雪 - みる会図書館


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1. 日本の街道3 雪の国 北陸

越後の冬ー一晩秋のし ぐれにはじまり、冬に なると連日雪が降る。 稲架にするため畔に植 えるハンノキも、やが て雪に埋もれてゆく。 暖かい地方の人々にとっては雪は楽しいものだが、雪 国の人々にとっては、雪ほど恐ろしいものはない北陸 路は気候の関係もあって、越前・加賀・越中・越後と北 に行くほど雪は深くなることに、これらの国々は、脊 4 梁にニ千ー三千メートル級の高山か国境を閉ざし、人々 は雪に悩まされた。文化年問 ( 2 四 ) 、越後塩沢の鈴木 牧之が著した『北越雪譜』には、この畤代の雪の害がよ カんぎづく く現れているし、高田などに見られる雁木造りの町並み は、降雪期に行き交う人々の道を確保する雪国の人々の 知恵だった。しかしこうした雪も、平野を一面に銀世界 とし、古くから越後上布を織り出し、小千谷縮・塩沢お 召の産地となった。また能登では「波の花」が舞い散っ 六日町一一一魚野川流域 の六日町盆地の中心て、 中世は長尾政景の城下 町。江戸時代は三国街 道の宿場町として栄え

2. 日本の街道3 雪の国 北陸

小千谷縮ーー - 伝統の技 術を生かした軽くさわ やかな肌ざわりは、夏 の衣服の王者。古来の , 。を、 技術は国指定文化財。 された。 年始も気分を新たにするものだけれども、婦人や子 こしよう 原料の麻糸は、乾燥すると切れやすくなる。魚沼供たちには、むしろ一月十五日を中心とした小正 がっ の冬は、深雪ではあるが、それほど寒冷ではなく、 月が、ゆったりして楽しい とりお 湿度が高い。縮の工程に適合しているのである。し そのメーンである鳥追いは、十四日の夜に行うと かも雪のため田畑に出られない女子の労働力があころが多い。家の前に雪を積んで鳥追櫓や雪ん堂 はたおり る。機織の上手・下手が嫁選びの第一の条件とさ ( 華 ) をつくり、子供はここに集まって餅を焼いた れ、娘たちは互いに技をきそった。幕府からの注文り遊戯をしたりする。ときどき「あの鳥や、どこか おはたや しなぬ などには、別に御機屋を建てて神に仕えるようにし ら追って来た、信濃の国から追って来た、何を持っ はたおりおんな か しばぬく て織った。織婦のさまざまなエピソードが『北越て追って来た、柴を束べて追って来た、芝の鳥も河 雪譜』に語られている。 辺の鳥も、立ちゃがれ、ほいほい 」など「鳥追歌」 ひょうしぎ 織りあげた布は、日もようやく春めくころ、積も を歌い、また拍子木に合わせて歌いながら村中を回 った雪の上にさらす。陽光の紫外線によって生じた ったりする。豊作祈願をこめた行事である。 オゾンの作用で漂白がすすみ、白地はいよいよ白く 十五日は斎の神の祭り。正月のしめ繩や門松など ゆきさら なって、ほかの色を鮮やかに見せる。いわゆる雪晒を集めて焼く。この火で餅やするめを焼いて食べる しで、これがまた縮の名声を高めた。 と一年間病気にかからないという。鳥追いと斎の神 縮の仲買いを業としていた牧之はいう。 は、今も魚沼各地に残っている。 お 雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に晒ぎ、雪 小正月が終わり、旧暦の二月になると、降雪の勢 さら 上に曜す。雪ありて縮あり。されば越後縮は雪 いも一段落する。積もった雪が固くしまってそりが めいさん . うをぬまこほり きりよくあひなかば と人と気力相半して名産の名あり。魚沼郡の使いやすく、まだ農作業も始まるのに間があるの たきぎ 雪は縮の親といふべし。 で、この時期、昔は山の薪とりが行われた。高い枝 『北越雪譜』の中でもとくに名文とされるこの部分も雪を足場に意のままに伐ることができる。六把く ふもと いま石に刻まれて塩沢町役場の前にある。 らいをまとめて凍った雪の上をすべらせ、麓に置い たそりにのせて引く。引きながら「そり歌」を歌 春を待つ小正月の鳥追唄 う。父や夫の歌声を聞いて、娘や妻が出迎えに行 雪中に暮らす住民のつれづれを慰めるのは、生活 く。積んである薪の上に男をのせ、娘や妻がそりを の節目節目の行事である。雪に埋もれての餅つきや 引く。親子や夫婦が声をそろえて歌う。春近い雪国 ちゞみ やぐら

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・ア朝平 , よみ「ーム・ = ミー島当ーー 会ま【〃↓れイ : ーミ姿響。 ~ の ばう - びナ、 ーしあし しゅしよくおんりったのしみそ 望美景を愛し、酒食音律の楽を添へ、画に うつことば しようくあん わかん つうれい 写し詞につらねて称翫するは和漢古今の通例 これ あさくにたのし わが なれども、是雪の浅き国の楽み也。我越後のご としごと たのし いくぢゃう とく年毎に幾丈の雪を視ば、何の楽き事かあ ためちからっくざいつひや らん。雪の為に力を尽し財を費し千辛万苦する しも とところみ 事、下に説く所を視ておもひはかるべし。 と、雪を美的に楽しむ暖国の人には想像もできな い雪国の過酷な実状を述べ、ついで、その労苦の第 一に「雪掘り」をあげている。 雪は、一晩で一メートルを超すことも珍しくな そのままにしておくと、つぎつぎに積もった雪 で家がおしつぶされるので、屋根の雪を除かなけれ ばならない。 このことを、越後でも雪の少ない地方 ゆきお では「雪下ろし」と呼ぶが、魚沼では「雪掘り」と いう。周囲に下ろした雪が、なん回も繰り返すうち に屋根より高くなって、ついには家を掘り出すよう な作業になるからである。 雪掘りは、特別な融雪装置を備えた一部の家屋を 除いては、現在でも昔のままつづけられている。鉄木を曲げて作ったかんじきやすかりを足につける。 筋コンクリートの建物でさえ、二メートル、三メー 現在では、屋根の雪の移動にすべり板が工夫され トルの雪をのせておくとトラブルが起きるので、やたり、地上の雪の処理にダンプやトラックが活躍し はり雪掘りを行う。 たり、著しく機械化された面もあるが、それでも大 宗菩之地 ちから 、参【「「土の牧墓 雪掘りには、ぶなの木などで作ったこすきが古く 雪のときの最後の頼みは人力。「いくばくの力をつ 」二争之にのる つひや しゅうじっ あと 牧前横あ 本手右が から使用されてきた。金属製では重く、しかも屋根ひやし、いくばくの銭を費し、終日ほりたる跡へ 堂鈴の、墓 よあけ もと 本てこがのをいためやすいので、今でもこすきは雪国必備の用その夜大雪降り、夜明て見れば元のごとし。かゝる 寺刹。館之 つる あるじ しもべかしらたれためいき 恩古寺念牧 具である。また、家の周囲の道踏みなどには蔓性の時は主人はさら也、下人も頭を低て嘆息をつくのみ 長の提記に 北越雪譜之碑ーー鈴本 牧之生誕 28 年を記念 「北越雪譜』のうち越後 縮の一節が石に刻まれ 塩沢町役場前に立った。 しん 浦佐の裸押し合い祭り 参加者が裸で行う祭りは全国に多いが、雪中の行事 うらさ こさっ やまと ということで、新潟県南魚沼郡大和町浦佐の古刹、普 こうじびしやもんどう 光寺毘沙門堂の裸押し合いは、異彩を放っている。こ の行事は、江戸時代には正月三日であったが、明治以 後は三月三日、境内には、なお三メートルほどの雪が あるのが普通である。 みごり 夕刻から裸の若者が水垢離をとって毘沙門堂につめ かける。各講中から寄進された大口ーソクが、あかあ 木札で代行 かと燃える。肩車にの「た奉納者が、福物 ( して後に品 物と ) を撒与する。裸の群衆は「サンヨー、サンヨ 交換 といいながら押し合う。汗だくになると境内の大 ちょうずばち きな石の盥盤にとび込み、雪水で冷やしてまた押 し合う。熱さで湯気が立ちこめる。十時ごろに年男の ささら ほんぞん おんど 行列が堂内に入り、本尊に向かい音頭歌に合わせて簓 竹を細かく割って ) をする。終わると年男が胴上げさ 束ねた一種の楽器 れ、群衆は拍手で迎える。この日、浦佐の町は数万の 参拝者で賑わう。

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塩沢町の町並みーーーす っかり変わってしまっ たが旧三国街道の宿場 田丁。今は / ヾイノヾスがて きて町の交通量も少な くなった。 雪を生きる北国の人びと 『北越雪譜』の詩情 堂仗粧品睾 井上慶隆 新潟県史編纂室長補佐 さむざむ 人の越路に対するイメージは、寒々として淋しい 雪国の歌枕 当時の都人の地理的感覚のうえで、陸奥や坂東に こきんしゅう 『古今集』をはじめ都で編まれた歌集には、越は、まだしも太陽の上る東の地方という憧憬があっ もっと遠い陸たのに、越路は、ただただ雪の降り積む北のさい果 路Ⅱ北陸地方はあまり出てこない。 て、と考えられていたせいではないだろうか。した 奥Ⅱ東北地方でさえ、「しほがま」「すゑの松山」 うたまくら がって、そういう先入観をもっ都人が文化を主導し 「みやぎ野」など著名な歌枕があって、言葉の遊び ている間、越路の人々の考え方や日常の暮らしが、 を主にしたにせよ、地名を詠みこんだ歌のテーマに 書物の上に記されることはなかった。 、をも結構変化があるのに、越路の歌枕は、せいぜい しらやま くらいのもの。もともと四季雪を 越路の人々が、自分の筆でその生活と文化を描き 「白山」 ( いただく神々しさが名になった山であるから、白山出せるようになるのは、江戸時代、新田開発の盛行 にともなう景物は、当然に「雪」。たとえば、 と諸産業の発達をバックに、庶民勢力の台頭が顕著 になってからである。 君が行く越のしら山知らねども えち′」 うおぬましおざわ あと 越路でもとくに深雪で知られる越後国魚沼郡塩沢 雪のまにまに跡は訪ねん ( 第「 ) ほくえっせつぶ 君をのみ思ひ越路のしら山は 新潟県南しに生まれ育って『北越雪譜』を著した鈴 ・はくし 「古今 木牧之は、その代表であろう。 いっかは雪の消ゆる時ある ( かり・ 雪のほかに、越路の歌には「雁」も出るが、 『北越雪譜』にかけた牧之の熱情 春といへど猶も越路は白雪の 鈴木牧之は、呼種七年 ( 七し正月二十七日、江戸 降る道とめて帰る雁かね G{) みくに と越後を結ぶ三国街道の宿場町塩沢に生まれた。家 と、雁の歌も雪に結びつく ちぢみ 歌枕は「白山」、景物は「雪」と「雁」。都の歌業は縮の仲買い商。このころには、三国街道を旅す じ っ こし なお こし む 5

5. 日本の街道3 雪の国 北陸

十日町雪まつり 国の新しい行事。雪の 芸術展や雪の舞台のき ものショーが華麗に繰 り広げられる。 る文人墨客も多く、その影響をうけた彼は、若年か しかし、著作の経験がなく、出版界の事情も知ら ら文芸に親しみ、俳句や書画に上達した。 ない彼だけではどうしようもない。しかるべき作者 牧之は十九歳のときに縮八〇反を持ってはじめて に素材を提供して協力を求めなければならない。彼 さんとうきようでん 江戸へ出、一一十七歳で伊勢参宮をした。雪のない世はまず、当時江戸で人気随一の小説家山東京伝 ( 七 界に接して彼は、いまさらながら郷里の雪深い生活 八一六 ) に頼みこんだ。京伝は牧之の熱意と題材の に感慨を覚えた。しかも雪国の実状を伝える書物面白さにひかれたのであろう、興味を示した。話は は、まだどこにもない。文才のある彼は、越後魚沼進んだが、版元に一〇〇両も入れなければと聞かさ の自然と習俗、また住民の生活の哀歓を、薄雪の地れては、さすがに牧之も引きさがらざるをえなかっ ばきん の人々に紹介しようと企てた。 た。ついで京伝の弟子で売り出し中の滝沢馬琴 ( 七 六七い一 ) に当たってみたが、ていよく断られた。し ぎよくざん かし牧之はあきらめず、その後さらに岡田玉山、 ふよう 鈴木芙蓉、もう一度馬琴と、依頼を繰り返す。半生 きようざん の苦心がみのり、京伝の弟、山東京山の好意的な 協力をえて、『北越雪譜』初編三冊を世に出したの てんぼう は天保八年 ( 一一しの秋であった。 刊行されるまで苦心があったが、売り出されると 雪の風土を描いた珍書として好評で、続編が待望さ れた。牧之は中風の床で執筆をつづけ、天保十二年 ) 、二編四冊を出版、翌年七十三歳の一生を終 ぼだいじ ちょうおんじ わった。墓は菩提寺の塩沢町長恩寺にある。長恩 寺の境内にはまた、 , 彼の遺品・遺墨を集めた牧之記 念館があって、訪ねる人が多い。 雪掘りと雪下ろし 鈴木牧之は『北越雪譜』の中で、 くら しよう へうへん 雪の飄々翩々たるを観て花に喩へ玉に比べ、勝 ぼっかく たと

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也」という光景は、今も昔も変わりがない。 たま近くにいた発電所工事関係者が懸命に掘り出し むいかまち なだれふぶき にかかったが、六日町警察署からの救援隊が、二〇 雪崩や吹雪とのたたかい キロメートルの雪道を必死にかけつけたのは、翌十 雪掘りが、例年ほば恒常的に住民を悩ませるのに 日の夜であった。徹夜の作業で雪中から一一十数名が つめあと なだれ 対し、突然に襲って災害の爪痕を残すものに雪崩と救出されたものの、直後に絶命した人もあり、最終 ふぶき 吹雪がある。積もった雪が、地ひびきたてて斜面を的な死者は一五〇名を超えた。 崩れ落ちるのが雪崩。風にまきあげられた粉雪が横 その年十二月の新潟県会には、雪崩防止計画につ なぐりにたたきつけるのが吹雪。 いての建議が出され、初めて雪害対策が政治の場で 雪国に住む者は、その恐ろしさを知り尽くしてい 論議されることになった。三俣には、遭難者慰霊の て、家を建てるにも、ちょっと外出するにも十分用記念碑が建っている。 心するので、むしろ旅人のほうがその難に出会う。 雪水にそそぎ雪上にさらす越後縮 三国街道の宿々の古文書には、飛脚や旅の武士が、 雪崩に打たれて死んだとか、身元不明の吹雪倒れの 雪国の人々は、ただ自然の暴威にじっと耐え忍ん 白骨が見つかったとかの記録が点々と残っている。 でいただけではない。 ときに雪を利用して独特の産 とくに雪崩は、そのときの雪質や気象状態の微妙物を育てた。たとえば、越後名物として知られる縮 な変化で、地元の人々の永年の経験でもまさかと思である。 からむし われるようなところに起きることがある。『北越雪 縮の原料は苧麻と呼ばれる麻の一種。この皮の繊 譜』には、雪崩で遭難したり、九死に一生を得たり維を指の爪で細くさいて糸を作り、それを機で織 よこいと したさまざまの事例があがっている。それぞれに牧る。緯糸に強いよりをかけておくと、仕上がった布 之が強烈な印象を受けたのであろうが、史上で最も が適度に縮み、通風性があってさわやかなので、夏 大きな災禍をもたらしたのは、大正七年一月九日の衣料に最適だった。 みつまた 夜、三国峠にほど近い三俣村 ( 新 沼調 ) で起きた雪 縮の前身である越後布は、室町時代に武士の夏の国 る 一をー宋人 0 を崩である。 式服として指定されていたが、江戸時代の初めに小 ミの」・を あかし 生 村の背後、標高差二〇〇メートルの山から、幅五千谷に来た明石次郎によって越後布に技術的改良が ん」 雪 〇〇メートルの雪がい つきに麓の集落を襲った。電 加えられ、縮が完成したのだという。一時は生産が 話線もふっ飛んで外部との連絡もままならず、たま 二〇万反にも達し、江戸や上方をはじめ全国で愛用療 、一。ー ? ~ ~ ー ~ : 雪譜 0 挿絵 0 = ある当 雪中の用具ーーー「北越 時の用具。雪掘りに使 う「こすき」「すかり」な どは今も同し。 3 こもんじよ はた

7. 日本の街道3 雪の国 北陸

雪の信濃川 雪に閉 ざされた冬の北国の道 は、水運による唯一の 交通手段て孤立化から 活路を開いた。 街道。史水運と結ぶ深雪北陸の道 豪雪に閉ざされる北陸路 み雪降る越の大山行き過ぎて いずれの日にかわが里を見む ( こしじ み越路の雪ふる山を越えむ日は とま しの 留れるわれを懸けて偲ばせ ( 魵集』 ) この冬 ( 昭和五十六年 ) の富山地方は平地でも二メ ートル近い積雪があり、国鉄幹線の北陸本線も数日 間はまったくの不通となり、ようやく動き始めて も、約二カ月間は列車の本数も少なく遅延の状態が つづいた。もちろん、山間地を通る高山線は長期間 不通のままだった。この間、短時間の閉鎖だけでど うにか通行を確保していた北陸自動車道だけが、か ろうじて地方の孤立化を防いでくれたが、それも連 日連夜の除雪作業によって達成されたものである。 年中旅行に出ることの多い筆者も、さすがにこの 冬は富山に釘付けされていたが、北陸の住民は旅行 に出かけるどころか、連日雪下ろしと雪捨てに力を つくさねばならなかった。その間に、雪の下敷きに なだれ なったり、雪崩に押し流された犠牲者も出ている。 こしおおやま 木下良 富山大学教授 巻十一一 「万葉集』 20

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雪白く聳え立っ霊峰への道 白山と立山の信仰登山 古典に現れた白山・立山 りようじんひしよう 『梁塵秘抄』に これより北には越の国、夏冬とも無き雪ぞ降 するが る、駿河の国なる富士の高嶺にこそ、夜昼とも けぶり なく煙立て と歌われ、火を噴く駿河の富士山に対して、北陸 越の国の万年雪の山が印象強くとりあげられてい はくさんたて る。」陸の名山といえば、ゝ しうまでもなく白山・立 やま 山であるが、『万葉集』の「敬和立山賦」には「夏 しろたえ 冬とわくこともなく、白妙に雪は降り置きて」と歌 われ、その表現が『梁塵秘抄』の「夏冬とも無き雪 ふせつ ぞ降る」と符節を合わしている点も興味深い。同じ げんぶち ひんがし 『梁塵秘抄』の「験仏の尊きは」の筆頭に「東の しらやま 立山」、「すぐれて高き山」は「日本国には白山」 と、北陸の両名山がとりあげられ、白山・立山の名 が、院政期の民衆の歌声を集めたこの歌謡集をいろ どっている。 しゅげん 白山・立山ともに修験の山で、同時に庶民信仰の 山であるが、古代末から中世にかけて、修行の聖地 学」し たかね 廣瀬誠 富山県立図書館長 72 イ

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カラー・北国の , フ 4 に 0 カラー・随想 北陸街道杉森久英 一里塚井上雪 0 街道小史水運と結ぶ深雪北陸の道木下良 街道地図木下良田中喜男 カラー・雪景 / 山岳 / 河港 海を駆ける北前船の道、ーー・日本海の港と商人高瀬保 東国へ京へ・戦乱の峠道ーー源平・戦国そして戊辰の戦楠瀬勝 『北越雪譜』の詩情井上慶隆 雪を生きる北国の人びとーー・ 目次 0

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レルヒ像ーー上越市金 谷山頂に立っ一本杖ス キーをはいたレルヒの 勇姿。発祥年を記念 して昭和 36 年に建立。 の情景である。 点、明治の末期に日本に入ったスキーは、雪国の みどり 梅も柳も雪にうづもれて、花も緑もあるかなき人々にまったく新しい楽しさを教えた。 きさ、り、そら かにくれゆく。されど二月の空はさすがにあを 日本のスキーの発祥地は新潟県の高田 (å市上 まど のどか ふみよむ みわたりて、朗々なる窓のもとに書読をりしもある。明治四十三年十二月、耐雪訓練をしていた高 はるかそりうたきこゅ 遙に楯歌の聞るは、いかにも春めきてうれし。 田の第一三師団に、陸軍省はスウェーデンの軍隊用 と牧之は感想を記している。 スキーを使用書とともに送付、その実験を命じた。 さっそく説明を翻訳して雪上にスキーを並べて乗っ 日本のスキー発祥地 てみたが、どうもうまくいかない。さいわい、翌年 こわ 江一尸時代でも、冬の子供たちには、雪ん堂を毀し一月、オーストリアのレルヒ少佐 ( 一 ' 、六九— 一ル四五 ) が日本・ 合ったり、そりに乗ったり、凍った雪原をしみわた陸軍視察の目的で高田に来たので、一三師団では、 いきんだま りしたり、雪を固めた雪玉を互いにぶつつけて勝彼に指導を頼んだ。レルヒの指導は基礎練習に重き 負を争ったり、結構それなりの遊びがあったが、雪をおき懇切をきわめた。猛訓練のかいがあって、練 たまくり 玉遊びが土地により玉栗・こんばかち・かちあい 習者は一冬で大いに上達した。四十五年一月には、 かちなど、さまざまに呼ばれていたように、これら高田と小千谷で全国的な講習会が開かれた。参加者 は必ずしも広く共通的なものではなかった。その によってスキーは波紋をえがくように広まった。た だレルヒのスキー術は山岳向きのもので、杖が一本 であったが、これは間もなくノルウェー式の二本杖 に変わり、それが一般的になった。 かなやさん レルヒが実地指導を行った高田郊外の金谷山はス キーのメッカとされ、山頂にレルヒの立像が建てら れた。 人 の 国 現在、高田に近い妙高山麓にはスキー場が並び、 る より深雪の魚沼地方の上越線沿いにもスキー場が目 白押しである。ロープウェーやリフトが整って、全を 国からスキーヤーが集まり、農閑期の冬に営まれる 9 民宿は、雪国の新しい産業となっている。