谷の趣 アれなかった村人が、人里離れた森のをたたえている。授戒会は、一般の 蒸中に小さな隠し田を作った。そして、男女を問わす、信徒を中心として修 よ 汁カめ そこでとれる米を役人の目を盗んで行させる行事。 きしごいイあ ・つぶろさし原神社・草刈神社 つずんべのの 年に一度、たらふく食べたことには 料らすだっ渡田 両神社とも六月十五日佐渡を茂 花ま笹の佐高夏になると山のない島一面に ( マヒじまると伝えられる。 り ( 菅生石部神社一一月十町 ) ・竹割祭 ルガオが咲き乱れる。輸島の海女た 電 理 ド :

7. 日本の街道3 雪の国 北陸

舳倉島 能登の道は出稼ぎの道 海の民・山の民の苦楽 杜氏が仕事先で病気や怪我で倒れると専用に運ぶ籠 出稼ぎを強いる厳しい風土 までが用意してあり、能登杜氏は大切に扱われたの 夏の能登は風景も人々も穏やかでやさしいが、冬である。 とどろ の能登は日本海の荒波が轟き、雪をともなう冷たい また、輪島や門前町の漆掻き職人も越中、越前、 きび 季節風に連日吹きさらされる過酷な風土となり厳し美濃、信州地方の山間を回り、木挽や木へぎ師な かった。そして農業も漁業もできない人々は都会へども同じく出稼ぎに赴いたといわれる。ちなみに本 でかせ そうめん 出稼ぎにでる。能登の出稼ぎの歴史は古く、「能登来は輪島の「素麺歌」だったのが、遊女お小夜の悲 ふゅべもん むぎやぶし ごかやま の冬部者」の言葉が藩政期の古書にみえる。 恋の歌「麦屋節」として、越中五箇山に伝わったの かって能登の人々が故郷を離れ、街道を歩いて遠は、この種の職人集団によってであった。 ふなきべ 地へ赴いたのは、多かれ少なかれ、みなこの出稼ぎ 能登の木挽には、はるか古代の船木部の伝統が根 こくしゅおおとものやかもち のためであって、したがって能登の街道は「出稼ぎづいている。越中の国守大伴家持が歌った「とぶ 街道」といってもよいほど生活に密着した道であっ さ ( 鳥総 ) 立て船木伐るといふ能登の島山今日みれ かむ ば木立ち繁しも幾代神びぞ」 ( 『万葉集 ') のよう とじ そまびと とうじ。酒造 に、船材伐り出し専業の杣人が往時から活躍してい りのかしらかあ ) る。《月 出稼ぎの主なものに杜氏 ( ′」うしゅう せいしゅう 登杜氏は江州 ( 滋賀県 ) や勢州 ( 三重県 ) あたりのた。そして近年まで、能登の木挽は加賀越前の白山 造り酒屋で冬の間のみ酒造りエ人として働くもの山麓に出稼ぎし、地元民から「のとのしゅう ( 能登 ぼんおど ねかた で、江州では「そろそろ今年も能登がん ( 雁 ) が渡の衆 ) 」と親しまれ、盆踊りには能登の民謡「荷方 ぶし みのかさ ってきたわい」といわれ、能登路から北国街道 ( 北 節」を歌い、顔に泥や灰を塗り、蓑や笠をつけてお 陸街道 ) に出て七泊八日の旅程であった。その杜氏どけて踊ったとも伝えられる。 を受け入れる周旋屋は「部屋」と称され、部屋には このような能登の衆は、それだけ生活のための稼 曾々木海岸 輪島 0 0 内浦 = = 能半島一 琵登島 富来 0 赤住。 4 羽咋 0 ー氷見、富山湾 0 高岡 0 富山 能登外浦の風景ーー - 旅 人の目を奪う荒々しい 風景の美しさとは裏腹 に、海辺に住む人々に とっては過酷な風土て もある。 へや うるしか 小林悪雄 石川県立郷土資科館 、」びき かご

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富来町の町並み - ・一 - 藩 政期に北前船の船問屋 て栄えた海岸の田丁には、 古くから寄り神の祭り が伝承されていた。 おおたよりちか その最古の本に安永六年 (lß) 加賀藩士太田頼資 能登「麦屋節」の道 なる人物によって書かれた『能登名跡志』なるもの おちうど があり、これには当時の村人の話す伝説の数々が多 越中五箇山の「麦屋節」は、平家落人によって伝え そうめん られたというが、その源流は能登輪島の「素麺歌」で く載せてある。 ひょうちゃく 1 一六八八 あるともいわれる。また一説冫。 こま、元禄年 ( —一七〇 なかでも、海浜に漂着した神仏の伝承がとくに みなづき 四に能登の門前町皆月の遊女お小夜が加賀藩士と事 目立ち、これまでにこの波間を漂い寄り着いた神仏 件を起こし、流刑地である五箇山に流されるという悲 の数は、半島全体で百カ所以上も確認され、海に囲 恋の末、庄川に身を投げたという伝説にちなむとする まれ接して暮らす人々の心意を現して、半島の特徴 ものもある。 をよく物語っている。 いずれにしろ輪島と五箇山を結ぶこの哀歌の背後 ほ、フじよ、つ に、なんらかの伝播経路が考えられ、それは輪島地方 海の彼方から訪れる豊穣の神々 の漆掻きや木羽へぎ師、木挽といった山樵関係の出稼 とぎ ぎ職人か、あるいは能登の塩鰤を売る商人や能登の揚 ロ能登 ( 能登入り口 方 ) の海に面した富来町では、毎 はっさく げ浜塩田の塩を運ぶ人々が、塩街道に沿って伝えてい 年九月一日に八朔祭、別名「くじり祭」と呼ばれる じとう りよよノけ・ ったとも考えられる。 あなみうるち 祭礼が行われている。その昔、富来の地頭町と領家 能登の穴水町宇留地には、越中五箇山から運ばれた いしうす 町のおやじさんとおかみさんが浜に漂着した御神体 という石臼の伝承があるが、奥能登と五箇山は途中、 を見つけ奪い合ったが、おかみさんが御神体をしつ 海路を利用することによって比較的近い場所として人 の往来があったにちがいないのである。 かり抱いて離さないので、おやじさんは女性の最も 敏感な部分をくじり、奪い取って八幡神社に逃げ込 型定置網があった。あるとき、酒樽に乗った神様が んだという伝説である。 浜に打ちあげられ、東と西の漁師が自分の網の豊漁 ほかにも桃の木や葉付大根、俵藻、ワカメ、蛸、 でんしよう かめわに 亀、鰐に乗った神々の伝承が各地に残されている。 を期待して、酒樽を奪い合ったと伝えられている。 富山湾に面した内浦の海岸の村々も漁業で生計を今でも、村の若者が下帯一つの裸体で早春の海に飛 たてているが、やはり海からの豊かさを求める人々び込み、酒樽をとり合う祭りを行っている。 このように、半島の奥深く海に接して暮らす人々 の祈りには強いものかある。 さかだるまつり のとふじなみ にとって、陸路からはなにも至福をもたらす神々は 能都町藤波の毎年四月二日の祭りは、酒樽祭と だいあみ 呼ばれ、昔、この村に東と西の二つの台網という大来ないが、日々ながめつづける海の彼方からは、な あんえい たこ ごかやま しおぶり 7 - / 0

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ミックに一組六人で、入れ替わり立米つきをする。ついた米は蒸され、 甦能 を芸ち替わり乱れ打つ。 ( 五月 5 十月ま握り飯にして供える。その後に、境九州と京を結び古来より文罌 姿土 播の道であった瀬戸内海に面す ての金、土曜の夜八時半から輪島川内に集まった群衆とともに踊りだす の郷 る山陽道、そして日本海を挾み 代の河畔に建つ輪島屋本店の広場て見学というもの。 古渡 ながらも朝鮮半島の影響を受け な佐てきる ) て独特の文化を築きあげた″神 ・麦屋祭 ( 城端別院九月十五日 5 第 ~ かる 話の国々な山陰道ーーーー古代の国 ) ( らせ 十六日城端町 ) 一大ら 家形成に大きな影響を及ばした 約八〇〇年前、五簡山に逃げのび中国地方の歴史の道を訪ねます。 ひょうきんな男と女の面をかぶつ 太た平家の落人が、慣れない農耕の合 年 9 月日発売予定 次回配本 た踊り手が、土地の言葉で歌いなが 陣間に唄い踊るようにな「たといわれ第 6 巻 ら踊る。赤い花柄の着物のすそをは る「麦屋節」。一説には能登輪島の遊 名 だけながらの太神楽で、子孫繁栄を 女お小夜によって伝えられたともい 夢誘う山陽山陰 はうふつ 祈るもの。大らかな古代の姿を彷彿 われる。哀調のある節まわしと相ま 山陽道吉備路安芸路 とさせる奇祭。昔は門外で踊ること ・魚津祭り ( 魚津市八月七日ー九つて、勇壮で風格をそなえた踊りは、 出雲路長門路 責任編集・谷口澄夫 ( 兵庫教育大学学長 ) が禁しられていたという。 きびきびしたものである。 ・あばれ祭り ( 八坂神社七月七日 日本海に面した漁巷の町にふさわ・筑子祭り ( 白山宮境内九月一一十 ・主な内容 ー八日能都町 ) しタ りで、海の守護神を祀る行事。六日 5 一一十七日平村上梨 ) 街道小史谷口澄夫 今から約三〇〇年前に流行した疫一〇メートルの大柱にたくさんの提古くから後醍醐天皇の慰霊祭とし 明治維新への道有元正雄 病を退散させるため京都の祇園社か燈をつけて、若者たちがそれをかってつづいてきた秋祭り。祭りで演し中国路の城下町河合正治 ら牛頭天王を勧請したことにはしまぎあげて練り歩く 。町には、せり込られる筑子踊りは、ササラ ( 竹の先吉備の古代路臼井洋輔・根木修 らにう・つ′、」れレ一 金毘羅往来柴田一 る。高さ七メートルもある奉燈 ( キみ蝶六踊りの流しも繰り出して、たを割ってたばねたもの ) や筑子 ( 二 リコ ) 、四〇本以上が町を練り歩き、 いそうな賑わいをみせる。 本の竹の棒 ) を持って踊る優雅なも平家滅亡への道石田善人 出雲風土記の道内藤正中 一一基の神輿を海や川、火の中に投げ ・ひょう児の米 ( 布久神社九月の。祭りの両日は筑子踊りのほかに、 信仰の道・大山道齋藤伸英 込んであばれまわる。闇夜の海がキ十四日丸岡町 ) 獅子舞や民謡も競演される。 山陽鉄道太田健一・桑田康信 リコの明りを映しだす、夏らしい郷、天正四年 ( 一五七六 ) に柴田勝豊 ・いどり祭り ( 菅原神社十一月一 長門路・山陰路松岡利夫 土の祭りである。 によって築かれた丸岡城のある丸岡日 5 七日能登町鵜川 ) 東城往来鶴藤鹿忠 ・名舟御陣乗太鼓 ( 名舟七月三十町は、江戸時代、北国街道の宿駅を その年の当番になっている男子が 中国路・文学の旅山本遺太郎 一日輪島駅からバス一一五分 ) 兼ねていた。この町の布久漏神社につくった一メートル以上の大鏡餅に 鉄と塩の道土井作治・渡辺則文 上杉謙信が能登半島に攻め込んだは四〇〇年以上もつついている奇祭対して、当番以外の者がなにかと難 高梁川の舟路富岡敬之 ときに、これに対抗する武器をもたがある。収穫を祝、 しネに感謝するくせをつける ( いどる ) 。争いはし ・カラー ない村人が、木の皮で面を作り海藻祭りの一種といわれ、家々の青年がめたところに神主が仲裁に入って、 随想杉本苑子藤原審爾 の髪をふり乱し、太鼓を打ち鳴らし下帯一つの素足で神社に集まり、歌めでたしという珍しい祭り。 街道のうた / 山陽道・山陰道 て撃退したことに由来する。ダイナに合わせて臼のまわりを踊りながら ( 旅行ライター・萩田佐智子 ) 4 第物を 日 )

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日本海に大きく突き出る能登は、北陸道の 陸路幹線からははすれるが、海上交通ではき わめて重要であった。渤海国の使船が到着し たのも多くは能登であったから、奈良時代に は半島の先端まで駅路も通じていた平安初 期に駅路が廃止されてからは、平野の開ける 半島基部のロ能登は別として、山が海にせま って平地に乏しい奧能登は避遠の地と化した が、それだけに古い民俗などがよく残ってい る。近世も陸路は不便であったか、海岸では 揚浜塩田で塩が生産され、遠く飛騨などの山 間地に送られ、また西廻り海運の発達ととも に、半島の先端部に位置する寺家や輪島が 日本海航路の主置な寄航地として繁栄するな ど、能登にとって海上交通が果たした役割は 大きい 能登 よド . をんツ 1 第 ・れ第ノ丿