編集協力 ( 順不同 ) 全林野写真サークル全国協議会 滋賀県立琵琶湖文化館 広島市安佐動物公園 鳥羽水族館 日本自然保護協会 日本鳥学会 山階鳥類研究所 名古屋女子大学生物学研究室 東京都立大学理学部自然史研究室 名古屋大学教養部生物学教室 九州大学教養部生物学教室 日本野鳥の会 蒲郡郷土民俗資料館 鹿児島県立博物館 日本野生生物研究センター 東京水産センター 鹿児島市平川動物公園 名張市赤目サンショウウオセンター ポンカラーフォト工イジェンシ 国立科学博物館 佐賀屋 春日大社 ン・六 , / ヾ、ノ 野生圏 MO フォトス 柳田親則 山本桂子 茂木恒夫 小川巌 水向芳章 木下陽一 竹内敏信 白水隆 中村守純 茂木恒夫 キュウフォトインターナショナノレ ク ネイチャーフォトライプラリー ネイチャープロダクション 新潟県自然保護課 上野村教育委員会 日高営林署 尾鷲営林署 今市営林署 大根占営林署 丹渓 フォトライプラリー明星 芳賀フィルムライプラリー タンジフォトライプラリ オリオンプレス ひまわり J 0 小黒企画 光陽フォトオフィス 北海道撮影社 アニマルフォト 笠岡市役所 三原市教育委員会 長門市教育委員会 豊田市教育委員会 日和佐町企画観光課 美郷村役場 白浜町教育委員会 野母崎町観光商工課 喜多方市教育委員会 松前町教育委員会 日高町教育委員会 川内村教育委員会 松尾村教育委員会 大館市教育委員会 いわき市教育委員会 勝山市教育委員会 飯山市教育委員会 御前崎町教育委員会 大和村社会教育課 岡崎市教育委員会 山東町教育委員会 近江町教育委員会 京都市文化財保護課 茂原市教育委員会 竹富町教育委員会 弟子屈町教育委員会 日高町教育委員会 宇奈月町教育委員会 立山町教育委員会 大野市教育委員会 高知市教育委員会 院内町教育委員会 湯布院町教育委員会 大和村教育委員会 字検村教育委員会 住用村教育委員会 文化庁文化財保護部記念物課 ・参考文献 『天然記念物事典』 ( 第一法規 ) 『史跡名勝天然記念物指定目録」 ( 第一法規 ) 環境庁編「日本の重要な植物群落』 ( 大蔵省印刷局 ) 「全国遺跡地図』 ( 国土地理協会 ) ・作図・製図 浅井粂男 木村図芸社 さくら工芸社 ・地図製作 単至 日本工房 白砂昭義 ・写植 ナグ ・ 169
執筆者一 赤木和郎 岡山県教育委員会 浅田義邦 覧 ( 50 音順 ) 仙台市健康都市建設推進事務局 石田昇三 乾風登 和歌山県立南部高等学校教論 石川良輔 東京都立大学教授 伊藤秀三 長崎大学教授 今田岳村 山口県豊田町立豊田西中学校教論 生出泰一 旅行作家 大沢雅彦 千葉大学助教授 太田威 写真家 大野照好 鹿児島短期大学教授 奧富清 東京農工大学教授 小滝一夫 日本自然保護協会研究員 加藤文男 福井県立高志高等学校教論 加藤陸奧雄 東北大学名誉教授 加藤安信 河野昭一 富山大学教授 北川茂 元徳島県海部町立海部西小学校長 君塚芳輝 木村卓 千葉県教育庁 桑沢清明 東京都立大学助教授 桑原一司 広島市立安佐動物公園飼育課 西條邦泰 宮城県志津川町立志津川中学校長 斎藤嘉明 写真家 二枝豊平 九州大学教授 清水清 都留文科大学講師 新庄久志 釧路市立博物館学芸員 鈴木政一 千石正一 日本野生生物研究センター 10 ・ 辻井達一 北海道大学助教授 外山三郎 宮崎大学名誉教授 長瀬尊 福岡県筑後市収入役 新納義馬 琉球大学教授 西尾秋雄 徳島県蚕業試験場長 長谷川博 東邦大学助手 畑正憲 作家 畠山一成 蜂谷剛 福島大学教授 花井正光 文化庁文化財保護部記念物課 波部忠重 東海大学教授 林公義 横須賀市自然博物館 林正美 埼玉大学助手 針生勤 釧路市立博物館学芸員 春田俊郎 日本鱗翅学会会員 平居正城 全国ホタル研究会近畿支部幹事 古田忠久 岡崎市立河合中学校教論 芳西靖幸 南川幸 名古屋市立保育短期大学長 南谷忠志 宮崎県立高鍋高等学校教論 宮前俊男 群馬県立利根農林高等学校教論 村上興正 京都大学助手 望月陸夫 秋田県立大曲農業高等学校教論 森田真一 長崎大学名誉教授 保田信紀 層雲峡博物館長 山本勝博 富山県立魚津高等学校教論 結城嘉美 山形県文化財保護審議委員 和田清 信州大学教授
守ると同時に、研究にも手をつけるようにならなけ れば、事態は一向によくならないだろう。世界的に 見ても自然保護官がすくないのだから、動物保護行 政の根本から改めるべきだと私は信じる。 動物を訪ねて行くと、直接の管理をしているのが、 地方自治体の教育委員会て、あったりする。その努力 は言刊面しなければならないけれども、これて、はいけ ないのて、ある。 残そうという努力につながっていく。開発を優先さ 思う。それを残そうとする努力は、地球そのものを き残り続けていくところに大切な意味があるのだと たくさんの人が住むこの日本列島の中て、、それが生 ーっを取り上げればどうということはないのだが、 天然記念物の動物は、自然界の象徴て、あり、それ ると思う。 ある。そして、環境を守るために正しく闘って行け たら、粘り強くそういうものを発見して行けるのて、 かが、悪い影響を及ばしていたりする。専門家だっ ように見える、 100 キロ以上もはなれた所にある何 さまざまなものが必要て、ある。まったく関係がない ある一つの動物の種が、健全に保たれるためには、 せようという地方て、は、 便利になるのだから、自然を改変してもやむを得な という議論をしようとする。 こうやればこれだけ 動物が大切か、人間が大切か 動物を大切にするものの考え方や技術は、地球を そうて、はないのて、ある。 いと言フ。 清潔に保っことにつながって行き、人類を救うのて ある。コンクリートて、かためてしまい、動物を殺し 続け、森や木を安易にこわしていくと、人は必ず、 大きな罰を与えられるのて、ある。 シマフクロウはいま、系色威の危機にある。森林を 乱開発したため、大木がなくなり、営巣出来なくな りつつあるからて、ある。 そして、その森にシマフクロウがいても、現行の 法律て、は、大木を切ることが出来るのだからおかし なものて、ある。鉄砲て、撃つのと同じような行為が、 何の疑いもなしになされているのだから怖しい 天然記念物に指定されている家畜にしたって、さ みさきうま まざまな問題を抱えている。宮崎の岬馬だって、人 がどう手を加えていけばいいかを、しつかり考える 専門家が、現地にいて欲しいと思う。あれはもとも と野生の馬などて、はなく、放牧されていたものなの て、ある。放牧には、オスを除いていく技術などがあ り、人が介入することて、馬の群れを安定して住まわ せていたはずて、ある。もっと大胆にやって行かない と、残すことの意味そのものも薄れてしまうだろう。 見島の和牛なども、篤志家の手によって支えられ るのみになっている。これは、惜しい財産だと思う。 カプトガニ、モリアオガ工ル、ナメクジウオ、ス ナメリクジラ廻游海面、オジロワシ、ザリガニ棲息 地などなどは、環境の変化が大き過ぎて、明日が心 配て、ある。なかには、指定を解除して欲しいという 願いが出ているものもあるはずて、ある。 カプトガニは埋め立てによって、ナメクジウオは
近年、オオサンショウウオの自然分布 オオサンショウウォ生息地 地とは思えない或て、発見された例が少 指昭和 2 年 4 月 8 日 なからすある。去に捕獲された個体が 所岡山県真庭郡湯原町・八束村・中和 脱出して発見された、人為分布の例て、あ 村・川上村 ることもあったが、正体が中国大陸原産 湯原町・八束村・中和村・川上村 のタイリクオオサンショウウォて、あった ちゅうか やっか 岡山県真庭郡湯原町・八束村・中和 例も少なくない。これは食用を名目とし て極めて大量に輸入されたものて、ある。 村・川上村のオオサンショウウォ生息地 現在はワシントン条約によって国際取引 は、昭和 2 年に天然記勿の指定を受け、 が禁止されており、中国もこの条約に加 各町村が管理している。岡山県教育委員 こういう意言ß.fi 勺または過失 会文化財イ隻課や湯原町のハンザキセン 盟している。 けいもう ターが飼育池を設けたり、啓蒙運動をし による放流は、分布を乱し、ひいては生 態系へ支障をきたすのて、、厳にいましめ たりしている。 岡山県は恥重の分布密度が高く、古く るべきて、ある。 ( 千石正一 ) から「はんざき大明神」を祭っていたり したが、ダムや道去張によって、生息 不能となった或もある。 ( 千石正一 ) まにわゆばら オオサンショウウォ生息地 囮昭和 2 年 4 月 8 日 ( 和良村 ) 昭和 7 年に月円日 ( 八幡町 ) 所岐阜県郡上郡和良村・八幡町 闇和良村 オオサンショウウォ生息地 オオサンショウウォ生息地 脂昭和 8 年 2 月 28 日 指昭和 2 年 4 月 8 日 所岐阜県郡上郡大和村 所大分県宇佐郡院内町・大分郡湯布院町 大和村 置院内町 いんない 岐阜県郡上郡和良村の和良川とその 大分県宇佐郡院内町のオオサンショウ 支流のすべてが、昭和 2 年 ( 1927 ) に天然 ウォ生息地は、昭和 2 年に天然記勿に やっかん 記念物に指定され、八幡町の鬼谷川水域 指定されている。現在は駅館川の支流、 あまり が昭和 7 年に、また大和村の小間見川水 余月 li 或のみに生息している。 系が昭和 8 年に追加指定された。 こは民有地て、あるため、森林伐採等 岐阜県はオオサンショウウオの分布の の環境変化カ墸しく、加えて農薬の乱用 東限なのて、、生息の実態がくわしく調査 等て、滂気咸している。管理している院内町 される必要がある。大和村て、は保護池が は、昭和 49 年に放養池を設けたりしてい 作られている。 るが、成果ははかばかしくない。大分県 ( 千石正一 ) は本種の自然分布の南限て、ある。 ( 千石正一 ) ぐじようわら ら : 数珠状に連なった卵嚢 あふれる。巣を独占した雄は巣穴を守 り、体を巻くようにして外敵から卵を 守る。卵は黄色で直径 8 ミリほどあり、 一個一個の卵が卵嚢で包まれ、さらに 卵索と呼ばれる寒天質のひもで数珠状 に連なっている 卵塊を守る雄 オオサンショウウオの 産卵巣は川岸の水面下に入り口をもっ 横穴で、奥に広間があり深さは一 メートルある。雌が次々と巣穴を訪れ 卵を産むと、雄は後を追って侵入し放 精する。産卵巣のなかは受精した卵で 両生類・ 25
男女群島の古い石垣 毎の中の無人の孤島は、そこに何があるのかと人の夢 をかきたてる。東シナ海の男女群島は、 4 度の渡島の機会 のたびごとに こうした期待をもたせてくれた。各島は四 囲に断崖絶壁をめぐらし、人を容易には寄せつけない。女 島南端の灯台への職員交代や物資補給て、さえ、波静かな日 に、補給船からはしけへ、はしけから島へと移しかえて陸 に上げられる。この場所以外は、凪いだ日て、あっても上陸 してみたくなるような海岸地形て、はない けわ こうした険しさが、男女群島に昔と変わらぬ無傷の自然 を残させた。私の 1 回目の渡島は、昭和 42 年 ( 196 の、長崎 県教育委員会と文他ヤの引画による総合学術調査のときて、 おしま あった。男島の東風泊に上陸し、崖地の間の狭い空間には りつくようにテントを張り 3 晩を過ごした。島の上部は照 わず 葉植抃木に績農くおおわれる。陽光は僅かに地ーヒにもれる。 そこにゆくのは、深海の底を歩む感さえした。 原始の照葉植材木の中、不ム土は突然に石垣に出くわした。 だんじよ それは半ばくずれかかり、苔むし、その上には巨木が生え ていて、古さを物語っていた。海岸の崖の上の山中て、のこ とて、ある。私はなぜか、冩肌がたつほどに恐怖感におそわ れたのを覚えている。 石垣は自然石を積み上げたものて、、沢をはさんて、幾段に も築かれていた。誰が何の目的て、ここに石垣を築いたのて、 そうせい あろう。この場所て、はないが、ヤダケが叢生する場所もあ る。ヤダケは、かって矢を作るのに使われたササの一種て、 ある。 男女群島は日本近海にまれに残る原始の孤島て、ある。人 が住める場所て、はない。その崖地の上に石垣があり、ヤダ ケが叢生する。石垣は何の目的て、いっ頃築かれたのて、あろ う。ヤダケはいつの時代に植え込まれたのだろうカ % 原始 の島の中には、自然や生物だけて、なく人 : 1 闘 ; についても、 まだ多くの謎が残されているようだ。 ( 伊藤秀三 ) れ、強風のため樹高は 4 ~ 6 メートルに 達するにすぎない。その中にビロウ ( ヤ シ科 ) が混生し、しばしば 8 メートルの 高さに達し、海上からも認めることがて、 きる。林内には、ツワプキ・オニャプソ テッ・ティカカズラ・フウトウカズラ・ ムサシアプミなどが密生する。 植物分布上注目をひくのは、ナタオレ ノキ・ビロウ・イソヤマアオキ・ミヤコ ジマッヅラフジの生育て、ある。阿値賀島 は、これらの北限に近い分布地て、ある。 上阿値賀島にはオオミズナギドリ ( ミ ズナギドリ科 ) がすむ。島の上部の傾斜 地に穴をほり、その奧に産卵し抱卵する。 生息密度の高いところて、は、地面がしば しば裸となっている。夜明け前に海上へ 飛び立ち、昼間は海上て、すごし、夕刻島 に帰ってくる。この鳥のほか、カラスノヾ ト ( ハト科 ) 、アマッパメ ( アマッパメ科 ) 、 シマセンニュウ ( ヒタキ科 ) が生息・繁 殖する。 ( 伊藤秀三 ) ばろいしやま 双石山 置農林水産省 ' 所宮崎県宮崎市 指昭和 44 年 8 月 22 日 はシマサクラガンヒ。・ヒュウガギボウ ツッジ等が特異な群落をつくり、岩壁に 不泉はツゲモチ・アデク・アラゲミッノヾ 上はイスノキーウラジロガシ群集となる。 まて、はミミズバイースダジイ群集て、、その 物が繁茂している。斜面は 200 メートル ロヤマシダ類など大型シダや亜帯性植 ノキが多く、林床はリュウビンタイ・シ 占し、その下にはタニワタリノキ・ハド 谷部は高木層にタブ・ホソバタブが優 林て、被われている。 域は 63.96 ヘクタールて、、全域が照葉樹 うぼうに奇岩や絶壁がみられる。指定地 峻な山て、、長年にわたる浸食作用て、、ほ からは第三紀層の砂岩、礫岩からなる急 れきがん 双石山は標高 509 メートルあり、中腹 シ・チケイラン・ヒノキシダ・イワヒノヾ 等が着生している。 構成種は 113 科 570 種が記録されてい る。その中には、アミシダ・クサマルハ チ・キクシノブ・スジヒトッノヾ・ナンカ クラン・ヒカゲアマクサシタ守・ヘゴ・ヘ ッカシダ ( ここが北限 ) ・ヤクシマハチ ジョウシダなどの稀産種を含め、 147 種 のシダがあり、南方系シダの宝庫となっ ている。またアデク・チケイラン・ツユ クサシュスラン・ヒロハノカラン ( 以ーヒ 北限 ) やイソヤマアオキ・ギョクシンカ・ ショウべンノキなど種子植物にも亜鑿滞 性のものが多い その反面、コウヤボウキ・フジツッジ・ アラゲミッパッツジなどの南限植物があ るのも鄭未深い 宮崎市街地から ( 南へ ) 車て約 20 分の ところに、このような貴重な自然が残さ れていることは驚くべきことて、ある。 ( 外山三郎 = 宮崎、南谷忠志 ) 天然保護区域・ 145
天然記念物に指定申請した。護岸工事や 沢辺ゲンジボタル発生地 強い農薬の使用て、、場所によっては : 咸 指昭和年 2 月田日 した時期もあったが、小中高校の教師、 所宮城県栗原郡金成町 生徒、青年団、有志および豊田町が一体 金成町 となって保護増殖の努力をした結果、か にしいち 沢辺ゲンジボタル発生地は、元禄 13 年 なり増加している。現在、豊田町立西市 清日は、市街地の近辺にもかかわら ( 1700 ) に造成された農業用水路の板倉 小学校にはゲンジボタル飼育研究委員会 せき みはざま ず自然環境がよく維持されているのて、、 堰て、、三迫川の取入口から 700 メートル があり、増殖の実際と研究を行っている。 天然記念物のアユモドキをはじめ多種 の間て、ある。 なお、毎年 6 月上旬のシーズンには、町 類の水生重丿効が生息している。この中て、 6 月中句から 7 月上旬にかけて発生 の中心、西市て、ホタル祭りが催される。 はんげしよう ゲンジボタルの成虫の個体数は、昭和 50 し、半夏生の日 ( 陽暦 7 月 2 日ごろ ) には 音信川は、木屋川と一部分は水域をと ~ 52 年 ( 1975 ~ 7 のに羽にラッカーて、個 ホタル合戦があったと言い伝えられてい もにする水系て、、温泉郷湯本の中心を通 体別に印をつけて ( 標識再孑膩去という ) 調 る。体長は雄 11.6 ミリ、雌は 14.1 ミリて、 り、清流のせせらぎと飛び交うゲンジボ べた結果、 6 ~ 7 月に 2 キロの区間て雄 小形て、ある。 タルて : 有名て、ある。長門市立俵山中学校 が 2300 ~ 4000 匹、雌が 1200 ~ 1700 匹も 天然記念物に指定された要因は、天明 は、ゲンジボタルの研究に熱じ、に取り組 発生していることがわかった。 4 年 ( 1784 ) の礇往来』や文政 2 年 んて、いる。 ( 今田岳村 ) 6 月下旬から 7 月下旬にかけて産卵さ ( 1819 ) の『奧道中の中て、ここのホ れた卵は、やがて孵化し、落下して水中 タルの盛況が取り上げられていて歴史的 て、あることに加えて、群生の北限にあ に入りカワニナを食べて成長する。清滝 川て、は、雄て、 6 ~ 7 回脱皮した後、 4 月 たっていることと、小形て、あることて、あ にはほとんどの個体が終齢幼虫となり、 東和町ゲンジボタル生息地 4 月中句から 5 月下旬の雨の夜、川から ゲンジボタルは、土橋のコンクリート 指昭和 54 年 4 月 26 日 陸上へと上がってきて土にもぐってさ 橋への改築や護岸の石垣工事、 ~ 歩也区 所宮城県登米郡東和町 なぎになる。この移動の時には、幼虫も の都市化などによって、昭和 30 年代には 闇鱒淵源氏ボタル保存会 尾部に淡い黄色の光を放ちながら岸の崖 磨咸した。しかし、昭和 40 年 ( 1965 ) に きたかみ などを登るのて、、対岸から数が数えられ 復元事業が発足し、その努力が実って発 東和町ゲンジボタル生息地は、北一日日 ますぶち る。土中て、まゆを作りさなぎになるのだ 生を見たが、まだ本格的な復兀にはほど の支流にそそぐ 1 級河川膃川の岩淵橋 が、驚いたことには、この時にも光って 遠い。 ~ 墅地区の住民はホタルに関して から上流 1.5 キロまて、の流域て、、川幅は いる。成虫て、は、雄は未交尾の雌の光を 信仰に近いものを持っていることを特記 10 ~ 13 メートル、水深は 30 ~ 40 センチ、 見ると近寄り交尾する。産卵中の雌の出 しておく。町内には多くの発生地があり、 面積は 150 ヘクタールて、ある。ゲンジボ おおわらぎ す光には、産卵しようとする雌のみが反 今年も上大原木士或には、自然復元発生 タルは、 6 月下旬から 7 月上旬にかけて 応して集まり、その結果、集団が形成さ があった。 ( 浅田義邦 ) 発生し、体長は雄 13.2 ミリ、雌は 16.8 ミ れる。 リて、ある。 このように光は、彼らの生活にとって 周川の環境は、上流にダムがあると 非常に重要な意味をもつが、なぜさなぎ いっても、自然に近いのて、、度重なる大 まて、光るのかは不明て、ある。 ~ ルて、河床まて、も洗われる等の被害を受 やがわおとずれがわ 木屋川・音信川 ゲンジボタルは、丘各地て水質悪化 けた。しかし、涙ぐましい保存会の活動 ゲンジボタル発生地 などにより減少しているが、清 ~ 起日て、は にあわせて、小学校の積極的な協力 指昭和 32 年田月田日 えさ 餌となるカワニナも多く、水質もきれい 活動など或をあげての愛護活動によっ 所山口県長門市・豊浦郡豊田町 て、ホタルの生息環境が良好なため、昭和 て、河床の復元は時間の問題と思われる。 間長門市・豊田町 54 年 ( 1979 ) に天然記 ; 勿に指定され、 ・、ホタルの個イ櫢も増加し、有数の 現在、京都のホタルの名所となっている。 木屋川ゲンジボタルは、昔から豊田ボ ホタルの名所となるだろう。 ( 浅田義邦 ) タルと呼び親しまれていた。交通事情が ( 村上興正 ) よくなるのにしたがい営業用に捕獲され はじめたのて、、関係町村が事態を憂慮し きよたきがわ 清滝川のゲンジボタルおよび その生息地 指昭和 54 年 2 月図日 所京都府京都市右京区 わ ニ一 とうわまち 62 ・昆虫類
監修 加藤陸奧雄 東北大学名誉教授 沼田眞 千葉大学名誉教授・日本植物学会会長 渡部景隆 筑波大学名誉教授 畑正憲 作家・日本自然保護協会理事
流は河口まて、の範囲 ( 約 18 キロ ) が追加 指定された。 近年て、は上流域の森林開発、それに 中・一ド或て、の砂不財などの影響を受 けて、生息地に適した川底は非常に少な くなってきた。丘はオオウナギそのも のの数も少なく、河口近くやこの付近に 流入する小支流て、のウナギ漁て稀に見か けるくらいて、ある。昭和 46 年 ( 1971 ) 1 月 とんだ に捕獲され、標本として国鉄の紀伊富田 駅に展示してあったものは、体長 1512 ミ リ、体重 10.5 キログラム、胴回り 371 ミリ て、、これて、も大きさからは、いくらか小 さい方て、あるという。 この地方て、はオオウナギという呼び名 のほか、カニクイとも呼ぶ。これは大き な口てべンケイガニやモクズガニなどを 好んて、食べるからという。 ( 乾風登 ) ウナギの変態 0 ) ) い川 成魚 シラスウナギ レプトセファルス 日本のウナギは、南西太平洋の深部で 産卵するといわれ、子魚は透明で平た はばの広いレプトセファルスを経 て、シラスウナギとなり、成魚となる。 かしこぬま 賢沼ウナギ生息地 指昭和図年 9 月 7 日 所福島県いわき市平沼ノ内 闇いわき市 べんざいてん 賢沼には巨大なコイおよびウナギが生 型的な植物群落をつくっている。 ゲ・シシガシラなどが多く、暖温帯の典 はヤプコウジ・ティカカズラ・ジャノヒ り、下層にはアセビ・リョウブ、林床に にはカスミザクラやシキミなどが混じ 斜面はスダジイの林となり、スダジイ林 沼を取り巻く丘陵は尾根にはクロマツ、 て、は最もよく自然の残る地帯て、ある。賢 る。この沼をめぐる一帯は、いわき海岸 賢沼は賢沼弁財天 ( 密蔵院 ) 境内にあ せつしよう 息する。これらの魚族は、殺生をいまし める弁財天信仰と結びついたものと考え られ、昔からこの賢沼に放流したことが か 伝えられている。沼の水は昔から涸れた ことがなく、また流れ出る川もなく、ウ ナギはこの沼に閉じこめられた形となっ て成育したものて、、大きなものて、は胴回 り 20 センチほどのものも観察される。ま たコイも体長 1 メートル近いものが認め られる。賢沼には稚魚を狙って集まる鳥 類も多く、カイップリが水面を泳ぎ、沼 周辺の樹枝上にはゴイサギ・ササゴイ・ カワセミなどの姿も見る。樹間を引 : 蝶 類や、水面に姿を見せるトンポ類も多く、 暖地特有の森林とともに優れた生態系を しめしている。 しかし、近年、沼の水が極端に富栄養 化し緑藻類の繁殖カ墸しく、コイ・ウナ ギの生息に大きな影響を与えはじめてい る。かって無数に生息していたタナゴ 類・ヌマエビなどの滂咸が認められ、早 急な保護対策カまれる。 ( 蜂谷剛 ) ははがわ 母川のオオウナギ生息地 指大正に年 3 月 7 日 ( 天 ) 昭和引年 6 月 29 日 ( 名称変更 ) 昭和引年 6 月 29 日 ( 追加指定 ) 所徳島県海部郡海部町 海部町 大正 12 年 ( 1923 ) に、生息北限地帯とし て国の天然記勿に指定された母川のオ かいふ オウナギは、徳島県海部郡海部町高園字 酒岩を中心とする海部川の支流母川の水 路にすみ、体長 2 メートル、体重 16 キロ グラムに達するものもある。淡水にすみ、 虫・小魚・蟹などを餌とするためカニク イとも呼ばれている。 酒岩は裂け岩ともいい、オオウナギが 巨岩をせり割ったとの伝説が、古く藩政 期の文書に残されている。昭和初期まて、 は多数生息していたが、 ~ 或の農地に農 薬が使用されるようになってから、昭和 33 年 ( 1958 ) 頃まて、に 66 尾以上の死屍が 確認され、管理者 ( 町 ) と住民の愛護の効 なく、現在の生息数は僅少て、あると思わ ( 北川茂 ) れる。 おか のもざき 浦に注ぐ細流の水たまりにオオウナギが 長崎県て、は男女群島の男島の里浦、真 だんじよ 近くを悠然と泳ぐ様は壮観て、ある。 が一苦労て、ある。ドジョウを追って水面 あろう。今て、はこれらの餌を集めること 与え世話がよく行きとどいているためて、 サワガニやェビ、冬にはドジョウなどを る。井戸の近くに住む管理人が、夏には りを示した。これが現在の第 7 代目て、あ チ、体重 13.7 キログラムと順調な成育ぶ の調査て、は、体長 148 センチ、胴囲 45 セン 冒されたが、昭和 56 年 ( 1981 ) 8 月 2 日 ログラムのものを移入した。一日ル丙に 池田湖から体長 1.2 メートル、体重 3.5 キ 昭和 47 年 ( 1972 ) 1 月 6 日、鹿児島県 第 6 代も死亡、以後、自然生息は見られ 水は汚染し、昭和 41 年 ( 1966 ) 5 月には なくなり、井戸周辺の環境は悪くなって このころ水道施設が完成し井戸は使われ 3 月、体長 90 センチの第 6 代が姿を現す。 ( 1961 ) 8 月に死亡し、昭和 38 年 ( 1963 ) と、もある。明治以後の第 5 代は昭和 36 年 が、より小形の 2 ~ 3 尾がともにいたこ て、あろう。今は大形の 1 尾カ駐んて、いる り、井戸の石積みの隙間から入ったもの オオウナギの稚魚もこうして谷川を遡 た。 稚魚カ田流を真っ黒にするほど遡ってい さかのば て海に注ぐ谷川には、かってはウナギの トル、平常水位 1.4 メートル。井戸に沿っ 石積みて、 1.5 メートル四方、深さ 4 . 2 メー に国の天然記勿に指定された。井戸は ギカ駐みついていて、大正 12 年 ( 1923 ) 樺島の共同井戸には、古くからオオウナ かば 長崎半島の突端、野母崎町の沖にある 置野母崎町 所長崎県西彼杵郡野母崎町 指大正に年 3 月 7 日 オオウナギ生息地 住みついている。 ( 森田真一 ) 魚類・ 39
弓島は東京から南へ 580 キロメート ル、伊豆諸島の最南部の北緯 30 度近くの 太平洋上に位置する、面積 4.54 平方キロ メートルの小火山島て、ある。玄武岩など からなる大型活火山の山項部が海上に出 たものて、、島の周囲は海食により、切り たった崖となって海に落ちこんて、いる。 典型的な二重式火山の構造を示し、海面 上に直径約 2 キロメートルのタ粹侖山、そ の中央に直径約 1 キロメートルのカルデ ラがある。昭和 14 年 ( 1939 ) の噴火てて、 いおう きた中央火口丘の硫黄山が最高点て、、海 抜は 394 メートル、この周辺は現在も火 山ガスが噴出している。 特別天然記念物のアホウドリが、この 孤島の南西端の燕崎とよばれる突端の 根元て、、巣を営んて、いる。アホウドリが ひな 雛をかえしている場所は、今て、は世界て、 こ 1 カ所だけとなってしまった。かっ ては、島本を営巣地として膨大な数の アホウドリがいたが、明治 20 年 ( 188 の 頃から始まった羽毛孑乂の事業のため、 毎年 10 万羽ものアホウドリが殺され続 け、昭和 8 年 ( 1933 ) になってやっと猟 が禁止されたときには、わずか 50 羽ほど に減少していた。 その間、明治 35 年 ( 1902 ) には、島民 125 人が全員死亡するという大爆発があ り、また、禁猟後の昭和 14 年 ( 1939 ) に も再度噴火して、アホウドリの営巣地は 厚い火山灰に埋められた。この後の数年 間がアホウドリにとって最大の危機て、 あった。上長一ト . から姿を消したのて、はな いかという報告も出されたくらいて、あ 人間の魔手、火山の脅威という二つの 危険の中て、、アホウドリカ攤をかえし続 けることがて、きたのは、蕪崎の営巣地の 地形的条件によるところが大きい。前は 切りたった断崖が垂直に海に落ちこみ、 120 ・天然保護区域 鳥島 指昭和 40 年 5 月田日 所東京都鳥島 つばめざき 後方を絶壁て、囲まれた斜面ー一人間を寄 せつけす、溶岩や火山灰にも埋まらな かったこの場所が、アホウドリを絶滅か ら救ったのて、ある。 営巣地の火山灰地にススキを植えるな どの保護策がとられ、昭和 58 年 ( 1983 ) 時点て、、約 200 羽のアホウドリがこの場 所を繁殖地としている。 島の大部分は火山灰と溶岩て覆われ、 水の流れはない。このため、植生の発上 は極めて貧弱て、ある。わすかに北西部の 緩斜面に、イソキク・ラセイタソウ・ハ チジョウススキ・ツルソバなどの草本が は 生育し、海岸近くにハマゴウが這うよう にのびている。海岸近くの谷筋にクワや オオバヤシャプシなどの低木、人間が持 ち込んだ高木のクロマツが生えている。 この島にはかって哺乳類は生息しな かったが、人間が持ち込んて、しまったク マネズミが増殖し、近年、全島に分布す るようになった。昭和 30 年 ( 1955 ) 頃ま て、、おびただしい数て、繁殖していた海洋 鳥のオーストンウミッノヾメは、クマネズ ミによる卵の捕食によって鳥島から姿を 消してしまった。逆に、クマネズミを餌 とするチョウゲンボウが 4 ~ 5 羽鳥島に すみついている。鳥類て、はほかにイソヒ ョドリ・ウグイス ( 特産の亜種 ) が少数 繁殖し、アホウドリに近接してクロアシ アホウドリが約 1000 羽繁殖している。両 生・爬虫類は生息していない 昭和 40 年 ( 1965 ) に地震が群発し、火 山活動の活発イヒが懸念された。昭和 22 年 ( 194 のに台風監視のために建てられた 閉鎖され、それ以来無人島て、ある。 鳥島測知斤 ( のちに鳥島気象観測所 ) は ( 長谷川 博 ) 南硫黄島 指昭和 47 年Ⅱ月 24 日 所東京都小笠原村 農林水産省 * 南硫黄島は小笠原諸島の南端にある火 山列島 ( 硫黄列島 ) の最南端 ( 東京から 1300 キロメートル ) に位置し、陸上噴火 の噴出物によって第四紀に誕生した、面 積 3.67 平方キロメートルの海洋島て、あ る。周囲が高さ 100 メートルを越える断 崖絶壁に囲まれたこの島は、誕生以来今 日に至るまて、、ほとんど : 人為が加わるこ となく自然の状態が保たれてきたと推定 される。したがって南硫黄島は、海洋島 における自然伏態て、の生物相、あるいは 生物群集の成立や発展を実際に調べるこ とカイきる貴重な島て、あり、このような 島は日本て、は他に類を見ないといえる。 昭和 57 年 ( 1982 ) の調査によって、南 硫黄島には高等植物 118 種、Ⅱし類 1 種 ( オガサワラオオコウモリ ) 、鳥類 21 種、 爬虫類 2 種、昆虫類 152 種などが生育、あ るいは生息していることが明らかにされ たが、これらは島の面積に比べてそこに 分布している生物の種数が少ないとい う、海洋島の性格を典型的に示すものて、 ある。一方また、これらの生物のうちに は南硫黄島固有種がかなり含まれ、たと えば、高等植物て、は工ダウチムニンへゴ など 4 種、昆虫類て、はミナミイオウトラ カミキリなど 7 種があげられる。 南硫黄島の植生は、海岸から海抜 200 ~ 300 メートルまて、はセンダン群落・ア みなみいおう ー禾本草原帯から構成されており、小さい 草原がモザイク状をなした山地木性シダ カモジグサ群集のような禾本 ( イネ科 ) かほん のような木性シダ林とススキーナンヨウ 工ダウチムニンへコ羊集やマルハチ群集 さらにそれから山項 918 メートルまて、は ク群落を主とした山地常ム葉植材木帯、 ロテッ君羊集やコブガシーコクモウクジャ 600 ~ 700 メートルまて、はチギーオオノヾシ た海岸崖地乾性低木林帯、それより上の カテッ群落・タコノキ群落などを主とし
アラレガコ生息地 指昭和田年 6 月 7 日 所福井県九頭竜川 ( 大野市 ~ 福井市 ) 置福井県 くずりゆう 指定地は、九頭竜川の中流域にあた り、水量も上如勺多く、アユの好生息地 て、もある。 アラレガコは、体長 15 ~ 25 センチ、え らぶたに 4 本のとげがある。体色は灰褐 色、腹面は白色て、、背側に 4 個の黒褐色 れきてい の横帯がある。或の礫底にすみ、ア ュなどの魚類を食べる。産卵期は冬て、、 成魚は下流にくだって産卵する。日本特 産て、、本州・四国・ル、トに分布し、頁 竜川のものは成育がよく、大形になる。 近年は河川環境が悪化し、生息数が激 減している現状て、ある。漁期制限を行っ て一部の漁穫を認めているが、さらに強 い保護対策が必要て、ある。 産卵期に腹を霰にうたせながら川をく だるのて、、アラレガコの名がついたとい われる ( 正式和名は、カマキリ ) 。しかし、 実際には夜間に川の中層をくだることが 知られている。大変美味て、ちり、煮っ け、塩焼きなどに利用されるが、非常に あられ 明神社 ( 現厳島ネ±) にちなみ、明神池と 呼ばれるようになった。 明治の初め頃、南側の一部が埋められ、 とって夏の風物ともなっている。 あり、そこから吹く風が、土地の人々に ている。また、厳島神社の奧には風穴が の産地て、、この種の分布の北限地となっ が生息しており、日本海岸における唯一 なお、本池には、昆虫のウミアメンボ の所て、ある。 四季を通じて魚の習性を観察するに絶好 ると数百尾の魚が集来して偉観を呈す。 て回遊するものもあり、池畔て餌を投げ にすぎない。魚の中には、同類相集まっ ている。水深は、最架部て、も 4 メートル イ・ドチザメなど諸種の海産魚が生息し ラ・プリ・コノシロ・クサフグ・アカエ ナ・スズキ・イシダイ・シマイサキ・ポ 池の中には、マダイ・クロダイ・メジ る。 の干満の影響を受ける天然の塩水池て、あ 岩の隙間を通じて外海とつながり、外海 の三つの池からなっている。池の水は、 メートル ) 、奧の池 ( 321 平方メートル ) ( 8646 平方メートル ) 、中の池 ( 1553 平方 現在は、東南側より西北に向かって大池 ( 芳西靖幸 ) 美並村 所岐阜県郡上郡美並村 指大正年に月 9 日 粥川ウナギ生息地 かゆがわ ながら 易に見られたわけて、、ウナギの自然の群 になっていたためにこのような現象が容 粥川て、は昔からウナギを捕らない慣わし 跳びつき、壮観を呈したと伝えられる。 は最高潮に達し、人の与える餌に争って に 7 ~ 9 月のころ多いが、中て、も 8 月中 ては無数のウナギが群生していた。 至る間の約 4.5 キロの本流・支流に、かっ 川て、は、長良川との合 ~ 充点から三オ瓰に 高砂地区を貫流する長良川の一支躬 たかさご 生態観察よ或として類例が少ない。近年 はほとんどその姿を見ることがて、きなく なり、地兀の人たちが復活に力を注いて、 いる。 ( 加藤陸奥雄 ) 高価て、ある。 みようじんいけ 明神池 置萩市 所山口県萩市椿東 指大正年に月 9 日 ( 加藤文男 ) 明神池は、萩市の北部にある笠山 ( 標 とうろく 高 112 メートル ) の東麓に位置し、もとは 海中にあった笠山が、沿岸流に運ばれた 土砂の堆積による州によって本上と結 ばれた際に生じた海跡湖てある。その北 ゆうなぎ よめなき 側は、嫁 ~ 巷、南側はタ湘湾 ( 越ケ浜港 ) て、ある。池の東畔に、藩主の休息用の御 茶屋が設けられていたこともあって「御 也とか「御茶邸の溷とも称されたこ いつくしま とがあった。大正末年頃から池畔の厳島 38 ・魚類 オオウナギ生息地 指大正に年 3 月 7 日 昭和田年 5 月日 ( 追加指定 ) 所和歌山県西牟婁郡白浜町 置白浜町 嚇系のオオウナギは、黒潮の影響て、 本リ羽中部 ( 茨城県 ) 以南の太平洋に面し た河川に分布しているが、和歌山県て、は とんだ 富田川や古座川などて古くから知られて いた。なかて、も、富田川て、は明治 22 年 ( 1889 ) の大水害により、一或にいく つかの深い淵が出来るなどの川底の変化 が原因て、、オオウナギが多数生息をはじ めたという。その当時は、時々岸辺から 巨体の群れを眺めることカイきたとの話 が残っている。 そのうちオオウナギは、普通のウナギ とちがって食用にされなかったものの、 物珍しさのほか、脂肪の多い丈夫な皮が、 家を建てる時に柱の下に敷くと、シロア リの害からまぬがれるといった利用の面 や、時には肥科にするなどの舌リ隻と、そ の後の川の流れて淵が浅くなってきたこ とが重なって、その数は目に見えて減少 してきたとのことて、ある。 このような中て、、 ! 者付 - 上 . 貴重なオオウ 年 ) 、一 - ヒ流は中辺路町と大塔村の境界、下 おおとう なかへじ 不充分だとの孑甜商により、後年 ( 昭和 10 淵なのて、、オオウナギの保護の上からは この生息地は、互いに孑あ丘した三つの 記念物の指定を受けるようになった。 息地として、大正 12 年 ( 1923 ) に国の天然 部 ( 三つ石の淵・濁り淵・蟇岩の淵 ) が生 ひきいわ このことが大きな力となって富田川の一 一方、県に対して保護対策を願い出た。 年 ( 1921 ) に一般の人々へ理解を求める の研究家て、あった宇井縫蔵氏は、大正 10 田川からいなくなるのを防ごうと、地元 ナギが、和歌山県の最北生息地て、ある富