シャモの渡来期 よる闘鶏が多く行われていたとされている。江戸目罸にの初 南方アジアて初めて家禽となった鶏カ昿く世界中に飼わ とうまる 期に唐丸という大型鶏も渡来したが、次にシャモが渡来す れるようになったのは、闘鶏の興床からて、あると考えられ るに及び、以後の闘鶏はシャモの独壇場になってしまった。 ている。ヨーロッパー帯への伝播は、古代ローマ帝国がヨー せつけん しかし、日本に渡来したマレー鶏はシャモが最初て、あると ロッパを席巻したローマ軍の主力、ケルト族のガリア人に する通説には、近年各方面て、、多くの疑間カ甘商されるよ よってて、あった。ガリア人はことに闘鶏を好み、戦いの合 うになってきた。 間には闘鶏を楽しんだのて、、戦場を進めるとともに鶏を各 マレー鶏は外観的にイ區は直立型、脚が太く複冠て、ある 地に広めたという。 ことを特徴とする鶏て、あることを考えると、平安末期の有 鶏は元来、闘争本能の強い鳥て、ある。特に、毎対走にして 名な「鳥獣人物戯画絵巻」や「草紙」の鶏地獄、「年中 勇猛なマレー鶏が南方アジアに現れるに及び、この鶏が闘 行事絵巻」の鶏合わせの中に描かれた鶏はマレー鶏て、あり、 鶏種として珍重されるようになった。わが国のシャモ ( 軍 宇治の平等院屋上の鳳凰もやはりマレー鶏て、ある。また奈 鶏 ) もマレー鶏て、あるが、江戸初期にシャム国 ( タイ ) より 良の正倉院に伝わる奈良日罸 & の伎楽面「迦楼羅」のうち、 渡来したのて、、シャモと呼ばれていたという。 乾漆製の一面は三枚冠の鶏て、ある。この面は奈良日罸にの後 ーヨ殳に、わが国の闘鶏は、平安日罸 & の宮中の年中行事て、 とりあわせ 半、わが国て、製作されたものと考証されているから、製作 あった「鶏合」を最初とするが、『明月記』によると、この「鶏 者はマレー鶏を見ていたに違いない ( 山口健児 ) 合」て、闘わせた鶏は小国鶏て、あり、この時代て、は小国鶏に こ 現存する在来鶏には、過去に中国やそ 河内奴鶏 の他の国から渡来した鶏を直系の祖先と 囮昭和絽年 8 月 24 日 するものが少なくない。小国鶏もそのひ 所 ( 三重県 ) けんとうし とって、、平安弋に遣 ) 吏によって中国 三重県 からもたらされたとする説 ( 中国の昌に この鶏の呼称の由来は不明て、あるが、 由来するという ) がとられてきた。 とうけい 三重県の度会郡て作りだされたものとさ 古くは闘鶏にもちいられることもあっ れている。また、育成には小型の地鶏と たが、長尾性にとんだ尾羽をもつ端正な その他の鶏がもちいられたと考えられて 格調ある姿に人気があり、近畿地方を中 心に広く飼育されてきた。また、この鶏 びんしよう とうてんこう おながどり この鶏は動作が敏捷て、あるため、軍鶏 が東天糸工鶏や尾長鶏をはじめ多くの鶏 とうけい の闘鶏訓練用として重宝がられていた 種を作りだす過程て、交配種として関 - 学し あいがん という。五色からなる羽装は美しく愛玩 てきたとされている。 用としても人気がある。 山も丘の血液タンパク質の型による日本 ( 花井正光 ) みのひきちやば 鶏の系統についての研究て、は、蓑曳矮鶏 とのあいだに強い家関係がみられ、 れまて、小国鶏が直接の祖先と考えられて きた尾長鶏とはかなり異なっていること が示されたという。 ( 花井正光 ) かわちゃっこ わたらい じどり ちょうはう 小国鶏 指昭和田年一月 27 日 所 ( 京都府・三重県・滋賀県 ) 闇京都府・三重県 家畜・家・ 163
特別記事目録 開発に斃る・・ カモシカの年齢を調べる 局限された森・・ 私のコウモリ体験 消えた鷺山・・ 白鳥の給餌・・ 鶴千年・・・ 模索続く ツルと人間の共存・共栄・ キツッキのくちばしと舌・・・ ライチョウの 「なわばり」とあぶれ雄 声のブッポウソウと 姿のブッポウソウ 探島地ミニガイド・・ ウミネコと菜の花・・ コロニーの持性・・ 保護の成果を左右する制限要因・・・ 司 27 鳥盟ルを飲めるか ? ・・ 鳥の渡り・・ 滅びゆく日本在来馬・・・ 日本人と日本大の起源 土佐の四国大・・・ 尾長鶏の飼育・・・ 文化産としての家畜・家禽・・ シャモの渡来期 っ 0 4 5 こっ 0 4 LO C-D 「ー 司 43 司 55 装幀・レイアウト・ S Ⅸ
コブハクチョウ 全体にオレンジ色 オオハクチョウ 全体の半分以上が黄色 コハクチョウ 黄色の部分は全体の半分以下 ハクチョウのくちばし ハクチョウ類の渡来 北半球の極北部ツンドラ帯には、北極をとりまくようにコハクチョウが繁殖する。 ユーラシア大陸て、は、それより南の亜寒帯の広い範囲て、、オオハクチョウが繁殖する ( これに対応して北アメリカて、はナキハクチョウが分布する ) 。分布域が部分的に重 なっているが、それより南の冷温帯て、はコフン、クチョウが局地的に繁殖する。コハク チョウは体が最も小さく、全長約 120 センチて、オオハクチョウは約 140 センチ、コプ ハクチョウは 152 センチと大きくなる。 ハクチョウ類は冬季に南に渡って越冬する。東アジアに渡来するハクチョウ類はソ 連のタイミル半島・中央シベリア高原以東て、繁殖する集団だと考えられている。日本 列島、朝鮮半島、中国南西部がそれらの渡来地て、ある。コブハクチョウは朝鮮半島に 少数渡来し、日本には時どき渡来する ( 各地て畤どき観察されるのは、飼育中のもの が逃げて群れにまじったり、半野生化したものて、ある ) 。 丘、日本に渡来するオオハクチョウの数は約 1 万羽て、、コハクチョウは約 5000 羽 お て、ある。オオハクチョウの渡来地としてよく知られているのは、北海道の風蓮湖と尾 だいとうむつ ひょうこ さがた 岱沼、陸奧湾の大湊・小湊、伊豆沼、新潟県の瓢湖・佐潟などて、ある。コハクチョウ なかのうみ は福島県の内陸にある猪苗イ月や島根県の中海が渡来地として有名て、ある。コハク チョウはオオハクチョウよりも早く北海道に渡来し、寒さが増すにつれて西日本まて、 越冬地て、はつがいあるいは家族群を単位として群れ生活をしている。水生植物を食 、内湾のアマモを好んて食べる。近年、各地てハクチョウ類への餌づけが行われる ようになった。現在よく知られている越冬地のなかには、餌づけの結果ハクチョウ類 の数が増えたところもある。しかし、基本的には生息地全体を保護することが必要て、 ふうれん いなわしろ ある。代表的な越冬地は天然記念物に指定されて保護されている。 ( 長谷川博 ) 猪苗イ胡は日本のルト湖て、は琵琶湖に つぐ大湖て、、湖面の標高は 514 メートル、 福島県の中央部に位置し、日本列島の内 陸部にある。この標高の高さと内陸部に あるという条件から、ハクチョウ類の渡 来地としては特異な士或て、ある。 ハクチョウ類の渡来は古くから知ら れ、昭和 20 ~ 24 年頃は一時とだえたが、 その後ふたたび渡来を見、現在て、は平均 700 羽前後を数えている。コハクチョウが 多く、オオハクチョウもまじる。またこ れらとともにマガモ・カルガモ・コガモ・ オナガガモ・ホシハジロ・キンクロハシ ロ・ヒドリガモ・スズガモなどのカモ類、 いなわしろ 猪苗代湖のハクチョウおよび その渡来地 囮昭和 47 年 2 月 9 日 所福島県耶麻郡猪苗代町 まれにはヒシクイの渡来を見ることもあ る。その他カイップリ・カワアイサ・サ すいきん ギ類など水禽類も多数観察される。 指定地周辺は水田地帯て、、湖岸を国道 49 号線が走っていて良好な環境とはいい がたいが、猪苗代町て、は白鳥を守る会を きゅうじ 組織し、給餌活動を続けている。例年 10 たいりゆう 月中旬ごろより翌年 4 月初旬まて、滞留 する。近年、崎川浜て標識による調査を 実施した結果、猪苗イ月に渡来するもの とやのがた のうちには、新潟県鳥屋野潟をへて来る あぶくま もの、福島市内の阿武盟日に現れるもの などがあり、しだいに渡来経路および活 動範囲が明らかにされつつある。 ( 蜂谷剛 ) こみなと 小湊のハクチョウおよび その渡来地 特別天然記念物 指大正Ⅱ年 3 月 8 日 ( 天 ) 昭和 27 年 3 月 29 日 ( 名称変更 ) 昭和 27 年 3 月 29 日 ( 特天 ) 64 ・鳥類
ト、ヾ、さ ソテグロヅル ふ、、い 、、い、ヾい マナヅル 曰ヾ、 クロヅル ナベヅル カナダヅル 山口県熊毛町八代にはナベヅルが、鹿 児島県出水市・高尾野町・野田町には 上の 5 種類のツルが渡来する 八代のツルおよび その渡来地 指大正年 3 月 3 日 ( 天 ) 昭和 30 年 2 月日 昭和 30 年 2 月日 昭和 32 年 7 月引日 特別天然記 - へ物 ( 名称変更 ) ( 特天 ) ( 名称変更 ) 熊毛町 所山口県熊毛郡熊毛町 くまげ ( 長谷川博 ) 給餌がおこなわれている。 ている。ここて、もツル監ネ斤が設けられ、 羽になり、その後 70 ~ 100 羽に落ちつい 減ってしまった。昭和 42 年 ( 1967 ) には 65 った。しかし、戦争の混乱て、その後数が に増え、昭和 15 年 ( 1940 ) には 350 羽にな 年 ( 1925 ) には 150 ~ 160 羽、その後もさら 息していた。明治末期には 50 羽、大正 14 たという。明治初年ごろには約 30 羽が生 また、他所から捕獲に来る人をも排除し せて、ツルの捕獲を戒め、保護につとめた。 禁が解かれたが、この或て、は申し合わ ルが渡来していた。明治になって狩猟の ここには、少なくとも江戸日罸 & からツ 田に小群て、飛んて、行き、そこて、ねぐらを る水のはった水田跡や草のない平らな水 食し、夕方、谷筋の奧まったところにあ こともある。盆地の湿田や水田て、採 の数は例年 70 ~ 100 羽て、、年によって少 2 月末に北に帰ってゆく。渡来するツル はナベヅルて、、毎年 10 月 20 日ごろ来て、 のツル渡来地て、ある。ここに渡来するの 320 メートルの盆地は、本州て、ただひとつ 山口県の東南部、熊毛町八代の海抜 鹿児島県のツルおよび か 昭和 34 年 6 月 3 日 ( 一部解除 ) 昭和 28 年Ⅱ月図日 ( 名称変更 ) 昭和 27 年 3 月 29 日 ( 特天 ) 昭和 27 年 3 月 29 日 脂大正田年 3 月 3 日 ( 天 ) その渡来地 特別天然記今物 ( 名称変更 ) 置出水市・高尾野町・野田町 野田町 所鹿児島県出水市・出水郡高尾野町・ ル、 l•l 南西部、八毎に面する鹿児島県 いずみ 出水の湿地帯には、毎年およそ 8000 羽の ツルが渡来し、越冬している。この地方 にツルが来ることは 1700 年ごろから知 あらさき あくわ られ、出水の荒崎のほか、近くの阿久根 にも渡来していた。 この一帯に渡来するツルはナベヅルと マナヅルがおもて、、このほかにクロヅル やソデグロヅル・カナダヅル・タンチョ ウ・アネハヅルの記録がある。毎年、 10 月中旬に渡ってきて、 3 月下旬まて、滞在 する。 ナベヅルはユーラシア東北部のバイカ ル湖付近やモンゴル北部、アムール川中 ~ 或、中国東北部、ウスリー地方の湿原 て繁殖し、冬季に中国揚子江下 ~ 或や朝 鮮半島、ル、 l'l の出水や山口県熊毛町八代 に渡って越冬する。出水には丘 7000 羽 をこえるナベヅルが訪れ、貢毛には 70 ~ 100 羽が渡来している。大陸や朝鮮て、の現 状はじゅうぶんに調査されてはいない が、よ厩長十 . に生息するナベヅルの大部分 が出水に集中しているのて、はないかと推 測されている。 また、マナヅルもユーラシア東北部の 湿原地帯て繁殖し、モンゴル東北部から アムール川中流、ウスリー地方に分布す る。冬季には撈子江下流域や九リ、トに渡り、 湿地帯て、生活する。出水への渡来数は最 近 1000 羽をこえた。 ツルの仲間も、明治になってから狩猟 が一ヨ殳人に解放された結果、舌リ隻されて 咸した。昭和 15 年 ( 1940 ) には出水地方 て、ナベヅル約 3500 羽、マナヅル 500 羽が 渡来していたが、戦中戦後の混乱期のあ との昭和 25 年 ( 1950 ) 前後にはナベヅル が 200 ~ 300 羽、マナヅルが 20 ~ 30 羽渡来 するだけになってしまった。その後、昭 和 34 年 ( 1959 ) に出水の荒崎て、人工給餌 が始められ、渡来数は着実に増加して いった。そのころナベヅル 375 羽、マナヅ ル 45 羽て、あったが、昭和 45 年 ( 1970 ) には ナベヅル 2072 羽、マナヅル 257 羽に、さら に昭和 55 年 ( 1980 ) にはナベヅル 427 芻ヨ、 マナヅル 1318 羽が数えられるほどに 74 ・鳥類
いなわしろ 猪苗代湖のハクチョウおよびその渡来地 ( 福島 ) 毎年 700 羽をこすハクチョウが渡来 するが、その大部分はコハクチョウて、オオハ クチョウは少ない。長期にわたって滞留する ことて知られる。
減ひゆく日本在来馬 さわ 馬といえば、秋空の爽やかな草原を、たくましく駆けめ ぐる、というようなイメージを思い起こすが、岬馬のよう な日本在来馬の置かれている社会的な環境は、そのような 明るいものて、はない。暗雲たれこめる冬の原野に辛うじて たたず 己の体を支えて佇んて、いる、といったほうがふさわしい 馬が日本人と生活を共にしてきたのは、つい昨日まて、の ことて、ある。かって 150 万頭を数えた日本の馬は、現在て、は 10 万頭にも満たない。そのうち競走馬や乘馬用の馬 7 万頭 へきち を差し引いたら、約 3 万頭が僻地等て、使われているにすぎ ない。戦後の機械化の波に飲み込まれ、谷底にころげ落ち るようなカープを描いて滂気成してしまった。また、戦争に 至るまての日本は、在来種に大型の西区重をかけ合わせた 戦闘用軍馬を国策によってつくらせた。 2 度にわたる軍馬 資源保去は、世界史上て、も例をみないほどの短期間に 全国の馬のほとんどを改良雑種化してしまったのだった。 遠く、縄文の昔より日本人と生活を共にし、各地の風上 の中て育くまれてきた日本在来馬は、半世紀の間に 2 度に わたって大きな受難を体験した。その結果、驚くべきこと に、岬馬 ( 御崎馬 ) や木曽馬といった純血またはそれに近い 在来馬は、全部あわせても僅かに 8 馬種、 197 頁 ( 日本馬 事協会、昭和 58 年 7 月調査 ) を数えるにすぎない。さらに 悲劇的な報告をしよう。沖縄の宮古馬にいたっては、総数 わずか 7 頭、頼りとする種馬が老齢化して絶滅を待つばか はぐ りという状況なのてある。 各地の馬たちについて概観しよう。彼らはみな、岬や離 島あるいは山村などに追いやられ、半野生の姿て、放牧され たり、民家て飼われている。 よなぐに 日本の最南端、沖縄の与那国島には小型て、スマートな与 那国馬がいる。ジリジリと照りつける灼熱の太陽の下、島 の草原に総数 54Y 瓦 沖縄の宮古馬は先に述べた通り。亜種の栗国馬 ( 栗国島 ) を使っての集団の若返りが研究されているのが救い かいもん とから 鹿児島の吐東例島に吐対馬 69 豆瓦現在は主に開聞岳 山麓に集められている。小型て武骨だが強靱なシマ ( 島 ) 馬。 都井岬には岬馬。 国境の島、対馬に対り、 N 馬 95 頭。大陸の中型馬の流れを伝 えるといわれ、主に農家て飼われているが、年々減少傾向 にあり心配てある。 愛媛の野間馬 ( 乃万馬 ) は、調査すら十分て、ない。山岳地 帯に生きてきた木曽馬は 77 頭。岬馬に似た中型の在来馬の 典型て、、ここ数年の保存活動が実りつつある。 どさんこ 北海道開拓の担い手、道産馬 ( 北海道和種 ) は全道て、 1581 頭。馬好きの多い北海道の農家に支えられて健在てある。 かんだちめ 下北の寒立馬はプルトン系の雑種。北海道の : 物重半血馬は あぐに とい ベルシュロン種等との大型の混血馬。 ( 竹内敏信 ) 生活全般が西欧化するのにつれ、従来の 蜥殳以外に肉や牛乳の供給を求められる という大きな環境変化を経験している。 ョーロッパから多くの品種が在来牛の改 良に導入され、大型化や艀 L 量の増大に 効果をあげた。また、今日、牛肉の多く を供給している和牛も、中国地方を中心 に食肉用としてこの時期に作りだされた 近代品種のひとって、ある。 離島て、ある見島には近代品種作出の波 が及びにくかったのて、あろう。また、耕 して山項に至る島の農耕用に、永年の飼 養をとおして獲得した通芯形質は捨て去 りがたいものて、あったに違いない。見島 牛は、在来牛としての形質を失うことな く残されたのて、ある。日本在来牛の系毓 や渡来経路は未だ解明しきれてはいな い。見島牛の学術面値は、まさにこの 点にある。 昭和 30 年代後半に始まる農機具の機 械化と生活様式の変化は、見島て、も例外 て、なく、小型て免熟の見島牛は肉用には 不利て、、しだいにその数を減じざるをえ なかった。飼料費の助成を主としたイお 措置がとられている現在、その飼育数は 昭和 58 年 ( 1983 ) 末て、 42 頭て、あり、健全な 繁殖集団の維持には今少しの増殖の必要 性カ甘商されている。 ( 花井正光 ) 家畜・家禽・ 143
マガン 57 ヒシクイ 57 猪苗代湖のハクチョウ およびその渡来地 60 ー引 小湊のハクチョウ およびその渡来地 62 水原のハクチョウ渡来地 63 タンチョウ 66 ー 69 八代のツルおよびその渡来地 8 ・ 三岳のブッポウソウ繁殖地 ライチョウ 84 ー 87 チョウゲンボウ繁殖地別 十三崖の オジロワシ田 イヌワシ繁殖地 80 イヌワシ 80 工ゾシマフクロウ 77 オオワシ 76 クマゲラ 76 およびその渡来地 72 ー 73 鹿児島県のツル 72 身延町ブッポウソウ繁殖地引 狭野神社ブッポウソウ繁殖地引 洲原神社ブッポウソウ繁殖地引 比叡山鳥類繁殖地 94 御岳鳥類繁殖地 95 カササギ生息地 98 イイジマムシクイ 98 越ヶ谷のシラコノヾト 98 オオトラッグミⅡ 0 ルリカケスⅡー 蕪島ウミネコ繁殖地Ⅱ 5 陸前江ノ島のウミネコ およびウトウ繁殖地 経島ウミネコ繁殖地 椿島ウミネコ繁殖地 飛島ウミネコ繁殖地 天売島海鳥繁殖地 大黒島海鳥繁殖地 Ⅱ 8 アカコッコ 98.99 カラスノヾト田 2 アカガシラカラスパト 田 2 照島ウ生息地 5 壁島ウ渡来地 5 仲の神島海鳥繁殖地 オオミズナギドリ 繁殖地 ( 北海道 ) ロ 3 Ⅱ 8 Ⅱ 9 Ⅱ 9 2 ーに 3 に 4 ーに 5 に 8 ーに 9 メグロ田 3 オガサワラノスリ ャンバルクイナ ノグチゲラ田 7 アカヒゲ 7 カンムリワシ田 7 田 3 6 オーストンオオアカゲラⅡ 0 リュウキュウキンバトⅡ 0 三貫島オオミズナギドリおよび ヒメクロウミッパメ繁殖地 3 オオミズナギドリ 繁殖地 ( 京都 ) 3 星神島オオミズナギドリ 繁殖地ロ 3
すいばら 0 水原のハクチョウ渡来地 ( 新潟 ) 水原町 ひょうこ のはずれにある瓢湖には昭和 20 年代後半か ら , 、クチウ類が渡来するようになり、その 数も年々ふえ、互て、は 100 砌互くに達する。 0 オオ , 、クチョウの飛翔 鳥類・ 63
て渡るものとがあるらしい。標言観査に よっていずれこの先の経路も解明される マガン 丸味のある額。 コクガン 上頸部に 白い斑紋 ガン類の頭部 コクガン カリガネ 角張った額は頭頂 部まで白い ジ色の帯 くちばしにオレン ヒシクイ 底に生えているアマモや岩についている アオノリを、水中に頭を突っこんて、逆立 ちして食べる。陸にあがって地上て、採食 することはない。時どき干潟や岩の上に あがって休息する。東アジアて数少ない コクガンを保護するためには、渡来する 内湾を汚染から守り、コクガンの餌とな るアマモをふやすことが必要て、ある。 ( 長谷川博 ) 石川県 ) 所 ( 北海道・青森県・宮城県・新潟県・ 囮昭和 46 年 6 月 28 日 マガン いが、樺太経由のものと千島列島に沿っ している。その先はまだ孑則の域を出な 経由することはなく、北海道を中継地と するマガンはソ連也方や朝鮮半島を が明らかになってきた。日本列島に渡来 丘の調査・研究によって渡りの経路 草を採食する。 対する警戒を怠らない。浅い水域て、は水 群が単位となった群れて行動し、タ攵に 食べる。この時にはつがいあるいは家族 田の落ち籾 ) やイネ科草本の種子、草を 湿地、農耕地に飛び出して穀類 ( 特に水 や休息場所として利用し、周辺の水田や マガンはこうした内陸の湖沼をねぐら くっかの或にごく少数が渡来する。 る。また、佐渡に 40 ~ 70 羽、そのほかい 県の片野鴨池て、、 500 ~ 1000 羽が渡来す ~ 7000 羽が越冬する。もうひとつは石川 野北部の伊豆沼・内沼周辺て、、毎年 6000 くなってしまった。そのひとつは仙台平 よそ 7000 ~ 8000 羽が渡来するにすぎな 数は急減し、現在て、はおもに 2 或にお たが、狩猟と生息地の縮小によって個体 かって日本列島の各地に数多く渡来し 渡って越冬すると孑則されている。 が、日本列島や朝鮮半島、中国中南部に リア北部や北アメリカ北西部の繁殖集団 には温帯南部に渡って越冬する。東シベ マガンは寒帯ツンドラて、繁殖し、冬季 て、あろう。 ( 長谷川博 ) 指昭和 46 年 5 月円日 所 ( 北海道・青森県・秋田県 ) こうした入り江や内湾の浅い海て、、水 かの場所にもごく少数の個体が渡来して 部の松島湾に 100 ~ 200 羽て、ある。このほ 奥湾に 300 ~ 400 羽、南に下って仙台湾奥 150 羽、その対岸にあたる、 FI 最北端の陸 すぎない。北海道南端の函館湾に 100 ~ 3 地域に 500 ~ 800 羽が渡来しているに ていたと考えられるが、丘て、はおもに 日本列島の内湾や入り江に数多く渡来し 沿岸地方に渡って越冬している。かって 集団が、東北日本の内湾と中国の瀚毎湾 ぼっ力、い 東シベリア北部の沿岸地方て、繁殖する る。内陸の湖沼に入ることはない なっている浅い海や内湾の干潟て生活す る。冬季には温帯北部に渡り、入り江と るいは海岸に近い丈の低い草地に生息す たけ ドラて、繁殖する。湖沼や大きな河川、あ 61 センチの小型のガンて、北極圏のツン 本に黒色て、、喉と腹とが白い全長約 ヒシクイ 囮昭和 46 年 6 月 28 日 所 ( 北海道・青森県・宮城県・ 新潟県・石川県 ) ヒシクイはユーラシア大陸の寒帯から 亜寒帯北部に広く分布し、それより南の 亜寒帯南部から温帯域に分布している。 ヒシクイは、冬季、温帯地方に渡り、東 アジアて、は日本列島、朝鮮半島、中国大 陸東南部て越冬する。 日本列島には、以前に数多く渡来し、 各地て越冬していた。しかし他のガンと 同じように、豸鼡と生息地の縮小によっ て、近年、イ固イ櫢カ墸しく減った。現在、 数地域に 3000 ~ 5000 羽が越冬するのみ て、ある。おもな越冬地と渡来数は、太平 : 判則て、は伊豆沼に 1000 ~ 2000 羽、日本海 側て、は琵琶湖に 200 ~ 300 羽、片里角髜也に 300 ~ 500 羽、新潟県朝日池に 100 ~ 200 羽、そして福島潟に 1500 ~ 2500 羽て、あ る。これらの湖沼て休息し、ねぐらをと る。そこから周辺の水田や湿地に飛んて、 行って、水田て、は落ち穂をひろい、畔に 生えている草を食べる。湿地や湖沼て、は 水生植物を食べる。ヒシの実をよく食べ たことからヒシクイの名前がつけられ た。マガンと異なり小群や中程度の群れ て、行動する。この種て、も、つがいか家族 群が社会生活の単位になっている。 ヒシクイも北海道の湖沼を経由して渡 ることが明らかになった。春、太平洋側 の集団は太平洋岸に沿って、日べ毎側の ものは日本海側の湖沼づたいに北上す る。 ( 長谷川博 ) 鳥類・ 59
日本人と日本犬の起源 大は人間にとって最古の家畜て、あり、大の家畜化は 1 万 2000 ~ 1 万 5000 年前に起こっている。その理由は、大と人 間との間に相互に役立っ共生関係が成立したことにある。 すなわち、人間は他の動に比して著しく知能が優れてお り、投石や槍などの武器を発明し狩猟を行っていた。しか し昼行性て、ある人間は、夜の猛獣の襲撃を防ぐ必要があっ た。一方、犬の祖先は食肉目のうちて、は体が小さく、夜間 に行動して腐肉や人の残飯をあさりに来たと思われる。 また大の性質は、庄朝丙て、、社会的には群れをなして生活 し、ポスに糸寸忠実て、ある。人に飼われた大にとっては、 飼い主の人はポスて、あり、ポスの後ろ楯があると急に勇敢 になり、猛獣にも襲いかかる。この犬の性質は、鼡採集 を行っていた原始人にとって非常に役立つものて、あり、夜 行性て、夜の番犬としてもかけがえのないものて、あったと思 われる。日本には 1 万年以上前から縄文人が住んて、いたが、 彼らはほとんど農耕を知らず、狩猟採集生活をしていた。 しかも縄文人の持っていた家畜は大のみて、あった。 現在、国の天然記念物に指定されている日本大は北海道 大・秋田犬・柴大・甲斐犬・越の犬・四国大 ( 土佐大 ) ・ 犬の 7 犬種て、ある。筆者らは日本大の起源を知るため、大 の血液を乂して、その中に含まれるタンパク質の多型現 象を電気汾師力によって調べた。血液を孑した大は、日本 たかさご ちんとう 在来大・台湾高砂族の大・珍島犬 ( 韓国唯一の在来大、天 然記念物 ) ・西洋大・中国原産大 ( チャウチャウ・バグ・ペ キニーズ・チンなど ) ・エスキモー大て、その血液タンパク 質の多型を支配する 26 座位の遺伝子頻度から、大の相互関 係をコンヒ。ューターを使って検討した。 その結果、西洋大と日本大の間には明らかな差違がみら れ、台湾在来大や中国原産大はこの中間に位することがわ かった。日本大のなかて、は、北海道犬 ( アイヌ大 ) は台湾在 来大やチャウチャウ・バグなどと近く、他の日本犬種とは むしろ遠かった。このうち、糸尠 lbl 大・柴大・秋田大・山陰 柴大などは、韓国の珍島大とかなり近い関係にあった。 れらのことから、日本大は二元的に成立したものて、まず 1 万年以上前に縄文人が連れて来て古い日本犬が成立し、 これに 2000 年前ころに韓国から大量に日本に渡来した弥 生人、古サ賁日に人、その後の帰イヒ人のもたらした大が混血 して多くの日本大種が成立したと考えられる。そして、 の混血のほとんどなかったのが北海道大と考えられた。 これらのことは、日本犬の起源ばかりて、なく、大を友と した日本人の起源をも示すものと思われる。すなわち、南 方から大を連れて渡来し日本に住んて、いた縄文人に、 2000 年前頃、朝鮮半島経由て、大とともに新しい民族が大量に渡 来して加わり、弥生日赫にをつくった。このとき、混血せず に残った縄文人の子孫がアイヌ人て、、彼らは古い型の日本 犬て、ある北海道大 ( アイヌ犬 ) を保持してきたと考えられ る。 割合が半分近くもあることがわかってい るが、この欠歯は大の小型化と関係して いると考えられる。 柴大と呼ばれている犬には、山陰地方 て古くから飼われ、現在も鳥取県に少数 残っている山陰柴大と、現在て、はほとん ど姿をみかけなくなっている岐阜県の美 のひだ 濃・飛騨地方て、飼われてきた美濃柴大が 含まれるなど、多くの地方にいた小型日 本大の総称と考えられてきた。しかしな ( 田名部雄一 ) がら、最近の血液タンパク質による遺伝 学的研究て、は、これら三つの柴大の間に はかなり大きな異質性が認められること から、それぞれ別系統として分けて考え る方がよいとの孑商がなされている。 ( 花井正光 ) 家畜・家禽・ 147