消えた鷺山 サギ類は、湿上丘くの丘陵の樹上や、池沼に浮かぶ島の さぎやま 斜面や樹上に、何種かが集まって「鷺山」とよばれる集団繁 歹也をつくる習性をもっている。埼玉県浦和市の東のはず れ、上野田の一角にある農家の宅地林に「野田の鷺山」とよ ばれた大きな集団繁殖地があった。この鷺山は、昭和 46 年 ( 1971 ) の夏を最後に、約 250 年の歴史を閉じた。 はんらん かって、関東平野一帯は大小の河川が氾濫する大湿地帯 て、あった。江戸時代中期になって、治水と新田開発のため にこの一帯の河道が整備され、水利のためにダムの役割を こうして大池沼地帯が形成され、さ する堤防が築かれた。 らに干拓が進められて広大な湿田に変貎していった。 にて、きた安定した水系や水溜まりは、淡水魚や両生類・昆 虫類・甲殻類・軟イカ物など、小型水生動効の宝庫となっ た。これらの小動物を餌とするサギ類にとって、この池沼 帯は絶好の生息地となり、応の台地・丘陵にある林に鷺 山がて、きた。 こ野田の鷺山は、長い歴史をもっこと、往 時、親島だけて、も 1 万羽、幼鳥を含めると数万羽にもなり 規模が大きいこと、また人間の集落に密接していることな どから、天然記念物に指定された。 こには、ダイサギ・チュウサギ・コサギ・アマサギな どのシラサギ類のほか、アオサギやゴイサギも繁殖してい た。明治前期まて、は、近ごろ日本て、繁殖言求のないクロト キが繁殖し、江戸時代には近くの林て、カワウが集団繁殖し かわしも ていた。また、ひとつがいのマナヅルが近くの湿原て、繁殖 した言求がある。 このように湿地性の大型鳥類が多かったのは、このル或 が糸日徳川家の大宮鷹場として厳重に保護され、また農民 たいひ もサギ類の排泄する糞を集めて堆肥をつくるなど現実的利 益のために保護したことがあげられる。明治以降、狩猟解 禁となってからも、地元の農民の習慣に支えられて、この 鷺山は保護されてきた。 日本は 1960 年代から急速に工業化していった。この過程 て、、サギ類の採食地て、ある水田や池沼、湿地が消失し、営 巣場所となる台地七の林も減少していった。これに加えて、 農業生産を高めるために化学農薬が多用されるようにな り、サギ類の餌となる水生小動物が減少し、タ威していっ た。さらに、有機塩素系農薬や水銀がサギ類の体内に蓄積 そがい し、繁殖を阻害し、生体機能をも麻痺させ死に至らしめ、 ついに鷺山は消滅してしまった。 野田の鷺山の消滅は、全国各地てサギ類の集団繁歹也が 衰退し、消滅したことを象徴する出来事て、あった。結局、 こて、はその後も鷺山は復活しておらず、昭和 59 年に指定 を解除された。しかし、近年、農業 & が変化し、水生の はいせつ 小規模な鷺山が各地て生している。 小動物も復活する兆しをみせている。これにともなって、 きざ ( 長谷川博 ) 川下・麻里布シラサギ渡来地 囮昭和田年に月 24 日 所山口県岩国市今津町・室の木町・ 装束町・旭町・川下町・中津町・車町 置岩国市 中国山地西部に源を発する錦川は、丘 陵地帯をぬって流れ、岩国て瀬戸内海に ' こには広大な三角洲が発達 注ぎこむ。 し、水路カ従横に走り、各所に池や小さ な水たまりがて、きていた。この湿地帯に は、魚類や両生類・甲殻類など水生小動 物が豊富て、、それらを採食するコサギ・ チュウサギ・ダイサギなどシラサギ類の 絶好の生息地となっていた。特に川下・ いわくに 麻里布地区にはサギ類の生息数が多く、 集団繁歹耐也が形成されていた。 もんせん その後、分流て、ある門前川と今津川に 囲まれた三角汾地帯に岩国空港が建設さ れ、シラサギ類の数は減った。しかし、 ひらた 近くの平田にはサギ類の集団繁殖地が 残っている。残っている湿地帯て、はノヾ ン・ヒクイナ・タマシギが繁殖し、春秋 には多くのシギ・チドリ類が渡りの途中 に立ち寄っている。冬李にはカモ類が多 こは今て、も水 数渡来して、越冬する。 鳥たちの生活の場として、四季、にぎわっ ている。 ( 長谷川博 ) 猿賀のウおよびサギ渡来地 青森県南津軽郡尾上町にある猿賀神社 の社叢は、野田のサギ繁殖地と同様、 昭和 59 年に指定解除となった。 54 ・鳥類
れたが、翌年、死亡した。体内には有機 周辺にはアカマツやコナラを高木とする 塩素系農薬が高濃度に蓄積していた。 混交二冫木が保存されている。 うして、トキは佐渡だけに残ったのてあ この半島のほば中央に、現在日本て最 大のカワウ集団繁歹也があり、鵜の山と トキはかってアジア大陸東部にも数多 呼ばれている。カワウは世界に広く分布 く生息していた。極東ウスリー地方や朝 し、数多くの亜種に分けられる。沿岸や 鮮半島、中国の中部から東北部て、繁殖し、 内陸湖沼・湿地・大河川にすみ、浅い水 中国南部や朝鮮半島南部に渡って越冬し 域て彬して魚類を採食する。採食地付 近の断崖岩棚や岩島、樹上、あるいは湿 ていた。これらの地方て、もう鼡によって 殺され、生息地となる丘陵地が開拓され 地の地ーヒに営巣する。日本産のものは内 湾河口域、内陸湖沼に生息し、樹上に営 て、トキの個体数は滂気咸した。ウスリー 地方や朝鮮半島北部の丘陵地て、はごく少 巣する。 数が繁殖している可能性は残っている 知多半島の鵜の山て、は、アカマツやコ ナラの二冫木の上部に営巣し、毎朝そこ が、現状は不明て、ある。ただーカ所、中 ながら 国中部の陜西省南部の丘陵地帯て、 13 羽 から飛びたち、伊勢湾奥部の本曽・長良・ いび が生息し、毎年雛を育てている。 1 羽は 揖斐三 ~ 川河口・一 - ド流域や三河湾の河口域 北京重加勿園て飼育されている。したがっ に行って採食する。近くの溜め池は休息 場所としても利用される。ここて、の生息 て、現在、世界中て、野生には 10 羽あまり が生存しているのみて、、 4 羽が飼育され 数は約 1 万羽て、ある。以前には、これら はいせつ のカワウの孑羽世する糞を林床に藁などを ていることになる。中国の野生群が厳重 に保護され、また人工増殖が実を結ばな 敷いて受け、肥料として利用した。 カワウはかって日本各地の内湾や湖沼 いかぎり、トキの将来はあやうい に数多く生息し、集団て繁殖していた。 しかし、近年、これらの上或が埋め立て や干拓て、改変されたため、急激に個体数 が減少し、集団繁歹也もつぎつぎに消失 鵜の山ウ繁殖地 した。現在、日本て、は数カ所が知られる 指昭和 9 年一月 22 日 だけて、あわせてもおよそ 1 万 1000 羽が 所愛知県知多郡美浜町 生息しているにすぎない。鵜の山と東京 美浜町 しのばすのいけ 上野の不忍池の繁殖集団がこのほとん どを占める。 伊勢湾と三河湾に弓状に突き出した知 ( 長谷川博 ) 多半島は、なだらかな起伏をもつ低いム 地状の景観をなす。谷の部分は水田に用 いられ、尾根は果樹園や畑地になってい かんがい る。各所に灌漑用の溜め池があり、その 全長 翼開長 長 せんせい わら ( 長谷川博 ) 趾長 うやま 鳥体の測定 鳥類・ 51
目 物 一三ロ ・哺乳類 ケナガネズミ 36 カモシカー ヤマネ 37 笠堀のカモシカ生息地田 岩泉湧窟およびコウモリ 40 奈良のシカ円 大吼谷蝙蝠洞 ケラマジカおよびその生息地四 西湖蝙蝠穴およびコウモリ 下北半島のサル タイトウオオコウモリ 44 およびサル生息北限地 22 ー 23 オガサワラオオコウモリ 44 高崎山のサル生息地 24 ー 25 ェラブオオコウモリ 44 箕面山のサル生息地 24 スナメリクジラ廻游海面 45 局宕山のサル生息地 28 シュゴン 45 臥牛山のサル生息地 28 幸島サル生息地 29 カワウソ 32 向島タヌキ生息地 32 イリオモテヤマネコ 33 ッシマテン 33 ッシマヤマネコ 33 アマミノクロウサギ 36 トゲネズミ 36 ■鳥類 トキ 48 鵜の山ウ繁殖地 49 川下・麻里布シラサギ渡来地 52 コウノトリ 53 伊豆沼・内沼の鳥類 およびその生息地 56 ー 57 コクガン 57
かさばり 笠堀のカモシカ生息地 指昭和 46 年 5 月日 所新潟県南蒲原郡下田村 な地区て、もあるなど、その物鋤面値は 貢献している。 明治の初期と太平洋戦争時に咸した ものの、その都度人びとの愛護を受けて 回復した。昭和 39 年頃に約 1000 頭に達し た後は、多少の変動はあるもののほほ かん そび ばらしただ 20 ・哺乳類 等社会問題を考える際の比較検討が可能 きわめて少ない生息環境下にあり、食害 この点、笠堀のカモシカは人間の影響が られてきたよ或においてのようて、ある。 おしなべて、拡大造林などの開発が加え きな社会問題となって久しいが、それは カモシカによる農林産物への食害が大 なっている。 分布域が拡大していることが明らかと さらにこの指定地の周辺部て、は、近年、 か、カモシカは安定した生息密度を保ち、 る。このような植生条件などを反映して 別て、き、そのほとんどが自然状態下にあ 低イ木、そして緩斜地のブナ林などに大 不泉部のヒメコマツオ衣山腹のミズナラ 達する険しい山容を呈している。植生は 後山脈の一角に位置し、各所に断崖が発 駒形山 ( 1072 メートル ) などが聳える越 この地区は、矢筈岳 ( 1258 メートル ) 、 やはず たのて、ある。 として全国て、も例のない或指定を受け ようになり、この地区がカモシカ生息地 なった。やがてその存在が注目を集める て、カモシカの姿が容易に見られるように 前述の笠堀ダムが完成すると、その上流 たという。ところが、昭和 39 年 ( 1964 ) に ばれ、その姿を目にすることは不ごあっ 当時、カモシカは「幻の動物」などと呼 に指定されたのて、ある。 がけて昭和 30 年 ( 1955 ) 、特別天然記念物 のために、カモシカは他の野生重勿に先 降、個体数は減少の一途をたどった。そ などによりその狩獺王が高まり、明治以 毛皮や、カツオ釣りの鉤に利用される角 されてきた。さらに、防寒・防湿に富む クシシなどと呼ばれ、古くから食用に供 カモシカは、地方によってはニク、 クタールの国有林に位置している。 原郡下田村の笠堀ダムの上流約 5000 へ 笠堀のカモシカ生息地は、新潟県南蒲 きわめて高いものがある。 なら 奈良のシカ 指昭和 32 年 9 月田日 所 ( 奈良県 ) ( 赤坂猛 ) かすが ばい状態て、ある。 ( 花井正光 ) ネ上仏閣の多い奈良公園と、春日山原 始林の名て、特別天然記念物に指定され ている隣接山地に生息するニホンジカ が、天然記念物に指定きれている。シバ 草地て、一頁ものシカカ啅を食み休息す のどか る様はいかにも長閑て、、古都にふさわし い景観として馴れ親しまれてきている。 しんろく 古来、「お春日さんの鹿」と呼ばれ、神鹿と して愛護されてきたからのことて、、人と 獣の稀有な係わりが成立している。 現代人にとって、シカはあたかも奧山 の動物と見なされがちて、あるが、イノシ シとともにもともと人里近くにも生活場 所をもってきた重勿て、ある。シカは、木 の葉や枝の先端部も食べないことはない が、草をおもな餌とする動物て、ある。奈 せんべい 良公園て、みるシカは人の与える鹿煎餅に 餌を依存しているのて、はない。公園のシ バ羣が 5 センチ以上に伸びないのは、シ せつしよくあっ 力がそれだけ摂食圧を加えているから にほかならない。また、奈良公園だけて、 シカが生活しているわけて、もなく、謝妾 する山地にも生息し、相互に行き来して いる。里ジカと山シカに区分されても、そ の間に大きな隔たりはないらしい。要す るに奈良のシカは、ニホンジカとしての 野性を捨て去ってはいないのて、ある。 森林て、はなかなか観察て、きないシカの 生きざまも、奈良公園て、はその制約が少 ないことから、ニホンジカの生態を研究 するにはまたとないフィールドとなって きた。奈良のシカが学術的に価値の高い もうひとつの理由て、あろう。社会構造の ほか食蹶繁殖、生き残りかたなどいく つもの研究がなされ、シカの生態究明に は ケラマジカおよびその生息地 囮昭和 47 年 5 月日 所沖縄県島尻郡座間味村 座間味村 沖縄県那覇市の西方約 30 キロの位置 けらま に、大小 20 ほどの島じまからなる慶良間 やかび げ 列島がある。この列島中の屋嘉比島、慶 留間島および阿嘉島の三つの島にだけシ 力が生息している。 ケラマジカは、本リ、 l'l ・四国・九州に分 布するニホンジカの一亜種て、あるホンド ジカに分類されているが、かっては独立 した亜種とされていたこともある。体つ ことと、ふつうニホンジ きがやや小さい 力の角は四つの尖りをもつのに対し、ケ ラマジカのオスの角のほとんどは三つの 尖りをもっことを外見上のキ致としてあ げることがて、きる。 ニホンジカの餌植物としては多くの調 査地て、イネ科の草本植物の重要生カ寉か められている。慶良間列島は亜滞性気 候下にあって植物相も大きく異なってい るが、ケラマジカがもっともよく利用し ているのは、やはりイネ科植物て、あるら しく、 13 種が採食されていることがわ かっている。繁歹直についてはよくわかっ こうび ていないが、 9 月から 11 月にかけて交尾 期があり、春に仔が産まれるとされ、 の面て、も温帯のニホンジカと変わっては いない ケラマジカは慶良間列島の在来重勿て、 はなく、南九リ、 FI 地方より移入されたホン ドジカが祖先て、あろうと考えられてい りゆうきゅうごくゆ る。 18 世紀初めに編まれた『琉球国由
0 幸島サル生息地 ( 宮崎 ) 幸島は亜 帯性の海岸樹林がしげる周囲約 4 キロ メートルの小島て、島内には古くから野生 のサルが生息し、猿島ともよばれている。 幸島の全景。 たかごやま 0 高宕山のサル生息地 ( 千葉 ) 8 群カ寉認 されており、房総半島の代表的サルの生息地 となっている。 0 牛山のサル生息地 ( 岡山 ) 臥牛山は びっちゅう 備中松 L 助 ; として亦にも指定されている。 ばうそう 幸島のサル ニホンザルの社会を調べる目的 て、、日本て最初に餌づけされた記 念碑的な群れ。餌のサツマイモを : ルトに浸して食べる行動が、群れ のサルの間に波及するのが観察さ れ、「イモ洗い文化」として世界に 広く知られることとなった。ま た、ニホンザルの社会を解明する うえて、、初期の日本のサル学に大 きく貢献した。現在て、は、京都大 哮長業 f 究所の研究施設も開設 されていてヾ多くの研究者に格好 のフィールドを提供している。 哺乳類・ 29
: 0 を : 三み 0 / : 第ツ 、一み義 たかさきやま ている。 べつぶ 0 高崎山のサル生息地 ( 大分 ) 別府湾に面した高崎山に生息するニホンザルの群れはわが国最大て、、観光・生態観察の両面から注目をあび のおやま ①面山のサル生息地 ( 大阪 ) 箕面山は渓谷美とモミジの名所として親しまれているが、古来、野生のサルのすむ山としても知られている。
みッ かつば 0 カワウソ ( 高知 ) かってはわが国のいたるところに生息し、河童のモデルとして親しまれてきたが、隻や河川環境の変化が 原因 0 飃咸した。現在て、は四国の宿毛湾などにごく少数みとめられるだけて、、糸威寸前の状態といわれる。 、ン すくも ①向島タヌキ生息地 ( 山口 ) 島の大部分が森林て、ある向島は、かってタスキの代表的な生息地として知られていたが、蜷丘て、は減咸した。 みい
て、その適切な保護管理が強く望まれて ( 花井正光 ) たかさきやま しもきた 下北半島のサルおよび 高崎山のサル生息地 サル生息北限地 隔昭和 28 年Ⅱ月図日 所大分県大分市大字神崎 囮昭和 45 年Ⅱ月Ⅱ日 大分市 所青森県下北郡脇野沢村・佐井村 べつぶ 高崎山は、別府湾に面した海抜 628 メ みのおやま ートルの孤立峰て、項上から北と東に伸 下北半島の西北部と西南部の 2 ヵ所に 数群のニホンザルが生息している。下北 びるキ尾根はともに幾本かの枝尾根に分 半島のサルとその生息地は、ニホンザル かれて、いずれも海岸に落ちている。北と 東の主尾根に挟まれて海に面した 116 へ の分布北限て、あると同時に、世界のサル 類の分布からみてももっとも高い緯度に クタールほどの斜面は、深い常繍ム葉樹 大阪の中心から近く、滝と紅葉の名勝 位置していることから、積雪地にすむ「北 の森林におおわれていて、古くからニホ て早くから親しまれてきた箕面山には、 ンザルの生息地として知られていた。 限のサル」として海外にも広く知られて 古くからニホンザルが生息していた。昭 昭和 28 年 ( 1953 ) 、山麓にある寺院の境 和 29 年 ( 1954 ) 、宮崎県の幸島や大分県の 西南部の生息地には海岸に接して 3 群 内て、餌づけが行われるようになったが 高崎山のサルの餌づけを先例として、箕 付近の畑イ信勿への食害防止と観光客の誘 の遊重が或が隣り合ってあるが、このうち 面山て、も餌づけが行われた。約 70 頭の群 致を意図してのことて、あったという。著 一番南の群れだけが餌づけされており、 れがこの時の餌づけ対象て、あったとされ 下北 A 群の名て呼ばれている。半島西南 名な観光都市、別府が目と鼻の先にある ている。 くそうどまり ため、手近に野生のニホンザルが観察て、 端の脇野沢村九艘泊地区て、昭和 38 年 大阪府下て、も、大正日にまて、は泉北お ( 1963 ) に給餌が始まったとき、 A 群は 15 きるようになると多くの見学者が訪れる よび泉南地区にもニホンザルが分布して 頭だった。ブナを主体にところどころヒ ようになり、高崎山自然動効園の名は世 いたが、昭和 30 年頃まて、に、箕面山を残 バが群生する下北の森林が、伐採と跡地 に広まった。瀬戸内海国立公園に編入さ して他はことごとく消滅したことカ靃忍 への人工造林て、大きく変貌したのもこの れたのは昭和 31 年 ( 1956 ) て、あった。 されている。明治年間に府立箕面公園と 頃て、あった。地兀の人達による給餌は、 餌づけが群れのサルを著しく増やす現 なって自然に近い植生がよく保存されて サルの斉と同時に農イ乍物に対する食害 象は高崎山て、も例外て、なく、当初 220 頭 きたことと、奧山が国有林て、占められる 防止の両方て効を奏した。天然記勿に て、あったのが、昭和 54 年 ( 1979 ) には 2002 部分が多く、里山ほど人為が加わらな 頭にまて増加し、この間、 6 回におよぶ 指定された昭和 45 年 ( 1970 ) には 42 頭に かったことが、箕面山のニホンザルの生 群れの分裂を経て、現在は 3 群が認めら 増加していた。 存に一尉章を与えたに違いない 西北部の山中にも 3 群が生息してい れている。高崎山のサルの最大の特徴は、 サルが容易に見学て、きるようになると て、昭和 48 年 ( 1973 ) には京都大学霊長類 群れの規模の大きさにあるといえよう。 訪れる人も増え、餌づけにより生息数も 研究所の研究林が設定されている。しか 丘て、は、生息地の森林がサルの影響て、 増加した。しかし、その一方て、箕面山 しながら、西南部よ或て、も同じて、あるが、 植生に変化を生じてきており、生息場所 の生息地て、は交通事占ヒにあうサルが少 現在て、も森林の伐採や植林は続けられて としての劣悪化が懸念されている。 なくない。また、サルが人に危害を加え いて、自然林の縮小による生息地の悪化 カロリーの低い餌を少量給餌するなど ることも多く、給餌への依存度が他の餌 が懸念されている。 して、増殖率の抑制を図る対策がすて、に づけ群より高いなど、自然環境の少ない 一方、「北限のサル」のシンポルともい とられており、総イ聞櫢が減少してきて 都市部に近いところて、の特徴と考えられ うべき下北 A 群は、昭和 52 年 ( 1977 ) には いる。しかし、適正な生息数まて減らす る現象が顕著て、ある。 100 頭をこえ、群れが分裂し、農イ信勿被害 には、十分な調査研究に基づく管理引画 この好ましくない事態に対処するた 或カ昿がるなど新たな局面を迎えてお が必要て、あり、この面て、の取り組みが課 め、昭和 52 年 ( 1977 ) に研究者を中心にし り、科学的な研究に基づいた保護管理の 題となっている。 た箕面山猿調査会が結成され、サルの遊 必要生が強 <i 甜商されている。 ( 花井正光 ) 高崎山は、宮崎県の幸島と相前後して 重が或を奧山に強制的に移動させ、人との 餌づけされたことにより、初期のニホン 接触を避けさせる一方、給餌量の減量に ザル研究に重要なフィールドを提供し、 より増加率を抑制するなどを内容とした サル学に多くの成果をもたらした。日本 保護管理方策が実行されつつあり、その の霊長類学にとってのいわば記念碑とし 成果カ硼待されている。 ( 花井正光 ) 哺乳類・ 27 箕面山のサル生息地 脂昭和引年に月 28 日 所大阪府箕面市箕面 もみじ 、ゆニ一一 わきのさわ
て渡るものとがあるらしい。標言観査に よっていずれこの先の経路も解明される マガン 丸味のある額。 コクガン 上頸部に 白い斑紋 ガン類の頭部 コクガン カリガネ 角張った額は頭頂 部まで白い ジ色の帯 くちばしにオレン ヒシクイ 底に生えているアマモや岩についている アオノリを、水中に頭を突っこんて、逆立 ちして食べる。陸にあがって地上て、採食 することはない。時どき干潟や岩の上に あがって休息する。東アジアて数少ない コクガンを保護するためには、渡来する 内湾を汚染から守り、コクガンの餌とな るアマモをふやすことが必要て、ある。 ( 長谷川博 ) 石川県 ) 所 ( 北海道・青森県・宮城県・新潟県・ 囮昭和 46 年 6 月 28 日 マガン いが、樺太経由のものと千島列島に沿っ している。その先はまだ孑則の域を出な 経由することはなく、北海道を中継地と するマガンはソ連也方や朝鮮半島を が明らかになってきた。日本列島に渡来 丘の調査・研究によって渡りの経路 草を採食する。 対する警戒を怠らない。浅い水域て、は水 群が単位となった群れて行動し、タ攵に 食べる。この時にはつがいあるいは家族 田の落ち籾 ) やイネ科草本の種子、草を 湿地、農耕地に飛び出して穀類 ( 特に水 や休息場所として利用し、周辺の水田や マガンはこうした内陸の湖沼をねぐら くっかの或にごく少数が渡来する。 る。また、佐渡に 40 ~ 70 羽、そのほかい 県の片野鴨池て、、 500 ~ 1000 羽が渡来す ~ 7000 羽が越冬する。もうひとつは石川 野北部の伊豆沼・内沼周辺て、、毎年 6000 くなってしまった。そのひとつは仙台平 よそ 7000 ~ 8000 羽が渡来するにすぎな 数は急減し、現在て、はおもに 2 或にお たが、狩猟と生息地の縮小によって個体 かって日本列島の各地に数多く渡来し 渡って越冬すると孑則されている。 が、日本列島や朝鮮半島、中国中南部に リア北部や北アメリカ北西部の繁殖集団 には温帯南部に渡って越冬する。東シベ マガンは寒帯ツンドラて、繁殖し、冬季 て、あろう。 ( 長谷川博 ) 指昭和 46 年 5 月円日 所 ( 北海道・青森県・秋田県 ) こうした入り江や内湾の浅い海て、、水 かの場所にもごく少数の個体が渡来して 部の松島湾に 100 ~ 200 羽て、ある。このほ 奥湾に 300 ~ 400 羽、南に下って仙台湾奥 150 羽、その対岸にあたる、 FI 最北端の陸 すぎない。北海道南端の函館湾に 100 ~ 3 地域に 500 ~ 800 羽が渡来しているに ていたと考えられるが、丘て、はおもに 日本列島の内湾や入り江に数多く渡来し 沿岸地方に渡って越冬している。かって 集団が、東北日本の内湾と中国の瀚毎湾 ぼっ力、い 東シベリア北部の沿岸地方て、繁殖する る。内陸の湖沼に入ることはない なっている浅い海や内湾の干潟て生活す る。冬季には温帯北部に渡り、入り江と るいは海岸に近い丈の低い草地に生息す たけ ドラて、繁殖する。湖沼や大きな河川、あ 61 センチの小型のガンて、北極圏のツン 本に黒色て、、喉と腹とが白い全長約 ヒシクイ 囮昭和 46 年 6 月 28 日 所 ( 北海道・青森県・宮城県・ 新潟県・石川県 ) ヒシクイはユーラシア大陸の寒帯から 亜寒帯北部に広く分布し、それより南の 亜寒帯南部から温帯域に分布している。 ヒシクイは、冬季、温帯地方に渡り、東 アジアて、は日本列島、朝鮮半島、中国大 陸東南部て越冬する。 日本列島には、以前に数多く渡来し、 各地て越冬していた。しかし他のガンと 同じように、豸鼡と生息地の縮小によっ て、近年、イ固イ櫢カ墸しく減った。現在、 数地域に 3000 ~ 5000 羽が越冬するのみ て、ある。おもな越冬地と渡来数は、太平 : 判則て、は伊豆沼に 1000 ~ 2000 羽、日本海 側て、は琵琶湖に 200 ~ 300 羽、片里角髜也に 300 ~ 500 羽、新潟県朝日池に 100 ~ 200 羽、そして福島潟に 1500 ~ 2500 羽て、あ る。これらの湖沼て休息し、ねぐらをと る。そこから周辺の水田や湿地に飛んて、 行って、水田て、は落ち穂をひろい、畔に 生えている草を食べる。湿地や湖沼て、は 水生植物を食べる。ヒシの実をよく食べ たことからヒシクイの名前がつけられ た。マガンと異なり小群や中程度の群れ て、行動する。この種て、も、つがいか家族 群が社会生活の単位になっている。 ヒシクイも北海道の湖沼を経由して渡 ることが明らかになった。春、太平洋側 の集団は太平洋岸に沿って、日べ毎側の ものは日本海側の湖沼づたいに北上す る。 ( 長谷川博 ) 鳥類・ 59
、 1- 物 4 はちじよう・まみ ①アカコッコ ( 東京・鹿児島 ) 八丈暠や一 宅島、青ヶ島など伊豆諸島南部に一年中生息 する、日本固有の鳥。 やけじまあおしま 0 カササギ生息地 ( 福岡・佐賀 ) カササギは、豊臣秀吉の朝魚殳のとき藩主が持ち帰ったことから繁殖したといわれ、佐賀平野一帯だけにす はくはん む。カラスより小型て、尾が長く、黒い翼には白斑があり、たいへん美しい。また高木に球形の巣 ( 写真右 ) をつくることても知られる。 ①イイジマムシクイ ( 東京・鹿児島・沖縄 ) ウグイス科に属する日本固有の鳥。生息地は離島 よなくに にかぎられており、伊豆諸島て、繁殖し、冬は沖縄・宮・与那国などて、越冬する。 ①越ヶ谷のシラコバト ( 埼玉 ) 淡い灰褐色の 小型のハトて、、越谷市の雑木林などにすむ。