おばら 小原のコッブガヤ 指昭和絽年 2 月円日 所宮城県白石市小原御仮屋 白石市 白石川の右岸、国道 113 号からやや 下った、海抜約 200 メートルの斜面に生 育している。樹高約 20 メートル、目通り 幹囲 2 . 8 メートルて、、地上 3 メートルの ところて、、枝分かれしている。推定描合 約 300 年て、ある。樹勢は盛んて、、従来知ら れているコッブガヤのなかて、、最大のも のて、ある。種子は小形て、、ほとんど球形 に近く、葉も小形て、、はじめ三重県の伊 賀て、発見された、カヤの変種て、ある。 樹の周囲に有刺泉を張りめぐらして いるが、保護管理するのて、あれば、もう 少し景観的配慮をされたいものて、ある。 ( 内藤俊彦 ) 与野の大カヤ 指昭和 7 年 7 月 25 日 所埼玉県与野市鈴谷 与野市・妙行寺 一学野市鈴谷、妙行寺の門前にある。 こんびらてんぐう かたわらに鎮座する金比羅天宮の笹財申木 としてあがめられ、応永の頃 ( 1394 ~ 142 のから関東一の大カヤとして広く知 られてきた。樹高約 21.5 メートル、目通 り幹囲 7.28 メートル、植描合約 1000 年を越 す雌株の老大木て、ある。全国第 4 位の巨 木て、、今日て、も枝張りが良く、樹勢も盛 んて、ある。 カヤは岩手県南部から四国・九り羽 ( 南 限は屋久島 ) にかけて分布し、主に暖温 帯林のなかに自生している。カヤの大木 は、埼玉県下て、は県北部の低地、自然堤 防及び水はけの良い丘陵などに点々とみ られる。しかし、与野の大カヤは厚い関 東ロームにおおわれた台地のゆるやかな 傾斜面上に根を張っている。このような 悪い土地条件て、、しかも 1000 年にもおよ ぶ永い間風雪に耐え、植擶を保ってきた ことはたいへん珍しい。天然記念物に指 みようぎよう 定されたのも、巨大て、あるというだけて、 なく、恐らくこのような理由によるもの と思われる。 りようげんあん 指大正Ⅱ年田月に日 了玄庵のツナギガヤ ( 永野巌 ) 所新潟県南蒲原郡田上町田上山田 間了玄庵 イ言越本線羽生田駅から徒歩て、も 30 分、 りようげんあん 了玄庵境内に、越後七不思議の一つと しんらんしようにん して知られた親鸞聖人ゆかりのツナギ ガヤがある。植擱 750 年と推定される老 に、基部は横臥し多数の枝幹にわかれて いる。約 1.3 アールの地面に拡がり、高さ 3 メートルあまり、カヤの種子に孔があ ることからこれを奇瑞としてったえたも のて、ある。聖人が護摩堂山の城主宮山剞旦 馬守に招かれて法話をなされたとき、城 主がカヤの実を献じた。このカヤの実は 農民が年貢米の代わりに糸て、つないて、納 めたものて一粒ごとにつないオ L の跡が ある。この一粒を地に植えて仏縁を説か れたところ不思議にも芽を出し、実を結 んだと伝えられている。この孔は一イ殳に もみられるものて、あるが、当時農民の生 活と越後の人達の実直さを物語るものと して今後にも残したいものて、ある。また 年々生長した小枝をみると、小枝の左右 に着いている葉の表向きの濃緑色の部分 と緑のうすい裏向きになった葉が互い違 いになっているのがしばしばみられる。 、、お手返しの葉、、と呼ばれ、今て、は、 のように解釈されている。カヤの葉の着 おうが きぐあいを考察してみると、主軸て、は葉 は、ちょうど木にひもをまいたと同じよ うにらせん状に生える性質がある。この 性質から考えると、枝そのものがねじれ て伸び、同じ方向に向いている葉が区 しになるものと推定され、ネジバナの花 がねじれてつくのと同じ原理のように思 われる。どのような自然条件て、なるか極 めて未ある奇態て、ある。 ( 野田光蔵 ) この木は高木貞勝氏の所有地にある。 樹高 6.8 メートル、幹は約 0.5 メートルの 土盛りの上から現れて西側にかたむき、 上盛りのすぐ上の幹の周囲 1.65 メート ルほどて、、枝は四方に約 13 メートルにわ たって広がり、幹の一部は朽ち損じてい るが樹勢は盛んて、ある。 シブナシガヤは普通のカヤと同じ不頁 はいにゆう の針葉柆サごが、種子の胚乳についている シプ皮が全然ないとか、あっても取れ易 いなどの牛致がある。種子の殻を割ると 中に白い胚乳が見られるのて、、昔から「蜂 の子ガヤ」とか、「白米ガヤ」などと呼 ばれていた。所有者の高木家は、昔交代 寄合職にあって水行奉行を兼ねていた。 このカヤはその当時からすて、に植えられ ていたもののようて、、推定植合約 300 年 多良のシブナシガヤ 指昭和円年 3 月 7 日 所岐阜県養老郡上石津町宮 といわれる古木て、ある。 ( 南川幸 ) カヤ カヤとイヌガヤの葉の違い 常緑針葉樹・ 163 イヌガヤ
せんぶくじ 専福寺の大ケヤキ 脂昭和年 6 月 7 日 所福井県大野市友兼 闇専福寺 * 本樹は土塀を中断して立ち、根兀は南 側が北側よりおよそ 1 メートル高く、高 地面て、の根回りは約 15 メートル、また、 それより 1 . 5 メートル上部の幹囲は 10.5 メートルて、ある。樹高は指定当時 16 メー トルあったというが、その後たびたび折 損し、現在は 8 メートルばかりて、、先端 は腐朽している。しかし、主幹の南側か ら多くの不定芽が出て、それが若々しく かなり生長した。また、指定当時、地上 3 メートルのところにあったといわれる 大きな隆起は消失した。不定芽の生長と 隆起の消失との因果関係については未 が持たれる。本樹はしたがって枝張りが 大きくないが、ケヤキの老樹として有数 のものて、ある。 みつえ 三恵の大ケヤキ 指昭和に年Ⅱ月 30 日 ( 里見信生 ) ・・・・」 ( 山梨県教育委員会 : 責名勝天然 記念物調査報告書第 2 輯大正 15 年 ) と 記されたように偉容を誇っていた。鹿児 あいらかもう 島県姶良郡蒲生町にあるクスノキが日本 ーの巨木といわれ、三恵のケヤキはこれ に次ぐものてあるといわれる。 ケヤキはニレ科に属し、本州・四国・ 九州、また台湾・中国にも分布する。北 海道には生育しないが、函館八幡宮境内 の大ケヤキは安政 3 年 ( 1856 ) 松川弁之 助が植えたものて、あるという ( 『松前 東京付近て、もイチョウとともにケヤキが 多い。これは関東地方の土壌が適し、深 根性て風にも強く、屋敷林や神社林とし て適していたため多く植えられたから だ。戦前の東京市公園課の調査て、は、目 通り幹囲 3 メートル以上のいろいろな大 きな木のうち、イチョウとケヤキて、全体 の約 5 舮ヾーセントを占めていた。全国的 にみても多くのケヤキの大木が報告され ていて、戦前には目通り幹囲 6 メートル 以 E のものが 115 本もあった ( 『大日本老 樹名木誌』 ) 。また天然記念物に指定され たものも 23 件あった。 前述したように偉容を誇ったこの三恵 の大ケヤキも、老木によくみられるよう に幹に空洞が生じ、昭和 34 年 ( 1959 ) 8 月に台風の被害も受けた。現在は、主 て支える等の保護が加えられているが、 甲府盆地のほば中央、御勅使川扇状地 の東南端、 ~ 責層の砂礫地に属する土壌 からなる山梨県中巨摩郡若草町 ( 旧三恵 村 ) 寺部今井の前の廃社懿地に、三恵の 大ケヤキがある。秋山樹好氏の測定によ ると根回り 16 メートル、目通り幹囲 14. 65 メートル、樹高 21 メートル、枝張り東 方 11 メートル、西方 5 メートル、南方 10. 5 メートル、北方 16 メートルと拡がってい る巨木て、ある ( 秋山救子『山梨県巨樹名 木盖 & 昭和 49 年 ) 。 大正 15 年 ( 1926 ) 頃には「・・・・・・五つの 枝を出し・・・・・・畑の中に独立した樹て、ある が、遠くから眺めると林のように繁茂し 54 ・落葉広葉樹 昭和 32 年 7 月引日 ( 名称変更 ) 所山梨県中巨摩郡若草町寺部 若草町 充分な管理が望まれる。 うえのはら 上野原の大ケヤキ 指昭和円年Ⅱ月ロ日 ( 中沢敬止 ) 所山梨県北都留郡上野原町上野原 闇上野原町 山梨県北都留郡上野原町の上野原小学 校校庭の南東端にある。 こはもと御岳 神社の境内て、あったが、明治 8 年 ( 1875 ) ! 建設のため神社を他に移し、傾斜面 を埋め立てて校庭にした。そのためケヤ つる キの根本の部分は「この埋め立てのため 約 3 間 ( 約 6 メートル ) が埋没し・・・・・・」 ( 山 梨県教育委員会 : 責名勝天然記念物調 査報告書第 3 輯昭和 3 年 ) または「・・・ ート。・数尺埋没し・・・・・・」 ( 山梨県『山梨県名木 誌』昭和 5 年 ) し己に大きな違いがあ る。昭和 46 年刊の『山梨の文イオ』て、は、 「約 3 メートル盛土中に堋している と述べているが、前の「・・・・・・十数尺」に 似ている。 現在の大きさは根回り約 10.2 メート ル、目通り幹囲約 8.6 メートル、樹高約 23 メートルて、ある。 この付近は厚いローム層からなり、十 分に根をはり生育が旺盛て、あったが、老 巨木て、よくみられるように昭和 5 年 ( 1930 ) には幹に空洞が生じていた。 ( 中沢敬止 ) この 2 本のケヤキの芽の出方の早い方 保護管理が必要て、ある。 たりして、昔のおもかげはない。十分な る。しかし、その空洞を板などて、おおっ が枯死はまぬがれて今日にいたってい 空洞が生じ、また火災にあったりした 『山梨県巨樹名木誌』昭和 49 年 ) て、あ メートル、樹高 22.5 メートル ( 秋山植技子 は根回り 12.6 メートル、目通り幹囲 12.6 幹囲 12 メートル、樹高 20 メートル、畑木 年 ) 。田木の根回り 14.3 メートル、目通り 天然記念物調査報告書第 2 輯大正 15 かがえる ( 山梨県教育委員会 : 責名勝 田木、畑木の立派な巨木て、あることがう 大正 15 年 ( 1926 ) 頃の写真て、は、この る。 向かって左を田木、右を畑木と呼んて、い はたぎ 殿前に、 2 本の大ケヤキがある。拝殿に 山梨県北巨摩間彡頁玉町の根古屋ネ土拝 すだま 置根古屋神社 * 所山梨県北巨摩郡須玉町江草 指昭和 33 年 5 月馬日 根古屋神社の大ケヤキ ね やじんじゃ
編集協力 ( 順不同 ) 全林野写真サークル全国協議会 グリーンフォト MO フォトス 熊野速玉大社 往至森寺 智満寺 久津八幡宮 八坂神社 誓念寺 萬徳寺 深沢幸雄 名草神社 滝沢正一 五十嵐与市 清澄寺 永明寺 東照宮 安藤博 羽淵謙治 白山神社 足立勲 了徳寺 三島大社 井出潔 了玄庵 磯部神社 宮城刑務所 河野袈裟七 法宣寺 善峰寺 福本英孝 徳満国広 山口典利 木下陽一 竹内敏信 写真集団樹海 186 ・ 益田市教育委員会 西郷町教育委員会 日南町役場 泊村教育委員会 湖東町教育委員会 大島町教育委員会 東北カラーエイジェンシー 大和航空 小黒企画 芳賀フィルムライプラリ 光陽フォトオフィス J 0 タンジフォトライプラリ フォトライプラリー明星 ポンカラーフォト工イジェンシー ネイチャーフォトライプラリー ジャノヾック キュウフォトインターナショナル ひまわり 長門市教育委員会 上野市教育委員会 甲佐町教育委員会 菊鹿町教育委員会 日出町社会教育課 黒木町教育委員会 武雄市教育委員会 嬉野町教育委員会 大村市教育委員会 白石市教育委員会 盛岡市教育委員会 都南村教育委員会 陸前高田市教育委員会 羽黒町教育委員会 三春町商工課 いわき市教育委員会 大玉村教育委員会 岩瀬町教育委員会 邑楽町教育委員会 伊勢崎市教育委員会 嬬恋村教育委員会 川崎町教育委員会 上川村教育委員会 小木町教育委員会 月潟村教育委員会 妙高高原町教育委員会 上九一色村教育委員会 甲西町教育委員会 丸子町教育委員会 根尾村教育委員会 萩原町教育委員会 池田町産業課 上石津町企画開発課 豊田市教育委員会 島田市教育委員会 一宮市教育委員会 江南市教育委員会 蒲郡市教育委員会 鈴鹿市白与町公民館 上野市教育委員会 篠山町教育委員会 三原町教育委員会 豊岡市社会教育課 和田山町教育委員会 新宮市教育委員会 温海町教育委員会 武川村教育委員会 豊川市社会教育課 京都市文化財保護課 亘理町教育委員会 田尻町教育委員会 日光市教育委員会 与野市教育委員会 府中市教育委員会 日の出町教育委員会 那覇市教育委員会 鶴岡市教育委員会 若草町教育委員会 身延町教育委員会 付知町教育委員会 宮村教育委員会 富士宮市教育委員会 伊東市教育委員会 熱海市教育委員会 西尾市教育委員会 名古屋市教育委員会 愛知県教育委員会 作手村教育委員会 養父町教育委員会 大屋町教育委員会 菟田野町教育委員会 新潟県教育委員会 安塚町教育委員会 三方町教育委員会 小浜町教育委員会 豊浦町教育委員会 山口市文化財課 萩市教育委員会 橘町役場 豊北町教育委員会 鳴門市教育委員会 三加茂町教育委員会 上板町教育委員会 土庄町教育委員会 池田町教育委員会 伊予三島市教育委員会 重信町教育委員会 新居浜市教育委員会 大豊町教育委員会 土佐町教育委員会 我美町教育委員会 朝倉町教育委員会 飯塚市教育委員会 有田町教育委員会 鹿島市教育委員会 津久見市教育委員会 十和田湖教育委員会 文化庁文化財保護部記念物課 ・参考文献 『天然記念物事典』 ( 第一法規 ) 『史跡名勝天然記念物指定目録』 ( 第一法規 ) 「全国遺跡地図」 ( 国土地理協会 ) ・作図・製図 浅井粂男 木村図芸社 さくら工芸社 ・地図製作 単至 地図製版株式会社 ・写植 ナグ
常照寺の九重ザクラ 指昭和ロ年 8 月 8 日 所京都府北桑田郡京北町 間常照寺 * 京都駅から国鉄て、 2 時間、周山街道を 北に進み、さらに東に向かって行く不便 な所にあるのて、、訪問する人は少ない。 じようしようじ 常照寺は皇室の荘園て、あって、南北 朝時代に、北朝第 1 代光厳上皇が、 に寺を開き貞治 3 年 ( 1364 ) にここて、崩 御された。光厳天皇の玄孫て、ある後花園 天皇とともに、ここに御陵がある。 寺の前庭に大きなシダレザクラがあ り、枝が四方に垂れて開花時は白雲のよ うに素晴らしく全面が開花する。 樹の高さ 8 メートルに余り、枝は四方 に冠状に垂下する。株元の周囲は 4 . 4 メートル、目通り幹囲 3.6 メートル、株元 から枝張りは、東へ 7.5 メートル、西方へ 11 メートル、南へ 11.6 メートル、北へ 5. 6 メートル、なかて、も西方の枝はほとんど 水平に伸び、巒田な枝は、先端がほとん ど地について、開花時には花がこばれる と形容されるほどて、ある。東方の枝は、 いまから 70 ~ 80 年前に位牌堂が火災に あったときに、火をあびたのて、短い。全 枝カド垂し地についてしまうのて、、竹の 棚をつくって支えている。 古木て、あるが樹勢は盛んて、、ここ 30 年 て、目通り幹囲は 60 センチも太くなって いる。古い枝が枯れては新しい枝が伸び るのて、、太くなるほど枝は伸びていない。 植重はエドヒガンて、ある。 この九重ザクラは、彳ト尾天皇 ( 第 108 代の天切が植えられたという伝説があ り、植合は 350 年内外と推測されている。 じようしようじ いはい ( 室井綽 ) 指昭和 26 年 6 月 9 日 樽見の大ザクラ たるみ 38 ・落葉広葉樹 大屋町 * 所兵庫県養父郡大屋町樽見 サクラの不頁はエドヒガンて、、土地て、 せんざくら は、仙人のサクラの意て、「仙桜」といっ いくの ている。かって出石藩と生里日弋官所の境 木として植えたものという。花は 5 月中 句に咲き、樹高 20 メートル、目通り幹囲 5.2 メートル、根回り 8 メートル、樹齢は 500 年とも、 1000 年ともいわれている。地 元の人びとは、このサクラを「山神の依 にと信じて大切に守り、近年、地元の しめなわ 青年が神木として大注漣縄を張り、神事 をするなど、保護に全力をあげている。 ようか この大ザクラは国鉄八鹿駅から近く、 県道からもよく見えるのて、多くの人に知 いすし られている。 白子不断ザクラ 指大正に年 3 月 7 日 所三重県鈴鹿市寺家 置観音寺 * しろこふだん ( 室井綽 ) つづみうら このサクラは、近鉄名古屋線鼓ヶ浦駅 真東の寺家町に位置する白子山子安観音 の境内にある。昭和 9 年 ( 1934 ) 頃には、 親株から樹高 2 ~ 3 メートルほどのひこ ばえが 4 株ほどあったが、その後一日丙 虫害と昭和 21 年 ( 1946 ) 本堂の火災によ り被害を受けた。しかし、生命力の強い このサクラは、それらの災害に耐えて 2 本ほどのひこばえが再び芽を出し順調に 生育し、現在、樹高約 7 ~ 8 メートル、 幹囲約 60 センチほどに生長し、開花を続 けている。 不断ザクラは、その名がしめすように、 真冬て、も葉の一部が枝に残り、白色て ひとえ の中央が赤味を帯びた一重の五弁花を、 真夏以外のほとんど常時、枝のあちこち に咲かせている。 古い書物によると、このサクラは年中 花を咲かせる日本一の奇樹として、昔か ら都の人々のみならず多くの人々に詩歌 によまれ、また謡曲にも掲げられている。 そうぎ 代表的なものは宗祇の「冬咲くはネ軒に も聞かぬ桜かな」の句や、また坏断 桜』という謡曲の「勢州白子山観音寺の 花、四季に咲く由、君聞しめし及ばせ給 じけ ひ、急ぎ見て参れとの宗旨を蒙り、唯今 伊勢路の旅に赴き候」との歌て、ある。ま た平城の都の日罸にに称徳天皇は不断桜を 宮庭に献 - ヒさせて植えられたが、一夜て、 ぎよせい 枯れてしまった。そこて帝は御製 ( 天皇 の作った詩文・和歌 ) をそえて子安観音 にもどし植えたところ、たちまち枝葉を 茂らせ花を咲かせたとの話などをはじ め、この桜木にまつわる逸話は多い。も ともとこの寺院は聖武天皇の命を受けて ふひと こんりゆう ちよくがん 藤原不比等が建立した勅願寺として由 緒ある寺院て、、また寺名にあるように安 産の守護観音として全国各地から参詣者 ( 宮田逸夫、杦村喜則 ) に較べようがないといわれている。 開花期は 4 月 10 日頃て、、その美しさは他 れた。樹勢は良好て、、保護、管理もよく、 クラの類としては稀な巨木のため指定さ 雑によって生じたという見解もあり、サ 工ドヒガン系とヤマザクラ系の自然交 ない は長さ 6 ミリ、無毛平滑て下部はふくれ 幅約 4 センチ。花は径約 3 センチ。萼筒 がくとう 葉は花と同時に出る。葉は長さ 6 センチ、 伸びている。樹皮は縦に裂けている。若 れ、さらに分枝して計 11 本の枝となって わらないが、そこから 6 本の大枝に分か 5 メートル、地止 2 メートルまて太さは変 われ、樹高 15 ~ 16 メートル、根回り約 5. 咼台になっている。樹齢 300 年以上とい 所在地は矢原の松柄、大平の南向きの 置三隅町 所島根県那賀郡三隅町矢原 指昭和田年 4 月Ⅱ日 三隅大平ザクラ みすみおおひら ( 南川幸 ) の葉を安産のお守りとして寺て頒布して はんぶ 音の霊木として各種の伝説も生まれ、そ が多い。不断ザクラは、年中開花する観
きているが、樹幹は凹凸が多く、枝を四 方にひろげて葉をいつばいつけている。 境内には他にも大きなクスノキなどがあ って緑陰をつくっており、恵まれた環境 条件の中て、今なお、たくましく生き続け ている。 つかざき 塚崎のクス 指昭和丐年 2 月日 ( 大野照好 ) 所鹿児島県肝属郡高山町野崎 大塚神社 * 大塚神社の敷地内にある古墳の上に生 えている。地上 1.5 メートルの幹囲は 13 メートルて、、大きな枝を四方にひろげ、 葉をぎっしりつけて勢いよく生育してい る。樹幹にはオオタニワタリをはじめ多 くの植物が着生している。 大塚神社は島津家の始祖島津忠久の時 こんりゆう に、島津家の守護神として建立されたも のて、、その当時から、このクスは神木て、 あったと伝えられている。 付近には文化財「塚崎古上衄羊」もあり、 閑静な田園風景にマッチしている。 ( 大野照好 ) 間小浜神社 * 所福井県小浜市竹原 指昭和 6 年 3 月 30 日 小浜神社の九本ダモ おばまじんじゃ する 2 幹のほか、西側の独立する 1 幹を る 3 幹、北側の地上 3.2 メートルて、分岐 3 幹、南側の地上 3.2 メートルて、分岐す は、東側の地上 2.2 メートルて、分岐する 古来、九本ダモと呼ばれている。それら を一般に地方名て、「ダモ」というため、 林立しているように見え、またタブノキ の巨樹がある。この樹は一見 9 本の幹が ル、目通り幹囲 9.4 メートルのタブノキ 社殿の東側に接して、高さ 10.8 メート 加えた数て、ある。しかし、南側 3 幹のう ち 1 幹は完全に枯死し、現在、 8 本となっ ている。なお、本樹にはオオバヤドリギ が寄生している。管理者は取り除いてい るというが、もちろん、指定樹の保護の ために除去することは必要て、ある。しか し、オオバヤドリギの分布上、北限産地と して貴重て、あり、すべてを取り去ること には考慮すべき間題点がある。 ( 里見信生 ) しぶし 志布志の大クス 指昭和田年Ⅱ月日 所鹿児島県曾郡志布志町安楽 ( 宮内 ) 置山宮神社 * ・志布志町 やまみや 山宮神社の境内にあって、樹高 30 メー トル、地上 1.5 メートルの幹囲 19.1 メー トル、根回り 32 メートルの、わが国有数 の大クスて、ある。枝が四方によく張って 樹形がよいことて、知られている。生育状 況もよくて枝や葉を旺盛に茂らせてい る。樹幹にはトべラ・カクレミノ・ハゼ ノキ・ネズミモチなどの樹木や、アオガ ネシダ・カタヒバなどのシダ類が着生し ている。ネ上の境内にはサクラ・スギ・ イスマキ・アラカシ・イチイガシ・イチョ ウなどの大木が繁茂しており、クスノキ の生育に適した条件になっている。 ( 大野照好 ) クス 花 常緑広葉樹・ 111
に染め、遠方からて、も所在が認められる。 津居山の沖て働く漁師達の目印として大 きな役割を果たしている。 ( 室井綽 ) わきたに 脇谷のトチノキ 指大正年田月 20 日 所富山県東礪波郡利賀村栗当 利賀村 利賀村脇谷にあるトチノキは、これま て、日本て、知られるトチノキの中て、は最大 の巨木て、あろう。脇谷の傾斜地にその巨 幹が生育し、低地の北西側と斜面上部の じぎわ 地際て、は、実に 1000 メートルもの高低差 がある。 幹囲は 10.8 メートルあり、幹面には、 通常トチノキに多いこぶ状突起がほとん どなく平滑て、あるが、ほほ精円形に偏し て生長している。枝は南西面より北東面 に多く、その南西と北東の枝に毎シーズ ン交互に花が咲き、したがって交互に結 実することが観察されている。かっては、 米食の代用食としてその果実が賞用され こともあり、土地の人々に保護されて ( 河野昭一 ) だざいふじんじゃ 太宰府神社のヒロハチシャノキ 指昭和田年 6 月 7 日 所福岡県太宰府市太宰府 闇太宰府天満宮 * ヒロハチシャノキはチシャノキの変種 て、、葉の広く大きいものて、ある。樹の肌 はカキに似ている ( チシャノキにはカキ ノキダマシの名もある ) 。葉もカキに似て いるが、縁に低い鋸歯がある。天満宮の ヒロハチシャノキは社殿裏手の西方、外 側の道路に近いところにあり、根回りは 約 9.7 メートル、目通り幹囲 6.5 メート ル。幹の上部は落雷のため折損して、太 い部分は 7 メートルほどて、終わっている が、その周囲から四方に枝を出し、物本 の樹高は 15 メートル、枝張りは東西約 13 メートル、南北約 15 メートルて、、全国一 の巨に、ある。なお、主幹は中空となっ ており、 2 ヵ所を太いワイヤーロープて、 巻いて締めつけてある。 いだ ( 尼川大録 ) 仁井田のヒロハチシャノキ 指昭和田年 8 月 24 日 所高知県高岡郡窪川町仁井田魚ノ川 闇窪川町 樹皮がカキノキに似て、カキノキダマ シともいわれるチシャノキは、日本南部 の低地に生え、しばしば栽培される。ヒ ロハチシャノキは、チシャノキの葉の広 い形のものて、ある。 ろばう 台地の路傍にあるこの木は、もとは植 えたものかもしれない。 2 本あったうち、 1 本は枯れてなくなり、現在残っている ものは、根回り 8 メートルあまり、高さ 約 16 メートルて、、地上 1 メートルあたり のところて、 6 本の枝に分かれている。幹 の下部は空洞になった老木て、、推定擱合 700 年とされている。 高知県はもとより四国にも、これに匹 敵するチシャ / キの大木は知られていな 落葉広葉樹・ 71 ( 山中二男 )
せいそ クセイ科の落葉高木て、、花は初夏に清楚 な白花を盛り上がらせて咲かせる ( ヒト ツノヾタゴの図版は 37 ページ参照 ) 。 ( 南川幸 ) ハナノキ 葉 闇湖東町 所滋賀県愛知郡湖東町北花沢 指大正田年 3 月 3 日 北花沢のハナノキ きたはなざわ 雌花 花 雄 ( 菅沼孝之 ) された。推定樹齢は 300 年以 - ヒという。 有数て、あることにより天然記勿に指定 えの伝説がある。ハナノキの巨木として 南花沢のものとともに聖徳太子御手植 は悪い ている幹の内部はほとんど空洞て、、樹勢 風て倒れ、保護されているが、現在残っ その後、昭和 25 年 ( 1950 ) のジェーン台 年 ( 1866 ) の暴風て、その 1 本が折れた。 2 本の太い幹に分かれていたが、慶応 2 畑地の間に孤立している。昔は根元から 南花沢のハナ / キと同様に、雄株て、、 みなみはなざわ 南花沢のハナノキ 指大正田年 3 月 3 日 所滋賀県愛知郡湖東町南花沢 闇湖東町 八幡神社の社殿のそばに、上部は 2 本 の太い枝に分かれたハナノキの巨樹があ る。地上 1.3 メートルの幹囲は 5.2 メート ルあり、雄株て樹勢は極めて良好て、ある。 ハナノキは本州中部の岐阜・愛知・長 野の 3 県にまたがるル或を中心に生育し ているが、湿地やたえず水が湧き出して いる或に多い。南花沢のハナノキは自 生地から移植したものて、あろう。このハ ナノキには聖徳太子が植えられたという 伝説がある。花どきと紅葉時は見事て、あ る。推定樹齢は約 250 年て、ある。 ( 菅沼孝之 ) なかかまど いずみ ヤマモミジの変異株として学術上 . 貴重な マモミジとしてはかなりの大木て、ある。 てはひじように珍しく、また枝垂れのヤ せる。このような樹形はヤマモミジとし 枝先は枝垂れてかさ状の美しい樹冠を見 かれ、それらはねじれながら外に広がり、 ないが、地上 1.5 メートルから 3 枝に分 ヤマモミジとしては決して大木とはいえ 北 11.0 メートル、樹高約 6.3 メートルて、、 メートル、枝張りは東西 9.4 メートル、南 トル、地七 0.95 メートルて、の幹囲は 3.20 れのヤマモミジて、ある。根回り 2.75 メー トル、中釜戸の観音堂の境内にある枝垂 なかかまど 国鉄常磐線の泉駅の西約 5 キロメー 置いわき市 所福島県いわき市渡辺町中釜戸猿田 囮昭和に年 6 月日 中釜戸のシダレモミジ ものといえる。 ( 樫村利道 ) 落葉広葉樹・ 67
[ 凡例 ] 報て告示されない限りは料甦求し、その旨を記 物て寸帛解除申請中のものか若十あるが、官 イ帛のものは含まれていない。枯死した植 「国才帛この天然記念物のみであり、地方自治 ( 1984 ) 5 月現在の才帛刎牛の全部である。 1 . 本書に収録した天然記念物は、昭和 59 年 0 ( 特天 ) = 特別天然記念物 ( 天 ) = 天然記靄勿 れたりしたことを示す。 ら指定上或が ; 助日拡張されたり、解除縮小さ G 助耐帛辺・ ( ー - 音 ; 解除 ) は、保護の必要上か たことを示す。 合併その他やむをえない理由により改められ ( 名称変更 ) は、指定当初の名称を、市町村の むねー - 一致する。 5 . = 才帛年月日。官報に告示された日とおお 合もある。 編集の都合により、多少頂序を入れかえた場 のへ、あるいは分類学上の順序によったが、 件の配列は、原則として北のものから南のも 4 . 各章および章内の同種グループ中の指定物 朝体 ) は指定外のものを示す。 のものは国才定の天然記念物を示し、細字 ( 明 与真説明文の名称のうち、太字 ( ゴシック体 ) ある。 断により、王也での慣用に従ったものも若干 然記念物帛目録』によったが、編集部の判 3 . 天然記靄勿の名称は、文他ヤ編『史跡名勝天 ループ内の編成は編集部による。 れを生活型によるグループでまとめた。各グ と、単木指定のものとに大きく分け、それぞ 2 . 植物は草本と木本の植生を中心にしたもの 6 . 新 = 所在地 7 . = 理者または管理団イ一般に土地の所 有者か管理にあたるのか建て前であるか、所 有権が多数にわたっていたり、その他必要な 事由かある場合には、管理団体か旨定され管 理することになっている。都道府県や市町村 など地方公共団体がこれにあたるのか普通で ある。 理者名・管理団体名のうち、 * 印のものは キ帛刎牛の所有者として明らかなもの。細字 ( 明朝体 ) のものは、『指定目録』では空白にな っているか、、編集部の調査によって判明した 理者または理団体を示す ( 従って、これは 公式のものではない ) 。なおかっ調べかっかな かったものは空白にしてある。 8 . 解説およひ特別記事中の植物の種名は各執 筆者による。その他写真説明など、執筆者名 のない言当主は編集部による。 9 . 特別天然記念物指定のもの、名勝または特別 名勝に重複才帛されているものについては、 名称の欄にその旨を記した。 10. 第 6 巻の巻末に、天然記念物の所在地地図、 都道府県別目録および 50 音順索引を掲載し た。検索や観察旅行などに役立ては幸いであ る。
常緑針葉樹 りん 針葉樹と総称される種類には、マツやスギのように文字通り針葉をもつものもあれば、ヒノキのような鱗葉、マキやカヤの ように平たい線葉をもつものなども含まれる。系統的には、裸子植物のう材チョウとソテッを除いたすべてを指している。 ちなみに、日本に自生する落葉針葉樹はカラマツだけて、あるが、これの天然記念物はない 御油のマッ並木 指昭和円年Ⅱ月 7 日 所愛知県豊川市御油町美世賜並松ほか 置豊川市 旧東海道御油と赤坂の宿場の間、約 600 メートルにわたり道路両側にみられ るクロマツの並木て、ある。擱合 200 ~ 300 年と推定される老樹 120 本を中心に、あ わせてマッ 360 本が立ち並び往時をしの ばせる。 風倒木の調査て、、根回り 5 メートル余、 胸高幹囲 3.6 メートル ( 直径 1.15 メート ル ) 、高さ 30 メートルの大木て、年輪約 300 が数えられた ( 昭和 54 年 10 月 29 日調べ ) 。 参勤交代、安藤広重の絵、十返舎一九 の小説に示される江戸時代の面影を残す 代表的な松並木て、、全国的にみても貴重 て、ある。老齢木のため、風害、病虫害を うけ易く、各種団体による保護活動がさ かんて、ある。 たるばら 垂洞のシダレモミ 指昭和に年に月幻日 ( 倉内一二 ) 所岐阜県恵那郡付知町垂洞 間付知町 このモミは付知町有地の斜面に生育し ており、傾斜面の高い方て、は根元から 0.5 メートルほど土に埋まっている。樹高 は約 17 メートル、幹囲は 1.6 メートルあ り、地 - ヒ 2 メートルのところて幹が 2 本 122 ・常緑針葉樹 に分岐し、東側の方の幹は 0.8 メートル、 西の方の幹が 0.9 メートルほどて、ある。 枝は名がしめすようにどれも垂れ下がっ た珍しいモミの大木て、ある。 とくほんしようにん 江戸日罸にの後期徳本上人が、江戸を たち信リ羽 ( 今の長野県 ) 阪を通って中 山道 ( 今の国道 19 号 ) の中津川から付知・ 下呂・高山を遍歴した時に、路のかたわ らに生えていた細いモミの木を杖にしこ の山中て、まじないごとをし、杖をさかさ まにさしたままて、おいていった。それが 生長しサカサモミの大木になった、とい われる。このモミは枯れたが、その種子 から同じ場所に芽生え生長したのが、現 在のシダレモミと伝えられている。 ( 南川幸 ) ほうじゅ 類は春に伸びる新枝 ( または新梢 ) のっ しんしよう ーイ殳にクロマツやアカマツなどのマッ く位置に特色がある。 擱合もさほどのものて、はないが、花がっ 推定される。クロマッとしては大きさも は 2.06 メートルあり、植擱合は約 150 年と ツて、、樹高は約 20 メートル、目通り幹囲 をくぐった所にある。このマツはクロマ キロメートルの地点にある華蔵寺の山門 宝珠マツは陸前高田市街から東に約 5 間華蔵寺 * 所岩手県陸前高田市小友町門前 指昭和田年に月 24 日 華蔵寺の宝珠マッ ほうじゅ けぞうじ
し、とし、 糸井の大カッラ 指昭和 26 年 6 月 9 日 所兵庫県朝来郡和田山町竹ノ内床尾 置和田山町 県立自然公園糸井渓谷竹ノ内の村はず れの林道に入ると夏て、も涼しい。渓谷の 水温も 15 度 C 以下て、、夏の厳しさを忘れ てさわやかな気分になる。この渓谷の奧 標高 400 メートルのところに大カッラが カッラは 40 ~ 50 本が一叢をなして 36 メートルに達する。まるて、カッラの林を 思わせる景観て、ある。この一叢は主幹が 朽ち、その株の周囲からのひこばえが生 長したのて、、朽ちた主幹は 6 畳敷ほどの 空洞となっている。樹齢は 1000 年にあま ると推定される。ひこばえは太いものて、 直径 50 センチのものを頭に、小さいもの て、は 10 センチほどのものまて、が林立す 伝説て、は、昔、高僧が雨乞いのため、 この木に法衣をかけて祈願し干害を救っ ころもぎ たと伝えられ、今日て、も「衣木」と呼び、 あが 集落て、は水の神様として崇めている。 ( 室井綽 ) 指昭和に年 4 月ロ日 海潮のカッラ ひい 間日原神社 * 所島根県大原郡大東町中湯石 昭和 32 年 7 月引日 ( 名称変更 ) 62 ・落葉広葉樹 の萌芽が出ている。地際の周囲は 20 メー じぎわ なっている。根元の周囲からは大小多数 支幹が立ち、そのうちの 1 本が主幹状に ことがて、きる。主幹は既に朽ち、 7 本の 下を県道が通り、 こから直接仰ぎ見る がみの宮 ) の境内て、ある。指定樹のすぐ 下部にある旧寸の日原神社 ( 通称か 抜約 100 メートルの地て、、北向き斜面の 所在地は尹川の支充、赤川上流の海 トル近いが、地上 1 メートルて、の幹囲は 約 14 メートルて、ある。樹高約 30 メート ル、枝張り約 40 メートルの巨木て、雄株 といわれる。カッラの巨木としては稀な ものとして指定された。 ( 宮田逸夫、杦村喜則 ) 竹崎のカッラ 指昭和田年 8 月 24 日 所島根県仁多郡横田町竹崎 置横田町 ひい 指定地は斐伊川上流の海抜約 500 メー トルの山士峅斗面て、ある。この地方は花崗 岩地帯て、昔から良質な砂鉄の産地と なっており、その精錬のために多量の木 炭を必要とした。そのため、ほとんどの 林木が伐採され、炭に焼かれたが、この カッラだけは笹財申木として保護されてき たといわれている。指定樹は大小多数の 支幹よりなり、主幹というべきものはな い。最大の幹て、周囲約 3 メートルて、ある。 ねぎわ 根際の周囲は 15 メートル余り、高さは 30 メートル余りて、カッラとしてはこの地 方て、も稀な巨樹て、ある。 たけざき ( 宮田逸夫、杦村喜則 ) しもおうせ 下合瀬の大カッラ 指昭和 37 年 5 月田日 所佐賀県佐賀郡富士町下合瀬上神 闇富士町 ほくざん 北山ダム県立公園内にあって、ダムに 近い海抜 380 メートルの山中にある。 自生地は南向きの斜面て、あるが、株元 から約 5 メートル離れた南側には反対側 から山が迫り、その接線に沿って小川が 東に流れている。 本樹の根回りは約 41 メートルて、一部 は小川を潜って反対側の山の斜面に達し ている。 株元は斜面のため、北側より南側が 2